- FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/07/05 - 01033/01037 CXK03125 月影 美味い水。しかし・・・・ ( 5) 96/07/04 15:09   うーむ、水が美味しい^^ 塩素やらなんやらが無いと、こんなに違うもんだろうか・・・・ 心なしか、ご飯もお茶も、全て美味しくなった気がする。 さすがに10万しただけあるか。   というわけで・・ とうとうわが家にも本格的な浄水機が納入されたのです。   だけど、本当にそんなに高いものなんだろうか??   他の会社と違うのは、紫外線ランプが常時、殺菌をするところだと書いて   いたが、それはここだけの専売特許なんだろうか・・・・   今日、追加で、シャンプーも届いた。ところが、シャンプーしか頼んでな   いのに、どでかい箱に入ってて、中には紙の丸めたのがゴッソリ入ってて   その隙間に、シャンプーリンスが一本づつ・・・・、 んー、この箱のデカさの意味って何??(^^;(^^;   そして今回も、浄水機が来た時同様、岩手に配送されて、回り道してよう   やく家に届いたり・・・・。   あー、考えてみたら、以前、頼んだ、鍋セットというのが、把手のネジが   外れて、グラグラだったりしたこともあったなー   ここの良いところは、最良の商品に、自分の良いと思った物を他人に勧め   ることで、皆が幸せになるシステムにある。と、父は言っていた。   けれど、なんか好きになれないんだよな。   パンフレット見せて貰ったけど、会員の方々の、いかにも悩みのなさそう   な明るいニコニコ顔が、自分の見た宗教団体の受付のお兄さん お姉さん   そっくりなんだもの。 そしてまた、みんな似たような雰囲気と、表情をしているのもちょっと怖   かった(あくまで主観) 今回の浄水機は、結構いい感じだけど、それ以外は、日本の企業製品と、   それほど違いあるかなぁ(__; セールスポイントが、解釈や見方次第で変   わる程度の物しかないような気がしてならないんだけども・・・・   そういう既成概念で見るから、そう見えるのだろうか??   ま、父も、商品を買う以外は、ほとんど活動してないみたいだから、あま   り問題はないか(^_^; しかし、じょじょに、同じロゴマークの入った商品   に占拠されて行くわが家が恐い(^^;                                  月影 - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/07/05 - 07929/07929 GBG02043 維/YUI 定まるとは ( 7) 96/07/05 09:06 07921へのコメント こんにちわ、ノロガメさん。 信念、あります。 言葉にするとまどろっこしいのだけれど。 >>生き方を定めるとは、芸術家や役者がその道一本に生き方を定めると言うようなこ >>とでもあります。 そういう意味で使っているんですね、「定める」を。  なんというか、「肝がすわった」というようなことでしょうか? ならば、分かります。 私が承伏できないと思う「定める」は、生きていく間にその人が得た経験で、 総ての物事を測ってしまい、「いいや、自分はこれでいいんだ」と自分に 暗示をかけるがごとくに、他からの意見や実際に起きる事ごとに対して閉じて しまうような生き方です。 そんなの、つまんないと思います。 人生、今は何年ぐらいなのか知りませんが、たとえ100歳まで生きたとしても、 その中で知りうることってたいした数ではないと思います。 だとしたら、 生きている限り「これでいいんだ」なんて閉じこもらずに、いろんなことを 吸収したいです。それが、なんの役に立つ?どうせ死んでしまうのに…なんて 言う人も世の中にはいるかもしれませんが、そんな無粋なことを考えてたら、 生きていけないです。 さて、責任とルールですが。 私は、実質的・物理的問題がなければ「無責任」でもかまわない…とは、 ”まるっきり”思っていません。自分が無責任にしているつもりでも、責任は ついてまわっているものだと思います。 この場にもルールがあるということは、以前にも何度か書き込みされていますし、 はじめてここのフォーラムにきた人などがちゃんとわかるように、ルールが 会議室とかとは別に載っています。 ノロガメさんが言いたいのは、そのルールがこの場に適していないということなので しょうか? だから、「この場に適したルールを新たに構築する必要を感じる」との ことなのですか? それから… 問題が生じた時に、お互いが納得いくまで話し合う機会が、ここのフォーラムには てんこ盛りに与えられているように思うのですが…。 フォーラムによっては、 すぐに発言削除、退会なんていうところもあると、ウワサで聞いているので。そんな のでは、「とことん、話し合う」こともできないでしょう?  維/YUI - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/07/05 - 905/907 CQE07040 ISE RE:大山祗命と素戔鳴命 ( 9) 96/07/04 23:32 902へのコメント コメント数:1 いや−びっくりしました TAOさんが九鬼家と血の繋がりがあるとは。 多分 ご存知だと思いますが、九鬼家と大本教の関係をひとつ。 大本教と九鬼文書のかかわりあい。これはアカデミックな現代宗教史では まったく無視されており、教団自体もそれを公にすることをさけているの だろうか。戦後出された上下約二二〇〇ペ−ジにも及ぶ「大本七十年史に も、その両者のかかわりあいを示唆するような記事は一行も出てこない。 にもかかわらず、当初、出口ナオの信者組織の要となったのが、旧綾部藩 (九鬼藩)の家臣団であったことは、まぎれもない事実なのだ。 −中略− 事実、彼女は出口家没落にはじまる一家を襲った災厄のたびごとに九鬼家 の邸内の本興稲荷に参籠していたという。彼女は、一家や自分にかぎりな くふりかかってくる凶運を九鬼家の邸内の本興稲荷の功徳によって、はら いのけてもらいたかったわけである。そして、ある夜、彼女は九鬼家(九 鬼文書)の伝承に秘められていた神−宇志採羅根真(艮ノ金神)の啓示を うけた。 その啓示ははじめはナオの口からことばとなって現れたが、やがてお筆先 となった。そうした因縁があったため、「大本神論」の冒頭には「九鬼大 隈守と申すは云々」とあった。ただし、現在公刊されている大本文献には には見えない。 −中略− これらの事実が物語ることは、九鬼家(九鬼文書)と大本教との因縁であ り、九鬼文書と大本の教義を読めば読むほど、両者の関係の深さに驚嘆せ ざるをえなくなる。 だが、戦前の二度にわたる弾圧は、両者の関係を表面化することを困難に した。大本教側では、九鬼家に迷惑を及ぼさぬよう配慮したのであろう。 また九鬼家も、大本弾圧が治安維持法だけでなく不敬罪を適用されたこと について頭をかかえたかもしれない。なにせ戦前では、華族は皇室の藩屏 とされていたのだから。 ( 謎の九鬼文書 佐治芳彦 徳間書店)より また古史古伝の問題ですが、一番後世の改竄をうけているのが竹内文書で しょうね、戦前保管者の竹内巨麿が裁判の証拠資料として没収された竹内 文書と、巨麿の嗣子、義宮氏が編集した「神代の万国史」でも内容が違い ます。「神代の万国史」にあるアトランティスの話などは「竹内文書」に はありません。 ただ、後世に改竄をうけてしまう古史古伝ですが「古事記、日本書紀」に 書かれない情報を拾っていくことはできますので、完全に無視、という立 場はとりません。 ちなみに私の父方の祖先は富山の薬売り、母方は群馬の百姓です。 ではまた。 ISE 907/907 MHD02672 TAO 出雲から熊野へ ( 9) 96/07/05 01:51 905へのコメント  #905 ISE さん   どうも。私も自分と九鬼家との繋がりに気付いたのは、このフォーラムに  入ってからでしたが、その以前から大本教に興味を抱いていたので、面白い  符号だと思ったものです。   『謎の九鬼文書』よりの引用、どうも有り難うございました。私も同書で、  九鬼家と大本教の関係について知った者です。九鬼家は、熊野本宮の宮司を  代々世襲していますが、熊野という場所も妙に気を引かれる所ですね。かの  玉置山や那智の滝にも数度足を運び、今なお郷愁を感じさせられています。   出雲と熊野の関係ですが、出雲には「熊野大社」がありますし、また出雲  と熊野には似通った地名が多いのですね。熊野、美保、粟島、日御碕、出雲  郷…。それより、出雲と熊野には同じ一族が一方から一方へ移動して、両地  域に同様な文化を築いたという説もある様です。出雲と熊野の関係について  は、もっと考察が為されるべきでは無いかと感じています。   古史古伝書については、後世における改竄・加筆部分を除いた箇所より『  記紀』に無い史実を拾い上げられるというのは、私も同じ考えです。特に偽  書とされるうちで『先代旧事本紀』は、アカデミズムの一部でも注目されて  いて、鳥越憲三郎氏等はその著書でかなり参照しているぐらいです。   官製史書とされる『記紀』も第一級の史的文献には違いありませんが、当  時の執筆者らの意図によって歪められたり隠匿された史実がその影に潜んで  いるのは言うまでも無いことですね。歴史の真実の姿に可能な限り迫って行  くこと。日本史ではそれが最も可能になって来ているのが「現在」では無い  かと思います。   それでは今後もどうぞ宜しく〜。  TAO - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/07/05 - 04848/04850 GGA02514 KAZE シュタイナー「いか超」から学ぶ●6 (13) 96/07/04 18:03 04830へのコメント ●R.シュタイナー 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)  読書会・第6回/「内的平静」(P32-44)その2   神秘学徒は毎日、わずかな時間でもよいから、日々の仕事とはまったく異なる   事柄のために費やす時間を確保しなければならない。とはいえ、時を費やす仕   方もまた、日常の他の場合とはまったく異なっていなければならない。とはい   え、この特別の時間が対象とすべき事柄と日々の仕事の間にまったくなんの関   係もないかのように考えるべきではない。反対である。正しい仕方でこの特別   の時間を費やす人は、やがてこの時間の中から、日々の課題のための充実した   力が受け取れることに気づくであろう。この規則を遵守しようとすれば義務を   果たすべき時間が奪われるのではないか、と考える必要もない。もしこの規則   のために費やすべき時間が本当にもてないというのなら、毎日五分間だけで十   分である。むしろどのようにこの五分間を使用するかが大事なのである。(P34) 「修行」というと、滝に打たれるとか、只管打坐だとかいう すごく難しいことを想像しがちだし、また、どこかに隠らないとできないとか、 かなりまとまった時間を確保しないとできないとか思いがちですが、 そうではなく、「毎日五分間だけで十分」だというのですから、 「やる気がない」か「やる気があるか」という意志の力が重要になります。 しかも、特定の場所が必要ということでもないのですから、 「できない」とかいう言い訳はできないのが辛いところです^^;。 わずかな時間でもいいとはいっても、それを続けるのは、 非常にむずかしいんですよね。 ですから、とにかく、これはできるだけやってみる以外にありません。 しかし、五分間とはいっても、日常にすごす時間と同じ質の時間であってはならず 別の時間の流れをつくらないといけないというのは非常に重要なところです。 時間というのは、「意識」そのもののことでもありますから、 その意識のあり方を、その間はまったく切り替える必要があります。   この時間の中で、人は完全に自己を日常生活から隔離する。思考と感情のいと   なみは日常の時間における場合とは異なる色合いをもたねばならない。喜び、   悲しみ、心配ごと、更にはさまざまの経験、行動をも、人は自分の魂の舞台に   登場させねばならない。そして自分が体験する一切をより客観的な視点から見   るように、心がけねばならない。(中略)   さて、日常生活から隔離された瞬間に人が努力すべき事柄は、自分の経験や行   動を、自分のではなく他人の経験や行動であるかのように見なす、ということ   である。(P34-35) 日常的な意識では、自分の思考・感情・意志はまさに自分のそれであって、 さまざまなことを自分なりに考え、感じ、行動しています。 そして、喜んだり苦しんだり悲しんだり怒ったりします。 つまり、そうした意識のあり方について、日常生活の中では 反省的であることが少ないというわけです。 しかし、一日の特定の時間だけは、そうした自らの日常的な意識に対して、 それをいわば客観視できるだけの意識を用意する必要があります。 たとえば、その日一日の自らの思ったこと感じたこと行なったことを 別の人のビデオテープを見ているかのように見なければならないということです。 もちろん、音声と映像だけではなく、その心の部分の記録をも、 ただただ坦々と観察する立場に自らを置くわけです。 よくあるやり方では、自分の一日を、逆行させたビデオテープのように 短時間で辿るというのがあって、慣れてくれば比較的簡単ですので、 まだされたことのない方はぜひ試してみてください。 もちろん、他人のそれではありませんから、他人のように見ようとしても、 そこに喜怒哀楽が入り込んできて、それに溺れがちになるわけですが、 そこを踏みとどまって、ただただそれを見る訓練を続けます。 これはまさに「内的平静」を育てるための行ですから、 ひとつの事柄ごとに「もし、あの人が私のことをこう思ってたらどうしよう」とか 「ああ、あの仕事、ちゃんと進んでくれればいいが」とかいうように 立ち止まっていては、平静でいられないのはもちろんです^^;。 ですから、共感的なこと、またその反対に反感を催すことであっても、 そうした共感−反感ということから意識を自由にさせなければ、 いつまでたっても「内的平静」に近づくことはできません。      神秘学徒は特定の時間の中だけでも、自分自身を他人であるかのように見なし   うる能力を身につけなければならない。批評家の冷静さをもって、自分自身を   観察しなければならない。これが可能になれば、自分の体験内容が新しい照明   の下に現われてくる。体験内容にとらわれ、その中に留まっている限り、人は   非本質的なものにも本質的なものと同じように係わり合っている。内的平静を   もって達観するとき、本質的なものが非本質的なものから区別される。苦悩も   悦楽も、どんな思考内容もどんな決断も、このような態度で自己に接する場合、   別の現われ方をする。(P35) チェスや将棋をやっていても、自分がやっているときはわからなくても、 人がやってると先がよく見えるという経験はないでしょうか。 仕事でも、渦中にいるとわけわからなくなったりしますが、 渦中にいる人を側でみてると、その人のことやその解決策などが 見えることもよくあることだと思います。 ですから、そうした渦中にある自分を、自分の意識ではなく、 外から平静に見ることのできるような意識で見ることで、 自分自身の本質的な部分と非本質的な部分を ちゃんと分けてみられるように方向づけることができるということです。 一日のうちのほんのわずかな時間でも、そうした訓練をしていくことで、 日常的な状態にあっても、そうした意識でいることのできることは 確実に増えてきます。 つまり、自分の感情に溺れたり、怒りのあまり我を忘れたりといった類のことが 確実に減って、今自分がどういう状況にいるのか、 また自分をどう方向づけるのが望ましいのかを、 冷静に判断でき、そのうえでの行動が可能になります。 それはまさに「自分を観る」ということに他なりません。      事実、すべての人間はその(いわば)日常の人間の他に、高次の人間をもその   内部に担っている。高次の人間は目覚まされるまではいくらでも隠れたままで   いる。この高次の人間を目覚めさせるには、各人が自分の力に頼るしかない。   超感覚的認識へ導くところの、各人の中に微睡んでいるあの高次の能力もまた、   高次の人間が目覚めぬ限りは、隠れたままの状態を続ける。(P354-36)    「高次の人間」というのは、放って置いても目覚めることはありません。 自分の思考をきちんと訓練し、感情を矯めて制御できるようにし、 必要なときにただしく行動できるようにみずからを導くこと。 そのことによって、みずからの通常の思考・感情・意志に左右されている 低次の人間から、そうしたものを使いこなすことのできる高次の人間へと みずからを高めていくこと、そのための入り口が「内的平静」を獲得するための 日々の持続的な訓練だというわけです。    ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04850/04850 GGA02514 KAZE 自分の足で立つ勇気 (13) 96/07/05 10:13 04846へのコメント あとみさん、どうも。 》 「独立性」って、大事だと思います。誰や、どんな本を「師」にするにせよ、 》立つのは自分の足なんだと言う自覚がなければ、どんな教えでも消化して 》自分の血肉にすることは出来ないと思います。だから逆に自らが選び取る 》と言う「決意」が有れば、どんなことからでも学べるのではないかと思いま 》す。 おっしゃるように、どんなことからでも学べるということができるためには、 まずは自分の足で立つという勇気が必要です。 依存心や甘えは、自分の足で立たなくても済むようにしたいということですから そこから何かを得ようとしても、すべてが、ドラッグのように、 結果的にはみずからを蝕んでしまうだけなんだということを 知らなければならないのだと思います。 最近、「癒し」や「ヒーリング」というのが流行ってますけど、 そうしたことも、依存心や甘えの発想で安易に飛びついてしまうと、 そのことそのものがドラッグと同じことになってしまいます。 もちろん、人にはそれぞれ、心身ともに何らかのトラウマや拘りがあって、 それを自己認識するための方法としては必要なことでもあるのですが、 それはあくまで自らを癒すことで勇気を育てるということでなければ 結局は自分の足で立たないことの言い訳づくりでしかなくなくなるわけです。 》 当たり前のことですが、「師」も独立しているはずですよね。弟子も師も 》お互いが個人的な見返りを求めている関係はちょっと嘘臭い。 そういえば、禅の師が畑仕事をしていたら、 弟子に、師のすることじゃないといわれたのを受けて、 それからその師は「働かない者は食っちゃいけない」ということで 食事をとらなくなってしまったので、弟子があわてて、 畑仕事を再開してもらった・・・っていうような話があったように思いますが、 (記憶が半分あやしいかもしれないけど^^;) 師は弟子に雑用をやらせ、自分は高尚なことをする、とかいうのも、 ひとつの需要−供給関係になりますよね。 もちろん、師でしかできないことは確実にありますから、 それを優先するのは当然だとしても、だからといって、 そこで師がそれと関係のないところで特権をもつのはおかしいです。 座布団を何枚も敷いた上に座って、弟子を前にして、 自分の権威をひけらかすような、そんなバカは、師である資格はないわけです。 》サイババに帰依している人達の中にはもう「盲信!!」て言う人も多いみたいで、 》サイババ自身がどういう人であれ、そういう周りの人達はなんだかなぁ、と思い 》ます。 サイババのあのエネルギーや説いてることのほとんどは素晴らしいですし、 サイババはわけのわからない教徒とは一線を画しているのは確かです。 しかし、サイババがやってる物質化現象というのは、 現代のような唯物論信仰のような時代へのインパクトとしては 有効なものがあるのだと思うのですが、 ああしたパフォーマンスによって触発されるのは、 どうしても一種の超能力信仰に近いものになってしまいます。 サイババの説いている内容がいかに素晴らしくても、 ああいう方法論は、「盲信」を否応なく肯定してしまうのではないでしょうか。 それと、やはり、現在は、すでに世界各地から「サイババ詣で」がされていて、 「女性の役割」ということに関しても、もっと現代人に説得力のあることを 説く責任があるのだと思います。 人間は、男−女である以前に、「個」としての人間であり、 その個性差に言及しないままに性差を絶対化するような話は、 そのほかのサイババの話にくらべて、あまりに稚拙であることは否めません。 そうそう、そこらへんは、日本の「実践倫理」や「生長の家」、 それから「幸福の科学」あたりと言ってることが似たり寄ったりなので、 なんだか、そうしたあたりに共通点を見てしまうのはぼくだけじゃないと思います。 だからといって、過激なまでのフェミニズムなどは行き過ぎですし、 最近は、性差をあまりに無視しすぎる傾向もありますから、 その反動というのもあるのでしょうが、 やはり、性差もふくめた個々の特性をそれぞれがきちんと見据えながら、 外からの形のおしつけではなく、内から自ずと形成されるあり方を 重要視していかなければならないのだと思うのです。 》                 毎日続けていくことの大変さをつくづく 》思い知っています。私は忍耐力がなくて、要するに「熱しやすく冷めやすい」 》性格なのです。最初は凄く一生懸命がんばるのですけど、有る程度のところで 》飽きちゃうと言うか・・。結局それでは何一つ本物は身に付かないんですよねぇ。 ぼくも、忍耐力や持続力がまったくありませんでした(いまも、かなりです^^;)。 でもって、何にも身に付かないまま歳だけ重ねてしまいました。 しかもぼくの場合、「最初は凄く一生懸命がんばる」というのさえなくて、 無気力のまま、半ば厭世的になって「そんなことしたって意味ないね」的に やってきましたから、それではいけない!と回心して、 やっと最近になって、忍耐力や持続力の訓練を心がけるようになりました。 まだまだ、自分に忍耐力や持続力を言い聞かせないといけなくて それが自分に身についているとはいえない状態ですけどね^^;。 》 毎日の暮らしの中で私が気を付けているのは自分の感情を反芻するように 》努めてます。牛さんが何度も噛み噛みするように、(^^;)自分の、特に「むっ」 》や「いらっ」としたときの気持をその場ですぐ「あれ?この気持の出所は?」 》と噛み噛み・・。これはその場ですぐ出来ます。 それ、ぼくとまったく同じです(^^)。 シュタイナーは、現代人は、アストラル体を自我で貫くことで霊我を形成することを 課題にしているというようなことを言っているようですが、 それはまさに、自分の感情を制御していくために、 できるだけ意識をリフレクションしていくことなのだと思います。 仏教的にいえば、「八正道」ということになりますが、その内容は形をかえて、 「いか超」にも取り入れられているようです。 》私は論理的な説明は苦手で(^^;)、何でも感覚的にとってしまいがちなのですが、 》感覚で受け取っていたものに一番近い言葉を捜し、相手になるべく 》分かりやすいように書く(あまり成功してないですが・・・)と言うのが、 》非常に訓練に成ります。 ぼくもパソ通をはじめるまえまでは、 こうして自分の考えを文章表現することなどはまずありませんでした。 でもって、パソ通をはじめるにあたり、それを「文章のお稽古」だと考え、 できるだけ毎日、少しずつでもその「お稽古」を続けるようにしました。 そして、そのことで、少しずつではありますが、 自分のそのつどの考えをまとめることができるようになってきたわけです。 これがパソ通をはじめて5年間の一番の成果のように思います。 まさに、これは、「内的平静」の修行そのものでもあるわけで、 実際、こうして続けた結果、成果は確実にあったように思います。 もちろん、それは入り口の入り口でしかないのですけどね。 では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04849/04850 GGA02514 KAZE 風の本棚●一語の辞典「個人」 (13) 96/07/04 21:12 ■作田啓一「個人/一語の辞典」(三省堂) 三省堂から「一語の辞典」というのが刊行されています。 これまで刊行されたのは、「こころ」「文化」「技術」「性」「小説」「気」 「家」「天」「人権」で、それに続いて刊行されたのが今回の「個人」です。 「個人」というのは、individualの訳語として明治17年になって、 ようやく今のような感じで使われ始めたということで、 このように明治以降西欧からはじめて輸入された言葉に、 society、つまり「社会」があります。 そのそも、日本には「世間」という言葉はあっても、 「社会」に対応する言葉はありませんでした。 そうした日本特有の「世間」については、 阿部謹也さんの「世間とは何か」(講談社現代新書)というのがでてまして、 日本特有のそうした在り方について興味深い内容が展開されています。 さて、「個人」ですが、日本には「個人主義」が根づかないとはよくいわれますが それが何故なのか、その「個人主義」とは一体何なのか、 またそもそも「個人」とは何なのかについて、西欧の歴史を辿り、 同時に日本でそれに類似した在り方の歴史を辿りながら、 本書では極めて興味深い議論が展開されていきます。 もちろん、「個人」という在り方は「自我」の在り方と深い関係をもちますので、 日本人について考える際には、そこらへんの視点は欠かせないところです。 さて、少し引用紹介しておくことにします。   個体の統一性に立脚する個人主義への懐疑が西欧に広がったのに対応し、日本   では一九六〇年代後半以降の経済のいちじるしい成長を契機として、日本見直   し論が台頭してきた。その論調の一つに、自己中心的な西欧文化はイギリス病   やフランス病をもたらしたが、思いやりと察しの日本文化は繁栄と安定を導い   たのだから、日本人は西欧の個人主義をもはや模倣する必要はない、という論   がある。この論は集団やその長への成員の献身ではなく、成員相互の間柄の尊   重を、日本人の重要な特性であると主張しているので、論者はみずからの立場   を集団主義ではなく間柄主義あるいは関係主義であると規定する。我々には間   柄主義は集団主義(ホーリズム)の一側面であるにすぎないと思われるが、そ   の点についてここで議論する必要はない。問題は、この間柄という概念である。   それはもちろん、諸個人間の単なる結合ではなく、諸個人を越え、彼らを規制   する、そして彼らが分有する場のようなものと考えられている。しかし、間柄   は我々が定義したような世俗外個人と超越的存在との関係ではない。それゆえ、   間柄に属しているのは世俗外個人=超個人ではなく、没個人とでも名づけられ   るようなものである。超個人と没個人との違いは、いくら強調しても強調しす   ぎることはない。(P106-107)    日本における「世間」というのは、人と人との関係の集団的な様態でもあり、 そこに「世間様が許さない」というような表現が生まれたりもします。 それに対して、契約宗教であるキリスト教などでは、 人はそうした人と人との集団的な在り方を越えて、 「個」が直接、神と向き合うようなありかたを可能にしてきました。 日本には、そうした超越的なものとの関係での「個」という考えは育たず、 どうしても集団ベースの没個人的な在り方に方向づけられてきています。 そうした在り方が「自我」の在り方にも深く関係していきているわけです。    ともかく、「個」「個人」ということを考えていく場合の、 基本的な観点が包括されているように思える本書は、 「日本人」を考えていくうえでも、 恰好のガイドブックにもなるのではないかと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/07/05 - 04166/04170 HQK00566 SOUND RE^12:炎で書いた物語」最終章(その7の4) (14) 96/07/04 16:51 04140へのコメント コメント数:1 「炎で書いた物語」最終章(その7の4)  <わかりあえる日まで>(その4)     今回から「かごめ唄」コースに入ろうとしたが、入り口があまりにも多すぎて迷っ てしまう。  とりあえず、近くの入り口から飛び込もう。  どうせ中は籠の目のように入り組んで簡単には出られそうもないだろうから…。             >>十字の真下に穴があった。  >>緋色の紐が投げ入れられたが、 >>それは飢えた者に盗まれた。 >>大きな十字と小さな十字が重なる時 >>緋色の鳥は飛び立ち >>海獣は吠えるだろう  これまでみてきた上の三行とCHARANさんが転載してくださった、  92年以前とみられる預言の中から緋色関連で維/YUIさんが目を付けられた、  下の三行には明らかな共通性が感ぜられる。  並べて比べるとよくわかるように文の仕組みが同じである。 時間的にみれば下の文が雛形になって上の預言が発せられたものと思われる。 重大な事件をこの形式で語って世の人に気づきを与えようとしているようである。    「緋色の鳥」はフランスが核実験に使用した超核兵器級97-98%のプルトニウム239を 生成する 高速増殖炉原型炉「フェニックス」(火の鳥)を指しているらしい。 日本の「フェニックス」型高速増殖炉原型炉「もんじゅ」は事故を起こし動燃は事故隠 しに奔走した。 前回使った92年のARIONのメッセージは >> 緋色の女は、藍のローブを纏い、緑のおしろいを身体に塗り準備している。  そしてその次の行は   >>黒鉛の嘆きは、人々の知らぬところで埋葬されるだろう。  とつづいていた。  上の行でミドリ十字事件に言及したあと、次の行で「黒鉛の嘆きの埋葬」を記してい る。 黒鉛は鉛筆の芯や電極にも使用されるが 原子炉の中性子の減速材としての用途に思い至る。 「もんじゅ」の事故を「黒鉛の嘆き」とし、 それを隠すことを「埋葬」で示唆していたのであろう。 その事故が世間に漏れ、大騒ぎになった。「事故」は隠すことによって「事件」に変貌 した。 「海獣は吠えるだろう」 ひたすらマスコミその他の懐柔(カイジュウ)策に奔走し、それが成功した。 その後社会に次々に起こる様々な事件のおかげで 「もんじゅ」事件はもう、忘れっぽい人々の記憶から消えようとしている。 全世界が危惧しているはずの超核兵器級97-98%のプルトニウム239を生成する 高速増殖炉原型炉を日本が持たねばならぬ理由は何だろう。  「大きな十字と小さな十字が重なる時」できる文字は「米」である。 この文字が示唆する国は米国であり、英国の旗「米」である。 とすれば高速増殖炉原型炉を日本が持つに至った出来事の その裏には米英仏などの表面から隠された意向があったことを暗示しているようにみえ る。 それを「石屋(イシヤ)の仕組み」というのだろうか。 「石屋」とはイワヤ、岩屋(窟)でもあり、まだ夜明けをもたらすまいとする勢力のこ とである。 「海獣は吠えるだろう」のままに「もんじゅ」建造開始のころ、 晦渋な理論による「もんじゅ」反対派や日本国民の懐柔(だきこみ)が行われた。 問題が起きてもそれは目に見えない形で今もつづけられ いつかまた、新たな大問題に直面することだろう。 そのとき、健忘症に陥っていた人々は原子力問題が すでに決着したのではないことを知ることになるのかも知れない。 そうなってはならない。   *****************************************************************         <夏休み前昔話料理講座>   献立「花咲爺」   講師、炎の包丁人、SOUND   これまで昔話に秘められた真意を掘り出してきたが、   維/YUIさんが「崩石に何を思わんや?」を「宝石に何を”尾もワン”」   と解読されたのに触発されて思い出した  五大昔話の一つといわれる「花咲爺」を料理してみたい。。  材料となるストーリーをおおまかに書いておく。   「 愛犬家の正直な老人がポチという犬に教えられて、  ダウジング犬なのであろうか…。  ここ掘れワンワンと、きっと尻尾もちぎれるほど振って  「尾もワン」というような状態だったのであろう。  裏の畑を掘って大判小判の宝物を掘り当てる。  それを見た隣の強欲老人がポチを借りて瓦や貝殻のガラクタを掘り出す。  今度は正直老人が掘り出した臼で餅をついたら、また大判小判が出てきた。  強欲老人が臼を借りてつくとふたたび、貝殻などガラクタが…。  そして、正直老人が枯れ枝に灰をまくと、花が咲き殿様に褒美をもらう。  強欲老人が灰を撒くと殿様の目に入って牢屋にいれられてしまった」    と、ごく一般的な道徳修身説話のようである。      さて、この噺に包丁をいれよう。    切り方は不揃いでもご賞味いただきたい。      まずポチという犬の名前はあまり耳にすることがなく、  昔そんな発音が普通だったように思われない。 小さな点のことポチというらしい。  そうすると大の右上に乗っている点のことで 点(天)の使いぐらいの意味を含めているのだろう。   犬が吠えるとぼくなら叱って殴るぐらいで畑を掘り返すことはない。  犬がうるさくて閉口して頭にきたのか、やけくそで掘って見せたのか。  ほら、なにもないやろ、とでも言おうとして…。  それでもとにかく宝を掘り当ててしまった。  「正直」老人の意味するところは「正」当な「直」系の継承者であろう。  その人に宝が与えられる。  これは皇位継承の徴、十種神宝であろう。  「宝石に何を」とは宝にふさわしい可き人をと読める。     ポチは皇位継承の神璽を与えるために送られた天の使いだったのであろう。   伊波礼彦(神武天皇)に十種神宝を与えたウマシマチのような役割を担ったとみら れる。  となると、隣の不正直な老人は「正」当な「直」系の継承者でないのに  横取りを企んだ者ということになる。  隣国、任那からきた崇神天皇一族を示唆しているのだろう。  かれがポチが示したところを掘り返すと瓦や貝殻のがらくたが出てきた、というが  実は正直老人と同じ宝を掘り当てたのだろう。  かれらにはその価値がわからなかったので捨ててしまった。  十種神宝を石上神社に返してしまった。      臼で餅をついたら、また大判小判が出てきた、というのは錬金術のようである。  古代の金属の精錬技術のことであろう。  それも、直系でない者には伝わず、銅鐸文化は姿を消した。  ただのガラクタを産む技術にみえたのだろう。     最後に枯れ枝に灰を撒くのはなぜか。  「枯」とは古の木、すなわち、布留(フル)の木なのである。  それが隣の老人に横取りされて日本という大木の支線、枝が枯れてしまった。     しかし、枝は枯れても根(音)は腐っていない。   最後に   真の皇、灰(カイ)を撒くことによって再び花が咲くのである。    「花咲爺」も料理人によって千差万別の料理となろうが  ぼくの包丁さばきは一風変わっていてどなたの味覚にも合うということにはならなか ったようだ。  たまにはこんな料理法もお試しあれ。      ******************************************    これでもぼくは「かごめ唄」コースを辿っているのだろうか。  次回はなるべく「かごめ唄」コースらしい入り口から分け入ってみよう。    (つづく)   ♪♪音(SOUND) ♪♪ 04170/04170 GBG02043 維/YUI ひとことコメント (14) 96/07/05 09:06 04166へのコメント あら、村の包丁人、SOUNDさんが何かさばいてる…。 ということでそっと近寄って、つまみぐいしたら、(^^; こりゃ!旨いじゃないですか!!! かごめ歌、私気に入ってるんです。 楽しみだなぁ〜!!(*^_^*) 維/YUI 04169/04170 PAG03134 はな ヤコブのはしご (4) (14) 96/07/04 22:17 04160へのコメント  ヤコブのはしごは、以下のように4階層で成り立っているとみるこ とができます。もちろん、カバラの「生命の樹」によれば、10段あ ると図示されている書物もありますが、まずは、ヤコブのはしごは4 階層から成り立っているとみて、話を進めてみます。  ヤコブのはしごの第1段目はミカエルが担当していました。第2段 目にはラファエルが、第3段目にはオーリエル、最終第4段目にはガ ブリエルが位置します。  四大天使をヤコブのはしごにあてこんで、図示してみます。 |        | |        | |        | |−−−−−−−−| ← 第4段 ガブリエル |        | |        | |        | |        | |−−−−−−−−| ← 第3段 オーリエル |        |       (ウリエルとも発音する) |        | |        | |        | |−−−−−−−−| ← 第2段 ラファエル |        | |        | |        | |        | |−−−−−−−−| ← 第1段 ミカエル |        | |        | |        |  このようになります。  ヨハネの黙示録の挿し絵として描かれたある絵画は、聖ヨハネがは しごを昇って天に行く、すなわち昇天する姿が描かれています。描か れているはしごは、偶然かどうか4段でした。その絵画を描いた作者 は、カバラに精通していたかは知る由もありませんが、上図と一致し ています。  ちなみに、この絵画には、はしごの上に羽を身につけた天使が、ラ ッパをふいています。ラッパを吹く天使は、「第1のみ使い(天使) がラッパを吹くと・・・」と黙示録にも記述されてあります。  その天使はラッパを吹きながら、イエスを歓迎し、その先を進む べく、新しい扉を開けています。イエスほどの人物が、ヤコブのはし ごを昇り終え、その次のステージに向かおうとしているかを表した絵 画でした。ここからみれば、ヤコブのはしごを登り切っても、そこが 最終地点ではないことがうかがえます。  人の魂はどこまで行きたがっているのだろう。                       はな - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/07/05 - 01016/01019 JCF11621 DUN Mazdaエンブレムの由来 (19) 96/07/04 19:44    マツダブランドマーク    ○「無限の創造世界への翼」と「情熱の炎」を表現している。     これらのイメージはMAZDAの名が由来している古代オリエントの神、     「アフラー・マズダー(Ahura−Mazda)」に求められる。     馬を育て、車輪や鉄器を生んだ古代オリエント文明は自動車文化の     ルーツでもある。            −−−−マツダ株式会社 東京本社 広報部 −−−−−  例のマスコットマーク(○に菱形に○穴)の由来についてこのようなコメントを  いただききました。  それからこのマーク決定に纏わる話として、アフラー・マズダー神の光輝くイメ  ージから菱形のみのデザインにしていたそうですが、シトロエンのマークと類似  してしまったため現在のデザインに変更したそうです。 このコメントと一緒に、”マツダとアフラ・マズダー”というタイトルの解説文  (約60行)も、公開承諾でいただいておりますが、ここの会議室に転載OKな  のでしょうか?>運営方々