「凍えさん、あなたは本当は何がしたいのですか?」と焚き火民 """"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""" 913/922 KFQ02761 しまうま 『眠れる異能者への伝言』より ( 9) 96/07/15 10:48 コメント数:2  久々にお邪魔します(^^)。  13番会議室でKAZEさんにご紹介いただいた『眠れる異能者への伝言』とい う本の中に、9番向きのネタがたくさんありましたので、覚え書き代わりに、 ちょっとまとめて書き込ませていただきますm(__)m。 ◎丹後地方の鬼伝説  ・クガミミノミカサという鬼をヒコイマスノオウが退治した、という伝説が 残っている。  ・クガミミノミカサは「鬼」というよりも「アマ族」であったと考えられる。  ・由良川の下流一帯を凡海郷(オオシアマゴウ)と言い、ここにアマ族の集団がいた と思われる。  ・クガミミノミカサはクカミ(九鬼)ノミカサではないかという推理もでき、 そうなると熊野との関係も出てくる。  ・聖徳太子の時代には、三匹の鬼が大江山のほうにいたらしいが、その鬼た ちは火と水と風を操るとされており、すなわち製鉄技術者であったと考えら れる。  ・この鬼たちを、聖徳太子の弟である麻呂子親王が征伐する。麻呂子親王の 後ろには、渡来人である秦一族がついていた。  ・鬼たちは、最終的に立岩というところに追いつめられて斬られるが、不思 議なことに三匹のうち二匹は殺されるが、土熊(ツチグマ)と呼ばれる鬼だけは残 されて、後世まで仕事をさせられている。  ・この「鬼」というのは、山穿(サンカ)で鉄を操る異能者だったと考えられる。     TAOさんも、確か九鬼家の血をひいてらっしゃるんでしたよね(^^)。     聖徳太子の弟が秦氏と結びついていた、ということは、聖徳太子自身 も渡来勢力と無縁ではなかったんだろうなあ、と感じました。     「土熊(ツチグマ)と呼ばれる鬼だけは残されて、後世まで仕事をさせられ た」というのは、おそらく身に付けている製鉄技術を見込まれて生かさ れた、ということでしょうね。 ◎鬼  ・日本書紀には「鬼」の字が四カ所出てくるが、それらはすべて「もの」と 読まれている。  ・この場合の「もの」とは、神のような妖怪のような、人間の禍福を支配す る超自然的な存在、としか言いようがない。  ・「大物主」の「物」も、この「もの」と同じ意味。     うーむ。大物主が、こんなに簡単に「鬼」に結びついてしまうとは。 ◎鉄鉱・製鉄  ・岩手の釜石には、縄文期にすでに鉄を作った跡が残っている。  ・刀鍛冶に「天座(アマザ)」という集団があるが、これは大和系の鍛冶集団の こと。  ・元伊勢の魔谷(マタニ)には「たたら製鉄」の跡がある。近くの赤石岳というの も明らかに鉄の山。     岩手というと、真っ先にアテルイを思い出してしまうのですが(^^;、 縄文期からすでに鉄器を作っていたとすれば、あのあたりの蝦夷たちが 非常に強かったというのも頷けますね。 ◎アメノホアカリ  ・一願成就のピラミッドと言われる日室ヶ嶽の峠には、御座岩と呼ばれる巨 石がある。  ・この巨石は、御座岩神社のオオヒルメムチを祀っているという伝承がある が、アメノホアカリではないかという説もある(どちらかというとアメノホ アカリが有力)。  ・アメノホアカリがアマ族の祖神であることは確か。  ・由良川の流域にはアメノホアカリを祀ったお宮が多く分布している。  ・福知山にある天照玉命神社の神様は「天照さん」と呼ばれて非常に根強い 伝承を受け継いでいる。ここの祭神はアメノホアカリ。  ・丹後の元伊勢では、もともとはアメノホアカリを祀っていたのが、後に中 央政権によってすり替えられていったのではないか。  ・元伊勢のご神体は、昔は日室ヶ嶽だった。     ニギハヤヒの正式名称が「天照国照彦天火明櫛玉驍速日命(アマテル クニテルヒコ“アメノホアカリ”クシタマニギハヤヒノミコト)」です から、この「アメノホアカリ」もニギハヤヒのことではないかと思いま す。特に福知山の「天照玉命神社」の「天照さん」は、ニギハヤヒに間 違いないでしょう。     それから、「元伊勢」のご神体が昔は日室ヶ嶽(すなわちニギハヤヒ) だった、という話も興味深いです。伊勢神宮は、今の場所に落ち着くま で、何度もあちこちに移動した、ということですが、もしかするとその 移動の度にその地で信仰されていた(おそらくは出雲系の)神の足跡を 消して回っていたりして……などと想像してしまいました(あくまで想 像ですが(^^;)。 ◎北斗七星  ・元伊勢には「七つ森」という七つの古い墓がある。「七」というのは御霊 封じの数で、「七つ森」はみな小古墳の跡。おそらくは支配者にやられた者 たちの墓で、「七」という数で御霊を封じられたのだろう、と言われている。  ・そこには正体不明の「御霊神社」という御霊封じのお宮さんがある。  ・しかも、その七つの場所が北斗七星の形をしているのではないかとも言う。  ・千葉にも同じような七つ塚がある。  ・大江町の近くに住む90歳くらいのおばあさんが言うには「前にいた宮守 りが、北斗七星を使った鬼門封じのほうを丹後の大宮町に持って帰った。今 ではそれがどこの神社のことか分からないが、確かに明治くらいまでは、鬼 門封じの為の七仏薬師のことを伝え聞いていた。それは七つの星で鬼門を封 じる法だった」とのこと。     北斗七星で鬼を封じる、という話は、別のところでも聞いた覚えがあ ります。ホントにそういう法が存在したんだなあ、と思いました。 ◎スラウェシ  ・スラウェシには竹取物語や因幡の白兎のような童話が残っている。  ・日本語のミナトやタローやゴローというような地名も残っている。  ・踊りも、日本の踊りに似ている。     スラウェシと言えば「スパスシフィカの浮上先」ですね。そこに日本 と似たような童話が残っている、というのはおもしろいです。 ◎ペトログラフ岩  ・日本のペトログラフ岩には、すべて強烈な磁気異常や放射能異常が認めら れる。将来、岩石に含まれている磁気や放射能などのエネルギーを取り出す ことができるかもしれない。  ・人間・動物・植物などはすべて微細な電流を持っているから、岩石にも電 流があるはず。それを取り出すことができれば、未来の電池となるかもしれ ない。     これを読んで、『光の黙示録』154ページにある以下の記述を思い 出しました。     『科学者の人たちに、もっと磁力線や磁場の研究を進めてもらいたい と我々は思う。そして「光」の研究に結び付けて欲しいと思う。     遠赤外線の研究は、いいところまでいっている様子だ。あと、もう少 し。自分達の立っている足元の地球の中に、そしてあなた方の回りに、 あなた方に必要なエネルギーの総てがある。』  以上、とりとめもなく(^^;。 しまうま(KFQ02761) 918/922 MHD02672 TAO RE:『眠れる異能者への伝言』より ( 9) 96/07/16 00:04 913へのコメント コメント数:2  #913 しまうまさん   どうも(^^)。ご紹介頂きました『眠れる異能者への伝言』についてはKAZE  さんの部屋で知っていましたが、まだ入手していないのです(__;。今度のし  まうまさんが要領よくまとめられたダイジェストのお陰で、興味を一層かき  立てられましたので、是非入手したいと思います(^^)。   丹後地方には出かけたことがありますが、確かに酒呑童子等の鬼絡みの伝  承が数多く残されていますね。鬼の博物館なんてのもありますし。なお丹後  旅行については、#406で報告しています。大江山にも登ったし、元伊勢や籠  神社にも行ったので、懐かしく思い出されました(^^)。   「九鬼」ですが、かってRTでみれさんからこんな話を伺ったことがあり  ます。記憶に頼っているので不確かな所がありますが、何でもみれさんが戸  隠に赴かれた際、こういうメッセージを受け取ったとか。「我はヒンドラな  り。雷神なり。九鬼の長なり…」という内容で、ここに九鬼が出てくる辺り、  アマ族としてのクガミミノミカサとの関係を思わせないでしょうか。   大物主神と言えば、こないだ出かけた出雲大社の主祭神ですが、鬼=モノ  と読むならば「偉大な鬼神」と読めなくも無いですね。   とにかく興味津々な内容の様ですので、入手次第、またコメントしたいと  思います。では〜。  TAO 919/922 KFQ02761 しまうま RE^2:『眠れる異能者への伝言』より ( 9) 96/07/16 13:02 918へのコメント コメント数:1 #918 TAOさん  こんにちは〜(^^)。 | 丹後地方には出かけたことがありますが、確かに酒呑童子等の鬼絡みの伝 |承が数多く残されていますね。鬼の博物館なんてのもありますし。  そうそう、その「鬼の博物館」の館長さんとの対談も掲載されてますよ(^^) >『眠れる異能者への伝言』。 |「我はヒンドラなり。雷神なり。九鬼の長なり…」  なるほどー。確かニギハヤヒノミコトも「雷神」の性格をもってるんじゃな かったでしたっけ? 違ったかなあ……。  あと、クガミミノミカサは「陸耳御笠」と書くそうですが、同書によれば鳥 取にも「陸上」と書いてクガミと読む地名があるそうです。九鬼の本拠地が熊 野だとすれば、熊野→丹後→鳥取と、その一族の一部が移動していった可能性 もありますね。その先は出雲ですから、「クカミ」によって熊野と出雲が結び つくのかも(ややぶっ飛び気味(^^;)。 |  大物主神と言えば、こないだ出かけた出雲大社の主祭神ですが、鬼=モノ | と読むならば「偉大な鬼神」と読めなくも無いですね。  僕もそう思いました(^^)。  で、改めて自分の頭の中をひっくり返してみると、「オオモノヌシ」「オオ クニヌシ」「オオアナムチ」「ニギハヤヒ」というのが、けっこうゴッチャに なってしまっています(^^;。どれがどう違うんでしたっけ? もし参考にする べきアーティクルや書籍があれば、ご教示くださいm(__)m。  ではでは〜(^^)/。                 しまうま(KFQ02761) 921/922 MHD02672 TAO 鬼神の系譜 ( 9) 96/07/16 23:55 919へのコメント コメント数:1  #919 しまうまさん   どもども。『眠れる異能者への伝言』、今夕購入しました。まだ途中まで  しか読んでいないのですが、文章が平易で読みやすくて、しかもなかなか刺  激的な内容ですね〜。  ***   筆者は三種類の鬼があったとし、下記のように分類していますが、これは  面白いですね。   1.異形の者(外国人や奇形の者等)   2.当時の社会風潮と合わなくて封じ込められた、純粋なる者   3.異能者、特殊な力を持つ者   この部屋の主旨と多少ずれますが、ここから考えたことを言ってみたいと  思います。   この本は「人間とは何か」という問いかけも行っていますが、社会の秩序  や価値体系や権力構造を揺るがす様な、そういう能力を持つ存在が「鬼」と  いうレッテルの下に封じ込められたのにもかかわらず、日本人の中には依然  として「鬼」という“遺伝子情報”が抹殺されずにプールされているんじゃ  ないか…と思ってしまいました。   この「鬼」とは、日本人の土着的な個性を日本語で表現すればこういう感  じのものになってしまうと思いますが、英語で表現すればどうなるのでしょ  うね。筆者との対談に登場してくる、「鬼の博物館」館長・村上政市氏も「  鬼とは、英語で言うデーモンやデビルとは全く違う存在、世界に通じる言葉  にしたい」と述べられていましたが、私見を言うと「モノリスを抱えた者」  とも解釈出来るかな。どちらにしても、顕現されなければならない力の象徴  みたいに感じます。  ***  >>  確かニギハヤヒノミコトも「雷神」の性格をもってるんじゃなかった  >> でしたっけ? 違ったかなあ……。   いや、神格では無く人間の名前でしょう。古代では神と人間の区別が曖昧  なんですけどね(^^;。日本では不幸な死に方をした人間が神になるという、  いわば「御霊信仰」が受け継がれて来ていますが、死者が神に化したのが「  鬼神」に他ならぬという見方も出来そうですね。  >>  九鬼の本拠地が熊野だとすれば、熊野→丹後→鳥取と、その一族の一  >> 部が移動していった可能性もありますね。その先は出雲ですから、「ク  >> カミ」によって熊野と出雲が結びつくのかも(ややぶっ飛び気味(^^;)。   うーむ。熊野から出雲へ同じ一族が移動したのでは無いかという説は、例  えば梅原猛氏等も唱えていますし、熊野と出雲に似通った地名が非常に多い  ことから考えても、あり得るかもしれません。   大物主神=鬼神説ですが、今日『鬼と天皇』(大和岩雄著/白水社刊)を読  み返していたら、下記のような箇所に当たりましたので、引用します。      皇祖神は、「吾、葦原中国の邪しき鬼を揆ひ平けしめむと欲ふ。当     に誰を遣さばよけむ」といい、「邪しき鬼」を討つ二神(武甕槌神・     経津主神)を選んでいる。選ばれた神は、高天原から葦原中国へ天降     りして、「諸の順はぬ鬼神等を誅ひ」、大国主神に「国譲り」を強要     している。      国譲り神話では、国譲りに反対した建御名方神は、出雲で高天原の     神と戦って破れ、信濃国の諏訪まで逃げ、諏訪大社の祭神となってい     る。      諏訪大社と大物主神を祭神とする大神神社が密接であることは、拙     著『神社と古代王権祭祀』や『神社と古代民間祭祀』で詳述したが、     諏訪大社の大祝の神氏は大神氏と関係があり、大神神社でも建御名方     神を祀っている(『和名抄』によれば、信濃国諏訪郡には「美和郷」     がある)。      このような関係からみても、大物主神と建御名方神は同性格であり、     「諸の順はぬ鬼神」の代表神を大物主神とみてよいであろう。                         (同書40頁〜41頁より)   もう既に「大物主神=鬼神(国津神)」説は唱えられていたのですね(^^;。  しかし説得力がある推論だと思います。この本は「鬼」の精神史的な系譜に  ついて詳細に述べている好著ですので、お勧めです。  >>  で、改めて自分の頭の中をひっくり返してみると、「オオモノヌシ」  >> 「オオクニヌシ」「オオアナムチ」「ニギハヤヒ」というのが、けっこ  >> うゴッチャになってしまっています(^^;。どれがどう違うんでしたっけ?   オオクニヌシ=オオモノヌシです。オオアナムチは「オオナムチ」では?  オオナムチもオオクニヌシで、この神は実に数多くの異名を持っており、他  にもまだ沢山あります。ニギハヤヒはスサノオの息子ですが、オオクニヌシ  はスサノオの娘婿です。中矢伸一氏著の『神々が明かす日本古代史の秘密』  (日本文芸社刊)の69頁には、「アーリオーンにより示された系図」が載って  いますから、それを見て確認しましょう(笑)。   ではでは。  TAO 922/922 KFQ02761 しまうま RE:鬼神の系譜 ( 9) 96/07/17 13:37 921へのコメント #921 TAOさん  こんにちは(^^)。  そうそう、活字も大きいし、けっこう読みやすいですよね>『眠れる異能者 への伝言』。 |                         日本人の中には依然 |として「鬼」という“遺伝子情報”が抹殺されずにプールされているんじゃ |ないか…と思ってしまいました。 |                 私見を言うと「モノリスを抱えた者」 |とも解釈出来るかな。どちらにしても、顕現されなければならない力の象徴 |みたいに感じます。  TAOさんのこの文を読んで、昔のARIONの言葉を思い出しました。 『また、太古の昔から伝えられた神々の大いなる力も、  この「新しき神経組織」に関与してくるだろう。  あなたがたの血液の中に漂う「モノリス=DNA」が、  生きた脳の思考パルスにより、電気の脳から電気神経組織を伝わってゆくだろう。  あなたがたの作りだした最も新しいテクニカル・ブレーンは  あなたがたの身体の中に漂う最も古い「モノリス」に繋がる。』 『日本の強さは、この「面」指向性にあると言っても過言では無いが、  これが足元から揺らいできている。  揺らいでは来ていても、まだ倒れてはいない。  これを倒すには、日本人の「血」の総入替えをせねばならないだろう。  「血」の中の伝統的チップの数は毎年減っているのは確かだが…。』  ここで言われている「モノリス」「血」が、TAOさん流に言えば「鬼の遺伝子」 ということになるんでしょうね(^^)。  あ、どうして僕が「ニギハヤヒ」と「雷神」を頭の中で結び付けてしまった のか、思い出しました(^^;。京都には「賀茂別雷神社」というのがありますが、 「賀茂」って、確かニギハヤヒ系の子孫の姓ですよね。だもんで、「賀茂」を 間にして「雷」と「ニギハヤヒ」が結びついてしまったのでした(^^;;;。 | オオクニヌシ=オオモノヌシです。オオアナムチは「オオナムチ」では? |オオナムチもオオクニヌシで、この神は実に数多くの異名を持っており、他 |にもまだ沢山あります。ニギハヤヒはスサノオの息子ですが、オオクニヌシ |はスサノオの娘婿です。  あ、なるほど、そうでしたっけ(^^;。ちょっと読み直してみますね>中矢氏 の著作。  『鬼と天皇』のご紹介、どうもありがとうございました。機会があったら探 してみます(^^)。  ではでは〜(^^)/。                 しまうま(KFQ02761) 920/922 CQE06546 みぃにゃ RE: RE:『眠れる異能者への伝言』より ( 9) 96/07/16 20:57 918へのコメント  TAOさん、ごめん横レス!! 》「我はヒンドラな 》 り。雷神なり。九鬼の長なり…」  震えとひらめきが来た。  忘れないうちに書き留めておかなきゃ!!  「支えであり、道であるもの、天へ向かって真直ぐに伸びる」  なんなの?よくわからない。  まだ、未消化のイメージだけだ! ☆♪☆みぃにゃ☆♪☆ - FARION MES(12):精神世界裏表 ★ ニューエイジビジネス を斬る 96/07/18 - 01238/01247 MHA01114 シュメ−ル O-157問題について (12) 96/07/17 07:48  O-157問題は複雑な(あるいは結果的には単純な)背景をもっていそうな雰 囲気だ。様々な情報が飛び交うでしょうが、ここの会議室の趣旨に沿って、そ れぞれが事実と推測との距離を見極め、情報源を確認しながら、根拠ある推測 を試み、真相に迫って行くべきでしょう。情報操作の華やかなこの世紀末、マ ス・マインド・コントロールの時代を賢明にのりきりたい。  一輝さん、ここでO-157関連情報の交通整理は可能ですか? - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/07/18 - 04873/04885 GGA02514 KAZE RE:中道論15●風説維摩経8 (13) 96/07/14 21:27 04871へのコメント 諏訪みのるさん、どうも。 すっかり暑くなりました。 まだこちらは梅雨明け宣言はないですけど、 昨日などは気温も34度まであがったくらいです。 昨日はそうした雲ひとつないようなギラギラの炎天下のなかで 一日中CMの撮影をしていまして、そのおかげで今日はそのときの日焼けで 陽にさらされていたところがひりひり痛んで仕方ないくらいです(・・;)。 そういえば、昨年も7月頃に京都の38度ほどの気温のなかで、 撮影キャラバンを組んでましたが、暑いのが苦手なぼくのようなタイプほど こういう過酷な目に会うようなめぐりあわせになっているのかもしれません(^^;)。 さて、 》「火中に蓮華を生ずる」とかと聞くと、 》同じく「蓮華微笑」をすぐさま連想してしまいますが、 》この会議室でも、事ある毎に、 》こうした姿勢について考えさせられる重要なテーマだと私も改めて感じました。 そうですね、炎天下で撮影すると悟りが開ける・・・ってのはないですが(^^;)、 そういう物理的な過酷さはともかく、試練の状況をあえて選びながら、 狭い自分の枠を超えて、自他ともに生かす道を探ることは非常に重要なことですよね。 狭い自分の枠で、悟った気になることはそう難しいことではないかもしれませんが あえてそうした困難な道をとることは、結局は、 自分という存在を大きくすることにつながります。 逆に言えば、そういう困難さのなかからでしか、 みずからを高めていくことはできないのだともいえそうです。 ぼくなどは、まだまだ狭い自分にとらわれたまま、 その自分のことだけに汲々としているだけなので、 そこらへんの課題を背負う勇気をもたねばと思っているのですが、なかなか……(^^;)。 》つまり「毒」の「毒たる所以」に精通した者だけが、 》「薬王」と呼ばれるにふさわしい訳ですね。 確かに、「毒」を排除した「薬王」っていうのはありえませんね。 その「毒」を含んだ「薬」の「王」は、 さまざまな「薬」、つまりは「方便」によって衆生を救済していきます。 仏陀は「すべては方便なのだよ」といったという話を聞いたことがありますが、 どれだけの方便使いこなすことができるかが、 さきの、火中に蓮華を生じさせるためにもキーになってくるのでしょうね。 そういえば、「王陽明」の「伝習録」の冒頭にも、 王陽明のそれに類したことばがありますので、それをご紹介したいと思います。 (中公バックス/世界の名著19よりP319)   聖賢が人に教えるのは、ちょうど医者が薬を投与するときに、常に病に応じて   それを処方し、体力や熱の有無、また病気の箇所や症状のいかんなどを診た上   で、その都度、匙を加減するのと同じである。その目的はあくまで相手の病弊   をとり除くことにむけられているのであり、あらかじめ定まった処方をもって   相手に臨むわけではない。というのは、もし或る一つの処方だけに固執してい   ては、結局、相手を殺してしまうことになるからだ。    世の中には、一つの処方箋だけで、すべてに臨むような方もたくさんいますが、 やはり現実というのは、そういう固定的なものではないことを知っておきたいですね。 とくに教師などという存在がそうであっては、「結局、相手を殺してしまう」ことを 肝に銘じなければならないのだと思います。 では、では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04874/04885 KFQ02761 しまうま 『眠れる異能者への伝言』の感想 (13) 96/07/15 10:49 04868へのコメント コメント数:1 #04868 KAZEさん  どもどもです(^^)。  いやー、久々にエキサイティングな本でした!  古代史関連のことでも色々とおもしろいことがあったので、その話題は9番 に書き込ませていただきましたm(__)m。 |これは、基本的に、古代から意味深く、封印される形で保たれてきた力を |そのままの形ではなく、現代に必要な形としてどのように顕在化させていくか、 |ということについての一つの指針として読むことができると思います。 | |そのひとつのキーが「自我」であり、 |もうひとつのキーが「橋」「架け橋」(「間人」とかいうのも出てきますよね) |だとぼくは思っているのですが、果たして・・・・・。  そうですねー。まだ頭の中で考えがまとまっていないのですが……。  古代の「異能者」たちは、たぶん「自我」を滅する方向で修練を積むことに よって、「異能」を発揮していたんじゃないかと思います。あらゆる原始宗教 が「本能的な欲望」を形にすることを禁じていたように、ひたすら禁欲的な生 活を送ればそれでよし、もしくはムラとかクニとかの単位にうまく組み込まれ 得る、「我」を張らない性格が養われさえすればそれでも可、みたいな感じだ ったんじゃないでしょうか(その傾向はアジアのほうが強かった?)。  でも、今はそれじゃ通用しなくなってきている。なぜなら、太古に蒔かれた 「自我」のタネが徐々に芽吹き始めているからだ。というのが、この本の主張 するところであるみたいです。つまり、「自我を滅する」「欲をひたすら抑え る」というやり方は時代遅れであり、これからは「自我を正しく成長させなが ら自らの能力(“異能”に限らず)を発掘していく」のがトレンド(^^;、とい うことでしょう。そのためにも、自分の「欲」や「固定観念」「自己規制」 「自己イメージ」といったものと真正面から対峙しなければならないのであり、 また、それだけの下地はもうできている(はずな)んだと思います。  考えてみれば、「ひたすら神様のおっしゃることに忠実なだけの下僕」を量 産したいのであれば、「自我」なんてないほうがいいんですよね(^^;。それで もここまで「自我」が発達してきたということは、やっぱりなんかしら必要な ものなんでしょう。きっと。一人一人が自立して、自律的に動くことが、これ から大切になっていくんじゃないかと思います。  で、そういう自律的な人間の間に発生する協調が「組織なきネットワーク」 というやつなのかもしれませんね。  で、自我の発達の過程においては、知覚・感覚・感情などの分離と統合、と かいう作業が必要になってくるんだと思うのですが、そこで「分かたれた事ご とを再び繋ぐもの」としての「架け橋」が必要になってくるんでしょう。たぶ ん(^^;。  うーん、まだちょっと混沌としているので(なにより実体験が伴っていない ので(__;))、できれば、KAZEさんとお話しさせていただきながら考えをまとめ ていきたいです。お手数ですが、よろしくお願いします(^^)。                         しまうま(KFQ02761) 04876/04885 GGA02514 KAZE 自我・内なるキリスト・自分を観る・虎 (13) 96/07/15 13:17 04874へのコメント コメント数:3 しまうまさん、どうも。 いい機会ですから、自我の問題と日本人の課題等について、 いっしょにお話しながら、整理していければと思いますので、 よろしくお願いしますm(__)m。 最初に、すこしぶっとんだ内容も含めて、 今ぼくの考えていることのいくつかをスケッチ的にお話してみようと思います。 かなり、飛躍しているところもでてくると思いますが、 ま、そうしたところは追々ご説明させていただくことにして、 とりあえずアウトラインをば。 》 古代の「異能者」たちは、たぶん「自我」を滅する方向で修練を積むことに 》よって、「異能」を発揮していたんじゃないかと思います。あらゆる原始宗教 》が「本能的な欲望」を形にすることを禁じていたように、ひたすら禁欲的な生 》活を送ればそれでよし、もしくはムラとかクニとかの単位にうまく組み込まれ 》得る、「我」を張らない性格が養われさえすればそれでも可、みたいな感じだ 》ったんじゃないでしょうか(その傾向はアジアのほうが強かった?)。 「「自我」を滅する」というよりは、 いわば「集合的な自我」の力を発揮していたといったほうがいいかもしれません。 そこらへんのことは、ユダヤやキリストのことを考えてみればいいと思います。 アブラハムはヤハウェと「契約」しますが、 その契約は個としての自我による契約ではなく、 集合自我というか民族魂といったレベルでの契約だといってもいいと思います。 それは、パウロの言った「内なるキリスト」と対比してみればよくわかります。 「戒律」によって外から民族としてのアイデンティティを重視したユダヤに対し キリストは「愛」によって内から「個」としてのアイデンティティーを重視します。 さて、話を天照大神の天磐戸開きのことに強引に持っていきたいと思います^^;。 この天照大神を「自我」「キリスト」を象徴するものだと考えてみてください。 太陽神「キリスト」としての天照大神は、あの天空に燦然と輝くような 外的な存在として崇拝される存在としてとらえることができますが、 その存在が、天磐戸に隠れてしまうわけです。 そのときには、天照大神は、もはや、外的に崇拝できる対象ではなくなり、 その天磐戸を人間そのものとしてとらえれば、その内にある存在となります。 しかし、その天磐戸はしっかりと閉じられてしまっていて、 その力は外に顕現できるものではなくなっている状態です。 ですから、その天磐戸が真に開かれたとき、その力は、 かつて天にあったときのものが人間の内なる力として顕現してくるのだといえます。 もちろん、騙されて開かれた扉からでてきた天照大神は偽物で、 その扉を真に開かないといけないというのが、まさに現代の課題です。 かなり説明をはしょってますが^^;、ともかく、 外なるキリストを内なるキリストとして顕現させるということ、 そして集合的な形で働く自我を個として顕現させることが重要で、 そのための「種」として蒔かれたのが、AMA族という種であって、 その自我の力は、一度天磐戸に封印され、そのなかで着実に育ちながら、 現代という時代に真の天磐戸開きによって顕現される必要があるというわけです。 それは、ユダヤからキリストへという転換と同じく、 集合的なあり方から個としてのあり方において、 同じ力が姿を変えながら顕現していくという方向性ではないでしょうか。 特に、日本という磁場は、自我を根付かせるに適したところで、 古代において、その磁場にAMA族という自我の種を植え込み、 それをいきなり芽吹かせるのではなく、じっくりと時間をかけて熟成させ、 適した時代の訪れとともにそれを発芽させ、育て、花を咲かせ、稔らせる……、 そういうことが計画されたのではないかとぼくは推理しているわけです。 》              つまり、「自我を滅する」「欲をひたすら抑え 》る」というやり方は時代遅れであり、これからは「自我を正しく成長させなが 》ら自らの能力(“異能”に限らず)を発掘していく」のがトレンド(^^;、とい 》うことでしょう。そのためにも、自分の「欲」や「固定観念」「自己規制」 》「自己イメージ」といったものと真正面から対峙しなければならないのであり、 》また、それだけの下地はもうできている(はずな)んだと思います。 「それだけの下地はもうできている」からこそ、 「自分を観る」ということが可能なわけだし、 (それが可能でなければ、「観る」べき「自分」なんかないわけです^^;)、 そのときの要注意ポイントとして「虎」がでてくるわけです。 「自分を観る」というのは、当然、外に向かう方向ではなく内に向かう方向です。 かつて、太陽霊としてのキリストは外的な神でしたが、 それが内的な神的原理として顕現する方向性をとりました。 それが、ゴルゴタの秘蹟です。 それ以来、人間は、内なるキリストを見出す可能性を得ました。 もちろん、あくまでも「可能性」ですが^^;。 しかし、内を観るということは、大きな危険性を伴うことでもあります。 真に内を観るためには、「虎」を制御することがどうしても必要です。 つまり、「欲」のゆがみによって、それがゆがめられて見えるからです。 それはルシファーの働きであるともいうこともできます。 ルシファーというとなんだか悪魔の代表のようなイメージがありますが、 ルシファーというのは、本来「光輝く者」で、そのフィルターを正すことで 真のルシファー、「光のルシファー」を観ることができるわけです。 ということで、「自分を観る」ということは、 「内なるキリスト」を顕現させるということでもあり、 そのためには、「虎」をしっかりと制御しなければならないということ。 そして、それが可能な「種」である「自我」はすでに蒔かれ、 それが生長する可能性の段階にまで至っているということがいえます。 しかし、その「種」は、低次の自我としてしか生長しない危険性も大きくあり その場合は、もはやその自我は、「自らの由」である「自由」を失い、 自立する可能性をなくし、だからこそ「組織なきネットワーク」のための 基礎的能力を欠くことになります。 》 で、自我の発達の過程においては、知覚・感覚・感情などの分離と統合、と 》かいう作業が必要になってくるんだと思うのですが、そこで「分かたれた事ご 》とを再び繋ぐもの」としての「架け橋」が必要になってくるんでしょう。たぶ 》ん(^^;。 そこらへんの「高次の自我」を顕現させ育てていくための基本的な考え方は 今、「いか超」で説明しているところですが(^^)、 まさに、高次の自我こそが「架け橋」であり、 そこに「天」と「地」が結ばれていきます。 思考、感情、意志を切り放し、それを再統合する話ですが、 思考、感情、意志が切り放されると、人間は実際何をするかわからなくなります^^;。 つまり、まさに自我の暴走になるわけです。 だからこそ、そうする前に、高次のあり方で統合の力を身につける必要があります。 それが、例の「中道」の原理というわけです(^^)。 なんだか、今ぼくのやってることのネタばらしって感じですが^^;、 ま、そんな感じで、自我とそれが結びの原理になった橋渡しが 非常に重要になってくるという話なのでした。 かなり、説明不足で、雑ですけど^^;、とりあえず、問題提起でした。 では、では。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 04875/04885 GGA02514 KAZE 風の本棚●スーフィーの物語 (13) 96/07/15 11:23 ■イドリース・シャー「スーフィーの物語/ダルヴィーシュの伝承」(平河出版社) スーフィーたちの語り継いできた知恵と寓意に満ちた82の物語。 それらの物語は、読み手次第でその秘められた意味が明らかになるといいます。 スーフィーについては以前からとても関心があったのですが、 このようなまとまった物語集としてふれるのははじめてのことで、 とても興味深く読むことができました。 確かに、一見何気ないただのお話のようにも読めるものでも、 そこには隠された宝物が隠れていることがわかります。 なかには、「群盲象をなでる」話や「猿のつかまえ方」の話や グリム童話にも収録されているような話もありますが、そうした話はどれも、 深い叡智を伝承の形で伝えてきたものなのだということがわかるような気もします。 グリム童話といえば、いわゆるメルヘンということになりますが、 メルヘンについてのシュタイナーの視点を参考にしていくと、 こうしたスーフィーの物語に隠された意味についても 理解のためのガイドになるようにも思います。 また、スーフィーといえば、もちろんイスラムなのですが、 イスラムに関する故井筒俊彦氏のさまざまな業績などを合わせて読まれれば、 こうしたスーフィーの物語についての理解はさらに深まるものと思います。 参考までに、本書の参考文献にも挙げられている井筒俊彦さんの著作や その他の参考になると思われるものをいくつか挙げておくことにします。 ■井筒俊彦訳「コーラン」(岩波文庫) ■井筒俊彦「コーランを読む」(岩波セミナーブックス/岩波書店) ■井筒俊彦「イスラーム文化」(岩波文庫) ■井筒俊彦「イスラーム思想史」(中公文庫) ■ルーミー「ルーミー語録」(井筒俊彦訳/岩波書店) ■R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」(平凡社ライブラリー) ■黒柳恒男「ペルシアの詩人たち」(オリエント選書2/東京新聞出版局) さて、恒例の引用紹介を。   昔々、モーセの師のハディルが、人間に警告を発した。やがて時がくると、特別   に貯蔵された水以外はすべて干上がってしまい、その後は水の性質が変わって、   人々を狂わせてしまうであろう、と。   ひとりの男だけがこの警告に耳を傾けた。その男は水を集め、安全な場所に貯蔵   し、水の性質が変わる日に備えた。   やがて、ハディルの予言していたその日がやってきた。小川は流れを止め、井戸   は干上がり、警告を聞いていた男はその光景を目にすると、隠れ家に行って貯蔵   していた水を飲んだ。そして、ふたたび滝が流れ始めたのを観て、男は街に戻っ   ていったのだった。   人々は以前とはまったく違ったやり方で話したり、考えたりしていた。しかも彼   らは、ハディルの警告や、水が干上がったことを、まったく覚えていなかったの   である。男は人々と話をしているうちに、自分が気違いだと思われているのに気   づいた。人々は彼に対して哀れみや敵意しか示さず、その話をまともに聞こうと   はしなかった。   男ははじめ、新しい水をまったく飲もうとしなかった。隠れ家に行って、貯蔵し   ていた水を飲んでいたが、しだいにみんなと違ったやり方で暮らしたり、考えた   り、行動することに耐えられなくなり、ついにある日、新しい水を飲む決心をし   た。そして、新しい水を飲むと、この男もほかの人間と同じになり、自分の蓄え   ていた特別な水のことをすっかり忘れてしまった。そして仲間たちからは、狂気   から奇跡的に回復した男と呼ばれたのだった。(P24-25)    この話を実際の社会にあてはめてみれば、なかなか背筋の寒くなる話です^^;。 はたして、自分はどうなのか?なんて……。 こうした話がたくさんつまった、なかなか素晴らしい本だと思います。 昔話でも読む感覚で楽しく読むこともできて、しかも内容が深い本書は、 なかなかのお買い得ではないかと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/07/18 - 04179/04183 HQK00566 SOUND 「炎で書いた物語」最終章(その7の6) (14) 96/07/16 16:29 04172へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その7の6)  <わかりあえる日まで>(その6)             **** >> >> この数を見よ、と片目の男は言った。 >> 愚かな数を見よと。    七月七日の「知ってるつもり」で紀伊国屋文左衛門の墓碑名を知った。「一無信士」 であった。 最高神一○信士である。 ○に十の字のマークにしても最高神の回転の姿であって この世に現れた最高神のひとつの姿であったような気がした。   この連を発言番号04084最終章(その6の4)で解釈したとき、   この数、愚かな数を四と一応解釈した。   そのとき、 ぼくの心には他のある数の可能性が浮かんでいた。 その数とは、零(○)であった。 そして、日を追ってその思いが強くなってきた。 零は目には見えなくとも常に存在する、ありとあらゆるものの基数である。 、それは一見なんの役にも立たない愚かな数に思える。 見ることのできない愚かな数なのだ。 その数を片目の男は見させようとしている。 なぜだろうか。 片目の男が伊奘諾尊であって一の数であれば、 その連れ合い伊奘冉尊が愚かな数○であろう。 おふたりで最高神一○であるのだから。  はなさんが以前、発言番号03771でタロットカードに言及されたとき、 >> ゴールデン・ドーン・タロットは、従来のタロットカードに比べて、 >>一風変わったデザインが施されています。 >> >> たとえば、カードの1枚目「0:愚者」は、タロットカードで有名な >>ウエイト版やマルセーユ版では「道化師」が書かれていましたが、ゴー >>ルデン・ドーン版では、純粋な子供の絵が書かれています。 >> >> タロットカードは、正位置と逆位置で意味が異なります。 >> >> 「0番:愚者」は、タロットの中でも最も意味をつかむのが難解なカ >>ードと言ってよく、正位置と逆位置ですら、解説書によっては意味を逆 >>にされているカードです。 >> >> それほど難解なカードを、道化師から子供の絵に変えてしまうとは、 >>カバラの知恵も分かっているゴールデン・ドーンのこと。本来の「愚者」 >>の意味が、子供の絵に隠されている気がしてなりません。   とおっしゃっていた。   ここからもぼくは、愚かな数を零と感じる。   無垢な子供であったり己を無にして人に喜びを与える道化師の数にふさわしく思え る。   宇宙の聖音「AUM」もその発された音の基には静寂がある。   数に入らなくとも常に静寂がある。 色の場合は普段、七色と呼んでいるが、光の基は透明または白である。 それを数に入れないで七色に数えているのである。実は八色なのだ。 八色であり七色であることによって八七(はな)開くのである。 音にしても色にしても数にしても知覚されないものは零とされてしまう。 それが、愚かな数の由縁であろう。 伊奘諾尊伊奘冉尊の一○はディジタルの数字10として存在と無を果てしなくくり返し この宇宙を創造された。 ありとあらゆるものはおふたりの姿である。   *******************************************  しまうまさんにいただいたマヤ関連の数字情報 ◎マヤ数字 >>(1)  ・   (2) ・・  (3) ・・・  (4)・・・・ (5)____ >> >>(6)  ・   (7) ・・  (8) ・・・  (9)・・・・ (10) ̄ ̄ ̄ ̄ >>   ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄ >> >>◎新羅人(漢民族)の数字 >>(1)  |   (2) ||  (3) |||  (4)|||| (5)____ >> >>(6)  |   (7) ||  (8) |||  (9)|||| (10) ̄ ̄ ̄ ̄ >>   ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄    ̄ ̄ ̄ ̄     これによって  ARIONがなぜ*マークを数字に使用するのかわかったような気がした。 *マークはasterisk(アステリスク)と呼ばれる星印である。 ARIONはマヤや新羅流に星印を使っているのだ。 新羅のソシモリはスサノオが次男の五十猛(いたける)神と降り立ったところとされ て いる。 ARIONがその数字を使うには使うだけの意味があるのだろう。 それはマヤ族とスサノオの関連を匂わせる手段なのかも知れない。  >>十字の真下に穴があった。  >>緋色の紐が投げ入れられたが、  >>それは飢えた者に盗まれた。    ぼくの脳の古皮質にこびりついている忘れ去ったはずの記憶なのか妄想なのか幻想な のか、  時折浮かび上がるとりとめのない思いをもう一度記しておく。      超古代、一万二千年前のムー大陸沈没後、   日本、霊の元(ヒノモト)に遺された神の聖(日知り)、日(霊)継ぎの民たちは   分かり会える日(霊)を期して世界各地に分散していった。   われわれは他国の文化をこの国にみるときすぐに渡来文化と判断しがちだが、   IターンUターン、さらにTターンSターンの可能性もある。   かれらは地球上を網の目のように翔け、文化の種を籠の目の篩(ふるい)から撒い た。   日知りの民は知だけに溺れることなく、日を知る者、   すなわち、その字のごとく日を土台にした智者であった。       縄文(ジャウモン)(シャーマン)人は   ユーラシア大陸を旅してジャーマン(GERMAN)となった。   スメラ族はメソポタミアにシュメール文明を開く。   カムイ族は太陽の帝国、インカ帝国を築いた。   そして アマ族の系譜を継ぐヤマ族はアメリカ大陸へ到達し、   マヤ文明においてピラミッドを造った。   かれらがもともといた日本は山国で山そのものが日来霊堂(ピラミッド)であっ た。   かれらは信仰のために故郷の三角形の山に似た人工のピラミッドを必要とした。      「十字の真下に穴があった。」   マヤの人々は十字そのものを神として崇めた。   しかし、その信仰には穴があって、スペイン人コルテスによって滅ぼされた。   「緋色の紐」   系に非なる宗教、カトリックの悲母、マリアが投げ込まれた。   宣教師、ディエゴ・デ・ランタによる徹底的な焚書が行われ元の宗教は封印され た。   「それは飢えた者に盗まれた。」   新たな入植者にその元の信仰は盗まれて現在に至る。   それゆえなんのためにピラミッドを造ったのか不明になってしまった。       今回はアステカということばの封印外しを試みよう。  奈良のアスカになぜ飛鳥というとても読めない字をあてるのであろうか。  アスカは手抜きのアステカなのだ。。    AZTECA(アステカ)はピラミッドで有名であるが、  古代メキシコで鶴や鷺のような鳥のことをアステカと呼んだ。 鶴や鷺のような鳥といえばキンを最後に絶滅してしまった鴇(とき)が思い浮かぶ。 エジプトのピラミッドも守り神は鴇である。 なぜピラミッドには鴇が関係するのだろう。  「鴇」は文字どおり十がヒの回転する鳥ということである。 マヤ族がピラミッドを造ったのはかれらの元々の宗教に伝わる「八尺只の原理」の実現 のためと思われる。 以下に引用する発言番号04051最終章(その5の。)ですでに「八尺只の原理」について 簡単に説明した。 >>「八尺只の原理」(ヤタノゲンリ)というときは大きいと言う意味ではない。 >>「八田の原理」と書けば見えるように八方に開いた「米」形の蓮華が「田」の回転を す >>ることである。 >>「田」の中心に棒(天御柱)を立てて卍(スワスチカ)と逆卍(サヴァスティカ)の 回 >>転することである。 >>「田」の字は底辺を接した二つのピラミッド(正八面体)を真上から見た字なのだ。 >>「「田子の浦」のことばに隠されているように田」の裏にも同じ「田」がある。 >>われわれの眼に見える地上の山の三角形は隔り世ではまったく逆の三角形と底辺を接 し >>ている。 >>現界のピラミッドが卍(スワスチカ)回転をし、隔り世のピラミッドが逆卍(サヴァ ス >>ティカ)の回転をする。 >>そしてあるとき、磐戸が開く。 >>そのためにスパスシフィカは逆卍(サヴァスティカ)の回転をしているのである。 >> >>その回転が極まったとき真横から見れば上の三角(ミスミ)と下向きの三角の交点が 融 >>け合い、ダビデの盾あるいはソロモンの封印と呼ばれるカゴメ紋を形成する。  マヤ族は十字を神と信じ、その回転の力(八尺只の原理)を知っていた。  そのためにピラミッドを建設したのである。 ピラミッドを真上から見た 十が時計回転すれば卍スワスチカ(swastika)。 逆回転すればサヴァスティカ(savastika)。 こうして並べればあなたの目にも自ずとアステカの封印が浮かび上がるだろう。  卍のなかに埋め込まれていたアスティカの封印、 それを鴇の回転によって外そう。 梵語であるはずのスワスチカ、サヴァスティカがアスティカ(astika)を語幹に 持っている。 ついに卍の中にあって目隠しされていた アスティカが封印を解かれてわれわれの目の前に姿をさらけ出した。  主輪素霊力(スワスチカ)は元々ムーのことばであった。 古代インドにそのことばをもたらしたのは智(ひじり)者たちなのである。 ことばはさまざまな形のターンをくり返して各地に伝わる。 今、アスティカは新たな時代を拓くべく回転に拍車をかけている。 われわれの感覚器官では知覚できなくとも巨大な磁性体である地球は恐るべき速度で回 転している。 その回転によって物理の時間に習った磁場や電気はどのようになるのか。 そこに何が生じているのであろうか。      (つづく)    ♪♪音(SOUND) ♪♪ 04180/04183 PAG03134 はな 新生児出生率、また減少 (14) 96/07/16 22:03  「光よりの光」でアリオンはこう預言していました。 『 新生児出生率は下降の一途をたどり、このままでは政府は介入する   べき時期を逃すことになるだろう。』                      (光よりの光 p.198)  厚生省の「人口動態統計」によれば、1995年の出生数は約119 万人と前年より5万人ほど減りました。また、一人の女性が一生の間に 生む子どもの数は1.43であり、前年度の1.50を下回りました。  人間が種として残るためには、一人の女性が一生の間に子どもを生む 数、これを「合計特殊出生率」といいますが、この合計特殊出生率が 2.1以上が必要であるとされます。  厚生省の統計が出されても、政府は具体的な政策を打ち出すことなく 今年も集計結果だけが出されている状態です。                       はな 04183/04183 PAG03134 はな 伊豆で地震頻発 (14) 96/07/18 02:32  7月17日は伊豆大島で地震が頻発しました。 12:39 伊豆大島で震度2 12:51 (同上) 13:21 (同上) 13:26 伊豆大島で震度1 13:31 (同上) 13:59 (同上)  朝日新聞によれば、「十七日午前九時すぎから、伊豆諸島の新島付近 を震源とする小さな地震が多発し、午後三時までに有感地震七回を含む 百五十一回の地震が観測された。気象庁は同日、地震機動観測班を新島 に派遣、十八日には臨時の震度計を設置する」とのことです。  ちなみに、7月17日は阪神大震災から1年半たちました。これから 暑い季節が続きます。激しい暑さで多くの年輩の方がお身体をこわさな いか心配です。                       はな - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/07/18 - 01047/01048 QZY01267 猫の手 RE^4:躾、教育について (19) 96/07/17 21:52 01044へのコメント  わうさんRESをどうもありがとう。  わうさんもかなり仕事にこんを詰めているみたいですね。  私もどこかで見切りをつけようと思いつつ、足を抜けられずに居ます。      そうですね、私がしつけは嫌だ。という主張をしている限り話は平行線みた いですね。このままでは私の想いを伝えることをかえって遠ざけてしまいそう なので、しつけは必要だとして、ではどういう視点からしつけをしてもらえた ら子供である私が嬉しいか、というような書き方をしてみたいと思います。    しつけは、子供の未来に対して何らかのビジョンを抱いたところからするも のだと思います。親、またはその子の教育者がどういうビジョンを抱いている かでしつけの仕方は違ってくると思います。  子供の将来に、一流大学に入り、一流企業のエリートというビジョンを描い て子供にその道を歩ませようとする人もいるでしょう。私のように、どんな状 況であろうともその場その場を楽しんで生きていきさえすれば良いと思ってい る人もいるでしょう。  ただここで大事なのは、その思い描くビジョンというのは、親なり教育者が 抱くビジョンであって、その子供が抱いているものではないということです。 そのことを踏まえた上で、子供の自主的なビジョンを引き出すことがしつけを する者にとって大切な視点だと私は考えます。    例えば、「食事の時にひじをテーブルの上につかない」というのも、それを して貰いたくないというのは親の抱くビジョンからくる身勝手なのかも知れな いという可能性も考えます。(本当に身勝手なのかどうかは別問題です。)と するならば、子供に対しては、「肘を突かずに食べて欲しい。」とお願いすれ ば良いということになります。さらに、それをしてもらったらありがとうの気 持ちをしてくれた子供に伝えます。  このことから子供は、お母さんは自分が肘を突いて食べるのを見るのが嫌な んだということを知ると思います。そして肘を突かずに食べたら喜んでくれる ということを知るでしょう。そして子供がお母さんとの関係を良いものにして おきたいと思っていたならたぶんそれをするだろうし、そしてそれが習慣とな ってから、誰かの前でそういう食べ方をして嫌がられている人を見てお母さん にしつけておいてもらって良かったと思うかもしれません。  こういうしつけ方において子供はもっと重要なことを学ぶと私は思っていま す。私はそのことが大切だと思っています。  それは他者への依頼の仕方です。こういうお願い口調でしつけられた子供は 自分が何かを頼まれたとき(行動に対する選択権を自分に与えられて自分で選 んできていることから、)他の人に何かを依頼するときにもやはり同じ様にす るでしょうし、そしてそうすることにストレスを感じないでしょう。(なぜな らば、そうしたときに自分がいやな思いをした経験がないのですから。)そし て当然のように、自分が誰かにして貰いたいことがあったときにはそれが目上 であろうと目下の者であろうと相手にそれをするかしないかの選択権を与えた 状態でお願いするでしょう。たぶん、「なになにの時にはどうスベキダ!」と いうような思いは抱かないでしょう。そして、願いを叶えてもらえた場合には 感謝の気持ちを相手に伝えるでしょう。  これは、親と子、教育者といわれる者と子供が対等な関係に在るときのしつ けの仕方の基本になるものだと私は考えます。私の気に入っているアドラー心 理学ではこういうやり方を子どものしつけ方に代わる方法として『勇気づけ』 と呼んでいます。  私が上司と車に乗っています。その上司が今まで飲んでいたジュースの空き 缶をその車の窓から捨てようとしました。そのとき私はたぶんスーパーで買い 物をしたときに貰った空き袋を示してそこに捨ててくれるようお願いするでし ょう。そしてそれをしてもらったらありがとうと言うでしょう。たとえそれが 三才の子どもでも同じなんです。自分の上司にお願いすることをしつけと考え る人はたぶん居ないのではないかと思います。それが『勇気づけ』であるなら ば、上司に対してするのも同僚に対してするのも夫に対してするのも同じよう に勇気づけであっても構わないですし、一貫して誰に対しても同様な方法が採 れると思います。  前にも書きましたが、私は放任するのが良いとは言っていません。放り出さ れてしまったら誰かが拾ってくれない限り放り出された子どもは生きてはいけ ません。もし、「放任」ということが「子どもの言うなりになる。」というこ とならば、私は子どもの言うなりになることを良しとはしません。(同じよう に上司の言うなりになることさえも良しとはしません。)そして、その自分が 良しとはしないとき、どのようにそれを相手に伝え、どのような関係を持つか が大切なポイントになるのではないかと思います。その方法に上下の違いが私 にはありません。そのような『しつけ』を、『勇気づけ』と呼ぶのも良いかも しれません。でも、『しつけ』と『勇気づけ』の根本的違いは、『しつけ』は 目上の人にはしないけれど、『勇気づけ』は誰にでもするというところです。  多くの人は子供の育て方は車を運転するよりも難しいと認識しているだろう と思います。なのに車の運転のためには何十万円も掛けて教習所に通うのに子 育ての仕方については本を数冊読み、これが良いんだと思い込み、勘をたより に、自分がどんなに厭な思いをして何をそのしつけによって選択したかを忘 れ、親になってしまうと人は子どもをしつけようとします。そして、子どもの 教育費に何十万何百万も掛けたりしています。  私は、思い込みからくるしつけは怖いと思います。しつけの対象となる子ど もが、そのしつけによってどういう感情を抱き、何を思い、何を選び、何を学 ぶのか、そのことに配慮がなされていないしつけの方法は勘と思い込みによる しつけと言われても仕方がないと思います。現代の心理学においてはその傷み をどうしたら癒すことができるのか、どうしたら傷つけずに済むのかという視 点を持つようになっています。科学の重要性は、実験による再現性に在るでし ょう。もし心理学が科学であるならばその理論には再現性が在るでしょう。そ こから来る報告をどう受け止めるかは一人一人の自由だと思います。  地球は平らだと言い続ける人が居たとしてもそれを間違いだとは一概には言 えないでしょう。自分が立って見える範囲で考えたらそういう結論にもなるで しょうから。地球が本当に丸いのかどうかは私も本当のところ知りません。た だ、地球の裏側と言われるアメリカという国やヨーロッパに行ったことは在る し、さまざまな通信衛星からの電波の恩恵を受けています。それらは「地球は 丸かった。」という根拠の元に生み出された物のようだということを教えら れ、そう認識してそれらを利用しています。  人間性心理学、トランスパーソナル心理学からの報告をどう受け止めるかは 誰もの自由だとは思います。私はそれらの報告をただ鵜呑みにして信じる必要 はないけれど、ずいぶん利用できるものは多いのではないかと思います。  私の発言の意図を汲み取って頂けたら幸いです。  これは今まで何十世紀もの間、連綿と受け継がれてきた教育論から考えると 青天の霹靂といった感のある子育て法ではないかと思います。  私はこの会議室に、理論的、理性的でありながら、今まで思い込まれてきた 観念からはぶっ飛んでしまっていることを綴り続けたいと思っています。  私の語るところに、理論的矛盾や受け入れ難いと感じる何かがあったなら、 もしかしたら、私の思い込みの部分があるかもしれません。そのことを検証す るために私はまた書き綴るでしょう。理解してもらえないのでしたら私は何度 でも同じことを可能な限り別の角度から掘り下げたいと思っています。それが 私が理想として抱く世界を生み出す助けをしてくれると思っています。  もし私が、私が語ることと違うことをしていると感じた方がいらっしゃいま したら指摘してくださるとともに、他にどういうやり方があるのか教えていた だきたいと思います。私は自分の想いを振り返りながらどうしていくか選んで 行きたいと思います。     ** QZY01267/『猫の手』デシタ <07/17 21:06> **