「お邪魔になるかと思って黙っていたのですけど」と焚き火民 """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""" - FARION MES( 5):**/////*/////*/////*/////*/////*/////** 96/07/08 - 01043/01046 BXP02077 優位 詩が書けない ( 5) 96/07/07 13:35  詩を書きたいと思うけど書けない  心のままとはいうけど邪魔が入る  音も奇麗に揃わない聞いていて醜い  途中でやめてしまうもういいやとやめる  そして白紙に戻す 96/07/07(日) 09:50 優位(BXP02077@niftyserve.or.jp) 01044/01046 TBE03167 ねずみ 1 ( 5) 96/07/07 17:57 んっとに あたしゃなにやってんだろうかねぇ もう - FARION MES( 9):日本魔界巡航 ★ 神と人の関りを探る 96/07/08 - 908/908 CQE07040 ISE 大自然を支配する神 ( 9) 96/07/07 23:19 議長のスサノオ元年を祝して 「カグズチ」 炎帝神農 司馬貞は「史記」の冒頭にこう書き加えている。 三皇本紀。炎帝神農 炎帝神農は人身牛頭である(中略)。木をきって鋤をつくり、 木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤の使用法を万人にしめして、 初めて耕作を教えた。それゆえに号を神農氏という(後略)。 この牛首の炎帝神農を高句麗語ではスサといった。 今も北朝鮮語ではスサという。 が、よく考えてみるとこのスサはシュメール語の御牛神シュウシュハル から転じたスサ、そして日本の牛頭大王といわれるスサノオ命のスサ (須佐)スサン(素盞)とも同系語であった。 ( 謎の神アラハバキ 川崎真治 六興出版)より スサノオ族は(出雲族でもいいですよ)中国経由で渡来したようで, 昭和53年に、出雲 荒神谷遺跡で発掘された358本の銅剣(過去に日本で 発掘された銅剣の総数をはるかに上回る)は中国北部産の鉛を使っています。 さてイザナミの死の原因となったカグズチ(軻遇突智、火之迦具土、火産霊命 ) この神もまたスサノオの別名のようですね。 岐阜県西荘にある八雲神社の祭神は「迦具土神・素盞鳴尊」と列記。 兵庫県香寺町の威徳森神社の祭神は「迦具土神・素盞鳴尊」と列記。 山形県米沢市の愛宕神社の祭神は「軻遇突智命・大山祗命」と列記。 東京都港区芝の愛宕神社の祭神は「火産霊命・大山祗命」と列記。 [雷神] 千葉県山田市の愛宕神社の祭神は「火産霊命・タカオカミ・大雷神」と列記。 福島県船引町の愛宕神社の祭神は「火産霊命・大雷神」と列記。 愛媛県東予市の三島神社の祭神は「大山祗命・タカオカミ・大雷神」と列記。 また八雲神社が雷神社とも呼ばれることを考えると、雷神もまたスサノオの 別名のようです。 これで、火、水、雷、山、がそろうわけですが (タカオカミ、オオヤマツミについては MES 9 881, 901,をご覧ください。) 日本書紀の中に「伊弉諾尊、劔を抜きて軻遇突智を斬りて、三段に為す、 その一段は是雷神と為る。一段は是大山祗神と為る。一段は是タカオカミと為る」 とありますが、カグズチ=スサノオとするならば、 日本書紀編纂者のこの変な表現方法の謎が解けてきます。 魏志倭人伝が記すように、数百の小国家に分かれていた古代の日本を初めて統一 しようとしたのがスサノオ(出雲族)だったのだと思います。 当時出雲族の傘下にいた人々にとってスサノオは唯一神だったのでしょう。 火防ぎの神であり、航海の安全の神であり、雨の神であり、(カミナリは雨の前兆) 山での狩猟、採集の神であったと。 スサノオが天王、と呼ばれるのもこれら大自然を支配する王、からきたのでしょう 愛知県津島市に津島神社があります。(全国に三千余ある天王社の総本社) 嵯峨天皇はこの津島神社に「素尊は則ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給い しなり」と称され「日本総社」の号を贈っている。(このとき記紀は完成している) またTAOさんのいかれた大山祗神社(全国に一万一千余社の総本社)にも、 「日本総鎮守 大山祗大神」の神号があります。(スサノオ=オオヤマツミなら当然) また熊野には歴代の天皇、上皇が百数十回も行幸しています。 これらの事実は、天皇家(昔の)でさえ記紀を白い目で見ていたことになるのでしょ う。 ではまた ISE - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/07/08 - 04854/04857 VFG13516 あとみ RE:風の本棚●第十の予言 (13) 96/07/06 22:18 04836へのコメント   KAZEさん、こんにちは。   一作目の「聖なる予言」を読んでいたので、早速読んでみました。  感想ですが、まずは・・前作の方が面白かったですね、まだ・・。(^^;)  でも、それは物語として読んで、と言うことで、書かれている内容は  前作同様、とても参考になりました。  「バースビジョン」と「恐怖」がキーワードだなと思いました。ここで書かれて  いる「恐怖」って言うのは、未来に対する不安感ですよね。そういった悪い方向  への想像力が、現状を作っているのは私も同じように感じます。確か、ダライ・  ラマ14世も同じ事を言っていたように思うのですが。(サダカデナイデス。)   あとは人と人との繋がりです、この本で感じたのは。外的な拘束力で縛られて  いるのではないネットワークみたいなのが、これからは大事なのかも知れない、  と思いました、異業種間の繋がりのような。   でも、これだけじゃんじゃん目の前に出てきたら、さぞかし分かりやすいだろ  うな、(^^;)と思います。あと、どんどん続編が続きそうな気配ですが、私の  個人的希望では、一作で終わってた方が良かったように思います。     それでは(^^)                         あとみ(VFG13516)   - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/07/08 - 01026/01029 QZY01267 猫の手 RE^2:躾、教育について (19) 96/07/07 09:42 01025へのコメント  わうさん初めまして、    ワー、わうさんはとても素敵な育て方をされてきたんですね。  私なんか、叱られてばかりで育ったものだから『躾』と聴いただけで拒絶反 応がでてしまいます。その辺は言葉の使い方、定義の仕方、更にそこからくる 感覚の違いですから良いとは思います。    そうですね、初めて子どもの手を引いてスーパーマーケットの中に入るとい うのは親にとっても子供にとっても大きな課題がそこにありますね。ただそこ に置いてあってみんなが勝手に持っていくようでありながらそこに自分の物と 他人の物があるということを知ることになる大きなチャンスですね。  わうさんはとても賢い人だなと思いました。私も本当にそういう場に立ち会 ってしまったら子どもに納得して貰うことできなかったりするかもしれません。  大概は、わうさんのように子どもは知らなくて当たり前ということを無視し て、「そんなものを持ってきちゃダメ!」と頭ごなしに子どもの方は叱られ て、「でもお母さんは勝手に篭の中に欲しいものを入れているじゃないか。」 というような不満を抱くことになるだろうと予測しています。そうなると子ど もは、どうしたらあの自分の欲しいものを手に入れることができるか? とい う方に意識が向いていってしまうはずです。(昨日ある友達の家に行って、そ のおもちゃの量に圧倒されてしまいました。私が10才位までに欲しかったおも ちゃを三才児が全部持っているのですから。恵まれていると言えば恵まれてい るんでしょうけれど、子どもは沢山のおもちゃに囲まれながら沢山の不満も持 っているような気がしたよ。これ、余談)  多分わうさんのように教えてあげたら、子どもは自分が新しいことを学べた ことを嬉しく思うだろうし、お母さんに喜んで貰っていることを嬉しく思うは ずです。子どもは親の言葉の意味は理解できなくても感情は理解しますから。  私は言葉、文化の違う外国に行ったときは、言葉は理解できないけれど、そ の人達がやっていることを真似してそこのレストランでの注文の仕方、食べ方 を学んだり、相手の表情からやって良いこと悪いことを判断しながらそこでの 生活の仕方を身につけていきますね。そのときに私は誰かに躾られたという思 いはなかったよ。(『躾』という言葉にこだわりたい”猫の手”です。)    傷つけられたら痛いから厭だということ。公共の場で騒がないのは、お母さ んや他の多くの人達が静かにしていて貰いたいと思っている場であること。挨 拶は心が通い合うきっかけになるということでして貰うことが望まれること。 そんな風な部分から子どもに話し掛けたら、子どもはやはりお母さんや、他の 人の役に立つことが嬉しいからできるだけそれをしたいって思うはずです。あ くまでもそれは、「母親の立場にあるものが子どもに対してして貰いたい」と 思っているところが基本であって、しなければならないとか、してはならない とかいうところからくるのとは違うと私は考えています。  だから私は、子どもと接しているときに、「いけません」という言葉は使わ ないなー。その代わりに「私は厭だ。」という言葉を使うよ。そうしたときに 子どもの方は、「私は騒ぎたかったんだけど、このおいちゃんはうるさいのが 厭だったんだ。」というような理解の仕方をしてくれて、そのおいちゃんに喜 んで貰いたいと思ったならば静かにしてくれます。ついでに言うならば、その 大人には当たり前のような事をして貰ったあとに、「私の希望に沿うようやっ ててもらえてありがとう。」ということを子どもに伝えたら、子どもはその次 も、おいちゃんの願いに沿うよう考えてくれるんだよね。    そういう繰り返しをしていたら結局、「叱る必要もなくなる」ということを 私は伝えたかったんだけどなー。  受け取ってもらえると嬉しいな。  無視されることと嫌われることは人にとってどんなことよりも辛いことなん だと私は思います。だから親が子供が嫌われないようにと躾をしようと思うの も分かるし、無視されたり嫌われたりすることに怒りを感じて相手を何とかし ようとするのも分かります。もし信頼に値するものがあるとするならば、子ど もであろうと誰であろうと、「他者に好かれたいと思っている。」ということ ではないかと思います。だからこそ子ども達はお母さんの言うことを聴きたい と思うし、お母さんの意識を引きつけるために様々な方法を採るのではないか と思います。  自分が良いと思うことであっても嫌われることを恐れてやれないで居る事っ て誰にでもあるのかもしれません。他者と違う自分であることを許せる様にな るというのは人にとって大きな課題だろうと思います。私なんかあまりにも周 りの人々と違うということを結局受け入れざるを得なくなってしまった人の一 人です。それまでは「何とか人並みに」と色々やってみたけれど、何をやって も常軌を逸していました。そして今は「それで嫌われてしまったら仕方がない じゃない。」という諦めの地点にいます。それでもやっぱり誰かに好かれてい ると思えたとき、受け入れられていると思えたときはとっても嬉しいよ。  私は、五歳ぐらいまでの子ども達と遊んでいるときがとても癒された気分に なって行くんだ。本当にどうしようもなく辛くなったときは結局お母さんの元 へ行ってしまうけど、彼らは私のしたことにすごく素直に反応してくれるから。 大人達には避難されようとも、子ども達には好かれるような私で居たいなと思 っています。といっても私は子ども達のためにおみやげを持っていく様なこと はあまりしないんだなー。これが。    ちなみに、こういう考え方は私だけのオリジナルではないんです。(残念だ なー。私のオリジナルだと云えたなら大川隆法主宰大先生のように偉そうにふ んぞり返って居られたかもしれないのに・・・。  もっとも、このことを知 ってしまったら、どんな幼い子どもの前に居ても、どんな大悪人と言われる人 の前に居たとしても自分の方が偉いとは思えなくなってしまうネ。)  私が対人関係の中で「どういう風にやるのがうまく良く方法かな?」っと頭 の中で検索して引き出すのはアドラー心理学の方法であり、考え方です。特に、 子育て方法についてはSMAILという週1回8週間の講座が強力に役に立ちます。 毎週学んだことを子どもとの接し方の中で利用すれば子育ての手間がそれまで の二十五分の一とは言わないけれど、半分以下にはなると思うよ。  東京方面の方はヒューマン・ギルドというところ、大阪方面ではサロンド・ スマイルというところがお勧めです。私は信州の松本でもSMILEのコースを開 催できるよう根回しをしている最中です。もし、その辺の人でそういう子育て 方に興味をそそられた方はご一報を。   ** QZY01267/『猫の手』 <96/07/07 08:39:59> **