「確かに深夜に焚き火するのは迷惑行為と言えるな」と村長 - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/06/08 - 07641/07645 JCF07454 新しい芽 RE:新しい芽さんの心をちょっと覗いて観た ( 7) 96/06/07 23:26 07604へのコメント  ノロガメさん、お久しぶりです。  3つのテーマが与えられていますが、それに答える前に、いろいろわけのわからな いことが回りに書いてありますので、全部切り捨ててしまうのではなく、そのなかの いくつかに、私のコメントを付けて、はっきりとしておきます。  SUKEさん、MAKOTOさん、水戸黄門さんにも、まだほとんど話していない その他の方も、見ていただけば、疑問が多少、解明されるかもしれません。こういう ことは、わざわざ言わなくてもいいのかもわかりませんが、コメントの付け方にも暗 黙の了解がいろいろあるのかな、という気がしますので、書いておきます。  新しい芽さんは、雑草のようなものなんですかね? たとえば………  嫌がれば、自己主張して繁殖し、教えたがり、指導したがり、図々しいように見え る?  好むなら、何も意見を言っていないように見えるのを不思議に思い、その辺を聞い てみたくなる?  関心がないなら、見過ごす。  事実に関心があれば、その雑草そのものが何なのか、手にとってよく見、調べるで しょう。  そこで、少し、事実をいっしょに調べてみましょう。 >>他者との溝  新しい芽さんの話しているのは、事実のことなんですね。特に、現在、いま、の自 分に見えている事実の全体のことを話しています。回りのできごと、思い、それに伴 う感情、という瞬時の事実を非難も正当化もなく見ている。  それに対して、ある考えを介して見えているもの、思い、感じる内容という世界を 見ていると、まったく違ったものなので、溝が出来てしまいます。思ったことを事実 と思い、勘違いするわけです。思うことというのは、ある一面であり、限られている のですが、日常生活では、たいてい、それですましています。それでいいとか、悪い とかは何もありませんが…。 「思うことですましている日常生活」  たとえば、他の人がこれこれのことを言い、あれそれのことをします。それに対し て、ひとが冷たいと判断したとしましょう。そしてたいてい、「冷たい」という思い が繁殖してしまいます。そして自己主張が続きます。それが混乱のもとになってしま います。  実際には何があったのかという面は抜きになのです。  それから、事実のもう一面が忘れられています。すなわち、「冷たい」と思う瞬間 の、自分の内面の気持ちが見られていないのです。自分の内面が見られているなら、 たとえば、「暖かさ」を求めているのが見えるかもしれません。そのときには、全体 の事実は違っているでしょう。相手は、特に冷たくはなく、普通のことをしているの かもしれないのです。  これが全体の事実を見ているということです。 「なぜ書き込むのか」  なぜ書き込んでいるのか、という疑問もあります。新しい芽さんの答えは、書き込 んでいる内容がその理由なのだ、目的でもあるということです。このことは、意外に 耳をすり抜ける言葉のようです。  なぜ? それはおそらく、ふつうは、何かの理由があって、何かの目的、動機があっ て、行為がある、書き込みをするからなのでしょう。 「目的、動機のある行為」  ふつうは、動機、目的があって、いまは、不完全だけども、この手段をとろうとし ます。不十分な気持ちだけども、こうするしかないと思ってやる。思い、理想があっ て、それに沿って、手段を求める。いつもずれがある。  そこで、ずれのない、不完全でない、不十分でない行為、目的と手段のずれがない 行為はあり得るかという疑問が生じます。そのときは、次に、動機、目的、思い、理 想の発生と共に、その存在が見られている必要があります。なぜなら、見逃していて は何もわからないからです。しかし、それは事実の全体を見ているということです。  ところで、事実の全体が見えているとき、ずれがあるのでしょうか? 動機、目的、 思い、理想があるでしょうか? 目的と行為が一致しているのではないでしょうか?  しかし、行為とは違う動機があるはずだと思います。これは、思考、動機を再び信 じているからではないでしょうか? 再び、どんなふうに動機が生じているのか、事 実を見始める必要があるでしょう。事実を調べたいのなら。 「動機のない行為」  事実の全体を見始めると、心が静かで、動機のない行為が見え始めるでしょう。し かし、ふと、動機のない行為をする人など、いるわけがない。そこには欺瞞がある。 という思いが生じます。しかし、そこで、動機を抱えたままで、動機のない行為が理 解できるのか? どうやって、欺瞞を抱えたままで、欺瞞のない状態がわかるのか? という疑問が生じます。調べるなら、さらに先へ進めるでしょう。  このようにして、動機が見あたらないなら、書かれたこと自体を理解することが書 き込みの意義を明らかにするでしょう。  事実が見られており、動機がなく、心が静かである、生き生きしているというのは、 この会議室の言葉で言えば、自己がないということに当たるでしょう。 「事実が見られているとき、心が静かなとき、自己がない」  つまり、事実の全体を非難や正当化なしにしらべているとは、自己が形成されてい ない、自己として保存されていない、生じた自己は理解され、解消されているという ことですね。だって、そうでしょう? 思考が生じていないところには、心理的な意 味の自己はないから。  そして、そのとき、心は静かで、暖かく、生き生きとしている。注意がある。垣根 がなく、喜びがある。そのことが非常に明確である。しかし、それは、だれでも、心 に何もないときというのは、経験したことがあるでしょうから、知っているでしょう。 思い出すと、無邪気で過ごした、ひとときのこと。それは、しかし、事実の全体を見 ているなら、ごく普通のことなんですね。それを特定の境地だとか、神を見たとか言 い出すと、たいへんなタワゴトになるでしょう。  言い換えると、事実の全体を見ているとは、問題を理解し、学んでいると言えるで しょう。教えたり、指導したりしているのではなく。 「事実の全体を見ているとき、学んでいる」  普通、学ぶとは、他の人の話を聞き、知識を整理し、演繹し、アイデアを出して、 意見を出し、修正して、結論を出す。それが何かについて学ぶということですね。  しかし、回りのできごと、自分の思考、感情の動き、意味をいま、見ているという 理解、学びは、違う行為ですね。実験していればわかるでしょうが、理解により、問 題自体が解消され、後に何も残らない。明日に残る感情的なしこりは何もない。だから、 この場合、学ぶとは自己を忘れることだと言えるでしょう。  長くなりそうなので、続きはその2に書きます。 07642/07645 JCF07454 新しい芽 RE:新しい芽さんの心をちょっと覗いて観た ( 7) 96/06/07 23:27 07604へのコメント  ノロガメさん、その2を続けます。SUKEさん、MAKOTOさん、水戸黄門さ んにも、まだほとんど話していないその他の方も、よろしく。 >>言葉量  一回あたりの言葉量は与えられた問題によりますから、あまり変わらないかもしれ ませんが、書き込む機会は、いまは、ちょっと多すぎるので、2、3週に一回以下に 減らしたいと思っていますので、みなさんのペースからは遅れると思います。  書き込み量が多いのは、いま、見えているものをそのまま言葉にしているからです ね。けっして、考えをまとめたことを書いているのではなく、生じている事実を見て 書いているということです。事実はそのときそのときで、具体的にはどんどん変わり ますが、そこにありますから、必要なときには言葉で表せばいい。だから、少しずつ 言っていることは違っている。しかし、考えと違って、事実は言葉にまとめてとって おくことは出来ない。それは偽物です。  それで、頭は空っぽで、軽いです。非常にすっきりです。それでも生きて行ける。  ただし、交通の道筋や仕事のやり方などは頭に入っています。他との関係で必要な ものは残っている。言葉には必要な役割、場所があるのですね。 >>新しい芽さんの心をちょっと覗いて観たい。  他の人の心の中は見えません。当人だけが全体の事実に直面することができるので す。そうしようとするならですが…。そうではないですか?  とりあえず、この会議室では、言葉を通して見ているのですが、もし、あれこれ思 いながら見ていると、それは、自分自身の姿、自分自身の雑音を見ているのではあり ませんか? 自分の投影したものを相手だと思ってみているのでは? 「自分の投影したものを相手だと思ってみている」  自分の感じることを相手の事実だと思ってしまうというのは、日常生活ではざらに 起こっていることですが、「事実の全体を見ようとする」ときには、大幅に欠けてい る部分があります。  ここに書かれていることを読もうとするとき、読んだことが静かに聞けているかど うかが問題です。読んで、思い、感じることがあれば、自分の騒音を見ているのかも しれません。そのとき、読んでいることにたいして、内面の状態に気づいているかど うかがが、「事実の全体を見ようとしている」かどうかのポイントになります。そう でないと、何が読まれているのか、混乱が生じます。自分の心のざわめき、騒音を、 新しい芽さんの心の内をのぞいているのだという気になっても、それは錯覚でしょう。  それに新しい芽さんという特定のひとはどうでもいいので? それも雑音では? 「自分自身の雑音を見る」  相手のことだと思う、自分の思い、修正された考え方、賛成や反対である思いを見 ているのかもしれません。  もし、語られていることが考え方、やり方であれば、自分の思いは、そのままにし ておいて、一応、話を聞き、言葉の上で理解したと思うことはできるかもしれません。 似たようなことをひとはたいてい思っていますから、思いの世界同志なら、話が通じ てしまうからです。  しかし、事実そのもの、いま、起こっていることそのものは、言葉の世界ではない ので、理解したいなら、当人がそれを生きるより仕方がないでしょう? 「事実は当人が生きるしか理解できないのでは?」  それは金太郎あめみたいなものですね。事実を理解したいなら、事実を見ているよ りない。自分の思いを事実と間違わないためには、非常な用心深さが必要です。まず、 目の前の出来事、相手の言っていることが事実のままにみえていること。そして、自 分の内面にある、考え、感情に注意深いこと。その注意深さが心を静かにするでしょ う。そのとき、始めて、事実が見え、事実が理解されているでしょう。  実際にあるもの、事実は言葉で考えたもの、想像したものとは違いますから、考え の上で解釈しながら見ていたのでは、まさに、考えの上での解釈が見えているだけで すね。  このあたりがいわゆる溝と言われているものでしょう。  そこで、もう一度、新しい芽さんのしていることを見てみましょう。取り上げられ ている問題は、この会議室で発生した問題が多いようです。そこで、他の人の問題で はなく、自分の問題を取り上げてくださいという要望があります。しかし、自分の問 題は他の人の問題はとよく似ているのではないでしょうか? 「自分問題は他の人の問題とよく似ている?」  見回してみると、みんな似たようなことで苦しんだり、快楽を感じたり、衝突して いたりしているのではないでしょうか? 具体的な問題では、それと一緒に、感情が ありますから、個人の問題だから、触れないでくれとか、他の人とは違う苦痛なんだ とか思いがちですが、そうでしょうか? 表面的に起こっていることは、似ているの ではないでしょうか?  もちろん、実際に内面に生じているものに直視できるのは、当人しかありません。  ですから、問題は共通であって、個々人は、自分の事実に直面し、この会議室で一 緒に調べ、何かを語り、疑問を提出できるのではないでしょうか?  つまり、個人の問題を区別していることに疑問があるのではないでしょうか?  そして、そのとき現実の課題に対して事実の全体を見ているとは何なのか? 「現実の課題に対して、事実の全体を見ている」  そして、ここの会議室の中で生じている課題が与えられたとき、事実の全体を見て いるとは、何をしているのか? これは決して他の人の詮索ではなく、自分に降りか かってきている問題として、理解しようとしている、学ぼうとしている過程なんです ね。思いだけが取り上げられているなら、教えようとしていると感じるのなら、実際 は相手は何と言っているのか、確かめる、自分の内面に、教えることについての誘惑 や抵抗に、非常に敏感である。内面の事実を見ている。それによって、事実の全体を 学び、それから解放され、自由である。そういうことです。 07643/07645 JCF07454 新しい芽 RE:新しい芽さんの心をちょっと覗いて観た ( 7) 96/06/07 23:28 07604へのコメント  ノロガメさん、さて、3つの課題です。簡単に話してしまい、続きはやりとりの中 ですることにしましょう。 1、 自分とは何か?  自分というのは、もろもろの記憶、それに伴う感情です。記憶は時間的には、過去 のこと、未来のこと、身の回りのこと、遠く離れたことに及びます。それは思考の過 程として、いま、発生し、感情を伴い、行動を制約します。思考は実際に起こってい る事実とは違い、限られています。  ふつう、心理的な意味で自分と言うときには、何かに対して怒りを感じるとき、痛 みを感じる、怒りがある、とは言わずに、「私は怒っている」と言います。だから、 実際に起こっていることに対して、仮に主体を「私」と名付けているということです ね。  考えを持ち出すとき、実際に起こっていることとの間に、ずれ、欺瞞、衝突が生じ ます。それゆえ、思考、自分は葛藤の原因です。ですから、自分なしでいることが出 来るか? という疑問が生じます。  すると、思考、自分の発生に、非常に注意深くある必要があることがわかります。 なぜなら、思考、自分の動きを見逃してしまっては、しようがないからです。  しかし、調べて行くなら、どこまでも、思考の存在はわかるのです。そして、その ように事実を見ているという行為が自分の理解をもたらし、思考、自分を解消し、心 は静かに生き生きしています。そのとき自分はありません。  仕事の中でも、心が静かな中で話し合い、分担を決めてやってゆくとき、自分とい うもののない行為があります。  もちろん、仕事の手順やその他の思考は存在します。呼ばれれば返事をしますし、 責任や義務もあります。おなかが空くのも自分です。思考の役割はあるのです。同じ 自分という言葉を使うと紛らわしいのですが、日常用語なので仕方がないでしょう。 2、 人体を構成している細胞と、自分の関係について?  細胞については、小学生の時、顕微鏡を覗いたりした記憶や教科書の知識がある程 度です。それそれがその場所で役割を果たしていて、全体が人体として、統合的に動 いている。  回りや、内部の状況の変化によって、心に何かが生じて動いている。冷たいと感じ るとき、気温だけの問題かもしれないし、自分に熱があるせいかもしれない。回りが うるさいと感じるとき、回りの騒音が激しいのかもしれないし、自分が疲れて敏感に なっているのかもしれない。 3、 神とは?  神というのは、まず、ひとのもつイメージ、思考ですね。たとえば、時空を越え、 存在するもの。慈しみがあり、人を助けるもの。  回りの環境も敵対し、自分自身もうまく対処できないとき、逃げ場を求めて、ひと は神を求める。すると、ある程度、神を実感できる。しかし、注意深いなら、自分の 知識、求める気持ちがそれを見させてくれることがわかる。思考は過去も未来も、ど の場所へも思いめぐらすことは出来る。自分の欲求は利己的でも、慈悲や人を助ける ことは考えることが出来る。そのとき、見えているのは自分の姿の投影なのだが、自 分は苦しいので、見える神の姿が非常にありがたいものに感じる。  しかし、この全てに気づき、どんなイメージにも、どんな思考にも注意深いとき、 心は静かであり、回りの物事を、自分の内面と区別することなく、事実を見ている。 そのとき、思考のもたらすものとは、まるで違う事実の世界を生きている。思考の世 界は、どんなにすばらしいようでも、始まりがあり、終わりがあり、現実との食い違 いがある。しかし、事実の世界は、始まりがなく、終わりがない。自他の区別という 限界がない。事実を注意深く、親密に見ていることが、慈しみの行為をもたらしてく れる。助けを求めてはいない。そのとき、神のイメージを持っているだろうか?  この辺でいかがでしょうか? 07644/07645 JCF07454 新しい芽 RE:その線で行きましょう ( 7) 96/06/08 08:24 07620へのコメント  水戸黄門さんどうもコメントありがとうございます。たくさんコメントを頂いてい ますが、ここで話をするのが一番はっきりするでしょう。  他のコメントには、焦点を絞って、簡潔に書こうとしています。#07609につきま しては、社会常識的には、ごもっともです。もっとも、この会議室に入るときに、自 分の内面の事実、つまり、自分の持っている思考、感情に触れることは、正直である 必要があるし、覚悟がいるというようなことが書いてありましたし、みなさん、正直 に話し合っているように見えましたので、そのつもりで私は話し始めたのでした。  で、私の態度に見合って、水戸黄門さんも正直に自分の気持ちをぶっつけて頂いて も、結果的には、大丈夫だったわけですが、しかし、水戸黄門さんの立場に立つと、 入ってきたばかりの初心者に、はっきり言ってしまうと、その初心者を会議室から失っ てしまうかもわからないわけですね。どうもすみませんでした。  さて、#07620に戻ります。私のやっていることが何なのか、まだ、伝わってないと ころがありますので、そこのところを、伝えられるかどうか試みます。どうも、いっ たい何のことを話しているのか、ぜんぜんかみ合わないので、先へ進めませんから。 》書き込もうとする瞬間に感じているもの、というのは、いまもそうですが、内面的 》には、何もなくて、普通の気持ちです。 》この見解に嘘はないと信じる。  この文をここまで読んできたとき、私の心の中に生じている動きを書いてみます。  読んでいるとき、純粋に、何の思いもなく読まれています。すると、まず、一瞬、 事実から足を踏み外すんですね。  「信じる」という行為が「事実ではないもの」を蓄積する行為、であることが見え ます。相手の内面の状態を「何もない」と仮定する、思う、信じるということです。 相手についてのイメージを持つという行為。そういう事実が見られています。はっき り見えている事実なら、「信じる」などとは言いませんよね。信じる途端、「何もな い」という心の状態の事実としての理解はあり得ません。  しかし、事実でないものの中にある事実が見られ始めて、事実を見る状態の中に戻っ ています。  それから、「この見解」というのは、他人事なんですね。嘘があるのかないのか、 相手の心の中は見えません。本当に相手の心が「何もない」のかどうか、どうやって わかるのですか? わからないものをわからないと見ているなら、それも事実であり、 事実から足を踏み外してはいません。しかし、わかると思っているのなら、事実でな いものを掴んでいるわけです。  このようにして、事実を見ているなら、心には矛盾、思いはなく、何もなく静かで す。すると、ただ静かに読んでいるだけですが、しかし、心に何もない状態が実現し ているので、SUKEさんのコメントを読んでいるとき、心に何もないという状態で あると書いてあることが、事実として理解できているのです。 》それが問題の生じるいま、事実のままに見えている瞬間、プライドや自負の持つ意 》味が、リアルに見え、理解され、解放され、何かに対して、必要な行為が生じている 》のではないでしょうか? ゆがんでいない行為が生じているのではないでしょうか? 》最初の質問はわかるが、後者の質問がわからない。 》ゆがんでいる行為が生じているの誤記ではないか?  プライドなどが消えている状態で、解放されている状態で、何かに対して、たとえ ばネットワークの管理や質問に対して、必要な行為=ゆがんでいない行為が生じてい るでしょう、という意味です。もしも、事実のままに見えているなら、ですが。  しかし、他の人についてのイメージをもち、知識として理解してきているなら、お 話としてまとまってきているだけで、その全体のイメージとしては、ゆがんだ行為が あることがわかるだけですね。ここが最も重要なポイントです。だいたい、人々が悩 み、考えて、解決しようとしていることは、こういうことではないでしょうか。自分 の作り上げたイメージの中では、何も変わらないでしょう。反対の考えを持ってみて も、その反対の考えと同類ですよね。  ですから、最初から、どんな事実ではないことにも注意深く、事実を見ている必要 があるでしょう。しかし、事実はどんどん変化します。思いがけないことを思ってし まうでしょう。それについて行く柔軟さが最初から必要です。観察する自由が最初か らなければならないでしょう。そのときは、心は静かで、何もなく、必要な行為、ゆ がんでいない行為が生じているのではないでしょうか?  過去のことをおさらいしても、それは本当の過去ではありません。当たり前のこと ですが、いま、というのは、いま、あるわけです。いま、の事実を、いま、見ている なら、おさらいする暇などないでしょう。 》言う必要のあることは何じゃろう?   さて、私がなぜこんなことを書いているのか、ですが、もちろん、質問に答えてい るわけです。その内容は、ごらんの通り、私自身が事実でない世界に足を踏み外して、 また、瞬時に事実の世界に戻る様子を書いているわけです。私は、実際には、言葉な しで自分の身に起こっていることを、わざわざ言葉に書いているということです。し かし、実際に起こっていることを書く以外に書くことがないのです。  まだ、ほかにも質問がありますが、とりあえず、私の返事はここで終わります。 07645/07645 JCF07454 新しい芽 RE:確かに、噛み合ってないですね(^^;) ( 7) 96/06/08 11:11 07612へのコメント  MAKOTOさん、コメントどうも。順不同で私の話を書きます。 》もう一つ、時々自分のハンドルにさんづけなさるわけですが、 》何か理由があるのでしょうか?  それはですね、白紙でMAKOTOさんの文章を読んでいるわけです。すると、M AKOTOさんの目から見た、新しい芽さんに対して感じること、事実と思っていらっ しゃることがわかります。しかし、見えないのは、新しい芽さんが具体的に何か言っ たことに対して、そう感じたわけですが、その具体的な何かが書かれていないという ことなんですね。それから、そう、感じる、思うときの、その瞬間にある感情がわか らないということです。で、その辺がわからないと、全体的な事実、ある面からでは ない事実はわかりませんから、「新しい芽さん」は…などという言葉がでてくるんで すね。見苦しいということでしたら、やめましょう。 》引用にはそれとわかるヘッダを付けて下さるとありがたいです。  これも実は、誰が言ったことかという意識はなくて、問題そのものを取り上げてい るということなんですね。しかし、不便でしたら、ちゃんと引用の印を付けます。 》自分にとって破壊的な行為というのは、こういうことです。新しい芽さん自身の中 》 それは、貴方自身がわかっていれば良い 》ことです。ですが、貴方の中には、言葉にしないではいられない、説明しないでは 》いられない、薦めないではいられないといった情熱がある。  これは、逆に言うと、MAKOTOさんは、自分にとって破壊的な行為について疑 問を出したのだけれども、私の返事を、そこまで、MAKOTOさんは求めてはいな かったということに過ぎないのではないですか? ですから、お互い様なのでは?   それに、聞こうという気がないときには、相手に情熱があるように感じるでしょう。 その点、非常に注意深くないと、自分の思いの半面を相手に投影して感じがちではな いでしょうか? 》私の「教えてあげよう」「気付かせてあげよう」といった態度に対する反応につ 》いてですが、私はそんなものは、思い上がりの産物だと思っていますからね。  思い上がりの産物だというのは、単に事実として取り上げているだけでしょうか?  それは、〜してあげよう、という態度に対する非難なんでしょうか? 非難にしろ、 誘惑にしろ、そういう〜してあげよう、という態度に、感情的な反応があるなら、 他の人の態度に敏感に反応して、そのように感じてしまうことはあり得るのではない ですか? 事実としては、どうなのかという点については、非常な注意深さが必要で しょう。具体的に 相手の言っていることは何か? 〜してあげようと相手に感じた ときの、自分の内面の状態にどれほど注意しているか? 自分の内面がはっきりしな い、何となく相手のことが気になるといった、状態では、自分の内面にある欲望を相 手に投影していたとしても、わからないでしょう。  これは、他の人のことをあれこれ言っているわけではなく、だれでも起きがちなあ る意識状態について、ある思いが生じた出来事について、いっしょに検討しているだ けなのですが、そのあたりがわかって頂けているでしょうか? 》ちなみに私は、様々な状況や、会話そのも 》のの中から、自ら見いだしていくもの、つかみとるものだと思っています。  その思いが理想として働くと、他の人の教えようという行為、あるいはそうとしか 見えない行為が非難の対象になりますね。しかも、その非難を口に出すと、それはま た、相手に教えよう、気づかせてあげようという行為になっていませんか? これも また、単にある思いを持ったときの意識のありようを話しているだけであって、特定 の個人を問題にしているのではないということがおわかりでしょうか?  私には、瞬時瞬時見えている事実という、次々に移り変わる素材があるだけです。 それを見ているということが見いだしているということです。しかし、何かをつかみ とっているという気はしません。何も掴まないという感触です。 》また、新しい芽さんの目には、誰も事実を見ようとしていないと写っているよう 》ですね。実際にやっている人達の前で、「やりませんか?」という筈はありません 》から。これも、今私の目に写っている「事実」です。  これは言葉の綾ではなく、事実を見てみましょう。誰も事実の全体を見ていないと いうことではなく、たいていの人は見ていないのではないでしょうか?  葛藤を起こしているときには、ある面から見ていて、事実の全体は見ていないので はないですか? そのとき、相手が具体的に何をしているのか? 自分の思いが生じ ているとき、同時にどんな感情が生じているのか、それが非難や正当化なしに事実の ままに見られていますか?   実際に事実を見ているということをやっている人達というのが外から見てわかりま すか? 「筈」というのは、自分で見た事実ではないですよね。  ですから、眼に映っている「事実」だと思うことであって、事実ではないでしょう。  MAKOTOさんがどうだということではなくて、事実だと見なしたことの中に潜 む、事実かどうか確認されていないこと、事実誤認を検討したものですが、この事情 がわかって頂けますか? 》 私が結論を出し、それに対する同意を求めていると感じるのは、貴方が意見の間 》に同意を求める言い回しを、いたる所に散らばらせているからです。  繰り返しになりますが、同意、不同意ではなく、事実はどうかということです。事 実はそうかもしれないし、そうでないかもしれない。結論や意見ではないでしょう。  そういう言葉ではなく、実例を挙げてみてはいかがですか? そう感じるというの は、事実でしょうが、実際に起こっていることは、このままでは不明です。  一般的な事実を言うと、疑問を提出すると、同意か不同意かという受け取り方をし がちだというのも事実です。逆に言うと、ある主張をするのに、疑問形で話を進める という技法があるということです。私の場合、あなたにとって、事実は何ですか?  という単なる疑問に過ぎません。ですから、同意を求めているというのは、不同意を 感じる自分の欲求の半面、投影かもしれません。その点注意深く自分の動因に気づい ていないと、真実を見失うでしょう。  相手に感じる自負は自分の持っている自負かもしれないのです。 》私にとっては「新しい芽さんならこうする」という、貴方にとっての「事実」を元に 》して他者の発言を「解釈する」文章ばかりなんですよね。その中から私は、「事実」 》のものというより、新しい芽さんとは、こういう考え方をする方なのだなという事 》を「事実」として受け取っています。  これは、やはり、事実が問題なのであって、形からだけ見ていてもわからないんじゃ ないですか? これまで見てきたように、事実だと思う、ということと、実際に起こっ ているという意味での事実とは、違いますよね。たとえば、誰かが冷たいと思う。冷 たいのは事実かというと、思ったのは確かな事実かもしれないけれども、たとえば、 暖かくして欲しい欲求が自分にあって、それが投影されて、相手が冷たいと感じたの かもしれない。相手はごく普通に振る舞っていたのかもしれない。  これまで話してきたように、私の事実を元に他者の発言を解釈する文章ではないこ とがわかるでしょう。事実かどうか、全体的に、ありまのままに見てみることが必要 なだけではないですか? よく見るなら、事実は全体を見るか見ないかであって、特 定の考え方ではないでしょう? もし、このあたりがやはり納得いかないのでしたら、 お互いに、コメントはしばらくおやすみにしませんか? 》私には印象と書くしかないんです。貴方と私の感覚は違います。  話していることが何のことか、言葉はなくてもある、実際の事実のことなのか、事 実についての考え、あるいは自分の思い、感じることなのか、その辺がお互いに混乱 している実状なのではないでしょうか? 》私の文面から感じるものを「事実」と言い切る事は出来ないのです。  それはそうでしょう。私もそんなことは何も要求していません。繰り返しますが、 事実の全体というのは、回りに見えているもの、相手の言っていることそのもの。そ れに対する自分の反応、思い感じること。実際にある感情。それに非難や正当化なし に気づいているとき、知覚されているもの。それらの素材。移り変わる瞬時瞬時の事 実。  ですから、事実の全体というのは自分の感じる印象そのものだけではありません。 その辺、もし、何か踏み込みたくない感じをお持ちでしたら、やはり、お互いにしば らくコメントはお休みにしませんか?  コメントが長くなってすみません。