「そんなに他人の内側を知りたいのですか?」と凍え人 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/03/27 - 00867/00867 KFQ02761 しまうま RE^4:責任と義務 ( 6) 96/03/27 01:08 00822へのコメント #00822 MAKOTOさん  こんにちは〜(^^)。毎度遅いレスでーす(開き直り(^^;)。 |その時、本当にしたい事はこれじゃないのにって不満は残りませんか? 私の |場合、いくら責任を果たす為でも、それが必要だと思っていても、後に納得い |かないものが残ってしまう事が多いんですよね。しまうまさんの場合は、そん |な割り切れない部分は残らないのか。もし、残っているなら、それをどう処理 |なさっているのか。そんな部分に興味があります。  うーんと、僕の場合「場に対する責任を果たす」とか、「自分のワガママを 抑えて役割をきちんと果たす」とかいう行為に、非常になんというか魅力とい うかヒロイズム(^^;というか、そんなものを感じてしまいがちなんですね。で すから、「自分の気持ちより場に対する責任を優先する」という行為も、結構 “酔える”要素があるわけで、不満やら悲壮感やらは特に感じていません。  ただ、自分がやりたいことを長らく我慢し続けていると、ふくれた風船がは じけるように、突然「ぼかーん」と反動がきたりすることもあります。反動が 来ると「あ、周囲に流されていたな」と気付きます。で、「いやー、もう少し 自分のやりたいことを優先しないと、これじゃ長続きせんわなあ」と思って、 ちょっと路線を変更したりします。これもまた、なかなか楽しい作業です(^^)。  店長さんになられたとのこと、お忙しいでしょうけれどがんばってください ね。ではでは(^^)/"。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/03/27 - 07142/07146 QZA02327 ノロガメ RE:ARIONよりノロガメへ ( 7) 96/03/27 01:50 07137へのコメント ARIONさま、ありがとうございます。 平社員が、部長、課長をさておいて、社長直々にお言葉をかけられて感激している 心境です。 でも内容は感激に浸っている場合では有りません、ノロガメはなぜこんな態度を貫 こうとしているのかについてじっくり聞いて頂きたいのですが、それは時間を少し 頂きたいと思います。 取り敢えず、お礼のRESです。 ありがとうございました。 ノロガメ。 07143/07146 GED01563 水戸黄門 返し文(1) ( 7) 96/03/27 10:24 07112へのコメント > 何故、自らの「甘え」を見ないで済まそうとするのか? 甘えたままでいたいから。 > 何故、自らの判断で生きようとしないのか? 他人の判断に依存し、他人に甘え、自分の責任をとりたくないから。 > 何故、権利を主張するのと同時に責任を主張しないのか? すべては自分が種をまき、自分が育てたもの。育てたものを刈らない言われはな い。しかし、実った稲が、病気だったり、不満足なものであったとき、それを刈 り取りたくなくなる。そして、他人が育てた稲を欲しがる。 すべては、依存と甘えという言葉に集約する・・・。 ・・・・(続く) 96/03/27(水) 01:34 水戸黄門(GED01563) 07144/07146 GED01563 水戸黄門 かえしふみ(2) ( 7) 96/03/27 10:59 07112へのコメント マスコミや他人が作った情報、天使が与えた情報ですら、それを己の中で咀嚼せ ず、確かめず、うのみにする。外部の情報の切り張りが、自分の知恵と誤解す る。信念だと思う。そんな偽ものの知恵や信念をすべてと思い、己の欲に塗布 し、欲を動かす規則に従って選らんだ選択枝を自分の判断したと錯覚する。そん な判断は、判断ではない。かりに、それが判断だとしても、今度は、そのような 判断に己の欲は責任を持ちたがらない。 ある情報に基づき下した判断の結果に不満なとき、その情報のせいにすることも ある。みずからの人生の満足や不満を占いのせいにすることもある。自らの経験 に基づき判断した結果に不満なとき、その経験を呪うこともある。天使のアドバ イスに基づきなした判断の結果が不満なとき、天使のせいにする。または、益 々、天使に依存する。情報に依存する、陳腐な自分の経験に依存する。すべて、 自分が責任をとりたくないからだ。自信がないから、これらのもので、益々自分 の嘘と腐った心を塗布する。 信念なんて持たない方が良い。自分の信念なんてしょせん借り物にすぎず、自信 がないから、信念にすがるのだから。すべては、己の限界であり、他人のせいで はなかった。信念や知識や経験に依存し、自信がないから、自分に嘘があるか ら、それを隠そうと、怒りを感じる。壁にぶつかると壁に怒りを感じる。他人に 環境に怒りを感じる。それは、本当は、人に残された最後の良心の叫びかもしれ ないのに・・・。欲の自動的な暴発と誤解する。それは己に対する良心の怒りか もしれないのに、他人を環境を破壊しようとする。そして、それは、己の望むよ うに他人を破壊し、環境をずたずたにする。それが己の可能性すらも破壊しつく すのに。 そんな自分に気がついた。そして、社会の破壊も・・・、人の悪趣味なひがみと 甘えが生み出すもの、そして社会は人が期待する方向へは進まないだろうとも予 感した。貧困、絶望、嘘。そして、目くらにされたまま自立のみを要求する社会 の誕生。機会も可能性も与えないまま、自立のみ要求する社会の誕生だ。 96/03/27(水) 04:03 水戸黄門(GED01563) 07145/07146 GED01563 水戸黄門 かえしふみ(3) ( 7) 96/03/27 11:01 07112へのコメント そんな己をだましながら生きていたとき、そんな自分に気がついた自分を誇らし げに思っていたとき。そんな社会を洞察した自分に優越感をもったとき 急に、ひとつの疑問がわいた。「私は自分で考える」。ことをしてきただろう か。自分は自分で考えてはいなかった。自分が常識だと思っていることに疑問を 持たなかった。そして、自分は周りの者に言った。「自分の頭で考えよ」。それ は、自分自身への自戒の言葉となった。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。好奇心が強い 自分は、その資質を最大限に生かすべきだった。どこからどこまでが本当に自分 の思いなのか他人の情報なのか見極めるべきだった。外の情報や書籍などの借り 物や天使のアドバイスで混乱する自分の嘘と心を取り繕うべきではなかった。最 後まで、自分の力だけで考えるべきだった。そして、これを実践したとき、本当 の己のものがないことを知ったとき、困惑した。時な流れた。そして、昨年の1 0月のことだった。自分は情報を切り張りしてきたのだと再認識した。 自分で判断しよう。自分がリスクを負うのだ。依存しない。自分の力だけで考え る。これを単に実践した。そのとき、初めて自由を感じた。自立という言葉を初 めて感じることができた。そして、人生が苦痛でなくなった。もろもろの制約が 不自由とは思わなくなった。打破すべきものとも思わなくなった。怒りも感じな くなった。不安もあった。しかし、まもなく、自信を感じた。能力も知識も経験 も自尊心も不要だった。今年に入り、その思いはよりたしかな手応えとしてかえ ってきた。自分自身の決断を目指してから、次々と、身の回りで、劇的な事件が 起きた。これでもか、これでもかと 変化がおきる。おきている。そして、今、 自分は、自分の人生最大の決断の岐路に立たされた。3つの選択枝のひとつを、 まもなく選択しなければならない。この決断は苦しいものになりそうだ。 この手応えを確実なものにしていきた。やっと入り口にたった思い。こんなこと は、みんなやっていることだ。そんなあたりまえのことがわかってきた。他人の 依存心や甘えを客観的にみられるようになったが、かってのように同情すること はなくなった。 が、すぐにきづいた。依存する者どもに、自分はコウモリのように対応してい た。これは自分の癖だった。(これも逃げ。甘え。皆に良い顔をして、いい人と 思われたい)、これは癖だから、少し違う習慣を身につければ良い。その試みを 始めた。まだ、ちょっとなれていない。直に慣れるだろう。多くのものは、習慣 にすぎない。癖にすぎない。ほんのちょっと変えてみるだけ。癖は自分の生き方 のひとつの方法に変化する。少し意識すれば、自分の癖はわかる。癖に理屈を塗 布することはない。 こうして、やっとFARIONに完全に戻る決意をした。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ワシは、ARION殿のように悲観はしておらん。このフォーラムだけに限った ことではない。多くの者が、当たり前にやっているようにワシは感じるからじ ゃ。自分で判断し、責任を負い、甘えんことをな。 ワシは、人を信じておる ぞ。我々人の力をな。 96/03/27(水) 04:04 水戸黄門(GED01563) - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/03/27 - 826/826 HAG05462 荒木 忠義 審神者についてご教示ください ( 9) 96/03/26 16:42 FARION MES 9 のみなさま、御無沙汰してます。 大本教で言う「審神者(さにわ)」についての文献を探しています。 文献をご存じの方、あるいは入手方法をご存じの方がおりましたら、 ご教示ください。 小生、キリスト教神学者ですが、理由あって審神者(さにわ)のことをもっと よく知りたくなりました。 宜しくお願い致します。 荒木 忠義・ヨハネス (HAG05462@niftyserve.or.jp) - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/03/27 - 02072/02072 BYI04676 ふぁらんどーる 太陽と埃の中で (11) 96/03/27 01:05  ワタシの美意識の中では「チャゲアス」は許せないと感じつつ、この曲だけは ミョーに好きなんだよね。  ってなわけで、今回のBGMはこの曲です。  たまーにさ、空を見上げると、目眩がしない? そのあまりの広がりにさ。  私、するんだよね。  普段あんまり空なんか見ないんで、たまに見るとすんごいショックを受けるんだ。  「あぁ、空ってこんなに高くて広かったんだなぁ」って。  ごく当たり前に空は広がっていて、それは頭でも分かってるのに、実感が伴わな いと単なる書き割りみたいにしか感じないんだよね。  普段の意識がいかに偏狭なものなのか、そこで改めて気付くわけ。  いつみいつもつまんないことで頭をいっぱいにして、あくせくと忙しなく生きて いることが当たり前になってしまってさ。  ニュース番組なんか見てると、毎日毎日息が詰まりそうなことばっかり起きてる みたいだね。人の世にはいろいろな問題が山積していて、いつ全てが解決するやら 誰にも分からないような有様で。  でも、それでも太陽はいつもと変わらずに、朝になったら世界中を照らし出すん だよね。まあ、雲も広がり雨も降るけれど、でも太陽はその空の高みで輝いている ことは間違いなくて。  空の広がりにさえ気付かない普段の自分を省みると、なんだか心が軽くなってい くみたいな気がする。  本当は誰の上にも空と太陽はあるんだよね。神様の話を持ち出さなくとも、そこ には大きな自然の広がりがあって、それは誰のものでもないけれど、全ての生命に 対して遍く在るもので。  まあ、そんなことまで考えなくても、偏狭になって凝り固まった気持ちの結節を たまには解きほぐすには、お日様のことを見上げるのもいいよね。  私の心の中には「女神」が住んでいる。もちろん実際に神様が住んでいる訳じゃ なくって、遠い想い出の欠片の中の残像みたいな、朧気なんだけれど、でも確かな 存在感をもった女性が住んでいるんだ。  いつ頃からそこに佇んでいるのか、よく分からないんだけど、でも気付くとそこ にいて、ひそやかに私を見つめているんだ。  私は勝手にその人を「女神」として崇めてる。  理由は、その人に意識を向けていると、心が軽く透明になってくるから。  そして、そうすることによって私の中にある「一番大事なこと」を気付かせてく れるから。  その人はいつも長く豊かな髪に風を孕ませて、青空の中に佇んでいる。    私が心を曇らせて、気持ちが荒んでくると、ふいに空を見上げてこの人のことを 思い出すのは、きっとこの人が私を振り向かせているからなのかも知れない。              1996/03/27(Wed) 00:03 ふぁらんどーる (BYI04676) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/03/27 - 04411/04413 QZA02327 ノロガメ い〜い天気だ、春だ〜 (13) 96/03/27 12:59 KAZEさん、こむさん、今日は。 24〜25日と岡山へ行って来まして、帰ってから覗いてみると、およよ〜これはびっ くり玉手箱と言った感じで、ちょっとアップします。 ご両人まとめてのRESですが、失礼します。 何かノロガメは発言停止をくらって、逃げ出したような印象をROMの皆さんには与え ているようですが、あくまでもちょっと甲羅干しをして一休みってことで、ちょっとお 断りをしておく必要が有るように思いましたので、一言、二言です。 ROMして頂いている皆さんにはいろいろご心配をおかけしている事が再確認出来て、 メールも又一通届きました。とにもかくにもノロガメに取ってはうれしいことで、この 場をかりて皆さんありがとう、とお礼申し上げます。 ちょっと、聞いて、聞いて。 岡山からの帰り、サービスエリヤのガソリンスタンドで空気圧点検を依頼したのです。 お客さん、クギが刺さってますよと言われ、あわてて降りて見ると、右後ろのタイヤに クギが刺さって、洗剤水をかけると空気が漏っているではありませんか。 早速パンク修理をしてもらって、事なく終わったのですが、もしそのクギが見つからな かっ たらと思うと、もうゾ〜とします。 日頃の行いがいいんだよ〜と言いたい。(^◇^) 昨日はARIONからRESが付きました。 内容は厳しいものですが、これは感激です。 甲羅干しをしてのんびりとしていられなくなりした。 人生いろいろ、島倉千代子の歌では有りませんが、ここまでの道を振り返って見ても、 これはこれで良かったのではないか、そんな気がします。 ま〜いろいろあら〜なって感じで、お互い感じ合っていこうでは有りませんか。 これも変則的コミニュケーションでは無いでしょうか、ノロガメはノロガメ、KAZE さんはKAZEさん、こむさんはこむさん、それぞれの役を演じることで、ますますド ラマはおもしろく、MES13劇場は人気が出るのではないでしょうか。 そういうことで、これからもかわいがってください、手を焼くことでしょうが、これも 修行ですわ。ナ~ンチャッテ ノロガメでした。まる 04412/04413 QZA02327 ノロガメ 始めまして、ノロガメです。 (13) 96/03/27 13:01 猫の手さん、今日は、ノロガメです。 えっ、ホント、まさか、猫さんがRESつけてくれるなんて、信じられないし〜 ふざけている場合では有りませんね。 猫の手さん、始めまして、取り敢えずお気遣い頂きましたことに対して厚く御礼申 し上げます。 一つお断りをしておきますが、ノロガメは発言を停止された訳はなく、またノロガ メも書き込みをやめると言うことでも有りません、ただ甲羅干しをして一休みしよ うかな〜なんて思ったまでです。 何時迄も皆さんと成り立たないコミニュケーションでは有りますが、これもパソ通 ならではの変則的コミニュケーションではないかと思ったりして、言葉だけの世界 でそう簡単に理解し合える事など有るはずは無いと思っています。 別にノロガメの援護ではないにしても、こうして興味を示してくれるRESが届く と、KAZEさんや、こむさんのノロガメに対するイメージチェンジが少なからず 生まれると思いますので、ありがたいことと思っています。 MES19での書き込みは時々覗いていまして、内容は兎も角として猫の手さんと言う 人の人間性をいろいろ想像していました。 猫の手さんも、すこし変人の部類かな〜なんて思ったりして、その点で親近感を抱 いていましたが、KAZEさんからもエールが届いていましたが、ノロガメとして もこの場がにぎやかになることを望んでいる訳で、猫の手さんがRESをつけて下 されば、どんな結果が生まれてくるのかを観てみたいものです。 ノロガメとしては、何が正しくて、何が間違っているなんて議論はどうでもよいの であって、要するに自分がアップする、と言うことが本人にとって意義あるものと 思っています。 一つ誘い水をば。 自分の言葉に確信的なものが無い人が、ノロガメの態度を批判してそれは間違って いると断言するところに、ノロガメの拒否反応が生まれ、それが相手の話を聞かな いというノロガメの姿になっていると思うのです。 言葉に確信的なものが無いと言うことは、アップした後にアップしたことに対して 間違っていないかを不安に思っている人。 自分も間違っているかも知れませんがと言い訳する人。 コミニュケーションの常識は、相手に対して思いやりを持つことです。 相手が何を話そうとしているのを理解しようとする心です。 そしてその相手に対してどんな言葉を変換すれば良いかを考えることです。 現実は対人間の共同作業であり、相手が有って成り立つ世界です。 ノロガメがこんな言葉を並べると、言動が行動と合わないと言うことですが。 ノロガメは自分を「無」と表現しました。 自分を表現するのに、相手は必要ではないのです。 相手がいる限り、今一歩が踏み出せない、目の前の壁を崩すことが出来ない、と言 うことが有るのです。 現実の人間対人間の付き合いには、ノロガメの理屈は皆さんからのご指摘の通りで しょう。 ノロガメは人間がどうしても今一歩が踏み出せない部分に侵入しようとしています。 それがノロガメの神秘の世界なのです。 人間のコミニュケーションは物理的です、神秘は物理的思考では観ることは出来な いと思います。 人間対人間のコミニュケーションではなく、心対心の対話を望んでいます。 心とは自由の塊だと捉えています。 心にはどんな制約も着せることは出来ないと思います。 善も悪も、ウソも真も、みんな人間の心のなかにだれもが共有しているものでは無 いでしょうか。 人間に都合の良いのが心ではない、ノロガメはこんな理屈はほざく人間ですけど如 何ですか。 どうです、ハチャメチャ会談も何かを導き出すかも知れませんよ。 ノロガメは常識をぶっ壊そうとしています。 ではではノロガメでした。まる 04413/04413 GGA02514 KAZE 中道論9●風説維摩経2 (13) 96/03/27 14:11 「維摩経」は、全部で次の14の「品(ほん)」つまり「章」で構成されています。 1)仏国品 2)方便品 3)弟子品 4)菩薩品 5)問疾品 6)不思議品 7)観衆生品 8)仏道品 9)入不二法門品 10)香積仏品 11)菩薩行品 12)見阿すく仏品 13)法供養品 14)嘱累品 これらを順に説明していくのもいいのですが、面倒なのと^^;、 ここでのテーマはあくまでも「中道」ですので、 それを理解するために参考になりそうなところをピックアップして、 主に、鎌田茂雄「維摩経講話」(講談社学術文庫)に添いながら、 それをガイドとして、話を進めていこうと思います。 まず、最初の1)仏国品では、まだ維摩は登場してきませんが、 昆耶離(びやり)の庵羅樹園(あんらじゅえん)というところで、 仏の話を聞くために、大比丘衆八千人と菩薩三万二千人をはじめとした たくさんの人が集まっているという設定からはじまります。 そうした舞台で、昆耶離城の長者の息子の宝積が登場し、 仏に浄土の国土をどうやったらつくることができるのかを質問します。 これに対してまず仏は「衆生の類、これ菩薩の仏土なり」と答えます。 つまり、浄土というのは、人の心の中にあるのだから、 人の心を浄土にしないと理想世界はできないというわけです。 この人の心の浄土のあり方についてもあれこれあるのですが、 そこは省略して、仏が「心浄なれば仏土浄なり」ということを説いた仏に その有名な弟子の舎利弗(シャーリプトラ)がこんな質問をします。   仏は心が浄ければ国土もしたがって浄くなるとおっしゃるが、もしそうであ   れば仏が住んでいるこの娑婆世界そのものが、必然的に浄土でなければなら   ないはずではないか これに対して、仏はこう答えます。   このように考えたらどうであろう。太陽や月は清浄である。けれども盲者は   このことを知ることができない でも、現実主義者の舎利弗は納得できません。 そこで、螺髻梵王(らけいぼんのう)という梵天がこう説明します。   螺髻梵王「このような心をもって、この仏土を考えて、不浄だと言ってはい   けない。わが釈迦牟尼仏の国土の清浄なことは、たとえていえば自在天宮の   ようだ」   舎利弗「自分がこの国土をみていると、丘陵でも、坑坎(あな)でも、荊刺   (いばら)でも、沙礫(いしころ)でも、土石(いわ)でも、山でも、あら   ゆる穢れが一杯になっています」   螺髻梵王「お前さんの心には高い低いがあって、一切を平等にみる仏の智慧   によらないので、この国土をみて不浄だと思うのだ。舎利弗よ、菩薩はどん   な衆生に対してもすべて平等にみて、その心も清浄である。仏の智慧からみ   れば、この仏土は清浄にみえるのである」    世界が不浄に見えるのは、そう見る心に問題があるのだというわけです。 もちろん、これを「すべてが主観である」「観念の世界である」というふうに 一面的にみることは避けなければなりません。 この世界が汚れてみえているそのことそのものにこそ、 意味を見出さなければならないわけです。 そうそう、霊主体従という話が以前よくでてましたよね。 霊と体という現われは、どちらも同じく大事なものではあるのだけれども、 みずからが霊的存在であるということを認識することが まず重要なのだということです。 つまり、「心の優位」というわけです。 ここらへんの話を敷衍しておきますと、 この霊主体従ということでは、霊を高級なもの、体を低級なものというふうに とらえてしまうのはちょっとした落とし穴でして^^;、 霊と体とは「二」として現われているのだけれども、 それは「不二」としてとらえなければならないというあたりの捉え方が、 言ってみれば、この「維摩経」における「不二法門」の基本的な考え方です。 問題にしなければならないのは、 なぜ霊を高級なもの、体を低級なものというふうにみてしまうかという その認識のあり方にほかなりません。 これを中道論的に説明しますと、こうなるでしょうか。 霊というあり方がある。体というあり方がある。 それはどちらも真実であるが、どちらかだけが正しいとか、 どちらのほうがより正しいというわけではない。 霊というあり方と体というあり方の統合された「中」というあり方にこそ 真実を求めなければならない。 さらに、いうと、霊という真実、体という真実、そしてその中という真実。 それらすべての真実を生きるということに新たな次元の真実が開けてくる。 霊という現象はそのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、 体という現象もそのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、 また、その霊と体の結びとして生きる人間という現象も、 そのレベルにおいてその真実にアプローチする必要があり、 そうしたことを深く体得することを通じて開けてくる真実があるのだ。 そいうことがいえるのだと思います。 さて、維摩経に戻りますと、 この世界が不浄に見えるのは、それがそいうふにあらわれている真実を 理解しないがために、世界をそのように一面的に見てしまうということです。 それは、「浄」と「不浄」を「二」とみてしまう無明にほかなりません。 浄と不浄を「不二」としてみる智慧を身につけなければならないというわけです。 しかし、その「不二」というのは、 浄のために不浄を排除するというのではもちろんなく、 浄は浄としてのあらわれのなかに真実があり、 不浄は不浄としてのあらわれのなかに真実があるのであって、 その「二」としてのあらわれを融合してしまうというのではなく、 本来の浄と不浄の不二性という智慧の目で世界を見るという 言ってみれば「中」ということが重要だということです。 ちょっとくどくなりましたが、 自分を観るということにしても、世界を観るということにしても、 その観るという枠組み、窓によって「二」を観、それぞれに真実を観ると同時に、 それが本来は「不二」であるというふうに観なければならないというわけです。 そうでないと、自分を正当化することに終始したり、 反対に自分は情けない奴だ、ダメなやつだとマゾになったり、 また、自と他をちゃんとわけて考えられずにマザコン的な無責任になったり、 わけすぎてその共通項を見いだせずに孤立したり、エゴになったり・・・ そういう状態に陥ってしまうように思うのです。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/03/27 - 03854/03856 HQK00566 SOUND RE^2:「炎で書いた物語」第七章(その3) (14) 96/03/26 16:22 03850へのコメント     「炎で書いた物語」第七章   <We all need love.>(その3)        「日々の夕べに」 1、 冬の畑に 種子を蒔きましょう    何の種子かは 知らないけれど        芽生え育って 花が咲くまで     ただひたすらに 生きましょう 2、 歩む子鹿に 夢をかけましょう    どこへゆくかは 知らないけれど    角をはやして 戻るときまで    ただひたすらに 待ちましょう 3、 沈む夕陽に 愛を捧げましょう    息をひそめて 頭(こうべ)を垂れて    明日も朝が また来ることを    ただひたすらに 祈りましょう  ***************************************************************  こんなことがあった。 ぼくの息子は小学校二年生でこの国、日本に来た。 それまでのかれの脳に残る記憶はロス・アンジェルスの生活だけであった。 日本語は日本語学校に土曜日ごとに通っていたおかげでかなり理解できた。 ボストンマラソンで優勝したゴーマンさんがその日本語学校、羅府第二学園の先生 だった。   息子は日本の小学校に入ると日本語での授業にとまどった。 授業中、隣の席の子と話をするとき息子はアメリカの生活を思い出してその話をし た。 それを聞くとその友達は「アメリカ、アメリカというな」と言って 先生に隠れて横から殴る。自慢しているとでも思ったのだろうか。 息子の記憶には日本の記憶はなくアメリカの記憶しかないのだから話をしようとす れ ば アメリカが出てくる。どうしてアメリカの話をしてはいけないのか<かれには理解 で きなかった。 そんなかれも立派な日本人として生長して今では日本人らしく英語をまともに話 せなくなってしまった。これで差別されることもない。めでたしめでたし。  もし、将来海外の英語圏に出るときは英語の特訓が必要になってしまった。 なんの こっちゃ…。   *******************************************************     今は昔、それは何度目かの大いなる夜明け前、 浜辺にまだ年若い亀が打ち上げられた。 ある漁師が見つけて介抱すると亀は元気を回復した。 村の衆が集まって物珍しさに色々と聞きただした。 亀はすこしなまりが強くてその上村人には理解できない言い回しも用いる。 亀はそのことに自分では気づかないようだった。 ある若い衆がかわいそうに思ってなまりの矯正を買ってでた。 この村で暮らそうと思ったらそんなにひどいなまりではいけない。 亀はどこ吹く風で方言のまま、漁の話を始めた。 苦労して聞き取ると年若いだけあって実体験を積んだ漁師には片腹痛いような底の浅 い意見だった。 初め、おもしろがって集まってきた村人たちは一人去り二人去り、 気がつくと亀のまわりには村の長とあの若い衆だけになっていた。 「亀さん、やっぱりあんたはこの村では暮らせんようだ。 この村にはこの村のしきたりというものがあって、ほかの村にもやっぱりそれはある。 話に聞くとあんたはほかの村でもしきたりに合わんで旅に出てここに流れ着いたよう じゃの」 長は知性のかたまりのような人で亀の考えなどすべて見通していた。その上深い思い やりをもっていた。反論などしようもなかった。 亀は早くも別れの時が来たことを悟った。 そして、元来た海にひとり静かに戻っていった。 それを天界で見ていた方があった。 「おい、天使長、どうしたというのや。あれでおしまいか。あれやったら今までと同 じやないか。あんたが今度は大丈夫やちゅうから見てたのに。浦島の話はみんな知って るのかいな。 そろそろ、亀を送って村人の成長の具合を見てもええというから送ったのに これでは幕を上げるわけにはゆかん」 「大神さま、少しお待ち下さい。あっほら、だれか物陰から出て参りました」 >>95/01/31 苦界の放つ矢は確実に目を射るが、心有る者は胸に手を当てる 去り行く亀の後ろ姿を見ていた猫が目に涙をためてかたわらから出てきた。  九+カイ(一)=十の放つ矢によって目を射られたらしい。 胸が痛いといって胸に手を当てている。 きっとこの猫には心があるのだ。 >> 96/03/05「新しい袋に古いものを納めていたがこれを世にだそう」と天使  もう時代は変わろうとしている。袋は新しくなった。中に入れるべき葡萄酒も新たに 醸造されつつある。パソコン通信という新たな枠組みにも古い考えの発酵した葡萄酒が まだ入っている。もう、新しい袋に十分になじんで破れることはない。もう古いものは だしてしまうときである。恐れていると新たな葡萄酒がいつまでも入れられない。 >>>94/09/18 明けの明星が明けない空に輝く時、小さな黒いものが月を横切る 前に見たようにみんなが空がまだ明けないと思っているとき、 小さな黒いものが「明」の月を横切って「日目」「カメ」が出てくる。 それは人の生長を確かめるため。次の時代の幕を開けても大丈夫かどうかカ メの形に秘められて人心の連繋を見に送られる。人がスになり愛を持って獅子の門を通 るときを心待ちにする大神の試しなのである。この機会を無駄にはできない。自分に与 えられた最後の試練なのだから他に押しつけずに自らの責任を全うしたい。           (つづく)         ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/03/27 - 00621/00622 VEG02736 山部正人 偽善について。聖書では、 (15) 96/03/26 23:37 00578へのコメント まるにちょん さん、こんにちは。   >  面白いので、ちょっと本筋から離れますが、「偽善」について話すのも良いかな > と思います。山部正人さんは聖書の知識があるようなので、そこらあたりからのア > プローチをお願いできますか?  とのことでしたので、遅れましたが、出てまいりました。(^^;)偽善に関して は、マタイ伝ですと、第6章になります。と言いましても、私は、キリスト教信 者でも、ありませんし、神学的知識もゼロに近いので、そのへんは、悪しからず お願いします。    ここで、さすが、イエスキリストの言うことは、違うなあと感心したのが、良 いことを行うとき、人の前で、行うな。施しをする場合、右の手のしていること を左の手に知らせるな。祈るときには、それを人に見せようとするな。断食をす る時には、陰気な顔をして、断食をしていることを人に見せようとするな。  なぜなら、彼等は、そうすることで、良いことを行ったことの報いを受けてし まっているからだ、神は、隠れた事を見ているので、自分にさえ分からないよう に、隠れて、良いことや、施し、断食をしなければならない。そうすれば、神が 報いてくれる、と述べられている部分です。  確かに、良いことをして、その結果誰かにほめられたり、自分で、良いことを したなあ、と満足感に浸れば、その時点で、報いを受けたと言えるのかも知れま せん。  しかし、それでは神が 報いてくれないそうです。ここの、神が、報いてくれ ると言うのは、どんなことなのだろうと、私なりに考えると、20節から、21 節にかけて、天に宝を蓄えなさい、宝のあるところに、心もあるから、と言って いますので、魂の進化の問題に関係があるのではないか、と漠然と考えていま す。  以上のことから、偽善を免れて、天に宝を蓄えるのは、かなり難しいことと思 われます。なぜなら、良いことをしているという、意識なしに、良いことをしな ければならないからです。良いことを、特にしようと思わずに、自然と行ったこ とが、他人から見れば、良いことであり、しかし、良いことを行った本人には、 良いことをしたと自覚させてはいけない。なぜなら、その時点で、賞賛と言う報 いを受けてしまっているから。  このような観点から言えば、世間一般に悪人と言われている人が、ごく自然に 何気なく良いことを行い、端からは、「悪人が、善人のふりして、良いことをし ているぞ。」と陰口をたたかれている状態が、天に宝を蓄えている状態なのかも 知れないと、思ったりもします。  いずれにせよ、イエスの言う、施しをするときは、右の手のしていることを、 左の手に知らせるなと言うのは、かなり難しいことと思われます。                        96/03/19(火) 19:59 山部正人(VEG02736) 00622/00622 KHC01313 まるにちょん 善悪二元論からの脱出 (15) 96/03/27 08:09  人間はどうして悪を憎むのかを考えたいと思います。  まず、皆さんとお話ししてきて分かってきたことは、やはり「善悪」はそれを感 じる人間の主観的なものではないかと思います。  だから極論すれば、人にとって善悪は、人の人数分あると言えるのではないかと 思います。  この主観的な善悪判断も何らかの基準が、心の中にあると思いますが、これは自 分にとって都合がいいかどうかに囚われているように思います。  本筋から少しずれるかも知れませんが、僕が悪を排除したい気持ちはなんなのだ ろうか考えてみます。  僕自身のことを言えば、悪を排除したいという心はありますが、この気持ちをよ く見てみると、自分にとって都合が悪いかどうかで判断しがちです。  それと、悪を排除したい気持ちの裏側には、綺麗でいたいとか自分は悪人になり たくないとかの思いがあります。  あるいは、自分が「悪」をなす人間に見られたくないという気持ちもあります。  悪を排除したい気持ちには、自分は「いい人間」だと見られたい、もっと突き詰 めると「良い人間」と思いたいという気持ちがあります。  とどのつまり、そうして自分にも他人にも悪を見たくないと言うことになります。  「いい人間」というのは、外的評価を気にしていると言うことですね。  しかし、この外的評価を気にしての善悪判断をしている限りは、いつまで経って も善悪二元論から抜け出せないように思います。  この善悪二元論のワナは、自分が悪と思われることを為そうが、他人がそうしよ うが、結局の所、悪を見たくないことにあると思います。  しかしながら、主観的であれなんであれ悪は悪として目の前にあるわけです。  人としての成長には、主観的に悪だと思えることも、必要なことならば悪ではな いと思います。  また、自分が誰かの為にあることをしたとき、それが相手にとって主観的に悪で あると思われたとしても、それが必要なことならば悪ではないのだと思います。  悪を感じることを否定しているのではありません。  僕自身考えて思うのですが、悪だと感じても、それが人の成長、魂の成長の為に 必要なことなのかどうかを一応の基準としてもっておくといいのではないかと思い ます。  人の主観的な善悪、いや極論すれば好悪ではなくって、自分の成長に必要ならば なんでも取り込んで行くことだと思うのです。  そのためには、悪はいけないことだと排除したり目をつむっていては何時まで経 っても成長していかないのではないかと思ってしまいます。  うーん、なんだかまとまりません。  では、また。                     まるにちょん、○ゝ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/03/27 - 889/889 QZY01267 猫の手 みんな同んなじ (19) 96/03/27 11:12  天国の神様も  宇宙の果てに住む宇宙人も  その辺の誰かさんも  手にできてないものがある。  もしそれを手にしてたなら  きっと誰も彼もがそれ真似してる。  でもそれを誰も手にしてないから  誰も真似できず、  誰も彼もが迷う羽目になる。  もしこの宇宙の彼方に  誰もが納得がいき、  誰もが喜べて、  誰もが幸せ噛みしめられる  普遍の何かがあったなら  誰もがそれを真似しない筈はない。  ところが地上は  戦いの場になって  自分の欲求を満足させるため  正義のために  あちこちで  何度も何度も  戦い、繰り返される。  上の方から人々の生き様眺め  ひと味違う誰かの意識に入り込み 「ああだ! こうだ!」と  指図する存在がある。  その上、なかなか思い通りにならないと 「何度同じこと言わせるのだ!」  と叱咤する。  そんなこと言うならば、  そんな高みに居ないで降りてきて  同じ土俵でやればいい。  そう思う私も居る。  でもネ、  何処に居ようと  問題ではないこと知っている。  それは何処に居ようとも  全く同じこと。  その存在も、私も、誰も、  精神性向上の進歩の仕方は同時進行だから  どんな知識を持ってる奴も  どんな力を持ってる奴も  精神性のレベルにおいては人並みでしかない。  そして彼らは彼らの中で  自分のテーマと取り組むことになっている。  この地上が壊滅したならば  宇宙もただじゃ済まされないの。  彼らもホントは必死なの。  そうなってしまったら、  自分の存在も危うくなるの。  だから何とかしたいと思っているけど  歯痒い思いをしつつ  何とかしようと焦る。  彼らもやっぱり、  自分の想いを見つめつつ  どう表現するか悩みつつ  起こっていることに当惑しつつ  想い、表現、結果の中に生きている。  それぞれがそれぞれの場所で  自分のテーマに直面しつつ  幸せ求めて生きている。 「高みの見物しててぶーたれてるな。」  そんな恨みがましく思うことないよ。  その高みも結構苦しいんだから  そこに居るのも  野次馬としてそこに居るわけじゃなく  何とかしたいと思ってそこに居て  やっぱり私と同様に  想い、表現、結果の中であがいているの。    彼らだけ先に飛び越えちゃってるわけじゃない。  私だけ取り残されてるわけじゃない。  そしてまた、  私だけ先に抜け出せるわけじゃない。  みんな一緒なの  みんな同時進行なんだから。  私は安全課の係員、  新米の係員  あなたは現場の指揮者  私がひとこと言うと 「現場のこと何も知らないくせに。」  と白目を剥かれ、  それでも誰もがうまくいくこと願いつつ  私は悩む。  どうして貰うのが一番良いんだろうか  ああして貰うにはどう表現したら良いんだろうか  何が一番良いことなんだろう。  そんなこと色々思い巡らせながら、  現場に行って安全通路の作り直し手伝って  へとへとになって帰ってきて、  もっとやりたい仕事があったのに・・・  そう落胆していることもある。  誰が偉いというわけじゃない。  それぞれがそれぞれの持ち場で生きている。  安全課だと言ったって  つるはし振り回すこともある。  社長だとしても、  本当に大切だと思ったら  ゴルフクラブ放り投げ、  つるはし振り回すこともある。  それぞれの立場に応じ、  お互いをいたわり合って  仕事をしたときに  幸せな感じがするんだと思う。  それが幸せなんじゃないかと  私は思う。  誰もが幸せになりたくて  誰もが幸せであること願ってて、  今このときは  誰もが幸せ感じてるそのときに  向かっているはずだから。     ** QZY01267/『猫の手』 <96/03/27 09:01:50> **