天使が「あなた方は形にこだわるより本質を大事にしなさい」 - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/03/04 - 00667/00672 VFD07310 NORI 無気力 ( 5) 96/03/03 14:16 コメント数:2 生きていたって、いいことなんてあるんだろうか? 今は、生きる理由を見つけるためにとりあえず生きてる。 でも、死んでしまうのも悪くはないかな? つまんないなあ。でも死ぬと迷惑かけちゃうし。 楽しもうと努力する気にもなっていない。 こういう暗い話は書かない方がいい? そんなことないよね?                               NORI 00668/00672 VFD07310 NORI RE:無気力 ( 5) 96/03/03 22:57 00667へのコメント コメント数:1 さっきまで落ち込んでたのが、なんか直っちゃった。 なんでか知らないけど直っちゃった。 なにも解決してないからまたいつああなっちゃうか分からないけどね。 とりあえず明日早いので乱文で失礼します。 心配させてしまった方ごめんなさい。                              NORI 00670/00672 JAG04260 満天星 RE:無気力 ( 5) 96/03/03 23:17 00668へのコメント  ぜんぜん心配なんかしとらん!  しかし さう短時間のうちに ころころと気分が変はるのはよくない!  暗い話を書きたまへ (^^; 00669/00672 JAG04260 満天星 RE:無気力 ( 5) 96/03/03 23:02 00667へのコメント  #667 NORI どの  はじめましてでござる  拙者は NORIどのや ねずみどの−−唐突なやうぢゃが でも  さうでもないのでござるよ−−の 書込みが 大好きでござるよ  まへに 書かれた 「なんだか知らないが 嬉しいことがあって ヒミ  ツ」といふのなんか 殊にようござった (ちゃんと ろぐは どこ  かに保存してあるぞよ 「ばしゅけ」といふのもあったのぅ)  難点を挙げれば NORIどのがお姫さま (女の子) でないといふこ  とぢゃな −− 単に わしにとってどうかといふことを言うてをるだ  けぢゃがの (^^;  ところで おぬしの疑問ぢゃが その問ひに対する答へはない  正確にはないわけでもないが まあ 生きてゐると良いこともあるが  しかし 悪いこともまたある  もっと正確に言ふと 良いことはある かもしれない が 悪いことは  必ずある! −− 「生きてゐればよいことが必ずある」といふのは嘘  であり 「悪いことがないかもしれない」といふのは誤りである  生きる理由は見つからないはうが良い  見つかったとか言ふときは どうせろくでもない理由ぢゃからのぅ >> 楽しもうと努力する気にもなっていない。  こりゃ ぜんぜん間違ってをるのぅ  楽しむことは 努力してするものではない  (しかし 人を楽しませるためには 大変な努力が必要なのぢゃ)  とりあへず 努力はせぬことぢゃ  わしのやうに 怠けるだけ怠けて 始終ぼぉーっとして生きるのがよ  いのぢゃ (あーるぴぃぢぃでもして (^^; )  そして とにかく 暗い話をできるだけ多く このふぉーらむ 会議  室や そのほかのところにも 書込んでくれたまへ  わしなど 人の暗い気持ちを食らうて それによって楽しみを得て生  きてをるやうなものぢゃからのぅ  暗い話は賢者の食物ぢゃよ ふっふっふっ (←バカ)                              ぢいや 00671/00672 QWB02723 まゆみ 私の極論(笑) ( 5) 96/03/04 00:12 死んでしまうのも悪くはないと思う  死ぬっていうのも一度は経験してみたいじゃん?  でも、それは一番最後の楽しみ  今は生きてるんだ  死んだらもう出来ないこと 言えないこと あるだろ?  君はあと残り何年かしか生きられないってワケじゃないんだ  ゆっくり 長い時間(とき)をかけても  それに挑戦しよう  何事も挑戦だぁ!!(笑) ・QWB02723@niftyserve.or.jp まゆみ・ - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 96/03/04 - 00817/00817 MHA01114 シュメ−ル 回顧95 雑2 (12) 96/03/04 01:12  3月3日、岩手は再び雪景色の朝。庭の木々に雪がうっすらとかかっていま す。純白な大地。    城山三郎著「落日燃ゆ」(新潮社)を昨夜読んだ。  大東亜戦争において唯一死刑を求刑された文官である広田弘毅の伝記小説で ある。内容そのものも目的だったが、むしろそこで出典としてあげてある資料 リストが目当てで昨日買い求めた本だった。資料に基づいているとはいえ、基 本的には小説であるはずで、歴史を正確に把握する際にはウエイトを置くべき 本とはいえないだろうと言うのが読むにあたっての私の考えだった。  以下、一読後の感想を書いてみたい。  役割、あるいは運命とでもいえるものを背負って生まれてきているもの達は その運命を自らが選ぶことになる契約の言葉をもっているのではないか。自ら が望まぬものを自らの意志によって選ぶとき、我々はそれを運命、若しくは天 命として受容する。その受容を触媒するものが契約の言葉である。広田さんの 場合、この契約の言葉は、「背広」であったように思う。少なくとも、著者の 城山さんはそれを多少意識してこの伝記を執筆している印象を受けた。  導入部分において、城山さんは印象的な一節を書いている。 「広田は背広のよく似合う男であった。 「意外なことに、広田さんは洋服にやかましく、寸法取りや仮縫いにも、細か く注文をつけた。若いとき、ロンドンに居られたせいもあろうが」 と、部下の一人はいう。  おしゃれというより、外交官としての役目上、そうすべきだと広田は考えた のであろう。  ただ、広田をよく知る人にまで「意外なことに」とことわらせたのは、広田 がおよそ服装などには無頓着な茫洋とした人柄であり、片田舎の小学校長とで もいった木訥な風貌の持ち主であったからである。  広田は、平凡な背広がみについた男であった。軍服も、モーニングも、大礼 服も、タキシードも似合わなかった。広田もまた、着るのをきらった。」 (前掲書p8) この文章は、東京裁判で絞首刑を宣告された7人のA級戦犯のうち、唯ひとり の文官であり、皇族、貴族でもなかった広田を象徴するものであることに気付 く読者は多いはずだろう。私は、文章技巧として巧いなとおもいつつ、怪訝で あった。というのは、城山さんの伝記的小説作成上の挿話であれば、単に、 「広田は背広が似合う男であった。」程度とそれをうらづける周囲の談話をあ げればいいだけである。ところが、ここにおいてはそれを越えて広田が背広に だけは昔から奇妙な執着をもっていた様子が読み取れ、奇異な印象が私には自 分でも意外なほど残っていた。  この文章が実は重要な伏線であることに後半気付かされる。2・26事件の 後の困難で、生命の危険を覚悟しなければならない首相指名を広田が受けるか どうかのいわば物語のクライマックス部分を引用しておく。 「 新首相の臨むべき事態は、それほど困難を予想させた。  事件そのものは一応鎮圧されたが、不穏な空気は消えていない。新首相にと っては、よほどの政治手腕と、それにもまして、覚悟が必要であった。  近衛に逃げられた重臣達は鳩首協議した。軍部は、右翼的な平沼き一郎や、 あるいは末次正信海軍大将の起用を望んでいた。  だが、その期待を裏切って、重臣達が選らんだのは、広田であった。ー中略 ー  事件より1週間、3月4日の真夜中のこと。(*あれ、明日だ。今気が付い た。)世間話にでも来たのかと思った吉田の口から思いがけぬ用向きを聞かさ れ、広田は黙り込んだ。  瞑目したまま、しばらく考えた後、広田は「お受けする気はない」といった。 「自分には、そうした力があるとは思えないし、内政で腕を振るった経験もな い。自分は外交官として、一生を終えるつもりでいる。それに、政治的なこと は得意ではない」  吉田は極力説得したが、広田は首を縦に振らない。  このため吉田は、次の朝、近衛の邸へ三人が集まり話し合うことにした。広 田は吉田と組んで近衛の出馬を求めるつもりで出かけたが、吉田は近衛につい て広田説得にかかった。特に近衛は、何としてでも広田に引き受けさせようと、 熱心に説いた。  その熱意に打たれながらも広田が、他に適任者がいると、軍人の名をあげに かかると、吉田が手を振って遮り、意外な言い方をした。 「だれか背広を着たやつがいいというんだな。ちょっと形式論理だが」 広田は虚をつかれた思いで、吉田の言葉を繰り返した。 「背広を着たやつ、、、、、、、、」 「そう。軍人や軍人に類するやつはだめだというんだ」 背広を着たやつー 広田はその言葉を、何度も口の中で繰り返した。 吉田一流の言い方で、うまくしてやられそうな気もするが、近衛の居る前であ り、吉田の創作とは思えない。元老か重臣のだれかの言葉であろう。  それは、広田の心を動かした。 ー中略ー  こうして正午近くになって、広田は大命をお引き受けする旨、近衛達に伝え た。」 (前掲書p166ー168) (書きながら気になって確認したら、奇しくも1936年、3月5日、今から 丁度60年まえのことであった。) 城山さんは広田が決意する心境を幾つかあげている。出典状況を確認しなけれ ばならないところだが、この場面に遭遇して、伝記導入部に抱いた奇妙な疑問 が一挙に解決した思いだった。「背広」、これが広田にとっては契約の言葉、 招命の言葉だったに違いないという直感が確信のように私におとずれた。広田 の生涯の比較的初期において、広田は、何等かのきっかけによって、背広がか れにとって運命的な言葉であるという印象をもっていたのではないか。これに は上記以外の根拠はない。単なる妄想なのであるが、もう少し、想像を進めれ ば、時期は1895年の三国干渉以後の数年間ではないか。根拠は城山さんの 本、15ー16ページである。中学4年の広田は三国干渉における日本外交の 敗北に衝撃を受け、既に市役所に提出していた陸軍士官学校の入学願書を取り 下げ、外交官をめざし一高への進学を志している。中学卒業と同時に、広田は 名前を丈太郎から弘毅と改めている。「外交官として生きようとする自分自身 にその姿勢をいいきかすための改名であった。親のつけてくれた丈太郎という 名を捨てるのは、孝行息子の広田としては辛いことであったが、それ以上に、 広田は思いつめていた。」(前掲書p16)と、城山さんは書いているが、こ の改名もわたしは怪訝な印象を持った。どうも1895年、今からおよそ10 0年前の頃、広田には自分の将来・運命を示唆するなにか特異な経験を持った のではないか。たとえば、夢。そしてその時、彼は、自分にとって「背広」が 重要な言葉になるとの印象を持ったのではなかったろうか。想像をたくましく させてもらえば、「汝、背広を着るものたれ」といった夢の中での言葉。(と ここまで書いて、気になって調べてみると、広田は1878年、2月14日生 まれである。今からおよそ120年前に生まれている。)調べてみると、3月 4日は小正月であるが、広田の故郷、北九州の一部にはこの日を新年の始まり とする古くからの伝承が残っているらしい。1936年、3月4日古き習わし における年初めの日、広田は、40年前に告げられた彼の招命の言葉、「背広 を着るもの」を唐突に、吉田の口から聞いたのだ。彼はもう彼の宿命の呼び掛 けに答えるしかなかったろう。  こうみてくると、広田の生涯には神秘的な符号が多いことに確信さえわいて きてしまう。そもそも、彼の両親は、貧しい石屋、古くからの象徴的職業であ る。石屋を継ぐはずだった彼が中学に進学するきっかけになったのは、水鏡神 社の南の鳥居の額に彼の書いた「天満宮」という字であった。そして、彼を導 き、指導した先輩や同僚はある日突然その役割を終えたかのようにそれぞれが 早すぎる死を迎えてしまう。そして、母、息子、妻の自死。  広田は生涯3つの名前を持った。3つめは、彼の妻が自害した後に、二人分 の戒名を作ってもらったためである。妻の自殺は広田が既に死を覚悟している のを察し、夫に後顧の憂いを残させないためのもであった。なぜ彼が絞首刑に なったのか、この本を読んでわかった気がした。  彼の信念は、自らを計らずというものだったが、彼の死は、厳密にいえば彼 の計らいでななかったが、しかし、彼は大東亜戦争の責任を自ら背負うことを 選択したのだ。広田は法廷において一切の弁明をしなかった。それだけではく、 「自分は無罪である」という法廷における形式的発言さえも拒否して弁護人を 困らせた。恐らく、死は彼の密かな願いになっていったに違いない。そしてそ れは、連合軍が望む「背広」組責任者代表としての役割を彼が引き受けること でもあった。18才前後での招命以来、広田は、「背広を着るもの」としての 宿命を最後まで背負ったのではなかったろうか。    広田の絞首刑の評決は6対5であった。オランダ代表検事は「文官政府は軍 部に対しほとんど無力であった」とし、広田の無罪を主張し、フランス代表判 事は「そこに一人の主要な発起人があり、その者が一切の訴追を免れているこ とで、本件の被告は、その共犯者としてしか考えられることはできない」とし、 天皇の戦争責任を訴えた。広田が結果的に誰を守っていたのかは広田自身にも 予測されていたことだろう。     城山さんのこの本は、いってみれば、戦後の日本がもってきた戦争観を代表 するものであった。端的にいえば、軍部の暴走である。これはこれで一面の真 理ではあろう。しかし、50年を経て、様々な資料が公開されたいま、城山さ んはどのような戦争理解をしているのだろうか。  当初の予想以上にこの本は大東亜戦争そのものとそれが戦後国民にどう了解 されてきたかについての知見を与えてくれた。  たとえば広田の弁護を誠心誠意全うし、そのために裁判長ウエッブと衝突し 弁護人の地位を追われてしまった米国弁護士スミスの行動には敬服させられた。 引用しよう。 「(*スミスは)裁判が終わった後も、なお広田の運命を見守り続け、このと き、他の弁護人達に働きかけ、アメリカ連邦裁判所に訴願を起こした。   極東裁判は、最高司令官に支配され、最高司令官は、合衆国の命令系統下に ある。にもかかわらず、最高司令官は、アメリカにおける立方や司法の手続き をとらず、裁判所条例を設け、新しい犯罪を規定して、刑を宣告した。これは、 アメリカ憲法に違反するーという訴えである。そして、この不当な裁判から、 広田ら被告を人身保護法によって救済せよ、と願い出たのである。  最高裁判所は、この訴願を5対4で受理し、審査に入った。合衆国軍人であ るマッカーサーとしては、処刑を延期せざるをえなくなった。」 (前掲書p370) 「アメリカの連邦最高裁判所は、スミス弁護人等による訴願を却下した。極東 裁判は、連合国による裁判であり、アメリカの最高裁には審査する権限がない という予想された理由からであった。  だが、ダグラス判事の意見は違っていた。  ダグラスは、極東裁判が合衆国から最高司令官へとつながる命令系統の中に あることを認め、それだけに、「司法裁判所として開廷したのではなく、単な る政治権力の機関にすぎない」とし、そこで行われているのは「戦争遂行の一 部」であり「敵の戦力を弱体化するための敵対行為の強化」である。そのゆえ に、連邦最高裁とは無関係の問題としたもので、極東裁判の政治的性格を明確 にした意見であった。」 (p373) 卓見というか、言論、正義には国籍も国境もない、という思いを強くする。  このところ、戦争に関するものを数冊読んだが、その際に、そこに登場する 人物達の気配みたいなものを読みながら感じることがある。特にもこちらが感 動した相手などの場合である。ところが、今回、不思議だったのは、広田さん の気配が全くきれいさっぱり感じられないことだった。自問自答によれば、広 田さんの魂は一片の未練も恨みもなくこの世を離れてしまっているからとの印 象が返ってきた。彼は、淡々と、誠実に、根気強く、「広田弘毅」という「背 広」を身にまとい、そこによせくる運命を裁ききってしまったのかもしれない。 とすれば、「軍部の被告達が、戦争は相手の挑発により、また自衛のためやむ を得ず起こったと主張しようとするのに対し、広田は、<たとえ自衛戦にせよ、 戦争を正当化することはできない。自分には戦争を防止し得なかった責任があ る>」(p338)として刑を受容したのであったが、この広田が残していっ た重い課題、そもそも戦争という最悪の事態の発生を防止することが人間の知 恵であり責任なのだという実に単純でかつ困難な課題はすでに彼の課題である を止め、我々の課題として存在していることを意味するに違いない。