「おい、ちょっと待てよ。なんだよその態度は」と焚き火の民 - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/04/26 - 00876/00876 CQE04277 九印 金 多久と呼ばれて ( 5) 96/04/25 22:57  最近、なーんかキムタクにミョ〜な親近感を持つなぁと自分で思っていたら。  友人「ねえ、○○(私の呼び名)・・・」  私「何?」  友人「ふははは、ごめん、怒んないでよ」  私「?なんで? どうしたの?」  友人「○○の髪型、キムタクに似てるー」  周り爆笑。そっかー、妙な感覚はこれが原因だったのね。  一目惚れなんかも、こういう本人が気付かない心理が働いているのかも、と  ちょっと思ったりした。                    CQE04277 九印 - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/04/26 - 00991/00993 KFQ02761 しまうま 「やってないこと」と虎 その1 ( 6) 96/04/25 17:56 コメント数:1  なんか変なタイトル(^^;。  まあいいや。  先日来ちょくちょく話題になっている「やってきたこととやってないこと」 について、ちょっと考えてみる。思いつくままなので脈絡ないけどご容赦くだ さいm(__)m。  別に「やってきたこと」が間違いであって、「やってないこと」が正しいこ とだから、「やってないことをしなさい」ということではないと思う。ただ、 「やってきたこと」の中には、特に考えも理想もなく惰性でやってるだけ、と いうことの方が多い。悩まなくても、特に苦労しなくても続けられるから続け ている、というのも多い。何の疑問もなく維持している、という状態は、いわ ば“守りに入っている”状態だ(これも、守りに入っていることが悪い、と言 いたいわけではない)。  「やってきたこととやってないこと」を考えるにあたって、まず最初に注目 したいのは「なぜそれをやり続けているのか」ということだ。題材は何でもい いと思う。日常生活の中で浮かんだふとした疑問や違和感、あるいはショック なんかがあったりすれば、そこで考えてみる、というのでいいんじゃなかろう か。というわけで、早速やってみよう。  「自分にとって心地よいこと」と「他人の役に立つこと」という2つの選択 肢があれば、僕はたいてい「自分にとって心地よいこと」を選ぶ。もっと言え ば「自分にとって心地よいこと」が「他人の迷惑になること」である場合にも、 「自分にとって心地よいこと」を選んでしまいがちだ。  具体例を挙げてみる。僕は最近、一つの仕事をせっつかれている。依頼され て「はい、やります」と言った仕事だから、当然やるべきだ。当たり前だ。実 際、たぶん2、3日集中してやればできる仕事だと思う。でも、やっていない。 なんとなく「時間がない」「忙しい」と思っているのだが、ホントにそうか? と見直してみると、案外暇さえあれば本を読んだり居眠りしたりしている。  結局、単に「やるべきこと」よりも「やりたいこと」を選び続けているだけ なのだ。  じゃあ「やりたいこと」よりも「やるべきこと」を優先すればいいんだな、 というのは、また一つの短絡だと思う。なぜ「やるべきこと」よりも「やりた いこと」を優先しているのか。それが「他人の迷惑になること」であってもな お「やりたいこと」を優先し続けているのは、何のためか。そこに着眼してみ たほうがいいような気がする。  何でだろう? 正直言ってあまりよくわからない。依頼された仕事を、あま り大切だと思っていないのかもしれない。あるいは、仕事を依頼してきた人と の関係を軽視しているのかもしれない。よーするに仕事先の人との信頼関係よ りも、自分の生活のペースを大切にしている、ということなんだろう。うん。 そうだと思う、実際。  で、それでいいのか? これまた正直に言ってしまえば、それでいいような 気がしている。少なくとも、特に重大な支障はきたしていないように思う。い よいよ本当に切羽詰まって、否が応でもやらざるを得ないような状況になって きたら、それからやり始める、というので今までなんとかなってきたのだ。  ホントにそうか? これからも、このままのやり方でいいんだろうか? 将 来的にも問題はないのか?  ……と自分に問いただしてみると、ちょっと考え込んでしまう。たぶん、問 題点は2つあると思う。  まず1つ。人の信頼を損ねることは、仕事先との関係を狭めることにつなが る。仕事先との関係が狭まることは、たちまち何で困る、ということはないに せよ、長い目で見ると大きな損失につながりそうだ。「あそこの仕事の納期は ものすごくルーズらしい」という噂がたったりすれば、それはそれでけっこう 致命的だ。うーん。  もう1つ。今やっている仕事の分野がおもしろくない、と感じている部分も ある。突きつめて言えば「別に今の仕事の分野で一生やってくわけじゃないか ら、少々悪評がたってもかまうもんか」と思っているのだ。これじゃあ、身が 入るわけない。こんなんだったら、言い訳ができないようにさっさと「一生や っていきたい」と思える分野に移るべきだと思う。ただ、いずれにしろ“責任 感の欠如”という問題はついて回るので、それはここできっちりカタをつけて おきたい。  という風に考えてみると、やはり僕の「やりたいこと優先」主義は、自分の 人生において支障をきたしつつある、と言っていいような気がする。  で、最初の疑問に戻ってみよう。なぜ、僕はやりたいことを優先し続けてい るのか? ちょっと考えてみれば、それが自分にとっての「本当にやりたいこ と」から遠ざかる原因にもなりかねないことなのに……。  ここでたぶん「虎」との関係が出てくると思うのだ。  長くなってしまいそうなので、発言を分けます。次は「虎」について考えて みます。 しまうま(KFQ02761) 00992/00993 KFQ02761 しまうま 「やってないこと」と虎 その2 ( 6) 96/04/25 23:51 00991へのコメント  このフォーラムで時折取り沙汰される「虎」について、ちょっとおさらいし てみよう。  僕が今まで「虎」についてよくわかった(気がした(^^;)のは、以前みれさ んの7番会議室での発言を読んだときだった。長くなるけど、ここに主要部分 を掲載しておきます。 |03560/04000 SDI00635 みれ RE:イニシエーションとしての人生 |( 7) 94/09/27 17:58 03448へのコメント (前略) | アリオンも以前、書籍の中で語っていますが、私達の魂は神である全き |存在(エネルギーと呼んでも良い)の一部の、そのまた一部を受け持つ部 |位であると私は認識しています。(ここから比喩ばかりで話していますか |ら、ご留意ください) | その魂が家だとすると、その家から家に並行して通る道路までの前庭を |心と呼びます。多くの車が去来する道路は知識情報の部分です。 | この各家にはTV受像機があり、そこには大元のエネルギーである神か |らの伝達が映しだされます。家人は家から出て前庭(心)を通り、表の道 |路を使い各種の情報や知識を得ます。得た知識を再び前庭(心)を通って |家に持ち帰るのです。 | ところが、道路ばかりが拡張されると前庭が狭められ、また排気ガスな |どで環境が悪くなるため、家は窓も閉じたままになりがちで、しかも外か |らの知識情報を重んじる余り、家の前まで車を入れると前庭は車の轍で荒 |れ放題になり、機能しなくなります。前庭が無いと、往来から車が家に直 |に飛び込んでくることもあります。 | 家を前庭と共に保つには膨大なエネルギーを要するので、移動に便利で |且つ前庭など必要としないキャンピングカーを寝起きの場としてしまう人 |も出てきているのが現状です。知識情報偏重で、心を通して魂側の情報を |取り入れることをしない人達は、キャンピングカーに住む人達です。 | さて、前庭には更に厄介なことには、実は隅っこに猛獣が住んでいるの |です。これは人によっては「虎」であり、また「豹」だったりしますが、 |何故か必ずネコ科の猛獣と決っています(これは、何故か知りません)こ |れが我欲と呼ばれるものです。 | この我欲の虎は、非常に頭が良く、自分で見つけださねば見つからない |し、また見つかるまでは貴方自身の後ろにピッタリと付き添い、あたかも |貴方=虎であるかのように、貴方に思い込ませます。しかし、この虎は家 |(魂)の中には入っては来れないのです。 | キャンピングカーに寝起きする人達は、自分=虎だと錯覚したままなの |でキャンピングカーの中に虎を入れて生活していることになります。 | 自分を観るを進めると、魂である家の中から、この虎がチラリと見える |瞬間があります。それを見た貴方は愕然とします。今まで「私は…」と言 |ってきた自分自身だと思い込んでいたものが、実は我欲であり「本当の自 |分」では無いことに気付くからです。気付かれると、虎は大暴れして抵抗 |します。 | この抵抗はとても強く、そして長期に渡ります。継続して抵抗してくる |のであれば、対処も容易いのですが波状に抵抗してきます。しかも、虎は |巧みに貴方を暗示に掛けます。何故ならば虎自身を貴方自身だと思わせて |おかねば、貴方は魂側からの情報によって虎(我欲)をコントロールしよ |うとし始めるからです。虎の天下であった世界を、魂の側に渡したくない |がために、虎は未だかつて味わったことの無い苦痛を貴方に与えるでしょ |う。 | 時には猫撫で声で、貴方に向かって「それでいい、もう大丈夫だ」など |と、あたかも神に成り代わったような言い方もしてくるから、厄介です。 | アリオンが教える「混沌の中から清水を得る」方法は、この自分の内部 |での虎の大暴れの混乱の中で、非常に有効な方法です。 | しばしば、悪魔の囁きと言われる甘言も実は、この虎の場合が殆どです |が、悪魔と言ってしまうと自己の内部から追い出して締め出せばOKとい |う様な印象があり、私は、これはちょっと違うな…と思っています。 | 虎は飼っていなくてはなりません。これが居なくては、人は機能しない |ほどのものでもあるからです。追い出したり殺したりしてしまったら、自 |分本体の機能が維持できなくなります。 | 虎を見つけだし、シッカリと見据え、誰が主人であるかを分からせてや |らなければ、霊主体従の生き方は出来ません。そして常に油断は出来ませ |ん、この虎はいつも、虎視耽々とあなたの喉笛を狙っているのですから。 | オカルトと呼ばれるものも、精神世界と呼ばれるものも、より良い生き |方(*1)を教えるための手筈であり、そこに書かれてあることは知識的な満 |足のためのものでは無かった筈なのに、いつの間にか実践しないのが精神 |世界であり、人を説得したり人より優位に立つ手段としてのツールとして |利用されたりし始めていることは、遺憾なことです。 |(*1)…ここで、私の話すより良い生き方とは、虎(我欲)に捕われたまま、 |   自分=虎だと錯覚して生きることでは無く、自分を虎から分離し、 |   虎(我欲)の主人として、魂側の情報に則って生きることです。  うーん、付け足すことがなくなってしまった(^^;。  次回は、上記のような「虎」の認識に基づいて、自分の中の「虎」の部分を できるだけ明るいところに引きずり出してみようと思います。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/04/26 - 856/856 MHA01114 シュメ−ル RE:昔の陰陽師は金目的で人を殺したか。 ( 9) 96/04/26 01:01 851へのコメント TAOさんレスどうもです。 勝手なこと書いてすみません。スウさんもチャチャいれたみたいでゴメン。書こう かどうしようか、どこに書こうか、と思っていたら、スウさんが書いてくれたんで、 よっしゃといいたいことを書かせてもらいました。あの時代、日本の支配権をめぐ ってたぶんオニと呼ばれる系統が密かに活躍したんじゃないかという印象が私には あるのでした。  そういえば「AOM」ですが、これって日本語の母音の「AOU」と近いですね。 『君が代』の「イはオとなりね」にもあるように日本語の母音は「aiueo」か ら「aouei」にするのが正統なんだという話がありますが、(荒深道斉関連が いいだしっぺか?)もしかすると、「AOUM」が宇宙創造の聖音だったのかもし れない。Aは創造神クリシュナ、Oは維持神ビシヌ、Uは破壊神シバ。AMはこの 地球を計画し、創造に関与した勢力で、すでに主勢力は創造を終えて、地球から離 れている。残っているのはその末裔。OMはAMに代わって地球計画をコントロー ルしつづける勢力。表には出てこない。UMは地球創造計画の幕を引き、次の創造 へと繋ぐ役割。このUMの働きを母音で並べると、「U−A−O−U」になるが、 ここに音列に子音を挟むと、「SUSANOU」となんかスサノオと似てくるのが 偶然か。スサノウは地球の幕を引くものなのか。  では「ei」は何か。「aou」は口の形でわかるのは、口の開きを狭めて行く 音系列なのに対して、「ei」は口を横に閉じて行く音系列になっている。これっ て縦系列と横系列の違いかもしれない。縦の創造原理と横の創造原理ってのは日本 ではお馴染み。火の原理と水の原理。「火・水原理」で「火水伝文」と同じ。こう かんがえてくると、「aiueo」が縦の創造原理に「i」をさしはさむことによ って横の原理を強調したものであることが見えてくる。旧約聖書にある神が地上の 言葉を乱したという比喩はあるいはこの「aouei」から「aiueo」への母 音系列の変換の記憶を伝えているのかもしれない。横原理の強調により地上は物質 化傾向を強め、記憶力が衰退し、書き言葉という道具に頼らざるを得なくなった。 文字の発達とは実は、人間の直接的伝達能力、直感力、記憶力減退の歴史だった。 そして言語は次々に分化し、互いに理解不能な言語系へと退化していった。他方、 言魂のさきわう国、日本は……。  ……と妄想は止まる所を知らないのですが、日本語の母音の発展経過を調査して みないといけないでしょうね。母音が現在の5つに固定されたのは最近のような気 もする。  またまたここの会議室からはみでたことをかいてしまっいるきがしてきた。毎回 おもいつきでダラダラ書いてしまってます。TAO さん毎度御免なさい。 - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/04/26 - 02119/02121 JBH00712 桂 桂 RE^4:UFO・その他 (11) 96/04/25 19:59 02116へのコメント  #02116 ふぁらんどーる さん  こんばんわぁ、お久です。 <  瞑想なんかして、自然の美しさについてイメージが湧いてくる。そこに安ら < ぎがあるならば、それを守らなければいけない。何故なら自分も自然の一部な < のだから。ってね。  何となく、オカルトマニアと自然保護運動が一つになる理由を察するころが出来 るような感じですね。  どちらにしても、安易な形での安らぎ、平安、自己同一化出来るものを捜してい るということになりますか。両方とも形の付かない、好きな理由付けの出来る代物 ですし、それだけ手短な「問題」として意義のあるものとして捉えることが出来る ものなんだと思えます。  それだけにハマルのも容易なものなのでしょうけど。  でも、それって一番安直な現実逃避だと思うのですけどね。  先進国と後進国との違いにしても、自然保護運動の先に立つ人がどれだけ自己 基盤を文明の豊かさに身をおいて言っているのか、この点自己批判をしているの は全くの小数といえますし、どだい時代感覚を間違えているとしか思えない。  豊かな文明においてでしか、「自然を守ろう!」という錦の御旗が掲げられな いのはこれは矛盾というものですし。結果としては人間の都合の良い程度に自然 を保護しようと言っているようにしか聞こえない。  この点よく犬神明が愚痴っていたな(笑)  同じ様に精神世界・オカルトにハマル人間に対してもそうですが、過去にあっ たGLAにしても今ではライフダイナミクスでもそうですが、所詮サイダーのよ うなていの良い刺激物であって、それによって何人人格が崩壊しようと家庭を破 壊されようとも、人事でしかない、想像力の無い方達が口の端に乗せるという感 じもしますね。 桂 桂(JBH00712) 02120/02121 JBH00712 桂 桂 RE^5:UFO・その他 (11) 96/04/25 20:23 02117へのコメント  #02117 Y.K さん  Y.Kさん、こんにちわ。 < なんとか苦労して、我慢を覚えながら自然との共生の道を選ぶか・・・。 < 自然を食いつぶしてでも、価値ある何かを創造するか・・・。  私はライフダイナミクスの意義についてを肯定するつもりも無く、やぶさかでは ない否定論を述べるつもりもありません。今更広範囲に触れ回っている新宗教群に ついても、同じ事です。これは個人的な嗜好でやって頂くなら別に興味もなく、私 はそれをやるつもりもない。ただスタンスとしては否定的ですが。  気になったのは上記の引用文なのですが、別段二者択一を迫る必要もないのでは、 ってことですね。  これはライフダイナミクスについても、同じ様に狂信・盲信への態度と同様なの ですが、片方を是とするか、それとも否とするかによる選別こそが、偏った物の見 方しかもたらさないということです。  オカルト嗜好や終末思想の流行というのは、有る意味で現実に生きることへの逃 避・即ち現実否定から出て来ているような気もしますね。 桂 桂(JBH00712) 02121/02121 JBH00712 桂 桂 終末への誘い (11) 96/04/25 20:52  週末が近いから終末の話をしようかな(爆)  聖書によるとその昔ソドムとゴモラという二大都市があった。  大層栄えたそうだが悪徳によって腐敗し、神の怒りによって破壊された街だそう です。  現在手元に聖書を置いていないので、「ウルフガイ・イン・ソドム」から街の様 子を引用する事にします(^^ゞ 「ソドムでは人間の命は大量消費財でしかなかったのである。人名は金で買える最  も安価な商品でしかなかったのである。同性愛、獣姦、強姦など変質的なセック  スがしょうけつを極め、ありとあらゆる背徳が完全カタログのように揃っていた。  全ての善きものがここでは辱められ、悪徳だけが一流市民としての市民権を握っ  ていたのだ」  この時代の犬神明は「カルデヤのウル」という荒くれ者でやって来る。  いつの時代でも強いやつは強くあると言うのが何ともウラヤマシイです(笑)  それはさておき、どうして悪徳と腐敗がはこびるようになったかというと、それ は中東の流浪の民、ユダヤ人からすると神によって与えられた十戒が人間によって 守られなくなったかららしい。「汝殺す勿れ、姦淫する勿れ、物を盗む勿れ・・・・」 っていうアレです。ハリウッド映画でもお馴染み(個人的にはあの映画より、「ベ ン・ハー」の方が好きなのです(^^ゞ)。  世紀末には人間道徳が守られず、欲望に任せた背徳が横行するのが常らしい。  そういえばプラトンも孔子も盛んに道徳と戒律を重んじる思想を作ろうとしてい た。いわゆる哲人政治・哲人国家というものだ。人間社会というのは律するという ことをしないとまるで白蟻に食いつぶされてしまうような脆い社会であるらしい。 かといって律する事を重んじると型通りの官僚主義に陥ってしまうのが災難。  おっと閑話休題。 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 96/04/26 - 00910/00910 MHA01114 シュメ−ル イルカとクジラは特殊かどうかについてD D (12) 96/04/26 02:28  おひさしぶりです。  ビデオデッキを修理にだしてるんでここにも書き込める。(と、意味不明のこと をかいてますね。一人ごとです)  イルカやクジラのことがしばし話題になってますが、欧米系では人間と人間以外 の存在はまったく他人、みたいな極端な発想が昔からあるみたいで、やっと、最近、 肌の色がちがっても同じ人間と見做す習慣が定着しつつあるという状況。それでも 黄色には気をつけろといまだにいっている人達の噂がちょいちょい入ってくる。そ いった状況で、やっとイルカやクジラが人間と対等の生存権をもつ生き物のリスト にのりつつあるという歴史的な流れを考えておく必要がある。クジラが激減したの はヨーロッパの列強が単に油を取るためだけに、クジラを捕獲しまくったという歴 史のせいなのであって、日本の捕鯨は「クジラも人間と同じ生き物だけれど、我々 にとって必要だから、悪いけど、食べさせてもらうよ」といった精神で実施されて きた。その証拠に日本では、捕獲したクジラは体の全部を利用させてもらったし、 魂をとむらう社も作ってきた。クジラの頭だけをかち割って、欲しい油だけを回収 し、あとは捨ててしまっていた手法との違いは歴然。  そういった歴史的な意識の違いを念頭におかないで、イルカは人間の友達という ときの友達のレベルを日本人は誤解してしまう。酒がはいるとすべてが分かりあえ て許されてしまうという社会での友達とイルカやクジラは違うのは当たり前なんだ けど。  欧米においてダーウインの進化論の与えたショックは他の動物と人間が連続した 存在になってしまうことへの拒絶だった。それほどに彼等は人間を特殊な存在と思 っていたらしい。そういう彼等にとってイルカやクジラはあるしゅ画期的な存在に なってしまった。で、ついつい力がはいる。バカなのはその文化をそのまま日本に もってくる人達でしょう。日本じゃ生物はむかしから友達だった。  ついでに個人的な体験を書けば、この間、クジラの剥製を見る機会があったので すが、剥製なのに、なにやら同調する波動みたいなものがやってきて驚いた。ま、 個人的な体験なんでそれだけのことです。なんせ同じような感じを遠野の「泣き石」 と呼ばれる巨石からも感じたことがあったので、クジラが特殊かどうかは全く個人 的にも不明。挙げ句の果てに、その「泣き石」二度目にいったら黙ってて、その隣 の巨石の方に今度は特殊な印象をうけたりするんだから、再現性を要求される通常 科学のはしにもぼうにもかからないノイズになってしまう。科学の限界と個人的感 覚の限界を共に自覚して、使い分けるのが現代人の知恵じゃないかなと思う。事故 に遭いそうな予感がしたら外出をやめるのが知恵であって、「そんな予感は科学的 でない」(それはそのとおりでしょう)といって、あえて無視するのは愚かだと私 は思う。科学=正解というのは常に正解とは限らない。確立が高いことは確かでし ょう。ニューエイジの潮流にはおかしな事がけっこうあってそれをひとつひとつ潰 して行く必要を感じますが、「ニューエイジ批判をするのがネオニューエイジのフ ァッション」になってしまうのは避けたい。「絶対的」とか「絶対の」とかの羅列 は麻原陳述だけでもうこりごり。 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/04/26 - 04539/04540 QZD02307 ジョリー KAZEさん迎撃ミニオフのお知らせ (13) 96/04/26 09:27 ども、皆さん!ジョリーです。  オフには、初参加ながら、おそれ多くも告知など、させて頂きたいと  思いますm(__)m  という訳で、KAZEさんの迎撃OFFを行いたいと思います(^^)。  まず、下記の場所に集まりしだい、お店探しなどを考えておりますの  で、その旨ご了承願います。  ■  日時   4月30日/午後6時  ■ 集合場所  新宿駅東口下車 紀伊國屋書店                  (一階エスカレータ登り口付近)  ■  目印   見えるようにカード(テレフォンカード等)を、手          にお持ち下さい。  参加を希望される方は、30日正午までに、私宛にメールをお送りく  ださい。また、飛び入りの方は、時間前までにお集まり下さい(^^;)。  では、宜しくお願いいたします。                       ジョリー(QZD02307) 04540/04540 GGA02514 KAZE 中道論11●風説維摩経4 (13) 96/04/26 09:50 続いて、「維摩経」の第三品「弟子品」にはいります。 ここでも、維摩そのものが登場するのではなく、 第二品の「弟子品」に続き、さらに深く維摩が紹介されます。 紹介といっても、維摩が仏の弟子をやりこめたというエピソードを 仏の弟子たちが語るという形での紹介で、これがなかなかに面白いわけです。 まず、最初に、その話の設定について簡単にご説明しておきますと、 維摩が病気になったということで、さまざまに見舞客が訪れるのですが、 その維摩の病気というのは、病気になったふりをしているだけで、 実は見舞客に教えを説くというのが目的でした。 しかし、在家の人たちには教えを説くことができたけれども、 まだ仏と仏の弟子たちはまだ病気見舞にやってきません。 で、そうした維摩の意図を知った仏は、 十人の弟子たちに維摩を見舞うように言いますが、 その誰もが、見舞にはいきたくないといいます。 なぜかというと、その弟子たちはかつて維摩にやりこめられたことがあって、 それで維摩を苦手としており、行きたいくないというのです。 その弟子たちというのは、舎利弗(しゃりほつ)、大目けん連(だいもくけんれん)、 大迦葉(だいかしょう)、須菩提(しゅぼだい)、富楼那(ふるな)、 迦旃延(かせんねん)、阿那律(あなりつ)、優波離(うぱり)、 羅ご羅(らごら)、阿難(あなん)ですが、それぞれが、かつて維摩に 痛いところを指摘された経験を語るというのが、この「弟子品」です。 まず、最初に釈迦が維摩の病気見舞いをするように言ったのが舎利弗ですが、 舎利弗はそれを辞退します。 以下、これまでと同じように、鎌田茂雄「維摩経講話」より、 その辞退した経緯などについて。   舎利弗はかつて静かな森のなかで坐禅をしていた。そこにどこからともなく   あの維摩がやってきて、「舎利弗よ、ただ坐っているだけが坐禅ではないの   だよ」と言った。(P.82)    人里離れて、静かな森の中で静かに坐っているのが坐禅なのか? そう維摩は、坐禅の本質について舎利弗に問いかけたのです。 つまり、静かなところ以外で、坐禅はできないというのか、ということです。 本当の坐禅について、維摩は舎利弗に説きます。   三界において身意を現ぜず つまり、あれがいい、これがいいというふうに、 選り好みをしないというのが本当の坐禅だというのです。 そういう意味では、静かな場所でしか坐禅ができないというのは、 その「選り好み」でしかありません。 どんな場所でも、心を静めることができてこその坐禅なわけです。 さらに、維摩は説きます。 ゚   滅定(めつじょう)を起たずしてもろもろの意義を現ずる    滅定とは、滅尽定(めつじんじょう)ということで、 心のなかにまったく塵垢、汚れのなくなった状態をいうのだそうですが、 これを理想としていたのが舎利弗で、それを維摩は突いたのです。   しかし維摩はお前さんのように山林に逃避して、心に塵垢を少しもとどめ   ず、自分だけ静かに坐禅をしてもそれは死禅にすぎないと説く。どんなに   心の中に塵垢がなくなっても、さまざまな世俗の事の真只中に生きねばな   らない。たんなる逃避の坐禅ではなく、人々とともにこの汚辱の真只中に   生きる坐禅でなければ、死んだ坐禅にすぎないと喝破する。(P.82) 「出家」を悟りに不可欠であるかのように説くあり方というのも 死んだ坐禅をしながら、それに気づかないのと同じで、逃避にすぎません。 自分だけ汚れなければそれでいいのか、というわけです。 さらに、   道法を捨てずして凡夫の事を現ずる    道法とは、聖人の法ということですが、それを実践しながら、 同時に、世俗的な凡夫の事もまた行なうのでなければならないといいます。 つまり、聖と俗を区別し、俗から離れて聖なる道を歩むということを 誡めたということです。 早い話、普通の人のことをわからないで、どうしようというのかということで 聖なる道への探求は、俗のなかで歩むことによってこそ 真の道だということです。 最後に、   煩悩を断ぜずして涅槃に入る    煩悩を断つというのが、悟りだというのはとんでもないことで、 煩悩と涅槃とを区別するようなあり方こそが、ある意味では魔境だといえます。 煩悩のうちにありながら、そこに涅槃をみていくありかた。 煩悩と涅槃との「不二」を生きるあり方。 それが、本来の坐禅でなければならないというのです。 中道ということは、煩悩と涅槃の間にあるものではなく、 その「不二」にこそ見出さねばならない。 そのことを、この舎利弗への批判は典型的に表わしていると思います。 さて、次回からは、舎利弗に続いて、他の方々への維摩の批判のなかから、 (全部をとりあげるというのは、くどくなってしまいますので^^;) 幾人かをとりあげてみることにします。    ☆☆☆KAZE☆☆☆