焚き火のパチパチ爆ぜる音、夜が更けてゆき夜露に草が濡れる - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/03/05 - 07022/07027 QZA02327 ノロガメ RE:乱反射をもう一度 ( 7) 96/03/04 22:31 07019へのコメント MAKOTOさん、今日は。 いつMAKOTOさんからRESが届くかを待っていました。 質問内容も予想していた通りでした。 >今現在、ノロガメさんは生きることを楽しんでいますか。 MAKOTOさんは、生きるということをどのように捉えているのでしょうね。 ノロガメは生きるということは、使命、責任を果たすこととして捉えています。 ですから、生きることは楽しいものではなく、しんどいものです。 できることなら、何も考えずにのんびりしたい気持ちです。 しかしのんびりしていたのでは、生活が成り立って行きません。 一生懸命働いてお金を儲けてよい暮らしをしたい、そういうことではないでしょう か。 生きることについて、一杯書きたいことがありますが、それを書き出すとノロガメ の吹聴が始まり出すので、すこしだけアップします。 横綱の貴ノ花は人気がありますね。 しかし本人は日ごろの鍛練を怠るとたちまちその結果が表れます。 横綱の地位を守るためには、気を抜くことが出来ず、生きることがしんどいものに なると思います。 プロ意識と言うものは、日々の生活は努力の積み重ねであると思います。 ノロガメは普通のサラリーマンですが、サラリーマンであっても、自分の職業にプ ロ意識をもって結果を如何に出すかを心掛けています。 やはり自己確立を果たせば、仕事に対する認識がただ単に金儲けのための仕事では なく、使命感、責任感と言うものが重視され、そしてプロ意識が芽生え、しんどい ながらもその結果を観るのが楽しい物になって来ます。 例えば、ノロガメがパソ通を初めて一年余りですが、始めは独白者として非難の的 になり、(今でも変わりないようで)SUKE議長さんにもいろいろご迷惑をおか けしたものです。 しかし善し悪しは別として、ここまで書き込みを続けて来た道程はしんどいもので ありました。 そのしんどい目をして得たものに、ある種の親しみをもてる人々がいると言うこと です。 指摘に屈して逃げたしていたら、今得ているものは何も無かったことになります。 生きるという事は、特に努力して生きるということは、生きること事態はしんどい ものでああっても、そこから生まれる結果となるものは、とても素晴らしいものだ と思います。 MAKOTOさんにとっては、ノロガメは反面教師で気になる存在のようですが、 ノロガメとしては、MAKOTOさんのRESは楽しみの一つであり、それは多い に反面教師ブリを発揮出来るから、ナ~ンチャッテ 失礼。 まあ〜いいじゃないですか、思うことを何でもアップして下さい、お互いに反射し あおうではないですか。 ではではノロガメでした。まる 07023/07027 HGE02116 MAKOTO これで最後にします(長文注意) ( 7) 96/03/05 00:19 07019へのコメント コメント数:1 #7091 >ノロガメさん、RESありがとう。あらら、私からRESを付けるの を待っていたんですか? 中断する直前、次のRESは貴方の番だったんです よ。私の方も、どんなRESがつくのか待ってたんですが…(^^;)  以下は、貴方からのRESを読む前に書いたものです。RES次第では、内 容を書き直すつもりでしたが、どうやらその必要はないようです。まことに失 礼ながら、そのままアップしたいと思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− > 今現在ノロガメさんは、生きることを楽しんでいらっしゃいますか?  こんな質問をする気になったのは、「乱反射」の事を考えていたからなんだ よな。このさい、私がどう感じているのかはひとまず横に置いておいて、当人 が「今」に満足してるかどうかを聞いてみたいと思ったんだ。  他人の事を見ている時も、何事かに対処する時も、私は「私」と言う名前の フィルターを通して判断し、解釈し、考えてる。そして私は、これこそが「乱 反射」の原因だと思ってる。  魂の領域というか、存在の深い部分では、命はみんな繋がっているのかも知 れない。でも、あらわれ方は違う。同じものは一つとしてない。まるで同じ考 え方をしている人はいない。どんなに似ていても、やっぱりどこかが違う。  そして、私は「私」ってフィルターを通して考える。それしかできないから なんだけど、かなりの部分で、自分はこうだから相手もこうなんだっていう思 い込みで、いろんな事を判断してると思う。そして私は、他人と自分は違うっ て思ってはいるけど、それは、「違う」って意味が「わかっている」と思い込 んでるだけなんだ思う。  本当に違うことがわかってるんだったら、そんな筈はないって、焦ってみた り、情けなく思う必要はない。それは違うって、むきになって反発する必要も ない。でも、どうしてもそれをやっちゃうんだよね(^^;)  で、必要以上に感 情的になってみたり、へ理屈こねてみたり、八つ当たりしてみたり… これっ て、相手も同じ反応をすると無意識に思い込んでるからこそおきる現象だと思 うよ。そして、この思い込みこそが「乱反射」を生む原因なんだと思う。  私はね、「乱反射」って、個々が異なっている事からきている宿命のような ものだと思う。で、私は、それをちゃんと自覚した上で、それを越えて向き合 っていけるようになれるといいなって思う。      *       *       *        * ここからは、ノロガメさんへ  ノロガメさん、もしもどこかに、貴方とまるで同じ経験をしてきた人がいた としても、貴方とまるで同じ考え方をする人間はできあがらないと思います。 同じものを見ても、同じ事を体験しても、得るものはみんな違います。それが 人が個々に分かたれている意味だと思います。ノロガメさん、私は、誰もが貴 方と同じ結論に達する必要は無いと思うんです。ですが貴方は、それを求め続 けている…  ねぇノロガメさん、貴方は他人にも、貴方と同じ結論に達する事を求め続け ていらっしゃるけど、もしもここに、貴方とまるで同じ事を言う人がいたとし たなら、貴方はそれを受け入れる事ができるのでしょうか。ここでの一連のや り取りを拝見していますと、十中八九「私のそれは、貴方のそれとは違うのだ」 と、いつもの調子の「吹聴」が始まるように思えます。  貴方が心の底から望んでいる事は、いったいなんなのでしょう。貴方の「吹 聴」は、他の誰かに向けてのものではなく、他ならぬ貴方自身を納得させる為 のものなのではありませんか。  私に対して文章で答えていただく必要はありません。ただ、私としては、一 度じっくりと考えてみてはいただきたいように思います。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  以上です。いただいたRESは予想通りのものでした。どうやら「乱反射」 の意味も、貴方と私では大いに異なっているようです。乱反射の中に、相手の 何がうつりこんでいるかを想像してみても、何も始まりません。自分の何がう つりこんでいるのかが重要なのです。私はこのように捉えています。でも、貴 方にとってはそうではない… それはそれでいいのでしょうね。捉えようは人 それぞれなのだから。  ただ、今の私は、貴方にRESを付ける必要を感じません。貴方は生身の「 人間」を見ようとはしない。貴方が必要としているのは話しをする切っ掛け。 反応してくれるなら、誰でもいいのではないかしら。これは、相手をしてみて も、貴方の「吹聴」を促す結果しか生まない事から、私が感じとっていること です。  今でも私は、ノロガメさんの事をとても興味深い存在だと思っています。そ して、私には貴方の意見の全てを否定する気持ちはありません。ですが、ここ らが潮時のようです。まことに勝手ながら、私からのRESはこれで最後とさ せていただきます。ノロガメさん、長らくありがとうこざいました。                              MAKOTO 07027/07027 QZA02327 ノロガメ RE:これで最後にします(長文注意) ( 7) 96/03/05 12:48 07023へのコメント MAKOTOさん、今日は。 あらら、勘違いしていたのか、失礼しました。 MAKOTOさんのご指摘となる内容は、ノロガメには認識していないと言うこと でありますが、結果がそのように反射しているのであれば致し方ないと言うしか無 いですね。 MAKOTOさんのご指摘に反して、最近ノロガメの書き込みに共鳴していただけ るメールが届きました。 人それぞれです、気が変わりましたら又お付き合いください。 ノロガメは何とも思っていませんので、 最後に一言、人それぞれですが、人の心は皆同じであると言いたいですね。 生きることに一生懸命になる心、人を愛する心、親しみ合う心、相手の存在を認め 合う心、心には何の差別も無いはずです。 あなたはあなたのフイルターで何を観ようが勝手ですが、あなたの心もノロガメの 心も何一つ差別化される要素は無い、あなたはわたしであり、わたしはあなたなの です。みんな神の分身と捉えているのはノロガメだけでは無いと思いますが。 それでは、ご機嫌ようさようならと言っても、お互いいつも見つめ合っているので すね。 ノロガメでした。まる - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/03/05 - 04340/04343 GGA02514 KAZE RE:般若心経に思うこと(2) (13) 96/03/04 15:09 04331へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 》原始仏典には、ある意味、 》釈尊ご本人の生の教えが記録されていると考えてられておりますが、 》特に「無明」「老死」「苦集滅道」らの概念は、 》仏教教理の根本とも言うべきものです。 》つまり、これら無くしては仏教は語れない。(^^)キホンデス ぼくも最初に仏教について考えるようになったころ、 そうした「教理の根本」に魅力を感じ、 またそこに辛気くささも感じたのを覚えています^^;。 ぼくは、もともと老子が好きで、その「無為自然」って感じや、 TAO的な自然学やらのほうが、ハイパーな感じがして好きでした(^^)。 もちろん、そのころは、ほとんど仏教やTAOを感覚としてとらえてただけで あまり深くとらえていたとは言いがたかったわけなのですが・・・。 》ところが大胆にも、 》般若心経では、これらの概念さえ“無!”と否定します。 》ここに、般若心経の持つ“深い意味”が在るように思うんです。 そうですね、そこが魅力だし、重要なポイントだとぼくも考えてます。 もしそうした観点がなければ、仏教はただただ、「諸行無常」で「諸法無我」だから はやく「涅槃寂静」しなくちゃあ!をうすっぺらく説いたものにすぎなくて そこからは、どうしても一方通行の「解脱」が出てきてしまうんですよね^^;。 でも、般若心経さえも誤解してしまう仏教徒のほうが多いようで、 方や、「俗」を否定する輩あり、 方や、色即是空空即是色だからと色欲世俗欲に走る輩あり、なわけで、 もうそうなったら、経の内容がどうのこうのは無意味になってしまいます。 》「在る」と「無い」、 》この一見 対立しているような概念も、 》どちらかが正しく、どちらかが誤りであるというものではなく、 》どちらも正しく、また どちらも誤りである。 》…なんだか言葉遊びのように思われるかも知れませんが、 》教理の解釈にも弁証法的な展開があるという事を考えさせられるような、 》そうした契機を、般若心経は自分に与えてくれたように思いました。 「無」が意味を持つのは「有」に対してであって、 また「有」が意味を持つのは「無」に対してなんですよね。 ですから、「有」と「無」が相補的な概念であるということと その両者がダイナミックに相互規定しているというとらえ方が重要なんだと思います。 それと、さらに重要なのは、そうしたことを平面的にとらえるのではなく 「霊的な現われ」としての次元の相違ということを表現するために この「無」や「有」や、さらには「空」といった概念が 使われているのだということをとらえたほうがいいのではないかと ぼくは考えています。 そういう意味では、般若心経を解説する、いやさらに補うのに もっとも説明能力のあるのが、シュタイナーの神秘学だとも。 どうも、仏教の教理というのは、「わかる人にしかわからない」って類で どうも閉鎖的な感じがしてしょうがないんですよね^^;。 そこらへんについても、ご説明できればいいのですが、 ものぐさなぼくのことですから、機会があれば、ということで・・・。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04341/04343 GGA02514 KAZE RE:風釈般若心経 Ver.1 (13) 96/03/04 15:09 04334へのコメント ジョリーさん、どうも。 「ぶっ飛んでしまった」ようですけど^^;、 こういうのも、ありがたそうな宗教イメージが嫌いで、 極めて不遜なぼくのようなタイプだからこその試みって感じです。 ま、ジョリーさんも、この際、「般若心経」を 好きに料理されてみると、それなりの発見があるかもしれませんよ。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04342/04343 GGA02514 KAZE RE:風釈般若心経 Ver.1 (13) 96/03/04 15:09 04335へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 素晴らしいと言ってくださって、少し安心してます^^;。 「なんじゃこりゃ!」って、反応だったらどうしよう・・・なんて 少しは危惧してたのですが、少しは楽しんでいただけたようですね。 音としての表現ももう少し工夫できたらと思ったのですが、 残念ながら、そうしようとすると内容が伝わらなくなってしまうので、 あの程度の表現に留まってしまいましたが、 そのうち、もう少し工夫してみたいなとも思ってます。 》『たかが窓、されど窓』って感じでしょうか。 はい、そういう感じです(^^)。 せかっくの窓なのだから、それなりに活用しなくちゃね。 でも、それはそれなりに、その限界面への認識をちゃんと持ちながら、 さらに、それを越えた観点も模索してかなくちゃって感じです。 そうそう、こうした譬喩は、プラトンの洞窟の譬喩に近いものですが、 もちろん、その一方通行的な見方の罠に陥らないようにというわけです。 》ミイラ盗りがミイラになってしまわないよう留意しなくては…^^;)。 はい、「解脱」というのが「この世否定」になってしまったり、 「無我」というのが「死んだら終わり」の「唯物論」になってしなうというのが 「ミイラ盗りがミイラになってしま」うってことですよね。 そうなってしまわないためにも、きちんと霊学的に 色即是空即是色などをダイナミックにとらえる試みというのは、 まさに現代においては必須のものではないかと思います。 今は、かつての時代とは状況が違っていると思いますので、 現代でも、そうした経を単に「ありがたいもの」として受け取るだけでは つまんないし、むしろ危険なことだと思うんですよね。 》》   宇宙潮流に乗る者よ 》》   常にその潮流とともにあれ! 》 》この表現は、まさにKAZEさんだなぁ…って感じがしました。(^^) この最後のフレーズは、かなり安易にエンディングをこじつけたもので^^;、 なんか、大団円風の表現をと思ってこうしたものです。 なんか、すこしやりすぎって感じもしますけど、 般若心経もけっこう言いたい放題言ってる感じもしたので、 こういうのもありかなっていうことで・・・^^;。 これも、また、無信仰・無宗教者の戯言ですから、ご容赦を。 》今回の『風釈般若心経 Ver.1』、プリントアウトして 》机の前に貼らせていただきました。 》感動しています。 ううむ、そこまでしていただくと、 もうちょっと真面目に書くべきだったなあと、むしろ少し反省してます^^;。 そのうち、もうちょっと洗練させ、内容を充実させたバージョンを つくってみたいと思いますので、ご期待ください。 では、みのる♪さんヴァージョンも期待してます(^^)。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04343/04343 GGA02514 KAZE 風遊戯84●恋心の思い出に (13) 96/03/04 15:10 なぜ心ひかれるのか わからぬままに心乱れ 伝えることの恐さににまた乱れ 秘めたるものの重荷に拉がれゆく 春は春 夏は夏 秋は秋とて 冬はまた冬 焦がれ焦がし 浮きまた沈み 苛立ち駆け回り 時を追い追われ 今という局所の果てしなさ なぜと問いその問いに惑い 答えぬまま答えられぬままに 心の秘密を気取られぬように また伝えたく焦り 宙づりのままに思い果てなし ☆☆☆by KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/03/05 - 03757/03758 PAG03134 はな 遠離一切天道 (14) 96/03/04 21:11  『稲妻、雄叫び、凱旋…遠離一切天道、起死回生…矢をつがえよ。』  本来の般若心経では「遠離一切転倒」のはず。それがアリオンのハ ローでは「遠離一切天道」になっています。この点について以前EXさ んが、壁に疑問を書かれていたのを覚えています。  今回は「遠離一切天道」について、私の感じたことを書きます。  「天道」とは「お天道」さまにみられるように「太陽」を意味した り、「天地を支配する神」という意味があります。  遠離一切天道とは、「天地を支配する神から離れよ」ということで しょうか。  私は、アリオンはその通り「神から離れよ」と言っていると思いま す。  え?本当に?と思われるかも知れませんね。神から離れていいの? と。  私が感じたのは、「人間が生み出した神(=科学信仰)から離れよ」 と解釈しています。  根拠は、アリオンが説明する「新しい神」についての記述によりま す。関連部分を「カミ・コメ・ツチ・ヒト」から抜粋します。  『「科学」という新しい神の前に「カミ」は、   為す術もなく沈黙していたかに見えた終戦当時の日本の姿は、   人々に「ムラ」を捨て「カミ」を捨てることの良心の痛みを   忘れさせるいい口実になった。』  『「新しい神」である「科学」に頼りすぎた結果、   「新しい魔」である公害が発生したのだった。』  『西洋的な考えである「新しい神」は自然と共存することは教えない』  『「新しい神−−科学」のご託宣は、もっと稼ぐこと、もっと消費   することだから、   いちいち情念的な人間関係の駆け引きを考えてはおれない。』               (カミ・コメ・ツチ・ヒト P152-154)  「遠離一切天道」とは、人間が作り出した、西洋から輸入された科 学という新しい神から離れることを意味しているようです。                       はな - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/03/05 - 00553/00554 QZY01310 苗(miao) RE:「悪」を見る (15) 96/03/05 08:36 00546へのコメント  こんにちわ まるにちょんさん。  本当に解り難い話しをしてしまいました。私がもっと解り易い良い語り方をすれば  違う理解の仕方もあるかも知れませんが、いかんせん、言葉足らずですいません。  仰っている事は概ね私の言っている事と同じです。言葉の表現が違うだけで同じ事  を言っていると思います。誰もが自分で判断をする場合専ら過去の経験がモノを言  う事が多いし、また経験から語る語り口には実感が伴い共感も呼び易いと思います。  それが例えば何処かから集めた知識の集合体では何処まで行っても他人のフンドシ  で相撲ですから言葉は上滑りをし説得力に欠けると思います。  私の言っている事は実際丁度良い言葉が見つからなくて、それでも何とか言い表し  ただろうニュアンスに近い所に「空」という言葉が在ったので使った訳です。恐ら  くまるにちょんさんが武道の部屋で考えておられる近目の遠目?ですか?、この表  現に丁度釣り合う事を私は話してきました。  物事を見るのには近すぎても遠すぎてもダメだと思うのです。でも、取りあえずは  物事を「見る」という事をしなければ何も始まりませんし判断も出来ません。これ  がまず一番の事です。それから見た後で「どう見えたか」という判断に続きます。  そしてその判断を「どう結果」に繋いでいくのか、という事が上げられます。これ  はまた連続で次々に行われます。見る→見え方→判断→見る→見え方→判断→繰り  返し。そしてその一瞬一瞬に自己の有り体がある訳です。  判断は一つの行動に結びつく事もあるし、その判断が次の判断の材料にもなります。  この判断を下す事が瞬時にしかも同時に複数の判断材料から導かれる事を私は書い  ている訳です。  そもそもの最初に話したのは右足と左足という事でした。自分の身体は全体で自己  を表現しています。だから左だけとか右だけでは自分という一つの偏った表現でし  かありません。人間全体の自分は同時に右でも左でもある訳です。その右でも左で  も在る自分が足の片方を嫌いだろうと好きだろうとやっぱり自分なのです。  その自分を見るという事の立脚点は常に自己の中(言い替えれば心ですか)にあり  ますが、同時に右の足にも左の足にもある訳です。それぞれが自分なのですから。  しかも、それぞれに言い分がある訳です。(つまり善悪の話しをしている訳です)  所が良く考えてみれば、身体全体を通して自分を見れば、いずれ身体は死を迎え、  その次には身体は消えて灰になってしまいます。これでは判断に次ぐ判断をした自  己は一体何処に行ってしまったのか、それが一つの問題なのです。心が自分だった  のか、それとも身体が自分だったのか。第一自分は何で一体何処にあるのか。これ  が「空」という所に立脚点を置くという事の疑問の答なんです。  実は空を理解しようとすれば一つの疑問に当たります。例えばこの世の中が全く何  も無いいわゆる「無」の世界で、その中から縁在って諸々の出来事が生まれ、その  生まれた出来事に縁があってこの世界に自分が居るとしましょうか。その無からの  色々は偶然ではなく縁という必然に依って自分と接していると説くのが仏教の縁起  というものです。その縁起に由縁して自分の身体も在る訳ですが、そもそも基から  何も無いというなら、自分が悪い事だとか良くないと判断をする事をどんどんして  も別に構わないではないか、という結果に結びつく事があります。そもそも自分の  身体だって明日には灰になり、それで全部が終わるなら別にどんな事をしても誰に  構う事も無いという虚無感です。  しかし、それではおかしいと思うのです。そもそも自分がここに居るという事は、  とてつも無く凄くて素晴らしくて偉大な事ではないかと思うからです。例えば人の  誕生の瞬間というのは精子と卵子が結合する時点で数万という精子が熾烈な戦いの  末に自分のDNAを卵子に結合させる事でも、或いは生まれた時から既に生死の危  険に常にさらされながらも生き抜いたという事でも、また、その身体の内部では常  に細胞一つ取っても古いモノと新しいモノが絶妙なコントロールで交代していると  いう事でも、ミクロコスモスという表現が出来る位に凄い事だと思うのです。その  身体に今自分が居るという縁の不思議さが結局「畏敬」だとか「畏怖」だとかと言  う感情を生み出す事に通じると思います。そして、その感情はこの世の中を絶対的  なバランスで組み立てる「何かの意志」とか「絶対的秩序」という事にいつか思い  至らざるを得ないと思うのです。  その表現を誰かが神と言い、誰かが哲学と言い、誰かが陰陽と表現したと思うので  す。  ただ、善悪をして、或いは自分を良くみるという事は見えているようで本当に見て  いるかは疑問です。そこには他人に厳しく自己に甘いという流れ易さが同居するか  らです。本当に自分を見るとは同時に自分を捨てるという事なんです。自分を捨て  る行為は一見投げやりに見えますが、本当に自分を正確に見ようと思ったら捨てな  ければ見えません。これを私は「空」に立脚点を置くと表現した訳です。私はそう  してまだまだ大した事は解らないですが、その解らないなりに自己を見たとき本当  は「自分が」取るに足らない人間に過ぎない事を実感するのです。善悪に関わる自  己の判断の乏しさだとか、考え方の未熟さだとかに本当にアホだなぁ、と思うので  す。そうしてまた同時にこの取るに足らない自分が縁在ってここに存在するという  不思議さに驚き、心の内側からその縁の素晴らしさだとかありがたさをしみじみと  感じるのです。  善悪という対比は恐らく永遠に無くなる事の無い課題だと思います。善が大きく成  長すれば同時に悪も同じだけ成長し、それは永遠に続く。丁度右足が成長したら左  だけが前と同じで成長しないと言う事は無いと思うからです。実際摂理というもの  はその形は違えど本質の様なものは変わらないのではないかと思います。ほんとう  にそう思います。  そうして悪という事を見て行くならば、悪はその絶対的摂理に対抗する、或いは拮  抗する事だと思います。それは上記で言うなら神への抵抗であり秩序への妨害であ  ると言う事だと思います。しかし、それも一つは全体を見るという作業への必要不  可欠の要素として重要なものなのだと思います。そもそも「悪」という概念の無い  ところに「善」というものも無いし、善悪の対比の無い所に縁は生まれないと思う  からです。善も悪もそれぞれに自己の一つの表現形態であり、その対比から個々の  個性は生じ、生じた個性から他者と自己の対比も生じるのだと思います。人は1人  きりです。他者には代わる事の出来ないものです。生まれた時からたった1人なん  です。だからこそ1人1人が大事なのです。  今地球を一つの船に見るならば、難破しそうになった沈没寸前の船なのでしょう。  そうしてその船の未来を決定するのもわたしたち乗組員1人1人のあり方に掛かっ  ている、その1人の心が全体の心を呼び覚まし、そうして船がまた荒波をくぐって  行けるように、「秩序」はじっと待っているのでしょう。 > 善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。 > 悪抱き参らせたまえ  そうして私はこの言葉に自分をしっかり重ね合わせていく事が一番大事なのだと、  思うのです。傍観者は必要在りません。当事者だけが日月神示の言葉を真に理解出  来るものなんだと思います。 *~゚ miao qigong * wushu taiji quan shixiong ゚~* 00550/00554 KHC01313 まるにちょん ○ゝ詩魂<泥の塊に蓮華の咲く…> (15) 96/03/05 01:32 コメント数:1  自分は泥の塊だ。  どろどろねばねばした欲望や弱さ、卑怯さ、逃避にまみれている。  泥のなかで、何を外に表すかも知らない、そうしようともしない。  ただ、生温い泥のなかで、擬似的な子宮のなかで惰眠をむさぼっていた。    泥の塊が揺すぶられた。  起きよと。  私は、もがき始める  出ることは、できない。泥は心地良すぎた。  外側から、もう一人の仮の私が、泥の塊を壊そうとするが、ぬめぬめ滑って  できない。  本当に、この泥の塊から出るには、  泥を栄養として、発芽するしかないのだ。  蓮の花のように、泥を養分として、すっくと泥の上に伸びるしかない。  私は、蓮の様になろうと思う。  泥に埋まって腐臭を放つも、華麗な花を咲かすのも、泥の塊にいる自分次第…  泥の塊に蓮華の咲く  泥にまみれ、泥に染まぬ、一輪の白い蓮華…  憧憬、否、  自らの在る由を、蓮華と開こう    泥の塊に蓮華の咲く…白き一輪の蓮華  やがて実を結び、時を待つ                                  ○ゝ 00551/00554 KHC01313 まるにちょん 悪の効用<ヤクザ編> (15) 96/03/05 01:33   さて、「悪の効用」について書いてみたいと思います。   多分に他の方々と捉え方が違いますので、反感を買うことを承知の上で持論を  書いて見たいと思います。ヤクザや暴力団を賛美することが目的ではないことを  予めお断りしておきますね。   世に言うところのヤクザ或いは暴力団は、社会的「悪」として忌み嫌われ排除  されるべきものとされています。   確かに暴力的な恫喝による恭順の強要、恐喝による金銭的要求、覚醒剤や拳銃  の密売など、一般市民に対する害悪の親玉みたいな存在です。      僕はこのヤクザに興味をもっていて、「悪」として結構面白い存在だと思って  います。   それでヤクザ、暴力団の存在価値を考えてみました。   例を挙げてみましょう。  <地上げ>   地上げには、ヤクザが必ずと言っていいほど絡んできます。   戦後の高度経済成長期には、多くの住宅開発や道路建設が行われましたが、急  激な発展には、無理が付きものです。開発反対を押さえ込むのにヤクザが活躍し  たと聞きます。反対するもの、値をつり上げてなかなか売買に応じない者に、時  にお金で、時に恫喝で押さえ込んで、土地の売買を促進させ、早期に開発を進め  る役割をしたのがヤクザです。     このことから、土地の売買の促進、開発の早期着工、それによる経済効果に寄  与していると言えますね。   バブルの時もヤクザは暗躍したようですが、この時は土地よりも値段のキャッ  チボールが続いただけのことが多かったので、実際の都市開発対する寄与率は低  いものだと思います。  <暴 力>   某神戸市の山○組の初代組長は、非道な人間であったと聞きますが、彼は神戸  市民が、外国人によって危険にさらされたとき、身を張って守ったと聞きます。   警察は見て見ぬ振りの時に、果敢に戦ったと聞きます。   今でも、神戸市民は警察よりも、山○組の方があてにできると思っているフシ  があるように感じます。(失敬、これは冗談です(^^;)   暴力のみが命を助けるとき、悪は他の命を守ったと言うことですね。   貿易港として栄えている某神戸は、外国のマフィアが入って来そうなものです  が、山○組がにらみを利かせているので、おおっぴらには活動しに難いと推察し  ています。   悪で悪を抑えていると言えますね。   (既に外国マフィアとの”住み分け”が出来ていて、縄張りで揉めることはな   いのかもしれませんが(^^;)  今までのは余談みたいなものです。ここからが僕の言いたかった本題です。  <反面教師>   よくヤクザみたいになるなと言われまね。   ヤクザは、悪いことの博物館的存在ですから、よく彼らのすることを見て、人  間の弱さとか、どうしようのなさとか、人間の闇の部分を学ぶといいでしょう。   反面教師とはよく言ったものですね。   人間として、これだけはわすれちゃいけないことが、8つあって、まあ、仁、   義、礼、智、忠、信、孝、悌のことですが、これを忘れるから、ヤクザのこと  を「忘八者」と呼ぶんだそうで、ヤクザの忘八ぶりを見て、ああなっちゃいけな  いと学ぶんですね。   悪が悪をとことん演じることによって、逆説的に善を浮かび上がらせて来るん  ですね。闇が深ければ深いほど、一転の光も輝きが大きく見えるものです。   人間はなにも表面的には問題なく日々が流れているときは、あまり問題点を認  識できないことがあるようで(特に僕の場合は)、こんなとき「悪」の存在は刺  激を与え、闇のエネルギーによって逆に問題点を浮き上がらせたりします。   例え、他人に対する悪を新聞で見たとしても、我がことのように捉えれば、悪  をうまく利用できるかもしれません。   これは悪の効用の中でも結構重要だと思います。   では、また。 反発が恐い…(^^;           まるにちょん、○ゝ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/03/05 - 835/836 QZY01267 猫の手 天文学、物理学の限界? (19) 96/03/05 07:15  1980年頃、  多くの物理学者、天文学者は 「宇宙の神秘が理論的に明らかにされるときは近い。」  そう思ってた。  宇宙の初めには『ビックバン』があった。  その仮説はもっともらしく、  ローマの法王にまでもそれがあったことを認めさせた。  ところがその後、  5年経ち、10年経って、  今まで知られざる宇宙の情報明らかになるにつれて、  それまでの仮説に合わない現象が観測されて  物理学、天文学は、  混迷の、そのまた混迷に落ち込んだ。  未だに多くの人々  『ビックバン』説を信じ込み、  それが天文学上の一つの仮説でしかなかったことを忘れていても、  天文学の観測家達は  毎日毎日それに対して否定的な観測結果を提供してくれる。  新しい観測結果に合わせるために  インフレーションモデル考えついたりしたけれど、  それでも収められない銀河の世界。    紀元前4世紀のアリストテレス以来20世紀に渡って  ヨーロッパの科学者の間では「天動説」が常識だった。  ところが、金星、火星の軌道の説明がつかず、  複雑な様々な計算式を用いても説明つかず、  そこにコペルニクスが現れて  ガリレオが死を賭して一石、投じた。  その当時の世界観からでは地球はあまりに大きくて、  地球の円周を4万kmと観測していた者が居たにもかかわらず、  2万8千Kmと云う数字を信じて  コロンブスは今のアメリカ大陸に行き着いて  そこをインドと思い込む。    今、最先端の科学は  パラダイムシフトを必要としてる。  コペルニクスがプトレマイオス天文学に  新しい眼鏡が必要と感じたように。  確認された宇宙の矛盾の前に  それらを整合させ得る世界観が現れる。  それは始めもなければ終わりもない宇宙観、  物質に寄らない世界への入り口で  広大な宇宙へ旅立つための宇宙地図、  あまりにもそれは  今までの常識とかけ離れてい過ぎて  それを言い始める者は  ガリレオ的な決心必要でしょう。  そしてそれも初めの内は  その割り出される数字を信じることできなくて  測定結果に修正加え、  過小評価する事もあるでしょう。    言うまでもなく、  今、世の中は総ての面でパラダイムシフトを必要としてる。  今までの世界観に囚われていたなら  今直面している  世界規模での行き詰まりに  解決策はないこと  ホントはみんな知っている。  にもかかわらず、  今までの価値観捨てたくないし、  今までの権利、主張していたいし、  今まで通り生きていられるのが一番良いと思ってる。  本当にそうなのかどうかは  別の問題だけど、  新しいことには恐怖が走る。  今まで通りと云うことに囚われている限り  目の前にパラダイムシフトの波が押し寄せて来ようとも  その波に飲まれて揉まれて苦しむこととなるでしょう。  一体それがどんな波になるのかは  この私も言うことできない。  一体それがどんな風に現れるかは  この私も分からない。  一体それがどんな波になるのかは  その波来てみなければ分からない。  その波どんな波であろうとも  波には乗ってしまうこと大切でしょう。  その最初の一歩は  マゼランのような大航海かもしれないし、  それは駿河の湾にやってくる黒船かもしれないし、  突然白昼に起こる大波乱かもしれないヨ。    つかみどころのないこの宇宙  一つの理論で解釈できるかと思いきや、  それに収まらないもの現れて  更に奥の深さを思い知らせてくれる。  きっと、新しく顕れる  その世界観さえも  絶対的なモノとはなり得ないかもしれないよ。  やっぱりその先にも矛盾があって、  また新たなパラダイムシフト  必要とするとき訪れる。  この宇宙はそう簡単に  その全容を顕しちゃあくれないでしょう。         ** QZY01267/『猫の手』 <96/03/03 23:25:13> **