「まぁ、そんなに肩肘張らずに楽しくやろう」と別の焚き火の民 - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/03/03 - 01211/01211 KHC01313 まるにちょん ○ゝとベートーベン ( 3) 96/03/03 02:52   またまた、クラシックネタです。   古い奴だとお思いでしょうが、いいものは良い!   僕は、モーツァルトも大好きだけど、ベートーベンも大好きなんですね。   超天才肌で華やかなのモーツァルトに比べて、ベートーベンのイメージは暗い、  重い、深刻と3拍子揃っています。   彼はきっと、作曲の時は、頭の毛をかきむしって、絞り出すように作曲したの  ではないかなぁって思いますよね。   鼻歌混じりに作曲したモーツアルトと違って、彼はその分、人間くさいんです  ね。だから大好きなんです。   彼の交響曲には、人間の罪深さ、それ故に苦悩する人生、だからこそ人間は輝  くこともできるんだと訴えているようです。   ベートーベンの交響曲では、第1を除く奇数番が好きで、特に第5番「運命」  と第九が気に入っています。   今日は、「運命」の感想を書いてしまおう。   じゃじゃじゃじゃ〜〜〜んと始まる「運命」は、人の人生の深刻さ告げます。   深刻な動機から始まり、どんどんテンポを上げていくことによって、時の流れ  の早さの中で人間は運命に翻弄されていく様子を伝えてくるようです。   一転、静寂が徐々にやってきて…安息が得られたに見えて、また、じゃじゃじ  ゃじゃ〜〜〜んと運命が心の戸を叩きます。   クライマックスで、どんどん深刻さと重みをましていきます。こんなにも人生  は苦しみに満ちているのかと思えてしまうくらいに。   第2楽章では、打って変わって穏やかで優しげです。   人生にも平安な時もあると安心させます。   また、雄大な大河を思わせる調べが心地よく響きます、人生はかくも雄大であ  ると。しかし、ここにも、運命は影を落としています。気付かないように。   ところで、この楽章のワンフレーズが、ウルトラセブンの最終回だったかな、  十字架張り付けにされたセブンに沈む夕日が照り返すシーンで使われていました  っけ。   僕は、この交響曲の第3楽章と第4楽章が大好きで、2つはパッセージするん  です。パッセージとは、大雑把に言えば2つの楽章が続き物で繋がって演奏され  ることです。普通は楽章の間で一息いれるのですが。   第3楽章は、第1楽章の動機からはじまりますが、別名「ぞうのダンス」と言  われるぐらいに、低音の弦でフーガ風のトリオ(三拍子)で貫かれています。   一見楽しげなワルツを踊っているようですが、考えてみて下さい。像のダンス  を、不気味でしょう(^^;   僕は、人生の重さがダンスしていると解釈しています。重く辛いしかも暗さに  支配された人生…。ホルンは悲痛な叫びのように、ティンパニーは迫ってくる運  命のように。   暗さは一層まして、最弱音の弦の響きに支えられて、ティンパニーはおろどお  ろどしく静かに打たれます。いやが上にも緊張感は高まっていきます。   さらに、抑制された弦の響きが静かに静かに続きます。この緊張と暗さは永遠  に続くかのようです。   まるで夜明け前の暗さを表しているようです。しかし、あの地平線からもうじ  き太陽があがるんだと言う希望のエネルギーは内に秘めています。   抑えにに抑えたエネルギーは一気に爆発します。   まるで、地平線から一筋の光がさっと射したと思いきや、何もかもが黄金色に  輝きだし、今まで支配していた闇を薙いでいくかのようです。   第4楽章は、苦しみからの解放が高らかに歌われます。   いや苦しみを糧にして、それを乗り越えてきた者だけが持ちうる歓喜を歌って  います。押し込められ我慢に我慢を重ねて生きてきたからこそ、喜びも爆発的で、  まさに至福です。      「運命」は人生の醍醐味、生きていく醍醐味とそれから勇気を与えてくれると  僕は確信しています。  では、また。                     まるにちょん、○ゝ - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/03/03 - 00757/00759 HGE02116 MAKOTO RE:重箱の隅(^^;;) ( 6) 96/03/02 19:41 00752へのコメント #752>九印さん(^^)  私は、形式ばってる事には、自分では気付いてなくて、 >別の焚き火民が「形式ばった話し方は止めよう」と言った  と言われて、すっごく戸惑っていると見た(^^;)  同じもの読んでも、 受け止め方も人それぞれって感じで、面白いなぁ(*^_^*)  さて、次はどう出るかですな(^。^)                       MAKOTO でした☆ 00758/00759 HGE02116 MAKOTO ピンときません?(゚-゚) ( 6) 96/03/02 20:21 00755へのコメント コメント数:1 #755>しまうまさん(^^) 忘れないうちに、RESつけちゃいます。  私は、「さぁ、天使さんの期待に答えよう」って気負いのようなものを、発言 者達(口々に言い合ってるって事は、複数の民が言ってるってことだよね)の言 葉の中に感じていたので、ここ数日の展開見てて、ついつい苦笑いしてる口なん ですよね(^^;)  ピンとこないって事ですけど、しまうまさんは、民の言葉の中に、気負いとい うか、力みのようなものを感じませんか? 天使が聞いている。皆も聞いている。 なら、ちゃんと発言しなくっちゃ、恥ずかしい姿は見せられないぞって、そんな 気負いというか、力みみたいなものを。  私、気負いがある時って、構えてしまって、どうしても形式ばった話し方にな るんだよね。う〜ん、格好つけた話し方といった方がわかりやすいかな? で、 そんな時って、無意識のうちに、自分をよく見せようって意識が働いてしまうん です。これって、私の中で、周りの視線や反応を意識してる時に主に生じる動き なんだけど、今回のこれも、そんな事を言ってるのだと感じています。  他の方は、その方なりの受け止め方をしていると思うんだけど、私はこんな事 感じてましたし、考えてました。  ただ、この民の反応を見てると、自分に気負いや力みがあるとは思ってないみ たいなんですよね。意識してないからこそ、躊躇してると思う。次の反応が楽し みです(^^)                          MAKOTO でした☆ 追伸 お仕事大変そうですね。先ずは、本業の方を頑張って下さいねぇ〜(^o^)    RESは、一段落ついて時間の取れる時に、ごゆっくりどうぞ(*^_^*) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/03/03 - 07014/07017 NBB01420 SUKE 人間的とはどう言うことか?? ( 7) 96/03/02 23:09 07010へのコメント #7010 修羅君、こんばんは。 39度の熱でも仕事出来ると言うのは、凄い(^^;) 暮れに僕も熱を出しましたが、それでも38度前半だった。なのに頭痛は激し いし吐き気もするし、休んでいてもちっとも休んだ気分じゃなかったですよ。 高熱でも身動き出来る人ってのはいるものですね(^^;) まぁ確かに人それぞれの基準があるから、逆に自分の基準をあまり前に出しす ぎると警戒されてしまうのかも知れないです。 僕の場合、誰に対してでもある程度信頼を前提として接してしまうところがあっ たと思います。だから、悩み事の相談なんて言うのも案外簡単にできてしまっ たりして、相手としては意外だったかもしれないです。それって迷惑な話です よね。 こういう、相手からの視点と言うのにも気が付かないでいたことが、人と接す る時の問題だったのですね。 正に弱みを見せるにもTPO。気が付いてみれば当たり前の事なのに、気が付 かなかった。 >>  自分の抱いているイメージ以外の行動を相手がとった時、それが人間的 >> であればある程、相手は安心するものなのだそうです。 これはどうしてなんだろう? そういえば、「あんたは馬鹿やらないから信用できない」なんて言うような話 も聞きます(僕が言われたのではないけど)。 何故馬鹿をやると信用されるんだろうと思ったら、「馬鹿やる」と言うのはそ の人間の至らない部分を見出すと言うことなんですね。自分が至らないと思っ ている人は、相手も同じでないと信用出来ない。しかしもともと自分を信用し ていないから、そういう感じ方をするものだと思います。 修羅君の書いた「人間的」と言うのは、得てしてこの「至らない」と言う事の 代名詞になっているような気がするけれど、果たして「至らない」=「人間的」 なんでしょうか。 この辺は僕にとっても問い直したい問題です。                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 07016/07017 NBB01420 SUKE 口にすること ( 7) 96/03/02 23:33 07009へのコメント #7009 MAKOTOさん、こんばんは。 しばらく前から、なるべく思ったように言うことを心がけられるようになりま したが、まだ頭がついて行かないのか(^^;)やっぱり会話のその場で思いを表 現すると言うのは難しいですね。 後から思い出して「あ、こういうふうに言えば簡潔明瞭に伝わったのに」なん て思うこともしばしばです。 ところで、こういう風に言えるような相手って言うのもやはりTPOがあるみ たいで、相手によっては表現出しやすいのに、相手によっては全然上手く表現 できなかったと言う時もあります。 FARIONのオフでは何となく「言える」ような気がしていますよ(^^;)                          (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 07017/07017 QZA02327 ノロガメ RE:乱反射をもう一度 ( 7) 96/03/03 08:15 07004へのコメント SUKEさん、今日は。 #6995をアップして、またお叱りを受けるのではないかと身構えていたのです が、コメントを頂いて、ノロガメの心には何一つ乱反射が生まれませんでした。 SUKEさんの言葉が、ノロガメの心奥深くへと吸い込まれて行きます。 >>鏡になろうとしている人なのかも知れません。 これはややもすれば、自惚れとして受け取られる恐れがありますが、 >他の皆の「自分を観る」を手伝おうとしているのではないかと。 このようなコメントを頂けると、ノロガメとしてはとても気が休まる感じです。 >そして、どんなに大きな衝撃であっても、それで終わりではないかも知れません。 >見えたと思った自分が、まだその先も何度でも現れるかも知れない、まるでタマ >ネギの皮むきのようなものかもしれません。 タマネギの皮むきといえば、ノロガメの求道は正にタマネギの皮むき人生であった ようにも思います。 自分とは何かを求めようと、まず服を脱いで(我情我欲を捨てる)裸になりました、 しかしそこには人間しかいません。 次に、人間を解体しました。 心と体に分別出来ました。 体の解剖は、科学的に果たされているので、問題はありません。 ところが、自分と言う部品は見当たらないのです。 自分とは一体何なのだ、探しても探しても見つかりません。 あるとき鏡に映る自分の姿を見ていて、はっと気づいたのです。 自分とは物ではないのではないか? この気づきが「無」を生み出したのです。 人間はタマネギの芯を見ようと、一生懸命皮をむきますが、結局芯はありません。 物理的な物が無い、これで人間の皮むきは終了します。 人体の解剖も、医の皮むきであったのではないでしょうか。 一つづつ皮を(機能)むきながら、医療科学は発展して行ったのでしょう。 今日では、医は完全に人体の皮をむき終えてしまったような感じもしますが、ノロ ガメの母が亡くなったときの事ですが、一度死んだと思われる人間の機能は医の力 で開腹したのです。 物理的にはその目的は果たされたようですが、母の意識は戻 らず、母は植物状態になって、ベットの上に機能だけが作動する人間になってしま いました。 ここにも、人間の限界があるように思います。 むくべき皮が無い、しかし問題は解決されていません。 また原点に戻って、皮を再びむき始める(思考を繰り返す)のです。 物ではないと言う気づきは、皮をむくことが無意味であることの気づきになります。 無駄な思考をやめて、あるがままの姿に収まると言うことでもあります。 意識を「無」にして、今日一日の勤めを果たすだけの人生が生まれて来ます。 タマネギの皮をむいて、何があるのかを求めても、そこにはタマネギしかありませ ん。 宗教は現実を否定しているようにも見えます。 しかし宗教理論では現実問題は何一つ解決されず、ますます訳の分からない世の中 になってしまうような気がします。 人間は結局は現実に背を向けて生きることは出来ない、どんなに理屈を組み立てた としても、時間が来れば、そこにある目的に向かって進むしか無い人生です。 自分にとっては、自分の存在が全てでありますが、人間にとって自分は無意味な存 在であり、人間としてはやはり現実に対処出来ることが肝心な事であると思います。 ノロガメの吹聴も、ただただ皮むきをして来ましたと言うだけのことで、皆さん特 別なものを求めようとしても結局常に今があるだけですよと言いたい訳です。 ちょっと長文になりそうですが、このまま続けます。 鏡になろうなんて、生意気な事を言った責任上、今回はちょっとノロガメ流新しい 概念と言えるものをアップしてみようと思います。 自分中心的とは、ノロガメのような勝手人間の事のようですが、それはマイナス的 印象であります。 しかし「自分」というものの本質は、中心的存在であると思うのです。 精神を鍛える、磨く、修行する、その目的となる領域は神であろうと思います。 神の領域に到達して、悟りを得ると言うことでしょう。 神を太陽としての捉え方もあります。 円の中心には「無」があります。 意識の中に「無」を取り入れれば、その人間は中心的存在になると言う理屈も成り 立つ訳です。 太陽は中心に位置して光を別け隔て無く放射している、全ての源に位置するものと して、太陽のような心になることを由として語られることもありますね。 心に太陽を、てな言葉がありますが、中心的という言葉をそのような理屈で捉えれ ば、自分が中心となって事を処理すると言うことは、実生活の中で様々な分野で求 められる生き方ではないでしょうか。 自分中心は、自分勝手という見方もありますが、人の先頭に立とうとする者にとっ ては、八方美人ではなく、確りと自己を確立して確かな道へと導くことが求められ ると言う理屈は、正論であろうかと思います。 最近、こんな言葉を見つけました。 自動車を運転していると、道が動いています、景色が動いています。 その場合、自分は固定されているのです。 自分中心に道が、景色が動いているのです。 人間的には、それは錯覚であって、自分が動いているというのが当たり前の理屈で ありますが、人間の錯覚が実は自分と言うものにとっては、それは錯覚ではなく、 三次元あるいは四次元の世界にある常識のように思われるのです。 汽車の窓からみる景色は近くと遠くの景色が左右に入れ替わり回転しているように 見えます。これも錯覚でありますが、実はそうではなく、自分中心に回っているよ うに見えるのです。 太陽が東から西へと昔は天動説で人間が観たまま、感じたままの説が常識であった と思います、それが科学の力で地動説が正しいと常識を塗り替えてしまいました。 しかし、私たちの目には太陽が回っているように見えます、人間は自分が感じるこ とよりか、科学の方を信じてしまいました。 科学を信じて物質文明を発展させた結果、現実は精神的にはとても不安な世の中に なっているように思います。 ノロガメはその常識を再び塗り替えようとしています。 物理的には、地動説でありましょう。 ところが、自分とは「無」であると言う理屈においては、やはり観たまま、感じた ままが正解になります。 そんなばかなことがと言われることでしょうが、中心的が本質の「自分」という理 屈においては、天も地も世の中も全て自分中心であると言うことです。 自分にとって、自分の存在が全てです。 それは自分だけの事ではなく、自分の領域にある理屈であって、全てに共有するも のです。 ARIONは神霊議長と言われ、SUKEさんは人間議長と言われていますが、神 霊であっても、人間であっても、自分と言う言葉は共有するものとして以前アップ しましたが、ノロガメの自己確立は「自分とは物ではない」「自分とは無」である と言うことで、神霊だとか、人間だとか、分け隔てる表現は、ノロガメには共鳴が 生まれません。 これらは、視点の異なる領域から生まれる言葉でありましょうけれど、ノロガメの 場合、あくまでも自分をスタートラインにおいて言葉を発している訳で、現実には 人間世界で、人間が全てのスタートラインに置かれ、その意味では神は神であり、 人間は人間になります。 この場合、「自分」は人間として扱われます。 自分を人間として観たとき、神霊、人間という表現は共鳴出来ますが、ここで言い たいことは、中心に位置するものとして「自分」を確立すれば、神や仏を認める、 認めない、それは自分の視点がどの領域に設定するかで、個々に自由に言葉を発す ることが出来る訳で、「自己確立」という事は、一切の概念に捕らわれる事なく自 分流の概念を構築して、自分流に生きることが出来ると言うことなのです。 「自分流」とは、これも自分勝手と言うことではなく、惰性に流されるとなく、自 分の意志で生きると言うことであり、神が定めた自然的な生き方に従うことでもあ ります。 神が定めた生き方とは、人間として正しく生きると言うことでもあります。 何故人間は正しく生きなければならないのかについて疑問を投げかける者がいます が、悪徳商法で大儲けをする人間もいる訳で、正しく生きることに矛盾や疑問が生 まれてくるのですが、水が淀めばボウフラが沸くように、社会問題は問題を生み出 す土壌があると言うことでしょう。 土壌となる原因は、自分は何故生まれ何のために生きるのか、その訳が分からない まま生きている我々の生き方にあると思います。 ノロガメの「自己確立」は、そうした問題意識に生まれたものであり、要するに自 分が確りすれば、誰の助けを得なくても生きられるということであり、自分の力で 自分の人生を切り開いて行く人間が、誰よりも一番偉い者になると言うことです。 自分が努力すれば、そうした人間になれる可能性が含まれている訳で、ただその努 力の仕方が分からないと言うことではないでしょうか。 確りした生き方をしている人間が増えて来れば、悪は育たないと言う理屈になりま す。 自分が確りすれば、このことが世の中を正して行く一番の原動力になる、こうして 書いて観ると何一つ難しい問題はないですね。 みんな当たり前の理屈ばかりです。 ですから、ノロガメは「自分を観る」と言う作業には、観るべき「自分」と言うも のは何であるのかを「確立」する必要があると主張したい訳で、「自己確立」を必 要以上に吹聴して来た背景には、そうしたノロガメの人生観があるのです。 >一度体験した大衝撃に拘らず、更にその先に続く道を楽しもうと言う大胆な、そ >して軽妙なフットワークで行ければよいですね。 SUKEさんが、こんなコメントを付けてくれるので、何か変なふうに調子づいて しまった感じのアップになってしまったようで、これもコメントに導かれた反射と なるのでしょうかね。 自分中心的なノロガメでした。まる - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/03/03 - 04338/04338 NAG02033 EX RE^5:英語版般若心経とその日本語訳^^; (13) 96/03/02 18:25 04327へのコメント KAZE さん、こんにちは。 >》"People say, 'I want peace.' If they remove the I (ego) and the want >》 (desire), what's left over is peace." >》 ........Sri Sathya Sai Baba >》 >》Peaceのかわりにenlightenmentでも通じる >》と思いました。 >サイババさんですか^^;。 >ぼくはどうもそのオババさんが苦手で、 いや、奇遇ですね。(^^;)私も実はちょっと疑問な部分もあります。 ところが彼の「英知」という著作のみは私は性に合っていると感じた のでした。というのは、アートマン・ブラフマンをかなり実際的に、 語っているものであったからです。 つまり私も抵抗が無いわけではなく、いろいろありますが、とりあえ ず、彼が為したとされる物質化現象などについても、重要だと思うの は、それを聞いて我々が、何かを思い抵抗または賛同したということ であり、それらをひっくるめて私などは、「新奇なもの」「一時的な もの」ととらえるのです。 物質化などは宇宙創生時に既に起こったとされており、それと同じ源、 創造する力が常に内にあるではないかと。 さらに奇特にも、人というものは一瞬一瞬自己を肉に閉じ込め制限の ある枠組みを創造維持し続けている訳です。 >そこらへんのとらえかたもちょい苦手なんですよね。 >もちろん、いわんとするとことはわかりやすくてシンプルなのですが、 >そのインド風なのがちょいとね^^;。 >どこらへんが苦手かというと、'remove'というところなんですよね。 >ぼくなら、'metamorphose'っていいたいところです。 > I (ego)や the want(desire)を'remove'してしまった peaceってのは、 > どうも不気味な感じがするんですよね、。 「そうですね。「人生論」的には、なにごともほどほどというのがある、 みたいな意味で、頷ける面があります。または、中道、漸悟という視点も 大切なものと考えますので。 ただ、この例も、特定の状況をわきまえての方便であると思いますが。 というのも、もともと一時的化粧としてのI、wantなのですが、当然のこと ながらアートマンの存在・意識・至福が遍在的存在とするならばどうすれば それらが存在できるでしょうか、その幻を見たといってもともと有り得ない ものを、どう消すというのでしょうか、と言えるのですね。 とはいえ、限定があってこそ苦しみがあり、苦しみに身を置いてこそ、そこ からの解放の価値があるのだと思います。 例えば釈迦の苦行時代が、無駄なものであるとはとても言えませんし、 それらを経ない自我肯定みたいなのは、中道でもなんでもなくて、 いい加減で問題の多い大乗的なものを生むように思ってしまいますね。 さて、metamorphose、変容するですが、確かにその方が洗練されています。 皮肉にも魔術的な語でもありますが。 無骨でシンプルなのは確かに容易に矛盾を生じます。 先の例でいえば、重複しますが、「自己の本体=アートマンが全一であり、 根源および結果のすべて、ありてあるものであるならば、どうして取り除く べき幻である自我が存在するでしょうか?」などのように。 ただそれは、それらの記述を処理する自我の構造自体の矛盾でもあるのだと 思います。 魔術に、つまりは「不思議」を味わっているとは、幻惑されている−> マーヤの虜のままであるという見方も可能です。 概ね、自我は自らを酔わせるものには飛びつくが、ありのままの真実、 シンプルさは看過しがちなのだと、私はとらえます。 そして技巧的な捉え方を重視する考え方の中に、あまりにも細かい差異を 捉えてはそれにこだわっている、ある意味での精神の特定の場への隷属状 態を見ます。 本来は、自らなんら制限、制約という檻を作らなければ、自由である のに自らが制限、制約を作っている。 制限制約の最たるものが「自分は肉体の限界に押し込められた限界のあ る、感覚、知性等を持った個人である」というものである。 そしてマーヤの中での差異を価値とする側面の大きくなっている今の社会、 そしてそこで生きる個人にとっては、まずは自我自体の矛盾を暴き出す言 明は不気味に感じざるを得ないであろうと。 同時に、不幸にも自我が消え去る手段や基準を提供するとされる師、グル なるものが真実そのものであるならば、それは法則そのものですから抗う べくもないとしても、もしそうでないとしたらどうしてくれるか、オウム 真理教の例を見よという警戒心さえも引き起こすかもしれません。 ここで、上記手段ならびに基準は外部の特定の個人ならび団体等に準拠 しないこと、自らが自らの内面に見出されなければいけないことに留意 すべきものでしょう。 偽グルであったり、表面欲求であるものが対応して自己の内面にもあり、 それらへの気付き、探求により、普遍法則が内にあり、現前していると 気付くこととなりうるでしょう。 外の諸々にではなく、自己の中に見出しうる法則にこそ従うべきもの、 であり、事実、その本体が現実を統御していない時はないのだと。 >ぼくは、「神」であるよりも、「人間」でありたいと思ってますから、 >そこらへんの違いなのかもしれませんが。 不二一元論からは、対立を説くのは方便としてのみ。みたいなものが あるようです。 神人間対立についてどうか、について書くのではなく、あるいは、今度は 私が主に片一方を重視する立場から何か言うのはなくて、今現在ある自己 の核というか精髄または根本主観存在の実感に重きを置こうという趣旨で す。 ええと、インドでもどこでもそれぞれの特徴があり、まずは地理的名称で すが、さらに諸々のものが付随します。観念であったり知識やいろんな念 であったりしますが、それらが外的なものであるのに対して、自己は内的 なものであり、共通です。自己または主観の存在自体は、共有できるもの であり、さらにそれ無しには外的なものはありえないと言えます。 「神は人に宿り、人は自らの神的起源に目覚める。」 96/03/01(金) 23:11 EX(NAG02033) - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/03/03 - 03755/03755 PAG03543 NOISE RE^2:「ウツ」と「カイ」 (14) 96/03/03 02:09 03749へのコメント しまうまさんRESどうもです。 >>  虚(火カ)であり実(水ミ)である宇宙は「真澄の鏡」(マスミノカガミ) >> >> すみません。この1行はよくわかりませんでした(__;)ムチナモノデ…。辞書には >>「真澄の鏡」として「よく澄んで明らかな鏡」という解釈が載っていましたが、 >>うーん、あまりピンときませんでした。きっと、「真澄の結び・結びの真澄」 >>というフレーズともつながって来るんでしょうね。 実は自分でも、わけのわからないままに書いてるものでして(^_^;) あえていえば、「真澄の鏡」は  95/01/08 此鏡が曇れど彼鏡は明瞭なり。結実するもの多し、良きも悪しきも の明瞭な「彼鏡」、「真澄の結び」は「結実」(結像)、「結びの真澄」は「本源 回帰」。 「彼鏡」が天(カミ)だとすれば、「此鏡」は地(ヒト)の「分霊」(ワケ ミタマ)。 >>| たてよこのみちすじのいとみだれずば >>|      おりなせるきぬいてらむものぞ >>|                本田親徳 >> >> これもよく意味がわかりませんでした(__;)スミマセン。 >>「縦横の道筋の糸が乱れなければ、織りなす絹が……」まではなんとなくわ >>かるのですが、「いてらむものぞ」はお手上げです(^^;。 「伊照む」(いてらむ)、「伊照り」などは、よく祝詞に出てくる言葉で、「伊照 む」(いてらむ)の「伊」は接頭語ですから「照る」となります。しまうまさんの 文章に追加すれば「縦横の道筋の糸が乱れなければ、織りなす絹は光り輝くもの だよ」となるわけですね。 この織物の横糸は、ひとりひとりのヒトで、カミの縦糸とむすばれながら織りあ げられる、カミとヒトとの共同作業。縦だけでも横だけでも成り立たない。カミ を忘れ、道を誤り乱した今の世の、総体としての織物は光り輝くどころか……。 織物といえば、布のclothの語源は、十字のCrossからきているじゃないかと思い ますが、いかがでしょう。 古伝では道筋の「道」は「+」です。 「体霊」(ミチ)「右左」(ミチ)「陰陽」(ミチ)「─│」(ミチ)、 即ち「+」(ミチ)。 「道」の「首」は「ハジメ」、部首のしんにゅうは「之」で 「死」「終」に通じる。 故に「道」は「始・終」であり、「顕幽一致」「神人一如」である。   ミ  チ   体(身)霊   右  左   陰  陽   地  天   水  火   ─  │    \/    「+」    ミチ >> うーん。右手が「地の水」で、左手が「地の火」であるというのは、ARI >>ONのプロフィールにある『これらすべての力の源である母なる宇宙の右手よ >>り来たり、父なる宇宙の力を左手に炎の剣として携えている。』という文章と、 >>なんとなく符合するなあ、と思いました。「水」は母性、「火」は父性、とい >>う感じがありますね。 右手は「水極手」、左手は「火(霊)足り手」。 だから「合掌」も「+」、つまりカミとヒトとのムスビ、調和であり、また、火 を水に化し、水を火に変じます。 神前で「柏手」を打つとき、両手をあわせて、右手を少し手前に引いて「パン、 パン」と打ちますね。こうすると良い音が出るんですが、左手(霊)よりも右手(体) を引くことには「霊主体従」という意味合いがあるのだそうです。 そして、打ち鳴らされる柏手は、天地(アメツチ)開く音霊(オトタマ)の響き。 踏分けよ吾が經緯の理は      吾大神の敷きませる道              本田親徳 - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/03/03 - 00546/00546 KHC01313 まるにちょん RE:「悪」を見る (15) 96/03/02 21:47 00542へのコメント 苗(miao)どうもです。   苗(miao)さんの「悪」を見るための立脚点のお話は、哲学的というか、ほんと  禅問答のようで、僕のどうか読解力ではうまく理解しているかどうか…(^^;   |人間は常に成長します。心も身体もそして考え方も。幾ら一つの執着に固執しても、 |全然変わらない人間というものはまず有り得ません。そしてその流転がまた自分の |立脚点を不明にします。ある時は悪に見えても明日には善に変化するかも知れない。 |例えそのものが変わらなくても自己が変化する事で善悪も変わる、そういったもの |だと思います。   判断をする為の立脚点について書かれていましたね。   一応の立脚点を定めることは、何かの判断する時には大変重要なものだと思い  ます。ある一定の基準、自分の立っている位置を決めて置かないと、判断が下せ  ないことになりますよね。   しかしながら、これは僕の考えですが、位置を決めて判断したときには、起こ   った事は既に過去になっています。つまり善悪の判断を下している自分もどん  どん変化して行くものなのですね。このことを念頭においていないと、いつまで  経っても成長していかないと思います。   僕は、立脚点は在ると思っています。   一瞬一瞬が立脚点だと言うこともできます。   僕が今感じたこと、判断したことがその僕にとって全てなんです。   僕は当事者ですから。   ただ、自分の判断、善悪の判断を下すときには、過去からの積み上げによって  判断したけど、これは未来永劫にかわらないと思い込まないようにしないと、い   つまでも過去に縛られることになると思うんです。   まあ、これは僕の失敗から分かったことなんですが(^^;。 |多分に哲学的になりますが、人は常に流転に流れ、その流れの中の不確かさを故に |確かな物を追い求め、それが善悪という一つの対比を集約させる事で何かを得よう |としているのだと思います。善悪を見つめる事で自分を見る。自分を見る事で善悪 |も変わる。不確かな中から善悪をして自分の位置を知り、立脚点を空に置く。これ |が今の所私の持つ善悪感です。   全体的には頷けるんですが、なぜ、立脚点を空に置かなければならないんでし ょうか?  また、後半部分で、空に置くことはできない主旨のことを書かれていますが、 なんだか矛盾しているようで良く分かりません。説明して頂ければ幸いです。 |立脚点は善でも無く悪でも無くさらには肉体にも神にも自分を置かない、空に置く |事で、これらの全ては見渡す事が出来るのだと思います。それが統合するという事 |への一歩だと。ですから、悪抱き参らせよ、という事は「悪」「抱く」「参る」の |何処にも自分を置く事は出来ません。一つの何かに偏る事で結果的には違う方向へ |と行ってしまうからです。しかしそのそれぞれに対して当事者でなくてはなりませ |ん。単に傍観者ではいけないという事です。そうしてみればむしろ立脚点は無いと |いえるものかも知れません。そもそも無とか空に置く事は出来ないからです。   先にもちょっと触れましたように、僕は、一瞬一瞬が立脚点だと思っています  から、常に自己は、全ての関知しうる事象の当事者ということになりますね。   止まることなど一瞬たりともできない生々流転の因果律に支配されたこの世で  すから、今生きている今を実感しながら、その中で、善悪を見つめるのだと思い  ます。 |>>    善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。 | |もう一度この意味を考えてみるならば、行くという事を目的にすればその後に続く |事は何か、意識と行動を統合するだけでは無い、善と悪の間にある「空」の部分に |光をあてる事が、意識と行動の間に生まれるものが大事な事なのだと言っているの |だと思います。  ええと、空と言うことがが今一僕にはぴんとこないんで、僕なりの意見を言い ますと、刻一刻と変化する自分、それに伴って変化する善悪の判断というか感覚 を見つめて、なぜそのときそういった善悪の判断をしたか、悪だと思ったことが 自分にどんな影響を与えたかを見直していきます。ひょっとすると悪のおかげで 磨かれ成長したかも知れませんね。また、過去の悪に囚われて居ることに気付く かも知れません。  再度今の時点で、その当時の悪を見直す作業をしていくと、いづれ人間の感覚 の善悪を突き抜けていくことができるのでは無いかと思っています。  まだまだ、この境地には至りませんが(^^;。 悪の捉え方一つとっても色々違うんだな〜って感じています。 でも、それって面白いと思いません? これからもよろしくお願いしますね。(^^) では、また。                    まるにちょん、○ゝ