「随分勝手な言い分ですね」と二人の焚き火民が同時に言った - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/05/15 - 01345/01345 GEE05204 どみそ 横尾忠則展覧会 ( 3) 96/05/15 00:30 ここでは、はじめまして。どみそです。実は私、横尾忠則ファンなのです。 もうミーハーと言ってもよいでしょう。個展が行われるたびに出かけ、 一度などはご本人と会場で出くわして、ドキドキする始末。かれの作品の エネルギーによって、見た人の中には超常現象を体験した人もいると聞く。 今日、東京原宿にて、彼の個展2つを見てきました。  横尾忠則1996新作展「今ハ昔」(〜5/19)    *ラフォーレミュージアム原宿(ラフォーレ原宿6F)にて いつも彼の絵の前に立つだけで、そのエネルギーに圧倒される。今回は点数が少な いのですが、今年の作品ばかり。モチーフに昔話の主人公やら戦前の日本の風景な どが出てくるのですが、現在の彼の心的世界が見えるような作品でありました。 激しく葛藤する場面や赤を大量に使用した作品からは、タイトルにもあるように、 昔と今が交差し、何かが終わったと感じました。何か新しいものが生まれる前夜の ような絵でありました。奇しくも、最新作は「星の子」といい、女陰から赤ん坊が 生まれるというもの。何だか次なる作品が楽しみであります。  横尾忠則Collection宣言「瀧狂」(〜5/19)     *キリンアートスペース原宿(キリンビール本社1F) こちらは同じく原宿で開催されている、彼の滝のポストカードのコレクションです。 これまた1万枚というすさまじい量の滝の絵はがき。横尾氏いわく「自然の滝には α波を引き出すパワーがある」とか。だから絵はがきにもきっとそのパワーがあるか も。ということらしいんですが、たしかにすごい。私などは圧倒されて、めまいがし そうなほどでした。瀧というのは、浄化のイメージがありますが、果たして私の精神 は清められたのか。彼がここ数年取りつかれていた瀧の供養ということなので、貴重 なチャンスかもしれません。 2つの展覧会は今週の日曜日までです。興味のある方はぜひ出かけてみては。同時に 本も販売されるようなので、こちらもご覧になってみてはいかがでしょうか。  横尾忠則Collection中毒「瀧狂」(新潮社刊)  /E - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/05/15 - 01042/01047 JCF02051 めのう お元気で〜 ( 6) 96/05/14 23:06 コメント数:1  このところ沈没している私ですが、今日のHMにちょっとだけ。 》「ということで、皆さんお元気で〜」と凍え人は立ち上がった。  これこれ、画面の前でコケちゃいました(^^;  凍えさんたら何か急に軽くなってしまわれたー。  HMに登場したのは初めてぢゃなかろーか。>「〜」    まだ立ち去ってはいない凍えさんと今後の展開に期待しつつ、また未読の海  深く潜ろう....(-。-).。o○                           ◆◆ めのう ◆◆ 01044/01047 KFQ02761 しまうま RE:お元気で〜 ( 6) 96/05/15 00:37 01042へのコメント #01042 めのうさん  わははは(^o^;。確かに軽いですね>「お元気で〜」。 |「ということで、皆さんお元気で〜」と凍え人は立ち上がった。  ここで凍え人が「立ち上がった」ということは、ここまでは「そこまで言わ れたらもう出て行くしかないっすよ」と言いながらも、まだ腰を落ちつけてい たってことなんですね。繊細そうに見えて、案外図太いところあるなあ(^^;。  今日のHMが、 |「随分勝手な言い分ですね」と二人の焚き火民が同時に言った  ということでしたから、凍え人がこの言葉に反応して、何かまた言い返す、 というパターンも考えられなくはないですね。  いずれにしろ、このまま消え去るには惜しいキャラクターだと思います> 凍え人。今回とりあえず立ち去ったとしても、また再登場して欲しいなあ。 「帰ってきた凍え人」とか言って(^^;。       しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/05/15 - 07485/07488 GED01563 水戸黄門 「虎」とはなんぞや(長文) ( 7) 96/05/15 02:10 07470へのコメント まず、ワシのマスコミに暴力をふるいたくなる欲求を観てみよう。暴力を背景に は怒りがある。怒りの背景には防衛がある。防衛の背景には恐怖がある。恐怖の 背景には、生存本能がある。マスコミの暴力は、「ワシへの暴力に対する恐怖体 験から怒りに至る過程を想起する」引き金じゃ。ここに、ワシ自身の暴力による 支配という欲望が重なる。感情に色づけされた体験の複合体があるのじゃ。この 複合体は類型となっていて、ワシは同様の引き金に同種の反応をする。この複合 体は自動機械のようなものじゃ。じゃが、感情は自動機械のようなものと、そう ではないものがあるじゃな。で、次の話になる。 ワシは、1度徹底的に怒ったことがある。暴力的な怒りじゃ。怒りにどっぶり浸 ったのじゃ。(無論、他人や物に暴力をふるったわけではない)。その怒りの果 てには、涙があったんじゃ。その涙は、自己憐憫もあった。しかし、この涙は、 自己憐憫だけでは説明できない感情じゃった。この涙は、自動機械とは別種のも のなんじゃと、ワシは思う。というのは、そこには祈りがあったからじゃ。 で、祈りにかかわることじゃ。新しい芽殿は「無批判に観れば事実がわかる」と 主張されているようじゃ。ワシは、この主張に当惑しておる。この主張はワシの 体験で得た「事実?」と異なるからじゃ。ワシの体験では、「無批判に観ても事 実はわからないことがわかり、祈りにより、事実?がわかることもある」。ある いは、「事実?発見」に他人の助けが有益じゃったことも多い。というわけで、 新しい芽殿の助けを借りようと、   文化という意味は、伝統でも、慣習でも、教育でも何でもかまいません。たとえ >ば、ある旗印を掲げて、いま、起こっていることを非難する、正当化するというの >は暴力ではないですか? それは言葉で伝えられるし、手続き、方法ですから、お >互いに伝わりやすいでしょう。いかがでしょうか? そうだとか、違うとかいう前 >に、じっくり、観察してみてください。 ということで、観察してみたのじゃが。この主張は、2つワシとは異なる観察結 果がある。第一の異なる点は、今起こっていることを正当化する方法は、暴力だ けではないという点じゃ。泣き叫ぶことであれ、甘い言葉をかけてそそのかすこ とであれ、甘えることであれ、卑屈になることであれ、あるいは客観的で冷静な 言葉であっても、想念でも、今起こっていることを正当化できる。第二の異なる 点は、暴力などの伝達手段?を文化と考えている点じゃ。正当化は欺瞞のひとつ の方法じゃが、欺瞞は偽の伝達じゃ。偽の伝達は伝わりやすいということはな く、むしろ伝わりにくい。偽の伝達は相手に共有感を与えない。相手に共有感を 与えない伝達は文化、伝統、教育、慣習を創造できない。とワシは観たのじゃ。 さらに、 > それに反して、心理的な言葉はなく、理由もなく、無心な、批判のない注意深さ >の中で、何気なく、隣の人とパンを分け合って食べた、という行為を、どうやって、 >言葉で伝えられますか? どうやって他の人に実現されるのですか? > 答えてみてください。 ということじゃったので、答えを探してみたんじゃが・・・。新しい芽殿は、言 葉では、伝達できないものがあるという主張をしたいとも思われるが、ワシはこ の見解に賛成じゃ。同様に言葉で伝えられない知識や文化もある。暴力ですら、 言葉だけで伝えるわけではない。じゃが・・・、まさに、新しい芽殿は、その行 為を表現されておるではないか! 言葉で伝えている。この行為を他人に実現可 能(他人も同じことをやるという意味じゃろうが)と思うが・・・。 で、わかったのじゃ。それは、いくつかお願いになったのじゃが・・・。 第一に、新しい芽殿、身の体験を基礎にして、お話をしていただけないかの?  強制しているわけではないが・・・。他人の発言の吟味や問いかけや依頼も必要 じゃが、御自身での体験との対比の方が、ワシにはわかりやすのじゃ。事実を重 んじられるならば、御自身の事実を検証に使われるのが、公平なやりかたじゃと ワシは思う。それから、「答えてみてください」という表現は、やはり相手に失 礼じゃと思うが、いかがかの? 第二に、ワシの誤解かもしれんが、新しい芽どの発言からは、「自分の観た事実 が他人もみえるはず」という確信がみえるのじゃが・・・。その確信を強要して おるまいか? 誤解じゃったら許していただきたいのじゃが・・・。ワシは、自 分の体験、自分のみた事実が、すべて他人も同じ体験をし、同じ事実を観るとい うことはないと思っておる。新しい芽殿の観た事実は、新しい芽殿だけのものか も知れず、他に同種の経験を積んだものもおるかもしれん。だから、それはそれ で面白いし、共感できる場合もあるし、そうではない場合もある。じゃから、面 白いのじゃ・・・。ワシの楽しみを減らさないでいただけないじゃろうか。 第三に、感情を観るもの、捨てるものと思っておいでではないか? それを強要 していらしゃらないか? 感情と欲があるからこそ、人間同士のドラマがあり、 人は怒り、笑い、泣くのじゃ。それが人生じゃし、文化を生むのじゃ。ワシは、 事実を無批判に見つめる努力はするが、いかなる感情を捨てるつもりはないのじ ゃ。 第四に、「新しい芽殿が行っておる問いかけという行為」は「批判精神−問題の 所在をみつけるということ−主観的行為」に思える。一方、新しい芽殿自身が、 「事実を無批判に見つめていますか?」という問いかけをしておる。これは矛盾 じゃ。じゃから、ワシは、新しい芽殿の見解が、理解できずにいたのではないか と、今は思う。この矛盾も欺瞞の一種ではないかのう。誤解であることを祈る が・・・。我らは、本能的に知っておるのじゃが、欺瞞の少ない者は(完全に欺 瞞のない者はいないとワシは思う)、皆から愛される。間違っていたら、陳謝し なければならないのじゃが、新しい芽殿のやり方は、多分、愛されないじゃろ う。それは、どこかに欺瞞があるからじゃ。そこには鎖につながれた気の毒な虎 がおる。新しい芽殿の虎はなんじゃ? その虎を見せていただきたいのじゃ。 それが、体験を共有することになるのじゃ。 第5に、もう少しわかりやすい文章を書いてくれないかのう。 第6に、初めて、アクセスした方は、かってワシもそうじゃったんだが、新しい 芽殿のように怒濤のように発言することが多い。しかし、かような場合、あまり 長続きしない傾向もあるのじゃ。それは、もったいないことじゃ。じっくり、腰 を据えて発言なされるようお薦めしたいの。新しい芽殿へのコメントにすべてコ メントをつける必要もない。疲れて、仕事や勉学に支障をおよぶ方が、問題じ ゃ。無理をなさらぬよう注意して下され。 また、私の、この長いコメントは悪い見本と思って下され。読者のひんしゅくを かうのじゃ。 96/05/14(火) 11:46 水戸黄門(GED01563) 07478/07488 JCF07454 新しい芽 RE:虎について ( 7) 96/05/14 21:18 07456へのコメント  地球酔いさん、どうも。私は虎(新しい牙)ではない?? 「新しい芽」のよう ですよ?? >>止まらない「観る」の先には何があるのでしょう。  まず、いま、確かに見えているものは、回りの景色や胸に感じられるものですよ ね。生きた事実。しかし、見えている先に何があるか。先にあるそれは、見えてい る事実ではないですよね。それは思っていること。想像。  この二つを混同すると、欺瞞、まやかし、思い違いが生じていて、虎だか、単な る生きた事実なのか、混乱するばかりです。生きた事実、確かにあるものを、理解 しない限り、混乱は続くでしょう。  でも、見始めれば、やっていることは、非常に単純なことではないでしょうか?  思うことには、始まりも終わりもあります。そして繰り返します。苦しみと快楽 という二面があります。問題があり、とりあえずの解決策もある。原因があり、結 果がある。しかし解決策、結果はまた、次の問題となり、原因となる。つまり虎。  こういったことは、だいたいは、だれでもわかるのですが…………。  さて、質問は、いま、生きた事実をそのままに見ているでしょうか? この質問 をクリアしなしなら、次へは進めませんが、ありのままに見ている中に、虎がいる でしょうか? 事実のままに見ていることに始まりや終わりがありますか? 07486/07488 GED01563 水戸黄門 「虎」とはなんぞや? ( 7) 96/05/15 02:10 07473へのコメント コメント数:1 >ぶんすか殿 ARIONの言葉を使って他者や社会を一方的に非難して、自分は何もしないこ とは問題かもしれんが、のめりこむこと、執着することは、別にかまわないと思 うがいかがじゃろうか・・・。 96/05/14(火) 17:01 水戸黄門(GED01563) 07477/07488 CXE02430 プレアデス Makotoさんへ ( 7) 96/05/14 21:16 コメント数:1 Makotoさん、ずっと前にレスをいただいていたのに、反応 しないでいてごめんなさい。実は今、あなたのレスをみつけたと ころです。このアップを、Makotoさんがみつけてくれるこ とを祈りながら、書いています。 本当に大切なことって、ナイーブになることを恐れずに、心を裸 にするということじゃないかな。何故、正しいことを言わなくて はならないとか、間違っていることは正しいとより劣っていると かと思ってしまうんだろう。それは、なにかをこわがっているか らじゃないかなあ。 正論を書こうと意気込んでいる自分に対して、それよりも大きな 慈愛があると教えてくれた、それがあなたです。 そして、そうしているうちに、それを実地で教えてくれるような 人と出会いました。その人と、あっというまに結婚して、気が付 いたらこの部屋の未読が400を超えていたというわけです。 本当に、ご返事が遅れてしまいまして、ごめんなさい。 07481/07488 HGE02116 MAKOTO うーんと、唸ってます(^^;) ( 7) 96/05/14 23:00 コメント数:1  最近のこの会議室の展開を見てて、なんかね、冷めきってるんだよなぁ… なんというか、熱くなるものが無いんだよね。でもって、頭同士の会話だわ ねって、かなり冷たく突き放したような感覚で、成り行きをうかがってる私 がいるんだよな。  話しの内容そのものには、結構、興味深いものがある。へぇーって思うこ ともある。でも、どうしても書きたい、反応したいっていう、つき動かすよ うなものが、なんにも無いの。でもって、なんかしら物足りないって感じな んだよなぁ。  …が、どこをどうすりゃいいのかって、そんな事を考えてるわけでもない。 だから、どうしてなのさって、突っ込まれても、困っちゃうんだけどね。た だ、身体を熱くするようなものがないの。共鳴も、反発もなく、ただただ、 流れてくって感じ。  経験を持ちよって考察していくって、こういう事なのかも知れないって気 もするんだけど、どうもすっきりせんなぁ… シミジミ                        MAKOTO でした☆ 07484/07488 NBB01420 SUKE RE:うーんと、唸ってます(^^;) ( 7) 96/05/15 00:54 07481へのコメント #7481 MAKOTOさん、こんばんは。 MAKOTOさんのその気持ち、そろそろ誰もが気付いているんじゃないかなぁと思っ ていました(-_-;) 最近の話は、実生活に根ざした経験談が殆ど無いんですよね。 虎の話にしても、「実は今日こういうことがあって…」と言うような話は無い。 正に >>でもって、頭同士の会話だわねって、 になっているんですね。 さぁ、ちょっと気分を変えて、もっと実生活に根ざした話が出来るようにがん ばろう!          あ、ちがった?>MAKOTOさん(^^;)     Suke.(^_-)☆ - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/05/15 - 869/873 MHD02672 TAO 人種の発生 ( 9) 96/05/15 01:22 866へのコメント コメント数:1  #866 ひょうたんさん   どうもレスが遅れました(^^;。今回はぶっ飛びモードで行きます(^^)。   私も、モンゴロイド文明の底流にAMA族の存在があったとしたら、コー  カソイドによって築き上げられた西欧文化の源流はどこにあったのか?と気  になりますね。   無論、歴史が有色人種と白人種、東洋と西洋という二元化で割り切れる筈  は無く、単純化された対立概念に陥らないように気をつけなければなりませ  んが、いつから「人種」の差違が生じたのかについては、東西の神秘学に於  いて様々な説が唱えられていますね。   しかしナチスのアーリア人至上主義のように人種の「優劣」を説き、恐る  べきホロコーストを引き起こした実例もあるだけに、「人種」という概念が  孕んでいる危険な面も承知した上で、注意深く接しなければならないですね。  なおシュタイナーは、民族主義を最悪の唯物論と見なしていて、将来「人種」  という概念は消え去ると考えていた様です。   ブラヴァツキー夫人はARIONと関係があったともいいますが、そのブ  ラヴァツキー夫人は『シークレット・ドクトリン』や『ヴェールを脱いだイ  シス』等で“七つの根源人種”を想定しています。   第四根源人種=アトランティス人の第四亜種=トゥラニア人が、その一部  が古トゥラン文化やアステカ文明を築き、別の一部は第七亜種=モンゴル人  に進化したとされていますが、ここら辺はどうもAMA族臭く感じますね。  アーリア人の方は、第五亜種のセム人(今のセム人とは異なるが)から発生し  たとされます。ひょうたんさんの想定する「グル族」にしても、第五亜種か  ら枝分かれしたものかもしれませんね。   まあ本当か嘘かは知らねど、たまにはこういうぶっ飛び話も面白いもので  す(^^)。  TAO 870/873 GFB00026 一輝 RE:人種の発生 ( 9) 96/05/15 04:21 869へのコメント >#0869 TAOさん ぶっとび話が許されるのならば、たぶんそのルーツはコーカサス地方だと思い ます。 以下は私の独断的憶測ですが、その第一波は、まずインド大陸へ南下。アトラ ンティス生き残り人種のニグロイドと混血(この混血部分のみARION情報 )、後のインド人となる。その混血の段階がカーストとして残っている。第二 波は、アルプス地方〜バルト海周辺へ北上。これは、皮膚や視力が紫外線に弱 かったせいではないかと勝手に推測しています。 ヨーロッパの社会学的見地から言えば、「人種」というのはイコール「階級」 を指します。このことは日本人には非常に理解されにくいものがありまして、 説明が大変です。端的な例を大胆に省略して説明すれば、イギリスの主な階級 である「王族・貴族・労働者」という大雑把に分けた分類は、そのままイギリ スの民族史を表しています。 ローマ人に大陸から追いやられたケルト人たちがイギリスに渡り、そこへスカ ンジナビア半島から征服にやってきたノルマン人たちが、やがて貴族階級に。 そこへバルト海からやってきたアングロ人・サクソン人がケルト人をアイルラ ンドへ追いやり植民地とし、リーダーはイギリス王族となり、一般人は労働者 階級となった経緯があります。貴族階級だけフランスのノルマンディー地方と も血脈的な関連があり、人種的に浮いているのです。彼等は互いの階級間でし か婚姻しません。これをやめることは即ち階級維持の崩壊と、特権の放棄を意 味します。 つまりインターナショナルな視野から見れば、「人種という概念が消えること は、階級という概念が消えること」を意味するのです。しかしながら、そこに は、最初にこの考えを思いついた人々(シュタイナーとは限りません)こそが、 「階級という民族の劣化を避け純化を維持する制度」の為に、この「将来人種 という概念が消えるという概念」を設定したトリックがあるのです。 欧米の人々に、「将来階級がなくなるか?」と聞いても、何の話であるか理解 されないでしょう。なぜなら「階級とは過去にも現在にも将来にも在るもの」 だからです。これは自由の新天地だったはずのアメリカでさえ例外ではありま せん。これは恐らく「侵略なり派遣による階級の創設が、民族の努力と犠牲を 払った末に獲得した権利として当然のもの」である、という考え方がある為で はないかと思われます。ところが、危ない言い方をすれば、欧米の一部で許さ れても、日本やイラクには許されない。 「人種」という概念が「階級」という概念と重ならないのは、ひょっとしたら この極東に浮かんだ島だけの定理なのかもしれませんね。 これらの概念を破壊する、ただ一つの道があるとすれば、個のレベルでの恋愛 のみです。恋愛に至上の価値を真に与えたとき、「人種」も「階級」も「民族 主義」も無用の長物となるでしょうね。その時、シュタイナーの言葉は彼等の 子孫とともに輝くでしょう。                                     一輝 871/873 GFB00026 一輝 RE:特集記事・奇書『先代旧事本紀』の秘密 ( 9) 96/05/15 04:22 855へのコメント >#0855 ルチルさん お返事遅くなりました。私は安本さんの姿勢として、旧事本紀の研究 と偽書運動とを切り分けて、古文書や遺物の捏造は、嘘は嘘として人 間の許されるべきでない歴史犯罪として厳しく批判していて、その辺 に、私怨絡みの批判などではない、プロやアマを超えたヒトとしての 倫理による冷静な視点を感じたのでした。誰かがそれを言わなくては、 偽書だけが独り歩きをしてしまっていたことでしょう。 「やっぱ、人間それをやっちゃーおしめーよ」と…。                                     一輝 872/873 GFB00026 一輝 ハプスブルグ家に刻印されたフェニックス ( 9) 96/05/15 04:25 735へのコメント  古い話題ですが書き込むのを忘れておりまして、いい機会なのでアップします。                   *  シーボルトと高橋景保を始めとする知識人たちとの関係には、互いに自分たちの 国を良くしたいという情熱が交錯しており、シーボルト側にはオランダ東インド会 社にとってのアジア戦略があり、高橋側には日本の科学(特に医学)の立ち遅れに 対する焦りや救国への情熱のようなものが、単なる知的好奇心を超えてあったと推 察できます(この辺の切迫した国内事情は、手塚治虫の名作『陽だまりの樹』小学 館文庫刊に詳しいので参考になるかと思います)。  さて、クラブ・オブ・アイルズの中で国家を失った王家であると同時に、EC統 合の提唱者でもあるハプスブルグ家ですが、この王家無しにはヨーロッパを語るこ とはできません。まさに15世紀以降のヨーロッパ芸術興隆は、ハプスブルグ家の全 面的バックアップが無ければ有り得ませんでした。また、宮廷商人としてロスチャ イルド家が台頭したのもハプスブルグ家からの厚い信任あってのこと。ハプスブル グ家の東方芸術への理解は、植民地から獲得した美術品とともに、ヨーロッパ全土 へ芸術革命をもたらしました。彼らの中には王妃エリザベート、芸術王ルードウイ ッヒ、庇護下に居た者の中には音楽家モーツァルトなど、後世に偉大な作品を残し た者たちばかりです。  ハプスブルグ家は、1000年前まではスイス北部からドイツ南部を根城とした 一豪族に過ぎませんでした。政争激しい神聖ローマ帝国の中で傀儡王として指名さ れたのがそもそもの始まりで、その後は傀儡どころか、政争の当事者たちを追いや り、神聖ローマ帝国の君主として国家を建設します。辺境のヨーロッパで、初めて 国家の型を築き上げたのがハプスブルグ家でした。このハプスブルグ家の「ハプス 」とは、「鷲」あるいは「鷹」の意味があります。「ブルグ」は「城」です。  つまり、かつてARIONがヨーロッパの象徴として「フェニックス」と示した そのトーテムが、ハプスブルグ家のその名の中に隠されていたというわけです。白 人種と呼ばれる民族のルーツは、学術的にはロシア西南部のコーカサス地方です。 このことから白人種はコーカソイドという名で人種的に分類されています。私の推 測ですが、彼らがコーカサス地方から、永い時間を経てアルプス地方に住み着いた。 彼らはゲルマン人種です。広い意味ではアングロ(族)サクソン族もゲルマン人種 に含まれます。  キリスト教渡来以前のヨーロッパは、俗に現地では「族長時代」とも呼ばれてい ます。フェニックスをトーテムとした族長たちの子孫、それがAMA族の子孫と戦 いを挑み合った相手です。彼らも不遇の時代を経て芸術興隆や産業革命を迎え、努 力の末に我々に戦いを挑んできたのです。この戦いはどちらかが勝ってしまっては いけないのだと思います。 かつてARIONによれば、フェニックスと龍との戦いによって、初めて封印が 解かれると会議室にありました。その封印が何かはわかりません。しかし、日々の 生活の戦いを忘れ、挑戦を避けるような生き方は、フェニックスにも自分のトーテ ムである龍にも失礼というものでしょう。  我々はトーテムの映し絵なのかもしれません。                     *  だいぶ話がブッ飛びましたね(^^;)。                                     一輝 - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/05/15 - 02137/02137 JBH00712 桂 桂 魂は豊かであるか (11) 96/05/15 01:47  80年代最後半から90年代初頭にかけて「豊さとは何か」というテーマが しきりに語られた事があった。時代は空前のバブル景気を迎え、誰もが経済的 な豊かさに酔ってこの栄光栄華が半永久的に続くと勘違いしていた時の事だ。  まだ学生だった僕はその時岩波新書から発行されてた「豊さとは何か」とい う社会学書を目に通したことがあった。この本を書いた社会学者は近代社会に おける「豊かな生活」のモデルケースをドイツ型に範を求めようとした。一日 の労働時間を8時間、年間労働時間は1500時間以下。余暇の過し方につい ては政府が大きな公共投資をすることによって積極的に国民に活用してもらい どうじに経済効果をもたらす。理想的なケースであると書き過ぎたせいか、経 済学会からは「ドイツ型のみが豊かな生活ではない」と反論が起きていた。  時に日本では宮沢首相が「生活大国」という空手形を振って国会に登場して いた時代だった。  「地球樹」の世界だともうすぐ人間はタナトスとトランスレーションという 流行病によって人口が減って行くようだ。蒸発と自殺病。原因は不明。栄華を 現代に物質は豊かであるが精神は空洞になることによって人間性が崩壊する。 折りしも同じ時期には過労死と疲労症という労働に関係した病死例の報告が相 次いでいた。薬害エイズが問題になるずっと前の話だ。  思えばこの時に問題がもっと大きくなっていれば、人口が激減していれば話 は早かったのかもしれない。サリンなんかばらまかれて「死」が身近にそして 突然やって来るものだという事が明らかになるより、現代文明の危機感は更に 高まったのかもしれないのだから。今では過労死も疲労症も忘れ去られようと している。時代のペースは早い。  隣の家はすごく大きい。  だがその家にどんな悩みがあるのか、どんな問題を抱えているのか、それを 知る術は無い。  隣人の家庭の明るさを求めたのは、ストイックな生き方を希求した犬神明や 東丈だったが、その魂の空白は予想を遥かに上回ってまるで白蟻が建造物の土 台を食い荒らすかのように侵食している。  あなたの魂は空腹感を覚えていないだろうか。  その餓えを感じた時、自分を捜す旅が始まる。まるでクリスタル・チャイル ド達が取りつかれた様に神秘を求める旅を始めたように。  桂 桂(JBH00712) - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 96/05/15 - 00965/00968 GEC00333 ルチル RE:セミナー等で学んだこと (12) 96/05/15 01:35 00964へのコメント 維/YUIさん 「質問をして、はぐらかされる」について、面白いものを見た ことがあります。 ジョン・C・リリーが93年に来日したときに、彼を迎えての シンポジウムが大阪で開かれました。イルカ・クジラの関係で 知り合った、フリー・ライターの友人を誘うと、彼はそのシン ポジウムの主催団体(複数)に自己開発セミナーの団体が含ま れているので行きたくないとのこと。当時、自己開発セミナー が何なのかを理解していなかった私は、その友人の忠告(?) を無視して、リリー博士をひとめ見ようとひとりで出かけてい きました。 シンポジウムの後半に、壇上に並んだセミナー講師たちの質問 にリリー博士が答えるという形式でのパネルディスカッション が行われました。そのやりとりが凄かった。セミナー講師たち の質問は、よくわからない持論をとうとうと述べてから、最後 にリリー博士にどう思うか?と尋ねるのが多かったように思い ます。それに答えるリリー博士も、見事な「はぐらかし」ぶり で、例えば、熱のこもった(だけど意味不明な)長時間の質問 に対して、短く「ハイ」とだけ答えていました。普段、はぐら かしている人達が、逆に、はぐらかされている光景を見ること ができて面白かったです。(まあ、リリー博士も講師たちも、 50歩100歩に違いないのだけど) しかし、私の周りにいた参加者(聴衆)たちが口を揃えるよう にして、「よかった」、「よかった」と言って帰って行ったの には、薄気味悪い気がした。参加者の平均的な雰囲気は、イル カ・クジラの関係で出会う人たちとも異なっていた。(これも 50歩100歩かも知れないが。)今、思うと参加者の大部分 はセミナー受講者だったような気がする。 あれ以来、セミナー開催を案内するDMが定期的に送られて来 るようになった。しかし、あれ以来、あの人たちの仲間になり たくないと思うようになった。はたして、あの壇上のセミナー 講師たちは、自分が「はぐらかされた」という自覚があったの だろうか。思いこみの激しい人どうしのコミュニケーションは、 側から冷静に眺めると、持論を主張しあっているだけで、コミ ュニケーションが成立していないように見える。 ところで、YUIさんの言う某有名チャネラーとは、ダリル・ アンカのことかな?彼を日本に導入した、喜多見氏もセミナー 出身者だということです。 ルチル PS: セミナーの社会的害悪という観点では、上に書いたようなこと は入り口の問題であって、もっと本質的な問題として、マルチ 商法まがいの勧誘や、心の問題を安易に取り扱うことによって 生じる精神障害・自殺・自己破壊など凄惨な実態がある。 00967/00968 GFB00026 一輝 麻薬で死刑が執行されるアジア諸国 (12) 96/05/15 02:42 00942へのコメント  「日本以外の外国なら自由に麻薬ができる」などという日本国内 での大いなる誤解が、これ以上流布されぬよう、また受刑者の「も し、前もってこの事実を知っていたら、俺は麻薬はやらなかった」 という積年の思いを込め、麻薬で死刑が執行されるアジア諸国につ いて以下に列記したいと思う。意外な国も含まれるので、渡航の際 はくれぐれも注意されたい。 ●麻薬で死刑が執行されるアジア諸国  ・韓国  ・インド  ・シンガポール  ・マレーシア  ・ミャンマー(ビルマ)  ・ブルネイ  ・フィリピン  以上は、あくまでも私の調べた範囲でしかないので、これに漏れ る国も多くあることを、お忘れ無きように…。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/05/15 - 950/952 SDI00635 みれ RE^4:ゆってる事とやってる事が・・・ねぇ (19) 96/05/14 15:12 946へのコメント #946 湖の鷹さん  うぅ〜ん、話がどんどん逸れてゆくけど、面白いのでそれもまた善しという ことにしましょうか(笑)  湖の鷹さんがルールが嫌い、規則が嫌いというのは「拘束されるのが嫌い」 ということだと同義的な感じでしょうか。この考え方は私の中にもあるもので すから、取り立ててどうということも無いのですが、物の観方をマルチにする という観点から言うとこの観方だけでは分からないこともあるんですよね。  たとえばルールというものが何故出来たのか?から考えると分かり易いかも 知れません。皆がトイレに行きたい状態の時にトイレが一つしか無い状況、じ ゃんけんで誰が一番に行くか決めよう〜というのが恐らく最も簡単なルールだ ろうと思います。湖の鷹さんがこのじゃんけんも拘束だと感じるというのは想 像し辛いのですが、まぁ、、ここは拘束だと感じるということにして話を進め ますね(^O^;)シツレイ  で、そこで「じゃんけんやその他のルールに基づいて決めるは拘束だから厭 だ」と言ったら、どうなるでしょう?…多分、喧嘩になるでしょうね。そうな ると今度は力の強い者が一番にトイレに行く権利を得ることになるでしょう。 力の差で決めるというのも、これまたルールの一つにしか過ぎないと私は思い ますが、このやり方では力の弱い者は「不自由」であり「力に拘束されている 」と感じるのですね。  そこで、力の強い弱いや数学が出来る出来ないとかの勉学の多寡に関らず、 全員がほぼ満足出来るルールとして「じゃんけん」という方法を取ることが多 いのだろうと、私は思うのです。大多数の人がほぼ納得出来るやり方でお互い の権利や利益を守ろうということで切磋琢磨されて成立するのが規則であり、 ルールなのではありませんか? フォーラムのルールにせよNIFのルールに せよ、法律にせよ、それがあるのは大多数の人間の利益を守り権利を守る為で あり、上記の様な経緯を経て一番妥当なものが残ったというのが本当のところ では無いでしょうか?  湖の鷹さんが「ルールや規則は嫌い」というのは、多分それが外から押し付 けられたと感じるから厭なんじゃないですか? それが自分で決めているルー ル(例:寝る前には歯を磨く的な日常の簡単なこと)だとしたら、それが嫌い な人はあまり居ないのでは無いでしょうか? だって嫌いなら自分でルールを 作らねばいいんですから…と言っても毎日生活している上で便宜上出来上がる システマティックなルールを持たない人は居ないだろうと思いますが(笑) |あらゆるものは、ほっぽってなにもしないでいると腐っていきますね。私はルー |ル・規則も同じだと思います。だからこそ、「それは腐っているんじゃない?、 |色が変わってるぜ?、そんなもの捨ててしまったほうがよくない?、じゃなきゃ |新しいものを用意するとかさ?」と私なんかだと・・・、まぁ、なるべく言うよ |うにしたいと思ってるし、他の人もそゆことして欲しーなーとか思っているので |すね。本当に腐っているように見えるかどうかに関わらず・・・、  これには心から賛成します。  常に切磋琢磨してゆこうという心構えですよね、この切磋琢磨の為の弛まぬ 努力とか想像すると…怠け者の私は「げぇ〜っ」とか思ってしまうんですけど ね、常に自身が努力し続ける気概無くしてルールが腐ってるという指摘は出来 ないですもんね、湖の鷹さんは真面目な努力家なんだなぁ…あたしゃ見習わね ば_¢(。。 )m メモメモ  で、これをやるに当たってルールの基盤である人間関係や、そのルールのあ る「場」の成立条件、そしてその推移や歴史などについても同様に「腐ってる んじゃないの?」という問い掛けが必要になると思います。これをしないでル ールだけを指摘していても対症療法でしか無く、単にイチャモン付けて終わる とか抗議の為の抗議で終わるしかなくなるんだと思います。  湖の鷹さんからの新たなる問題提起は、ルールの基盤辺りから始めて頂けれ ば嬉しいです。そして、これは是非とも7番で始めてくださいね(^_-)-☆  ではでは(^^)/"                             ☆みれ・:・。,☆ 951/952 QZY01267 猫の手 権利 (19) 96/05/14 22:17    権利を主張する人がいる。  権利を主張される人がいる。  権利を主張された誰かはそれを補填するために  また別の権利を主張する。  そしてその権利を主張された誰かはそれを補填するために  また別の権利を主張するでしょう。    私はこのところ権利を主張したことなどないと思ってた。  ところが他の人からは  私が権利の主張をしていると映って見える。  どうしてだろう?  どうしてだろう?   と自分の文章読み返す。  確かに相手に同意を求めるということはしているけれど、  要望してることもあるけれど、  私はそれを  私の権利の主張を背景にしたつもりはなかったはずだけど  ひとはそうは受け取らないものなのか?    私は自分が自由に振る舞えるよう、  同意を求めてきたつもり。  自由に振る舞う権利を主張したつもりはなかったはずなのに。  たとえまた、同意が得られなかったにしても  私は私の書きたいこと書いてきた。  そのことにより  私の身に振りかぶることを受け入れようとする。    権利とは、  相手への犠牲の要求と私は考える。  それは正しさ握りしめた主張となって  あとからそこに義務がのしかかる。  それは私の生み出したいことじゃない。  私は権利も義務も欲しくない。    相手の中のそれをしたい気持ちに対して  相手の中の新しい何かを生み出したい気持ちに対して  私は可能な限り同意を求める。  同意が得られなかったからといったって  権利を主張したりしやしない。  権利の主張は戦いを生み出すはずだから、  それよりも同意を求める工夫を考える。  それでも同意が得られなかったなら  私はそれをやっちゃうでしょう。  それにより起こることを受け入れる覚悟でね。    約二千年前、  それをやってしまった人が一人居る。  正しさ握りしめている人々の中  正しさよりも愛を大切にして欲しいと語り掛け、  同意を得られず十字架に掛けられた。  彼は権利を主張していた訳じゃないんじゃないのかな?  彼は正しさを主張していた訳じゃないんじゃないのかな?  そういう私の見方、間違ってるかしら?    それから二千年経った今も、  人々は正しさ握りしめ、  彼の言葉の中からまで正しさ拾い上げ、  権利と義務にあくせくし続ける。    数年前、  とあるセミナーで  さんざん、「正しさを手放しなさい。」と責めたてられた。  振り返ってみたら、  私は正しさ全部捨ててしまったのに係わらず、  彼らはいまだに正しさ握りしめ戦っている。    私は戦うのなんか厭だよ。  私はただただ楽になりたいだけなんだ。  私は「あなたのために」なんてこと言わないよ。  そんな偽善、私は好きじゃない。  私は私のためにして欲しいと望んでる。  それを望まれているその人も  私自身だと感じつつ。    誰も彼もが私だと思ってしまったからこそ  権利も義務もいらないと思えるし、  誰も彼もが自由でありながら  豊かな世界が生み出せるって思っているんだから。  そろそろ人類の経験生かし、  それに気付いても良い頃じゃないのかな?       ** QZY01267/『猫の手』 <96/05/14 20:22:56> ** 952/952 GED01563 水戸黄門 日銀の独立性とは何か? (19) 96/05/15 02:11 943へのコメント 日本銀行は株式が店頭市場で公開されているんじゃよ。 今度、店頭公開市場の株式4季報をよんでごらんになれば、大株主がわかるじゃ ろう。 なお、紙幣の発行が中央銀行に集中したのは比較的新しい現象で、昔は約束手形 や銀行小切手の形で、どの銀行も紙幣を発行していたんじゃな。たしか、今で も、香港は中央銀行が2つあったと記憶しておる。このへんは、貨幣論者とか銀 行論者とかの19世紀の論争を読むと、また愉快なのじゃし、イギリスで中央銀 行ができた歴史なども面白い。これらは専門書の方がワシより正確じゃろう。日 本銀行の独立性の是非については、このへんの研究をざっとして検討すれば、も っと面白いじゃろう。いかなる制度も光と影がつきものじゃが、大蔵省が日銀を 管轄している方がむしろ(影の力というものがあればの話じゃが)、その干渉を 受けやすいという可能性もあるのではないじゃろうか?  96/05/14(火) 10:08 水戸黄門(GED01563)