「ああ、いやいや、どうぞ話して下さい」と村長は言った。 """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""" - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/07/09 - 04172/04173 HQK00566 SOUND :炎で書いた物語」最終章(その7の5) (14) 96/07/08 16:51 04166へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その7の5)  <わかりあえる日まで>(その5)    まず、今回は日月神示をひふみ神示と読む理由の一つと思われる 「一二三四五六七八九十」を再出発点として見直すとから始めよう。  「人、フタ見よ、いつ無に為すや、ここの戸を」 「ひと」は霊止や火戸と書ける。 「火戸」はよく見れば「炉」である。 このフタは炉のフタである。 「ここの戸を」にその戸がある。 人はどんな戸を持っているのか。 人が閉ざしている「ここの戸」とは…。 ここまでくればもうそれは自明であろう。 「ここ炉」である。 心はここの戸であり、個々の呂でもあった。  人は心のフタを閉ざし真の天照太神を呂に閉じこめてしまった。 もう、そろそろ「いつ無に為すや」という問に応えなければならない。 日月神示にたびたび登場する言答と書いてイワトと読ませるのは そのことの暗示であった。 天岩戸は実はわれわれの心にあったのである。  それぞれが心のフタ(岩戸)を開き天照太神にお出ましいただく時が来た。 それが為せるならそれがわれら人類の再出発となることであろう。       ************************************     7月6日Jリーグのオールスター戦があった。  昔のサッカー東西対抗戦が発展したものだが、 東軍西軍の名前がが今はなんとヴェガとアルタイルという。 なんのことかと思えば、織姫星と彦星の名前なのである。  年に一度七夕のころに出会うということで、ロマンチックなネーミングである。     彦星の彦とは日子で男のこと、姫は日女、  そこで思い出すのはヒョットコ(日男)とオカメ(日女)。 ヒョットコは火吹きの口をして突き出して丸顔のオカメとの交合を暗示している。 おふたりで一○の最高神である。ツルとカメでもある。 どう見ても美男美女に見えないからこれがあの牽牛織女であると言えば怒る方があるか も知れない。  元を遡れば伊奘諾尊伊奘冉尊にまで源を求められる。 イサナキイサナミの名は逆読みすると見なさい来なさい」ということである。 おふたりは、天と黄泉に分かれて年に一度しか会うことができなくなった。 その日が七月七日である理由は三四三の世界であったからであろうか。 どちらからみても七と七の世界である。 七の封印が解けていないので雨が多くて会えない年が多いようだ。 地方によって八月七日のところもあるのは八七(はな)開くことを祈ってのこと。   織姫はこの字をよく見ればこの方は竜宮では音姫(乙姫)と呼ばれることがわか る。  オ(カメ)と乙姫とがでてくれば釣(ツル)人浦島太郎をどうしても思い出す。  これらの噺は底辺が同じである。  少しずつ形を変えてひとつのことを示唆している。  それは、あの「かごめ唄」にもつながってゆく。        ************************************************************       <究極的かごめ唄考氈   昨年、秋頃、「徹子の部屋」に俳優、石田太郎氏が出演して臨死体験の話をされ た。  石田氏は同じ劇団の先輩、故小池朝雄氏のあとを嗣いで  「刑事コロンボ」の吹き替えをされている俳優さんである。  細かい部分では記憶違いがあるかもしれないがおおよそ以下のようなことを語られ た。    氏は心臓の病気で手術後の入院中、回復期に発作が起こって 心臓が停止してしまった。 飛んできた看護婦さんが必死で蘇生術を施している間に 氏は別の世界に行ったらしい。  そこはきれいな花の咲く野原で、 丸顔の子どもたちが集ってお遊戯をしながら唄を歌っていた。 その唄が「かごめ、かごめ」だったという。 息を吹き返した石田氏はまわりに集まっている医師や看護婦の顔が あの子どもたちと似ていたと言っていた。  それで氏は、あれは本当に臨死体験だったのかどうか、と迷い疑っている。 ちらっと見たまわりの人たちの顔が夢に出ただけなのかも知れない、と思っているとい う。  「通りゃんせ」にとどまらず「かごめ、かごめ」もまた霊界(実在界)の唄なのだろう か。    *************************************************************   >>  かごめ、かごめ  >> かごのなかのとりは  >>いついつでやる >>よあけのばんに >>つるとかめがすべった       >>うしろのしょうめん だぁれ     まず「かごめ唄」の歌詞をご覧いただこう。 あっけないほど短いこれだけの詩型に 五のイメージがぎゅうぎゅう詰め込んであることにまず驚かされる。 ひとまず五のイメージらしいところを全部拾い出す。 か五目、加五女、 か五の中の十理=五理+五理 いついつ=五五 よあけ=四があけて五 うしろ=後=五=牛 正面の正は五画の代表として五つずつにまとめて 投票数を数えるのに使ったりする文字である。 ざっとみて籠の目の結びに五が使用されているようである。 なぜこれほど五にこだわっているのであろうか。 「籠の中の鳥は五(いつ)五(いつ)である」と 正面切って断定されてしまっている。 これにはハハアーっさようでござりまするか、と平たくなって頭を下げるしかない。 五の数霊で思い出す方は素盞鳴尊の第五子饒速日尊(ニギハヤヒ)である。 やはりこの唄も饒速日尊の再臨を密かにしらせる唄であったのだろうか。 「よあけのばん」が五のバンなら碁盤のことであろう。 このバンだけでもめったやたらに解釈可能で困ってしまうが ここではひとまずバンを梵字のバンのこととして考えよう。  バンとは金剛界の大日如来に捧げる呪文 「オン・バジラ・ダートゥ・バン」 の最後の一音、バン。 金剛界曼陀羅を総称する「バ」音の上に五大の空(カン)を表す空点を加えて、バン という響きに変化した。  五大とは「黄、地(ア)、白、水(ビ)、赤、火(ラ)、黒、風(フーン)、青、 空 (カン)」で、 胎蔵界の大日如来に捧げるときはその前に聖音、オンをつける。 つまり、「オン・ア・ビラ・フーン・カン」と唱えることになる。 オンには俺のニンベンを口扁にした字を宛てることになっているが、 ぼくは音の字でよいと考えている。  それゆえ、「阿吽」は胎蔵界の始まり(ア)から終わり(ン)を顕すことばである。 阿音が胎蔵界曼陀羅の始まりの音であり、バンが金剛界曼陀羅の終わりということで ある。 それでひと両界まわりになる。 つまり胎蔵界金剛界の両界を通うじての最後の音がバンである。 バンは 最後の最期を顕す音なのだ。  両界を圧縮して発音してしまえば「音盤(オンバン)」となってまるでレコードか CDである。 そのバンの音が発されたとき、すべてが完結し第三の道が始まる。真の世開けへと …。  「 かごめ唄」は奥が深過ぎてとても一回読み切りというわけにはゆかない。 行きつ戻りつして足を踏み入れる曲がりくねった道中に しばらくおつきあいいただくことになる。   (つづく)    ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/07/09 - 01030/01031 JCF11621 DUN マツダとアフラ・マズダー (19) 96/07/08 17:15  以下、M社からいただいた社名の由来に関する文書です。 (*転載許諾済み) _____________________________________  マツダとアフラ・マズダー(Ahura−Mazda)(*1)   (*1)アフラ・マズダー     古代オリエントの原インド・イラン語族の間で、紀元前3500     年頃に発祥した「叡智」の神。平和と安住を求める人々の精神的     支柱として崇められ、アフラ(主)の称号を冠した神の中の最高     神。  「マツダ」は、多くの企業名と同じように、創業者・松田重次郎の名字から発し ています。しかし、もうひとつアフラ・マズダー(Ahura−Mazda)とい う人類文明発祥の時期に近い”叡智の神”の名称も重ね合わせ、ダブルイメージと した点が創業者のなによりの知恵でした。これは1931年(昭和6年)新製品の 三輪トラックを生み出し、「マツダ号」と名付け、自動車メーカーとしての第一歩 を踏み出したときの心意気でもありました。「マツダ号」が日本の自動車界の光明 となるようにとの願いを込め、二年後には”MAZDA”を商標登録し、ブランド 名が象徴(シンボル)として発展していく契機ともなりました。  そこで、まず”叡智の神”アフラ・マズダーを中心とした古代文明の精神史を振 り返ってみることにしましょう。  私たち人類の遠い祖先たち、なかでも古代オリエントに暮らした原インド・イラ ン語族(原インド・ヨーロッパ語族の源流。紀元前3500年代にカフカズ地方か ら東進し、紀元前3000年ごろからインド派とイラン派に別れた。)は、遊牧民 として草原(ステップ)地帯で暮らしていました。羊や馬など家畜の群と共に草地 を求めて荒野を行き、砂塵を巻き上げて移動の人生を送った祖先たち。夏はより涼 しい高地へ、冬は家畜の餌となる草のある平地へ。その草原地帯は夏と冬、昼と夜 の温度差も激しく、雨季と乾季が、自然と共にある生命の尊さを認識させたに違い ありません。とくに、人々は生命(いのち)に欠かせないものとしてとりわけ「火 の神」と「水の神」(*2)を、ことば化しました。即ち精神文化を生み出したの です。   (*2)火の神と水の神 原インド・イラン語族は自然現象を擬人化して多数の「神」を創     り出した。特に命に直接かかわる「火」と「水」を重視した。一     方、「約束」も重要で誓いの言語として「ヴァルナ」「ミスラ」     を使い、共に生死にかかわる言語として火の神ミスラ、水の神ヴ     ァルナと呼んだ。ミスラは「忠実」ヴァルナは「真実」を示し、     ひとたび約束を破り仲間を裏切った者は、火の神からも復讐を受     けるとされた。  大自然を相手に採集と遊牧の暮らしを続けていた先史時代、様々な自然神が生ま れました。しかし、この遊牧民族が農耕民族と接触し、融合していくなかで、当然 意見の食い違いや衝突も起こり、裏切りや離反、血みどろの抗争も繰り返され、や がて強調と調和が生まれ、約束を守る大切さを学んで理性の重要性を認識したので す。いわば人間的な理性の目覚めによって、多くの自然神を統合する叡智の神アフ ラ・マズダーを誕生させたのです。  世界最古の宗教と言われているゾロアスター教(紀元前七世紀頃成立)は、アフ ラ・マズダーを主神として、善悪二元論からなり、後のキリスト教、イスラム教、 仏教にも大きな影響を与えました。このように、人類精神史の源泉に位置する”マ ズダー”は、古代オリエントにおいてゾロアスター(*3)が自然信仰を体系化す るずっと以前から、人間に最も近く「叡智を与えてくれる神」として崇めらてきま した。 (*3)ゾロアスター(Zoroaster)     紀元前7世紀後半に活躍したペルシャの予言者、宗教家。原始イラ     ン宗教を改革し聖典アベスタ中心の教義をひろめた。善神アフラ・     マズダー(光の神の意)と悪神アングロ・マイニュの二神があり、     善悪二元論の最古のものと言われる。  地球の歴史は、数十億年を数えます。が、人類はわずか数十万年程度。その人類 特有の能力こそ”叡智”であって、地球上の他の生物にはない叡智によって、私た ち人類は多彩な文明と進化を創造してきたのです。即ち、MAZDAは私たち人間 (ホモ・ロクエンス=ことばを話す人)にとって、文明源泉的な存在。古い伝統を 秘めながら常に新しい叡智を生み出すキイワードとも言えるのです。 世界共通のコーポレートネームである「マツダ」に秘めれた意義、このキイワー ドを使って古代オリエント文明のページを開くと、自動車のルーツも見えてきます。  ('90発行、社内向け機関誌”THE・GLOVE”より抜粋) _____________________________________  おまけ >会社創業者の松田重次郎さんがゾロアスター教の信者だったか、と       いうことは公には発表されていないようですが、今回の外国人新社       長の奥さんが信仰されていると、新聞に報道(朝日新聞地方版)を       されたところ、反響が有り問い合わせが多々あるそうです。 01031/01031 QZY01267 猫の手 ジャッキーというワンちゃん (19) 96/07/09 06:04  私の友達にジャッキーというワンちゃんがいた。  胴の短いビーグル犬だった。  ジャッキーは彼らの元に生後数ヶ月にしてやってきた。  生まれてからその間に、  何人かの飼い主の手を渡り、  彼らの元にやってきた。  あまりに気性が激しくて、  それまでに買い取った飼い主手を焼いて、  すぐに店に返しにきたという。  そして店の主人も手を焼いて、  彼らにジャッキー預けて行った。    とても気性の激しいワンちゃんだった。  叱りつけたりしたのなら、  絶対にそのいうことは聴かないというワンちゃんだった。  ジャッキーは飼い主と対等であること主張した。  そしてそのことに妥協しない犬だった。  それまでにジャッキーを手懐けようとした飼い主は  子犬ごときを人間と対等に扱うこと認めなかった。  だからジャッキーは、  妥協しないジャッキーは、  子犬と言えども思いきり反発をして  どの飼い主も、  ジャッキーを手懐けること諦めた。  そのようにしてジャッキーは  私の友達の元にやってきた。    彼らとジャッキーの生活が始まった。  最初の頃は部屋中家中総てがひっくり返り、  足の踏み場もない位すごい騒ぎに散らかったとか。  それでも彼らはジャッキー家から追い出さず、  その散乱した家の中で一緒に生活し始めた。    彼らはジャッキーの相手していて、  叱っても叱っても言うこと聴かないと言うよりも、  叱れば叱るほど言うことを聴かないということに気が付いた。  そして彼らはどうしたらジャッキーが言うこと聴いてくれるのか  色々取っ替え引っ替え試していった。    家の中で犬を飼うために、  まずは下の処理を考えなくちゃならなくなった。  彼らはジャッキーのしぐさを観察していて、  ジャッキーがしそうになったなら、  そのジャッキーを抱えていって砂場の上に座って貰った。  そしてジャッキーがそれをそこでしてくれたとき  思いきり頭をなでたり体をさすったりしてやって、  「ありがとう。」って言ってやったんだって。  自分でそこに行くようになってもしばらくは、  そういう風にして「ありがとうね。良い子だね。」って  めいっぱい感謝の気持ちを伝えたんだって。    叱ったり、怒ったりしてしまったら  その分だけ手を焼くこと分かってきたものだから  そうやってジャッキーにスキンシップをしてやりながら  自分達とジャッキーの望みを様々な形に折衷させながら  新しい生活始まってった。  ジャッキーの思いに折衷するために  自分達の生活も変わっていった。  彼らに折衷するためにジャッキーも変わっていった??    ジャッキーは変な犬だった。  他の犬には全く興味を示さない犬だった。  他の犬が来てそこら変にオシッコ引っかけていったとしても  全くそんなのお構いなしに、  自分の場所でオシッコ済ませてた。  肉に見向きもせずに  キュウリと海苔が大好物だという犬だった。  そのジャッキーは今はもう居ない。  約二年前、約数カ月、  ジャッキーの看病のために  彼らは商売していた店締めて  風通しの良いベランダでひなたぼっこして過ごしてた。  そして暖かく見守られ、  ジャッキーはあの世に旅立った。  今ジャッキーの埋められたその場所は花壇になっている。  彼らは語る。  私たちはジャッキーに色々教わった。  とても厳しい犬だったけど、  ジャッキーのおかげで沢山のこと学ぶことできた。  って    人の意識レベルを読み透かしてたように思えるところのある犬だった。  疚しい何かを持ってる人に対しては厳しい犬だった。      人に飼われる動物は、  「ああしなさい、こうしなさい。」とは  教えてくれないけれど、  人の中で生きることで  何かを与えてくれている。  何かを教えてくれている。  そこから何を学ぶかは  そこに対する人次第。    人のわがまま受け入れて  従順に従う犬もいる。  妥協を許さない犬も居た。  そして又、勝手気ままに遊ぶ猫が居る。    何かで辛くなったとき、  その可愛がってたワンちゃんを  しっかり抱きしめてごらん。  ネコちゃんを  しっかり抱きしめてごらん。  きっとそのワンちゃんもネコちゃんも  あなたを癒してくれるから。         ** QZY01267/『猫の手』 <96/07/08 22:56:15> **