「うん?既に話はしたのかな?」と村長は凍え人と天使に問うた """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""" - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/06/27 - 01022/01022 QZY01310 苗(miao) 螢 ( 5) 96/06/26 23:12  あ、流れ星  ミ☆ …と思ったら螢の光。  今年もいつの間にか螢の季節…。螢は川に住むカワニナという貝の仲間が主食、  だから川が汚れればその時螢も消える。確かに昔…ずっとまだ自分が幼かった頃  には、本当に螢も集めて光の団子が出来ていた。螢雪で勉強したのが本当だった  と信じる事が出来た…そんなあの頃。出来ることなら光の団子をこの子供達にも  残してやりたい、そう思う。  ただ、カワニナが病原体宿主だと言って駆除されたのはいつからか、人間はいつ  もいつも自分勝手な理由で自然をただ壊すだけ。それでもかげろうと同じ様に成  虫の時間は、その命は果てしなく短く、その一瞬の命を燃やしては儚く消える…  それが自然の掟。手の中に飛び込んできた螢は、ほうっと光って、やがてまた深  い闇に消えた。  ほうほう。ほたるこい。こっちの水は甘いぞ。 *~゚ miao qigong * wushu taiji quan shixiong ゚~* QZY01310@niftyserve.or.jp - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 96/06/27 - 01420/01420 KFQ02761 しまうま 愛について◆愛と好色 ( 8) 96/06/27 02:25 01408へのコメント  朝日新聞の日曜版には、「俵万智と読む恋の歌100首」という欄がある。 恋愛を詠み上げた名歌を俵万智が思い入れたっぷりに解説する、という趣向の コーナーだ。僕はめったに読まないのだが、先週は取り上げられていた短歌に たまたま目が止まって、読んでみたらけっこう考えさせられた。   愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき  春日井 健  歌を平たく意訳すると、だいたいこんな感じだろうか。   かつて原始人たちは、「愛」なんて言葉も知らず、   本能の赴くままに抱き合っていた。   そして、それを「いやらしい」などと言うこともなく、   山河は彼らを見守っていた。  んーむ、確かにそうである。原始人どころじゃない。「百人一首」なんかを 読んでみても、「愛」なんて言葉は出てこない。人を想う歌はいくつもあるが、 どれも、ただひたすらに身悶えするほどの熱情を詠っているだけだ。修辞こそ 奥ゆかしいけれど、こんな言葉にせざるを得ない想いというのがどれほどのも のかと考えると、けっこう痛々しかったりもする。   逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり  「振り払っても振り払っても、どうしてもあなたのことを考えてしまいます」   君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな  「君のためなら命も惜しくないと思ったけど、死んだら君に会えないと思う   と、やっぱり長生きしたいもんだなあ」   あらざらむこの世のほかの思ひ出でにいまひとたびの逢ふこともがな  「とにもかくにももう一度君に会いたい」   今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな  「あなたのことを思うといてもたってもいられない。この気持ちを、あなた   に直接伝えたい」  ま、誤訳はあると思うが、だいたいこんなような意味だろう。どれも散文に してしまうと身も蓋もないほどセキララな想いだ。  この歌の作者たちは、現代で一般に使われている「愛」とかいう概念を知る 由もないし、ましてや「愛の最低条件はお互いの自立である」などと小難しい 定義付けを行うこともなかっただろう。  では、上代に生きた彼らは人を「愛する」ことを知らなかったのか?という と、そんなことはないと思う(……という議論を展開するには、まず「愛する」 とは何か?という定義付けをしくちゃならないんだろうけど、そこは強行突破 してしまおう)。  「愛」とは何か?「愛する」とはどういう行為か?ということを知らなけれ ば愛せない、なんてことはないと僕は思う。また、「愛」について深く知って いる人ほど人を愛せるかといえば、そんなこともないだろうと思う。  で、ハタと思ったりするのだ。  「愛」という概念って、ホントに必要なもんなんだろうか?  今の世相を見ていると「愛」という概念は、不倫の自己正当化や、自堕落な オツキアイの美化や、いわゆるニューエイジムーブメントにおける「楽観的な 気分」の助長や、異常性愛の一般化や、あるいは単なる気休め的言辞、そんな ような用途に使われている場合がほとんどであるように思える。なんかしらん けど、「愛」の弊害ばかりが目につくのだ(やっぱひねくれてるのかなあ)。  「愛」について語ったり、「愛する」ことについて語ったり、ロマンチック なムードの中で「愛してるよ」とささやきかけたりすることが悪いことだとは ぜんぜん思わない。でも、そういうことよりもっともっと大切なのは「愛する こと」そのものだと思う。  ごく月並みな言い方になってしまうけど、「愛」について100時間の講義 を勤めることのできる童貞の教授よりも、「愛などと言はず抱きあふ原人」の ほうが、愛を知っていると僕は思う。  もちろん、現代社会で、通りすがりの美女に「好きじゃああああ」と叫んで いきなり抱きついてもビンタくらうのが落ちだし、下手したら罪に問われてし まう。現代社会には、現代社会なりのマナーとルールがある。  でも、結局、山河に見守られながら相抱く原始人の心の底に流れる想いと、 「いまひとたびの逢ふこともがな」と詠んだ和泉式部の心情と、そして現代人 が人を愛する気持ちとは、おんなじものなんじゃないだろうか。  「愛」という誰からも否定されにくい言葉に、へんな定義をいっぱいくっつ けて、それを論拠にして「これもまた愛の為せる業なんだ」と言ってみたり、 「オレは愛に殉じているのだ」みたいな自己陶酔に浸ったりするのは、見てて みっともない。「抱きあふ原人」のほうが100万倍も美しいと思う。    しまうま(KFQ02761) - FARION MES(11):狼を生きる  ★ 平井和正の著作から 96/06/27 - 02287/02287 JBH00712 桂 桂 やがて来る者、そして去る者 (11) 96/06/25 23:26  「地球樹の女神」最終卷より  この卷の中で唯一印象に残っているシーンがあるとすれば、それはかつて 「ヒトラー」と呼ばれた男と会合するシーンだ。付け髭とかつらを取ったら 何も残らなかった男。それは歴史に対するアイロニーなのだろうか。あるい は、暴君であろうと意味が有ると言うことなのだろうか。残虐なる行為をもっ てしてもこの男の価値を一切歪めなかったものは一体何だったのだろう。  四騎忍は始終この男の影に怯えていた。  しかし、その影は本当はヒトラーでもネロでもなく、世界を破壊に導くも う一人の四騎忍自身だった。善と悪の対比と、かつて絶対的な悪と罵られた 男では比較するスケールが違うのかもしれない。  もしその行為が法律で悪と呼ばれる行為であっても貫徹できる意志という のは一体何なのだろう。  かたや有るものは限りなく深い愛情だった。純情だと言ってもいい。  最後になって彼らクリスタル・チャイルド達が「もう一つの別な地球」へ と跳び去ったのは、聖書にあるようなラプチャーと呼ばれることを指してい るのかもしれない。本来だったら、世界は凄惨な破壊を持って終わりを告げ ていたのが、新生された大地へと移り変わったのはこの世界でハルマゲドン が終わったのと意味が等しいのかもしれない。本来的には「善と悪」の二元 を象徴するものの対立は破壊と再生だ。それによって生まれ変わるものは、 二種を超えた全く異なるものの筈だった。  「地球樹の女神」のラストシーンは、書き換えられたシーンだと聞いた事 が有る。  世界が壊滅する真のハルマゲドンストーリィは、何時まにか次世代を担う 少年少女の再生のストーリィとして終わっていた。望外の結果であったのか もしれない。  世界は未だ終わらず、ハルケゲドンの終わりの鐘も鳴ってはいない。  「ボーイ・ミーツ・ガール」は始まりも終わりも同じ様に幕が閉じた。  次に少年が少女に出会うのは、長い時間が過ぎるのを待つ必要があったの だと思う。  次の新しい作品へ・・・・  さて、僕の我が儘な独り言風輪読会へお付き合い頂いてありがとう。  次の輪読会へ、新しい作品を気分も新たに読み続けたいと思います。  装いも新たに「ボヘミアンガラス・ストリート」に、可憐でか細い夢の ような詩人達の世界へ。  では次回からも宜しくお付き合い下さいませ(^^)/ 桂 桂(JBH00712) - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/06/27 - 04821/04825 GGA02514 KAZE 未来創造としてのカルマ (13) 96/06/25 15:26 04816へのコメント あとみさん、どうも。 》 私は、順番としてはシュタイナーを読んだ後で林竹二さんを読んだ 》のですが、二人とも大変私の支えになってます。いわゆる障害児(という 》言い方は大変気に入らないのですが、他の表現を知りません)や一般的教 》育の範疇からはみ出してしまう子ども達に対するスタンスが、同じように 》感じられたからです。 シュタイナーや林竹二さんに限らず、また教育ということに限らず、 人間の根底を見据え、その可能性を最大限に模索した方のあり方からは、 ほんとうに多くを学ぶことができますよね。 子供たちだけではなく、そうした視点から、ぼく自身、 感銘を受けただけでなく、まさに育てられたという感じが強くあります。 竹内敏晴さんは、林竹二さんの影響を深く受けた方ですが、 教育者というのではなく、「竹内演劇研究所」を主宰するなどした演出家であり、 そうしたなかで、演劇だけではなく、障害者教育やいわゆる落ちこぼれの教育を 演劇から学んだ「からだ」と「ことば」の発想から実践された方です。 この竹内敏晴さんの影響を深く受けた方に、教育者でもあり、 また最近「賢治の学校」という著書でも有名になった鳥山敏子さんがいます。 この鳥山敏子さんにも、小学校でのご自分の教育体験をベースとされた著書が たくさんあって、どれも数限りない気づきに満ちたすばらしいものです。 さて、竹内敏晴さんには、著書がいろいろありまして、どれもすごくいいですけど、 とりあえずは「ことばが劈(ひら)かれるとき」(ちくま文庫)がおすすめです。 この本について、最後にある真木悠介さんの解説からその要を得た紹介を。   人間は変わることができるか。   人間は、どこから変われるか。   これが、この本をつらぬく主題だ。   そしてこの本の魅力は、この問いを問いぬく仕方の、おどろくべき具体性に   ある。   自分が変わりたいと欲望するすべての人たち、自分にとって大切な他者を変   えたいと願うすべての人たちにとって、この本は必ず血肉となるようななに   かを与えつづけるだろう。   そして世界を、言葉の力によってでもなく、暴力の手によってでもないよう   な仕方で、解き放とうとするすべての人たちにとって、この本は必ずひとつ   の、目に見える道を劈いてみせるだろう。(P309)    》 私は私で背負ってる個人のカルマというか課題があると思います。でも 》私は人間がたった一人ではなく、人類として背負っているカルマが有るん 》じゃないかと思いました。戦争も貧困も末期医療も災害で被害が必要以 》上に広がるのも、障害が有るとかないとか、学校に行けるからとか行きたく 》ないからとかで、何で生活し易いかし難いかが、決まっちゃうのか、全部 》そこに生きている私たちに「乗り越えなさい」と突きつけられている課題 》の様に思えて仕方なかったです。 シュタイナーには「カルマ」に関する一連の講義集があって、 そのほとんどがすでにイザラ書房などから訳されていまして、 つい先頃も「宇宙のカルマ」(シュタイナー/カルマ論集成5/イザラ書房)が 訳出されたところです。 で、カルマはもちろん、個人のカルマという考え方がポピュラーですが、 それは個人レベルだけの問題ではなく、集団のカルマ、民族のカルマ、 地球のカルマ、宇宙のカルマなどなど、さまざまなレベルがあります。 すでにTAOさんがコメントをくださいましたが、 このカルマという問題は、過去に向けては深いところまで含めた自己認識、 未来にむけては、自らを、そして自分を超えた世界に至るまでの プラスのカルマ形成としてとらえていくことがどうしても必要です。 まさに、カルマは「愛」なんです。 そのカルマがあるがゆえに、人間は自由であり、 「愛」という原理によって互いに助け合うこともできますし、 ともに未来を創造していくこともできるわけです。 もちろん、個々によってできることは限られていますが、 プラスにせよマイナスにせよ、自らの形成してきたカルマをステップ台にし、 また他者のカルマまでも引き受け、ともに歩むこと。 そのことによって、個々それぞれに確実にできることはあります。 それは、みずからの直面した大きな課題から目をそらさないことによって、 そのことそのものが、大いなる創造そのものでもあるのだと思います。 それを人類のお手本として地球レベルでなした存在が あのイエス・キリストにほかなりません。 イエス・キリストの磔刑は、まさに未来への創造的なカルマ創造のための 大いなる犠牲でもあったように、ぼくはとらえています。 ですから、人間には人間なりのレベルでそうした課題はたくさんありますし、 人間を超えた存在にとっても、それなりの課題があるといえます。 視点をかえていうと、どれだけ大きな困難な課題を抱えられるかということが その存在の大きさを示しているともいえるのではないでしょうか。 そのことを思えば、目の前の困難が大きければ大きいほど、 「それを克服するに値するだけお前は期待されているのだ」 そう励まされていると思わなければならないのではないでしょうか。 そして、そういう視点からみれば、カルマという問題は、 もっと長いスパンでの進化の道程をも射程におく必要があるのがわかります。 そこらへんのことについては、シュタイナーのカルマ論でいえば 「カルマの開示」(イザラ書房または平河出版社)あたりを読まれれば、 幅広い視点が得られるものと思います。 また、もしよろしければ、そこに述べられているカルマの問題について、 ここでいろいろいっしょにお話することもいいかなと思います。   》 最近はFMISTYにもおじゃまして、こっそりと(^^;マヤカレンダーをみて 》居ます。細々と本も読み始めました。 FMISTYのマヤの暦の部屋は、あれはひとつの持続する意志の修行でもあります。 あれも、もう2年ほど続けているのですが、続けていくことで、 自分のなかに育成されていくものがあるようにも感じています。 これも、「いか超」に述べられている修行のひとつのバージョンでもあります(^^)。 西田幾多郎については、おいおい、シュタイナーとの関係で できるだけわかりやすくお話できるようにがんばりたいと思いますので、 気長におつきあいくださいm(__)m。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04824/04825 GGA02514 KAZE 風の本棚●シュタイナー・宇宙のカルマ (13) 96/06/27 14:42 ■ルドルフ・シュタイナー「宇宙のカルマ」(松浦賢訳/イザラ書房) イザラ書房から訳出されていたシュタイナーのカルマ論の最終巻が この「宇宙のカルマ」ということになります。 シュタイナーの最晩年に講義されたカルマ論はまだ数冊あるのですが、 なぜか途中で、訳者も西川隆範から松浦賢に変わり、 残念ながら全5巻になってしまいました^^;。 で、イザラ書房からでたシュタイナーの「カルマ論集成」は 1『いかにして前世を認識するか』 2『カルマの開示』 3『カルマの形成』 4『歴史のなかのカルマ的関連』 5『宇宙のカルマ』 という5巻が揃ったことになり、 ともあれ、シュタイナーのカルマについての捉え方が概観できるようになりました。 カルマについて関心のおありの方はぜひ参照していただきたいと思います。 「カルマ」といえば、ともすれば、否定的なイメージがありますが、 カルマをそういうふうにとらえてはならないということが理解できるからです。 さて、この5巻はほかの4巻と違って、訳者が変わったというのもあって、 訳文が、あえて意図した逐語訳になっているところが 少し読みにくいといえばいえますが、 こうした内容が日本語で読めるのはうれしいものです。 最後に、本書のなかからどこか引用させていただこうと思いましたが、 最近、仕事で葬儀についてのあれこれに関わっているというのもありますので、 カルマとは直接関係ないですが、それについての部分を引用しておきます。 ちなみに、ここに描かれているのは、シュタイナーの人智学の考え方から キリスト教を新しくとらえなおそうとしてうる「キリスト者共同体」での 葬儀に関してです。   みなさんが死者の祭儀として、つまりすでにみなさんの大部分が参列した火葬や   埋葬の式典の祭儀として目のあたりにしたものについて思い出していただくこと   にしましょう。(中略)   みなさんは、このような祭儀が行なわれるのを目のあたりにします。みなさんは   前の方の棺の前で、ある種の祭儀が執り行なわれるのを目にします。みなさんは   司祭によって祈りの言葉が語られるのを聴きます。(中略)   もしここに鏡があって、こちらになんらかの対象や存在があるとすると、みなさ   んは鏡の中に、鏡に映った像を見ることになります。このときみなさんは、「実   体を備えたもの」と「鏡像」という、二つのものを前にしているわけです。それ   と同じように、死者の祭儀が行なわれるときには、みなさんは二つのものと向き   合うことになります。棺の前で、司祭の手で執り行なわれる祭儀は、単なる鏡像   にすぎません。それはまさに鏡像であり、鏡像以外のものとして実在することは   不可能です。では、この場合、鏡は何を意味しているのでしょうか。遺体の前に   立ち祭儀を行なうことによって、司祭がここで行なっているもののもとになる像   は、それと隣り合わせになった超感覚的な世界に存在します。私たちがここで物   質体と、実際には依然として残っているエーテル体の前で地上の祭儀を執り行な   うとき、超感覚的な世界では天上の祭儀が別の側から、つまり存在の別の側にい   る霊的存在たちによって執り行なわれます。私たちが死者との別れの祭儀を執り   行ないながらここに立つのと同じように、超感覚的世界では死者の魂的なものと   霊的なものが、迎え入れるための祭儀とともに受け入れられるのです。このよう   な現実的な根源(超感覚的な世界で行なわれる祭儀)を持つときにのみ、私たち   が地上で執り行なう祭儀は真実のものとなります。(P238-239)    葬儀が単なる形式と化してしまって久しいものがありますが、 引導を渡す役目も葬儀を行なう者も、死者も、生者もすべてが、 儀式の本来の意味を認識し、それに基づいてそれを執り行なうようになればと そう願わずにはいられません。 儀式の意味云々とはいっても、ぼくとしては葬儀はしないつもりですが^^;。   ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04825/04825 GGA02514 KAZE 風の本棚●中矢伸一・日月神示二曰んの巻 (13) 96/06/27 14:42 ■中矢伸一「日月神示二曰んの巻」(KKロングセラーズ) 相も変わらず、日月神示の引用部分の素晴らしさと 中矢伸一氏文章のギャップがきわめてアンバランスな日月神示ものです^^;。 今回は、日月神示の内容とスウェーデンボルグの著作との近似性を述べながら、 その引用をベースに、それについての解説とかなり暴走気味の私見で つないでいるような内容となっています。 ちなみに、タイトルの「二曰ん」というのは「じしん」つまり、 「地震の巻」を主なテーマとしているということのようです。 今回特に注目に値するテーマは、 「善と悪」及び「霊界での音楽」「霊人の言葉」あたりです。 参考までに、それについて本書に引用されてある日月神示の箇所を 少しだけご紹介させていただきます。   善のみにては力として進展せず、無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様   である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと   為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故で   ある。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則   下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、この行為こ   そ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。   悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となることによって、   三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。こ   の境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。(地震の巻第九帖)      霊界における音楽もまた同様であって、愛を種とした音楽はO及びUを多分に   含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。   またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。すなわち愛を主とするも   のは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補   助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもって   いる如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、   正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。(地震の巻第十一帖)    日月神示を紹介いただけるのはとても参考になるのですが、 どうも中矢氏の要らぬフィルターがあるので困ってしまいます。 どうせなら、テーマごとに、引用だけのものをつくってくださればいいのに、 とさえ思ってしまいます。 善と悪のテーマにしても、中矢氏は、日月神示独特のものであり、 「過去のあらゆる宗教家や思想・哲学者たちの考え方を根底から改めさせるもの」 だということをいうわけなのですが、ここらへんにも、中矢氏の勉強不足や 排他的な姿勢が明らかに現われているようにも思うのです。 「知らない」だけなのに「あらゆる・・・」と言い切ってしまうんですから^^;。 ちなみに、善悪については、悪の効用論はアウグスティヌスにさえありますし、 ライプニッツは「悪は善への不可欠の条件」であるとしていたり、 シェリングはそれをふまえながら善と悪との同一性、相即などを説いていたりします。 また、天台宗では、それと同じく「善悪相即」「善悪不二」が説かれてもいます。 「悪は是れ善の資なり。悪なければ亦善もなし」といように。 もちろん、シュタイナーの善と悪の考え方は、ほとんど日月神示のそうした考えを 霊学的に詳細に展開したものであるといえるでしょうし、 そもそも善悪二元論にみなされがちなゾロアスター教やマニ教にしても、 それをちゃんと理解すれば、そうした考え方と近しいことは一目瞭然です。 中矢氏の気概は理解できるのですが、その暴走気味の無知には少しばかり疲れます^^;。 その「食」についての理解も、みずからの「理想」の部分と、 それにたいするもっと深い理解の欠如とが絡まって、いやはやという感じです。 せっかくの中矢氏の気概も、上滑りになってしまいがちですから、困ったものです。 それに、おそらく中矢氏の日月ものの著作で得る収入という観点でいえば、 おそらく日月神示でもっとも儲けている方ということになるでしょうから、 そこらへんのことを考えれば、もっと勉強してもらいたいなと思います。 もちろん、その著作によって得る収入を拒否されているのだとしたら、 その点に関しては、ぼくの誤解にすぎないわけですけど^^;。 ともあれ、スウェーデンボルグをふくめ、 引用部分の素晴らしさはなかなかの一冊でした。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/06/27 - 04136/04136 KFQ02761 しまうま RE^11:炎で書いた物語」最終章(その6の4) (14) 96/06/27 00:12 04134へのコメント #04134 SOUNDさん  こんにちは〜(^^)。いつもワクワクしながら読ませていただいてます。 |蛇神であり、太陽神であり海を照らす神でもあることから |「ヘルメスの杖」に巻き付く再生の象徴の蛇が大物主であると考えると |やはり、蓮華の花は大物主(饒速日尊)=真の天照太神の再生によって開くのであろ |う。  うーむ、実は最近「蛇信仰」にちょっと興味を抱いているところなので、 SOUNDさんのこの展開、とっても関心があります。  調べてみると、南米のほうのマヤ・アステカ文明にも古くから「蛇信仰」が あったみたいです。過去ログを見直してみると、ARIONは、 |神道とは日本に現存するユニークな宗教だ。 |ヘブライの神とは関連しない。 |作法やシンボルに共通点があるということだったら、北米インディアン、 |南米インディオ達の宗教とも大いに共通点がある。  という風にも言っているので、案外アマ族の「蛇信仰」と、南米の「蛇信仰」 の間に何か関連があるのかも……なんて思っています。  また何か気付いたことがあったら、ご報告させていただきますね(^^)。   しまうま(KFQ02761) - FARION MES(15):マホロバ誕生 ★ 大和魂復活のために 96/06/27 - 00687/00688 KHC01313 まるにちょん RE:自分の心の中に巣くう敵 (15) 96/06/26 12:38 00682へのコメント  #682 維/YUI さん どうもです。  大変RESが遅れてごめんなさい。m(__)m 維/YUIさんのRESを読んで全体的に感じたことは、自分の心の中に巣く う敵って言うのは、「自分が可愛い」、「自分を守りたい」ことからくる、自分 で勝手に作っているものなんだなぁと思いました。  これって僕自身に当てはまりすぎてしまって、しばらくRESできませんでし た。(^^; >> 早速ですが、前回書いた(00678で)「自分の心の中に巣くう敵」というのは、 >> 人が、国家が、人類が、心の中で作り上げている、現実にいる…とは限らない” >> 敵>> ”のことです。(改行編集)  自己愛が全く悪いとは言えないと思いますが、度を超すと、誰かが自分を傷付け ようとしているんじゃないかって、ちょっとした事にも疑心暗鬼に罹ってしまう事 って、僕自身よくあります。 >> 自分の中にある「こんな意見を書いたら、読んでいる人から反発をうけるだろう」 >> と危惧する気持ちが、心の防御策として先手を打って、ちょっとでも意見の違う人 >> の書き込みを「ほらきた」とばかりに、反発をした相手として当てはめて考えると >> か。(編集改行)  ううむ、僕はこれにすぐにはまります。  自分の発言に対する突っ込みが恐いです。  突っ込みでさえないことに、過敏に反応してしまうことがあります。  これは、自分が可愛いからで、自分を守ろうとするあまりに、会話が続けられな くなってしまいます。  でも、考えて見たんですが、自分の何をそんなに守りたいんだろうって。  思いつくままに書くと、自尊心、自分を認めて欲しい気持ち、誰もがさすがと認 める文章を書きたい気持ち(だから突っ込みは嫌だ)、矜持…。  これって、自分自身で描いた自分像を守りたいだけなんです。  本当の自分は何かは分かってないんですね。  僕は、自分で描いた自分像を守るのが好きなんだと思います。  でも、その自分像は虚構かも知れない。  そういう自己を理想化した自分像でありたいとを認めながらも、じゃあそういう ものを突破らったらどうかなと思い始めています。   >> そういうのじゃない「自分のなかの敵」としては、怠けてはいけないところで、 >> 「怠けよう」とささやく自分自身、反対に休まなければならないところで、「さ >> あ、せっかくだからこれだけは終わらせよう」といって休ませない自分自身、と >> いったのも考えられますが。 「怠け」は僕の好きなことの一つです。 だらだらするのが結構好きなんです。 もう一つやっかいなのが、「怠け」ている自分を認めたくないってことです。 だらだらしててはイケナイ、これじゃだめだと思いながらもだらだら時間を過ごし てしまう。RESの遅れる原因の一つも「怠け」があります。  自分のしたいことがなんなのかが分らないから、「怠け」てしまうのかも知れま せん。 がんばらなくてはいけないときに、怠けたいという自己の都合を優先してしまう と、結局自信を失っていく事になります。  僕の課題は、「怠け」を手懐けられるほどの、「自分がしたいこと」を見つける ことだと思います。    では、また。                     まるにちょん、○ゝ