「確かにこの人の言う様に夜更けに焚き火をしていると…」と村長 - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/05/31 - 01354/01354 PFA03563 YAHATA 「詐欺の心理学」 ( 3) 96/05/30 23:32  久々に本の紹介です。  題名:詐欺の心理学  著者:取違孝昭  発行:講談社(ブルーバックス)  初版:1996/04/20 いろいろな詐欺の手口、そして騙される側の心理を鋭く分析します。結婚詐欺、 出張ホスト詐欺、そしてM資金にバイブル商法…。信ずるものは救われないの か!? YAHATA - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/05/31 - 00979/00980 GED01563 水戸黄門 RE^2:御老公の独り言(12) 暗黙知(4) ( 5) 96/05/30 21:56 00972へのコメント > >> 例をあげよう(例は言葉尻をとられるので出したくないのじゃが・・・)。前者 >> はテニスの素振りを先輩に細かく注意されている「個々に注目する訓練」の段階 >> からボールを打つようになってテニスがうまくなるようになるまでの人の潜在的 >> な力、後者は実際にこうして得た訓練によってテニスするとき意識されない能力 >> とでもいったところじゃろう。 > >えーと、これ読んで思い付いたのが、「パブロフの犬」ですね。 やはり、例を出したのはまずかった。じゃが、ここだけの話じゃが、初めに暗黙 知の解説を読んだとき、ワシも同じようの、「これはパブロフの犬じゃ」と思っ たのじゃよ(今は違うという意味)。。 >ちなみに私なんぞの書き込みは「第二の勘」を多用してると言えると思います る。 それが普通じゃ・・・。 96/05/30(木) 21:40 水戸黄門(GED01563) 00980/00980 BZT05740 プリン   とてもショックな出来事 ( 5) 96/05/30 23:56 今朝、会社に行ったら同じ職場の人が亡くなっていた。 昨夜、自転車で帰宅中にバイクに乗った16歳の子にひかれたらしい。 一昨日、お子さんの話しを楽しそうにしてくれた。 みんなが悔しいと言って泣いていた 「16歳の子には親に買ってもらった高価でカッコイイおもちゃかもしれない、 でも一家の大黒柱をおもちゃで殺されたらたまらない」 仲良しの先輩(女子中学生姉妹の母)は言った 身近で突然ひとが亡くなったのは初めてのことで、すごくショックを受けました 帰り道に安全運転して、ふだんずいぶん無茶な運転をしていたこと、まわりの車も乱暴 な走りをしていることに気づき自分もいつ加害者になるかもしれないとおもった 明日は彼が楽しみにしていた駅伝大会なのに・・・  とても残念・・・ 重体の子の回復と、彼の冥福を祈ります - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/05/31 - 01128/01130 KFQ02761 しまうま ハローメッセージ96年5月分 ( 6) 96/05/30 22:03 コメント数:1  1996年5月分  96/05/01 「何故、そういう受け取り方になるのかな?」と奥の焚き火民  96/05/02 「ほらまた何故?と聞きたがるんだから…」と凍え人は言った  96/05/03 「そうして何故何故と聞かれるのは厭だと言ったでしょ」と凍え人  96/05/04 「皆と話をする気は無いのですか?」と奥の焚き火民  96/05/05 「あなた達は、そうやって質問ばかりするんですね…」と凍え人  96/05/06 「本当に言いたい事とか無いんですか?」と続ける焚き火民  96/05/07 「そりゃ言いたい事は沢山ありますよ、でもね…」と凍え人  96/05/08 「何でもかんでも言ってしまわない主義でね、私は」と凍え人  96/05/09 「まぁとにかく招かれざる客は退散しますよ」と凍え人は言った  96/05/10 「ただね皆さんのやり方は社会では通用しないと…」と凍え人  96/05/11 「皆さんは好きにして下さいよ、私は常識的な人だから…」  96/05/12 「気持ち良く私を迎えてくれる所にゆきますよ」と凍え人  96/05/13 「いつか皆さんも私の言っている事が分かる日が来る…」と凍え人  96/05/14 「ということで、皆さんお元気で〜」と凍え人は立ち上がった。  96/05/15 「随分勝手な言い分ですね」と二人の焚き火民が同時に言った  96/05/16 「皆さんの方が勝手ですよ。もう止めましょ無駄な話」と凍え人  96/05/17 「では…」と凍え人は焚き火を離れ歩き去った…夜は更けゆく  96/05/18 焚き火民達は暫く火に見入っていた。夜露が草を濡らし始めた。  96/05/19 暫くすると遠くからガヤガヤと人の声が聞こえて来た…  96/05/20 「ここです、ここが不法焚き火現場です」と凍え人の声がした  96/05/21 「皆さん、ここはどなたの土地かな?」と村長らしき人が尋ねた。  96/05/22 「私の土地です」と天使は立ち上がりながら言った。  96/05/23 「焚き火の申請はお済みですか?」と口調を改めた村長が言った  96/05/24 「焚き火に申請が要るというのは初耳だが」と天使は答えた。  96/05/25 「あなたの庭先での事に申請が必要というのでは無いが…」と村長  96/05/26 「では何でしょう?」と天使は村長を見つめた。  96/05/27 「いえね、ここに居る凍えさんからの申し立てで来た訳で」と村長  96/05/28 「皆さんの焚き火が違法で周囲に迷惑なんじゃないか?と」と村長  96/05/29 「それで私が調べに来たと、ま、そういう訳です」と村長は言った  96/05/30 「調べた結果はどうなのですか?」と天使は村長に近づいて言った  96/05/31 「確かにこの人の言う様に夜更けに焚き火をしていると…」と村長 - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/05/31 - 07579/07583 GED01563 水戸黄門 執着の是非 ( 7) 96/05/30 22:30 07552へのコメント >というか、「執着=悪いこと」という図式が頭から離れず、 >自分のなかで「あ、今の僕、なんか執着してるな」と思った時点で >ふっと退いてしまうようにしてしまいます。 >だから、執着した果てに何がわかるか、未知の世界です(^^;) 真に執着するという行為は、なかなかできるものでもない。ワシは、執着してい ると思ったから、退くことはないが、執着しきったという自信は、あまりないの う。じゃが、体験上、執着しきったあとは、解放があるのじゃ。そこには、後悔 はないようじゃ。懺悔や祈りなどは発生することも多いようじゃが・・・。 96/05/30(木) 22:24 水戸黄門(GED01563) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/05/31 - 04763/04768 GGA02514 KAZE シュタイナー「いか超」から学ぶ●3 (13) 96/05/30 20:19 04752へのコメント ●R.シュタイナー 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)  読書会・第3回/「条件」(P19-31)その3      道の発端をなすのは魂の或る基調でなければならない。この基調は神秘学者に   とって、真理と認識への畏敬、礼讃の小道と呼ばれている。この基調をもつ人   だけが神秘学徒となることができる。(P22) ぼくなどはいきなり「道の発端」からつまづいてしまうのですが^^;、 ここでひるんでいては読書会が続きませんので、転びながらも頑張ります。 魂の基調となるのが「畏敬」ということでなければならないというわけですが、 最初、この「いか超」を読んだときに、「こらあかんわ、失格や」と感じました。 というのも、ぼくは、自分でいうのもなんですが、物心ついてから、 誰かを尊敬するとかいうことからは遠い生活を送ってきたからです。 しかし、振り返ってみると、ぼくは人を尊敬することはなかったものの、 「真理と認識への畏敬」ということでみると、 小さい頃からかなり強くあったのではないかとも思えます。 けれど、やはりぼくの最初の障害が そうした「畏敬」ということにあったことは確かで、 そこの部分をなんとかすることろからはじめる必要がありました。 シュタイナーの教育についての考え方でも、 子供は、最初は外界を受け容れることで成長し、 尊敬すべき人から多くを学ぶことで魂の素地を形成していくといいます。 日本の陽明学者でもある安岡正篤氏なども、子供の教育にあたっては、 「愛」と同時に「敬」ということが大事だということをいいますが、 同じ事なのだと思います。 そういう意味で、この「畏敬」という観点は、「高次世界の認識」云々に関わらず、 魂の成長にとっては欠かすことのできない重要なことなのだと思われます。      はじめは他人に対する子供っぽい畏敬であったとしても、それが後には真理と   認識に対する畏敬にまで発展する。尊敬するに値する相手に対しては、それに   ふさわしい仕方で尊敬するという態度を学んだ人間は、精神を自由に保つすべ   をもよく心得ているものだ。そして心の奥底から畏敬が沸き起こる場合、常に   その畏敬の存在は正当なのである。(P23) 日本の武道の考え方に、「守破離」というものがあります。 最初の段階は、まずなによりも「型」を修得しなければならない。 その「型」を修得すると、今度はその枠にとらわれないように それを「破」っていかなければ成長できない。 それから、その「破」というアンチの世界もまたひとつの「反−型」だから、 そうした「正−反」という二項的な在り方を越えて、 「離」ということが必要になるわけです。 最初は「ソンケー」って感じでだれかを畏敬の眼差しで見上げる単純なことが その後の「真理と認識に対する畏敬」への、いわば「種」となって、 「精神の自由」という花を咲かせるのではないでしょうか。 それがいわば、「離」なわけです。 つまり、とらわれのない在り方、自由を獲得するということです。 ちょっと考えると、「ソンケー」っていうのは一種の依存でもあり それが「自由」につながっていくというのは矛盾しているようにも思えますが、 それは、「ナショナル」という民族愛が、「インターナショナル」という 人類愛的な在り方の基盤にあるということと似通っているのだと思います。 つまり、身近な人を愛することのできない人の語る人類愛は、 ある意味で詭弁にすぎないということです。      われわれよりももっと高次の存在があるという深い感情を自分の中に生み出す   のでなければ、われわれ自身が高次の存在へ高まる力を内部に見出すことはで   きないであろう。導師は自分の心を畏敬の深みに誘うことによってのみ、自分   の精神を認識の高みに引き上げる力を獲得することができた。恭順の門を通る   ことによってのみ、霊の高みへの登坂が可能となる。正しい知識は、それを敬   うことを学んだときにのみ、自分のものにすることができる。人間は確かに眼   を光の方へ向ける権利がある。けれどもこの権利は他人が与えてくれるのでは   なく、自分が自力でそれを獲得しなければならない。(P23-24) つまりは、「虚心坦懐」ということなのだと思います。 なにごとにもとらわれなく接することができなくて、 いつも色眼鏡で見たり、疑いのための疑いという感じで接している姿勢では、 そこから何も得ることはできないということなのです。 ここで注意しなければならないのは、何事も鰯の頭を信心するように 信じ込まなければならないということではなく、むしろその反対で、 「信じず、疑わず」こそ、「とらわれない」ということだということです(^^)。 とらわれなく受け入れる魂の傾向性がないと、それを学んだとはいえない。 学ぼうという以上は、そこに学ぶ内容、対象がなければならないわけで、 それを認めなければなにも始まらないということです。 そこに光はないと思っている人に、光を教えようと思ってもダメなように、 そこに高次の認識があるということを虚心坦懐に受け取ることがなければ その高次の認識を得るということは永遠にありえないことです。 それは高次の認識がないということではなく、 ただただそれを見ないというだけのことなのにね。 そういう意味で、「自分が自力でそれを獲得しなければならない」ということは 非常に重要なことだということを忘れないようにしたいものです。 だれかが、してくれない、与えてくれない、愛してくれない・・・ という乞食のような「くれない」を繰り返してみたところで、 それは与えられることなどないのだということです。      われわれの文明生活は尊敬したり、献身的に崇拝したりするよりも、批判した   り、裁いたり、酷評したりする方に傾きがちである。しかしどんな批判も、ど   んな裁きも魂の中の高次の認識力を失わせる。それに対してどんな献身や畏敬   もこの力を育てる。(P24) このことは、とてっも重要な観点だと思います。 現代においては、(ぼくもそうでしたが(^^;))、 人を尊敬させないような冷たい知性教育の影響を受けすぎる傾向にあります。 そうした冷たい知性教育は、魂の力の基になる「種」を否定しかねません。 生まれたときから人を疑う利己的な魂の傾向性を植えつけられたとき、 人はそこから何も生み出すことをしなくなっていくと思うのです。 つまり、魂的な乞食の集団がこの地上を徘徊することになります。      われわれの文化は、自分に対して意識的である人間の判断、「すべてを吟味し   て、最善を手に入れる」態度、つまり正に批判の精神によって、その偉大さを   獲得してきた。(中略)しかいこのことの結果、われわれは外面的な文明生活   の上で得たもののために、それに相当する犠牲を高次の認識活動や霊的生活の   上で支払わなければならなかった。とはいえ、高次の知識を得るために必要な   のは人間崇拝ではなく、真理と認識とに対する畏敬である、ということが強調   されねばならない。(P24-25) もちろん、現代の文明や文化が悪いというのではあまりに短絡的で、 それにはそれなりの意味があるということは忘れてはいけないのだと思います。 人は、外的世界に積極的に関わらなければならなかったし、 そこから多くを学ばなければならないのですから。 けれども、そうした外的世界に埋もれてしまってはならず、 また、畏敬の念が大事だからといって、だれかを教祖のように崇めるのも そうした外的世界に埋もれてしまうことと大差はないように思います。 あくまでも重要なのは、「真理と認識とに対する畏敬」なのだから、 それを忘れてしまって、だれかを偶像視するのは本末転倒です。 臨済の「仏陀に遭ったら仏陀を殺せ」という物騒な言葉も、 仏陀をあがめるのではなく、その「真理と認識」への「畏敬」が 大事なのだということをいわんとしていたのではないでしょうか。      先ず第一に畏敬の念を思想生活の中に受け容れること、それが神秘学徒の出発   点である。自分の意識の中にある不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判の   傾向によく留意し、正に畏敬という思考内容を育てることから始めなければな   らない。(P26) ぼくも、この「いか超」に書かれてある「畏敬」ということについて それまでの自分を深く反省しながら、すべてのものに積極的な面をみつけ、 それを敬うこということを心がけるようになりました。 まだまだ十分ではないものの、それを育てなければ何も始まらないのですから。 キリストの逸話のなかに、キリストとその弟子たちが犬の腐敗した死体の側を 通りかかったときのものがあります。 弟子たちがそれを避けて通ろうとしていたのに対し、 キリストは「なんときれいな歯をしているのだろう」と言ったという話しです。 われわれは、意識的になって自分の思いを見つめてみるならば、 なんと「不遜な、破廉恥な思考内容や軽蔑的な批判」が そこには満ち満ちていることでしょうか。 不遜のための不遜、破廉恥のための破廉恥・・・。 そういう意味での「自分を観る」ということもまた 虚心坦懐な姿勢で、そこに「真理と認識とに対する畏敬」があるかどうかを 常に自問することでもあるように思います。        ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04764/04768 VFG13516 あとみ RE:シュタイナー「いか超」から学ぶ●2 (13) 96/05/31 07:32 04752へのコメント コメント数:1   KAZEさん、こんにちは えっとですね、質問があります。ここで云われている「師」ですが、  これは、人間なんかの「師」なのでしょうか、それともいわゆる  どんなところにも「学びの種」はあるんだから、それを「師」にして  自ら学んで行きなさい、と言う意味でしょうか?KAZEさんはどの様に  お考えになりますか?   私が読んで受けた印象は、すべてから学んでいく姿勢は常に持って  いないといけないけれど、それとは別に、やはり一生ついていける、と言うか、  畏敬の念を持って接していける、と言うか、目標となる、と言うか・・・  ウーン、ウマクイエナイ、何かそんな「一つ」が現れる、もしくは出会う、と言う風に  読んだんですけど。ただ、それは私が思うのは、別に人でなくてもいいんじゃ  ないかと思いますが。KAZEさんがおっしゃるような運命的に出会う本、であっても  いいと思うんです。私もこういう本との出会いってもちろんあると思いますし。   細かいことで申し訳ないんですが、できたらKAZEさんのご意見を聞かせて  ください。                  あとみ(VFG13516)   04765/04768 GGA02514 KAZE RE:シュタイナー「いか超」から学ぶ●2 (13) 96/05/31 09:28 04764へのコメント あとみさん、どうも。 >> えっとですね、質問があります。ここで云われている「師」ですが、 >> これは、人間なんかの「師」なのでしょうか、それともいわゆる >> どんなところにも「学びの種」はあるんだから、それを「師」にして >> 自ら学んで行きなさい、と言う意味でしょうか?KAZEさんはどの様に >> お考えになりますか? もちろん、ここでいう「師」というのは、 たとえば、「尊師」だとかいうような^^;、教祖的な存在ではありえません。 もしそれが人であるとしても、いわば数学の教師が数学を教えているようなもので そこに特に「崇める」とかいう要素はまったく存在しえないと思います。 シュタイナーの行法の考え方は、いわゆる薔薇十字的なものであって、 それは「帰依」とかいうものとは違った、まさにテーマに応じて、 先生と生徒がそれなりに存在しているといったものです。 シュタイナーは、行法を大別して、 いわゆる導師への人格的な帰依である東洋的な行法と キリストへの帰依であるキリスト教的な行法と そして、近代の人間に適した先生−生徒という関係である薔薇十字的な行法を 挙げることが多いですが、ぼくのとらえるところでは、 シュタイナーの「いか超」はさらにその薔薇十字的なあり方を進めて、 たとえばこの「いか超」というテキストを指針にするといったあり方を 提示しているのだと思っています。 ですから、そういう意味でいうと、「師」というのは、 結局は、基本的に「自己認識」であるということになると思います。 もちろん、その「自己認識」が「エゴ認識」になってしまわないように それなりのトータルな指針というのは必要なのですが、 その指針を人格的な「師」から教示される必要はないわけです。 この「自己認識」ですが、これはARIONでいえば「自分を観る」ってことで そういう意味でいうと、ARIONの指針っていうのは、 シュタイナーの方法論と近いものがあるとぼくは感じています。 ARIONの指針でいうと、たとえば「虎」というテーマは、 シュタイナー的にいうと、アストラル体を自我で貫き、 それを「意識魂」に変化させるということであり、 わかりやすくいうと、自我のコントロールを自在にできるようになる ということでもあるとぼくは考えています。 こういうきわめて現代的な行法のあり方は、 過去の行法のような導師による管理ということがなされないぶんだけ 各自の責任によってなされるというものですから、 それだけに、トータルな認識と良識をもとうとしない人は、 簡単に間違った方向に行ってしまうということでもあります。 ま、外から見てれば、たとえば言葉遣いひとつからでも、 その人が危ないのかそうでないのかは、少し長く見てれば かなりはっきりわかると思うんですが、 特に危ない感じの人は、自分でそれとわからないままに、 妄想と現実の差がつかなくなってくるようですね。 そこらへんのことについても、「いか超」などは、 かなり適切に指針を与えてくれているように思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/05/31 - 04070/04070 HQK00566 SOUND RE^6:炎で書いた物語」最終章(その6の1) (14) 96/05/30 17:15 04051へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その6の1)  <しあわせ未来形>( DO PEOPLE DO)    DO MAMA DO  DO MAMA WHAT YOU DO  DO MAMA DO WHAT YOU WANT  DO MAMA DO WHAT YOU NEED    化粧の手をとめて 暦に目をやれば  二度とは帰れない 青春過去完了    DO PAPA DO PAPA DO  DO PAPA DO WHAT YOU DO  DO PAPA DO WHAT YOU WANT  DO PAPA DO WHAT YOU NEED    あくせく働いて 今日まできたけれど  心に忍び込む むなしさ進行形    DO BROTHER DO BROTHER DO  DO BROTHER DO WHAT YOU DO  DO BROTHER DO WHAT YOU WANT  DO BROTHER DO WHAT YOU NEED     都会にあこがれて もまれた人の波  誰もが探してる しあわせ未来形    DO SISTER DO SISTER DO  DO SISTER DO WHAT YOU DO  DO SISTER DO WHAT YOU WANT  DO SISTER DO WHAT YOU NEED     いたわりあうために 生まれてきたんだね  やさしくなれたなら しあわせ未来形    DO PEOPLE DO PEOPLE DO  DO PEOPLE DO WHAT YOU DO  DO PEOPLE DO WHAT YOU WANT  DO PEOPLE DO WHAT YOU NEED     *************************************************    最近、関東地方で開局した76.1Mヘルツの「インターFM」という英語局があ る。  中波のFENとちがって音がいいので愛聴している。  スティングの曲がよくかかるので「第五章その3」で触れた「ヘルメスの杖」を思い 出 した。    >>    >>94/04/27 蓮華の花はヘルメスの杖によって開く、麒麟の瞳は何処を示すか >> >>  2/27日の新聞ににスティングのニューアルバム >>「mercury falling」が >>全世界に先駆けて発売される、と宣伝してあった。 >>この題名にこのハロー・メッセージのヒントがあった。 >>ヘルメスとはhermёs、カバンや時計で有名なエルメス。 >>ギリシアのオリンポスの十二神の七番目。 >>ローマではメルクリウス、英語ではマーキュリー、 >>属性は富と幸運、雄弁、熟練そして商売、盗みの守り神。水銀、水星。 >> >>スティングは水銀柱の意味で使っているらしい。 >>水銀柱が下がっていく、と。もしくは水星が落っこちるの方が趣がある。 >>「ヘルメスの杖」とは水銀柱に見えないだろうか。    この時点では、こんな文章を書いて水銀柱のことと推定していた。     昨日、5/29の「Xファイル」の最終回を見ていると、  モルダー捜査官が証拠写真に写っている自動車のフロントガラスに貼られているシー ルを  スカリー捜査官に示した。  MULDER,"Look at the wind-shield."  スカリーは一目みるなり   「これは同じ車じゃないわ、これはヘルメスの杖よ、医学に従事している者のシン ボルなの」   SCULLY,"It's not a same car. It's called the PRODUCE C.S.  sot of the doctor- simbol of medical profession."  と言った。  ぼくの耳ににはPRODUCE C.S.としか聞こえないそのことばの意味がわからなかった。  それがなんと探し求めていた「ヘルメスの杖」だったのである。  PRODUCE C.S.というのは聞き取り間違いかもしれないがとにかくお医者さんのあのマ ークのことを 「ヘルメスの杖」と呼ぶらしい。    その途端にぼくは「Xファイル」のストーリーを追えなくなった。  「そうだったのか、ヘルメスの杖とは医学を指していたのか…。それならあのハロー ・メッセージは医学から開けるのだ」    この物語にこれまで登場した方の中に医学者はいるだろうか。  それは大國主、大己貴尊(おおあなむち)である。  医学、薬学、獣医学、歯科、の祖として各地の神社にに祭られているのである。    >>94/04/27 蓮華の花はヘルメスの杖によって開く、麒麟の瞳は何処を示すか     蓮華の花が大國主によって開くという。麒麟の瞳は饒速日尊(ニギハヤヒ)の霊と 身。   これまでの流れから読めばその霊と身が示すところは五五の中心である。   わざと混同させられてきた大物主と大國主がその相違、役割を全うすれば   蓮華の花は ついに開くのである。 大國主は医学、薬学、獣医学、歯科の神としてはたらき、 大物主は真の天照太神として三界の大黒柱のはたらきをなさるときがくる。   *********************************************************         さて、それではARIONの寄せてくださったこの部屋の仲間の方々に対する  挑戦状のように見える新たな詩編を開こう。  ぽく流の勝手読みをさせていただくのでご容赦。   まず、冒頭の一連だけを引用してその意味を探る。 >> >> いましいます、ありとしありて    居ましいます**今、廃ます、あり「歳」ありて      「歳」とはもちろん饒速日尊(ニギハヤヒ)の名前「大歳」を示唆している。 本来の皇、歳の存在を主張して、これまでの虚の時代を廃するという。 くだけていえば「ちゃんと、オオトシはここにいるよ、いい加減にしないと今、終わら せちゃうよ」       >> ゆめ を はむ もの      夢を食むもの**夢追わむ者    夢を食い追う者      >> かいなる もの は、かい として  魁なる者は皇(カイ)「歳」て**下位なる者は下位として さきがけのスメラであった歳=饒速日尊(ニギハヤヒ)は本当の皇として 下位であるべき者はその位のままに下位にもどして >> さらなる うまち を あつめむとす  更なる美霊(血)**新なるウマチを集め無とす。 そして、新たなウマチを集めて、これまでの虚構の歴史は無とするのである。  問題はこのウマチの意味であるがぼく流に解釈すれば 物部氏の祖、宇摩志麻治(ウマシマチ)なのである。これをウマシマジと読んでいる方 もあるが 音霊が変わってしまう。うましマジではマジイのではないか。 きっと饒速日尊(ニギハヤヒ)はわが子にこの名を与えたとき、 「美し真霊」の意を込めたのであろう。 勝手な想像をすれば、愛情を込めて、「ウマちゃん」とか「ウマチ」とか呼んだのであ ろう。 宇摩志麻治(ウマシマチ)は饒速日尊(ニギハヤヒ)と三炊屋姫(ミカシギヒメ)の長 男で弟は高倉下、天香山(アメノカヤマ)である。 末子相続の時代なので妹、伊須気依姫(イスケヨリヒメ)の養子に日向からイハレヒ コ、神武天皇をもらうまで二十年間、摂政として政務をとった。 それが饒速日尊(ニギハヤヒ)にとって以前の美霊(うまち)であったので 今回、新なるといっているのである。「うま治」とよばれるほど摂政としての治世の腕 が素晴らしい人であったらしい。 「美」をウルワシと読むとき布留(フル)に似た発音の、古代メソポタミヤの首都、ウ ルを思い出す。 それがシュメール語の牛の意味ということは、午の字と牛の字の共通性と関係がありそ うだ。 そして、「美」の字は羊が大きいと書くこと。なんらかの牧畜民族の関連が想像され る。 ここに踏み込むと出られなくなるのでこれ以上の想像はやめておく。 それはさておき、今回、これから饒速日尊(ニギハヤヒ)の眼鏡にかなう美霊(血)で ある人をもっと集めようとされているである。更なるとみればもうかなりの人を集めら れたようだ。 >>かすたりて みすみ を しょうく し  数足りて ミスミを 翔駆し**神主たりて三角和尚駆使    集めたウマチの方々の数が足りたら  大神山の裏の三角山ピラミッドをぐるぐる翔駆(かけめぐらせ)よう。  神の主として和尚も駆使して働かせよう。 >> ほしみ は、ほし を >> ちもり は、ち を >> くうなる そは、くうへ ここはあまりひねらずに読んで 星見は星を見て、地守りは地を守り それぞれの特性を生かして 空なる祖、すなわち、これまで信じさせられてきた空しい祖は 空にもどそう。 >> >> あやまてる、れきし >> あやまてる、たみ を うむ >> >> かくや、すきさりし えいか >> なに を もとめむ ここも読んでそのままでいいように思う。 この「過てる歴史」の検証をしてみよう。  。 >>95/01/19 戸浦(トウラ)の百合(ユリ)‥逆矛(サカホコ)増して諌早(イサハヤ)に‥誘う    戸浦は開けようとされている戸の裏ということで、百合はもちろんフルことに通じて 布留を暗示している。  「逆矛」  矛は八千矛大神=素盞鳴尊あるいは饒速日尊(ニギハヤヒ)の神名を示唆している。   天神の矛を逆にするような計画が増してきた。   具体例を中矢伸一氏の「封印された日本建国の秘密」(日本文芸社)を参考にして 挙げよう。     素盞鳴尊から饒速日尊へと授けられ代々受け継がれた皇位継承の璽(しるし)十種神 宝が外来の崇神天皇七年十一月に伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)によって石 上神宮に遷され 「八尺只(ヤタ)の鏡、草薙(クサナギ)の剣、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」 の三種の神器にされてしまったこと。 崇神天皇は和風諡号(しごう)が「御間城入彦(みまきいりひこ)」で任那の城から入 った人で外来者をあらわすという説もあるという。外来者なので十種神宝など邪魔だっ たのだろう。 そして、のちの天武天皇が亡くなったあと、 その妻第四十一代天皇持統天皇と藤原不比等が、謀って持統六年(六九二)三月三日 天照大神の伊勢移転を計画した。 それまでは  アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマ ニギハヤヒノミコト    「天照国照彦天火明櫛玉  饒速日尊」が 「天地人」の天祖、國祖、皇祖の三輪の神として崇められてきたのに置き去りにして、 太陽神、天照大神を天皇の祖神として伊勢に遷すことを決めた。 そんな逆矛の謀反を覚って  布留のミタマは中納言、三輪朝臣(みわのあそん)、高市麻呂(たけちまろ)をして  早めに諌めさせた。それが「諌早(イサハヤ)に誘い、という句。 持統六年(六九二)二月十九日、高市麻呂(たけちまろ)は 三月三日の持統の伊勢行幸に反対し諌言した。 この三月三日が三重ねの日で日向の封印の日であった。 それにもかかわらず、天皇は聞く耳を持たずそれに三を加えた三月六日、天照大神を伊 勢に移してしまった。 このときの高市麻呂(たけちまろ)の諌めは功を結ばなかった。 以来、本来の天神、皇祖としての国祖、饒速日尊の名は歴史から消えることになった。 地祇(ちのかみ)としての性格だけが三輪山に残されて酒の神として三輪明神となっ た。 「甕」(みわ)の神とはあまりにも情けない。 それが「過てる歴史」の一例である。 >> あやまてる、たみ を うむ >> >> かくや、すきさりし えいか >> なに を もとめむ そんな真の天照太神をないがしろにするような歴史のうえに 生まれた民はやはり過てるたみである。 そのようなすでに過ぎ去った栄華によって このうえなにを求めようというのか。 と、読んでそのままでしかないけれど 突飛で奇天烈な読み方をさせまいとする力が働いている。 ぼくにしてはあまりにも普通すぎて奇異に感じられる方もおられると思うが 今回のぼくの解読はまともでいいように思う。 ARIONは平易に伝えるべきことを多くの方に伝えたかったのだろう。 きっともう、あまり時間がないのではないかと感じる。 そのトキが近いのではないかと…。     (つづく) ♪♪音(SOUND) ♪♪