「気持ち良く私を迎えてくれる所にゆきますよ」と凍え人 - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/05/12 - 00919/00922 GED01563 水戸黄門 御老公の独り言(8) 暗黙知(1) ( 5) 96/05/11 17:09 00905へのコメント またまた、暗黙知にこだわるのじゃが。暗黙知の入門書としては、次の書籍を紹 介させていただこう。 暗黙知の次元 マイケル・ポラニー 紀ノ国屋書店 この書籍の特徴は次の通り、 ・ ポラニー本人の文献 ・ 翻訳が原文に忠実(であろうとする)。 ・ 暗黙知について短い書籍 ・ 暗黙知についてよく整理されている(エッセンスがある) ・ 講義録なのでわかりやすい ・ 入手しやすい(暗黙知の書籍は絶版か品切れが多い) このテキストをベースに暗黙知にこだわろうと思うのじゃが。裏表紙、あとが き、はしがき、目次にそって進むつもりじゃ。 まずは、裏表紙の文章は次のように整理できる。 ・ 知には、言語的知と非言語的知(暗黙知)がある。 ・ 知には、分析的知と包括的知(暗黙知)がある。 ・ 人は両方の知を使って、学習し行動する。 ・ 暗黙知は創造的活動の源である。 ・ ポラニーは暗黙知の構造を明らかにした。 ワシは、こういう表現も追加しておきたいの。 ・ 知には、教えられる知と教えられない知(暗黙知)がある。 ・ 暗黙知は、体験と自ら学習を欲する場合に獲得できるものという側面がある。 暗黙知の属性はこれだけではないのだがの。 さて、暗黙知は、「自分を観る」限界を教えてくれるのじゃが、先をあせらず、 のんびりとやるつもりじゃ。凍え人の限界を知る手がかりも得られるじゃろう。 知的レベルでじゃがな・・・。ワシの暗黙知によれば、ARIONは、自分だけ の暗黙知を獲得せよと主張しておるようじゃ。また、みれ殿の会議室等の運営ス タイルは、多分にポラニーの研究運営方法や弟子の育成方法に似ておる。さら に、みれ殿の思考スタイルは、ポラニーの思考スタイルに似ておる。ワシは、前 者より後者が論理性に優れているが、分析性では甲乙つけがたいと思っておる。 これらのその類似点と相違点も明らかにできれば良いと思っておる。 96/05/11(土) 16:34 水戸黄門(GED01563) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/05/12 - 07427/07447 GED01563 水戸黄門 「虎」とはなんぞや? ( 7) 96/05/11 17:10 07368へのコメント コメント数:2 ワシは正義をささやく虎も飼っておる。TBSに関するマスコミ各社の報道を観 ると怒りがわく。無論。TBSの報道にも怒りがわく。この本体は虎かもしれ ん。感情の発露は虎の咆哮とは限らないとワシは思うのじゃが、このマスコミへ のワシの怒りは虎の咆哮じゃろう。 虎の登場じゃ。虎をしばらく自由にしてみよう。 マスコミ各社の報道は正義感という鎧を着た裁きじゃ。正義は自分が正しいとい う判断で動く情念じゃ。倫理ではない。ときに、ワシは正義に強い怒りを感じる のじゃ。とくに正義の名のもとにワシを批判する者をワシは憎悪し、許さない。 正義は憎悪すべきものじゃ。正義という言葉を使って、価値観をおしつけるな と。ワシはワシじゃと。それはフェアではない。暴力じゃ。正義という名前で 人を裁いてはならん。裁く権利は裁判官という国家権力のみにある。 今日。テレビで島田氏が某宗教団体に関わったことでつるし上げられていた。あ れは公開裁判じゃ。ワシは島田氏を良く評価しているわけではないが、あのよう なパッシングは許し難い。ワシは、怒髪状態じゃった。松本サリン事件は、事件 がおきたとき、裁判やら国際情勢からみて、あの宗教団体のものか某国のやった ものじゃろうと直観したのじゃが、会社員が事情徴収されて、報道は会社員を犯 人と決めつけるような印象を与える報道をした。ワシは、怒髪状態じゃった。マ スコミは、塩らしく反省してみせたが、ごめんではすまぬことをした。あれは暴 力じゃと思ったのじゃ。政府よりたちが悪いと思ったのじゃ。政府は行政を執行 する責務があるが、マスコミは無責任じゃとも思った。彼らは、土下座してもい くら賠償しても許されぬことをしたのじゃ。彼らの報道現場での態度は、だいた い承知しておるが、たばこはなげすて、庭の花木は踏み倒し、借りたものはかえ さない。彼らは立派な犯罪人であり、牢獄に一生ぶちこむべき忌むべき存在とま で思うのじゃ。彼らは、反省をしらない種族なのじゃ。どうしても許しがたき種 族じゃ。この世界から抹殺し、死刑にすべきなのじゃ。なぶり殺しても許せぬ存 在じゃ。どこかの社長は1億円以上の退職金をもらって退陣したそうじゃが、天 下り官僚の昨今の退職金を批判し、その支払いを止めた世論を作った張本人であ るならば、その金をもらうことは道義的ではない。恥をしるべきじゃ。そんな退 職金をもらう資格は、この社長にはない。一生、マスコミに抹殺された人々に対 し少しでも罪を償うために寄付すべき金か、マスコミをただすための基金にすべ き金なのじゃ。社長の金ではない! ここで虎に退場していただこう。 こういう怒りは、すべて虎のものじゃ。「ワシが正しくて」「マスコミが悪い」 と思いたいのじゃ。マスコミは、ワシそのものなのじゃ。ワシ自身がマスコミ以 上に正義を感じており、怒りをもち、彼らを裁こうとしておることがわかるじゃ ろう。彼らは偽善をまとって客観的であろうとする姿勢をみせるがワシの虎にそ れがないだけじゃ。問題は、なぜ。このようなことを思うのかという点じゃ。そ れは、マスコミのもつ権力に対する僻みなのじゃ。「ワシにも権力をよこせ。そ して、彼らを抹殺する権限をよこせ」と望んでおるのじゃ。そして、ワシは、こ のことを認めなくないのじゃ。 まだ、虎があばれておる。この虎の様子をもう少しみてみようと思う。ワシは、 同種の怒りや正義感をFARIONにも抱いたことがある。FARIONのメン バーのすべてが、そのような人種ではないようにマスコミ人すべてに同種の人種 ではない。ワシの延長で者はみてはならぬが、ワシと同様な人種は、やはり、ど こにでもいるのじゃ。ワシの大虎は、どうもこのへんにいそうじゃが、正体は まだはっきりわからないのじゃ。 96/05/11(土) 02:22 水戸黄門(GED01563) 07443/07447 JCF07454 新しい芽 RE:「虎」とはなんぞや? ( 7) 96/05/12 08:28 07427へのコメント  水戸黄門さん。何かの正体をはっきり見るには、実物をはっきり全体的に見る必 要があるのでは?  非常に暴力的で、破壊的であるできごとが起き、心が動かされる。現実はそうな のだが、一瞬、そうあってはならないという思い生じ、怒りを呼び、私は暴力的に 対処してしまう。  日常茶飯事で、誰かが自分の大事にしているコップを床に落としたときにも起こ ります。そして、がみがみ怒り、殴りつけます。その暴力に対して、誰かさんは、 理不尽だということで怒り、暴力がエスカレートする。  しかし、コップが壊れたそのとき、あーっと、うわーっと驚きます。床の状況や 相手がけがしていないか、見る。ああ、壊れちゃった、と言う。ごめーんとか言い ながら、床の状況、足もとを見る。そして、けがしないように、ゆかのガラスを拾 う。それから、まあ、ビールはあのコップで飲むか、などということで、収まって 行く。そこには、ふいの事態に対する強い心の変化がある。注意深い観察がある。 観察が生む事態の理解もある。観察でわかるところからの行為もある。このような、 怒りのない場合もあります。  ふいの出来事には、暴力的な出来事には、何らかの対処が必要だし、何が起こっ たのか、事態の理解も必要で、忙しく、心は強く動揺し、気持ちが高まります。  さてそこで、あるべき姿を持ち込み、怒るとき、それはいったい何をしているの でしょうか? また、暴力が暴力で解決できるのでしょうか? 暴力的なやり方は 文化であり、他の人に伝わります。そうですね?  正義感、怒りの正体を、はっきりわかろうとして行動します。しかし、そこで、 あるべき姿を持ち込んだり、原因を探したりしても、その行為自体が正義感や暴力 ではしかたがありません。  暴力の実物、何とも言えない、むかむかした感情があるのは、まさにそれが起こ っている瞬間、いま、しかありません。いま、その実物の怒りの状態でなされてい ることを、何の批判も持ち込まないで、注意深く見たことがありますか? 回りの できごと、自分の思いと、それに対する反応という全体の、その知覚が理解ではな いでしょうか? 07433/07447 JCF07454 新しい芽 あるものは、はっきりと見えているのでは ( 7) 96/05/12 06:16 07377へのコメント >人間が人間でなくなれば、人間は無いと言うことが有ると思えるようになります。  この文の意味はつかめません。  たいていの人々に起こりがちなことですが、「思える」、という現象があります。 実際に見えているものではなく、思考が作り出し、欲求し、それを対象として投影 してしまう。何かが事実、真実だと思える。意地悪だから、嫌いだと思って、他の 人を見ると、ある程度、そうだと思えてしまいます。これですべてははっきりした、 自分の問題は解決したと思うと、とりあえず、すっきりして、真実がつかめたと思 えるのです。しかし、それは思考自身に過ぎない、ということは、よくあることで すが。思考の産物は実際にあるものではないのでは?  ところで、太陽が昇るのを見ているときには、太陽が出ているように思えるとは 言いません。葛藤があるときには、見ているなら、葛藤があるように思えるとは言 いません。心が静かであり、生き生きとしているなら、生き生きしているように思 えるとは言いません。なぜなら、事実があり、事実がはっきり見られているからで す。そうではないでしょうか? 実際にあるのですから。 07438/07447 JCF07454 新しい芽 自分の思考に特定の地位を与えてしまう思 考 ( 7) 96/05/12 06:22 07377へのコメント >自己が思考を停止して、神の言葉に耳を傾ける領域には人間はロボットになってし >まいます。  回りに対しても、自分の思いに対しても、現実はうまく行かず、苦しいとき、そ の外部に救いを求める。いろいろの考え、知識を活用して。そのとき、ひとは、た とえば、神の存在を感じ、経験する。そして経験が確信を支えてくれる。  しかし、起こっている事実を、直接に、事実のままに見ていると、何が起きてい るでしょうか? 自分の欲求を対象物として、投影していないでしょうか? 救い を欲する心が自分の欲望を満たす対象を見させてしまうのです。違うでしょうか?  それはなお、思考であり、自己なのです。外部の声に従うという形で、自己の欲望 通りに、暴走しているのです。そうではないですか?   そして、何かを思うとき、実際にあるのは思考です。確かに思いは駆けめぐり、 感情、欲求、意志はあります。それらは、生じた瞬間、注意していれば、はっきり とわかります。しかし、自己というのは、はっきりと見えないのではないでしょう か? 思考があり、そして、次に、そう思ったのは私だという思考があるのではな いでしょうか? 何かを思い、それは神の御心だと思う。つまり、思考があり、思 考は次に、その思考、欲求に特定の地位を自分で与えてしまうのです。違うでしょ うか? 07437/07447 JCF07454 新しい芽 心理的な思考に死ぬことが出来ますか?RE: 0 ( 7) 96/05/12 06:20 >思考停止と言うことであっても、考えることを止めて信じることに意識改革、ある >いは認識を新たにすると言うことも、それは人間が生きている間のことはやはり人 >間的な思考の領域でありましょう。 >完全なる思考停止は、意識が消滅して初めて成立するものでしょう。  私たちは心理的には考えを持ち込むことなく生きることが出来るでしょうか?  死というのは、事実としては、いま、持っているものを失う、という意味でしょ うか? それなら、いま、どんな心理的な思考に対しても、死に、新たに生きるこ とが出来るでしょうか?  できるとか、できないとか答える前に、心理的思考の動きが見えている必要があ るのではないでしょうか? そして、見ていることが答えでもあるのではないでしょ うか? - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/05/12 - 02132/02133 JBH00712 桂 桂 翁峠の伝説 (11) 96/05/11 21:54  翁峠には巨大な一本の桜の木があるという。  どんなものかは知らない。本当にあるのかと問われれば、多分「無い」と答える だろう。そんなものは気違いじみた戯言の範囲に過ぎない。あるいは夢想家の幻想 だ。  だがそいつが本当にあるかもしれないと言われたら、一体どんな顔をすればいい だろう。  桜は人を気狂いにする花だそうだ。  少しばかり気を違わせて、おかしな物を見せてくれる。そう、まるで坂口安伍の 「桜の花の満開の下」のように。  できればそんな異様な代物をどこかでお目に掛かりたいと思うのだが、生憎と知っ ている人はいないだろうか。  いないだろうな・・・・                              桂 桂(JBH00712) 02133/02133 CXE03650 Y.K ハウツウシンクロニシティ (11) 96/05/12 00:24  僕にとって、シンクロンシティとは、自分の意識から世界への関わり方、あるいは モードの一つだ。  普段はこのモードは殆ど使われていない。単位時間ごとの眼の前の事象は意識の中 で、それだけで完結しており、この物理的に制約された僕は酷く機械的に、時間の流れ にそって、事象を意識の中で処理していく。とても孤独な作業。全ては分断され、あれ とそれとこれとに意識が乗っており、自分が中心にいない感覚。でも、手に余るような ことはそうそう起こらない。それはそれでいいではないか。他の人はみんなそうなのか な?どうもそのようだ。みんながそうしているから、僕もそれでいいと思っているの だ。いや、その逆ともいえるのだろう。  でも、時々このモードはやってくる。何が契機になるのか、さだかではではない。自 働機械のような意識にあきあきした時なのだろうか。未来への不安や過去からの束縛か ら解放された一瞬なのだろうか。自分の意識があるべきところにあり、中心にある感 覚。こんな時、世界は突然、すてきなダンスを踊り始める。眼の前の事象はそれだけで 完結しておらず、世界全体と踊っており、無限の過去と未来の一部としての現在として そこにある。意識は中心にあるからこそ、全てを見ることができる。ゼロであるからこ そ全てを内包することができる。点であるからこそ、全てと繋がっている。偶然も必然 もない。世界はあるべくしてここにある。  意識は世界と一緒にダンスを始める。ああ、でも僕はよこしまな事を考え始める。 「この素敵な時間が永遠に続けばいいのに・・・」  たちまち、世界は色あせ始め、僕は中心からはじきとばされる。  まるで、コマの中心がほんの少し、ぶれただけでバランスを失ってしまうかのように ・・・。  これ、だめね、43点。どうも失敗したようです。トホホ。  それでも、書いちゃったからにはアップするY.Kからでした。 - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 96/05/12 - 00961/00961 VEG02736 山部正人 RE:阿修羅氏のインターネットでの復活 (12) 96/05/11 23:45 00957へのコメント 一輝 さん、こんにちは。 >お久しぶりです。インターネットと言えば、オウム捜索情報を事前にNIF >で流した阿修羅氏が自分のホームページを作って復活したそうですね。知人  どうも、おひさしぶりです。 阿修羅氏のホームページですが、1ヶ月半くらい前に、初めて覗いたのですが、 相変わらずという感じでした。私は、某 VANでの阿修羅氏しか知らないのです が、NIF でも、オウム情報を流していたんですね。  最近、私は、彼の態度に疑問を抱いています。彼の胸中はどのようなのか と、、、 ・相手が強大すぎるので、一人では無理だと思っている。 ・陰謀をだれも信じないので、あきらめかけている。 ・ただ単にしゃれでやっているだけなので、陰謀なんか信じていない。 ・水面下では、着々と、根回しを進めており、一斉蜂起の時期を、待っている。 ・彼自身にも、本当のことは分からない。  以上、可能性を、考えてみました。  ☆ 96/05/11(土) 09:34 山部正人(VEG02736) ☆ ☆ http://www2.meshnet.or.jp/~yamb_hp/  ☆ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/05/12 - 04599/04600 GGA02514 KAZE 懐かしい「いか超」 (13) 96/05/11 15:55 04590へのコメント コメント数:1 あとみさん、どうも。 》   でも、なかでも私がいちばんシュタイナーに心動かされたのは、 》  「いかにして超感覚的認識を獲得するか」です。オカルトっぽい本 》  と見る人も多いみたいですけど、私にとっては心にしみていく感じだった 》  んですよ。 ぼくは、シュタイナーの著書でいちばん最初に読んだのがそれでしたけど、 「超感覚的認識」っていうタイトルのいわゆるオカルトのイメージはまったくなく おっしゃるように「心にしみていく感じ」で読み進めていったことを思い出します。 それは、10年近く前のことですが、あれから、何度か読み返していて、 ほんとうに毎回、実践的な意味で考えさせられることが多いです。 シュタイナーの他の著書や講義集にしても、 基本的には、あのように、魂を実践的に豊かにしていくたものとして 読んでいくのが望ましいのではないかとぼくは思っています。 逆にいうと、そういう姿勢で読まないと、ダメだというか。 》    今手元にないので正確じゃあないんですが、例えば修行って言うのは 》  今私たちがするとしたら、なにも滝に打たれたり荒行をすること 》  じゃあなくて、毎日の生活にできるだけ心を込めることだよ、とか 》  今何かしていることがあったら、自ら捨て去ると決めた以外は、けっして 》  諦めてしまわないこと、とか書いてありませんでしたっけ? はい、なんだか修行した気になるような外的な派手なことは むしろ無意味で、危険なことでさえあえるかもしれません。 もちろん、荒行は、意志の訓練にはなると思いますけどね^^;。 大事なのはそういうことではなくて、きわめて日常的なところから 実践的にもできることでなくてはならないように思います。 そしてそれこそが、魂の栄養分になるわけです。 シュタイナーは、思考世界の統御、行為の統御、忍耐、肯定的なとらえ方、 とらわれのない態度、内的均衡の6つの性質を 内的に形成しなければならないとかいうことをよく言ってますが、 そういうことは、どこかに閉じこもって、 修行するぞ!修行するぞ!修行するぞ!・・とかいうように^^; やることではなくて、日常生活をその修行場にすることでこそ、 意味のあることだと思うのです。 最初、シュタイナーのこうした基本的な考え方にふれたとき、 そのころは、まだまだ感覚的にカッコイイのが好きでしたから、 正直いって、なんて抹香臭いんだろう^^;なんて感じもしましたが それを越えて、まさに自分が避けてきたようにも思えるそうした実践こそが ほんとうに大事なことだということが伝わってきたんです。 そしてそれから、少しずつ少しずつ、実践的なあり方をふくめて、 神秘学的な認識を深めていこうとしたわけです。 で、そのうちこうしてパソ通を始めて、4年半ほど前に、 まずは「シュタイナー研究室」としてこの会議室をお店開きしまして、 その後、テーマが広がったのもあって、 現在のように「神秘学遊戯団」と名前を変えて、今に至っています。 それにしても、「いかにして超感覚的認識を獲得するか」は、いい本ですよね。 できれば、それをきちんと読み込んでいく読書会などするのもいいかもしれません。 》  西田哲学は華厳経の本にでていたのを少しかじった程度なのでまだ殆ど 》  わかりません。いつしょに勉強させてください。 はい、こちらこそ、いっしょに勉強しましょう。 西田幾多郎の著書は、かなり難解なので、いきなり読むと、 わけわかんなくなることが多いですが、読み込んでいくと、 シュタイナーの神秘学的視点を、禅などの視点で認識的、実践的に 解説しているのだと思えるところがたくさんあります。 西田幾多郎はまず、岩波文庫で「善の研究」を読まれて、 あとは一応、適切な解説書を読み込んでいくことからはじめるのが 理解のためにはいいのではないかと思います。 解説書にはいろいろありますが、ぼくの今のお勧めとしては ●小坂国継「西田幾多郎/その思想と現代」(ミネルヴァ書房) というのが、総合的に見てかなりいいと思います。 ぼくが、西田幾多郎の思想の基本的なテーマだと思っているのは、 人という個が、他者や世界や神という普遍とどういうふうに関わっていくのか、 そしてそれを自覚的にとらえるためにはどうしたらいいのか、 そういうことを禅を言葉で哲学的に表現しようとしたのだということです。 シュタイナーも、科学と芸術と宗教を統一的にとらえ それを実践的に展開していくためにどうすればいいのかを さまざまに提示してきたといえるのですが、 どちらにしても、「人間学」の基本を追求したといえるように思うんです。 そして、こうして生きているぼくら人間は、 そうした基盤をきちんと実践的に把握するところからはじめなければならない。 そうぼくは考えているわけです。 》   私にとっては、シュタイナーもエンデも華厳経もヨガなんかのインド思想も 》  全然無理なく自分の中でミックスされているみたいです はい、それが本当だと思います。 ぼくは、最近は、どうもシュタイナーとARIONが 同じようなことを言っているような気がしてきたくらいです^^;。 大事なのは、表向きのあれこれではなく、 一人一人がどのように思い、行なうかということなわけで、 そのために、何がガイドになるかということだけが問題なのだと思います。 》   しっかしですね、私は人でも物でも本でも何でも自分の出会う物は必要な時 》  と場で出会うと、思うんですけど、シュタイナーだとか華厳経だとか、 》  こんな事話せる場があるとは・・・こういうのを「縁」と言うのでしょうか? はい、偶然というのはありません(^^)。 すべては、縁であって、縁をつくるのは、人間の自由意志です。 必要なときに、必要な課題が現われるとぼくは思っているんです。 では、いっしょに、学べることを貪欲に学んでいきましょう(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04600/04600 VFG13516 あとみ 「いか超」読書会したいです (13) 96/05/12 02:20 04599へのコメント    KAZEさんこんにちは、あとみです。   「いか超」は、ほんとにいい本だと思います。お恥ずかしい話ですが、   私はこの本を読みながら涙がこみ上げてしまったことが多々ありました。   思い出深い一冊です。でも私もすべてを理解しているわけでもないですし   もう一度じっくり読んでみたいのでもしお願いできるのなら読書会を   開いてもらいたいです。KAZEさんが紹介してくれた西田幾多郎の本も   読んでみたいので、「いか超」を軸に据えながら折々の箇所で西田哲学   とか、華厳経の事事無碍法界に通じるようなところで共通点を   見いだしていく、なんてしてもらえると、大変嬉しいのですが・・・   (あくまでも私個人の希望ですが・・・)       私はARIONの発言については、ごく最近の文しか知らないのですが   私もシュタイナーに近い物を感じます。だからこそ「縁」を感じるんですよ。       シュタイナーの伝えたかったことをただ頭で理解するんでなく、   どんなにささやかなことでも自分の言葉で語り、自分の手で何かが出来たら   良いなあ、って願っています。    これから楽しみです。        では、じゃあね   あとみ(VFG13516) /E   - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/05/12 - 941/944 JAG04260 満天星 RE:ガッチャに文句があるぞ! (19) 96/05/12 01:09 937へのコメント  #937 雲上仙人どの  うーむ 『ガッチャに文句があるぞ!』といふ標題は 仙人どの  の手になるものでございますな  (_ _;  お話のやうな件についての わしの意見や希望は 貴殿とは異な  るものでありますぞよ  わしは 発言削除の公告などは 必要最小限のシンプルなもので  あることを希望してをりますがのぅ...  また 当該発言者にメールで通知する必要などはないと 思ひま  すぞよ −− そのやうに 予め決められてゐる場合は 別ぢゃが  の                            満天星 942/944 SDI00635 みれ RE^2:ゆってる事とやってる事が・・・ねぇ (19) 96/05/12 03:41 936へのコメント コメント数:1 #936 湖の鷹さん #941 雲上仙人さん  どもども(^_^)  時間の節約のため、お二人に同じファイルでRESさせて頂きます。  えーと、まず湖の鷹さんの言われていることで「なるほど、そう思うのね」 という部分と「それは違わない?」と思うことがありますので、先ず、それを 分けて書きますね。  まず、「もっともだなぁ」ですが; |一体全体、著作者がより多くの人に伝えたいと思ったことを |「別の人がそのまま伝えることが許されない社会」って、どういう社会なのさ!!。 |そして、そんな悪習を後生大事に守らせようとする「一般社会の公序良俗」って |一体なんなのさっ!!  これは、著作権法についての個人的な感じ方ですね。確かに湖の鷹さんの言 われていることが基盤にあるのだったら、その通りだろうなぁと思います。で も湖の鷹さんが設定されている社会的状況がイマイチ分かりにくいというのは ありますが…。  次に「それは違わない?」ですが; | うーみ、どこぞのガッチャさんの発言削除表名文て、書いてあることをそのま | ま読み取ると「頭ごなし」そのものに・・・、普通はそうは見えないのかな?  NIFにはNIFの規則があり、NIFの中での著作権法に関する指導があ ります。これについては「GO RULE」で見て下さい。著作権法には色々な解釈が あり、NIFがその中でどの解釈を起用するかはNIFの裁定であり、NIF の中にあるフォーラムはそのNIFの規則に準じて存在している以上、この規 則を適用するのが当り前ですね。  で、湖の鷹さんが「ガッチャの書いた文章を頭ごなしと感じるかどうか」と いう問題と、湖の鷹さんが「著作権法に対して憤懣やるかたない気持ちである 」こととは全く別個の問題であるにも関らず、同じ文章の中で語られているこ とに私は疑問を持ちました。そしてもう一つの疑問は以下のことです。  ガッチャの文章を「頭ごなし」と感じるのは自由というか勝手ですが、若し かして湖の鷹さんは「頭ごなしはイケナイ」という考えを基盤に持って話を進 めていませんか?もう少し詳細に言えば、湖の鷹さんは一つの手続きを抜かし ていると私は思います。それはガッチャの文章が果たして「頭ごなし」に相手 に物を言う意図があったものであるのか否か?ということをガッチャ本人に確 かめないで、その意図ありということを前提に話を進めているところです。  私の本来的な考えでは、湖の鷹さんが「運営上の注意文」を一般の会話での 「物言い」として引用するのは筋違いのことなんですが、7番での会話の流れ から見て、もう少し湖の鷹さんのお話を見てみようと思っていたんです。若し かして、「運営上の注意」と「会議室での議論や会話」を同一線上で見るとい うのはオカシナことだと、湖の鷹さんは充分にご存知の上のことかも知れない と私は思ったのです。ご存知の上で敢えて、ああいう問題提起をされているの であれば、様子を見ていないと湖の鷹さんの意図を知ることは出来ないと思っ たからでした。でも、どうやらそうじゃなかった様ですね(^^;)  それから仙人さん、これは既にあなたも言われていることですが、運営処理 上ガッチャの対応は全く問題の無いものです。引用箇所が主文より遥かに多い、 或は、引用箇所のみで文章がUPされている場合にはFARIONではこれを 削除します。著作権法に反することが公序良俗に反するかどうかということは、 広義的にはそうかも知れませんが著作権法に反することがイコールで公序良俗 に反するとは言えないと、私は思います。  発言削除処理はNIFの著作権法の解釈に基づいたものです。そして削除さ れた文章をUPした人の個人情報を守る為に、その文章が何故削除されたかの 詳細は記しません。ご本人も知らずにルールを侵す場合もありますからね。こ の作業と同時に、ご本人にメールで文章削除を報告して今後は同じ間違いをし ない様にという旨のことを書きます。  運営処理には感情を持ち込まないのが当り前というのが前提にありますので、 この文章に湖の鷹さんの様に「頭ごなし」であるとかの感情的(感情的なもの が悪いとかの話ではありません、念の為)な反応を頂いても応えようが無く、 また削除理由を詳細に書くことで、或は個人情報を侵害してしまう愚を侵す事 に繋がるという理由で、あれ以上の文章をガッチャが書かない理由を理解頂き たいと思います。(ガッチャに代わって私が説明するのは、こうした運営処理 の指示を出すのは私だからです)  それから、余談ですが私は「頭ごなし」を即=悪いこと、とは思っていませ ん。頭ごなしだからイケナイとか、優しそうな物言いだからOKとかのことで は無く、一等大切なのは何を伝えようとしているか?なんだと思います。この 意味で湖の鷹さんの言いたかった事は途中でズレていると思うのです。最初っ から「著作権法は悪法だ」と言いたいがためにガッチャの運営注意文を引用し た訳では無かったんじゃないですか?  私の理解がおかしいかも知れませんが、そうであるなら指摘して下さいね。                             ☆みれ・:・。,☆ 944/944 JAG04260 満天星 会議室のマナーぞな (19) 96/05/12 12:13 942へのコメント  FARION に「侵入」して間もないころ(約 1 年前),発言削除の  「公告」を眼にして,なるほどと思ったことがございましたのぅ.  公告の大要は「某発言は大部分が著作物からの引用なので削除し  た.発言中に引用をする場合には,自身の意見等が“主”,引用  部分が“従”といふ関係になるやうにされたい」といふものでご  ざいました.  上記の公告もガッチャ殿の書かれたものであったと思ひますが,  そのほかにもわしが眼にした「発言削除公告」についての印象は  といふと,つねに,削除理由や注意が,簡潔にして十分な程度に  説明されてゐたやうに記憶してをります.  さて,みれさんの #942 のコメントの中では,敢へて触れずにお  かれてゐたことが,少なくともひとつはあるのではないかと推察  してをるのでございます.  それは,引用・転載書込みが問題であるのは,著作権侵害だけが  その理由ではないのだといふことなのでございます.  それで,今度はわしが,そっちの方に関する愚見を申し述べやう  と思ひますのぢゃ.  さて,そこで,想起していただきたいのは,著作権が存しない著  作物や文書もある,といふことでございます.  まず,法令の条文には著作権がありませぬ.引用(場合により転  載)が自由にできることになってをります.−−行政・司法関係  の公開された文書も同様,国連憲章などの国際法令も同様でござ  います.  古典などで,一般に流布してゐるものでも,写本によりテクスト  の細部が異なる場合には,原写本の所有者や公刊した出版社の何  らかの権利が存してゐると考へた方が無難でございますが,その  やうな問題がない場合には,著作権が存しないと考へてよいでご  ざいませう.  たとへば,百人一首の和歌の一部または全部,般若心経,文部省  唱歌,などは,著作権が存しない文書でございます.  さて,そこで,誰かが,「ここにこんな良いことが書かれてある.  私は感動しました」とか言って,国連憲章や,日本国憲法や,般  若心経などの,その,ごく短いとは言ひ難い分量を引用・転載し  たら,これはどういふことになるのでせうか?  要するに,独創性のない書込みは,公共性のあるフォーラム,会  議室への参加者・読者にとって,迷惑以外の何ものでもないと銘  記すべきぢゃと,わしは思ひますのぢゃ.  どんな下らない愚痴や独り言でも,要するに自分の言葉か文字絵  であるものなら(意味のない文字の羅列は困る),カベ(5 番会  議室)に書くことを許されてゐます.それは,そのやうな発言・  書込みにも「最小限の独創性が認められる」からなのでございま  すね.  そして,ただし,その次の段階として,その中に「誹謗,中傷」  に相当する内容がないかどうか,等が,検討されるわけでござい  ます.  大部分が引用・転載である書込み,もしくは,実質的に他人の著  作物の具体的内容部分の単なる紹介のみを目的としてゐると認め  られる書込み(*)は,一方で 著作権侵害であるだけでなく,もう  一方では, FARION といふフォーラムにとっては,そのやうなも  のは「独り言に過ぎない下らない愚痴」以下(未満)のものと見  なされるだらうと,わしは理解してをるのでございます.   * 言ひ換へると,自己の意見等の表明が実質的に極めて稀薄で    ある書込み,といふこと. なほ,FARION と限ったのは,他    フォーラムでは事情が異なる場合もあるから. FARION にお    いても,現在の 1 番会議室では,利用者(質問者)の 目的    (要求)上,発言者(回答者)の 創意工夫,情報加工 等の    「付加価値性」を伴はない形で引用や情報のやり取りが行は    れてもやむを得ない場合があると考へられます.  そしてまた,FARION だけが 特にさうであるといふわけではなく  て,基本的にはどのフォーラムだって,PC-VAN や ASCII Net だ  って,同じだと思ふのでございますよ.  FARION が むしろ少々独特であるかもしれないと思ふのは,実際  の運営にあたっては,引用に関する制限とか,何かの宣伝または  反宣伝の要素が強すぎるのではないかといった問題のある場合に  も,決して杓子定規に規則を適用して発言を削除したりはしない  といふこと,すなわち,言論・表現の自由や多数の参加者にとっ  ての利益の程度と「問題点」とを総合的に考量・判断しつつ運営  をしてゐるといふことではないかと,思ふのでございます.  だって,わしはこれまでに,引用が中心の発言や不穏当と見なさ  れかねない発言を,何度もしてゐる“かもしれない”のだけれど,  一度も削除されたり,警告を受けたりもしてはをりませぬぞよ.                          ヲッホホ (^^;ゝ  それゆゑ,わしは,FARION 運営参謀に対して,高い信頼を 置い  てをる次第でございますのぢゃよ,皆の衆.                      満天星 [ぢいやモード] 943/944 GFH02347 ゾウリムシ 日銀の独立性とは何か? (19) 96/05/12 08:34 日本銀行法の改正が、論議されているようだが、 改正されることにより、より民間色が強くなり、国益とは無関係に( あるいは反して) 日本銀行券( お札) を、好き勝手に、増やしたり、減らしたり、 公定歩合を操作したりできるようになれば、国民にとって、非常に悪い状態になる。 一説によると、国際エリート集団が、米国のFRB を設立した瞬間、米国を手に入れた も同然だ。というではないか。 経済に強い人達は、よく見張ってもらいたいものだ。 ところで、日銀の出資者は、大蔵大臣が55パーセントとあるが、残りは、誰なのだ。 ・・・・・ゾウリムシ・・・・・