「だが此処はあなたの庭先での事で…」と村長は天使を見上げた """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""" - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/06/09 - 07646/07652 LDS05136 YHVH つまらない現実、だからこそ…… ( 7) 96/06/08 16:26 わたしの見た事実(みたいなもの) あるMさんが「あなたの書く文章はわかりにくい」と言った。 言われたAさんが、事実はそうかどうかわからないと言った。 今回は、まずAさんの側にある事実という点に絞ってみたい。 もちろん、次回があるかどうかなど、だれもわかりはしない。 自分の書いたものがわかりにくいか、そうでないかについて、 どっちだろうかと少しでも考えてみたのか、みなかったのか。 事実としては、おそらく、その「いずれか」しかないだろう。 ひょっとしたらわかりにくいかもしれないと思った、とする。 次に、わかってもらえるように書こうと思うか、思わないか。 ここで、わかってもらえるように書こうと思った、としよう。 思った結果、どのような文章を綴ったか、それは画面に残る。 後はボキャブラリーの豊富さ、あるいは語法の巧拙の問題だ。 しかしもちろん、わかりやすい文章に基準などありはしない。 十人のうち八人ぐらいがどう思うか、そこにしか事実はない。 その他に事実があると考えるのは、この場合、錯覚であろう。 尤も、八人が百人の中でも八人である可能性……それはある。 けれども、このことに関する事実は、時々刻々変化している。 YHVH - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/06/09 - 887/889 MHD02672 TAO RE:大阪梅田の阪急コンコースは、呪術で守 ( 9) 96/06/08 23:40 885へのコメント  #885 まるにちょんさん   どうもお久しぶりです(^^)。大阪梅田の阪急コンコースに埋められたモザ  イクのお話、興味深かったです。  そのモザイクをデザインしたり製作した人がどこまで陰陽道を意識してい  たかは分かりませんが、もし意図的に陰陽道的な呪術効果を狙ってのことだ  としたら、そのぶっ飛びぶりにはちょっと怖い気もして来ますね(^^;。   三本の足を持つ烏というと、神武天皇の東征説話に登場する八咫烏を思い  出します。熊野三山が発行している熊野午王の札にも、三本の足を持つ八咫  烏の姿が描かれており、神の使いの鳥として知られていますね。   ところで太陽に鳥が住むという伝承は東南アジアにも伝えられていた筈と  記憶しているのですが、文献が見つかりませんので(^^;、ひとまずお預けに  しますが、日本だけの神話伝承に限らないのでは無いかと思います。  >>  ひょっとすると、月でつかれる餅は、五穀豊穣と、子孫繁栄の呪術な  >> のかも知れません。   そう言えばお正月に供えられる鏡餅は“太陽”であり、“稲の女神の女陰”  を指すそうですよ(『歳時記のコスモロジー』北沢方邦著/平凡社刊より)。  米から作られるお餅は、やはり豊穣への願いを込められているようですね。  それでは。  TAO - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/06/09 - 04793/04794 GGA02514 KAZE 風の本棚●東條真人・ミトラ神学 (13) 96/06/09 11:29 ■東條真人「ミトラ神学/古代ミトラ神学から現代神智学へ」(国書刊行会) 本書は、「全神智学の集大成」と唱われていますが、 ここで「神智学」といわれているのは、 ブラバツキーの神智学だけを指しているのではなく、 古代からさまざまな宗教等の根底にある秘教的真理の探求であり、 表面上は異なった在り方を見せているそうしたさまざまな神智学を 統一場的に解明しようという試みが本書であるといえます。 裏表紙にはこういうコメントがあります。   キリスト、仏教の弥勒、ユダヤの大天使メタトロン、イスラームのアル−マフ   ディー、現代神智学のマイトレーヤは、古代イランの光の神ミトラをルーツと   すると言われている。本書では、膨大な文献の博捜をもとに、ミトラ教神智学、   東方神智学、現代神智学の歴史・神話・理論を解説し、汎世界的なミトラ信仰   の系譜をたどりながら、その普遍的な構造を明らかにし、21世紀に向けて新   たな神学の創生を試みる。全神智学を集大成した、画期的論考。    本書は、約500ページ近くにもなる著作で、最初はそう期待しないで、 途中でつまんなくなって拾い読みになってしまうかなとも思っていたのですが、 一気に読んでしまいました。 とても内容の充実した、しかも読みやすい画期的論考だと感じました。 ただ、著者の自筆の挿し絵だけは、マンガチックでいただけませんでしたが(^^;)。 ともかく、ミトラというのは、まさに弥勒であり、マイトレーヤ。 そこに、いわゆる太陽存在である、キリストやアフラ=マズダ、オシリスなどが 深く関係してくるのはいうまでもありません。 シュタイナーにとっても、キリスト存在はメインテーマでもありましたし、 弥勒に関しても言及されているわけで、 そこらへんのことを概観する意味でも、本書は極めて広い視点を提供してくれます。 本フォーラムでも、ARIONはアフラ=マズダを自称していますから、 そこらへんをいろいろ考えてみる意味でも恰好の本だと思います。 もちろん、極めて広い視点をとっているだけあって、 未消化である部分などがあるのは確かなのですが、 そういうところを含めて考えてもこういう試みは、スゴイの一語です。 ぼくにとっても、不案内であるゾロアスター教やマニ教、イスラム教関係のものを 概観させてくれ、またそれに関する資料の数々を紹介してくれたという意味でも、 とっても参考になりましたし、著者がぼくとほぼ同い年というのもあって、 まだまだぼくは勉強が足りないという反省のための刺激にもなりました。 それはそれとして、あえていくつか不満足なポイントを指摘しておくと、 ここには、道教や陰陽道などの視点はまったく欠けていますし、 なにより日本の神道についての視点もまったく抜け落ちています。 実は、ぼくにとっても今いちばん興味のあるのが、そこらへんの視点なので、 まだまだ全体像は見えてこないなあというのが実感です。 ともあれ、本書は、ひとつの一里塚でもある好著ですので、 少し高いですけど(4,600円!)、お買い得の一冊だと思います。 最後に、「エピローグ」として書かれてある、 ザラシュストラ(ゾロアスター)と弟子のスヴェトラーナの話の一部を。   さまざまな機会をとらえて、ザラシュストラは、いかに学ぶべきかを彼女に教え   ました。たとえば、次のようにです。   「わたしのことばのすべてを鵜呑みにするのではなく、わたしのことばを手がか   りとして、ミトラの真意をくみとるのだよ。二つの知識を持って、それらがうま   く結び付かないときには、どちらかがまちがっていると速断してはいけないよ。   自分にはまだわからない方法でその二つは結び付いているかもしれないと留保し   なさい」。(中略)   たとえ答えが間違っていても、自分なりに考えて答えるとザラシュストラは喜び   ました。ザラシュストラは自分が語ったことを彼女が金科玉条として疑わないで   丸呑みすることがないように、たえず注意を払っているようでした。(中略)   ザラシュストラは彼女のことばや祈るときの心の込めかたをよく見て、ミトラへ   の話しかけ方や呼びかけ方を教え、彼女がミトラの友としてふさわしい言動がで   きるように指導しました。魂の中に火をともすとか、火を見るということについ   ても、ザラシュストラは「それは修行で感じることだ」というような曖昧な説明   はせず、「自分で考え、自分で決めるようになることが、火がともるということ   だ」というように状況に応じて具体的に教えました。どんな場合でも、自分で考   え、自分で決めるという自発性が見られるときには、その芽を摘むようなことは   しませんでした。正義は相対的な概念だから、超越して達観することが悟りだと   いう考え方や、ルールの意味を考えず、それを金科玉条として崇めるような考え   方をどちらも偽りの光に惑わされた考えとして退け、真の「正義への思い」とは、   絶えず正義の境界線がどこにあるのかを自問自答することだと教えました。そし   て愛には正義と慈悲の二面があることを教えました。この他、数限りないことを   教わりました。(P443-444)    ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04794/04794 GGA02514 KAZE 何からでも学べるという畏敬 (13) 96/06/09 12:45 04787へのコメント アマデウスさん、どうも。 》  う〜む、畏敬の話が「守破離」と結びつくとは予想外でした。でもよく 》 考えてみると、「守破離」の最初の「守」は、道を敬う気持ちなくして成る 》 ものではありませんから、畏敬の念が「道の発端をなす」というシュタイナー 》 の言葉は、同じ事を言っている....というのはちょっと強引でしょうか(^^;ゞ いえ、強引ではないと思いますよ。 自分できちんと考えて判断、行動できるということと、懐疑ということは、 とても大切なことなのですが、それが健全なかたちでできるためには、 その土台づくりということが欠かせませんから。 その土台づくりというのは、盲目的な信仰なのではなくて、むしろその逆で、 数学を学ぶときに、まずは1+1=2ということを受け入れることからはじめながら 勉強が進むうちに、その1+1=2をも批判的に考察できるような段階になる というのと同じようなものだと思います。 最初から1+1=2を受け入れなかったら、批判的にさえなれないですから(^^;)。 》  居ずまいを正すべき雰囲気の時に畏敬の気持ちを持つのは簡単ですが、 》 その気持ちを「基調」にするのは、とても大変なことですね。何も意識しな 》 いでいると、「いつも色眼鏡で見たり、疑いのための疑いという感じで接し 》 ている姿勢」に自然になっていってしまいがちなので、つねに自分がどう 》 いう状態にあるのか意識し続けないと行けませんが、かと言って「なぜ畏敬 》 を基調にすべきなのか」をきちんと理解しないまま無闇やたらに畏怖・尊敬 》 ・献身などを強行しようとすると、変な方向に猪突猛進してしまいそうです。 そのために、この会議室では、当初から、 「嫌いでも理解、好きならもっと理解」ということを言っているのですが、 そういう姿勢を常にもつことで、「色眼鏡」や「疑いのための疑い」を できるだけなくしていこうというわけです。 また、後半の「好きならもっと理解」ということがなぜあるのかというと、 おっしゃるように「畏怖・尊敬・献身」も自己目的化しないためです。 つまり、自分がそれをほんとうにわかっていてやっているのかということです。 人は、好き嫌いに限らず、無理解のゆえに暴走してしまうわけです。 ですから、そこに理解を持ち込むことで「中道」的な統合力が働きます(^^)。 そういう意味で、「守破離」という三つの段階が 実は、中道的な統合力の絶えざる運動であることがわかります。 でもって、好き嫌いに関わらず理解しようとする姿勢、 そしてことあるごとに言っている「何からでも学べる」という姿勢は、 「世界に無意味なことはない」「すべてが学ぶことの必要なことである」 そうした、言ってみれば「世界への信頼」「自分がここにいることへの信頼」 そうした「畏敬」を喚起させてくれるのではないかとも思っているんです。 》  これを書いていて気が付いたのですが、そうすると「畏敬の気持ちを基調 》 にする」ということは、ARIONの5大条件<純粋、無邪気、素直(正直)、 》 謙遜、全知全能なる存在への畏怖の念>を備えることと同じなのでしょうね。 》 字面から、5番目の「全知全能なる存在への畏怖の念」だけをが「畏敬」だ 》 と思ってしまいそうですが、上述のようなことを考えると、シュタイナーが 》 意図したのは、ARIONの5大条件をすべてひっくるめたものと思った方 》 が自然ですね。 これは、なるほどと思いました。 最初そのARIONの「5大条件」を見たときに、 「てやんでぇ〜、そんなの無理だよ!」と天邪鬼がわき起こったものですが(^^;)、 確かに、その「条件」は、シュタイナーのいわんとすることと重ねてみると、 同じことを言っているようですねφ(。。;)メモメモ。 》  僕は会社で過ごす時間が長いので、会社での出来事や人間関係で題材を 》 見つけることが多いです。それで気が付いたのは、「不遜な思考」や「軽蔑 》 的な批判」などは自分とは無縁と思っていたけれども、実はやはりそうでは 》 なかったということです。 はい、ぼくもそこらへんは、日々反省を繰り返すばかりです(^^;)。 「不遜な思考」や「軽蔑的な批判」というのは、どうしても出てしまいますから。 そうしたことにできるだけ自覚的であろうとすること、 つまり、仏教の反省行のなかに「正見」「正思」「正語」「正業」というのが ありますが、自分の見ること、思うこと、話すこと、行なうことを 自分でチェックできるようにすることは、非常に重要だと思います。 ちなみに、読書会を進めるなかででてきますが、この仏教の八正道の考え方は、 この「いか超」でも姿を変えて登場しているんです。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/06/09 - 04084/04086 HQK00566 SOUND RE^9:炎で書いた物語」最終章(その6の4) (14) 96/06/08 15:36 04077へのコメント コメント数:1 「炎で書いた物語」最終章(その6の4)  <しあわせ未来形>( DO PEOPLE DO)(その4)      それでは、最終連である第****連に入る。  普通、作者は、章分けするとき、数字を使ったり、上、下、などを使用してなるべく わかりやすくする。  それぞれの連の番号に数字でなくなぜこの読みにくい*のマークを使用してあるのだ ろうか。 これでは、ある連を指定するとき、*連のどことか**連のどこそことなって非常にわ かり辛い。 章と呼べば良いのか連が良いのかも不明だがここではぼくは一応詩編として連と呼んで いる。     **** >> >> この数を見よ、と片目の男は言った。 >> 愚かな数を見よと。  ここでいよいよ最も難解と思われる数霊が提出された。 数霊につてはこの物語の始まりの辺りでとりあげたので重複する部分が多くなるがふた たび触れなければならない。復習させようという意図があるようだ。   ****というマークで第四連を始めているのは偶然ではない。  なんの手がかりもなく唐突に、この数を見よ、というのは見るべき数が見あたらない のでまるで言いがかりのように思えるが、手がかりは****にある。  この****という数を見よ、と言っているのである。  つまり、四という数を問題にしているのである。  ここで主語「片目の男」がだれであるのかの特定をしてしまおう。      アイパッチで一時勇名を馳せたイスラエル軍のダヤン将軍や伊達政宗や柳生十兵 衛、隻眼隻手の怪人、丹下左膳のように現実界や虚構の人間を想定すれば良いのか、   それとも、なにかの比喩として使用されているのだろうか。      「この数」を子の数と考えれば、だれかの親である方と思える。 この物語の推移から推し量って、片目の男性でだれかの親であることが当てはまる方 は、 黄泉平坂から帰った伊奘諾尊(いざなぎのみこと)である。 かれは伊奘冉尊の力を借りることなく黄泉国の汚穢(けがれ)の禊ぎの間に、左目から 天照大神を生んだ。 ということはそのときその時点では伊奘諾尊は右目だけの隻眼であることになる。      伊奘諾尊が片目の状態で生んだ子、天照大神の数を御代(見よ)で三四=七と言っ て いる。   そしてその数を愚かな数であるという。   見よ、に注意を向けるためにたった二行に二度も「見よ」を使っている。  その右眼だけで見て判断しているのだ。右眼は右岸でありこの世のことである。 そして、それはのちに生まれる「月読命」の眼に映っている世界である。 「月読命」の眼を通して見た天照大神の数が御代(見よ)で三四というのはおかしい。 それでは、「月読命」の世界となんの変わりもない。 月読は三四三である。 「光の黙示録」からこの見よ(三四)に関する部分を引用する。 >> >>読みは四と三 >>月は三 >>月読みは三と四と三 日読みも 三と四と三であった >>(今は そうでは無いという意味)  月読みは三と四と三であるのに、「日読み」でも三と四と三でしかない。  日である天照大神が月と同じ挌であるということになる。  つまり、この「天照大神」は真の「天照太神」ではなかったと思われる。   真の「天照太神」の大にはチョンがあり、「天照大神」は物質太陽で三の数霊の日 で女性だった。 伊奘諾尊おひとりで左目から生んだ子、天照大神は実は物質としての日であって その数を三四=七といって愚かな数と言っているのである。 この数****、愚数=偶数である四が特に愚かであるらしい。 なんらかの失敗があったようだ。四ではいけなかったと思われる。 月と日の中心に来る数字が四では困るのだ。 物質太陽(三)と月(三)に囲まれると、どちらから見ても七になって開けない。 そこで次の行でその修正案が語られる。 >> 彼の指からは、さらさらとこぼれ落ちるものがあった。 彼の指をシと読んで彼の死(四)からは新、更、とこぼれ落ちるものがあったと読む。 伊奘諾尊は兵庫県津名郡一宮町で死んでから、伊奘諾尊神宮を幽宮(かくれのみや)に して 淡路国一の宮、多賀大明神となった。 死(四)から新なる更生をするためには一が必要なのだ。 一の宮(霊家)とは霊数、一がかくれている宮のことである。 それが一の宮の意味である。四に一が加わって五となる。それが再生の数なのだ。 伊奘諾尊はその失敗を補うために一の数を持って一の宮で時を待っておられるのであ る。 三四三の中心にその一が入るとき、蓮華の花が八(パッ)と開くのである。 そのとき世界は三五三で中心に真の天照太神を抱くことになる。どこから見ても八の世 界である。         三        三五三         三     >> >>太陽はエール 三、四、三 >>月はミューア 三、四、三 >>エールとミューアで 二〇 >>最高神が 一〇 >>一〇を分けた二〇であれば均衡状態 >>(今はそうでは無いらしい)~~~~~~~~ >>今 現在の数については 教えて貰っていません 「最高神が 一〇」というのに「一〇を分けた二〇であれば」という。 一〇を分けるとき、われわれは五と五に分ける。マーケットで一〇円玉を分けてくれと 言っても二〇円にしてくれることはない。鋏で切られても困るだけだ。 すなわち、前にも述べたが、一〇は十のことではないのだ。 (今はそうでは無いらしい)ということは、その「一〇を分けた二〇であれば均衡状態」 であった時代があったのである。 その時代、最高神一〇は、一〇を分けて二〇であった。 それは古代エジプトで、太陽神RA(ラー)を逆読みして(エール)と、 月神AUM(オーム)を(ミューア)と呼んだころであろう。 それが古代の呪法であった。 「エールとミューアで 二〇」というのは二十ではなく二つの○ということである。 最高神一〇は自身を二〇に分けた。 しかし、それでは均衡状態で回転ができないので 三四五の世界とされた。 それがこれまでの御代(三四)と死後(四五)の世界の成り立ちであった。 真の天照太神の数(五)はこれまで隔り世を照らしていたが時至って中心に位置される ことになる。 >> 梟は夜を嫌い、  梟は黄泉(四三)の使者として登場してくる。  かれも夜(四)を嫌っている。 >> 野鼠は藁を敷かずに眠った。      野鼠(八祖)とは八の祖で八の開く時代の祖となる方である。   耶蘇とみるとキリストの登場となる。   それで「藁を敷かずに眠った。」   という厩で生まれたキリストを暗示させる表現をとっている。       加賀山弘氏の「秘密結社の記号学」(人文書院)によると  「キリスト教における数値の象徴主義者においては、八という数字はイエスの復活の 象徴としてきた。  それは八日にイエスが復活し、イエスの名前はギリシャ文字の数値変換では  十、八、二百、七十、四百、二百となり、その合計は八八八となるためであった」と ある。   『10Ι(イオタ)+8Η(エータ)+200Τ(タウ)+70Π(ピー)(パイ)+400Φ(フィー)(ファイ)+200Τ(タウ) =888』 上のようなギリシャ文字を使った式で表される。    ノアの方舟伝説において八人の人間が助かったことなどでも八を復活の象徴と考え た。    このようにキリスト教でも八は復活の数であると見られる。    しかし、「藁を敷かずに眠った。」の意味がまだ不明である。  なんのことやらわからない。       藁を四数(かず)に根六った。などと考えても届きそうで届かない。   こうなれば伝家の宝刀、逆読み法を試してみよう。      やそはわらをしかずにねむつた        YASOHAWARAOSIKAZUNINEMUTA   逆読みして「集め似ぬ咲き祖あらわほさい」となって近づいたようだが「ほさい」 がおかしいので   野鼠をノネズミと読んで       NONEZUMIHAWARAOSIKAZUNINEMUTAとする と、       集め似ぬ咲き祖あらわひむゼノン       あつめにぬさきそあらわひむゼノン       ゼノンは古代ギリシャの哲学者で「ゼノンの逆説」で有名である。       「飛ぶ矢は止まっている」とか「足の速いアキレスも亀に追いつけない」 と主張した。       これでも、意味がつかめない。どうもゼノンはこの預言に無関係のようで ある。              もうすこし煮詰めてみよう。いつも、ここらへんであきらめて惜しいとこ ろで逃げられる。             「あつめにぬさきそあらわひむせのん」を       『集め似ぬ先祖露秘む世音』としてみる。       こうみるとやっと姿が見えてきた。       世音は観世音でタテの日、       わかりやすく意訳すれば         「似てもいないわれわれの先祖をこれまで集めてきたが、秘められてきた本当の先 祖である   音(タテの日)は露にされる。」   やっと意味が通じた。 ここで始めの行の「片目の男」に戻って「男」の意味を考えよう。  「男」は田の回転をする力で伊奘諾尊にふさわしい。 伊奘諾尊は子産みのためにおひとりで回転をされたのだろう。  オトコと読めばそれが音子であることがわかる。  つまり、「音」タテ棒の日の子である。伊奘諾尊ご自身がタテの|を口に秘めた音で あった。  それがここまでにぼんやり見えてきたこの連の意図である。    これから第四連の中枢部に入るのだが長大になることが予想されるので  ここから先は項を改めて目先をを変えて解くことにしてひとまずここでこの項を閉じ よう。                最終章(その6おわり)     ♪♪音(SOUND) ♪♪ 04085/04086 KFQ02761 しまうま RE^10:炎で書いた物語」最終章(その6の4) (14) 96/06/08 16:40 04084へのコメント #04084 SOUNDさん  こんにちは〜(^^)。いつも興奮しながら読ませていただいています。  今回も、「片目の男」=「伊奘諾尊」という解釈に、思わずゾッとしてしま うくらいの(^^;切れ味の鋭さを感じてしまいました。  以前のARIONのメッセージにも「片目の男」が出てくる場面があったの で、ご参考までに掲載させていただきますm(__)m。 |604/999 MHD02502 ARION これから生きる者達へ |(11) 92/08/30 19:18 コメント数:8 (前略) |              *** | 緋色の女は、藍のローブを纏い、緑のおしろいを身体に塗り準備している。 | 黒鉛の嘆きは、人々の知らぬところで埋葬されるだろう。 | 目に見えるものだけを信じる人々が、大きな男に連れて行かれる。 | この男は、片目だけしか開けていないのだが、両目が開いているように見える。 (後略)  この92年のメッセージでも、やはり「*」の数で章分けされていましたが、 今回のメッセージでは、片目の男の登場する章が「***」から「****」 に変わっていますね。このあたりにも何か意味があるのかも……なんて思いま した。  92年のメッセージの「大きな男」が、やはり伊弉諾尊だとして、さらに、 本当は今「片目だけしか開けていな」くて、「両目が開いているように見え」 ているだけだとすると……どうなっちゃうんでしょうね(?_?)。  なんか、よくわかんないけど、こう考えるとまたゾクゾクッとしてしまいま した(^^;。  ではでは、今後のますますのご活躍を楽しみにしております(^^)/"。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/06/09 - 967/967 QZE14371 雲上仙人 して来なかった事、それは… (19) 96/06/09 12:47 TO:All Humane FROM:雲上仙人  夏が来ると言うのに、寒々として日々の中で、今朝は暖かい陽射しがあった。 目覚めの中で、ふっと思った事があった。つらつらと書いて見よう。  内に対する厳しさと外に対する優しさ  天使は3年もの時間を掛けて説諭教唆して来た、そして、待つにも限度 と言うものがある、と言いながら更にあと半年待ってくれた。  ターニングポイントはいままでに過去2回在った、気付きがあれば…、 だが、そのポイントを過ぎて本来の終点であった6月上旬がすぎた。  そう、遅いのだ、今までして来なかった事…それは今回もしなかった…。  自分に対する強烈な厳しさと、他人に対する限りない優しさ  他人に変わる事を期待するのではない、自分が変わるのだ。そのとおり。 だからこそ、自分に対する強烈な厳しさと、他人に対する限りない優しさを 持つ事なのだと、なぜ気が付かないの?  自分に対するが如きに他人に厳しく宣言する事なら、今までもして来たで しょうに、それでいけないんだよ、これからはね。わたしは去年の暮れから 半年掛けてそれを実践する努力をして来たの。あなた方にもそれをしてくれ とは言わない。けれど、早く気が付いて欲しいと熱望している。せめて8月 までには…、9月では遅いよ。  阪神大震災での人々が見せた他に類を見ない強烈な自制と他に対する思い やり。暴動をおこす事も無く、しんしんと時を待ったあの自制。あなた方は 関東にもあの再来を期待しているの? イザとならなければ気がつかないの?  馬鹿を馬鹿としか表現出来ない事を残念に思う。 雲上仙人