「取り敢えず、凍えさんの話を聞こうじゃないか」と村長が言った - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/06/04 - 04780/04785 GGA02514 KAZE 中道論13●風説維摩経6 (13) 96/06/03 16:37 04679へのコメント コメント数:1 前回までは、仏が弟子達を維摩の病気見舞いに行かせようとしたが、 弟子達はこれまで維摩にやりこめられたということから辞退をしたということ、 そしてそのエピソードをいくつか、「弟子品」からご紹介しました。 この「弟子品」に続いては、今度は仏が菩薩達を見舞いにいかせようとする 「菩薩品」というのが続きますが、 菩薩達もこれまで維摩にやりこめられたということから辞退をします。 弥勒菩薩、光厳童子、持世菩薩、善徳長者の四人です。 そこらへんのエピソードも面白いのですが、ここでは残念ながら省略します。 さて、弟子達も菩薩達も見舞いに行こうとしないので、 今度は、仏は文殊菩薩を見舞いに行かせます。 それが「問疾品」です。 文殊はそれを承知したので、その文殊の後を弟子達や菩薩達もついていき、 その見舞いの様子を見ようとします。 もちろん、維摩の病気は、通常の病気なのではありません。 維摩は言います。   痴より愛あり、則ち我が病い生ず。   一切衆生病めるを以てこのゆえに我れ病む。 維摩の病は「痴」、つまり、無明であり、 それが「愛」、つまり執着である渇愛による病です。 もちろん、それは維摩自身が無明であり執着しているから病だというのではなくて 一切の衆生が無明であり執着しているという病をもっているがゆえに、 維摩もその一切衆生の病を引き受けて病んでいるということです。 ということは、維摩の病を癒すためには、 一切衆生の無明と執着の病を治さなければならないということになります。 これが、まさに大乗という考え方であり、弥陀の本願ということでもあります。 「問疾品」に続いては、維摩が「不可思議解脱」について説く「不思議品」です。 「不可思議解脱」というのは、不思議な解脱という意味なのではなく、 分別、はからいを超えた境地という意味です。 この「不思議品」からいくつかのポイントをピックアップしてみましょう。      夫(そ)れ法を求むる者は仏に著(じゃく)して求めず、   法に著して求めず、衆に著して求めず    通常、仏教では、「仏法僧という三宝に帰依せよ」と言いますが、 そのどれにも執着してはならないというのです。 さらに、仏教でいう四諦、つまり苦集滅道も求めてはならないと維摩は言います。 これは、通常の仏教の教えに真っ向から対立しているように見えます。 しかし、本来の意味から言って、執着を脱するのが仏教の教えですから、 三宝や四諦によっかかって執着することは誡められねばならないはずです。 仏法僧も方便であり、四諦も方便に過ぎません。 方便にすぎないものに執着してはならないわけです。 もちろん、通常の仏教ではそこまで言っちゃおしまいよ!ですけど、 維摩経では、いささかの方便さえも許しません。 「仏陀に逢ったら仏陀を殺せ!」の臨済に近いものがあります。 さて、この「不思議品」で特にぼくの注目している部分は、 悪魔に関するところです。   維摩は大迦葉に言った。「大迦葉よ、あらゆる世界の中で魔王となっている   者は、大部分が不可思議解脱に住んでいる菩薩です。その菩薩が衆生を教化   しようと思って魔王に化けているのです。」と。(P159)      「不可思議解脱」に住する菩薩は、悪魔を決して嫌わないばかりか、自ら魔   王となって衆生に近づく。悪魔は本当の悪魔ではなく、じつは菩薩の化身で   あるという。維摩の説くことは常識とはまったく逆である。維摩の説く悪魔   は、方便でその人に近づき、その人を試そうとする。あるいはその人の心を   より堅固にするために、悪魔の姿になってその人の道力を深めようとする。   「不可思議解脱」に住する菩薩は、本当の魔王が近づいてきてもけっして誘   惑されることがない。それは悪魔を拒否しないからである。悪魔の魔性を骨   抜きにできる道力をもっているからである。「仏界入りやすく、魔界入りが   たし」という言葉があるが、まさしく『維摩経』の「不思議品」で説かれる   菩薩は、入りがたき魔界にも自由自在に入ることができる。(P161)    すべての悪魔が菩薩であるというのではもちろんなく、 「不可思議解脱」つまり、はからいや分別を超えた世界に住する菩薩であれば、 悪魔であることさえできるということなわけです。 しかも、まさに悪魔と同じことをして人を試したりもする。 そして、それは衆生にとって重要なことでもあるというのです。 こんなことをいうと、維摩経というのはとんでもない教えだというふうに、 性急で短絡的な人は思いこんでしまうのでしょうが、 人が成長するためには、それなりの課題を与えながら、 それをクリアしていくことが必要です。 「不可思議解脱」に住する菩薩は、あえてそのハードルの役目を負って、 衆生をひとつひとつ着実に成長させていっているというわけです。 こういう会議室でもそうですが、いつもいつも「仲良しこよし」で、 何があっても「いいんだよ、辛かったろうね、よしよし」では、 参加者は、学びあうということができなくなります。 そういう意味では、あえて言いにくいことも言わなければなりませんし、 忌憚ない意見も率直に言っていかなければなりません。 で、そういうことをもっとおしすすめていくと、 あえて悪役になってその学びの材料を提供する、 そうした「不可思議解脱」に住する菩薩の必要性が理解できるかと思います。 これは、言うは易しですが、なかなかできるものではないですよね。 ううむ、なかなか「不二法門」までいきませんが、 次回には、そこまでたどり着いて、そこから学ぶ「中道」について 整理してみたいと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04783/04785 PXY03747 諏訪みのる RE:中道論13●風説維摩経6 (13) 96/06/04 12:10 04780へのコメント コメント数:1   #4780 KAZEさん、こんにちは。    こちらでは、ここ数日 真夏を思わせるような暑い日を経験していますが、   きっと松山の方も暑いのでしょうね。(^^;) 窓の外の 今年も無事田植えされたばかりの苗の若い緑が、 睡眠不足の疲れた目を癒してくれています。 隆さんが「冷夏」を心配しておられましたが、 これらの苗が今年も多くの稔りをもたらしてくれる事を祈ります。 >>一切の衆生が無明であり執着しているという病をもっているがゆえに、 >>維摩もその一切衆生の病を引き受けて病んでいるということです。 >>ということは、維摩の病を癒すためには、 >>一切衆生の無明と執着の病を治さなければならないということになります。 この維摩の やむにやまれぬ慈悲心が、 維摩を 欲や煩悩にまみれた世俗の奥深くにまで足を運ばせ、 苦しみに押し潰されそうな多くの人々に 法を説かせているんでしょうね。 まさに仏の慈悲・弥陀の本願ですね。 >>通常、仏教では、「仏法僧という三宝に帰依せよ」と言いますが、 >>そのどれにも執着してはならないというのです。 >>さらに、仏教でいう四諦、つまり苦集滅道も求めてはならないと維摩は言います。 >> >>これは、通常の仏教の教えに真っ向から対立しているように見えます。 >>しかし、本来の意味から言って、執着を脱するのが仏教の教えですから、 >>三宝や四諦によっかかって執着することは誡められねばならないはずです。 >>仏法僧も方便であり、四諦も方便に過ぎません。 >>方便にすぎないものに執着してはならないわけです。 そうですね、この「執着から離れる」というのが大切なキーポイントですね。 三宝に深く帰依し、四諦を深く求めるという姿勢を堅持しながらも、 それそのものには執着しない。 仏に出会い、敬愛の念を抱き、慈愛や法を有り難く頂きながらも、 仏そのものには執着しない。 「著して求めず」とは、そういう事だと思いますので、 決して通常(?)の仏教の教えに真っ向から対立するものではありませんね。 大事なのは、 「執着してはならない」=「求めてはならない」ではないという事だと思います。 >>もちろん、通常の仏教ではそこまで言っちゃおしまいよ!ですけど、 通常の仏教…っていうか、 伝統的・権威主義的な出家教団であるとか、 盲目的なオカゲ信仰に安住している人達であるとか、 そういう方々の「仏教」にとっては???であるかも知れませんね。 >>で、そういうことをもっとおしすすめていくと、 >>あえて悪役になってその学びの材料を提供する、 >>そうした「不可思議解脱」に住する菩薩の必要性が理解できるかと思います。 >>これは、言うは易しですが、なかなかできるものではないですよね。 はい、これはなかなかできるものではないと思います。 自分が悪(に見える)から試練を与えられた場合には、 自分の心の持ち様によっては「悪」から「慈悲」を見いだす事は可能ですが、 自分が自ら「悪」を演じる…ってのは、 相手に対して余程の慈悲心(愛)を持っていなければ、 なかなかできるものではないと思います。 つまり“「自分のこと」よりも「相手のこと」の方が大事”と思うほどの、 強烈な愛がなければ できるものではないと。 中途半端な悪役の存在は、 相手にも自分自身にもプラスに変容するどころか、 かえってマイナスに陥ってしまう危険が多いような気がします。 そして、そうした中途半端な悪役ほど、 自分が悪を“演じている”という事を誇示したがるという傾向がありますね。 言語道断だと思います。 >>ううむ、なかなか「不二法門」までいきませんが、 >>次回には、そこまでたどり着いて、そこから学ぶ「中道」について >>整理してみたいと思います。 あわてず、騒がず^^;)で、できるだけ深く掘り下げながら、 じっくり吟味させていただこうと思います。 こうしてKAZEさんが「仏教」を、ご自身のテーマの一つとして取り上げて下さるので、 私も有り難く参加させていただく事ができます。 手前味噌ですが、KAZEさんの愛を感じます。(*^^*)ウフッ でわ、では。(^^)              みのる♪デシタ。 04784/04785 GGA02514 KAZE RE:中道論13●風説維摩経6 (13) 96/06/04 15:52 04783へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 ここ最近は、休みになると、これまであまり知らなかった近くの山などを調べて、 小さな滝のある風景や小高い山からみる街の風景などを楽しんでいます。 とくに昨年あたりから、あたりまえのようにぼくたちの周囲にある 自然たちの恵みがとっても新鮮に感じられるようになり、 これまで半ば等閑にしてきたようなそうした恵みを 自分の五感+αで感じられたらいいなと思って過ごすようになりました。 そうしてみると、これまでいかに自分がさまざまな存在に対して 礼を失しているかというのを反省とともに感じるようになりました。 そうそう、そうしたなかで、 「ああ、きもちがいいな」と感じられるような場所には、 なぜか神社がさりげなくあったりします。 お寺じゃなくて、神社なんですよね。 古くからある神社の多くが、そうした自然のツボのようなところにあるのは たぶん、深い意味があるんだろうなと、実感している今日この頃です。 で、仏教の話になりますが^^;、 神社が気持ちいい場所にあることが多いのに対して、 お寺というのは、あんまりそういう感じではないんですよね。 少なくともぼくはそう感じることが多いのですが、 それはなぜかとあらためて考えてみると、 やっぱり、仏教というのは、人の心のどろどろした部分まで ぜ〜んぶ取り込んでしまおうとするからそうなんじゃないかな。 そんなことを思ったりしました。 そこに仏教の魅力もあり、また仏教の重苦しさもあるような気がします。 》この維摩の やむにやまれぬ慈悲心が、 》維摩を 欲や煩悩にまみれた世俗の奥深くにまで足を運ばせ、 》苦しみに押し潰されそうな多くの人々に 法を説かせているんでしょうね。 》まさに仏の慈悲・弥陀の本願ですね。 はい、そういうことですよね。 神社のイメージは、やはり、「欲や煩悩にまみれた世俗」から遠くて、 あの神主さんや巫女さんとお坊さんのスタイルを比べてみただけで、 その違いははっきりわかりますよね。 お坊さんで、白装束なんて変ですからねぇ^^;。 ただ、現実の坊さんの多くのは、「欲や煩悩にまみれた世俗」にまみれて 自分を失ってしまっているようですから話になりませんが、 そうしたなかにあって、維摩のようでいられるというのは 人間として最高のあり方ではないかなという気がします。 》三宝に深く帰依し、四諦を深く求めるという姿勢を堅持しながらも、 》それそのものには執着しない。 》仏に出会い、敬愛の念を抱き、慈愛や法を有り難く頂きながらも、 》仏そのものには執着しない。 なんでもそうですけど、何事もすぐに本来の意味を見失ってしまいます。 学校で教えている勉強というのもそうですよね。 なんのために勉強しているのかわからないままに、 成績をあげることだけに汲々としている。 もちろん、いい大学に入るために勉強しているというのもありますが、 それをずっと突き詰めて考えてみると、結局、そういうのは、 人間として成長したいということでも何でもないわけです。 三宝に帰依せよ!ってことにしても、 悪くすると、仏の言うとおりにせよ!法を守れ!僧団の命令に従え!というふうに 本来の目的のわからなくなった形骸だけを押しつけることになりますし、 仏教を学ぶということが、キリスト教やその他の宗教などの理解の 障げになってしまったりもします。 しかし、真に仏教を学ぶとしたら、それがほかのさまざまを理解することの 助けにこそなれ、障げになるはずはないんですよね。 》自分が悪(に見える)から試練を与えられた場合には、 》自分の心の持ち様によっては「悪」から「慈悲」を見いだす事は可能ですが、 》自分が自ら「悪」を演じる…ってのは、 》相手に対して余程の慈悲心(愛)を持っていなければ、 》なかなかできるものではないと思います。 これは、子供を叱る場合でもそうなんだと思います。 「〜ちゃんはかわいいから何をしてもいいんだよ!」というのは 一見、良き親のようにみえて、実は、それこそが悪魔の親でしかないです。 叱りたくないけれど、そうすることが必要なこともあります。 なんでもそうだと思うんです。 甘やかし、依存させるのはある意味では簡単なことですが、 そうしてしまっては、その人のためになりません。 あえて、悪役になれる勇気の原点というのは、 そういうことなのではないかと思います。 天使と悪魔というのは、ふつうのイメージでいうと、 天使は祝福してくれ、悪魔は苦難を与えるような感じもしますが、 実際は、天使は人間を成長させるためにあえて苦難を与え、 その苦難のなかで人間をはげまそうとしますが、 悪魔は、人間に快楽や権力を与え、人間を堕落させていきます。 でも、人間はともすると、天使を憎み、悪魔を尊重してしまいます。 自分に厳しいことがいやなわけです^^;。 》こうしてKAZEさんが「仏教」を、ご自身のテーマの一つとして取り上げて下さるので 》私も有り難く参加させていただく事ができます。 》手前味噌ですが、KAZEさんの愛を感じます。(*^^*)ウフッ わかりました?(*^^*)ウフッ・・・てのはともかく^^;、 仏教の思想はぼくにとっても大事なので、 これからもいろんな形でとりあげていきたいと思っています。 あと少しで維摩経も終わると思いますが、 そうそう、みのる♪さんも、少しずつでいいですから、 何かのお経などをとりあげて読書会などをしてみませんか。 たとえば、「法華経」「観音経」それとも「正法眼蔵」なんか(^^)。 「みのる♪と読む法華経」なんて感じで。 ぼくもそれだと、それにちなんで、いろんな話もできると思いますので。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04781/04785 MHD02672 TAO 久々に「いか超」を読んで (13) 96/06/04 00:43 04668へのコメント コメント数:1  >KAZEさん   今晩は〜。さて「いか超」読書会が進んでいる最中ですが、私も昨日、本  当に久々に読み返して感銘を受けるところが多々ありましたので。ちょっと  割り込みさせて頂きます(^^)。   初めて「いか超」を購入して読んだのは、大学に入学した年でしたので、  もう十年前にもなるのですが(^^;、当時は当然ながら読解力と理解力が及ば  ず、一〜二週間ほどかけてようやく読破したものの、内容を全然覚えていな  い有様で(^^;、それからはずっと開かないままに十年間も本棚に置きっぱな  しにしていたものです。   昨日は神経が疲れて高ぶっていた為か、なかなか寝付けずに睡眠薬代わり  にでもと(^^;、「いか超」を手に取って寝床で開いてみたら… 昔はあれほ  ど分かり難かった内容が、今では抵抗もなくすっと読めていることに気付い  て驚くと共に、睡眠薬代わりのつもりがいつの間にか夜更かしになってしま  い、今日は睡眠不足で呆けた頭で出勤したのでした(^^;。   大学時代に悪戦苦闘した本が、何故今ではすらすらと読めるようになった  のかについては、恐らく十年間の人生体験が蓄積された分、それだけ理解力  も深まったということなのでしょうが、それでもパソコン通信で培われた土  壌が際だって貢献しているように感じられます。特にFARIONに関わる前と後  とでは、人生体験の質量が著しく変化したことは間違い無いのですから。   例えば下記のような箇所が印象に残ったのですが、     …とはいえ修行者は不正が蔓るのをそのまま見過ごしてかまわないと     いうのではない。しかし彼は不正な事柄にもそれを善き事柄に転化さ     せうるような契機を見出そうと努めるべきである。悪意に対するもっ     とも正しい戦い方は善意を実現することにある、ということがますま     す明瞭に認識されてくる。無からは何も生じえないが、不完全なもの     はより完全なものに転化されることができる。このことを神秘修行者     はますます理解するようになる。創造への傾向を自分の中に育てる者     は、不正なものに対して正しい態度をとる能力をもやがて見出すであ     ろう。                       神秘修行の諸条件 P115より   FARIONには今まで数多くの「凍え人」がいらっしゃって、その度に紛糾が  起こっては結構腹を立てていたりしたものですが(^^;、いかに不正な事柄が  まかり通ろうとも、その不正さ自体を退けようという強い姿勢は時として、  不毛な衝突や独善に繋がりかねない危険性を、常に孕んでいますね。無論、  相手の言動や姿勢に不審であったり疑問を感じる所を見出したとしても、そ  れを見逃していいという訳では無く、お互いの間にある見解の差異を明らか  にしつつ、主張の違いを簡単に「正−邪」「善−悪」という二元論にスライ  ドしないという慎重さが望まれるのでは無いか、ということですね。   けれども、今までの紛糾のパターンというのは、忌憚無き議論に入る前に  どちらかが一方的に打ち切ってお終いというのが殆どでしたね。これからが  本番だ…という時に限って相手が居なくなるのでは、どうしようも無いので  すが(^^;、それでも上記の引用部分のように、不正な事柄をむしろ、善意の  実現に向けて利用して行こうというシュタイナーの言葉にはもの凄いものを  感じます。これもFARIONで様々な体験を重ねて行ったが故に、実感として理  解出来るようになった訳ですから、やはりある程度人生体験を積み重ねない  と、見えて来ない面もあるのだなと感じ入っています。   今後も何かコメントしたいことが出てこれば、また割り込み参加させて頂  くかもしれません。それでは〜。  TAO 04782/04785 GGA02514 KAZE RE:久々に「いか超」を読んで (13) 96/06/04 11:33 04781へのコメント TAOさん、どもども(^^)。 ぼくも最初に「いか超」を読んだのは10年ほど前になりますが、 そのときには、神秘学の基本というのがほとんどわからない状態でしたので、 なかなか理解がついていきませんでした。 その後、何度か読み返すうちに、理解できるように思える部分が 少しずつふえていったように思います。 で、今回読書会をはじめるにあたって、何年かぶりに通しで読んでみて、 ここ数年で理解の度合いが全然違ってきているなあと、少し感慨がありました。 この会議室が「シュタイナー研究室」としてオープンした当初を思い出してみれば そのころのぼくのシュタイナー理解というのは、ほんとうにお粗末なものでした^^;。 もちろん、いまでもお粗末なのは変わらないのですが、その程度がね・・・。 で、そのころ、もしこの「いか超」なんかの読書会をしたとしても、 まあ、推して知るべしで、おそらくは無理解を露呈するだけに終わったことでしょう。 >>  大学時代に悪戦苦闘した本が、何故今ではすらすらと読めるようになった >> のかについては、恐らく十年間の人生体験が蓄積された分、それだけ理解力 >> も深まったということなのでしょうが、それでもパソコン通信で培われた土 >> 壌が際だって貢献しているように感じられます。特にFARIONに関わる前と後 >> とでは、人生体験の質量が著しく変化したことは間違い無いのですから。 TAOさんとぼくは、ほぼ同じ頃パソ通をはじめたわけですが、 ここ5年ほどの間に、TAOさんはほんとうにアクティブになりましたね(^^)。 TAOさんは、けっこう拘りの多いひとですが^^;、 おそらくは自分をごまかさないで、その拘りをバネにできたからこそ、 現在のようなアクティブなTAOさんになれたんでしょう。 ぼくの場合、パソ通を最初の頃から「文章のお稽古」と言ってましたが、 ほんとうにいい「お稽古」になってきたように思いますし、 この「お稽古」がリズムになって、読書にしても、質量ともに、 かつてとは比較にならないくらい充実してきています(^^)。 》  けれども、今までの紛糾のパターンというのは、忌憚無き議論に入る前に 》 どちらかが一方的に打ち切ってお終いというのが殆どでしたね。 そうですね、とっても残念です。 やはり、「一方的に打ち切」るというのは、避けたいものですね。 もちろん、「打ち切った」とはいっても、その打ち切ったほうは、 多く、追い出されたとか、とかで、ほかのところで、 もはや相手のない話をあれこれとすることになるのではないでしょうか。 そういうのって、とっても不毛ですから、できるだけ避けたいですね。 で、なぜ議論を「一方的に打ち切」ってしまうか、なのですが、 やはり、ちゃんと議論をできるだけの強さがないからなのでしょうね。 たしかに、意見の違う者どうしが議論しあうわけですから、 「仲良しこよし」的にはなかなかならないかもしれませんけど、 ちゃんと踏ん張ってお互い理解しあおうという努力がなければ、 いつまでも「仲良しクラブ」以上にはならないと思うんです。 つまり、自分の意見や趣味が同じひとどうしでしかいられないということです。 そういうのって、やはり、どこか自分の弱さを肯定しすぎているんでしょうね。 それだと、いつまでたっても、魂の足腰を強くすることはできないのに・・・。 ま、少なくともこの会議室では、 「嫌いでも理解、好きならもっと理解」 「何からでも学べる」 そうしたことを基本姿勢にしてきてますので、 議論はあくまでも会議室上で公のものとしてしていきたいものです。 しかし、この逃げ隠れのない「公」というのを嫌がる方がいるんですよね。 》                      不正な事柄をむしろ、善意の 》 実現に向けて利用して行こうというシュタイナーの言葉にはもの凄いものを 》 感じます。 そうですね、実はそれこそ「中道」ってことなわけです(^^)。 矛盾をそのまま肥やしにしながら、さらなる展開をしていくということ。 「悪」というテーマも、まさにそういうことなんですよね。 》  今後も何かコメントしたいことが出てこれば、また割り込み参加させて頂 》 くかもしれません。それでは〜。 ぜひ、よろしくお願いします。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04785/04785 GGA02514 KAZE 風遊戯93●素敵な毎日 (13) 96/06/04 15:52 君がわからなくなるときがあるけど 君のことならなんでもわかるような気がするときもある そのどちらも君でどちらも君でなかったりする たぶんそれは君とぼくとがいっしょにもっている不思議だ その不思議の国に君とぼくがいる なんて素敵じゃないか 自分がわからなくなるときがあるけど 自分のことならなんでもわかるような気がするときもある そのどちらも自分でどちらも自分でなかったりする たぶんそれはぼくがぼくであるということの不思議だ その不思議のなかにぼくはこうして生きている なんて素敵じゃないか 世界が存在することそのものが謎だと誰かが言ってた もちろんそれはぼくが存在することそのものが謎なのとと同じだ 問うことはできるけどなかなか答えの見つからない謎があり ぼくはときおりそうした謎のなかにいたりする そんなときにふと思ったりするんだ 謎のある毎日ってとっても素敵じゃないかって ☆☆☆by KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/06/04 - 04077/04077 HQK00566 SOUND RE^8:炎で書いた物語」最終章(その6の3) (14) 96/06/03 16:57 04075へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その6の3)  <しあわせ未来形>( DO PEOPLE DO)(その3)    もう最終章も最終コーナーが見えてきたので、なりふりかまわず鞭(無恥)をふりか ざしている  それでは何かにせかされるようにあわただしく第三連に入ろう。    *** >> >> 月の娘は、皿を割った >> 木星王は嘆いた >> 赤い目をした大地の子供は笑った >> >> 夢魔は去った >> だが夢も去った >> >> 鎖で繋がれた巨人は >> 大地の重みに堪えかねて >> 自らの踵を噛んだ >> >> 灰色の陰は大鷲の老いを示す >> 飛び石の向こうには、 >> 約束された緑の大地は無い 第一連をかな書きにしてだれにでもとっつきやすくしておき二連を比較的平易に進め、 ここから、いよいよ、難解なARION流の預言になる。起承転結あるいは序破急の形 式を踏襲している。 うまいとは思うが、感心ばかりしていてもはじまらない。 解き方は難しくてありとあらゆる方法によらねばならないだろう。 >> 月の娘は、皿を割った メンスの娘さんがイライラして皿を割った、と解けば殴られるだろうか。こっちに皿が 飛んできそうだ。  「月の娘」をカナにすれば、「ツキノムスメ」これなら「月呑む皇(すめ)」と読め る。  「皿を割った」は「サラヲワッタ」これは「新終わった」かとも思ったが意味がつか めない。    漢字の「新」を割れば立木と斤(まさかり)。  これは金太郎のかついでいる雷神(饒速日尊)の武具。どうやらチラホラ姿を見せて きた。  「新」とは立木を斤(まさかり)で切ることらしい。  「月呑む皇(すめ)」とは月(仮)の時代を呑んでしまう本来の皇であるらしい。  その方が雷神(饒速日尊)の武具である斤(まさかり)でこれまでの立木を切り、  新たな時代を拓こうとされている。    >>木星王は嘆いた    この木星ははなさんの#03941の発言によれば    >>さて、太歳(たいさい)とは、木星を神霊化した呼び名です。ここ >>で木星に触れてみます。木星は陰陽道において吉星とされています。 >>太歳は木星を神霊化しているので実際には存在しません。木星が有す >>る吉性を有した神になぞらえられているからです。  ということである。ぼくは饒速日尊(ニギハヤヒ)の名「大歳」(おおとし)の大が 神上がりして  チョンがついて太歳(たいさい)となったものと考える。  すなわち、木星王は饒速日尊(ニギハヤヒ)であるという結論になる。  さすればこの行は饒速日尊(ニギハヤヒ)は嘆いた、ということである。 >>赤い目をした大地の子供は笑った この文章はこのままではさっぱりわからない。 文章が変な風に組み合わされて錆び付いてしまっている。とても手に負えないので分解 修理に出してしまおう。 整備工場に出して細かく各部品に分解しよう。バラバラになったときは余計に意味不明 になるが 一応、各部品を目にしていただきたい。  『土の亦目をした大千の子どもは竹の大がノの回転した』  こんな部品が出た。 「笑」の中に大千がまとめられていることを点検中に発見した。 大千は三千世界とも呼ばれる大千界のことである。 赤いメは赤メで組み立ててボルトを締め直すと赤女が「赦」すという文字を形成する。 さてこれに油をさせばもう立派にこの文章は機能を回復して意図を表現できるようにな った。 つまり、赦す目をした『大地の子供』はノの回転をした、という。 「大千」の千は十がノの回転をすることである。大地、この地球も地軸を中心にして左 回転をつづけている。 もちろん、太陽は天軸を中心に左回転している。 木星王、饒速日尊(ニギハヤヒ)はこれまでの過った歴史やそれによって生まれた民を 嘆いたが これからの時代を生きる大千(大地)の子供は赦し、笑い、新時代を開く逆卍(サヴァ スティカ)のノの回転をした、と読める。笑うことは時代を開く回転を起こすことにな るのである。 「笑う門には福来る」大いに笑いたい。  >>夢魔は去った    第一連で見たようなあやまてる歴史の夢魔はもう去った。       >>だが夢も去った      だがひとびとがこれまで見ていた夢も去った。   夢の時代は終わりを告げ、   これからは新たな真の時代に入るのである。         >> 鎖で繋がれた巨人は      これから連想するのは世界の西の端で天空を背負うアトラスである。   かれは大西洋の語源である。        >> 大地の重みに堪えかねて  大西洋(アトラス)は大地の重みに堪えかね   >> 自らの踵を噛んだ 水の空のキビス拝んだ これはなにかで大西洋が空になるような気がする。 あるいは、オリンピックのあるアトランタでの事件なのかは不明だ。 >> 灰色の陰は大鷲の老いを示す  この「大鷲」の特定には手古摺った。    双頭の鷲をイメージして神聖ローマ帝国、ロマノフ朝、オーストリア帝国、アルバニ アなどを連想したがどうもしっくり来ない。    ここで、あきらめてラジオを聴いたとき、  FEN(極東ファーイーストネットワーク)の名前がイーグル810だったことを思 い出した。  アメリカ軍の基地の放送なのだ。  そして、アメリカの郵便局のマークがワシの羽だったことに連想がつながる。  その郵便局で兵隊募集のポスターをよく見かけた。アンクル・サムという星条旗の服 を着たアメリカ国民の象徴的老人が勧誘していた。その絵柄が鷲だった。鷲はアメリカ 軍の象徴なのだろう。  日本の「大鷲」は鷹科で尾羽を矢羽に使うために乱獲されて、絶滅に瀕しているそう だが  アメリカの鷲はロッキー山脈あたりを悠然と飛んでいるイメージがあった。    そのアメリカ軍もあの灰色鷲の陰が老いを示しているという。    一つの解釈ではとてもみそうにないのでもうひとつの読み方を試みよう。    「カイ色の鹿毛は 大和氏の甥を示す」      カイ=皇の色の麒麟の毛、影(嗅げ)は大和氏の流れに連なる人を示すというので あ る。      これから出てくる皇の色や匂いを発散する麒麟の性質をもった人は   新たなる大和の血につながる人のようだ。 >> 飛び石の向こうには、 >> 約束された緑の大地は無い 跳び石からの連想は強引すぎるがぼくの勘ではなんと「銚子」なのである。 「銚子」を「銚びー子」と無理矢理読んでしまうのである。 こんな発想がぼくのぼくたる所以なのでお許しいただきたい。 銚子は千葉県北東端にあって利根川河口に位置し、太平洋に面している。 ということはその向こうにはアメリカがあるのだ。 アメリカは多くの人にthePromised Landと思われている。 神がアブラハムに約束したCanaanの地として。 しかし、その飛び石の向こうには「約束された緑の大地は無い」という。 つまり、アメリカは約束された緑の大地ではないというのである。 この大三連を通して感じられるのは これまでの仮の時代に区切りをつけて新時代に入ること。 人を赦し、笑うことのできる大智の子供の登場とカイの色の大和の血縁者の登場の希望 の匂いが立ちこめている。 そして、アトランティスに象徴される西洋支配の終焉。 アメリカの軍事力の衰えとそこは約束された緑の大地ではなく、 それは別にあるように思える、ということなどである。 読み違いが多々あろうとは思うが、これが現時点でのぼくの視点である。 (つづく) ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/06/04 - 964/965 MHA01114 シュメ−ル それってこの本のこと? (19) 96/06/04 02:19 962へのコメント コメント数:1  HALさん、どうも。5月から忙しそうな予感がしていたのを、極力、無視 していたら、6月は地獄になってしまってました。今月は午前様が延々と続き そうです。  で、ま、ゆっくり気長にたのみます。  その本って『アルクトウルス・プローブ』(たま出版 ホゼ・アグエイアス 著 高橋徹訳 1900円)のことのようですが、そうですか。訳者はQ・ka・ka さんたちがしたしいとのことだった。読み始めましたが、忙しいときに読む本 じゃないですね、これ。ぶっとうしで読まないと、この本の世界に入れない。 前の日に読んだ内容を覚えていないと、次の理解ができてこない。17章まで いっきに読めて、おもしろかったんですが、2、3日たって次をよもうとする ともうだめ。その程度の一読では、これはやっぱ本物だ。すくなくても当事者 には嘘という認識はないはず。ラエルやフレッド・ベルの陳腐なプレアデスと はおおちがい。ま、残念ながら、ベストセラーになることはないでしょう。  マヤがアルクトウルス系ってのはなるほどというか、なんというか。有機体 ノウスさんはマヤ系の影響が強そうだったので、彼はそうするとアルクトウル ス系ということになるんだろうか。マヤ系ってこの地球では主流派になりえる んだろうかという疑問が私にはある。ルシファ−因子みたいな要素を経由して るのかどうか。冒頭を読んだだけなんで、即断するつもりはないんですが、早 い話がマヤの認識枠からみたアルクトウルスなんじゃないかな。  …と、感想のられつだけでした。頭が働かないので、とりあえずは、時間稼 ぎレスでした。 965/965 PFE01162 HAL RE:それってこの本のこと? (19) 96/06/04 04:05 964へのコメント お速いRESで恐縮です。 話題にした本はそのとおり、さすがですね。とはいえ今時あれくらいしか本屋で目につ かないもんね。 で、訳者がQと知り合いといういうのは初耳でした。これはまた面白い。 ノウス一派は時間系の話が好きですもんね。 しかし彼らは自称オリオンと言ってたのだと記憶してますが。 ま、私から見るとこれまた歪んでいるとも思えるけれど。張り合うつもりも無しと。 マヤ系が主流かどうかはよくわかりませんが、ルシファー因子はルシファーも含めて マヤの下流に位置すると私は思います。 私はもともとルーさんにはシンパサイズしているのは昔からのこと。 ルーさんと因子さんは、キリストとキリスト教団の関係に似ている。 と、私も場繋ぎにRTにて。                                   HAL