凍える人は再度「お帰り、柴をありがとう」焚き火の民は驚愕した - FARION MES( 1):相 談 室  ◆ パソコン&通信の話題 96/02/16 - 00325/00329 GCG01101 アマデウス RE:再びアンインストール ( 1) 96/02/16 01:00 00316へのコメント #316 ウランちゃん(爆) >>  2度目のアンインストールということは、インストールもしたんですねー。 >>  今回のアンインストールは(なぜか)成功しました。   先日、僕も会社のパソコンにWindows95をインストールしたのですが、  「いざというときのためにWin3.1に切り替えて立ち上げられるようにして  おきたい」と思って、アンインストールしました。             ↑      (最初、英語のスペルと混同して「ウンインストール」)      (と書いてしまった(^^;              )   ちゃんと95が除かれてDOSが立ち上がったのですが、なぜかWin3.1が立ち  上がってくれません。どうもいろんなドライバがちゃんと復活していない  ようで、CD−ROMすら認識してくれないんです。(T_T)   こういうこともあろうかと(^^;、95インストール前のWindowsディレクトリ  とDOSディレクトリの中身を、そっくりそのままバックアップを取っていた  ので、丸ごとコピーして、事なきを得ました。   アンインストールがまともに機能しないって言うのは、インストールが  ちゃんと出来ていなかったからなのかなぁと思いますが、それならなぜ95が  普通に動いていたんだろう??(^^;   Win3.1と95を共存させる方法がマニュアルに書いてないと言うのも、よく  考えたらとんでも無い話だしなぁ。   ま、95の方が慣れたMacの操作感に近いし、ExcelやWordやVisual Basicの  立ち上がりが3.1よりも遥かに速くて快適だから、よほどのことがない限り  3.1は使わないだろうけどな〜                               アマデウス - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/02/16 - 00671/00675 GGA02514 KAZE 人と民 ( 6) 96/02/15 18:22 00640へのコメント コメント数:1 しまうまさん、どうも。 少しばかり化石レスになりますが^^;、しまうまさんの書き込みから、 「焚き火の民」と「凍える民(人)」について、少し考えてみました。 》 おそらく「焚き火の民」は、自分一人でも焚き火を作ることはできただろう 》と思います(もしかすると、「焚き火の民」ももともとはみんな一人ずつバラ 》バラに焚き火を作っていたのかもしれません)。しかし、一人で作る焚き火で 》あれば、ある程度大きさは限られてします。それでももちろん暖まることはで 》きるでしょうけれど、あくまで一人分の暖かさです。 》 しかし、例えば3人の人が柴を持ち寄り、焚き火を作ったとすればどうでし 》ょうか。一人一人の柴拾いの労力は同じでも、焚き火の燃え上がり方は3倍以 》上になるはずです。 》 そうして自然発生的に(?)焚き火の周りに集まった人たちが「焚き火の民」 》なんだろうと思います。 「人」が集まって「民」になるわけですが、 それは単に集まればいいというものではないですよね。 おっしゃるように、「人」は一人でも焚き火をつくることができて初めて、 「民」であることによって、お互いを高め合うことができるのだと思います。 それに対して、一人では焚き火をつくることのできない、 いや、つくろうとしない「凍える人」の場合は、 それが「民」であることによって、それが可能であるとは思えません。 その場合の「民」はいわば有象無象の集団でしかないように思うのです。 このFARIONのコンセプトとしてぼくがとっても気に入っているコンセプトに 「組織なきネットワーク」というのがあります(^^)。 その「組織なき」というのは、別に「集まるな」ということではなく、 「個」として責任を負えるような人、 一人でも焚き火をつくることのできる人が集まって、 依存的な関係や甘え合う関係ではなく、自覚と自覚がネットワークしていく そんな関係でなければならないということだと思います。 そういう意味では、「焚き火の民」が、 「組織なきネットワーカー」、自覚的な共同体なのに対して 「凍える民」は、「組織あるネットワーカー」、 つまりは、依存的な甘え合う関係でべちゃべちゃしたり、 権威を重視したピラミッド的な組織をつくったりする人たちの集団だといえます。 ま、そういうのを、いってみれば、イシヤ的集団だともいえるかもしれません^^;。 ですから、このFARIONで語り合うということも、 そうした甘えや権威ではなく、それぞれが焚き火を持ち寄れるような 個としての自覚をもった関係でないと、 そこには真の実りは生まれないのだと思います。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00672/00675 SDI00635 みれ RE:人と民 ( 6) 96/02/15 21:43 00671へのコメント  #00671 KAZE さん  こんばんわ(^_^)  このKAZEさんの書き込みで思い当たったんですが、ここのところの 官公庁の不正(住専問題も然り、都の監査の裏金作りも然り)の露呈 は、凍えさん達のベチャベチャした甘えの結果の露出とも言えるかも 知れませんね。  今年は本番の年だということで、ARIONはこうした「甘えと依 存の組織」から脱し、組織無きネットワーキングを本気で作るように 私達一人一人の心の中の「凍えさん」に気付いて自覚してゆくように 願っているのかも。 ・:*:・みれ・:・。,★ - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/02/16 - 06963/06963 JCF02051 めのう このごろ ( 7) 96/02/15 21:14 迷い、躊躇、思考停止。 ボンヤリに拍車がかかっている。 何事もわりとパッパと決めるほうだったのが最近はちょっとしたことでよく 迷うようになった。 仕事の優先順位、夕食の献立、買い物の順序....反射的に選んでいたような ことでさえ決められない、わからない、「頭の中真っ白」状態になることが 多くて、我ながら心配になる。 今のところ致命的な失敗はしていないけれど。 苛立ち、矛盾。 自分にないものを持っている人に対する羨望や嫉妬など、馬鹿馬鹿しいと思 うような考えや感情を自分もしっかり持ち合わせていることや、 自立しているつもりになっていたが、幼児のように他者に依存していること に改めて気づいて愕然としている。 自意識過剰というか自我肥大というか、とにかくいい気になっていた。 何やってんだろう、私。 私に何ができるだろうか。 昨年末あたりから頭に浮かんでは消えるテーマ。 今の仕事や働き方はそう長くは出来ないだろうから、そろそろ5年後10年 後のための準備を始めたいと思っているが、まだ方向が定まらず手をつけら れないでいる。 自分の希望と適性と能力に見合ったものというと....うーん。 # 備忘録みたいだなー(^^;                         ◆◆ めのう ◆◆ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/02/16 - 04292/04296 GGA02514 KAZE 神智学のホームページなど (13) 96/02/15 16:09 04280へのコメント しまうまさん、どうも。 》 うーん、ブラバツキー夫人! 風の噂に聞いたところでは、みれさんの夢に 》も何度か出てきたことがあるとかないとか……。この人が神智学を創始して、 》その跡を継いだのがシュタイナーの人智学、ということでしたっけ? KAZEさ 》んともご縁がないわけではなさそうですね(^^)。 》 「シークレット・ドクトリン」読んでみたいなあと思ってます。 ブラバツキーは、確かに神智学を創設したわけですが、 その後を継いだのがシュタイナーというわけではないです。 シュタイナーは神智学協会のドイツ支部長をしていたわけですけど、 シュタイナーの人智学は神智学と直接は関係してないようです。 著書や講義などで「神智学」の名称を使っているところはありますが、 神智学協会の神智学とは違うんですよね。 その違いを詳しくご説明するのはあまりにも長くなりますので ここでは省略させていただきますが、結局、その基盤が違うんです。 神智学協会は、いわゆるインド系の秘教を継承したものであるのに対し、 シュタイナーは薔薇十字や聖杯等を継承したものでして、 早い話、神智学と人智学というふうな名称の違いに表われているように、 神智学は「上から」のものであるのに対して、人智学は人間学がベースです。 でもって、シュタイナーが神智学協会を脱会するのは、 アニーベサントのときの神智学協会がクリシュナムルティを カリスマとして祭り上げようとしたからなわけです。 ま、神智学協会というのは、そういう傾向があるんですよね。 やたら、アデプトだ覚者だとかいうことを強調するきらいもありますし^^;。 ま、そこらへんのことはそのうちおいおいお話させていただくとしまして、 ARIONとブラバツキーの関係というの、興味深いですね。 だから、ぼくが神智学とは少し距離をとりたいのと同じく、 ARIONとも距離をとりたかったのだったりして^^;。 ちなみに、「シークレットドクトリン」は、大正時代か昭和のはじめだかに 「秘密教義(?)」とかなんとかいうことで訳されたことがあったようですし 最近でも、けっこう高価ではありますが、訳出がなされようとしているようです。 ぼくの見たことのあるのは、その一巻目です(二巻はでたんだろうか?)。 それから、神智学は、インターネットでもかなりたくさんホームページや データなどがあるようで、先日来、少しばかり検索してみたところです。 その主なものを参考までに挙げておきましょう。 ●HELENA PETROVNA BLAVATSKY -- http://www.primenet.com/~wtmtn/HPB.HTML ●Theosofisch Genootschap -- http://www.bart.nl/~tgpasade/index.html ●The Theosophical Society -- http://www.garlic.com/~rdon/TS.html ●Theosophy Corner -- http://www.linknet.it/Spirit/Theosophy/Overview.html ま、神智学も参考にはなりますし、 一応その概略は理解したほうがいいかもしれませんが、 あまり深入りしないほうがいいようにも思います。 なにせ、人−智学ではなくて、神−智学なのですから^^;。 》 うーん、なるほど。僕はそういう根元的な疑問、みたいなのを感じたことっ 》て実はまだありません。あ、でもそういえば、小学生くらいの時、布団の中で 》ふと「自分もいつか死ぬのだ」ということに思い至り、涙が止まらなくなって 》眠れなかった、ということはありました。あれは結構強烈な体験だったなーと 》思います。 なんだか、幸せな少年・青年時代だったんですねぇ^^;。 そのほうが気持ちよく生きられて人生、いいかもしれませんけど、 気づいたら、そこらへんの疑問は底なし沼ですから、後戻りできません。 ぼくも、その底なし沼に沈み続けてはや30年、って感じです。 もちろん、最近は、「自分もいつか死ぬのだ」は否定的な部分は そんなになくなっていて、けっこう楽観的に生きてるのですけど(^^)。 》 ふむふむ。最近なんとなく思うのは、神様というのは、いわばものすごく大 》きい、例えば直径100kmの完全な球みたいなものかなあ、ということです。 》で一方、人間は直径5cmくらいの可塑性のある物体だとします。すると、人 》間は「直径100kmの完全な球」には絶対なれっこないけど、「直径5cm 》の完全な球」にはなりうる存在です。ただ、ついつい欲望や自分への裏切り行 》為によってゆがんでしまうので、なかなか「完全な球」にはなれない……。そ 》れでもなお「直径5cmの完全な球体」を目指すのが、僕たちなりの自由への 》プロセスかなあ、などと思ったりします。 直径100kmと直径5cmよりは、 もっともっと無限に大きさは違うでしょうが^^;、 それでも、マクロコスモスとミクロコスモスとして照応しあっているわけで、 それなりの誇りをもって自由を追求するのが人間の道だと思いますし、 認識的にいえば、われわれの外に大きな球体があるわけではなくて、 その大きな球体の自分がわれわれなのですから、 「絶対なれっこない」っていうよりも、 直径100kmの球体と直径5cmの球体が絶対矛盾的に 自己同一したイメージも必要なのではないかなとも思います。 もちろん、ここらへんは表現がとってもむずかしいところなのですけど・・・。 》 そうですね。中道でも自由でも、永遠に進化の階段を上り続けるためには、 》使えそうなものは何でも使っていく、くらいのどん欲さが必要なのかもしれな 》いなあ、と思いました(^^)。 はい、浪花の商人の欲深さは必要でしょう^^;。 「進化しとりまっか?」って挨拶しながら、進化に励む中道の私たち! っていう感じでしょうか(なんか、変な言い方だな^^;)。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04294/04296 GGA02514 KAZE インターネットの検索はYahoo! (13) 96/02/15 16:58 04281へのコメント サタンに操られているPaper Birchさん、どうも(^^)。 》 こちらのお部屋ではインターネットのシュタイナーのホームページが紹介さ 》れたりしてますね。僕もそれに触発されて、スピリチュアリズムで検索して探 》したりしてますが、なかなかそれをまとめたりするヒマが無くて…。ま、ヒマ 》というか、時間は造るものなんでしょうけど、というサタンが、 》僕の時間を奪っていきます(^^;; インターネットの検索っていうのは、とっても面白いので、 これをやりながら、もらってきたデータをあれこれ整理していると、 時間が湯水のようにかかってしまいます。 しかし、こんなに多彩なデータベースが、こんなに簡単に手に入るなんて、 ほんとうに夢のような感じがします。 インターネットの検索といえば、最近はYahoo!がとっても便利でしょ。 最初は、Netscapeについてる検索をやってたんですが、 Yahoo!を試してみるとこれがなかなか軽快で重宝してます。 かつては、三蔵法師が野越え山越え砂漠を越えて、 はるばるお経をもらってくる旅にでたような時代に比べ、 コタツで蜜柑を食べながらちょいちょいって感じで、 いろんなデータが手に入るわけで、 現代では、むしろそれを前提にして、飛躍的な認識力の向上を図らなければ 申し訳ないような、そんな感じがしてしまいます。 しかし、ここ1カ月ほどの間に、とってもたくさんのデータベースができました。 ずっとほしかったルター訳のドイツ語聖書なども簡単に手に入りましたしね(^^)。 幸い、ぼくの場合は、ゲームはしないようにしてますので、 セガ=サターンの誘惑には影響をうけなでいられます。 でも、ここ数カ月、バッハのカンタータに魅入られてまして、 ほとんど、キリストの姿が浮かんでくるようになりました・・・なんて^^;。 》 翻訳ソフトには、KAZEさんは否定的なようですが、僕はああいうものは「バ 》カとハサミは使いよう」だと思っています。 そうですね、確かに、使いようで、重宝するでしょうね。 でも、まあ、早く英語を楽に読めるようにしようとするならば、 最初は辞書をひくくらいの手間はかけなきゃと、自分に鞭をくれてます^^;。 幸い、ここ1カ月ほど毎日英語とドイツ語の世界にはまってますと、 さすがに、ミミズのように見えていた文字達が、 少しずつアクセントをつけながら浮かび上がってくるようになりました(^^)。 今、シュタイナーをはじめとしたメーリングリストも 毎日読んでたりしますので、これを一年ほど続ければ、 けっこうメール交換くらいは英語とドイツ語でなんとかなるかもしれません。 しかし、インターネットをやってると、世界のどの地方も、 なんだか近くの町のように思えてきますよね。 - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/02/16 - 03658/03661 HQK00566 SOUND RE:炎で書いた物語」第四章(その2) (14) 96/02/15 17:13 03645へのコメント  「炎で書いた物語」第四章       (ROUTE 66)      「ルート・66」(その2)        2月14日、羽生善治名人がついに七冠王に輝いた。  テレビの画面や新聞の写真に脳の中でなにが起こっているか映らないので ただ淡々とした対局姿にしか見えないが、   かれは将棋の局面をイメージで捉え、美を追求する。 あらゆるコマの性能がフルに発揮された至高の美に到達するために指し進める。   勝負師というより美を創造する芸術家のような魂の持ち主だ。   まず天性の勘を働かせ、その勘の裏打ちのために一手に何時間も考える。   「勘」とは、字の通り人間に備わった甚だしい力。いわば爆発的な女性的破壊力。  考えるとは神還(カムガエ)ること。そのとき、人は神に還っている。考える人の姿 は美しい。  勘だけで済ますのは昼休みの十分将棋。直感力の勝負。新々(荒々)しい力のぶつか り合い。  棋士たちは高めに高めた勘の力にとどまらず、考えに考え、 思い、すなわち、心に田を乗せ小爆発を重ねることでできる回転力による 男性的創造力を駆使する。 そしてついに正しい判断にたどり着き、芸術として鑑賞される棋譜が仕上がり創造さ れる。 現代将棋は、羽生七冠王を頂点に戴くことによって新時代に入った。      *******************************************          楽しみにしていた「ハイランダー3」をビデオで観て驚いた。 今回の話は戦国時代の日本にまで飛ぶ。「北斗の拳」の実写版のような鎧兜の武者た ち。日系俳優、マコが役の行者のような魔力を持った妖怪師、ナカノに扮しクリスト フアー・ランバート扮する不死身のハイランダー、に鉄製の紋章を与えた。  その紋章をよく見ると、○の中に丹からチョンを除いた鳥居のマークだった。 前回触れた「開」の門の中のチョンなし鳥居がこんなところに現れて愕然とした。  いつもの癖で、どうしてこんなところにこのマークが…、 製作者はその意味を知っていて使用したのだろうか、ただのシンクロニシティなのか、 と話の筋よりそっちの方に気を取られてしまった。     >>95/04/02 米俵に詰っているのは、本当にコメなのだろうか?     普段、わわれわれは米をコメとカタカナ書きすることはない。   それは米と書けばほとんど主食である米を意味し、他には米国を意味する程度だ から。   そう考えればこのハロー・メッセージは「米」の字の持つ本当の意味を 見直させようとしていると思われる。   というわけで今回は「米」にスポット・ライトを当てる。     羽生名人のように「米」をイメージとして捉えればどうなるか。  ぼくの勘にたよると、宇宙の始まりのビッグ・バンの模様に見える。 ここから思考力にバトンタッチ。 ビッグ・バンだけでは宇宙はできない。大爆発のあと消えてしまいそうだ。 宇宙の創造には紀国屋文左衛門の○に十のマークや「田」に示される 絶え間ない小爆発の回転の創造力が必要なようだ。 「米」がその創造のための爆発を示すのではあるまいか。 われわれの人体という小宇宙でも絶え間ない燃焼が行われている。 細胞はAUM(誕生、維持、破壊、死)というワンセットの工程を繰り返す。 破壊、死がなければ良いのにという人もいるが つぎからつぎに新たな細胞が生まれて維持されるだけでは 身体が永遠に巨大化し続けついには宇宙からはみ出る。 前の細胞が死ぬことによって新たな細胞と入れ替わり生き生きした若々しい人体を 維持することができる。  「米」は十の中心をソと八で示している。  十の結び目のヘソとはなんだろう。 線を縦横に引くと、その交点に四角い枡ができる。それは「ロ」の形になる。  そこが中心の神のお座すところ。 それゆえ、そこを神呂(カムロ)=神室と呼ぶ。 神道系の祝詞に出てくる神漏岐(カムロキ)、神漏美(カムロミ)という名がある。 呂の中心のチョンが縦に動いたとき、カムロキ、と呼び、横に動いたとき、カムロミ と呼ぶ。 キが男であり、ミが女であるから。 十を「ナ」と見ると、縦の動きを始まりを意味するイザにナギを足してイザナギと呼 び、横の動きをイザナミと呼んだ。 いわゆるナギ、ナミの陽陰両神である。  さて、「米」とはカムロの中心のチョンが縦横のみならず、あらゆる方向に進んだ 図だ。  それが本当のひかりのことである。 米」こそが本来の創造の「ひかり」を意味して「氣」の中にも使われる。   現在は「気」と書かれてそのことに気づきにくくなってしまった。 「氣」とは宇宙と人の根底のエネルギー。「米」は宇宙エネルギーの本体。  現在使われている「光」の字は火をヒトアシで運んでいる姿。 「光」とはヒカリ=火仮、霊仮、日借り、であってこの世の光を示す文字だ。  「  その前はクサカンムリに火で光を意味したが  今は「黄」の字の中に組み込まれてじっと時が来るまで息づいている。 「黄」を見つめれば恥ずかしそうにおずおずとクサカンムリに火が浮き出てくる。   「米」もまた「田」のようにその本来の意味を封じられた文字であった。 奥宮の「奥」の字の中に隠れ、これまで姿を見せなかった。 あるいは姿を見ていても気づかなかったのかも。  探偵小説の父、エドガー・アラン・ポーの探偵小説「盗まれた手紙」のように、 ものを隠すときはだれの目にも見えるところに置くことが最高なのだから。        >>95/11/09はじかみの色立つ午後、酒匂(サカワ)の戒めが解かれる…十種神宝 このハロー・メッセージの 「十種神宝」の十が米を構成するので米の字をあてはめてもう一度考えよう。 (サカワ)の戒めとは「米」に掛けられていたのかも知れない。 この字はどう回転してもソと八が逆さになっている。 はじかみの色は黄色であった。 「黄」にはクサカンムリに火の(ヒカリ)が 組み込まれている。 つまり、黄の中の創造の(ヒカリ)が「米」の中央の五五に立てば 逆八(サカワ)はソであったから、これまでのソの戒めが解かれて 祖の力が(蘇、甦、遡)る。 すなわち、中心を得た宇宙エネルギー、米(ひかり)の創造力が 甦る。そんな風に読める。 これで「米」の戒めが解けたということであるようにい心から祈る。 このハロー・メッセージはARIONの最高傑作の一つではないかと思う。 天使を尊敬したり崇拝するというのは変かもしれないのでひたすら感嘆する。  {「田」「立日=音」、「米」 }これらの文字にかけられていた 時の封印が解かれるということは 封印の使命が終わって新たな時代に入ることを予感させらる。  いよいよ、全ての中心におられる方が本番を始められるのだろうか。 >>93/10/10 封印は解かれ玉も石も巷に溢れ…全てが石だと唱える者の声が…  全ての封印が解けたとき、われわれの手に残るのは玉ではなく石なのだろうか。    (TO BE CONTINUED)     (つづく)     ♪♪音(SOUND) ♪♪ 03659/03661 PAG03134 はな 赤 (その4) (14) 96/02/15 20:28 03638へのコメント ●「赤」その4 「伽藍」  わたしはしばしば、アリオン預言を解読するために、ハローメッセー ジを「検索キー」で引っ張ってきます。たとえば「黄」で検索すると、 「萌黄」「黄泉」などが検出されます。  ところが、「垣武」が「桓武」と掛け合わせてあるように、単語がひ ねってある場合は、もはや検索キーでは検出できません。  次のハローも、「赤」と密接に関係しているのですが、「赤」をキー ワードにしても検出できないハローの一例です。 『星沙から阿伽を取り去るなど以ての外、伽藍の内外、等しく揺れる』                           (94/14/22ハロー)  阿伽という単語は、わたしはアリオン預言で初めて目にする単語であ り、辞書を引いてみましたが載っていませんでした。辞書を引くと、 「あか」には3つの単語がありました。  1)赤  2)垢  3)閼伽  赤と垢は、とりたてて辞書の文言を引用しませんが、「閼伽」とは、 仏前・墓前に供える水の意です。閼伽は梵語から来ている単語とか。  「阿伽を取り去るなど以ての外」とは、   →「赤を取り去るなど以ての外」から、[赤=スサノオ]と読み替え、    →「(わたしたちの歴史から)スサノオを取り去るなど以ての外」 と読むことができます。  先のハローに出てくる砂嵐の「砂」は「沙(スナ)」と同義語といえます。 「沙」は、水辺の砂を意味するため、さんずい偏が使われています。海辺 の沙から、AMA族の「海路側ルート」と大きく関わってきた出雲族もほ のめかされているようです。  出雲地方にある日御碕神社には、スサノオと、スサノオとアマテラスの 間に生まれたタギリヒメ、タギツヒメ、サヨリヒメが、海の神様として奉 られています。  94年4月22日のハローは、「沙」から海(海路側=出雲族)。「阿伽= 赤」からスサノオが関連づけられたハローメッセージです。                       はな 03660/03661 PAG03134 はな 獅子の門とは至福の門 (14) 96/02/16 06:52 コメント数:1  これまで「赤」について発言してきましたが、もう少し話を煮詰め たいので、ここでちょっとテーマを変えます。今回は、「獅子の門」 についてです。  光の黙示録第2章37節に、『獅子の門を目指して行けよ』という メッセージがありました。「獅子の門」は、7にも8にも解釈するこ とができました。 (なぜならば)   ・4x4=16から、1+6=7   ・4+4=8  獅子の門とは8であり、7でもあります。  ここから、「獅子の門」→「87の門」→「花の門」と導き出すこ とができます。「はな」が「8と7」とは、以前 SOUNDさんも言われ ていましたね。  アリオンのメッセージを見ると、「花の門」についての記述があり ます。「I Love You 2」巻頭メッセージともいえる「至福の門」が それです。このメッセージには、はっきりと、  『至福の門とは、花の門』と書かれています。  「至福の門」は、目指すべき「獅子の門」の説明があり、この場に て全文引用させて頂きます。 --------------------------------------------------------------  <至福の門>  至福の門とは、花の門  はかなく美しく、生命短し  至福の門に至る者は、  総て地獄を通って来た者  至福の門は、大いなる愛  神から授けられた、試練の門  そして至福の門とは、  ただの門だということを、人は知らない  その門に至る者は多く、通る者は僅か  至福の門とは、あなたがたの中にあるもの  見ようとしても、見ることのできないもの  幾万もの、知恵者、強者、弱者、愛する者、愛される者  他人のために死んだ者等々が、門の前で倒れていった  この門の前には、累々と重なったおびただしい数の  これら善良な人々の流した、血と汗の涙の川が流れている  至福の門を見出そうとする者よ、  その門を見た時が、最終試練だ  そこで喜び、愛を離してしまうと門はくぐれない  至福の門は、そこに至ることの困難さから  人は最終地だと誤解する  至福の門は始まりの門だ  我と我が身をしっかり保ち、炎を絶やすな --------------------------------------------------------------                     はな 03661/03661 HQK00566 SOUND RE:獅子の門とは至福の門 (14) 96/02/16 12:03 03660へのコメント #3660はなさん、こんにちは(^^) >> 光の黙示録第2章37節に、『獅子の門を目指して行けよ』という >>メッセージがありました。「獅子の門」は、7にも8にも解釈するこ >>とができました。 >> >>(なぜならば) >>  ・4x4=16から、1+6=7 >>  ・4+4=8 >> >> 獅子の門とは8であり、7でもあります。 >> >> ここから、「獅子の門」→「87の門」→「花の門」と導き出すこ >>とができます。「はな」が「8と7」とは、以前 SOUNDさんも言われ >>ていましたね。    この発言を見てとてもうれしく感じました。  さすが、はなさんだと思いました。  前回書き込むには長くなりすぎて、整理がつかなくなるのでつぎの書き込みで触れ るつもりだったのですが  前回取り上げた「米」の字が獅子の門だと思っていたのです。   十の中心に至る道を二つの四+四=八で指し示しているのですから。  八+八=16そして1+6=7で  はじかみの色の色=16と考えて  16=8と7が中心に来るとき  花の門になり、そこが花開くと思ったのです。    うまく物語に盛り込むことはできませんでしたが、はなさんが別の方向から迫られ るのを読んで、やったと思いましたこれで獅子の門開きに加速がつくと。  >>95/05/16 上昇三角と下降三角の間に、縦横に花開く蓮華を象る人心の連繋を    もうすぐ蓮華の花も開き人心の連繋ができあがりそうです。  楽しみですね。それでは今後の解読期待しています。        HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND ** SOUNDでした - FARION MES(18):武道とは?  ★ 自分に勝つ! 96/02/16 - 02884/02885 GCG01101 アマデウス RE:同時に聴くこと (18) 96/02/16 01:01 02881へのコメント #2881 導 さん   どうも、ご忠告ありがとうございます。   本題とは違うのですが、導さんのコメントを読んで、ちょっとホッとしま  した。(^^; 今まで導さんの発言からは、あまり血の通った人間の姿を感じ  なかったのですが、今回初めて導さんの言葉の向こうに、それが垣間みえた  ような気がしたからです。 >> 人間の眼は何かに焦点を合わせる様に出来ているし、聴覚は何かを聞き分ける >> 為に出来ています。 >> 感覚を拡散させることが感情を豊かにし、又は精神を安定させるものである >> ならば、何故人はものを見、言葉を聞くのでしょうか。   ここ最近の一連の自発言を読み返してみて、話の力点が移っていることに  気づきました。最初書き込んだときは、感情の動きを見ること(しつこいよう  ですが、抑え込むことではありません)を遠山の目付に対比させると、アナ  ロジーが成立するのではないか、それなら遠山の目付の感覚を知れば、それ  を応用できるのではないか、と思っていました。   しかし、カスタネダの著作に「どこにも視線を合わせない方法」が「内的  対話」を止めるための訓練として説明されていたのを思い出したり、実際に  やってみたりするうちに、まさに「内的対話を止める」→「余計な想念が生  じないようにする」ことこそが、実際的な意味を持つのではないかと思うよ  うになりました。そして聴覚の話に至って、そうに違いないと感じるように  なったのです。   この間の僕の力点の推移を全く説明してこなかったため、これらを通じて  感情をコントロールすることを目指しているかのように受け取られてしまっ  たようです。言葉足らずで申し訳ありませんでした。   以上をふまえた上で、上記引用には異論があります。人間は、集中する  こともできるし、ボーっとすることもできます。いずれも「自然」な姿だと  思います。それを、「人間は集中するように出来ているのだから、拡散する  ことは不自然だ」と言ってしまうのでは、一面を全てと言っているに等しい  のではないでしょうか。 逆に、「人間は散漫になるように出来ているのだ  から、集中するのは不自然だ」と言っても、同じことになります。このよう  な論の進め方には意味がないと思いますが、いかがでしょう。 >> 遠山の目付の本当の方法は一点に視線を集中させることで、己の見ようと >> する想念を打ち消す法です。 >> 聴く方法もしかり、聖徳太子が何人もの話を理解したとありますが、全部を >> 聴こうとすれば全て聞き逃します。 >> 一人の話に意識を集中すると不思議と周りの話も理解出来ます。   ここのところは、ちょっと理解できませんでした。目指すところは、「己の  見ようとする想念を打ち消す」ということなので、僕が思っているのと同じ  だと思われますが、アプローチが正反対なんですね。   僕が思っていたのは、すべてを同時に見たり聞いたりすることによって、  その全てを理解することではなくて、上述のように「内的対話を止める」こ  とです。ですから、聖徳太子を目指しているわけではないんです。(^^;ゞ   今までの経験からすると、視線にしろ聴覚にしろ、一点に集中することは、  他からの情報のインプットを阻害するように感じるのですが、集中しながら  周囲の情報を認識するときの感覚とは、どのようなものなのでしょうか。   導さんが実践されたときに、どのような感覚でそれが行われているのか、  説明して戴けましたら、より理解できると思います。理にかなっていると  思われるようなら、今の方法に拘らずに取り入れていきたいと思っていま  す。   言葉で説明することが難しい部分だろうなとは想像できますが、折角の  機会ですから、是非ともお願いします。今までも何度か具体的な説明をお  願いしましたが、果たされず、残念でした。人に「やめた方がよい」と言  うような場合には特に、なぜやめた方がよいのか、なぜ自分の方法が正し  いのかを説明する義務が生じるものとお考えいただけないでしょうか。 >> 私の言葉はあちこち飛び火し、又感覚的にわき上がるものを言葉としています >> ので音楽として読んで下さい。   導さんのご希望として承っておきますが、読み方を制限することは誰にも  出来ません。音楽にも、心に残る感銘を受けるものと、耳を素通りしてしま  うもの(^^;があります。話の内容が乾いた土に水が染み込むように伝わるな  らば、要求せずとも、素晴らしい音楽のような響きを相手にもたらすことも  あるでしょう。   僕個人の感想を率直に申し上げますと、冒頭に書きましたように、残念な  がら導さんの言葉から、今まであまり響くものを感じることが出来ませんで  した。導さんの説明が足りないのか、僕の感性が鈍いのか、おそらくその両  方なのでしょう。感性については、頭から価値のないものと決めつけないよ  うに気を付けて、どん欲に吸収するよう努めることで磨きをかけていこうと  思っています。また自分が説明する側の場合は、相手が理解できるよう説明  を惜しまないように心掛けています。   導さんがこのフォーラムに登場されたとき、「伝えることのみさせてもら  いたい」とおっしゃたのを覚えていますが、伝えることを目的とされるので  あれば、もう少し伝える工夫をされた方がよいのではないかと思います。  伝わりすらしないと言うのは、ちょっと寂しいことだと思われませんか?                               アマデウス 02885/02885 HGB02122 あもり RE:同時に聴くこと (18) 96/02/16 02:19 02881へのコメント  ##02881 導 さん  「あらゆる存在は因果関係に結ばれ....」  僕は今、他との関係性についていろいろと考えている最中です。  どうして今、自分がここに居て会議室に発言出来るか....??これを  考えると、実に様々な条件が上がってきます。例えば、僕が仕事をし  ていなかったら、稼ぎもないから通信など出来ない、強くなろうとし  なければ、武道なんか始めなかった、部下が一生懸命仕事をしていな  かったら、この時間には間に合わなかった....  多くの人、多くの要件、それらが在って初めて、ここで書き込みをし  ていられると言うことを考えると、奇跡のように感じてしまいます。  その関係性は、自分に目を向け、同時に自分以外に目を向けなければ  分からなかったことです。これは意識の変革でも何でもない。ただ、  元から有るものに気付いただけのような気がします。  さて、現代人の視野は、一昔前の人に較べたら格段に狭いそうです。  無闇に人工物を建て、四方を壁で覆い....感覚は自然の摂理以前に  閉ざされようとしているのが現実ではないでしょうか?  蟻は地にいて、人は蟻を見下ろして周囲を見るからこそ、生態が観  察出来ます。すなわち、そういうことだと思うんですけれど。                   HGB02122 あもり - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/02/16 - 821/821 QZY01267 猫の手 教育 (19) 96/02/15 22:55  多くの自然界に生きる動植物は  本能があり本能に生きているから  教育はされることもなく、不要だけれど、  人間はその人間社会に馴染むため  教育されることが必要だ!    こういう話  当たり前のように信じてきた。  そして、  社会を変革しようとしている人々も  教育することは手放したりしない。 「教育こそ、自分が抱く理想を築く。」  そう信じてる。  そこでは、  何を教育するかが違うだけ  『教育』と云うこと  そのものが元々不要だった。  そういう想いには至らない。    プレゼントを貰うとき  欲しくないもの貰って喜べる人は居ないでしょ。  いくらそれが必要と云われても  要らないと思っているものを大切にする人居ないでしょ。  それを大切にしないからと云って怒られたとしても。  そして人々は  そのことを『教育』と呼ぶ。    この世界は教育によりバランス崩されてきた。  ホントは誰でも必要なこと学ぶ力持っている。  ホントは誰でも幸せ生み出す本能持っている。  そのこと信頼してないために  この世界はバランス崩してしまった。 「自分は優れていて相手は劣っている。」とか 「自分は知っていて相手は知るべきだ。」とか  そういう勘違いが『教育』の必要性  思い描かせちゃっている。    実はね。  私に教育を施した誰かさん。  その人が  私の人生の責任とったりしちゃくれないの。  私の人生は私自身が責任持つしかないの。  自分の周りにどんなことが起ころうと  自分が何をしでかそうとも  それは私が選んだ私の責任。  それによって苦しむことになろうとも。  それによって悲しむことになろうとも。    ところが『正しい生き方』という奴を  教育受け始めたあたりから  その責任の所在ははっきりしなくなる。  正しいか、間違っているかが判断材料になってしまい  自分の責任忘れてしまう。  善か悪かに翻弄されて  自分で選んでいること忘れてしまう。    多分、最初にこの世界で『教育』ってこと始めた奴は  そうしてしまったその責任を果たすため  死んでも死に切れていないはず。  初めから『教育』なんてことに縁のなかった奴は  いつでもどこでも自分の責任果たし  自分の責任全うし  自分自身を生き続けているでしょう。    子供達が大人になったとき。  自分が教育した子供達が老人になったとき。  そのとき自分は生きていないでしょうね。  子供達は子供達の世界を  自分たちで造って行くでしょう。  その子供達の生み出す世界に対して  この世界を先に去る者が  どう責任をとるのでしょうか?  影響与えられる内は  責任のとりようあるかもしれないけれど  この世界から居なくなってしまったら  霊媒師から言伝てるのが精一杯。  後まで生き残る者がこの世の始末  つけなければならなくなるのだから。  その当人たちのやりたいように  その当人たちが自分で選んだことを自覚できるよう  好きにやらせるのが一番良いのと違うかな?    私はこの世界を去った後までも  この世界で私がやってきた後始末するために  あっちの世界で思い煩うようなことしたくないから。  私は他人に「どうせい、こうせい。」言うのを辞めた。    でも、もしかしたら  最初にこの世界に『教育』なんてことを 「持ち込んだのは私だったのかも。」ネ。  もしそうだったとしても、  それを止めることを教育するようなバカなこと  私はしないよ。   ** QZY01267/『猫の手』 <96/02/15 20:56:17> **