「あなたがたがこの林檎の果実を食し智慧を活かすか…」 - FARION MES(13):神秘学遊戯団 ★ 限りなき神秘への航海 96/12/16 - 05192/05195 VFF05657 ヘールカ 幻影 (13) 96/12/15 22:51 コメント数:1      [人間であるがゆえの]死への恐れに  わたしは、創造されることのない領域に没入し  不死の心について瞑想する。  わたしの実践する原理のかなめ石は、  サムサーラからの自己解放である。  このすべての教えの真髄によって  裸で、実体のない意識をはっきりと見る。    見解におけるわたしの確信は、変化の明白さ。  照らし出す空を知っているので  生も死も恐れない。    八つの不自由を恐れるがゆえに  変化と、サムサーラの欠点について瞑想し  カルマの法則を観察するよう訓練する。  そして三宝に帰依をする。    覚醒の心について絶間なく瞑想することによって  わたしは習慣的思考の、暗い影を永遠に取り除いた。  目の前に何が現われても  それを誤った幻影と見る。  ゆえに、三つの苦しみの道を恐れることはない。    生の不確かさを恐れるがゆえに  ナーディーとプラーナの修行に熟達した。  三つの同一化する修行の、要の教えの実践によって  六つの[感覚の]グループの理解を確かめた。  これによって、わたしは確実にダルマカーヤを見、  聖なる道へと自分を導く。  たとえ今死んでも、後悔も恐れもない。    この人間の身体は捕われの集積でできており  束の間の、死すべき、幻影である。  いずれは、捨て去るべきものなのだから  欲しいなら、今取って行くがいい。    わたしの身体の布施が  すべての人類と有情の魂たちのための  免罪金として役立ちますように。  この布施が、わたしの両親たちであるすべての魂の  利益と祝福のために捧げられますように。    この身体を、心から布施することによって  あなた方が皆満足して幸せでありますように。  この一つの善行によって  サンサーラにおいて、無始の過去からなしてきた負債とカルマが  すべて精算され、片付きますように。    流れる心は空であり、実体がない。  わたしは迷妄の性質をはっきりと見る  空のヨーギーである。  悪魔さえも恐れない。  悪魔とは、心によって作り出された絵空事  顕現しても存在しない。  これは、なんとおもしろい劇。  サムサーラのドラマは、なんと奇想天外なのだろう!   05195/05195 GGA02514 KAZE 幻影遊戯 (13) 96/12/16 00:26 05192へのコメント   我はなぜ生という幻影を纏うか   死への恐れさえ身に纏いながら      諸行は無常だという   諸法は無我だという   そしてそれを悟ることにより   涅槃寂静に入るともいう      それは真実であろう   そしてそれによって生と死という幻影から   解放されるということも真実であろう   カルマによって形作られたすべてから   解放されることもまた真実であろう      けれど我はあえて幻影を捨て去らない   むしろ幻影のなかに身を置く   捕われの集積でもある身体を纏う   カルマの中に身を置き   それを解消するのではなく   自覚のもとに新たな光のカルマを形成することを試みる   そして実体なき中にも真実を見   その真実を貫いてそこにあるさらなる真実を見る   さらに悪魔にさえその真実を見   その真実を貫いてそこにあるさらなる真実を見る      生も死も神秘の遊戯   壮大なドラマがそこにある   幻影のドラマがそこにある   なにも捨て去るものはなく   すべてが変容を通じて真実を映す      ここは神秘の遊戯団   幻影が何を映すかを探り   幻影から何を学ぶかを悟り   幻影を遊びそれを演じていく者たちの舞台   さあ幻影を遊戯しようではないか   俗なるものにとらわれず   聖なるものにもとらわれず   迷いのなかから自由なままに   解脱からさえ自由なままに   人間であるがゆえの遊戯を楽しもうではないか       ☆☆☆KAZE☆☆☆ 05193/05195 GGA02514 KAZE シュタイナー「いか超」から学ぶ●17 (13) 96/12/15 23:45 05172へのコメント ●R.シュタイナー 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)  読書会・第17回/「霊界参入の三段階/開悟の段階における思考と感情の制御」                               (P57-77)その5      このような種類の行を通して、自分の中に見霊の最初の芽生えを体験した人だ   けに、人間自身の観察に向かうことが許される。人生の単純な相を先ず選ぶ必   要がある。--しかしこの観察に向かう前に、自分自身の道徳的性格の純化に努   力し、行によって得た認識を自分の個人的な利益のために利用しようなどと決   して考えてはならない。その認識が周囲に対して権力となりうるにしても、決   してそのような権力を濫用してはならない。換言すれば、人間存在の秘密を直   観によって知ろうとする人は、真の神秘学の黄金律に従わねばならないのであ   る。その黄金律は以下の言葉で表現される。「神秘学の真理に向かって汝の知   識を一歩進めようとするなら、同時に善に向けて汝の性格を三歩進めねばなら   ない。」(P71) 「知識」は絶対に濫用してはならないということです。 現代科学のように、対象的認識によって知識を無制限に応用していくような そんな在り方がどんなに危険であるかということを深く認識する必要があります。 本来、いかなる知識も、それを担うに足るだけの魂の器、道徳的特性、人格等々を 備えていてはじめて、それを使い、応用することがゆるされるものです。 現代の対象認識的知識は、そうした前提を無視することで、 果てしない暴走をしてしまうことになりました。 神秘行においては、そうした暴走は決してゆるされてはならないことです。 しかし、霊的指導者には、みずからの欲望の満足のために、 人の前世を霊視するだとか、運命を見るだとか、オーラを見るだとかいったような 手段を目的化したような在り方が多く見られるように思います。 そうした人格しか有していない者、自己認識を正しい仕方で持ち得ない者は、 他の人間を観察する資格を持ってはいないわけです。 ニューエイジを含む現代の宗教シーンの混乱は、 まさにそうした、「黄金律」に反することで生じているように思います。      この規律に従う人だけに以下に記す行の実践が許される。   自分の経験の中から、何事かを要求している人物の姿を取り上げ、それを心に   思い浮かべる。この人物の要求に注意を向ける。(中略)この記憶像にまった   く沈潜できるように、考えうる限りの内的平静を自分の魂の中に確保しなけれ   ばならない。そして周囲からの刺激を一切排除しなければならない。そして集   中した表象作用を通して、ひとつの感情を、ちょうど何も見えぬ地平線上に湧   き起こる雲塊のように、魂の中に湧き上がらせねばならない。(中略)多くの   試みの後に、観察した人間の魂の状態に相応する感情が自分の魂の中に体験で   きるようになる。更にその後しばらくして、自分の魂の中にこの感情を通して   ひとつの力が生まれる。そしてこの力が他人の魂の状態を霊的に直観する力で   あることに気づくようになる。(P71-72) みずからの魂を曇らせたままで、「観察した人間の魂」を体験しようとすると その体験は、みずからの欲望の器に載せた他の人間の魂とでもいった状態で そのことによっては、ただ投影した妄想の肥大にしかならないことになります。 ですから、あくまでもみずからの魂をフラットな、 そこに何も自分からは載せていないような器、 そこに自分を映り込ませてはいないような鏡にしておく必要がある。 そういうことを前提にして、そこに「観察した人間の魂」を器に載せ、 鏡に映すということでなければならないということではないでしょうか。   このような霊的直観がはじめて現われる場合、最新の注意を払ってこれと相対   することが大切である。一番必要な態度ははじめ師--もしそのような人をもっ   ているなら--以外の誰にもそのことを語らぬことである。(中略)「汝の霊的   体験については沈黙することを学べ」が神秘学徒にとってのもうひとつの鉄則   である。それどころか自分自身に対してもこの沈黙を守る必要がある。(中略)   なぜならあなたの現在の思考力であなたの直観を消化することは全然できない   のだから。(中略)内的経験の観察を十分積んだあとでのみ、それについて語   り、周囲の人たちにもその語る言葉で呼びかけることができる。(P72-73) みずからの魂の器に載せられたもの、魂の鏡に映ったものについて、 思考であれこれ判断することは避けなければならないということです。 その直観は、通常の思考力をベースとした悟性的理解では把握できないもの ということができるようです。 ですから、それをしっかりみずからの魂で受けとめ消化できる力が みずからのなかに育ってくるまでは、それを語るべきではない。 霊的体験があると、それを待ち望んでいるような人にとっては、 そのこと自体に歓喜し、それを自分のうちで咀嚼することができないものだから すぐにそれを安易に吹聴してまわることになります。 「私は精神世界を見た」という人は後を絶ちませんが^^;、 そういう方は、早くもこの原則に反して堕落への道を歩んでいるわけです。 「私は精神世界を見た」というのを聞くならば、 それは「私は堕落と破滅への道を歩んでいる」ということを 意味しているのだと思って差し支えないのではないでしょうか^^;。      この行はもうひとつ別の行によって補足されうる。同じ仕方で、誰かが願望の   充足、期待の実現をどのようにしてもつことができたかを観察する。この場合   にも、前述した同じ規則と注意を守ることによって、霊的直観に到る。(P73) こうした観察においても、先ほどと同じように、 みずからの魂の在り方に注意深くあることが前提になります。 もし、みずからの魂の曇りをそのままにして他の人間の魂を受け入れるならば むしろその曇りがいわば執着になって、そこにさまざまなものが付着してきます。 そうなってしまえば、常に魂は危険の淵に立たされているといえます。      周囲の人をこのような霊視を通して観察できるようになると、道徳的な過失を   犯すことが心の負担にならなくなる。容易に薄情な人間にもなれる。したがっ   てそうならぬために、正にあらゆる手段を尽くして努力しなければならない。   この霊視力を身につけた人は、思考内容が現実的な力であることを、確信でき   なければならない。周囲の人について考えるとき、人間の尊厳や自由を妨げる   ような考え方をすることが許されなくなる。ひとりの人間を単なる観察の対象   に過ぎないかのように考えることが、もはや一瞬たりともわれわれには許され   なくなる。人間本性についてのいかなる霊視的観察にも必要なのは、自己を肯   定しようとするすべての人間の意志を無制限に評価し、この意志を人間に内在   する聖なるもの、われわれの冒すべからざるものと、--思考のみならず感情に   おいても--見なせるように、自分を教育することである。一切の人間的なもの   --それが記憶の中で考えられたときにも--に対する畏れと恥じらいの感情がわ   れわれを充たしていなければならない。(P73-74) 魂が危険の淵に立たされるということは、 内的自発による道徳的衝動がみずからの内に育っていないと、 健全な人間の感情では考えられないような在り方でさえ なんの抵抗もなくできるようになるというわけです。 黒魔術の修行では、そうした健全な人間的感情を殺して、 いかなる残虐に対しても、むしろそれを喜びにできるような魂の在り方を  育てっていくような方向性がとられるといいますが、 そうした黒魔術的な在り方に、用意に傾斜してしまうということです。 オウム真理教の事件で、通常では考えられないようなことが行われたのも そうした修行におけるもっとも重要な前提が無化されてしまって、 どんなことでも自己正当化できるような魂の在り方を育ててしまった ということができるのではないかと思います。 神秘行において、人間観察を行う場合には、 それそのものが他の人間の自由に干渉するような方向を みずからに禁じなければなりません。 それをみずからに許すと、それがやがては堤防を決壊させるような 魂の大災害になってしまうということを肝に銘じなかればなりません。 もちろん、それは、通常の場合、霊的観察とは異なり、他の人間に対して、 その不正に対して見て見ぬふりをせよというのではなく、 むしろ、その逆であるということを忘れてはならないということがいえます。 他の人間をとらわれなく見るということができてこそ、 その人間の自由を尊重することを前提として 不正に対するとらわれのない態度がとりうるということでもあります。 ここらへんのことは、実践的観点に立って見ると、非常に難しく 安易に語ることのできない部分を多く含んでいると思われますが、 そうしたことを念頭に置きながら、あくまでも基本は、 「自由の哲学」が語るように、内的自発による道徳的衝動を みずからの内に育てていくことであるということを確認しておきたいと思います。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):預言解読村  ★ 預言・予言は何を語るか 96/12/16 - 04679/04686 HQK00566 SOUND RE:南太平洋にあった縄文土器 (14) 96/12/15 19:46 04666へのコメント コメント数:2 #4665しまうまさん、こんにちは(^^)。 おひさしぶりです。 レスが遅れて済みません(゚゚)(。。)ペコッ。 1金曜日の午後七時頃、脳が暴走して停止して救急車で病院に運ばれましたので…。  危うく入院させられそうになりました。 帰ってきてからしまうまさんの発言読ませていただきました。 HTLVI型ウイルスと寒さに弱い寄生虫、そして「成熟 の帰結」が唐突に出現しているという土器、これらの関係面白いですね。 関係あるのか無いのか、 もろもろに関わり合いながら分散して現在にいたっているのでしょうか。 TAO さんのコメントの ハワイビショップ博物館の篠遠喜彦博士(太平洋考古学)という方の出演された番組を 一月ほど前にぼくも拝見しました。 あの博士は白髪で信用のおけそうな方でした。 東北で発見された「縄文土器」と同様な文様だと思って大和民族の地球規模の進出に思 いを馳せたものです。 今、現在世界中のどこかでこれまでの常識を覆す発見が行われていますね。 楽しみなことです。 どうも、情報ありがとうございました。これからもよろしくお願いします(^_^)/~ HAVE A NICE DAY! ** HQK00566/SOUND ** SOUNDでした - FARION MES(19):世も末ばなし ★ ぶっ飛び話・罰当たり話 96/12/16 - 01200/01202 SGQ02661 龍 もしも五感がなかったら(1) (19) 96/12/15 18:29 コメント数:1  まだまだ自分で理解できないことがあるのですが、アップしま す。 五感(触覚、聴覚、視覚、味覚、臭覚)とあるけれど、不思議に 思うことがあります。  触覚、これは例えば地面に足がくっついているとか、衣服を着 ている感覚とか、風のあたる感覚です。いわゆる空間を感じる感 覚でしょうか(^_^;)?  視覚、これはどう説明してよいかわからないですが、まあ、い ま自分で見てる感覚なんでしょうか(^_^;)?  聴覚、これは音(人間に聞ける音にはある限度があるようです が)を聞き分ける感覚かな?  味覚、これは食べ物の味を判別する感覚でしょうか?まあ化学 ではこういう分子構造の場合、このような味覚がするとか習いま したが、もう覚えていません(^_^;)  臭覚、これも物の臭いを判別する感覚でしょうか?これも化学 でもこういう分子構造があると、このような臭いがするとか習い ました。これも覚えてません。   私は以前金縛りについて発言しましたが、どうもこの体験から いくと触覚は触覚を感じる所(足、皮膚、手etc)からは独立して いるようです。つまり触覚を感じる部位を通さなくても感じるこ とはできるようです。視覚も目をつむっていても夢を見れるので 視覚を感じる部位(目ですね)から独立している。聴覚も一般に 幻聴といわれているものがあり、耳から独立しています。 臭覚と味覚については十人十色なんでここでは取り上げません。  幻聴とか金縛りというとこれは精神がつかれてるから起きるん だとか気にしないほうがいいよという声が聞かれますが、あえて ここではこれらを取り上げました。  いいたいことは、コンピューターに例えると入力装置が五感です が、それを理解するCPUが(脳)ってことになるんでしょう。 しかし、それは人間には精神と呼ばれるものがあるので一概には コンピュータと同一視することはできませんが・・・・  ここで話は変わりますが、人間が存在するということは、地球 があって、その上に小さい存在ですが自分はいて、自分の回りに はなにがしかの感覚があります。(今、私の目の前にはコンピュ ータがあり、こたつにあたってますので足が暖かい、音楽も聴い てます)。だれもがそんなの当たり前といいます。それがちょっ と大きくなりますが世界観ですね。(大変おおげさですね(^_^;))  ここでふと思ったのですが、足はなぜ存在するのだろうかと 考えます。そんなの見たらわかるじゃないという声がきこえそう (^_^;)、そうですね、視覚で判断したわけです。手で触ったら あるじゃんって言う人も入るでしょう、それは触覚で存在を確認 した訳です。ある人はにおいを嗅いで確認するかもしれません。  ここでひとつ疑問がでてきました。人間は五感に入力された信 号をなにがしかの経路を経て脳にわたり脳で感覚を感知します。 こんなの当たり前じゃないかという人も大勢いるでしょう。  つまり言いたいのは、もしかしたら私たちの世界観は全く違う ものになるかもしれないということです。自分の回りで起こってる ことはすべて脳によって作り出されたものであるということです。  例えば先ほど言いました、五感を介さずに脳が感覚を得るのは この世界すべてが脳によって作り出された虚構であるということ です。(ここでは言い切っていますが確証はもててません(^_^;)) 単に人間が起きている感覚の場合は正常でそうでない場合は異常 であると決めてかかってるだけで、脳が作った虚構を我々が見て ることには変わらないということです。(虚構は単に一時的使っ ている言葉なのでなんか適切な言葉があれば指摘してもらえれば ありがたいです(^_^;))また違った言い方をすると脳が作り出した 世界に我々は生きているということです。(さっき言いましたね (^。^))  ああ、頭の中がごちゃごちゃになったので続きは以降という  ことにします。    以上             龍(SGQ02661)でした(^_^)/~ 01202/01202 QZY01267 猫の手 RE:もしも五感がなかったら(1) (19) 96/12/16 06:07 01200へのコメント   龍さん、面白いMESですね。      私もですね、真っ暗な何の音も聞こえない部屋で手足を一杯に伸ばし て、「これが宇宙だ!」って感じたことがありました。   処で、私は脳が作った虚構の中で生きているということにもなるのかも知 れないのですが、そうなるとその虚構を作っている脳って何でしょうね。いっ たいどういうものなんでしょう? 本当に実体が在るのでしょうか? 私が「 脳だ。」と思っているものも脳が作り出しているということになりますからね。  益々、ごちゃごちゃさせてしまったかな?  ご免なさい。         ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<12/16 06:05> ** 01201/01202 QZY01267 猫の手 RE^2:SMILE (19) 96/12/16 06:07 01199へのコメント  大愛さん、ありがとう。  私の最大の歓びは、私のしたことで歓んでくれる笑顔を見ることです。  私の最大の悲しみは、私のしたことで悲しんだり起こったりする顔を見るこ とです。  こんな詩が浮かんできました。      幼い子どもは無力なの。  幼い子どもは何もできないの。  でもね、  世界の幸せは  自分の幸せと感じてる。  世界の不幸を  自分の不幸と感じているの。    誰もが本当は誰もの幸せ願ってた。  誰もが本当は誰もの幸せ願ってた。    まず始め、  お母さんの喜ぶ顔見て幸せ思った。  まず始め、  お母さんの怒る顔見て不幸に思った。  総ての責任自分で背負い、  お母さんに幸せ感じてもらいたいと思ったの。    本当は、  あなたもこの世界、幸せにしたくって  生まれてきたって知っている。  本当は、  あなたもこの世界、幸せにしたくって  生まれてきたって知っている。    でもね、  大人の要求大きすぎ、  大人の要求理解できなくて、  それでも何とかしたいと思ったけど、  一生懸命やろうと思ったけど、  それができない私がダメだと思われて、  それができないことで、  悲しまれ、  怒られて、  もう疲れてしまったの。  総ての責任背負うのに  疲れ切ってしまったの。    無力な私を捕まえて、  ダメな奴だと不幸になっていたのは  誰の責任ですか?    本当は  誰もが幸せであってもらいたいと思っていたけれど、  あまりにできないことが多すぎて、  疲れ切ってしまったの。  できない私をダメな奴と言い、  不幸になっていたのは  誰の責任ですか?  私は何とかしたいと思っていたよ。  でもそれにも疲れてしまったの。    だから私は  ひとを幸福にすること諦めた。  もう私は、  自分だけは幸福になろうと思ったの。  あなたが幸福で居られないのは、  私の責任じゃないと  反発してやった。  私を不幸にした奴に  復讐してやった。    そうやって  何とか自分だけは幸せになろうと思ったの。  そうやって、  人の不幸を感じないようしてきたの。      ひとの幸せ願えないのは  勇気が挫けているからだって知っている?  人の幸福喜べないのは  勇気が砕けているからだって知っている?    でもね、  そろそろ思い出しても大丈夫だよ。  本当は誰もの幸せ願っていたってことを。  そろそろ思い出す頃だと思うよ。  本当は誰をも幸せにしたかったってこと。    本当は、  誰をも幸せにしたかったんでしょ!    思い出せないのなら、  無理に思い出さなくてもいいよ。  思い出せないのなら、  無理に思い出さなくてもいいよ。  それだけあなたは挫かれてきたということだから、  今はそれでもいいよ。  ゆっくり休んでいいよ。    私ができること言って欲しいな。  私ができそうなこと言って欲しいな。  私は無力な馬鹿だけど、  私はあなたの幸せも願っているよ。  私にとって、  喜ぶあなたの顔を見るのが幸せだから。    本当は、  私も疲れ切っているけれど、  本当は、  私も助けてもらいたいんだけど、  今はまだ大丈夫だから、  私はあなたの望むこと  何とかしたいと思う。    私はあなたの喜ぶ顔が見たいから。    きっと、  みーんな幸せになったなら  私も楽になれると思うから。     ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<12/16 05:45> **