焚き火の民達は口々に「皆さん話しましょう!」と言い合った - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/02/26 - 00714/00714 KFQ02761 しまうま RE:続きです(^_^) ( 6) 96/02/25 22:24 00706へのコメント #00706 二木 聡さん  こんにちはぁ(^^)。  #00711の「RE:続きです(^_^)」では、どうも失礼しましたm(__)m。  中途半端なご返事になっていましたが、あれは、書きかけのレスを、間違え てそのままアップロードしてしまっていたのでした(^^ゞ。もしすでにダウンさ れていたら、お手数ですが、お手元のログから削除してくださいね。 |深ければ「添い遂げる相手」と感じ、浅ければ「一過性の相手」と感じる。 |こんな話しはない筈。  ギクギクギク!! 僕はまさに「こんな話し」レベルで捉えていました(^^;。 |この違いは何故おきるのか。 |1つには血縁・地縁・場縁などの「縁」を肌で感じるか否かにもあると思いますが  うーん、そうですね。自分との「縁」を、どれだけ広い範囲で感じることが できるか、というのは、社会生活を送る態度を左右するポイントのひとつだと、 僕も思います。  俗に言う「パジャマでつきあうことのできる範囲内」だけを「縁」とし、 「身内」と考えるようでは、人生ですれ違う大部分の人を「一過性の相手」と 見なしてしまうことになってしまいますね。で、僕はそーゆーことをやってい るなあ、と自分で思います。  なんで「一過性」と見なすのか、と考えると、それは「そう見なすほうがラ クだから」というのがあると思います。いちいち周りの人に対して深い関わり をもとうとしたら、時間も手間もものすごくかかってしまいます。また、物事 を相談されたりすると、その分時間をとられてしまう。すると、自分のやりた いことをする時間がなくなる。  とりあえず、今まではこういう考え方・やり方で、特に大きな不都合もなく やってこれたのでした(^^;。  でも、改めて自分の身の回りを見渡してみると、相互無関心・相互不干渉、 さらには相互依存……という、非常に住みづらい(とゆーか住んでて楽しくな い)世の中になっているように思います。そして、その原因の1つには「縁」 を感じる範囲の狭小化、というのがありそうな気がするのでした。 |やはり、知識と経験、予感と技術、そしてこれらを包括する愛情に依るところが |大きいと感じます。  えーと、このパラグラフの意味が、分かりかねたのですが……物わかりが悪 くてすみませんm(__)m。もう少し具体的にご説明いただけますか?  もし的外れなご返事になっているようでしたら、ご指摘くださいね(^^)。  ではでは、今後ともどうぞよろしくお願いします。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/02/26 - 06999/07004 NBB01420 SUKE 最近の楽しみ ( 7) 96/02/26 03:01 06990へのコメント #6990 JXさん、コメントありがとうございます。 >>居るだけましです。 ぶわはははは(^o^;) これ、笑いました、ホント。 僕がどう強くてどう弱いのか、自分では良く分からないと言うのもあります。 ただ、強がりと言うよりは体力無しと言うイメージではあると思っています。 でも、突っ走り屋と言うよりは石橋叩き派なんですね。 で、学生時代の後輩の女の子らの話では、僕のこの石橋叩き派的な部分を非常 に思慮深い偉い先輩と言う風に捕らえていたんだと思います。 でも、それは僕のほんの一面でしかない。もちろん、主たる表の面ではあった かもしれませんが、その他にも幾つもの面があるということに、当時の僕自身 も気が付いていなかったのかも知れません。 で、今では自分にもっと色々な面があって、中には自分では全然気が付かなかっ た一面とか、認めるのがどうにも嫌な側面とかも、見えてきているわけです。 以前は僕のそうした意外な一面について、自他伴に驚き、幻滅したのかもしれ ません。しかし今は僕自身が分かった上で、新たな側面を他人に示して行くこ とが楽しい気分です。先に別のコメントで書いた「ワルになってやるぅ」と言 うのも、案外自分では楽しんでいるつもりです。 そうなると、自他伴に驚くと言うことは無くて、驚くのは「他」だけです。 そして平然と楽しんでいる「自」に釣られて、驚きや幻滅を乗り越え、改めて その意外な面も含めた理解を得られるんじゃないかって気がしています。 >>そーいえば横浜港にいったのは小学校の遠足ぐらいだなぁ。赤い靴っていう歌は何 >>がいいたいんでしょう(^^)。 あの歌は何だか暗い歌でしたね。 今でもあんまり唱いたくない感じです(^_^;)                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 07002/07004 NBB01420 SUKE 無謀運転とも違う ( 7) 96/02/26 03:02 06992へのコメント #6992 優位君、こちらにもどうもです(^_^;) 正しく「優等生」と言うよりは「安全運転型」なんでしょうね。 優位君のコメントを読んでいて、その事に気付かされました。 ちなみに実際の自動車の運転では人柄が出ると言われていますが、僕の運転は 通常は静かです。自分の能力が行き渡る範囲で、運転する事を楽しんでいます。 だから、いわゆる飛ばし屋ではありません。 しかし、非常に怒ったときとか、背後に危険な高速車が迫った時等には、ちょっ と人に言えないような運転をすることがあります。 そういう運転は、少なくとも誰かを乗せている時は出来ませんが(^_^;) 優位君が言っている「安全運転型」と言うのは、頭から「規則を守る事」=「 良いこと」と決めているタイプの事ではないかと思いました。 ルールと言うのは、その場において他人と共存してゆくための了解事項ですか ら、守る必要があるわけです。しかしそれが「良い」かどうかは分からないも のですよね。 信号だって緊急車両は無視して行けます。それは正に信号に従うルールが「良」 では無い状況です。それよりももっと重要な緊急問題があるからですが。 つまり、臨機応変に一番大事な物事を見分けて進むことを優位君は今欲してい るんじゃないかなと思いました。 それは無謀運転とは違いますよね。 そういえば昔読んだ暴走族の劇画「軽井沢シンドローム」で、交機のおまわり さんの「無茶と無理をはき違えてる」と言う名言がありましたが…(^_^;)                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/02/26 - 04323/04324 GGA02514 KAZE 今ここにいること (13) 96/02/26 00:58 04321へのコメント EXさん、どうも。 》霊学的に読み解くという意味はよく分かりませんが、 「霊学的に読み解く」というのは、 この物質的世界と霊的世界のあり方を説明したものとして 般若心経を読んでいくということです。 たとえば、「色」というのは、物質的世界の原理で、 「空」というのは、霊的世界の原理だというふうに。 眼耳鼻舌身意とかいうことにしても感覚器官と感覚対象、そして感覚作用という 6×3=18の「界」をこの「色」の世界の総合としてとらえているわけで、 そういう「色界」の分析を前提にして、「空」を説いたということなどの諸々を 見ていけば、興味深いテキストになるということなのです。 》特定の他人の見方に照らして経典を解釈するのではなくて、自己の 》内側に実感すること以外には大して意味が無い事なのかもしれませ 》んね。 はい、いくら経をあれこれ読み解いていったとしても、 それが「実践力」をもたないようでは「絵に描いた餅」にすぎなくなります。 でも、「自己の内側の実感」するためには、それなりの認識力も必要で そういう意味で、「霊学的に読み解く」ということなしには、 単なる「まじない」にすぎなくなってしまうと思うんです。 》私の印象では、般若心経を道徳論にしてしまうのはかなりの「努力 》と才能」(^^;)が要るように思うのですが、不思議とそういう制約を 》付着したものもありますね。 いえ、むしろ、「努力と才能」がないからこそ、そこに認識を持ち込まず、 低次の「道徳論」としてしか読めなくなるんだと思います。 たとえば、「この世の感覚的快楽にとらわれてはならない」とかね^^;。 もちろん、そうした「読み」は、経の一部分をとりだして、 勝手に読み違えているだけのことが多いんですけど。 こんなに短い経を、読み違えるな!って思うんですけどねぇ^^;。 》「無明の自覚を喚起」という見方もありますが、あらゆる肉的、世間的 》制限を取り去っていった時の無碍自在な存在自体の有り様をそのまんま 》描写しているというのが、私の感じです。「外側の知識、感覚ではなく 》て、自己の内面の根元にトウタツするとこんなにスゴイ境地ですよ。」 》みたいな・・・ ぼくのとらえ方としては、この般若心経は、 まず、物質的世界と霊的世界の関係性という認識の根本を説いた上で、 さらに、この物質的世界に生きているわれわれが いったいどういう感覚を通じて「世界」をとらえているかを分析し、 それを「世俗智」ではなく「般若の智慧」によって捉え直すことで 「私」はそれまでとらわれていた「世界」の真実に目を開くことができる。 そういうことを盛り込んだものなのだと思ってます。 ですから、それは「内面の根本にトウタツ」というのではなくて、 自己認識と世界認識の深化を通じて、自在になるための基本認識様態が 描かれているのだといえるように思います。 》そして、真面目に言いますが、どうも自分は果敢に「自己の根元は遍く在 》るそれである。」と言いがちの様です。多分必要だからでしょうか。 》 》そのままある、というのは安らぎで、いつでも奥底にあるという気がします。 親鸞に「二種回向」というとらえ方がありますが、 おそらくは、「自己の根源」つまり「宇宙の根源」に赴くことは 同時にこの個別化した存在としての自己への帰還なのだというのが ぼくの基本的な指向性です(^^)。 もちろん、そういうのは、ひとそれぞれの課題に応じたもので、 「赴く」ことでその「安らぎ」を実感するのを中心とする場合や 反対に、ツァラツストラのように山から下りてくるというのを 課題にするという場合もあるように思います。 要は、自分の中心課題が一体何なのかをまずはとらえることなわけですよね。 でも、仏教というのは、基本的に「赴く」のが中心となっているような。 それは悪くすると「解脱病」なんですけど^^;。 》                 あと、一息一息に神秘を感 》じたい、なんてのもいいかなと。勝手なおもいつきですがこれは。 それはとっても大事なことだと思います(^^)。 たしかアインシュタインの言葉だったと思いますが、 「世界があるということが神秘」なのですから、 今、この「私」がここにいて、五感を働かせ、 息をしていることなどそのままが、 限りなく神秘的であると実感するのは重要なのだと思います。 それさえできれば、「どこに行くのか」ではなくて、 「今ここにいること」こそが重要なのだとわかりますし(^^)。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04324/04324 GGA02514 KAZE 風の本棚●老いに関する3冊 (13) 96/02/26 12:02 ■ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」                (V.ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社) ■竹内敏晴「老いのイニシエーション」(岩波書店) ■曽野綾子「戒老録」(祥伝社) なぜ、今、「老い」を問題にしようとするのか。 そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。 ここを読まれている方は、まだ二十代〜三十代の方が多いでしょうし、 ぼくもまだ三十代ではあるのですが、なぜ、「老い」なのだろうかというわけです。 上記に掲げた三冊は、新刊というわけでもなく、 上の二冊は、ヘッセのものが昨年の四月、 竹内敏晴のものが昨年の三月に刊行されたもので、 曽野綾子さんのものは、昭和六十三年のものですし、 特に、神秘学とは関係するとはいえないのですが、 「老い」について考えるにあたってとても参考になるのではないかと思ったのです。 さて、なぜ「老い」なのかということなのですが、 般若心経が先日からここで話題になっていますので、 仏教の「生老病死」のなかでは、もっとも地味にもみえる「老」について 考えてみるのもいいかなと思ったのと、 上記の曽野綾子さんの「戒老録」が書かれる「芽」が 三十七歳の誕生日に発していたということなので、 先日三十八歳の誕生日を迎えたところでもありますし、 普段は考えないそうしたテーマを考えはじめるいい時期かなとも思ったわけです。 それと、神秘学がらみの話になりますけど、 古代においては、「長老」ということが深く意味をもっていたにも関わらず 現代においては、それがなぜ意味をもたなくなってきたのかということがあります。 古代においては、歳をとることそのものが成長を表わしていたそうなのですが、 現代ではもはやそうではなく、それは二十歳頃でストップするそうなのです。 ということは、自己啓発を続けないと、むしろ二十歳頃から退化してしまうわけで 「老い」を問題にするということは、みずからがいかに成長していくかということに 常に取り組んでいかなければならないということでもあるのです。 同年代の方々の多くを見ていると、確かに二十歳頃で成長がストップしたまま 今では、すでに死を待つのみとしか思えない方々が多くいらっしゃいます^^;。 「死を待つのみ」というのは、成長できるという意識がなくて、 歳とともに身体的な故障をあれこれいうようになっているだけということです。 幸いぼくの場合は、三十歳を越えて三十五歳くらいになって、 やっと成人したかなという感じで、その後のほうが体調もいいようですし、 やりたいことも日々どんどんふえていっているものですから、 そういう状態が続く限り、「老い」は成長を意味するようで、 まさにヘッセの上記の本のタイトルのように 「人は成熟するにつれて若くなる」ともいえるような感じなので、 ありがたいなあと思っています(^^)。 しかし、ぼくがいちばん老け込んでいたのが、二十歳頃でして、 ほんとうにそのころは、人生終わってたなあという感が強くありました^^;。 今から思い起こせば、なんという愚かさかと思うのですが、 今になって思えば、そのころ、ある意味では死んだともいえるので、 結果的にはよかったかなという感慨があったりします。 ということで、個々の本について具体的にご紹介するのも ここではできそうもありませんので、参考までに、それらのなかから 少しずつ引用紹介させていただくことにしたいと思います。 そうした中から、「老い」についてなにか考えるところがおありでしたら 何かコメントなどいただければ幸いです。   二十五歳の時、私は何と狭量だったか。狭量さのことを、人々は純粋と言う   のだろうか。私はある意味では、暗い育ち方をしたから、幼い時あら純粋で   あったことなど一度もないような気がする。私は純粋でもないくせに、ただ   狭量であった。   それが四十歳に近くなるにつれて、少しそうでなくなった。それは私が、他   人の立場を推察できるという技術を、遅まきながら、少しずつ身につけると   いうことができるようになったからであろう、などというと、何という体裁   のいいことを言っているのだろうと、われながら思う。つまり、私はそれだ   けいいかげんになったのだ、いいかげんな自分を容認するためには、都合上   他人のいいかげんさも認めなければならない。私はほんの少しだけ、確かに   どの人にも、その人がその人である必然的な理由が背後にある、と実感とし   て思えるようになった。                     (曽野綾子「戒老録」P3-4)                          人間らしく老いること、そしてそれぞれ私たちの年齢にふさわしい心構えと   知恵をもつことは、ひとつのむずかしい技術である。たいていの場合、私た   ちの心は肉体よりも年をとっているか、遅れているかどちらかである。この   ずれを修正してくれるもののひとつに、内面的な生の感覚のあの動揺、人生   のひと区切りや病気の際に私たちを襲うあの根源的な戦慄と不安がある。こ   れらに対して人は自らを卑小に、無力に感じても仕方ないと私は思う。これ   は、ちょうど子どもたちが、命にかかわる障害を受けたあと、泣いたり衰弱   したりすることによって最もよく平衡を取り戻すようなものである。   ・・・   叡智と私たちとの関係は、アキレスと亀の論証のようなものである。叡智が   常に先行しているのだ。それに到達するまでの途中は、その魅力を追いかけ   ることは、それでもやはりすばらしい道である。       (ヘルマン・ヘッセ「人は成熟するにつれて若くなる」P104-105)      肉体は衰える、と一応言ってみよう。だが人間存在全体としての「からだ」   は?衰えるのだろうか?   習慣としてのからだとは、人が、なんとか一つの生を安定して成り立たせよ   うともくろむ、一つの詐術である。制度にとりかこまれたそのからだを、解   体し組みかえ、新たに生きようとする衝迫は生涯にわたって波のようにくり   返し打ち寄せてきたのではなかったか。   老いとは、習慣としてのからだが、気づかれぬままに固化してゆくこと、衰   えてゆくことだとすれば、それを内から広げ、やぶり、芽として現われる新   しい「からだ」−−それが「いのち」ということだろう。死に至るまで。死   もまた、慣習としてのからだの解体なのだろうか。だが、このプロセスを一   人で生ききることはほとんど不可能だ。他者とふれあい、ぶつかりあい、支   えあって、ようやく実現する−−という言い方自体、甘えでもあるけれども。                (竹内敏晴「老いのイニシエーション」P182) ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/02/26 - 03702/03717 HQK00566 SOUND RE:炎で書いた物語」第五章(その2) (14) 96/02/25 16:53 03692へのコメント  「炎で書いた物語」第五章       (THE DARK SIDE OF THE MOON)      「狂気」(その2)               >>   三二、 深海に真珠を抱く母あり     時満つるを 待てり >>三三、 地には ざくろを食らう者満ちて     月の裏側を見る者 多し          (光の黙示録詩編より)                             月の裏側(THE DARK SIDE OF THE MOON)が光の黙示録のこんなところに出てくる。  ARIONもピンク・フロイドが好きなのだろうか。  ピンク・フロイドはギミック(仕掛けの多い)なバンドで80年頃の  傑作「The Wall」コンサートでは完全にぶっ飛ばされた。 もう鬼籍に入った曼陀羅画家、ヒトシがくれたチケットで行った  バスケットのLAレイカーズのホーム競技場、フォーラム会場での  コンサートである。 ぼくのまわりでまわされる草の鼻を突く匂いにタバコも吸わないぼくは閉口していた。 呼吸していればその成分THC は空中に漂っているわけで、ぼくもボーとしてきた。  薄暗い会場でかすかな音楽がずっと鳴っている。開演時間が過ぎても始まらない。  どうしたのかと思っているとあたりがざわめいてくる。  かすかな音楽は鳴り続ける。なんの音楽かと思っていらいらしながらもみんな耳を 澄 ます。  音量がもっと下がって聞き取れない。立ち上がって文句を言おうとするものが出て く る。 主催者の姿も見あたらない。いったいどうしたというのか…。    そのとき、とつぜん、ドカーン!と最大限のボリュームで第一曲目が始まった。  完全にやられた。総毛立った。最後まで圧巻のショーだった。  映画「The Wall」が封切られてUCLAの映画館に来たので まだ二歳のわが子を連れて行った。  どういうわけかそれから子どもが「The Wallを見たい」とせがむようにな っ た。  場末の映画館まで「The Wall」を追いかけて何度も観る羽目になってしま っ た。 牛に牽かれて善光寺参り、というが、 子どもに牽かれてザ・ウォール参りということになった。    そして、月日は移り、息子は中学生になった。  柔道部の音楽好きの言うことを聞かない生意気な後輩を二階に連れてくる。  もちろん。The Wall」をかけてやる。  初めの静かな音楽の部分は音を絞ってある。  スピーカーの目の前に陣取った後輩は  「先輩、音が小さいすよ」  「そうかぁ。それでちょうどいいはずだぞ。じゃあ、あげてやるか。  こんなものか」  「はあ、先輩ありがとうございます」    ボリュームを最大限に上げて息子は避難する。    ドスンッ。二階でなにかが倒れたような響きを耳にしてぼくは  新たな被害者が出たことを確認する。      ************************************************                   >>   三二、 深海に真珠を抱く母あり     時満つるを 待てり  これはもうそのまま読める。  深海=神界  真珠=新珠→荒魂→スサノオ、 母=マイ・ミュート・アーテ、すなわち、アマテラさん。 神珠(ス)を抱いているからス入りのアマテラス。 つまり神界のアマテラス、天照皇大神が 時が来るのを待っておられる、ということのようだ。                     >>94/11/04 逆卍と卍が重なる為、古(イニシエ)のツチ鳴る力を黄泉帰らせよ…桜花      われわれが手に入れた新たな目でこのハロー・メッセージを    見直してみよう。          ツチ=土=スナ      古はスサノオはス抜きでサノオだったという。 それなら漢字にすると砂鳴→土鳴る。      すなわち、古の土鳴る力 とはス抜きのスサノオの力。 「黄泉帰らせよ…桜花」を      いつものように読み還らせると      SAKURAHANA  を逆に読んで      「あな遥かス」となる。      あなは間動詞ああ、あら      「遥かス」  ス=主、十、素   上をまとめて全体を意訳すると 「逆卍と卍が重なって田の時代に入るために、昔、ス抜きで産土(ウブスナ)の力を 発揮された素盞鳴尊の力を甦らせなさい。 ああ、遥かなる主よ…。桜の花のような大和民族よ…。」    このように読むことができた。 少しはこのメッセージの意図に近づいていますように…。    (つづく)         ♪♪音(SOUND) ♪♪ 03703/03717 PAG03134 はな RE^2:イシスとマリア:ホルスとキリスト (14) 96/02/25 18:28 03699へのコメント コメント数:1 KAZE さん  コメントありがとうございました。あのままアマテラス=太陽の線 で解読を進めていくと、納得行かない解読結果になるところでした。  KAZEさんのおっしゃられるとおり、アマテラス=月の線で考え直し てみます。  イシスについては、タロットカードにも描かれており、  表のイシス=3:女帝  裏のイシス=2:女教皇 と言われていることからも、タロットカードとの関連をにらみながら 解読を進めたいとも思っています。  また、三日月が「角」だという意見、まだ、どのように解読に結び つけるかの方向が定まっていませんが、大変参考になりました。  ありがとうございました。(^^)                       はな 03717/03717 GGA02514 KAZE RE:RE^2:イシスとマリア:ホルスとキリ スト (14) 96/02/26 12:02 03703へのコメント はなさん、どうも。 細かいことですが^^;、 >> KAZEさんのおっしゃられるとおり、アマテラス=月の線で考え直し >>てみます。 の「アマテラス=月」は、「イシス=月」ではないでしょうか^^;。 参考までにつけ加えると、(これは以前にも書き込んだことですが) イシス=シリウス、オリオン=オシリスってのもあるかなと思います。 さて、プルタルコスの「イシスとオシリス」は、岩波文庫の新刊ですよね(^^)。 ぼくもさっそく読んでみました。 三日月が「角」だとかいうのは、この本のなかにもある情報です。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 03708/03717 PAG03134 はな イシスとマリア:ホルスとキリスト(3) (14) 96/02/25 22:28 03697へのコメント コメント数:2  イシスとオシリスについて書かれてある最古の書物に、プルタルコ スが著した「イシスとオシリス」があります。  この「イシスとオシリス」の中には、「鬼神」とか「半神」と呼ば れる「ダイモン」が登場します。  ここで「鬼神」は、アリオン預言にも再三再四出てくる「鬼」「百 鬼夜行」と関係しているようです。  プルタルコスは、ダイモンを「善きダイモン」と「悪しきダイモン」 に分けて捉え、オシリスとイシスは、善きダイモンから神に転身した と書いています。  【善きダイモン=善き鬼神 & 悪しきダイモン=悪しき鬼神】 と捉えると、以下のハローメッセージのヒントとなりそうです。 『 さて準備は宜しいかな? 百鬼夜行は表と裏があり双方共に進む                        (94/10/20ハロー)』  「百鬼夜行は表と裏がある」とは、プルタルコスの著作に記された ダイモンの表と裏の姿、すなわち「善き鬼神」と「悪しき鬼神」を意 味していると思われます。                       はな 03712/03717 PAG03134 はな イシスとマリア:ホルスとキリスト(4) (14) 96/02/26 06:05 03708へのコメント ●56は無に帰せよ みれさんは、「鬼」について説明をされたことがありました。 『で、ARIONが言うに日本には「オン一族」が居たんだそうです。このオ ン一族は「隠(オン)一族」とも呼ばれました、これがなまって「鬼(オニ)」になる そうです。AMA族の血統を強く残す一族でした。 後に、この一族は全国に 拡がり血も薄まるのですが、その血に潜在した「印(シルシ)」とも言えるものはか なり残っているようです。  社会的に適応するにあたって隠(オン)一族は、その「印の現われとしての能力」 を自ら不要のものとして封じ込めたということですが、これが恐らく「封じら れた祖土(オヤツチ)の力」と連動しているのではないか?と思います。    』                             (mes #3259) 『鬼と呼ばれ恐れ蔑まれてきた存在は、実は「穏(オン)」の状態にされた私 達の祖先です。彼らの魂の足音が日本の大地を轟かせているんだと、私は 思います。私達子孫は、気付かねば…。』                             (mes #3202)  ここで、「鬼」は「隠」状態にされ力を封じられた、わたしたちの 祖先と書かれています。スサノオもその一人ですし、遠い祖先と言わ れれば、日向族にないがしろにされ、封印をかけてその力を封じ込め られた出雲族や、蝦夷の人々でしょう。  わたしたちは、「善き鬼神」であるはずの出雲族や蝦夷の人々を、 「悪しき鬼神」と認識しています。この認識も、封印の力が及んでい るからではないでしょうか。  プルタルコスの著作「イシスとオシリス」には、善き鬼神(ダイモ ン)はイシスとオシリスであり、悪しき鬼神(ダイモン)は「テュポ ン」という名前がつけられています。  悪しき鬼神であるテュポンを、「邪鬼」呼ばわりされている出雲族 や蝦夷になぞらえると、次のアリオン預言の意味が分かってきます。  『8は3の中に 4は5の上に   9は12をもって飾られるべし   56は無に帰せよ』      (光の黙示録 第2章3節)  今回注目する文章は、このうち「56は無に帰せよ」の部分です。  エウドクソスという人がおりまして、この人は、 「正56角形は、悪しき鬼神であるテュポンの性質を有している」 ~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と記しています。  すると、「悪しき鬼神‥‥56」が見えてきます。 1)悪しき鬼神=56   2)56は無に帰せよ から、「悪しき鬼神は無に帰せよ」と読めます。つまり、これまで邪 とし卑しめられてきた出雲族や蝦夷のイメージを消し去って「無」に せよと訴えているように感じました。  悪しき鬼神というイメージを無にし、善き鬼神というイメージを残 しなさいと、アリオンは言っているようです。 『 さて準備は宜しいかな? 百鬼夜行は表と裏があり双方共に進む                        (94/10/20ハロー)』  表と裏の鬼が「双方ともに進む」とは、これから新しい夜明けがく る世界において、人々が鬼を善き鬼神(表)と見直すのか、あくまで 悪しき鬼神(裏)のままで在り続けるのか、そのどちらの(双方の) 未来も可能性ある未来として残っていることを示唆しているようです。  百鬼夜行の表をとるか裏をとるか。その選択は百鬼夜行ではなくて わたしたちが決めることではないでしょうか。                       はな 03716/03717 GBG02043 維/YUI ダイモンって大門?(^^;) (14) 96/02/26 10:15 03708へのコメント ダイモンって、デーモンに通じているの? 維/YUI 03707/03717 KFQ02761 しまうま RE^2:地名は預言していた (14) 96/02/25 22:25 03691へのコメント コメント数:1 #03691 はなさん  こんにちはぁ(^^)。 | 預言解読にアイヌ語を持ち出すあたり、アイヌ語には隠された秘密 |の多くが入っているように思います。アイヌ語(の一部)を「AMA |族の末裔が残した遺言」という見方ができるかもしれません。  みれさんのお話によると、「宇宙神霊ARION」の 宇宙神霊  とは、実は、 ウツノカムヒ  と読むそうです。「神霊」=「カムヒ」という読みは、もしかしてアイヌ語 の「カムイ」=「神」に通じるものかもしれませんね。  あ、あと「1」=「カイ」=「スメラミコト」の「カイ」と「カムイ」も、 何か関連がありそうな気が……。  そういえば、サンカの数の数え方では、「1」=「カイ」と読むそうです。   しまうま(KFQ02761) 03715/03717 GBG02043 維/YUI RE^3:地名は預言していた (14) 96/02/26 10:15 03707へのコメント ウツノカムヒねぇ。。きれいだな、”うちゅうしんれい”よりか。 カムヒを反対から読むと、ヒムカ。日向?? 陽に向う、一に向う、霊に向う、火に向う、緋に向う…> 父性っぽくない? んなこと思ってたら、なんでか私は日向は父系、出雲は母系ってイメージで いることに気づいた。。。 維/YUI