見あげると夜空にひときわ輝く天狼星… - FARION MES( 3):Media Talk ◆ 本/映画/音楽を語る 96/12/06 - 01489/01489 QZG02773 ウルヴィー ウルヴィー11月の本 ( 3) 96/12/05 22:58      読書の秋である(笑) 「創世の守護神 上・下」  グラハム・ハンコック ロバート・ボーヴァル 共著  大地 舜 訳  翔泳社 各 \1500   「オリオン・ミステリー」の著者、ボーヴァルと「神々の指紋」のハンコ   ックの共著である。前に神々の指紋の紹介でも書いたが、ハンコックには   いろいろ言われていることがありその著作を全面的に信頼することは難し   い(次に紹介する書を参照のこと)。しかしやはり読み物としては一級の   エンタテイメントになっていると思う。この本ではエジプト・ギザにその   焦点を絞っており、スフィンクスの下、地下に秘密の部屋があるという結   論に実に興味深く導いてくれる。こういう本を読むといろいろ論争してる   暇があったら掘ってしまえばいいのにと思うのだが、天皇陵を外国人が調   べてあーだこーだ言って「掘り返せ」と言われたときのことを想像してみ   るとそうもいかないのかと納得もするしな。しかし期待している。 「「神々の指紋」の超真相」  H.ユウム S.ヨコヤ K.シミズ 著  データハウス \1200   ベストセラーとなった「神々の指紋」の間違いを正そうと書かれた本。筆   者はこの手の本で結構知られた人間である。その明らかに挑発的、挑戦的   で気分を害するまでの文体はほめられたものではないが、問題点がいろい   ろと指摘してあるので「神々の指紋」を読んだ人間はぜひ一読しておいて   欲しい。中に出てくる巨石を運搬する方法「クレイドル」は単純な方法こ   そ気付きにくいということの一例である。ピラミッドは登ってはいけませ   ん(笑)。 「ICA 模様石に秘められた謎」  コルネリア・ペトラトゥ ベルナルト・ロイディンガー 著  赤根洋子 訳   文芸春秋 \1900   ICAとはペルーのイカ川で発見された様々な模様の刻まれた石である。   今までその存在を聞いたことがなかったのはひとりの研究者が世の中が   その石の存在を受け入れるようになるまで秘密にして大事に保管している   からのようだ。というのもこの様々な石の模様(翼竜に乗って空を飛ぶ人   間や、心臓移植や帝王切開の図など)が刻まれたのは、今から1万年以上   昔とされているからである。なかには明らかにステゴザウルスと思える絵   もあり、なかなかに興味深い。ただいかんせんこの本ではイカの石につい   てはほんのさわりの紹介のみにとどまっているのが惜しい。周辺をグルグ   ル回っているような印象なのだ。まだ公開できる時ではないということか。   「神々の指紋」といいそういう時代は結構すぐそこまで来ているのかも知   れない。 「やさしい唯脳論」  養老孟司 楳図かずお 著  メディアファクトリー \1000   90分で読める唯脳論(笑)。おなじみ養老氏と漫画家楳図かずおの対談を   収録した本である。帯にあるとおり短い時間で読める唯脳論のよき入門書   である。面白いよ(笑)。ぜひ読んで唯脳論の世界にはまって欲しい(布教   活動か(爆))              エスケープフロム L.A. を見てきた              やっぱりスネーク・プリスケン最高              「コール・ミー・ウルヴィー」(笑) - FARION MES( 6):ハロー・メッセージ ★ 今日のハロー・メッセージから 96/12/06 - 02008/02014 JCF02051 めのう 無言HM? ( 6) 96/12/05 21:21 コメント数:1  どうも、超ご無沙汰しております(^^;;;;   》……………  今朝方アクセスしたらいきなりこれでビックリしました。  皆で無口になってしまったのか、暗転なのか、もしや明日から新シリーズに  切り替わるのか.....ドキドキドキドキ                           ◆◆ めのう ◆◆ 02014/02014 KFQ02761 しまうま RE:無言HM? ( 6) 96/12/06 09:01 02008へのコメント #02008 めのうさん  こんにちは(^^)。こちらこそご無沙汰ですm(__)m。 |》…………… | | 今朝方アクセスしたらいきなりこれでビックリしました。 | 皆で無口になってしまったのか、暗転なのか、もしや明日から新シリーズに | 切り替わるのか.....ドキドキドキドキ  このHM、僕は「現実世界でのリアクション」に対する「間」であるように 感じました。  このHMの1カ月以上前から、天使は色々と焚き火民に話し掛けてきました。 その言葉の中には、僕が現実に活かすことのできる言葉もたくさんありました。  で、天使の話が一段落した(らしい)この段階で、HMの世界の中から天使 が(もしかして焚き火民たちも?)現実世界のほうに耳をそばだてて、どんな リアクションがあるのかを知ろうとしている、という感じを受けました。  一連のHMが、単なる「物語」でも「寓話」でもなく、僕たちが現実に経験 してきた、あるいは今後活かして行くべきある種の“事件”であることは間違 いないように思います。  「ここまで話してきたが、あなたはこの物語をどう捉えているのか?」と、 問われたような気が、『……………』を読んだときにしました。「単なるフィ クションであり、自分の生活には関係ない、と捉えるのか、あるいは自分の身 に引き合わせて実感をもって把握しようとしているのか、どっちだ?」と聞か れている、ような。  天使は、怒っているところよりも、黙っているところのほうが“怖い”気が します。  そういえば、こんなHMもありましたね。 |96/11/29 「いつまでもその状態に甘んじているのか…」天使は目を上げた |96/11/30 天使の目には青い炎が宿っている様に見えた…梟が鳴いた  『光の黙示録』に載っていた、「女性形のアリオン(悲しみと怒りの表情)」 の絵も、目の白目の部分が「青色」に描かれていました。  天使の目の「青い炎」が悲しみと怒りを表すように、『……………』も、何 かを伝えようとしている「間」なのでしょう。  この「間」から受け取るものは、人によって様々なのかもしれません。「間 (マ)」が「真」であったり「魔」であったりするように。で、この「間」か ら何も受け取ることができないのを「間抜け」というのかもしれません(^^;。  でわでわ〜(^^)/。 しまうま(KFQ02761) 02009/02014 GBG02043 維/YUI 12/04のハローメッセージに ( 6) 96/12/06 00:39 >>「己の意図を固定しマルチな視点を持とうとすると放散する」 このハローメッセージは、実感あります。(ったって、私の解釈としてだけど。) 自分(の意図)の居る位置を変えずに、マルチな視点は持てません。 というより、マルチな視点なんてないのではないかと思えます。 それができるとすれば、カミじゃないかという気がします。 自分が動いてみなければ、視点は変わりません。 分からない相手のことを考えるにあたっても、自分の位置から動くことなく 相手がなぜそういう考えをするのか等を実感するのは難しいです。 相手の考え方、行動の仕方にそって考えてみなければ、見えてこないものが あります。 一旦、自分の視点自分の考え方、価値観を横に置いてみると、何が起きたかが はっきりしてきます。 そして、それに対する相手の考え方が、どういうこと であるのかも、総てとはいわないまでも、分かりやすくなったりします。 固定した位置にある意図は、そこから対象に向かって放されることは あっても、根っこは動かないので、バラバラになっちゃうとか。。。 う〜んなんと言いにくい話だろう………… 維/YUI 02013/02014 KFQ02761 しまうま 意図の拡散と放散 ( 6) 96/12/06 09:01 02005へのコメント #02005 ばかままさん  こんにちは(^^)。 |96/12/04 「己の意図を固定しマルチな視点を持とうとすると放散する」  「意図」という言葉を聞くと、ばかままさんはついドンファンの言う「意図 すること」を思い出されるのでは……?などと想像してしまいました(^^;。  意図の「意」とは「心・心の動き・考え・気持ち」であり、「図」は「描い た形」ことです。すなわち「自分の心が描いた(描く)形」が「己の意図」だ と言えるでしょう。  「己の意図」を固定する、とは、「自分の心が描く形」を変えないようにす る、ということに繋がります。  「自分の心が描く形」を変えずに複数の視点を持とうとする……なんてこと が果たして可能なんだろうか?という気がします。視点を移そうと思ったら、 必然的に「心が描く形」も変形させなければならないんじゃなかろうか。  「心が描く形」を変えないままで、複数の視点を持とうとする(あるいは持 ったつもりになる)と、結局「めちゃくちゃ」になる。それが「放散」の意味 かなあ、などとも思いました。要するに「放たれて、散らかる」→「めちゃく ちゃになる」みたいな。  「拡散」と「放散」を比較してみると、「放散」の意味がより一層わかりや すい気がします。「拡散」は「拡げ散る」、すなわち「自らの意図を時間的・ 空間的に押し拡げる(自ら拡がる)」ことであり、「放散」は「放ち散る」、 すなわち「自分は今いるところに止まったままで、意図のみを放り投げ、散ら ばらせる」ということであるように思えるのです。  うーん、「放散」の場合に放り投げるのは、「意図」というよりも「意識」 といったほうが適切かもしれません。「放散」という言葉の語感は、「意識が 散漫になる」というのに似ている気がします。  でわでわ(^^)/。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):自分を観る  ★ ARIONを鏡にして 96/12/06 - 09146/09158 NBB01420 SUKE 外的価値観 ( 7) 96/12/05 21:18 09101へのコメント コメント数:1 #9101 YUKOさん >>SUKEさんは外的評価を余り気になさらないんですね。 いや、自分ではこれは場合によると思います。 たまたま住む所については自分の気に入るように出来れば良いと思っているだ けであって、自分を他人と比較して云々と言うことが生活の中に皆無であるわ けがないと思います。(^^;) 外的評価を気にして暮らすことばかりしていると、いつの間にか外的評価が自 分の支えになってしまいますが、世の中が混乱を増してゆく今の時期に外的評 価など揺れ動く頼り無いものになりつつあるのでしょうね。それでも内的評価 を自分の支えにすることを忘れてしまった人々は、もはや何を以て自分を支え たら良いのか分からなくなってしまう。 そうならないように、外的評価に捕らわれないで内的評価を自分の支えと出来 るように日々鍛練して行くことが、これからの世紀末をより良く生きて行くた めの実践の一つなんでしょう。 外的評価は決して無意味とは言わないけれど、それを自分の支えには出来ない ぞと言うことなんですね。                              Suke.(^_-)☆ 09156/09158 KFR04742 YUKO RE:外的価値観 ( 7) 96/12/06 08:40 09146へのコメント #9146 SUKEさん、こんにちは。 > いや、自分ではこれは場合によると思います。 > たまたま住む所については自分の気に入るように出来れば良いと思っているだ > けであって、自分を他人と比較して云々と言うことが生活の中に皆無であるわ > けがないと思います。(^^;) #9101 >>SUKEさんは外的評価を余り気になさらないんですね。 この発言は私が人と自分と他人を比べることを否定した上での発言でした。 これも決め付けだったんだ(__;)おかしな事いってしまいました。 ごめんなさい。 > 外的評価は決して無意味とは言わないけれど、それを自分の支えには出来ない > ぞと言うことなんですね。 私、外的評価を自分の支えにしようとしていたことをやっと自覚しました。 私はお隣の会議室の「凍えさん」してたんだなあと思います。 自覚なしにいたということはこの感情のまま暴走し放題だったんですよね。 恐ろしいことをしてた(__;) > そうならないように、外的評価に捕らわれないで内的評価を自分の支えと出来 > るように日々鍛練して行くことが、これからの世紀末をより良く生きて行くた > めの実践の一つなんでしょう。 その通りですね。 つまらない見栄はとっぱらって自分の足で立つ練習をしていくことが大切ですね。                              YUKO 09155/09158 KFR04742 YUKO 認めてほしい ( 7) 96/12/06 08:40 09141へのコメント #9141の続きです。 何故「認めてほしい」と思うのか。 これを逆に考えてみました。 最初私は自分の事を認められないのかな、と考えました。でもこれはちょっ と違う感じました。今回の様に腹を立てる相手は自分ではなくて、自分以外 の人や物事に対して怒っているからです。むしろ「認めてもらえない」と思っ ているんだと思いました。 認めてほしいという感情は妙に自分の昔の事ばかり思い出させてくれます。 ・母親に所有物扱いされ一人の人間として接してはもらえないことが悲しく て、嫌で、ずっと反抗していたこと。 ・学校の先生に「教師の娘」と言う目で見られて、それだけでひいきされる ことが悲しくて、嫌で、で教師という人は嫌いだと思うようになったこと。 ・友達からのいじめに遭うと私を否定された気分になって自分に自信がなく なって嘆き悲しんで暮らしていたこと。 ・いつだって人の目を気にして自分は嫌われるんじゃないか、と心配してい たこと。 ・いつも誰かに注目されたいと思っていたこと。 ・友達といてもいつも孤独感があったこと。 私の特に嫌な思い出です。 いつも今の私は昔の様な自分じゃない、そう思い込んで、昔の自分を忘れよ うとしていました。でも、目を背けていただけでちゃんと今も健在していま した。 私はいつも人に期待しているんです。 私は人からの評価、価値観にしがみついていたいだけだったんです。 私は甘えることばかり求めて、自立してなかった。自立しようとしていなか った。 自分自身で決断しなければいけない時に、逃げてばかりいたし、自分がこう と決めて、自分の責任でやり通す、ということをしてきた記憶は、ないです。 日常の細かな自分の行動さえ、責任をもって行動してないことが多いです。 自分に責任をもたない以上、いつまで経っても怒ったままなんだろうな、そ う思います。 ・自分がすること全てに責任をもって行動出来るようにする。 ・今までの自分が取った行動にも責任を持つ。 こう書いてみると当たり前の事なんですよね。私は当たり前の事をしない。 私は何で責任を負うことをしないのか、考えてみようと思います。                              YUKO - FARION MES( 8):恋愛錬金術  ★ 愛と性を本音で語る 96/12/06 - 01670/01670 CQE06546 みぃにゃ 区別・同化 ( 8) 96/12/06 06:18 01669へのコメント  ステラさん、こんにちは。  まだ、どうも本調子が出ないので、散文になってしまいますが。  このところ感じること。  人って、「好きな人、自分を受け入れてくれる人、周囲の人、と同じでいたい」 という『同化への欲求』と「好きな人、自分を受け入れてくれる人、周囲の人、 に自分はこういうものなんだとわかって欲しい」という『区別されたい欲求』 のはざまで揺れているのだなぁ。  「私は私」と、個へのこだわりが強いと自分で感じているあたしですが、 気になる人と同世代を生き、同じような感覚を持っていることに喜びを 感じるし、ほんの小さな共通点を発見したことですごくうれしくなっている 自分がいる。  意識して相手と同じ場所に(地理的な場所ではなく知識だとか、行動だ とかいった意味での場所)行こうとしてしまう。  でも、どこかで「まったくの同一」にはなれないとわかって諦めている あたしもいる。  そう、「諦めている」んです。  できることなら、「私」と言う「個」ではなく相手に溶け込んで混じり合って あたしというものではなくなるけど、相手のすべてに同化してしまいたい、 それって気持ちいいかも……と思ってしまう。  「違う」ということ。「同じ」ということ。  感情はそのどちらも、あるときは喜びに感じ、あるときは苦痛だと感じる。  難しいね。(´ヘ`;)ハァ   ☆♪☆みぃにゃ CQE06546@niftyserve.or.jp e-mail minya@x.age.or.jp☆♪☆ - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/12/06 - 05163/05164 MHD02672 TAO 性とコンパニオンシップ (13) 96/12/06 00:58 05152へのコメント  #5152 KAZEさん   どうも。タントラについてはどうもスキャンダルな響きが強かったのです  が、本来は、自らの男性原理と女性原理の調和を目指す精神的な鍛錬法でも  あったようですね。   さて、今までは「禁欲」というものの持つ「積極的な意義」が今一つ理解  出来ないでいたのですが、KAZEさんのおっしゃった  >> だからこそ、「禁欲」ということは、それなりに意味をもったわけです。  >> ちゃんとした操縦技術を教わってから、その上で試運転ということにな  >> るのですが、その本来の意味がわからなくなって、禁欲が自己目的化さ  >> れたり、その反対に、性エネルギーを大いに活用しよう!とばかり放縦  >> がはじまります。                             (改行位置変更)   には、「禁欲」には性エネルギーの無思慮な垂れ流しを防ぐという意味合  いもあったのだと理解しました。最近はエドガー・ケイシーのセックスに関  するリーディングを参照する機会があったのですが、その中「自己濫費」と  いう独特の言葉が出て来ます。自己を濫用する、つまり「有害な結果を招く  ような過度な性的行動に関わること」と捉えれば、これ以上言い得て妙な言  葉は無いように思えますね。   私自身、無防備で放縦な性行動に浸っていた時期がありますが、それらの  行動は人格を持たない肉体から肉体へと移り歩いているようなもので、自ず  から心身の消耗を招くものでしか無かったと思います。   その反面、霊的な道(霊主体従)を歩もうとする者にとっては性とは躓きと  なるものでしか無いという過度な潔癖主義もまた、性欲という虎を抑えてし  まうことで、性の持つ生命力をもスポイルしかねないばかりか、抑えられた  虎がより巧妙な化け方をして暴走するという危険性もありますよね(^^;。   結局「性」を忌避するのでも無く、また野放しにするのでも無いという真  ん中の道を歩むというのが理想的なのでしょうが、理屈では分かっていても  性欲の虎はそう大人しくしてくれないから(^^;、己の性エネルギーをコント  ロール出来るようになれるまでが一苦労ということになるのでしょうね。   ケイシーのリーディングの内に「純潔な肉体の愛およびそういう肉体への  愛は、実体が地上の巡礼で体験するもっとも聖なる体験の一つだ」というの  がありますが、性がより高次元の「愛の結晶体験」となる為には、相手との  コンパニオンシップの質をより高めて行く為の、絶えざる切磋琢磨が望まれ  るのだろうなと考えます。「言うは易し、行うは難し」ですが。  TAO 05164/05164 GGA02514 KAZE 風のfragments/21■随所に主となる (13) 96/12/06 12:00 05142へのコメント   清水 自分の身体の中のリズムと場から来る情報とが結びつくためには、   自分と対象との境界を初めから定めない、という姿勢が欠かせないのだと   思います。こういった姿勢は截相(きりあい)のみならず、学問上での新   しいことを創造するためにも非常に大事なことだと私は考えています。し   かし同時にそれは非常に不安なことでもあるのです。そういう状態でも相   手と截り相い、そこで主導権をとらなければならないんですね。   柳生 自分の心が問題になってくるんですね。自分の心が決定(けつじょ   う)できない状態で相手に対しても、絶対的な自由自在を発揮することは   できないわけです。「西江水(せいごうすい)」というのは、自分の心が   何ものにも煩わされないで「随所に主になる」というか、主体性を常に確   保できている心の状態をいうわけです。   (清水博「生命知としての場の論理/柳生新陰流に見る共創の理」(中公   新書/1996.11.25発行/P177-178) *ここで「柳生」とあるのは、柳生新陰流を継承している柳生延春氏のこと。 *「西江水」というのは、截相に際しての心の持ち所であり、禅書「碧巌録」 で、唐の馬祖とほう居士との禅問答に出てくるものです。 視点を固定してしまえば、そこから見える景色は固定する。 どんな眼鏡や双眼鏡や望遠鏡を用意したところで、見え方は変わらない。 視野の広さが広大無辺でも、認識のベクトルがひとつだと、観点は偏見である。 もっとも、視点を固定してしまえば、安心できる。 鉄壁の城を構えた城主のようなものだ。 けれどその安定性は、みずからを縛り付けるものともなる。 そのとき、城は内部から周囲を見るものでしかなく、 周囲から城を見る視点は想像の域を出ない。 周囲から城を見るためには、城をでなければならない。 けれど、城を出たらならば、どこから矢が飛んでくるかわからない。 そんな危険をおかしたくないばかりに、人は自らに閉じこもり、 その足場を固め、その場所をかぎりなく権威化しようとする。 それが砂の城であることに気づかないまま。 人は城の主でありながら、城の外にもあらねばならない。 そして、その城はこの世の仮の住まいでしかない。 本来、人はどこにいても主なのだ。 すべての場所にみずからの目があるということを主という。 それは固定された視点ではないから、ベクトルは無限である。 けれども、その無限は「私」という主体のなかに内包されている。 逆にいえば、無限のベクトルのなかに「私」という主体が内包されている。 随所に主となるということはそういうことではないか。 それは一即多、多即一ということでもあり、絶対矛盾的自己同一でもあり、 また神と我の逆対応ということでもある。 千手観音の千の手とは、そうした絶対的な自由自在の発揮された姿ではないか。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/12/06 - 04608/04612 HQK00566 SOUND RE^16:「炎で書いた物語」最終章8の3 (14) 96/12/05 17:05 04566へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その8の3) <戦士(さむらい)達は今>(その3)  このところ、厚生省の福祉行政汚職で「彩」という文字が 「彩光会」とか「彩(あや)福祉グループとして新聞上に踊っている。 ぼくはこの字を見るとくすぐったくなる。 他の県の方はご存じないと思うが このごろ、埼玉県は「彩の国」と自称しているのである。 以前、ダサイタマなどと呼ばれてプライドが傷ついた人たちがこう呼ぶことに決めたら しい。 「サイタマ」とは元々、「幸魂」で魂が幸(さき)わう土地であった。 「彩」という字面に惚れたイメージアップ作戦だったのだろう。 しかし、残念ながら、その「サイ」の中身が失われてしまった。 SAIの中身は愛(AI)だったはずだ。 彩の字に隠れて、本当に援助の必要な方のための補助金を 寄生植物のように官僚と食い物にする輩が出てきた。 せっかくの「彩」の文字のイメージが薄汚れてしまった。  今月の埼玉県の広報紙「彩の国便り」の彩という文字を見て違和感を感じながら いつもは読み飛ばす 「地域のページ、県南」を読んだ。 調(つき)神社の七不思議というコラムがあった。 読んでいるうちに、真の天照太神の御出陣を感じた。 ぼくにこの謎を解かせよう試みておられるようだ。 御心に沿ってみよう。  調「つき」とは変わった読み方だが ここは「つきのみや様」として親しまれているらしい。 辞書には「調」一文字で「つきのみや」と書いてある。 調(つき)神社に電話して祭神を尋ねると 「天照太神、豊宇気毘売(とようけひめ)、素戔鳴命」の三柱であるとのことだ。 天照太神と素戔鳴命は有名だが 豊宇気毘売についてはどんな神か、あまり知られていない。  一般的には、豊宇気毘売は伊奘諾尊の孫、和久産巣日(わくむすび)神の子で 伊勢神宮の外宮、豊受大神宮の祭神で五穀を司るということである。 カゴメの線を辿ると丹後一の宮「籠(この)」神社にゆきあたる。 奥宮に六芒星、カゴメ紋の真奈井神社があり、その祭神が豊受大神である。 以下、中矢伸一氏の「封印された日本建国の秘密」から抜粋する。 >>国宝「海部氏勘注系図」によれば、真奈井神社の項に、 >>「豊受大神の亦の名は天御中主神・国常立尊で、 >>その顕現の神を宇迦御魂(倉稲魂=稲荷大明神)と申し、天御中主神は宇宙根源の大 元 霊神である」 >>と明記されている(「記紀解体」近江雅和著・彩流社)。    この記述によるとどうも豊宇気毘売は宇迦御魂(倉稲魂=稲荷大明神)のようだ。 天照太神の食事を司る御饌(みけつ)神とされる豊受大神が 宇迦御魂(倉稲魂)であるというのは頷ける。  さて、調(つき)は古代の税のことだった。 そして、「鴾、鴇」(つき)とはトキの古名である。 トキについてはすでに考察したのでここではあまり触れないが やはり饒速日尊の匂いが漂う。  では、七不思議を一つづつ考察して行こう。 三つ目からあとは付け足しのようで本題からはずれるので 七不思議の三までを採り上げる。  氈Aその一は鳥居がないこと。 昔、伊勢神宮に奉納する新米を納めた御倉があり、 荷を運び入れるのに鳥居が邪魔になったため、とある。 それで調(つき)という米を奉納する意味の文字が使用されたらしい。 それにしても、鳥居がない理由として、邪魔になったくらいでは不自然すぎる。 鳥居についてもっと考えを深めてみる。 鳥居は本来、それ自体が神の居場所である。 われわれはあの形こそが鳥居であると信じているが それは世界に形を変えて伝播していった。 日本の鳥居に似た形の巨石文化で有名なものには、イギリス、Wiltshire(ウ ィルシャー)州 Salisbury(ソールズベリ)平原の Stonehenge(ストーンヘンジ)がある。 トリリトン(三石塔)と呼ばれる門のような形をしている。 上に渡されている石は木偏に眉で目草(まぐさ)石という。 これは日本式建築や古代ギリシャ建築にみられる構造である。 この形れはどうみても鳥居である。 夏至の日にそこから太陽が昇るように設計されている。 そのとき、太陽が眉の字のチョン、額束の部分から昇る、 それは籠の中の鳥が大空に昇って行く姿である。  鳥居は形を変えて世界各地で巨石の靈来神堂(ピラミッド)になった。 この形ではもう鳥居には見えないが外壁を赤く塗ったりして 隔り世の靈来神堂を表しているものも多かったが 風雪にさらされて色は剥げ落ちて今はわからない。 伏見稲荷の赤い鳥居はもちろん隔り世の表現である。 海底に沈んだムー大陸の遺跡には門の形をした巨石の鳥居が建っている。 この間のTBSテレビの「神々のいたずら」でも 南洋群島(ミクロネシア)ポンペイ海底に建つ門を映していた。 そこには浦島太郎伝説もある。  調神社には神の存在を示す鳥居そのものがないということは 額束(チョン)があるなしの問題ではない。 為政者のなんらかの圧力がかかったのだろう。 そこにはそれだけ重要な意味があったと思われる。 、 七不思議の二は境内に松がないこと。 そのわけは神様が「待つことがきらい」とか「松の葉で目を突いた」などという。 「つき」は「次」に通じて次の時代の統治神として 顕現することになっているからあまり待つのが嫌いなのだろう。  。、その三は境内入り口に狛犬ではなく兎の像が置かれていること。 調(つき)が月と同じ読みであるから 、月神の使者、兎が使いとなったということで ある。 これは面白い。これは大きな手がかりである。 因幡の白兎を思い出させる。 ここまではARIONの預言にに関係なく見てきたがここから 預言に関連させて考察を進める。  このところ月が出てくるハロー・メッセージが多い。 それは天照太神がご自分の居所を知らせようとされているからである。  >>96/10/28 月は薄い雲の間から青い光を放ち、夜露に濡れた草原を照らす…  この月の光が青い光であることはごく自然にに感ぜられるが以前は銀が月とともに出 ていた。 「青」で示していることは何か。 これは主が月に居られることを示している。 「青」は主が月に乗っている文字なのである。 >>96/11/30 天使の目には青い炎が宿っている様に見えた…梟が鳴いた  天使の目には赤より温度が高い「青」い炎が宿っている。 主が月に乗っておられるのを天使は見ている。 梟(かりょうびんが)が鳴いた。 それは合図のようだ。何かが決まったのか。 次の時代を開くサムライ達のメンバーだろうか…。 アマテラスにはどんな音霊がふくまれているのだろう。 仮の天照大神をよぶにはそのままアマテラスでよいが 天に居られる真の天照太神を呼ぶにはそれではいけないだろう。 AMATERASUの音を反転して USARETAMA(ウサレタマ)としなければ天では音霊が鳴らない。 「ウサレタマ」とは「失され靈」である。 あるいは「失された真」であろう。 この世では失されてしまった靈なのだ。 この秘められた音霊の意味がわかって驚いた。 AMATERASUを天で聞けば ウサレタマ、兎レ靈である。 なるほど、兎の像がおかれているはずである。 宇佐神宮がなぜ伊勢神宮に次ぐほど重要であったのかも首肯できる。 ウサの音霊に意味があったのだ。 その音霊が鳴るとき真の天照太神の耳に届くのである。 >> 幸いなるかな 在りて在る御方はその月にて >> 見守っておいでである (光の黙示録、詩編より)  この詩編から在りて在る御方(根元神)のおられる土地を特定してみよう。 「幸いなるかな」というからその方の靈は「幸いにあるかな」ということらしい。 「幸いなる靈」なら幸靈(さいたま)県のような気がする。 月で見守っておいでらしいが埼玉県のどこだろう。 もっと範囲を絞ろう。  もう一つ光の黙示録、詩編から月に関するものを採り上げる。 >> >>三三、 地には ざくろを食らう者満ちて >>    月の裏側を見る者 多し   「石榴」は三、九、六、食らうが九らう、満ちてが三ちて どれも三の倍数で日向の系統の天下になったことを指す。  月の「裏側」にある場所が隠されている。 「大和」が表の和であったが「裏が和」すなわち、裏の和(浦和)が隠されている。 表の大和を追われた多くの者たちは浦和へ逃れたのだろう。 そして、表面的には仮のアマテラスとその食事を司る豊受姫とスサノオを祭る 調神社を造った。 日向族たちは、伊勢神宮に新米を奉納するということと 鳥居も造らないということで認めたのだろう。  ところが、実際の祭神は「饒速日尊(フル)倉稲魂(ウカ)素戔鳴命(フツシ)」 という出雲の系統の三神であった。 かれらはツキノミヤという真の天照太神にはおよそふさわしくない名前に隠されて祭ら れている。 だれもまさか、アマテラスが月におられるなどとは想像しないだろうから。 そのことを明かすことによっていよいよ 次の時代が開こうとしている。 >>95/11/09はじかみの色立つ午後、酒匂(サカワ)の戒めが解かれる…十種神宝  「酒匂(サカワ)の戒め」のサカワとは逆和で浦和のことでもあった。 「戒め」は「カイメ」とも読め、χ(カイ)の交点の目でもあった。 「十種神宝」で受け継がれる出雲の皇統は浦和の地で 交いが解かれることになる。 さあ、サムライ達は今、何を夢見るのであろうか…。    (つづく) ♪♪音(SOUND) ♪♪ 04610/04612 PAG03134 はな 12月5日のハローは「……………」 (14) 96/12/05 21:51  12月5日のハローは「……………」である。今までに、同一ハローが 2日続けて発表されたことがあったが、こんなヘンテコリンなメッセー ジは初めて。  黙して語らずというが、12月5日のハローは「黙して語る」ような印 象を受けた。                       はな 04612/04612 PAG03134 はな マタイによる福音書と預言者 (14) 96/12/05 21:54  新約聖書には、四大使徒であるマルコ、ルカ、マタイ、ヨハネの福 音書があります。アリオンが7番会議室で引用したマタイによる福音 書は、新約聖書に収められています。  「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。   平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。  ちょっと、勉強がてらに、この部分の英訳をみてみますと、 [ Think not that I am come to send peace on earth: I came not to send peace, but a sword.]  かねてから私は上記の文で「私」とは誰のことかと思っていました。 アリオンが自ら引用することから察して、やっぱり聖霊であるミカエ ルが言っていたようですね。  アリオンがマタイによる福音書から引用した部分の後には、預言に ついても触れられているので引用します。   「自分の命を保とうと努める者は命を失い、    私のために命を失う者は命を見いだす。    あなたたちを受け入れる人は私を受け入れ、    私を受け入れる者は私を送られたお方を受け入れる。    預言者を預言者として受け入れる人は、預言者の報いを受け、    義人を義人として受け入れる人は、義人の報いを受ける。」                 マタイによる福音書 10. 39-41                       はな