「従って他人の経験(ヌクモリ)にあたるだけなので暖まらない」と天使 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/03/08 - 00763/00773 CQE04277 九印 音が聞こえるのは… ( 6) 96/03/06 21:10 コメント数:1 >焚き火のパチパチ爆ぜる音、夜が更けてゆき夜露に草が濡れる  ということは、もしかして、まだ誰も話をしていないという事態???  「本質」という言葉に捕われているのか?!>焚き火民                    CQE04277 九印 00764/00773 HGE02116 MAKOTO RE:音が聞こえるのは… ( 6) 96/03/06 21:13 00763へのコメント #763>九印さん  同感です。  シーンと静まり返ってるって感じだね。  さっきまでの威勢のよさはどうした(^"^;>焚火の民                MAKOTO でした☆ 00765/00773 JCF02051 めのう ここ数日のHM ( 6) 96/03/06 23:21 コメント数:1 》そう言われた焚き火の民は躊躇しながらも「形式ばってます?」 》「まぁ、そんなに肩肘張らずに楽しくやろう」と別の焚き火の民 》天使が「あなた方は形にこだわるより本質を大事にしなさい」 》焚き火のパチパチ爆ぜる音、夜が更けてゆき夜露に草が濡れる  意外と早く天使が口を挟んだなーと思いました。  もうしばらく焚き火の民達が話すに任せるかと思ったら。  このままじゃ埒があかないと思ったのかしら(^^;   》焚き火のパチパチ爆ぜる音、夜が更けてゆき夜露に草が濡れる  すっかり忘れていましたが、ずっと夜だったんですねー(^^;  凍えさんは震えたままかな。  1日1行の進行だと、数日出てこないだけで「ご無沙汰」な感じがします。  (パソ通的時間感覚かも(^^;) 》「新しい袋に古いものを納めていたがこれを世にだそう」と天使    これ、すんごく気になりました。  「新しい袋」と「古いもの」の意味するところは何だろう?  世に出したらどうなるのかな?                           ◆◆ めのう ◆◆ 00770/00773 HGB03731 二木 聡 RE:間に合うかな(^^;) ( 6) 96/03/07 20:17 00768へのコメント MAKOTOさん  オンラインにて失礼いたします。  かつて、FMISTY時代のARIONの会議室(世紀末書き込み寺)で  他人の発言を勝手に変えて(編集とか転用とか)モメにモメた事があります。  私はその当事者ではなかったのですが、それ以後  「人の発言」を扱う時には注意を払うことにしています。  と、言うわけで、お手数をおかけしました。  今から、行ってきまーす。(^o^)                                   二木 聡 00772/00773 KFQ02761 しまうま ハローメッセージ96年1月分(訂正版) ( 6) 96/03/08 09:42 00756へのコメント  #00756でアップしたハローメッセージの日付ですが、2月21日と22日で 同じハローメッセージが続いていたのを見逃したために、それ以後の日付が1 日ずれていました。お手数ですが、22日以降のメッセージを以下のものと置 き換えてくださいませm(__)m。  96/02/22 「でも、あなたの柴は無い。だからいつまでも凍えている」と天使  96/02/23 身体を震わせながら凍える人は「もう少し火が大きかったら…」  96/02/24 その時、新しく柴を抱えた民が「こんばんわ」と焚き火の傍に来た  96/02/25 「柴を集めた経緯などについて話をしなさい」と天使は言った  96/02/26 焚き火の民達は口々に「皆さん話しましょう!」と言い合った  96/02/27 「天使さんもどうぞ」と焚き火の民は微笑みながら天使を見た  96/02/28 「私に構わずあなた方のしたいようにしなさい」と天使は言った  96/02/29 焚き火の民は一瞬鼻白んだ顔をしたが「では私から」と言った  うーん、超ケアレスミス。以後気をつけます(^^;。 しまうま(KFQ02761) 00773/00773 KFQ02761 しまうま 形式ばった話 ( 6) 96/03/08 09:42  このところのHMについて……。  僕は、「形式ばった話し方」や「みんなで口々に『皆さん話しましょう!』 と言い合って話すこと」を嫌うっていうのも、また「肩肘張らずに楽しくやる」 ことを好むのも、形式に拘泥する姿の一面のように感じてしまいました(^^;ウーン、 ヒネクレモノ。  「皆さん話しましょう!」という雰囲気の中ではじめて出てくる話というの もあるだろうし、形式ばった話し方でしか自分の心情を語れない人もいるかも しれない。真剣に話すとついつい肩肘張っちゃう人だっているだろう。  もちろん、その逆の人もいるだろうけど。  オウム事件だの統一協会(教会、だっけ?)だのと、まがい物の宗教による 犯罪行為が続いている当世の風潮としては、「みんなで○○しよう」「そうし ようそうしよう」的なノリに対して警戒心を抱くのは、至極健全な態度である と、一方では思います。  あと、第2次世界大戦でも「一億総員火の玉だ」で負けちゃったし。  でも、「みんなで心を合わせて一致団結」と言うのを闇雲に厭う風潮という のも、決してあるべき姿ではないよーな気がします。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/03/08 - 07031/07040 PXP02610 修羅 僕が思う『人間的』 ( 7) 96/03/07 00:00 07014へのコメント コメント数:1  #7014 SUKEさん   毎度の鋭い突っ込み、ありがとうございます(^ー^)ニヤ   まず、最初に言うならば僕は『至らない』=『人間的』とは考えていま  せん。なぜならば至らないという言葉は、本人の努力、配慮が足りない時  にいう言葉であると考えているからなんだけどね。   僕がいう人間的とは感情の表れや、ちょっとした仕草なんかのことでし  た(^。^)   さてさて・・・・   物事をなんでも完璧にこなしてしまう人間がいたとします(仮にAさん  としましょう)。   最初は、このAさんを皆が重宝することでしょう。間違いは絶対になく  おまけに、処理が早い。まるでマシーンのような人間。   日が経つにつれ、人々はAさんが本当に自分たちと同じく赤い血が流れ  ているのか、不気味に感じ出すと思います。何故なら、Aさんは完璧すぎ  るから。   ・・・・ここでAさんがポカをやったとしましょう。周りは一様にホッとす  るでしょうね。Aだって間違えるんだという安堵感。改めて、Aさんは周  りに受け入れられることになるでしょう。   ミスをすることが人間的だとは僕は言わないけれども(これはあくまで  例だしね)、完璧すぎる人間に対して、人は警戒心を抱くようですね。   SUKEさんは、あまりにも完璧に仕事ができる人が周りにいたら、息苦し  くなりませんか? 僕だったらなると思う。   何故かと考えると、無言のうちにプレッシャーを感じているのではない  かと思うんです。   個々の能力には限界があります。その限界を超えて努力をしようと人は  頑張ると思うんだよね。   自分が懸命に努力していることを軽々とこなす人間が近くにいたら、人  は少なからず嫉妬すると思う。あの能力を持っているのが、どうして自分  じゃなくて他人なんだという風に。   こんな時に自分の持っている相手に対するイメージを越えたことを相手  がやると、不思議と嫉妬も無くなるんだよね。   SUKEさんの言い方だと、自分が至らないところまで自分の中の相手のイ  メージも引きずり落としたいという感じだよね? 自分を信用してないか  ら、きっと人はそう感じるんだろうと・・・・ チガウカナ?(^_^;ゞ   僕はこういった事を、他人が自分をどう見ているかのバロメーターにし  ているよ(^ー^)ニヤ   で、逆になぜそう思われてしまったのかを考えるんだわ(^_^;ゞ  そう  すると自分の中で『自然』になっていることが、相手にとっては『不自然』  だったりすることに気がつくんだよ。 >そういえば、「あんたは馬鹿やらないから信用できない」なんて言うような >話も聞きます(僕が言われたのではないけど)。   僕は、昔よく言われましたねぇ(゚-゚)トオイメ                                修羅☆ 07037/07040 NBB01420 SUKE 完璧な人への警戒心 ( 7) 96/03/08 00:24 07031へのコメント #7031 修羅君、こんばんは。 Aさんの話、分かります。 人間的って言うことは、つまり人間らしいと言うことなんですね(^^;) 逆に言えば、機械みたいな異質な存在じゃない、と言うことでしょうか。 それは決して「ミス」=「人間的」と言うような短絡じゃないんですね。 そして、どうも同類を見出した時の安心感と言うのは、何故かありますね。 他人が自分をどう見ているかって、確かに自分の粗を見出したときの相手の言 動には如実に現れるんでしょうね(^^;) これは職場などでも気が付きます。で、やはりそれを結構楽しんでしまったり します。ああ、この人はこういう風に思う人なんだなぁって(^^;) そして、その人の人柄が一つ分かったような気がして、嬉しかったりします。               === 修羅君は甘えについてある程度しっかりした感覚を持っているのでしょうね。 修羅君はこの話については既に自分なりのものを持って生きているような気が します。だから、ここからの話は分かりきったつまらない話かもしれないです が(^^;) 以下、修羅君宛レスというよりも、一般的な事として書いてみたいと思います。 (ああ、だんだん話がそれて行くぅ…) 「完璧な人への警戒心」と言うのは、人間として必ず当たり前に起こるものな のでしょうか? 私はこの警戒心は人間の自然な反応では無いような気がするのです。 完璧な人はこちらの甘えを許してくれるかどうか分からない、と見えるでしょ う。だからこそ警戒してしまう。つまり、警戒心の奥底には他人への甘え心が 隠れているのではないかと思うのです。 我侭を言いたい人、自分が不安な人、そういう心境の人は他人も同じであるか どうか気になるでしょう。同じであれば自分も我侭言えるし、不安も皆と共有 できる。もし同じでなければその自分を正当化できない訳です。 一方、完璧な相手と言うものは、その人間の器が見えない訳で、確かに未知な るものへの警戒心が起こるかも知れませんね。で、相手が何か失敗したりする と、その器の限界が垣間み得るので安心したりする。 しかし相手の器の大きさがどうであっても、実はそれは自分には関係ないこと で、自分の存立に関する何事も変化は無い筈です。それなのに安心するのはど うしてなのか。 やはり、相手を自分と同レベルに見ることで安心しようとしているのではない か、と言う疑いがあります。 皆で低レベルに合わせて、警戒心を解き合い、仲良く見えるけれども実際には 誰もが自分を一段落として見せているだけ、そんな人間関係と言うのは、何処 と無く不安定で、閉鎖的で、結局自らを伸ばそうとするのを互いに引き留め合っ てしまう。 「完璧な人への警戒心」を当たり前の事として受け入れてしまうと、いつしか 「他のみんなだってこうなんだから、いいじゃないか」と自己正当化に走って しまいやしないか…それでいいのかぁっ!?と言う感じがあるんですね(^^;)                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 07032/07040 NBB01420 SUKE 取り合えず否定すること ( 7) 96/03/07 01:44 07021へのコメント コメント数:1 #7021 中尾 かたるさん、こんばんは。 >> まあ、これは、頭の中でそう感じているというだけですから、それ程心配も >> していません。 あはは(^^;)中尾さんらしいなぁと思いました。 結局、中尾さんの言われるような意味での自信の無さって言うのは、案外誰に でもあることなのかもしれませんね。 >> 自分を認めたり存在を確認したりするときに、簡単な方法があります。とりあ >> えず自分以外の人の意見や行動や存在を否定することで、自分を確認するとい >> う方法です。結構こういう人は多いんですけど、大抵はこういうタイプの人っ >> て自己表現の下手な人です。 この部分、これは「自己表現の上手い下手」では片付けきらない問題が隠れて いると思います。 この話は特に若く優秀な世代に多いと言われることですが、自己の存在価値を 脅かされるのを極端に恐れ、他人が興味深い意見を出すと、取り合えずそれを 否定することで自分の存在価値を示そうとするんですね。 わかりにくいかも知れませんが、これは学会などでもよくある風潮です。 しかしこれは、新しい動きに対して自分の可能性を閉じてしまう方向性なんで す。新しい学説が出たときに、「慎重に」と言う名目で否定点ばかりを探して しまうと言うのがそれです。 本当は「細かい所に問題は残るが、全体にはその方向でやってみよう」と言う 姿勢で新しい物事に手を付けて行かないとならないはずですね。 ですから、取り合えず否定する人と言うのは実は、自分の存在価値に固執する 余り、逆に自らの可能性を閉ざしてしまっている、最悪な問題を抱えているの だと言えるでしょう。 この話をはじめて聞いた時ははっとしました。 そしてそれから仕事のやり方が大分変わったと思います。                         (^^)…☆ッテナモンダ Suke. 07040/07040 KFQ02761 しまうま 本番 ( 7) 96/03/08 10:36  おおっ、ここで発言するのめちゃめちゃ久しぶりですなー(と一人で感慨に ふけりつつ)。今年が「本番」であるということの意味について、ちょっと思 うところがあったので書かせていただきますm(__)m。  今年が「本番」とゆーことは、言い換えれば今までは「リハーサル」みたい なものだったんじゃなかろうか。リハーサルにおいては、舞台監督みたいな人 が、役者一人一人に演技指導をしたり、「そこはそうじゃないだろー」などと 具体的な指摘をしたりする。このフォーラムで言えば、舞台監督はARION だろう。  ARIONがニフティに登場したばかりの頃は、いろんな質問に対して懇切 丁寧に答えてくれていた。あれは「リハーサルに入る前の打ち合わせ」みたい なものだったんじゃないかと思う。「まずは役者たちとの意志の疎通のパイプ をしっかり確保する」という目的のために、フレンドリーかつフランクに話し てくれていたような気がする(それだけが目的じゃないだろうけど)。  で、徐々にARIONの発言数は減っていった。リハーサルに入ったわけだ。 ARIONは、役者たちの自由な解釈に(ある程度)まかせて、舞台がどうい うものになりそうか見当をつけつつ、自分の「演技」をよりよいものにしよう という意志のある人、あるいはあまりにもひどい、芝居そのものをめちゃくち ゃにしてしまいそうな人に対してのみ、コメントしていたのかもしれない。  そして、ときどき「舞台全体」についての総評や、意味深な示唆を提示する。 それが「ここに集うものへ」とかいうようなメッセージになっていたんだと思 う。  昨年末、一時期ARIONからの積極的なコメントが連発されたが、あれは 本番に向けての最終調整みたいなものだったのではなかろうか。  そうして、いよいよ「本番」の年。ARIONの発言は、今までにもまして 少なくなるのかもしれない。もしARION(すなわち舞台監督)が、大いに 口出しをしなければならないような事態になったとしたら……それは「本番」 の舞台上であってはならないことだと思う。だからって「失敗は許されないの だ」という緊張でガチガチになるのも、本番の舞台としてふさわしくないけど。  いや、そもそも本番には「失敗」も「成功」もないんだと思う。なぜなら、 本番は1度きりだ。舞台上で役者が不意にすっ転んだり、台詞を忘れてパニッ クになったりしたとしても、観客から見ればそれは「芝居」のワンシーンに過 ぎない。「本来あるべき筋書き」を、観客も、舞台上の役者も知らないのだか ら、どれが失敗でどれが成功か、というのは一概には言えない。  ただ、舞台上で自分が精一杯の力を発揮しようとしなければ(力を発揮でき るコンディションに自分をもっていくことができなければ)、本番が終わった あとに、後悔が残るだろう。この「本番」には、第2回の公演の予定がないの だから、やり直しはきかない。  ARIONが考えている「舞台」は、FARIONのことではないし、ニフティの ことでもないだろう。たぶん、僕たちが接する「世界」そのもののことだ。  心地よい緊張感と、地に足のついた高揚感と、研ぎ澄まされた落ち着き。  そーゆーものにはまだほど遠いけど(^^;、もう本番は始まっている。ごちゃ ごちゃ頭の中だけで理屈をこね回しとる暇はない。せめて、こね回した理屈を 声なり言葉なり行動なりに表さないと、舞台上には何も反映されない(かと言 って、観客からブーイングが出るような理屈をこね続けるのもどうかと思うが)。  『観客』とは何なのか、観客がいるのかどうか、というあたりはよくわから ない。今度は神様たちが観客なのかもしれないし、あるいは「世界」そのもの が観客なのかもしれない。役者たち自身が観客も兼ねているのかもしれない。  よーわからん。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 96/03/08 - 01375/01381 SDI00635 みれ RE:愛と癒し ( 8) 96/03/06 16:01 01374へのコメント コメント数:2  #01374 めのう さん  面白そうなテーマなので、ちょいコメね(^_^)  実は、こんなこと言うと顰蹙ものかも知れないけど、私は「癒し」という 語が気持ち悪くてならないんですよ(^^;) 同様に「慰め」も。  この二つの語が「愛」と共に並んでたりすると、もう「くぉのぉ偽善!」 とかの過激な反応が私の心の中に生まれてしまうのです。なんなんだ、これ は…とか思いつつも、精神世界コーナーとか呼ばれる書店のコーナーには、 この気色の悪い言葉の組み合わせが本のタイトルになってたりするので、私 は‘見て見ぬふり’を決め込んでソソクサと立ち去るのでした(笑)  めのうさんの「愛」から感じる気恥ずかしさとは別かも知れないけど、私 もこうした「言葉」の並びから苦悩(大袈裟な(笑))を感じている一人と してコメントを書かざるを得ないのであります(^-^;)  それにしても、そもそも「愛」は名目にされるものでも無ければ、目的に されるのもオカシイし、、、だから「愛による癒し」などと書いてしまうと もうそれだけで身体中がかゆくなるような、居心地の悪さを感じるのは当た り前の様な気がするんだけど>私  ちょっとここんとこの無理が祟って、今日は熱が少し出ているせいで推敲 抜きの文章も平気で書けちゃう、この気楽さ(笑) ・:*:・みれ・:・。,★ 01378/01381 GBG02043 維/YUI RE^2:愛と癒し ( 8) 96/03/07 01:24 01375へのコメント コメント数:1 おひさびさです >みれさん みれさんが気色の悪い言葉の組み合わせと感じる、”愛による癒し”に はまっていた者として…(^^;): はまっている間は、けっして気付かなかったんだな。とりあえずその時 満たされていなかった心が、そういうノリの本を読むと、まるであたかも 自分が誰かに分かってもらえているような気がして、元気がでてきて… となる。 けれど、一種の中毒みたいなもんで、本質が変わるんじゃ ないから、周期的にドンヨリした気分になる。「本当はこんなはずじゃ ないのよ…。本当はもっと楽しいはずなの…。」ってつぶやきながら。 で、次の本やら、以前読んだ本を読んで、また元気をとりもどす…。 あのたぐいの本などに書かれているのは、それをどうしても愛って 言葉を使って表すなら、「愛に飢えた人が一時的に甘え、よりかかり、 (運が良ければ、自分で歩むことを見いだせるかもしれないけれど、) たいていは、その”愛”の泥沼から抜けられなくなるワザ、について」 または、そのワザそのもの。 本当にその人が直面して解決しなければならないことから、目をそらす 絶好の機会となりうる内容もあると思ってる。 実際のところ、私は愛って何?と聞かれたら、今は言葉にできない。 以前は、結構ぺらぺらと並べ立てる言葉が出てきたけれど、めのう さんの今回の書き込みを読んでいて、何も言えないことに気がついた。 ちょっとはずれるけど… 名目って、表向きの名前や理由って意味なんだね。 愛が、そんなもんだったら大変だわ。 けれど、どうしても世の中で言われる愛って、癒しや慰めってのと 一括りにしているように感じる。 精神世界というか、ニュ−エイジというかの関連の文献って、妙に 甘ったるい。 やさしさに飢えている時代とか言われるけど、巷には ”やさしい”男の子が山ほどいるし、やさしさをどこもかしこも アッピ−ルしているじゃないか。 なあなあな慰めや、雲をつかんでいるような癒しより、生身の人同士の まっすぐなぶつかり合い(喧嘩ってことじゃなくて、付き合い方のこと なんだけど)が欲しいんじゃないの?と思うことしばしば。 ワリコメでした。 維/YUI ps:おだいじに 01381/01381 JCF02051 めのう RE^3:愛と癒し ( 8) 96/03/07 20:49 01378へのコメント  #1378 維/YUIさん 私も「愛って何?」と聞かれたら答えられません(^^; ただ、ムシのいいことや甘えまで「愛」と名付けてノープロブレムにして しまうのは堪え難いものがあります。                         ◆◆ めのう ◆◆ 01379/01381 JCF02051 めのう RE^2:愛と癒し ( 8) 96/03/07 20:49 01375へのコメント  #1375 みれさん  熱は大丈夫でしょうか?   私も実は気色悪くてかなわんのです(^^;>癒しとか慰めとか ここらへんの感覚は多分みれさんと似てるんじゃないかと思います。 本屋の精神世界コーナーってワンダーゾーンですよね〜(笑) 「愛・癒し」系の本は一般の新刊コーナーにも台頭してきましたね。 最近よく見かけるようになりました。 私なんかはタイトル見ただけで「うげげ(^"^;」と思いますが、世の中には そんなに癒されたい人が多いのかな? 女性誌の特集によくある「恋愛でキレイになる」とか「運命の赤い糸は必ず ある」とかいうのもなんだかなー(^"^; 「キレイじゃないとダメ」「恋愛してないとダメ」みたいな、強迫観念の ようなものを感じて、ちとコワイです。                         ◆◆ めのう ◆◆ 01376/01381 CQE04277 九印 RE:恋愛テーマRT第二回、その考察(笑) ( 8) 96/03/06 21:10 01373へのコメント # 01373 KURO さん: > 異性に対するもの以外でも、同性の恋愛も最近増えてるのでなかなか  「最近」増えたものではないような気もしますが・・・。  江戸時代だって、衆道があったわけで。  昔だったら、もし同性に恋愛感情を抱いてしまったと気付いた場合、  「これは錯覚に違いない」と思い込んで、閉じこめてしまったんじゃ  ないかと思うんですよ。  だから今は、自分で感情を抑制する力がなくなったというか(笑)  自分を全てアピールすることが出来る時代になったというか。  「世間体」と「個人」の価値観が逆転したと言えるかもしれない。          どうしよう、真面目モードだ オロオロ  CQE04277 九印 - FARION MES(10):夢鏡/幻紀行 ★ 夢解釈/カスタネダ研 96/03/08 - 01172/01172 JCF03344 よしと 癒しの夢 (10) 96/03/07 22:12 前の発言で昔見た夢のことを書いていたら、何となく思い出した夢。 高校2年の時、母を交通事故で亡くしました。突然の出来事でした。 それからしばらくしてこんな夢を見ました。 いつもよく出掛ける街中を歩いていると、向こうから母が歩いてくる。 私は嬉しさでいっぱいになる。母はいつもの母の姿をしている。 二人が近づいた時、母が話しかける。「後のことは心配しないでいいから。 大丈夫だね。」私はただ「うん、うん」とうなずく。そして二人はすれ違って 行く。 何とも言いようがない幸せな気持ちで目が覚めました。 精神的には立ち直っていたころに見た夢です。 後年、私はこの夢を勝手に「癒しの夢」と名付けることになる。 筒井康隆の小説『夢の検閲官』ってご存じですか?あれを読んだとき私は 不覚にも泣いてしまいました。 やはり夢を語ることは自分を語ることになるのでしょうかね。 <よしと> - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/03/08 - 04351/04355 GGA02514 KAZE RE:RE^5:英語版般若心経とその日本語訳^ ^; (13) 96/03/07 11:10 04338へのコメント EXさん、どうも。 》つまり私も抵抗が無いわけではなく、いろいろありますが、とりあえ 》ず、彼が為したとされる物質化現象などについても、重要だと思うの 》は、それを聞いて我々が、何かを思い抵抗または賛同したということ 》であり、それらをひっくるめて私などは、「新奇なもの」「一時的な 》もの」ととらえるのです。 物質化現象云々は、たぶんああいうのもあるんだろうなあ、と思ってまして、 ぼくの場合、それを否定的にみているということはありません。 それに、デモンストレーションとしても有効だろうな、と(^^)。 抵抗があるというのは、そういう側面ではなくて、 サイババ詣のようなことをさせてしまうようなあの形態なわけです。 ああしたやり方は、どうもね^^;。 》物質化などは宇宙創生時に既に起こったとされており、それと同じ源、 》創造する力が常に内にあるではないかと。 物質化というのは宇宙創生時に起こったというよりも、 常に現在においても現象化し続けている霊的現象の一形態として とらえたほうがいいのではないかとぼくは考えています。 ですから、物質化現象も、その特殊形態としてとらえることができます。 もちろん、神秘学的には、物質が現在のようなあり方にまるまでの さまざまな宇宙進化を説明することはかなり詳細にできますし、 物質というのがどのような霊的な現象の一形態なのかも説明できますが、 サイババさんも、そこらへんのことを、 もっと認識的に明らかにしていく方向性をとっていったほうが 現代ではずっと必要なことだと思うんですよね。 なんだか、サイババさんのまわりに人がたくさん群れてる状況ってのは ヘタな新興宗教のインド版って感じばかりが先に立ってしまって、ね・・・。 》「そうですね。「人生論」的には、なにごともほどほどというのがある、 》みたいな意味で、頷ける面があります。または、中道、漸悟という視点も 》大切なものと考えますので。 ううん、「なにごともほどほど」っていうような人生論って この際、もう無意味じゃないかなあって感じがします^^;。 少なくとも、ぼくには、そういうのはもういいやって感じです。 もちろん、「ほどほど」っていうのは、調和でさえないような、 いわば「死んだ」状態に安住するというイメージでとらえています。 「中道」っていうのも、その本来は、「ほどほど」というのとは むしろ対極にあるような、矛盾を取り込んだ統合化ということなわけです。 》概ね、自我は自らを酔わせるものには飛びつくが、ありのままの真実、 》シンプルさは看過しがちなのだと、私はとらえます。 》本来は、自らなんら制限、制約という檻を作らなければ、自由である 》のに自らが制限、制約を作っている。 》制限制約の最たるものが「自分は肉体の限界に押し込められた限界のあ 》る、感覚、知性等を持った個人である」というものである。 》 》そしてマーヤの中での差異を価値とする側面の大きくなっている今の社会、 》そしてそこで生きる個人にとっては、まずは自我自体の矛盾を暴き出す言 》明は不気味に感じざるを得ないであろうと。 まず、自由についてですが、ぼくのとらえ方としていえば、 「なんら制限、制約という檻を作らなければ、自由」というのは違うかな、と^^;。 もちろん、「制限、制約という檻」が自由を損なうこともありますし、 「自らが制限、制約を作っている」というのがあるのは当然ですけど、 「自由」というのは、むしろ創造していく方向でとらえるほうが ずっと意味があるかなと思っているのです。 ですから、「肉体の限界に押し込められた」ということで 肉体を否定的にとらえるのではなくて、 むしろ、「なぜ肉体をもっているのか」というその意味を 積極的にとらえることこそ必要なのじゃないかな、というわけです。 もちろん、そうした視点のずっと以前といった段階で、 自我やマーヤなどに無自覚にとらわれていることに対しての アンチテーゼというのが必要であるのは言うまでもないことなのですが。 》同時に、不幸にも自我が消え去る手段や基準を提供するとされる師、グル 》なるものが真実そのものであるならば、それは法則そのものですから抗う 》べくもないとしても、もしそうでないとしたらどうしてくれるか、オウム 》真理教の例を見よという警戒心さえも引き起こすかもしれません。 》 》ここで、上記手段ならびに基準は外部の特定の個人ならび団体等に準拠 》しないこと、自らが自らの内面に見出されなければいけないことに留意 》すべきものでしょう。 そうした危険性というのは、たとえば仏教思想の展開のなかでの もっとも大きな誤解含みな「無我説」あたりにあるようですね。 「自我が消え去る手段や基準」云々といった場合の「自我」というのが わけわかんなくなったりして、あげくは、唯物論的な感じになってしまって、 「解脱のすすめ」=「自殺のすすめ」以外の何者でもなくなってしまう^^;。 それほど極端なものではないとしても、いわゆる「低次の自我」と アストラル的な中核としての「自己」、 そして、さらに高次のいわゆる「真我」といった「我」の階層的な現われと それぞれのもつ意味についての理解のない「無我説」って多いように思うんです。 ですから、本来の「無我説」のもっていたでろうことを グルイズム(=狂いズム)的なあり方で「教え」る危険性ということについて 現代ではもっと注意しなければならないようです。 おっしゃるように、 「手段ならびに基準は外部の特定の個人ならび団体等に準拠しないこと」 というのが必要のように思います。 もちろん、そこらへんのトータルな指針というのは必要なんですけどね。 》神人間対立についてどうか、について書くのではなく、あるいは、今度は 》私が主に片一方を重視する立場から何か言うのはなくて、今現在ある自己 》の核というか精髄または根本主観存在の実感に重きを置こうという趣旨で 》す。 ぼくの場合は、「神」と「人間」を対立的にとらえているというよりも、 いま、「人間」としての自分にわかる範囲のことをちゃんとしなくちゃ、 っていう発想です。 まだまだ、「真我」っていうの、実感としてなかなかわかんないですし^^;。 ですから、 》「神は人に宿り、人は自らの神的起源に目覚める。」 というのはおっしゃるとおりなのですが、 なにせ、「人」としてのお粗末さを実感している私にとっては、 そこまではまだまだなかなか困難な感じですし^^;、 「今、なぜ自分は人間やっているのか」というあたりを、 自分の足下からひとつひとつ見ていく作業がやまのようにありますので、 とりあえず「神」云々はひとまず脇に置いておこうかなという感じです。 もちろん、宇宙論としてそうしたことをビジョン化する作業は 必要なことだと思ってるんですが。 それに、やっぱり、これまでの意味のでの宗教的なあり方というのが どうにも好きになれない無信仰な自分というのも大きいでしょうね^^;。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04353/04355 GGA02514 KAZE RE:RE^2:風釈般若心経 Ver.1 (13) 96/03/07 11:53 04345へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 》KAZEさんの「霊学的にダイナミックにとらえる試み」に期待いたします。(^^) 》私にはまだまだ荷が重すぎる(よく解らない^^;)分野ですので・・・。 ううむ、霊学の基本的なところをおさえておけば、 内容的に般若心経を理解することはそう難しくはないと思うんです。 でも、肝心なのはそういうことではなくて、 実際に、それぞれがそれをどう実践的に生かしていくかというところのですので、 そこらへんのことで、いろいろお話いたいて、参考にさせていただければと思います。 絵に描いた餅ではなく、実際の餅を食べさせて!って感じでしょうか。 そういう意味では、般若心経を実践しないということは、 ただの絵に描いた餅なんですよね。 ぼくの適当に書いた「風釈般若心経」というのも、 絵に描いた稚拙な餅にしかすぎないと思っているんです^^;。 そういえば、シュタイナーの読書会をさぼりまくってますが^^;、 これまでより、もう少し表現をわかりやすくしながら、 もう少ししたら、またレジュメなどでも書いてみたいと思ってますので、 また懲りずによろしくお願いします。 「中道論」についても、これからはシュタイナー寄りにして、 また続けてみたいと思ってますので、そちらもよろしく。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04352/04355 GGA02514 KAZE 釈尊の語ったであろう話の想像^^; (13) 96/03/07 11:11 04344へのコメント コメント数:1 諏訪みのるさん、どうも。 》寒いのなんのって・・・。(^^;)ハルガ コイシイ たしかに、ここ数日、また寒さがぶりかえしてきたような・・・。 でも、ほとんどコタツだけで生活できるっていうのは、 やっぱり、ここは暖かいっていうことなのでしょうね。 ぼくは、生まれてこの方、そう寒いところで暮らしたことがないので、 ほんとうの寒さっていうのを知らないのかもしれません。 ああ、幸せ(*^^*)。 》このあたりの解釈がKAZEさんの特徴になっているのですね。 》以前は、仏教徒として純粋培養^^;)された“仏教専門家”と呼ばれる方々からは、 》こうした「霊的な現われ」にまで言及した解釈を聞く事はありませんでした。 “仏教専門家”っていうのは、いったい何なんだろうと思うんですが、 その“専門家”のなかで、葬式なんかやってる方々は、 いったい何を考えて、お経を唱えてたりするんでしょうかね^^;。 》「霊的」=「いかさま」っていう構図があったからかも知れません。 もちろん、「霊」を商売に使うイカサマ野郎というのは後を絶ちませんが、 だからといって、そういうのなしに、宗教家できるはずもないんですけどね。 「霊的な現われ」を問題にしないのは、早い話、唯物論のバリエーションですし、 そうであるとしたなら、「供養」とかいうのは、ほとんど無意味になりますし、 「供養」をするとしたら、その意味を理解しないと詐欺になります。 葬式にしても、それは本来、死者に「引導を渡す」ためにするわけで、 (生者たちの自己満足っていうのもあるでしょうが^^;) 「引導を渡す」ことのできない坊さんも、やっぱり詐欺ですよね。 で、「引導を渡す」ためには、死者が死後、どういうプロセスを辿るのか、 またそのプロセスをフォローするためには、いったいどうしたら効果的なのか等を ちゃんと把握して、それなりの方法を尽くさなければならないのは当然です。 ましてや、戒名料で設けるとか云々なんてのはもってのほか、というよりも、 「そういうのは無意味なのだよ」と生者に説くことこそ役割だと思うのです。 そうそう、今、葬式屋さんのCMなどを考えていて悩んでいるのですが^^;、 できれば、そういう儀式の意味をさりげなく匂わせることができればと いろいろ考えているところです・・・・が、やっぱり難しそうです。 》釈尊ご自身は当時、 》そうした「霊的な…」といった類の質問に対しては、 》「無言」、あるいは「さしあたって必要の無い事」として答えられたと聞きます。 》でもこれって、明らかに“否定”ではありませんよね。 》このあたりの御心中に、私は非常に興味を持っています。(^^) 釈尊の在世当時のインドの状況というのは、 かなりいい加減な転生についての考え方が半ば常識化していたようですから、 そうした転生観と混同されてしまうことを危惧した側面はあると思います。 安易に、「人間は何度も何度も転生していくのだよ」と強調しすぎますと、 「ああ、だったら、今こうして努力するのもばからしい。 今はこんなに苦しみに満ちているのだから、早めに死んで、また生まれて来よう」 なんていうふうにとらえられてしまうかもしれないわけです。 インドはそもそも永遠のガンジスの流れが・・・っていうところですからね^^;。 また、霊的なものを否定するとすれば、いわゆる唯物論ですから、 そんなことを釈尊が説くはずもない。 それに、十二縁起的な縁起観というのも転生を前提としてるところがありますし、 悪魔の話なども残ってたりしますから、 基本的に霊的な世界観を基本としてもっていたのは確かだと思います。 けれど、そういう霊的なあり方を強調してしまうと、 先にもふれたように、「この現実世界を生き抜いていこう!」というような 積極的な人生観というのは育ちにくいところがあります。 ですから、釈尊はこうおっしゃりたかったのではないでしょうか。   この世は、生老病死などの四苦八苦に満ちている。   けれど、そうした苦しみに負けてはいけないよ。   その苦しみの原因をちゃんととらえていくことができれば、   その苦しみから自由になることができるのだ。   だからその苦しみにとらわれてはならないし、   その苦しみをしっかりと見据えていかなければならない。      その苦しみを見据えていくことのなかに、   こうして生まれ死んでいくことのほんとうの意味が明らかになる。   だから、今ある苦しみから逃げるために、   死んで生まれ変わってくるなどということを考えてはいけない。      生まれ変わるとはいうが、今こうしてここにいるおまえは、   もう生まれ変わってくることはない。   おまえがもう一度生まれ変わってくるわけではないのだ。   だから、今、ここで苦しみを見据えていかなければならない。   そのことを決して忘れてはならない。   人生から逃げることは悟りから最も遠いことなのだから。      おまえがもう一度生まれ変わってくるわけではないとはいっても   ほんとうのおまえの仏性は何度も何度も生まれ変わり   その都度の人生を通じて悟りを求めていくことになる。   ただ、その仏性は、今おまえがおまえだと思いこんでいるおまえでは   決してないのだということを覚えておきなさい。      おまえがこの人生で得た宝物は、次の人生にもっていくことができる。   しかし、それをこの世の富や名誉などであると思ってはならない。   そんなものは、死とともにすべてなくなってしまうのだ。   おまえが自分だと思いこんでいるおまえも、   死とともになくなってしまうのだということを忘れてはならない。   過去、現在、未来を貫いて流れているおまえの仏性に気づき   それを育てていくことがなによりも大切なことなのだから。      いっておくが、ここで私から聞いたことを   他の者に決して話してはならない。   多くの者は、簡単にこのような話を誤解してしまうものなのだ。   今のおまえは生まれ変わらないといえば、   死んだらすべて終わりだと思いこんでしまうし、   死んでもまた生まれ変わるといえば、   今度は、この世的なものまで次の人生にもっていけると思っていまう。   だから、だれかに聞かれたら勇気を出して黙していることだ。   だれも、準備ができるまでは、誤解ばかりが先に立つのだから。      いいかね、だから、この世から逃避しないでいなさい。   この世の苦しみを見据え、そのことで苦しみ自由でありなさい。   しかし、この世に執着してはならない。   この世のすべては無常なものだ、   その無常なものにとらわれていては、永遠は得られない。   いつも永遠を見つめながら、執着から自由でありなさい。    ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/03/08 - 03760/03762 HQK00566 SOUND 炎で書いた物語」第六章(その1) (14) 96/03/07 16:46  「炎で書いた物語」第六章  「意正神」(IMAGIN)(その1)    ♪♪こがね虫はかねもちだ♪♪    幼い日、意味もわからず歌った記憶がある。    どうして、黄金虫はおかねもちなんだろう?  頭の上にクェッション・マークを乗っけて歌っていた。  成長して、その歌が実際に意味を持って現実化していく  過程をリアル・タイムで見つめることになった。  そう、イギリスの黄金虫(The Beatles)が世界を席巻したのである。    野口雨情の書いた一編の詩が、何十年もの時を経て実現してしまった。  「金蔵建てた」どころでは治まらなかった。  それまでの世界の文化を根本的に改革する起爆剤となった。                     湾岸戦争中、封じられた歌のひとつに、その黄金虫の一匹の作った「イマジン」が あった。 日本語に訳せば「想像してごらん」ということなのだろうが、 イギリスでは無理矢理、放送禁止にされた。  戦争中に「すべてのひとびとが平和に暮らしていると想像してごらん」 と歌われるのは迷惑だったのだろう。一部の戦争遂行者にとって…。  今は一応、解禁になってはいるが、 そのうちだれかにとって都合が悪くなればまた禁止になることだろう。 そのとき、この歌を封じなければならないだれかの憐れむべき意図があぶり出される。 民衆はいつまでも無知ではない。学習し、蓄積しつづけている。 そのだれかが犯してきた過ちの数々を。   「意正神」(イマジン)  正神を意(おも)うことが想像することであり、 創造すること。  古来、祈りが「意乗り」であり、心に音を乗せることは衆生の知るところだった。    ジョン・レノン(霊音)の平和の祈りは戦争遂行者の都合によって  一時的には封じることができても、くりかえされる音霊言霊はいつか実現する。  今このときにも世界のどこかでだれかがその祈りを歌い、耳にしているのだから。                    **************************************  サッカーのJFL、東芝札幌チームのニック・ネームが「コンサドーレ札幌」に決 まったという。 道産子の逆さ読み、コンサドとオーレを合わせたらしい。 逆(サッカー)読みということか。 三月三日の毎日新聞「二枚の絵」欄に 国際日本文化研究センター教授、芳賀徹氏の選んだ 小田野直武の「不忍池図」があった。その解説に 「烏か鳶のような鳥が三羽ほど、逆さハの字に翼をひろげて舞っている」 という表現があった。 「逆さハ」という見方に、思わずムムッと唸った。 いつも、ぼくは物事の全体でなくホンの一部に心を奪われてしまう。 そのとき、「Mission impossible」(スパイ大作戦)の テープの指令を受け取って聞いたような気がした。  その記事は、「逆ハのミコト」のぼくに対する指令だったのだろうか。 催促されているようだ。ぐずぐずしてはいられない。 いよいよ、逆さ読みの元祖、素盞鳴尊の残された 日本の歌道の始まりとされる「八雲の歌」の秘密に迫るときが来たらしい。 これはあまりにも難物でぼくの手には負えないのでこれまで避けてきた。 なにしろ「Mission impossible」(不可能の指令)かもしれない の だから 行きつ戻りつしてすんなりとはエンド・マークには到達できないだろうが 覚悟してしばらくおつきあい願いたい。 「やくもたつ いづも やへがき つまごみに やへがき つくる そのやへがきを」  それが次ぎのような漢字にされている。 「八雲立つ 出雲 八重垣  妻籠みに 八重垣 作る その八重垣を」 八俣大蛇退治のあと、櫛稲田媛を妻に迎えて出雲の須賀の地に 宮殿を建てたときに詠まれた歌とされているので、そのことを踏まえて考えねばなら な い。 まず、一般的な訳を見よう。 >>出雲の国の(わが家の周囲に)幾重にもめぐらした垣根を作る。 >>(その中へ)妻を住まわせるために八重垣を作るのだ。 >>その八重垣よ。  (北原保雄編、小学館、全訳古語例解辞典)  わかったようでわからない。ぼくの頭が悪いのか。ソウダ、ソウダ。  普通の人はこれで、すんなりと意味がわかるのだろうか。  どうしてそんなに垣を沢山めぐらすのだろう。  妻を盗まれないようにという用心がいい超愛妻家だったのか。 なんだか変だ。 立ち昇る雲が八重垣のように家を囲んでいる様が描かれている、とも言われているが どうもしっくりこない。表面には現れていない何かがありそうだ。     さて、では迫っていこう。  地上で詠まれた言葉だから一応逆さにする。  「をきがへやのそ るくつ きがへや にみごまつ きがへや もづい つたもくや」 漢字を交えて見やすくしよう。  「隠岐が辺 八の反る窟 気が部屋に三五待つ  氣が部屋 百舌言った目や」    どうも、うまく意味がつかめない。  前章で見た新たな世界の数        三     三五三      三    と八の開いた図を思い出していただきたい。 これが宇宙の元のエネルギー「氣」の三五の数を待つ部屋と考えれば 八の逆さハ、反(ソ)る窟(イワヤ)というのも なんとなくわかる気がする。 隠岐は島根県隠岐諸島辺り、出雲の沖合い。 隠岐の辺の窟の中で逆八の祖が三と五の世界が顕現するのを待っておられる。 そして、氣の室のありかを百舌が目や、と関西弁で言った。 百舌は「キィー、キィー」と鳴く鳥である。 「氣ー」と鳴くのである。その鳴き声で氣がすべての元であることを気付かせる。 気の室は十もしくは米の目にある。 目をモクと読むゲームに五目並べがある。 先に四三になると次ぎは五になるので勝ちになる。      三     三四三      三      この四の世界はもう五になりかけている。  こう考えると少し、意味がつかめるような気がする。    音霊で逆にするためにローマ字にする。 yakumotatu idumo yahegaki tumagomini yahegaki tukuru sono yahegakiwo   これを読み還えらせて逆さに読む。 「おいかげはよのするくちかげはいに もがむちかげはよむぢうたとむかい」  天界ではこのように聴こえるのだろう。        まだなにも見えてこないので濁りをとる。 「おいかけはよのするくちかけはいにもかむちかけはよむちうたとむかい」   これに漢字を交えて見やすくする。 「追いかけ八、代のする口かけは、意にも、神地駆け、八詠む地、 歌と向かい」  地に降りた素盞鳴尊が神の意を受け出雲の地を駆け、 開く数、八をこの歌に詠み込もうとしている情景が浮かぶ。 、 代」には男女の仲の意もあって櫛稲田媛との関係も匂い立つ。 これはこれで一応、意味が通じている。 しかし、なにか物足りない。 もっと隠されているものはないだろうか。 もう一度視点を元に戻してそのまま見る。 「八雲立つ 出雲 八重垣  妻籠みに 八重垣 作る その八重垣を」 たった三十一文字という短詩形に八重垣が三度も使われているのはいかにも不自然だ。 「八重垣」をそれほど強調することに秘密がありそうだ。 素盞鳴尊は八坂神社の祭神、八坂は弥栄。  八重垣とは「弥栄が氣」なのかも。 弥栄とはヤハウェー、ユダヤ教ではYHWHと書いて発音できないようにしてある。 その線で読めば、   「 八雲立つ出雲の地で唯一神弥栄の氣が 妻、櫛稲田媛の籠のように細胞が折り重なった身に 弥栄が中心の氣を付ける。  その八重垣を=すべての祖の弥栄の氣を」 となる。  奇稲田媛(クシイナダヒメ)様とはなんのことだろう。  この方のお名前の謎に迫ればもっと露になるものがあるかも知れない。   ぼくは見たことがないがこの方は美しい方だったとされている。 美し=宇宙奇=ウツクシ、宇宙に奇(珍しい)ほどの方だったようだ。 スサノオにかぎらず、だれにとっても妻はそうなのである。強調。 稲は稲魂、稲交(イナツルビ)=いなびかり、雷電の電。 田は回転力。雷電のかみなりの方。 媛=秘め  稲田媛とは雷電を秘めている方のことであった。 >>94/05/19 蘇る力、水と火、火と水、狭間に雷電と風の夢乗せて 風は火と水の結びによって生まれた子、スサノオだった。 そして、雷電はその妻、櫛稲田媛。 前にこのハロー・メッセージを見たとき特定できなかった媛が 今回、櫛稲田媛と特定できた。 水と火、火と水、その狭間に妻である櫛稲田媛とスサノオの夫婦の夢を乗せて  力が甦るということだった。     >>93/09/11 ★然り龍の子は姿を変え、大いなる亀の文様は読み取られる…     妻籠みの籠という字が龍からでき、姿を変えた子の文字、     「亀」は前にも触れたが、雷電から雨をとって重ねてできる文字であった。   このハロー・メッセージは櫛稲田媛を指していた。   >>94/05/09 獅子の咆哮は、北の亀にも届くだろう。麒麟は泉で渇きを癒す。        北におられる亀、櫛稲田媛とは前章をお読みいただいた方には容易に    想像がつくだろう。    その通り、アマテラさんである。    アマテラさんとスサノオさんは夫婦なのだがうまくいってなかったようだ。    スサノオさんが生長を遂げて立派にスとなってマグワイをされれば    夫婦合わせて完全なアマテラスとなって新たな時代が開くのだろう。    お二人で一体のアマテラス。一で二、二で一の不二(富士)の理。        獅子は四四。    麒麟は前章で見た中心に来るべき五の数。       癒すは一八十、「平」の字であり、一であり矢となって獅子の門を目指す子、 ス サノオ。       >> 95/05/26 一片の曇りもない意識、亀裂を超えて矢のように‥       一片の曇りもない意識、にまで生長を遂げた子(ス)は    矢となってに亀=アマテラと結ばれる。    そして、いよいよ、宇宙の原理、アマテラスが顕現する。    >>95/03/31 亀淵の幽遠の言葉は明るみに出る日を待ち望む‥麒麟の雄叫び      亀の渕のかすかで遠い言葉、とはアマテラであった。      隠されてきた真太陽「田」(AMATERASU)として明るみに出る 日を 待ち望む            麒麟=五の数が雄叫びをあげている。      ( 世、夜、代)=四が明ければ五なのだから…。            宇宙の根本原理、AMATERASUの理に人類が目覚める日は近い。             (つづく)        ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/03/08 - 00561/00566 VEG02736 山部正人 RE^4:「悪」を見る (15) 96/03/07 05:34 00556へのコメント まるにちょん さん、こんにちは。   しかしながら、人間は多くの動植物を食さないと生きてはいけませんね。 >  一人の人間が寿命を全うするまでにどれだけ多くの命が失われることでしょう。 >  これを、僕は人間の”原罪”と言うのだと思います。  これについて、一言述べさせて下さい。  ト本で有名な、アダムスキーが、言っていた事なのですが(あるUFO 本のなか で)、動植物は、人間に食べられる自己犠牲と奉仕により、その霊性を、高めて いくとありました。だから、人間は、その動植物の、無償の奉仕に、感謝しなけ ればならないと。  こう考えると、食事の前の「いただきます。」も、文字通り、動物さん、植物 さんこれから食べますよ、私達のために、奉仕してくれてどうもありがとう、と 言うことになりますね。一般的には、料理を作ってくれた人に対しての感謝とし て使うのだと思っていましたが。 >  山部正人さんの言っていることは、神の摂理である死には善も悪もないけど、 人 > 間が行う無為な殺戮は悪ではないかと言うことですよね。これなら同感です。  はい、そうです。  >  でも人間が生理的要求に関係なく、例えば遊びだけの為にハンティングするこ と > などは、どうも人間だけの特性のように思います。 >  人間が恣意的に他の生命を奪うことと、死が神の摂理であることとは根本的に 違 > っているように思います。  ちょっと、ここのところが、自分でも整理できていないのですが、想像と言う ことで、以下、述べてみます。  本質的には、人間は、神であり、神の分身、または、分霊が、物質である肉体 に、入ることにより、いろんな矛盾が生まれたのではないか、と想像するので す。この意味で言えば、人間の霊(=神の分身)が、物質世界に生まれること が、原罪ではないのだろうかと、私は、考えています。(物質世界で、肉体をま とうことなく、より高い世界で神の分身のままで居れば、良いのになあと言う意 味です。)   それで、”人間だけ”の特性を、持っていることが、つまり、動物が、他の動 物の命を奪う場合、本能から行うので、殺そうか殺すまいかと、選択に悩むこと など、ないと想像しますが、人間の場合は、「かわいそうだから、やっぱりや めようかな。」などと、殺さないことを選択することも、可能だと思うわけで す。ですから、思考する能力、創造する能力、これらを、人間が持っていること が、神の分身である、証明とも言えるのではないかと考えるわけです。 (これに付随して、人間が、自然を前にして、美しいと思い、満足感のようなも のを感じるのは、人間が、神の分身であると、仮定すると、重大な仕事=自然を 構築したことを、無事成し遂げた、充実感から来るのではないかと、想像しま す。) >  あるある(^^;、僕にもありますよ、これって。でも、良い子ちゃんに思われて や > ったことでも、結果が良いならそれでいいかって開き直りぎみですが。  そうですよね。自分では偽善っぽいかなあと迷って悩んだときでも、結果が良け ればそれでいいじゃないか人がどう思おうがと、開き直ってしまうと、あとは、 悩まなくなるときがありますね。  ところが、開き直っている自分が、その内、偽善に思えてきて、さらに開き直 り、するとそれがまた、偽善に思えてきたりして、、、。  困ったもんです。 96/03/06(水) 06:18 山部正人(VEG02736) 00565/00566 KHC01313 まるにちょん RE:RE^4:「悪」を見る (15) 96/03/08 02:13 00560へのコメント  #560 和 さん   いつもどうもです。(^_^) >> まるにちょんさんの経験、聞かせてもらって、感じたのは、多分大先輩は、まる >> にちょんさんに対して、自分の子供に対する愛と同じ様な愛をもって接していた >> んだろうと思います。 そういうのって、その時はわからないんですよね。 ええ、そうなんですよ。今から考えれば大先輩の厳しさは、愛情を持ったしごき だったんですよ。  当時はいじめだと思っていたんでけど、ある日突然「ひょっとして…」って気が 付いたら、なんだか急にその大先輩が好きになってしまいましたね。  厳しいことを言われるのを承知で、仕事の事を相談できるようになりました。  面白いことに、ちゃんと答えてくれたんですよ。 >> 結局のところ、善悪や陰陽、有無、みたいな相対的な2つの極に別れているもの >> を、自分の中で統合していくのが人間のお勤めなのかな、と思いますよね。 >> >> 抱きまいらせるって、多分そういう事でしょ。きっと....。 ううんと、僕の感覚では、人間という存在は、二律背反するものを同時に内包す ることのできる柔軟な存在ではないかと思っています。  二律背反するものをぶつけ合いながら、自分が矛盾だらけの存在だと気付いて、 自分という存在とは何かを追求していくんじゃないでしょうか?  相対的に対立する善や悪のそれぞれからも、自己の成長の為には学べるだけ学ぶ ことができれば良いと思いますね。  善からでも悪からでも成長の糧になるものをどんどん吸収していくことが、「自 分の中で統合する」ということなんだと思います。 >> 私なんか、演じるのは辛いので、本心から悪になること、これ結構魅力ですヨ。 >> 心の中では善と同じぐらい魅力じゃないかと思います。 >> でもいざ本当に悪になれるか、というとこれが難しい。 実は、悪にすっごく引かれますが、僕も本心から悪人には成れないようです。 善人にも成りきれないですから、どちらも持っているという事でごく普通の人間 ではないかななんて思っています。(^^;   だからこそ、悪を知りたいのかもしれませんが。 >> あのォ〜、私ばっかり悪人役はちょっと辛いんですけど....。 悪人やってれば、 >> 色々な事が見えてくるかも知れないですけど、やっぱり悪人と思われるより善人 と >> 思われたいですよね。 これって私の甘えでしょうか....。 けしかけてしまったので、お気を悪くされたのなら御免なさいね。 僕も善人と思われたい気持ちがありますので、和さんの仰ることは分かります。    でもね、善人悪人はおおむね他人からの外的評価ですから、自分自身の本心か   らかけ離れている場合もあると思いますし、最近は、開き直り気味で、「好きな   ように受け取ってね」ってと思っています。(^^;    要は自分が、どんな気持ちから当該行為をし、自分自身腑に落ちているかだと   思います。良心にかなっているかですね。    鬼と呼ばれようが、他人から見て悪人に映ろうが、自分が納得できるように行   動したいと思っています。    いい子ちゃんに見られたので、なかなか出来ないでいたりしますが(^^;、   自分自身をごまかしていると、自信を失うことになるんですよね。    しんどくても自己の良心に適いたいと思っています。    僕の場合は、「優しさ」と「甘やまし」の違いを良く分かっていなかったりす   るので、十分に腑に落ちているか確認して行動しなればいけないなと思っていま   す。偽善者にはなりたくないものです。    えっと、ビジネス上、上司の判断に従わなければならないときは、割り切って   いますけれどもね。 本心から悪にはなれないけど、ごくたまに悪人役をやったりすると、相手のリア クションが面白かったりして、なかなか人間観察にはいいような気がします。(^_^)  単にいじわるなだけと言う説もありますが(^^;  では、また。                     まるにちょん、○ゝ 00566/00566 PXY03747 諏訪みのる RE*2:○ゝ詩魂<泥の塊に蓮華の咲く…> (15) 96/03/08 12:56 00564へのコメント  #564 まるにちょんさん、こんにちは。 》|『蓮華微笑』…。 》|しばらく思い出す事もなかった話しを久々に思い出してしまいました。 》 》  どんなお話なんでしょうか? 》  よろしければ教えて下さいませんか?キョウミシンシン(・・) このお話しを読ませていただいたのが もう随分前のことでしたので、 何の どの本に書かれていたのか忘れてしまったのですが^^;)、 覚えている範囲で粗筋を紹介させていただきますと、・・・   …ある時 釈尊は、お弟子さん達一同を前にして、   「これから 私の教え(仏教)の究極(真実)を授けよう。」   と おっしゃいました。   突然の事で、お弟子さん達はドキドキしながら師を見つめます。   しばらくして釈尊は、   後ろ手にしていたモノを目の前に差し上げました。   それは一輪の蓮華でした。   そして釈尊は、その蓮華の花(の茎)を指先で軽くクルリと回転させ、   お弟子さん達の方へ視線を移しました。   多くのお弟子さん達は、『な、なんだぁ?』ってな様子で茫然としましたが、   その中で、摩訶迦葉尊者は一人、   それを見てニッコリ笑みを浮かべました。   それを見た釈尊は、満足げに微笑を返し、   手にしていた蓮華を摩訶迦葉に手渡しました。… …記憶が曖昧なので、若干 物語風に脚色していますが、 粗筋は こんなものだったと思います。(^^;)ゞ 摩訶迦葉尊者とは、釈尊存命時からの実在した高弟で、 「頭陀(ズダ)第一」(執着から離れる修業)と称されていたようです。 実際、釈尊入滅後には摩訶迦葉尊者が法灯を受け継ぐリーダーとして、 釈尊の説かれた教えを纏め整理し記憶させ、 後の仏教の発展の為の礎を築かれた方でもあるようです。 この『蓮華微笑』というお話しは、 ある意味 釈尊が迦葉尊者へ法灯を授けたという事を示すお話しとも考えられ、 実際にあった出来事ではないのかもしれませんが・・・。 そうそう、このお話し『蓮華微笑』の中で言いたかった事は、 『蓮華の姿に学べ』という事のようで、 つまり前回まるにちょんさんが、 詩魂<泥の塊に蓮華の咲く…>で書いておられるような“人としての姿勢”を、 蓮華になぞらえて示されたんだと解釈されているようです。(^^) 》  僕は、しなやかで力強い純粋さを持ちたいんですよ。 》  その為にも、ここで書いていきたいし、自分という存在の意味を知りたいと思 っ 》 ています。 一つの会議室の議長を任され、 テーマを持ってコンスタントに書き続けるっていうのは、私なんかから見れば、 『半端な気持ではできないだろうなぁ…』と、つくづく感心してしまいます。 私も 綺麗であること、純粋であることに対するコダワリは、 今後もズッと持ち続けるんだろうなぁと思っているのですが、 こだわってもいいから、 その“こだわり”にこだわって振り回される事だけは何とか避けたいナァって、 最近は思うようになりました。 お互いの目標に向かって頑張りましょう。(^^)/ でわ、では(^^)/                   みのる♪デシタ。 - FARION MES(16):心霊学研究所 ★ シルバーバーチと共に 96/03/08 - 391/395 GBB03425 Paper Birch シルバーバーチ感想会・九章(その2) (16) 96/03/07 21:15 ■「シルバー・バーチの霊訓.(5)」感想会■ ■九章 神は愛の中にも憎しみの中にも(2)■ 続きです。  神は私達を通じて体験を得ているのではないかという質問に対して、シルバ ーバーチは「そうではありません。」と答えます。しかし、部分が進化したな ら、全体である神も進化するという理屈にならないでしょうか? シルバーバ ーチは答えます。    「それはあなた方を通じて顕現されている部分に影響を及ぼすだけで   す。それ自体も本来は完全です。が、あなた方一人ひとりを通じての顕   現の仕方が完全ではないということです。霊それ自体はもともと完全で   す。/それがあなた方を通じて顕現しようとしているのですが、あなた   方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。/」  これは、けっこう勘違いしやすい所のようですね。某新興宗教の教祖の本に も「人間が進化することで、神も進化する」などということが書いてありまし たし(^^;。  しかし、これは考えて見れば当たり前、簡単なことです。∞(無限大)に1 を足しても、答えは∞+1ではありません。同様に、100を足しても1,000 を足しても、あるいは1万でも1億でも、∞は∞のまま、なんら変わることは ありません。  それと同じで、我々人間の霊性が、1から100に増えたとしても、それは 無限の存在である神の要素が、より多く顕現できるようになったという事であ って、決して無限の存在がより大きくなったという事ではありません。  その事実をシルバーバーチは、“光”と“鏡”にたとえています。汚れた鏡 では、少ししか光を反射できませんが、磨き上げられた鏡はより多く光を反射 します。霊的進化の道は、鏡をコツコツと磨いていく作業であると言えるかも 知れません。  ここからいよいよ“善”と“悪”の問題に踏み込みます。   「あなたは完全な光をお持ちです。ですが、それを磨きの悪い鏡に反射   させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だ   とは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化してい   ないというに過ぎません。地上で〃悪〃と呼んでいるものは不完全な段   階で神を表現している〃不完全さ〃を意味するに過ぎません」  ですから現在の人類が“悪”と考えているものの中にも神は宿っているので す。ただ、現れ方が不完全なのだということです。そして、現在の人間が考え る“善”の概念も、それが不完全なものである以上、人類全体の霊的進化に伴 って“悪”とされる日が来るのかも知れません。要は、現れ方の完全さの程度 の違いなのですから。   「神は愛を通してのみ働くのではありません。憎しみを通しても働きま   す。晴天だけでなく嵐も法則の支配を受けます。/晴天の日だけ神に感   謝し、雨の日は感謝しないものでしょうか。太古の人間は神というもの   を自分たらの考える善性の権化であらしめたいとの発想から(その反対   である)悪魔の存在を想定しました。/    神は法則なのです。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れ   ては何も存在できません。/あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟   な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しております   が、現段階においては判断が歪(ユガ)み、正しく使用すれば愛となるべ   き性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一   体です。愛という形で表現できる性質は僧しみを表現する時に使用する   性質と同じものなのです。/    /病気にさせるものがあなたを健康にもするのです。愛させるものが   憎ませもするのです。すべては神の法則の中で表現されていきます。そ   れが人生のあらゆる側面を支配しているのです」  善も悪も、方向性と程度の違いはあれど、本質は同じものであるという事 でしょうか。 では、続きます。 △▼△ Paper Birch △▼△ 395/395 GBB03425 Paper Birch シルバーバーチ感想会・九章(その3) (16) 96/03/07 21:16 ■「シルバー・バーチの霊訓.(5)」感想会■ ■九章 神は愛の中にも憎しみの中にも(3)■ 続きです。  ここで、悪を憎むためには憎しみという要素を学ばなければならないのでは ないか?という質問が出ます。    「私はそのような考え方はしません。私は悪とは同じエネルギーの用   途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。   あなたが悪い奴らと思っている人間は未熟な人間ということです。その   人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるの   です。    /悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのな   い子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考   え、従って物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか   自分の存在を主張できない人間なのです。利己主義とは、利他主義が方   角を間違えたにすぎません。  許してしまってはいけないけれど、憎んでもいけないという事なのでしょう。 なぜなら、善も悪も、霊的進化の途中段階を共に歩む仲間であり、同じ神の分 霊なのですから。  シルバーバーチが挙げた子供の譬は、とても分かりやすいですね。確かに、 聞き分けのない子供のわがままを親が許していたら、しつけなんて出来ません。 しかし、その「許さない」というのは当然、憎んだりするのとは違うのですか ら。  今はまだ我侭な子供も、いつかは大人になります。そして、既に大人になっ ている人も、昔は子供だったのです。霊的な子供である“悪”とは、決して憎 むべきものではないのかも知れません。(って言われてもねぇ……(^^;)  それでは、悪魔とは何なのでしょうか? 悪として生まれついて、神に滅ぼ されるまで、悪のまま生き続ける種族。善性のかけらも無く、徹底的に神とは 対立する存在……。悪魔の概念とは、おおよそそういう風なものだと思います。  しかし、シルバーバーチの神の定義を信じるとすると、「悪魔」の実在を想 像するのは甚だ困難になります。全知全能の神と、それに対立する悪魔という 概念は、矛盾しているからです。その矛盾を産み出した元凶は?…そうです、 キリスト教です。…ですよね、シルバーバーチさん(と、呼びかけてみる(^^;)    「そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるため   にはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過   程の一翼を担っております。改善と成長−−絶え間なく向上せんとする   過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の   計画に組み込まれた要素なのです。/改めるべき間違い、闘うべき不正   が在存しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう」  と言うことは、キリスト教的な「悪魔」観というのは、“悪”と人間を切り 離してしまい、人間の霊性進化の可能性を阻害する思想と言えるかも知れませ ん。いつ何時も、自分の内にも外にも存在し、少しずつ克服して行かねばなら ないもの。それが悪なのだと思いますから。  そして、心の中身を磨けば磨くほど、その中にまた新たな“悪”が見つかり、 それを克服しなければならなくなります。“悪”とは、僕たちの成長を手助け し、導いてくれる、霊性進化のナビゲーターなのかも知れません。   「進化の階段を登れば登るほど、改めるべきものを意識するようになる   ものだからです。/向上の道に終点はありません。無限に続くのです。   それぞれの段階がそれまでの低い段階への勝利の指標にすぎません。/   人生は一本調子(モノトーン)ではありません。光と陰/善と悪の双方が揃(ソロ)   わなくてはなりません。人生はそうした比較対照を通じてのみ理解でき   るものだからです。闘争を通して、奮闘を通して、逆境の克服を通して   はじめて、神性を宿した人間の霊が芽を出し、潜在するさまざまな可能   性が発揮されるのです。そういう摂理になっているのです。/    人間的存在としての神は人間がこしらえた概念以外には存在しません。   人間的存在としての悪魔も人間が発明した概念以外には存在しません。   /神は法則なのです。それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだ   ことになります。なぜならば、世の中が不変にして不可変、全智全能の   法則によって治められていることを知れば、絶対的公正が間違いなく存   在し、宇宙の創造活動の大機構の中にあって一人として忘れ去られるこ   とがないことを知ることになるからです。」 今回は、説明が少しクドかったかも知れません。ご容赦(_ _)ペコリ △▼△ Paper Birch △▼△ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/03/08 - 838/840 QZY01267 猫の手 いのちの贈り物 (19) 96/03/06 22:07  鈴木秀子さんの 「いのちの贈り物」(中央公論社)  素敵な本だった。  副題は <阪神大震災を乗りこえて>  震災に遭って総てをなくした人達の  見つけた大切なもの、  取り返した大切なこと  それがこの本には書かれてた。  震災に遭ったこと事態は不幸だったかもしれないけれど  震災に遭ったことで取り返したものがある人達もいる。  それを手にすることが、  それを起こしたことが神の意図  そうじゃないかと私は想う。  救出されて寒さに震えてた時に  自分の着てる上着をくれた人がいた。  自分が履いてる靴をくれた人がいた。  それが見栄で生きてきた関西婦人の人生の分岐点  そうなった。  そんな話が載っていた。  結婚して僅かな間に夫を亡くし  自分の部屋から見える幸せそうな夫婦を妬んでた。  地震のあとに我に返って辺りを見回したとき  その夫婦が気になった。  瓦礫の中からその夫婦の遺体を引きずり出して  その二人が寒かろうと何かを探しに戻ってきた部屋で  まだ一度も灯したことのなかった結婚記念日のための蝋燭につまずいて  その二人の前でその蝋燭を灯して一夜過ごした。  その蝋燭の炎の中に生きることの意味を見出す話、書かれてた。    ひとり寂しい暮らしをしてたある婦人、  焼け出され、生きる気力もなくしてた。  そこに音信不通の息子  20年ぶりに母を心配して現れる。  息子は事情があるらしくすぐに立ち去ったけれど  自分がひとりぼっちでなかったことが嬉しく思った。  それから人の爪切り、耳垢掃除、  自分にできること少しずつ。  人に喜んでもらえることで益々嬉しさ湧いてきた。  彼女は新しい生き方見出した。  今までと同じ生活していても  違う生き方見出した。  そんな話も書かれてた。    そんな震災の中での話と共に  アメリカ版浅間山荘事件の話があった。  そこに立て篭もっていた彼の母親は  そのとき病院のベットで危篤寸前の状態だった。  にもかかわらず40時間掛けて現場に行って  息子に呼び掛けた。  “I know you. I know you.”  “I love you, my son. You are my son.”  多分それだけだったら、  彼はそのまま篭城してたと思う。  しかし、その母親が彼の目の前に現れて  彼のしてきたことに  彼が正義と思ってしてきたことに 「それは愛からしてきたことか?」  そう問い掛けた。  彼が正義と思ってしてきたこと総てに  そう問い掛けた。  彼は光の中で母親と  自分のしてきたこと振り返える。  彼の答えは全て“NO”だった。  彼は心の中に芯から 「すまなかった。」という気持ちが湧いてきた。  彼は自ら降伏して出て行った。  そして母親は、  “Live your own life.”  そう言って息を引き取った。  彼は総てに赦されていることを感じてた。  そして彼は刑務所の病院の中  鈴木秀子さんにその話を語ってこの世を去った。  そんな話が載っていた。  なんか、やたらと涙した。  私は死が悪いことだと思わない。  生に執着する必要なんかないと思ってる。  でも、執着する必要ないにかかわらず、  自分に与えれれたものの一つ一つを大切にするように  自分の生も  他人の生も  大切にしていたい。  鈴木秀子さんという人は不思議な人。  多くの人の死に水を執る。  彼女は多くの人の死に立ち会って  死に逝くものが死ぬ前に次元上昇していくのを手伝っている。  まるで彼女によって  残り僅かな最後の生の瞬間に  アセンションするようプログラムされてるかのように。  『阪神大震災』  ただその忌まわしい面だけが意識に上る人も居るでしょう。  でも何故かの本を読んでいて、  無くしたものが多かった人ほど  得たものも大きかったのかもしれない。  そういう印象が湧いてきた。  裸一貫で焼け出された人ほど無欲だったとか。  そこから遠ければ遠い人ほど今まで通りの生活に  執着する傾向あるのかもしれないヨ。  そう、今回私は被災しなかったけど  どのくらい、今まで通りの生活手放せるかな?  それができないならば  いつかは私にも  そうせざるを得ないときが来るんだろうな。         ** QZY01267/『猫の手』 <96/03/06 21:54:31> ** 839/840 QZY01267 猫の手 のて (19) 96/03/07 23:07  私はおおざっぱな人間だから  細かなことが抜け落ちて  あっちでもこっちでも  意識的には意図しなかったこと起こるんだ。  それを「意図してやった。」と言われたら  仕方がないね。  それもこれも私が種撒いて  自分で呼び込んだことだから。    私の言葉が気にくわなかったら御免なさいネ。  私の面が気に入らなかったら御免なさいネ。  私はこれでも私なりに  一生懸命やってるの  私は私なりに、  自分にとって良かれと思って、  誰もにとって良かれと思ってやってるの。  それが気に入らなかったら御免なさいネ。  それが気に障ったら御免なさいネ。  だからと云って  ホントは悪いとは思っちゃいないのヨ。 「御免なさい。」と云わなくちゃ  収拾つかなくなっちゃうから 「御免なさい。」と云うしかないの。  それも私にとって良かれと思うから  これも相手にとっても良かれと思うから  別に私は波風立てたいわけじゃない。  誰もが幸せ感じることできたなら  それが一番良いと思ってる。  だからと云って  私が犠牲になろうとは思わない。  私も誰もの内のひとりなの。  私が幸せ感じること大事なの。    みんなみんな御免なさいネ。  私のような者居て御免なさいネ。  それでも私は、  私の幸せ探してるんだよ。  ひとりでも多くの人が幸せになること  望んでるんだよ。    私はどうあがいたって『猫の手』だから  役に立つのか立たないのかは分からない。  おまえには「猫」が付くだけもったいない。  そう、おまえは単なる“のて”に過ぎないヨ。  そういう人が居るかもしれないネ。  まあそのう、  “のて”というのは信州の方言で  どうにもならない、  箸にも棒にもかからない  おたんこ茄子のこと。  まあそんな私も生きている。  こんな私に生きる権利があるかどうかは分からない。  権利があろうとなかろうと生きている。  なんだかんだと生きている。    早く死んじまえと云われようとも  まだどうも死ぬときじゃないようで  私自身も死にたいと思っちゃいないし  すぐにあの世に行く状況でもないみたい。  目障りだと言う人がいようとも  じゃまだという人がいようとも  私は私を生きる。  私は私の人生楽しんで生きている。  誰もが幸せ感じる時を夢見つつ。  何もかもが幸せ感じる時を夢見つつ。  そうなったとき、 「生きていて良かった。」と  必ず思うはずだから、    自分のしたこと  どういうことなのか、  周りに起こっていること  どういうことなのか、  想い巡らせ、  悩みつつ。  本当にそれで良いのかと揺らぎつつ。 「そこに向かっている。」  と信じ続けるの。 「誰もが誰もの幸せ望んでる。」  そう信じ続けるの。  そう決めたから。  何があろうと、  どうあろうと、  私は私に向かい合って生きていく。  私は世界に向かい合って生きていく。   「そこに向かう鍵は私自身が持っている。」  そう信じるの。  私が“のて”であろうとも  そこに向かって行くの。    『誰もが幸せ感じられるとき』  それは“のて”の私のエゴから生まれるビジョンかもしれないけれど  私はそこを目指していくの。     ** QZY01267/『猫の手』 <96/03/07 08:44:38> ** 840/840 GED01563 水戸黄門 御老公の独り言 (19) 96/03/08 01:29 哲学の歴史をひもとくと、そこここに「自分を観る」話があるそうじゃ。 わしは哲学には明るくなくての、詳しい話はわからんのじゃが。ソクラテス殿が 自分を観ることを推奨した最初の哲学者だそうじゃ。じゃが。「自分を観る」は ソクラテス殿のオリジナルではないそうじゃ。ギリシアのなんとかという神殿の 柱に「自分を観よ」という言葉がきざまれているそうじゃの。「自分を観る」は 神託だったそうじゃ。だからの。ひょっとすると、ARION殿は、古代ギリシ アでも、人類に接触されていた天使殿だったのかもしれんの。 哲学というと、カント殿も有名なお方じゃが、どうもカント殿が申されたかった ことは、こういうことらしいのじゃ。「神事は神に。人事は人に。夢々一緒にす るなかれ」。しかし、哲学者は、わかりきったことをどうもごちゃごちゃとこ難 しく語るのかのう。 96/03/08(金) 00:39 水戸黄門(GED01563)