「現にこの私が迷惑を蒙ったんですよ」と横から凍え人が言った - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/06/02 - 07597/07599 KFQ02761 しまうま 「自分を観る」について ( 7) 96/06/02 11:41 コメント数:1  ARIONの過去の発言から、「自分を観る」について語っている部分を抜 粋してみました。何かのご参考になれば幸いです。  ちなみに、この会議室の#06255と#06503にも詳細な説明がありますので、合 わせてご参照ください。 しまうま(KFQ02761) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 『自我の確立には、まず「自知」だろう。  『自分』を知る、というのは「言うは易し行うは難し」の代表選手みたいなものだ。  自分で思い込んだ世界での自分を知る−というのではなく、自分と呼ぶ個体の生きて  いる環境の中の雑多な反映物をも通して知る、ことも必要だ。  それで私は「自分を見る」ことを勧めている。』 『こんな時に自分はこう思った、でも友人は別のことを思った。  この違いは何なんだろう? 自分はこうであるのに、友人はこうでは無い。  自分と友人の違いは何だろう?と考え、お互いの持つ違いや差を認識して、その差を  お互いに超えてゆくことを目指すためには、自らの性格を先ず見つけること、  そして色々な基準に基づく評価を与えないことから始める…これを、「自分を観る」  と私は名付けているんだよ。』 『自分を観るということは、先ず自分の言葉で自分のことを語ることから、  そして他者にそれを伝えることから始まる。  他者の反応は自らのものとは異なる筈だ。  どこがどう異なるのか?  異なる点について自分は、どう感じるのか?  そうした事柄を誠実に会話する努力無しで、一般論を持ち出していては、  自分を観ることから遠ざかることになる。』 『何を見るのか?  まず「ああなりたい、こうなりたい」という思いを外した部分で、  自分は一体、何の為に自分の生命を投げ出すことが出来るのか?と  いうことを考える。  そうした時にこそ、自分が何であるか、何がしたいのかが見えてくる。  この状態の時に、もっとも人は謙虚に自分の生命を見つめることが出来る。  そうした裸の状態の自分を見ることが出来た時に、初めて自分の周囲が見えてくる。』 『万民に通じるような方法論は無いけれど、あなたの中にくすぶっている『自分』を  引き出す為の縄くらいは提供できるよ。  私は、あなたの鏡となって、あなたの「見たい自分」も、「見たくない自分」も  対等に併置して見せることが出来るよ。  「見たい自分」とは既に知っている、『自分』。  「見たくない自分」とは、知っていても故意に見ようとしない、  或いは全く気付かない場所に、忘却の彼方に追いやってしまった『自分』。  これらを等価値に見る練習をすることから始める。』 『自分を見る時に、人は自分にとって気持ちの良い自分をみようとする傾向が  あるが、敢えてそれをしないで、見えてくるままを見るということだ。  そもそも気持ちが良いと信じ込んでいることであっても、流行り廃りがあり、  一昔の日本人にとって心地よい状況も、現代の日本人にとっては心地良くないと  いうことも多々あるのだね。  そういった流行り廃りの無い、本当の自分の姿だけを見ようとするということは、  真実の宇宙の姿に繋がる方法の一つでもあるんだよ。』 『本当の自分を見ること、それがたとえ『こうありたい自分』から遠く離れていても  それを認めること。認めることは嫌いにならないことだ。好きになれとは言わない。  認めるということは、嫌いにならないこと…そして好きになることでもない。  ただ、ありのままに『それを、そこに在ると知る』ことなのだ。  この行為を通して、あなたがたは多くのことを見つけるだろう。  それは『自分とはこういうものだ』という枠を壊すことに繋がってゆくだろう。  つまり、自分を何にも規定したりしないこと、自分を自分として見つけることが出来 る ようになる道へ繋がる行為になるからだ。』 『自分を観るということは、自らが見知った自分自身を断定的に論じることでは無い。              ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^  自らの内部にあるものを見つめること、  それは殆どの場合において恥を伴うことであり、  多くの場合、非常に辛く苦しいものであることは否定しない。  しかしそれを避けて記号としての言葉を幾ら構築しようが、  幾ら優れていると喧伝される論理で糊塗しようが、  無駄に終ると言い切っても良かろう。』 『自分にとって自分を見るくらい大変な事はない、と皆が言うよ。  それまでも見てきたつもりでも、それは「自分がこう思う自分」であって  決して本当の自分ではなかった、というケースが多い。  「自分は〜なんだ」とか「自分という人間は、〜なんだ」と決めた自分を見ても  何も変わらない。  これは、自分の望んだ自分の似姿でしかない。  本当の自分とは、意外な面も持ちあわせた存在であることに気付くよ。』 『自分を見るのは、等しく誰にとっても辛いものだと断言しておこう。  時には「こんな自分なんて、何で生まれて来たんだろう?」とか「こんな自分なんて  大嫌いだ、見たくも無い」と自分の殻に逃げ帰りたくなる。  こういった反応は、ごく自然なもので、これが無かったら逆にオカシイ。  拒否反応が強い場合には、ジックリ・ユックリを心がけて、チラリと見えた自分の姿  を批判したり非難したりしないで、そこに置いておく練習をすることだ。  「自分を見る」行為には、一人一人所要時間が異なるので、焦ることは無い。』 『自分を見ることを始めたら、昨今よく言われる「超自我」との対話は困難では無い。  「超自我」というものは、あなたがたの一人一人の心の深奥の「魂」の前庭にあたる  部分の呼称だと、私は解釈している。』 『黙示録的な世界への突入は、あなたがたの一瞬一瞬の決断で防ぐことは出来る。  つまり、あなたの話している超勢力の存在が求めている方向ではなく、あなたがたの  心からの望みである方向へと決断をしてゆけば良いのだが、この心から望む方向とは  何なのか?が分からない人が殆どだから、私はこうして、この会議室でも一人一人と  話して「自分を見る」ことを始めようと、声を掛けているんだよ。  少しでも、何かを変えてゆきたいなら『自分』から変化してゆくべきなんだよ。』 『多くの人間が、自分自身の可能性を信じるのと等しく、他の人や生き物の  可能性も信じ、伸ばそうと努力するならば、この世界は確実に変化するだろう。  また可能性とは、エネルギーだということを覚えておいて欲しい。  精神のレベルのエネルギーは、ある値に達すると物質的な身体のエネルギーにも  影響を与え、結果をもたらすのだ。  この為にも可能性の貯蓄は大きい方がいいんだよ。  可能性の貯蓄が大きいと、マルチなエネルギーの選択が可能になるからだ。  その為にも「自分を見る」そして「他人」との関わりを見る、  個々の差を見いだし、その差を取る為には何が出来るかを考えたり、  行動したり言動したりする上で、さらにお互いの可能性を伸ばす、  といったことが大切なことになるんだよ。  こうしたことが多くの人によって成される時に、大宇宙に偏在する  「イノチ」のエネルギーが大きな選択肢を拡げて、この地球のイキモノの  可能性のエネルギーに見合うだけの「愛」のエネルギーを送ってくるだろう。  そして、この時多くの人が奇跡を見いだすだろう。』 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 07599/07599 KFQ02761 しまうま RE:「自分を観る」について ( 7) 96/06/02 12:36 07597へのコメント  極めて個人的な希望なのですが(^^;、#07597の発言にあるARIONの言葉 は、皆さんの自己省察のために使っていただけるといいなあ、なんて思ってい ます(そーゆー風に、自分にも言い聞かせています(^^;)。  少なくとも、ARIONはこれらの言葉を「自己正当化のために使う」人の ために語ったんじゃないだろうなあ、と思います。  そんだけ(^^;。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/06/02 - 02181/02185 SDI00635 みれ ゴミも積もれば…夢の島(^_^;) (11) 96/05/31 16:51 02175へのコメント コメント数:2 ふぁらんどーる さん  どもども。  今日は肩凝りから頭痛になっていまして、お利口な文章が書けないので(凄 い言い訳>私(笑))気楽なお喋りモードで書きますね(^O^;)  11番騒動の事は、私にもよく分からないんですよ、実は。  桂議長が「狂信的なファンは要らない」と言ったことから、そう言われたと 思った平井さんのファンが激怒したという印象しか無いんです。狂信的ファン という語彙の違いから来るものかな?とかも思うんですけど、桂議長の言って いた狂信的ファンというのは、当時から問題になっていたオウム真理教なども 横目で睨みつつ…の話だったと私は思っています。  狂信的なファンは要らないと言われたから、激怒する…まぁここまでは何と か理解出来ても、その後徒党を組んで会議室から去ってゆくというやり方には、 私はちょっと驚きました。平井さんのファンであるということは新興宗教の信 徒になることとは違う筈だと思っていましたから、あんなやり方しないでもキ チンと話し合うべきだったんじゃないか?と今でも思っています。  たとえ桂議長と意見が合わなくても、それはそれでしょう?(^_^;) だって 大人でしょ〜とか思う訳です。自分と意見が合わない人とはやってけないとい うのじゃ、仲良しクラブみたいでしょ。世間は広いんだからいろんな人が居て、 意見が合ったり合わなかったりするのが当然だろうと、私なんかは思うわけで すけどね。  というのが私の見解ですけど、ちょうど時を前後して結婚やら勤務の都合で 忙しくなってSub-SYSOPと議長を降りられたアキラ君と桂現議長の方針が異なる からと出て行った人も居るでしょうけど、そもそも此処はアキラ君のファンク ラブでも平井さんのファンクラブでも無かったと思うんですけどね>私  ってな感じですけど、何か違うなぁとか思われることあったら、指摘して下 さいましね(^_^)  えぇと私も「真実はこれだ!」なんて言う輩は信用しません(笑)  これほど怪しい奴はいないと断言しまふ(^_^;)                             ☆みれ・:・。,☆ 02182/02185 CXE03650 Y.K RE:ゴミも積もれば…夢の島(^_^;) (11) 96/06/01 03:56 02181へのコメント コメント数:2 こんばんわ、みれさん。 >えぇと私も「真実はこれだ!」なんて言う輩は信用しません 私は、これに対する反応として大別して2通りのパターンを持っているようです。  1つは、その真実とやらがどういう物か聞いて、自分の従来の経験から容易に底が見 えるものだった場合=「おどれ、その程度のことで、なにエラソーに言うとんねん!」  1つはその真実とやらが目新しくて、魅力的に見えた場合=「おお!それは凄い!も っといったれ!いってもうたれ!それ!私も狂信モードスイッチ、オーン!」 ま、これは冗談として・・・  人は自分の考えと違うことを押しつけられると、腹が立ちます。  また、自分の考えを受け入れ無い奴がいると、やはり、腹が立ちます。  で、現実社会では、こうした感情を表に出すことは「非生産的」と見られ、荒々しい 言葉をはくひとは、冷ややかな眼で見られるだけってことになります。  11番騒動ってのは、部外者から見たら「何、大人気ないことやってんの?」ってとこ が一般的な感想でしょう。ま、私のような不心得者は「え、えらいオモロイやんけ!も っとやれ!ワシも混ぜてくれえ!」って感想を持つかも知れませんが・・・。  しかし、私がつくづく残念に思うのは、やはり、多くの平井ファンがここを出ていっ たことでしょう。私は結果至上主義者ですから、論議の是非がどちらにあったかは別に して、この結果をもたらした責任はみれさん、桂議長ともにあると思います。少なくと も、出ていった人に「ここは私の居たい場所ではない」と思わせた事に関しては。  お二方はこの会議室の管理責任者であり、それなりの権限を持っておる以上、必要以 上に会員を追いつめるようなことは慎むべきではなかったのではないでしょうか?(日 本の警察官がめったなことでは拳銃を抜かないように)  私には、この会議室の目的が「平井作品を読み解く」であるなら、そこにファナティ ックなファン(出ていった人達がそうだと言ってるわけじゃないですよ)が集うことは なんら問題がないと思うし、本来の目的の障害になるとは思えません。むしろ、有意義 だと思われます。仮に平井和正氏を教祖と仰ぐ狂信者がいたとしても、その狂信者の言 に何も意義がない訳ではありますまい。むしろ「平井作品を読み解く」重要な手掛かり で有りましょう。また、「作品を愛するが故に平井さんその人を愛する」=極めて確率 高いことだと思います(只でさえ、平井和正って人は後書きや対談で、面白いこと言っ てくれる人なんだから。私だってそうです。でも、くどいようだが、太った福耳のおじ さんが趣味ってわけでは断じてない!)。ここが「平井和正の著作から」と銘打った会 議室である以上、当然、そういう人が集まって来て然るべきだと思います。  その上で(つまりは平井作品を取り巻く事象一切を包括して)「平井作品を読み解 く」ことこそ、真に意義あることだと思います。それこそが、わざわざこの世紀末フ ォーラムFARIONに、単なる1作家である平井和正氏の作品をテーマとした会議室 があることの存在意義ではないでしょうか?  私は、平井作品(とその周辺)には「世紀末を読み解く」鍵が満ちていると思ってま す。「テーマを突き詰めたら、あっと驚く世紀末の実相が見えてきた!」これが成果っ てもんです。この成果は、もちろん、シスオペみれさん、議長桂さん、大勢の会員のみ なさん全員の共同作業によってしか勝ち得ないものでありましょう。  世紀末はあと3年と7ヶ月しかないのだ。それでは、みなさん、がんばって下さい! (唐突に傍観者モードに入るY.K)  いやいや、冗談ですがな、フントに微力ながら、参加させていただきますぞ。 (ゴミマキだって、立派な貢献だい!) ではでは・・・。 02183/02185 SDI00635 みれ ゴミが積もって…夢、何処?(^^;) (11) 96/06/01 15:04 02182へのコメント Y.K さま  どもどもぉ〜(^_^) |  人は自分の考えと違うことを押しつけられると、腹が立ちます。 | また、自分の考えを受け入れ無い奴がいると、やはり、腹が立ちます。 | で、現実社会では、こうした感情を表に出すことは「非生産的」と見られ、荒々し |い言葉をはくひとは、冷ややかな眼で見られるだけってことになります。  腹が立つってとこは、きっと万民共通だろうと私も思います。  で、腹が立って次にどうするか?ですよね。 腹が立つという感情の嵐に翻弄される か、それとも何故腹が立つのか?を考えてみるという方向を選ぶか?で、その後が大い に違って来ますよね。私は後者の方向で行きたいと思っています。 | しかし、私がつくづく残念に思うのは、やはり、多くの平井ファンがここを出てい |ったことでしょう。私は結果至上主義者ですから、論議の是非がどちらにあったかは |別にして、この結果をもたらした責任はみれさん、桂議長ともにあると思います。少 |なくとも、出ていった人に「ここは私の居たい場所ではない」と思わせた事に関して |は。お二方はこの会議室の管理責任者であり、それなりの権限を持っておる以上、必 |要以上に会員を追いつめるようなことは慎むべきではなかったのではないでしょうか |?(日本の警察官がめったなことでは拳銃を抜かないように)  Y.Kさんの言われていることは、世間でもよく聞く責任の所在を追求する話で、 この話自体は、あなたの意見として受け取ります。  で、もう一歩進んで、Y.K さんは責任の所在を私と桂議長に求めることで何 を話したいのかなと。また私と桂議長に責任があるとして、どう責任を取るこ とが出来るとお思いなんでしょ?(あなたなら、どうする?って感じね)  必要以上に会員を追い詰めるようなことは慎むべきと言われますが、これは 当然ですね。誰も必要以上に話し相手を追い詰めたい人は居ないでしょう。そ ういう意味で、誰か11番での騒動の時に必要以上に追い詰める目的で話して いたと思われますか? 結果として彼らが出て行った…だから必要以上に彼ら を追い詰めたのではないか?という話だったら、それは仮定論になりますよね。 結果から原因を探る時には気をつけなくてはならない事があります。それは、 既成概念というものです。こんなことがあった、そうだ!これは●●が原因に 違いないっ!!以前にもあったから、そうに決まってる…という流れがあった ら大抵、そこに感情的な既成概念というものが関与していますので、これには 私は気をつけたいと思っているんですよ。  で、、、私は彼らが追い詰められて出ていったという風には見ていません。 私の目には、自分達の意見が通らないから出て行ったとしか見えないのです。 それも充分な話し合いもせずに感情論だけぶつけていた様にしか見えない。相 互に納得することが最初から意図されていた様には思えないのですよ。  ここを去った平井ファンの方々は、追い詰められて出て行った可哀想な被害 者だと思いますか?なんだかアチコチの噂なんかから類推するに、彼らはSYSOP や議長の権力に屈して去っていった可哀想な被害者の話のようで、どうもこの 理解の仕方は私は納得しかねます。またSYSOP や議長の権力に屈して去ったと 言えば、なるほど尤もだ〜と思われる人も中には居るんだろうと想像しますが、 実際にはSYSOP 権力(*1)の行使(会員削除)は皆無でしたから、これは勝 手な思い込みだろうと私は思いますよ。 (*1)…NIFでは会員削除をSYSOPの運営上の義務としています。  第一、去った平井ファンに対して何だか失礼ですよね?被害者の様な言い方 は…違いますか? お互いに大人なんだし、権力がどうのこうの言ってる反体 制かぶれの高校生じゃあるまいし…とか思いません?(笑)  これに関連した話は13番でも話されてましたが、私は隆ちゃんの言ってた | 名前も出さずに文句だけ言う・・・こういう幼稚園左翼みたいな人たちがいつ | までたってもいなくならないのは・・・なぜなんでしょう?。  私は、この部分に偉く共感を覚えました。  SYSOP や運営陣を体制側に見立てて、それに反抗する若者という構図に酔う のは勝手だけど、もうそろそろ先に進みませんか?と言いたくなります(笑)  で、こうして会議室で堂々と疑問をぶつけて自分の意見を言ってくれるY.K さんやふぁらんどーるさんに、私は心からエールを送りたいと思っている訳な んですよ。  個々に意見が違って当り前、自分の意見が通るとは限らない、とこんな当り 前のことが分からない人が多くなってきているように私は思います。相手と心 ゆくまで話し合って、自分の意見が妥当でないと分かったら相手の意見を取り 入れたらいいだけの話が、そこに双方ともに感情を持ち込んで複雑な話にして しまうから面倒なことになるんじゃのう…あれれ、これじゃどっかの婆ぁだわ (^O^;)  つーことで、侃侃諤諤の意見交換もOK、喧々囂々の議論もOKと。  ただし感情対感情の話は時間の無駄だと思いますので、これはペケと(感情 についての議論なら話は別)  そんな感じで、今後とも宜しくね。                             ☆みれ・:・。,☆ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/06/02 - 04775/04777 GGA02514 KAZE 風の本棚●神渡良平・宇宙の響き (13) 96/06/02 12:16 ■神渡良平「宇宙の響き/中村天風の世界」(致知出版社) 神渡良平さんには、安岡正篤さん関係の好著がいくつかあるのですが、 今回のテーマは「中村天風」で、前著の「中村天風・生きる心得」に続く 中村天風関連の二冊目にあたります。 今回の著作は、著者自身が、二年近くを費やして書いたと言ってるように かなり力の入ったものになっています。 もちろん、こうした類の本は、ビジネス書に類するものなので、 神秘学的にみてみると、いまいちのところや、くどいところもあるのですが、 そうしたことを考慮してみても、今回のものもふくめて、 神渡良平さんの著作には魂が入っているように思います。 さて、中村天風さんというと、最近、安岡正篤さんとならんで、 ビジネスマンの精神形成のためのバイブル的な存在となっているようですが、 それにはそれなりの理由があるのは、こうした方々のことを 調べれば調べるほどなるほどと思ってしまうところが多いです。 ぼくも、中村天風さんについては、少し読んだことのある程度ですが、 安岡正篤さんの著作からは、ほんとうに多くを学んでいます。 かつては、こういう、いわば「精神論」っていうの嫌いでしたけど、 時代が、こうまで軽薄なものに満たされてくると、そうも言っていられない(^^;)。 自分の精神を鍛えるためにも、こうした凛とした方々から、 少しでも学ばなければというこの頃です。 参考までに、本書からいくつか引用します。   幕末の名著『言志四録』にこんな一節もある。   「分を欺かず。これを天に事(つか)えるという」   天を畏れる敬虔な宗教心とは、ただ単にお寺に行ったり、神社に詣でたりする   ことではなく、常日頃の生活で自分をごまかさず、誠心誠意行なうことだとい   うのだ。宗教心をここまで日常生活に引き下ろして解釈してくれたありがたい。   この意識に立つと、人が見ている、見ていないとは関係なく、自分が納得いく   まで真心を尽くすことができるようになる。自分の内に住む天をごまかさなく   なる。そういう意味で、「天」という概念を私たちの日常生活にもう一度取り   戻すことは、私たち自身の精神の健全化のために欠かせないことのように思え   る。   天風先生がもたらしたものは、まさにこの天という概念なのである。                                 (P414-415)      この決意こそが大事だ。決意とは、自分で決定した意志のことであり、主体的   な選択を意味する。かつては自分の意志とは関係なしに、波瀾万丈の人生に投   げ込まれたと思ったので、受け身であり、生き延びるのが精いっぱいだった。   だから愚痴ったし、抵抗したし、ののしった。しかし、いまは自ら選択したの   だ。   「どんな状況であろうとも、泣き言を言うことなく、ただ雄々しく生きていく   ことにしよう」   今度は自分自身の主体的な選択であるかぎり、潰されてしまうことなく、必ず   超えて行ける。人間は弱くない。受け身のときは弱かったが、主体的に立った   ときは滅法強くなる。こうなると、過去の体験のあらゆるものが、自分を強化   する方向で生きてくる。かつてはマイナスでハンディだと悔やんでいたものが   プラスに変わり、自分の血となり、肉となる。そうなってくると、改めて、貧   しかったことも、淋しかったことも、大学に行けなかったことも、貧乏クジを   引いたと思っていたことも、そうではなかったことに気づく。   「ああい言うことがあったからこそ、現在の自分がある」   と感謝できるようになってくる。かつては恨みつらみの対象だったことが、そ   うではなく、それは自分が足らなかったから、そうとってしまったわけで、天   には深い配慮があったことに気づく。改めて、天の配慮に感謝する。もう、怖   いもの知らずだ。勇気凛々いかなる状況下でも突き進んでいける。(P402-403)    あえてこうした内容に何か言葉をつけ加える必要もないですし、 そうしてしまうと蛇足になってしまうのですが、 「自分自身の主体的な選択」ということがほんとうに大切だということは いくら強調しても強調しすぎることはないように思います。 その「自分自身の主体的な選択」こそが、「自由」、「自らの由」を 保証するものであり、それ以外のものは、愚痴や言い訳にすぎないということを ひとりひとりが自分の魂の刻み込んでいくこと。 それ以外に、魂の成長はないのだということを知らなければならないのだと思います。 自由がないから、こそこそ人の陰口を言って喜んでいたり、 自由がないから、凍え人は村長を呼んできたりする(^^;)。 そんな馬鹿げた悪循環を、ひとりひとりの内なる「天」の声を聞きながら、 断ち切って、真の「自由」に向けて歩みを進めたいものです。 たとえそれが、遅々とした歩みのようにしかみえなくても、 それ以外のすべての依存的な在り方は、自分を堕落させるだけなのですから。 ☆☆☆KAZE☆☆☆                                  - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/06/02 - 04073/04076 HQK00566 SOUND RE^5:SOUND とこの部屋の仲間へ (14) 96/06/01 08:21 04058へのコメント #4058みぃにゃさん、こんにちは(^^)。 >> 『あやまてる、たみ を うむ』 >> >>過て 流民 を 産む この解読には唸ってしまいました。 これはぼくも危惧しているところなんです。 ふたたび、あるいは何度目かのノアの洪水のようなことが連想されて ウォーターワールドを現実化させてはならないと思います。 >>でね、かな(『魂の双子』)がね、『赤い目をした大地の子供は笑った』 >>の部分は「笑いの仮面を付けられて、本当は泣き叫びたいのに、笑うことしか >>許されてないん子供(地球意思)」だっていうんだ。 この部分にも不気味なものを感じます。(地球意思が泣き叫べばどうなるのかと…。 笑っても地震や津波が起こるのですから。 すばらしい解読ありがとうございます。 それではまた(^。^)屮 かなさんにもよろしく。 HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND ** 04075/04076 HQK00566 SOUND RE^7:炎で書いた物語」最終章(その6の2) (14) 96/06/01 15:19 04070へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その6の2)  <しあわせ未来形>( DO PEOPLE DO)その2    毎度のことだが前回の分を読み返すと間違いが目に付く。細かい削除ミスなどで前後 の文をみればわかるものなどは訂正しなくても良いと思うが、他人様のことばや日付は 訂正しなくては申し訳ない。今回は自分の詞を間違っているのに気づいた。歌の場合は リズムが狂うので大きい。   >> DO MAMA DO >> DO MAMA WHAT YOU DO >> DO MAMA DO WHAT YOU WANT >> DO MAMA DO WHAT YOU NEED この第一連が正確には以下の通りである。ぼく以外の方には何の関係もないことだろう が自分が恥ずかしいので訂正させていただく。    DO MAMA DO MAMA DO  DO MAMA DO WHAT YOU DO  DO MAMA DO WHAT YOU WANT  DO MAMA DO WHAT YOU NEED     そして、他人様、「Xファイル」のスカリーの台詞  SCULLY,"It's not a same car. It's called the PRODUCE C.S. >> sot of the doctor- simbol of medical profession." このsot ofにはあきれられたことだろう。sot のわけがない。「呑んだくれ」では意味 がつながらない。 正しくはsort ofでkind ofと同じ用法である。おかしいと思われた方、ご容赦を。    **********************************************************       さて、五月も終わって時間が迫っているようなのでARIONの新たなる詩編の第二連 に進もう。     ** >> >> 流河に何を見出すや? >> 崩石に何を思わんや? >> >> 轟く大地は何を生む? >> 囁く風は何を置く? >> >> 溶ける、溶けてゆく。 >> 流血の歴史。 >> 涙の歴史。 この第二連からどうして漢字混じりにされたのだろう。 それはもちろんこの漢字に鍵があるからだろう。 この短い語数のなかに四つも「何」が使われている。 何が言いたいのだろうか。 >> 流河に何を見出すや? いつもながらなにげないこのごく自然な導入部に感心する。 本質に目覚めさせようとする、このうまい語り口…。 そして、ぼくは流河の「河」に「何」を見いだす。 水(さんずい)を人にすれば「何」である。 つまり、「何」とは可き人なのだ。この連では「何」をすべて これからの代に必要な可き人と捉えたい。 そうすればこの連の意図するところは自ずと解けるであろう。 これから先、  流れる河によき人を見出すのだろう。 崩れる石によきひとを思うのだろう。 轟く大地はよきひとを生むのだろう。 囁く風はよきひとを置くらしい。  そのことに関連した「光の黙示録」の詩編を少し引用しよう。     >><7> こと これに覚えしサキツチのシズカネいわく >> >> 日の本の島々 これは総ての流砂の磐(イワオ)に留まるが如し >> この磐 揺るがせば形変へるべし >> かの人々来たる日には この島大いに繁栄すべし >> 西の雲 茜に染まり日の暮れるを忘れる日に >> かの人々 この島に来たりて杖を振るい いにしえの力を隅々に行き渡らせり  ここにいう「かの人々」が可の人、さきほどの「何」=よきひと、にあたる。    「サキツチのシズカネ」とはもうおわかりとは思うが、  その通り、真の天照太神である。  サキツチは、割き土、あるいは幸地などの意を含んでいる。  前回書いたように三輪=天祖、地祖、皇祖の三つの輪のうちから  地(つち)だけの性格を割かれて残された方である。  シズカネはそれでも静かに時をまっておられる根=音ということである。    その方が言われることには、  日本の島々の磐を揺るがして形を変えると可の人々がやってきて繁栄する。   西の雲 はクサカンムリをかぶり茜に染まるが   日はクサカンムリをかぶっても「暮」れることを忘れるような日に      可い人々が杖を布留い古(いにしえ)=布留=饒速日尊(ニギハヤヒ)の力を   この日本の島の隅々に行き渡らせるということである。       そしてそのことによって  「溶ける、溶けてゆく。  流血の歴史。  涙の歴史。」となるようである。    「根=音」のことまで饒速日尊(ニギハヤヒ)とするのはおかしいと思われる方もあ る だろう。  根は根の國の素盞鳴尊のことではないかと…。    ここで素盞鳴尊(スサノオ)と饒速日尊(ニギハヤヒ)の関係を見ておこう。  以前の章では主にスサノオが出ていたのにこのところ饒速日尊(ニギハヤヒ)一色に なってきている。  不審に思われるだろう。     >93/09/08 蕾芯の目指す所は根には理解出来ないが、根は蕾芯を支える…     蕾芯=雷神=饒速日尊が為そうとされていることを その父、艮のカミ=素盞鳴尊は理解できなくとも支えて助けるだろう。 すなわち、根と蕾芯は一体なのである。 素盞鳴尊の地上の姿が饒速日尊であるのだ。 一本の大木のそれぞれの部分を違う名で呼んでいるのだ。 これから出てくる可き人々は素盞鳴尊を根にして饒速日尊を蕾芯にして花開く方たちな のである。 その人々が  流血の歴史や  涙の歴史を溶かし新たな歴史を始めることになるのである。  ぼくは第二連をそのように理解した。  (つづく)   ♪♪音(SOUND) ♪♪ 04076/04076 HQK00566 SOUND RE:スカっ! (14) 96/06/02 08:26 04045へのコメント #4045維/YUIさん、こんにちは(^^)。 >> >>流河に何を見出すや? >>崩石に何を思わんや? >> >>流行に何を乱すや? >>宝石に何を”尾もワン”…違った。 思わんや?  この流行と宝石の関連はうなづかせられました。  ”尾もワン”はちょっと首をひねりましたが(@_@)。でもこういうのはぼくは好きな んですが(^○^)  流れ去る虚飾に目や心を奪われてはならないという裏の意味が秘められているのかも しれませんね…。(。)ホヨ?  とにかくなんとおりもの意味があって一筋縄ではゆかないので困りますね。  それでは(^.^/)))~~~bye!! HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND ** SOUNDでした