「そうですか…」と小天使「何か不満でも?」と天使は問うた。 - FARION MES( 4):*********** カベ (Wall) *************** 97/01/17 - 00132/00138 JAG04260 満天星 「宇宙は怒っている?」 ( 4) 97/01/17 01:05 00123へのコメント コメント数:1 #123 猫の手さん こんばんは. ご返事をどうも. 猫の手さんの「良い点」を一つ言いましょう. それは, あなたが饒舌で あるということです. 「饒舌」が「寡黙」に勝っていると, いつでも言えるわけではない. 特 に, 中途半端な饒舌などというものには, 何の取柄もないと断言できる. そこへいくと, あなたの饒舌さは本物だと思われます. そこに, わずかな救いがあると, 私は思っているのですよ. >> 逆に、私はこの文章を読むと、何故、自分が怒っていることを、さ >>も他人が怒っているように語らなければならないのかという疑問を私 >>は抱いてしまいます。 あれ? そうなんですか? だって, 【ほかの場合にはつねに】そのように書いていらっしゃるでは ありませんか! 曰く−− 「悪鬼は孤独で寂しい.」 「精霊たちは愛されたいと思っている.」 「邪気は優しい言葉をかけてほしいと望んでいる.」 「幼い幼い赤ちゃんは抱きしめてもらいたがっている.」 「堕天使は自分のことを認めてほしいと願っている.」 「宇宙のすべての存在は幸せになりたい!」 直接の引用も欲しければ−− |  私はあなたの中にいる感情です。 |  私は助けを求めています。                        [旧 MES 19] (#1245)  →『あなたの中にいる感情』は助けを求めています. 文脈は異なるけれど, 上記のすぐ次の書込みは−− |  宇宙に向かって、 |  言ってあげて下さい。 | |  私は感情です。 |  あなたは私が幸せになりたがっているのを |  分かっているでしょ!                        [旧 MES 19] (#1246) それなのに, なぜ,“怒り”についてだけは, 「精霊たちは怒っている!」 と, 書かないのですか?                              満天星 00136/00138 QZY01267 猫の手 RE:「宇宙は怒っている?」 ( 4) 97/01/17 12:01 00132へのコメント  満天星さんこんにちは、  なかなか鋭いご指摘ですね。  でも、満天星さんは、それらが使われている場所を、飛び越えて引用して下 さっているものだから、私にしてみれば、オヤッ? っと思ってしまいます。  ところで、そのご指摘が私の自慰行為を止めさせるのに効果があるとお考え になったのでしょうか?  私としては、ガッカリという感じはあるのですが、どうでしょう?         ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<01/17 09:03> ** 00133/00138 NBB01420 SUKE RE:時が来た。 ( 4) 97/01/17 01:09 00122へのコメント コメント数:1 #122 猫の手さん、こんばんはぁ。 >> いつまであなたは我慢し続けるつもり? ここで、読んでる人が我慢してなければならないよーな気になってくる。 >> でもあなたはそれに満足してないでしょ? 満足してちゃいけないよーな気になってくる。 猫の手さんが言わんとすことは解ると思うのだけど、どーもこの表現に引っ 掛かってしまうんだよね… 何だか、誰か我慢している人いるぅ?とか思ってしまうのであった…。                             Suke.(^_-)☆ 00137/00138 QZY01267 猫の手 RE^2:時が来た。 ( 4) 97/01/17 12:01 00133へのコメント  こんにちは、度々RESをありがとう御座います。    SUKEさんが我慢しているようなことがなければ、今のまま生き続けるのが良 いのだろうと思います。  単純に、私には、多くの人が我慢に我慢を重ねて生きているように思えてい るのと、昨年夏から最近に掛けて、私の周りには激変期を迎えている方がかな りいらっしゃるようなので、その感覚を踏まえて、こういうことを書かせてい ただきました。  そうね、自分の生き方に満足している人に、  「あなたは満足していないでしょ?」  と、問い掛けられても、困ってしまうでしょうね。         ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<01/17 12:00> ** 00134/00138 VFE01003 くりす RE:ちゃんと伝えるよ ( 4) 97/01/17 07:00 00124へのコメント コメント数:1 #124 猫の手さん はじめまして、くりすと申します。 いつも、貴方の書き込み見て思うのですけど、こういう詩を 書いて、万人に読んで貰いたいなら専門の雑誌に投稿するなり、 パソ通に拘るのなら、ポエムのフォーラムがあるのだから、 そちらに棲み分けされてはいかかがですか。 このフォーラムに拘る必然が、余り感じられないのですが。 こういう、叙情的な物を毎日アップされていると、読む側としては、 食傷ぎみで、だんだん鬱陶しくなるってくるんですが、いかかがですかね?。 念のため、申し上げときますが、貴方個人を中傷するつもりは 毛頭ありません。 個人的な、叙情詩を読まされるのに辟易してしまっただけなので、 上記の提案、是非ご一考くださるよう宜しくお願いします。                           くりすでした 00138/00138 QZY01267 猫の手 RE^2:ちゃんと伝えるよ ( 4) 97/01/17 12:01 00134へのコメント  くりすさん、こんにちは。  私はここが「世紀末フォーラム」と詠っている場所だから書き込んでいるの ですが、くりすさんのようなRESが付くと、私も考え込んでしまいます。    座り込んだら厭でも目にしてしまう公共トイレのスケベな落書きや、眠ろう と思っているときに耳に入ってしまう隣のカラオケ騒音と違って、自分のお膳 に並べられているからといって、食傷気味ならば無理にお食べにならなくても 良いと思うのですが、そういう考え方はおかしいですか?  私としては、世紀末を意識し、新しい生き方を求めている人にこそ読んでい ただきたいと思って書き込んでいます。別に、万人に読んでもらいたくて書い ているわけではありません。  私も、いくつかのフォーラムを股に掛けてDownしていますが、必要だと感じ たときに読むことはあっても、そのほとんどは読んで居ません。  私のMESをDownするのに、幾ばくかNiftyの課金が余計に掛かるわけですが、 それを受け入れたくないのならば、自分専用のホームパーティーを作ってそこ では自分の好み以外のものはUPしてもらわないように規制をもうけて運営する のが良いかも知れません。  そうすれば、自分の好みの言葉しか入ってこないかも知れませんが、自分の 世界を狭くしてしまうことになるような気がします。そんなわけで、あえて私 もここで様々な人の意見を拝聴させていただいています。  というわけで、宜しくお願いします。   ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<01/17 11:02> ** 00135/00138 QZY01267 猫の手 体はインターフェース ( 4) 97/01/17 12:01  体というのはね、  自分と宇宙とをつなぐ  インターフェースだよ。    パソコンもインターフェースの一つであるように  あなたの体は、  あなたと宇宙とを結ぶ、  インターフェースだよ。    自分と宇宙とを結ぶ、  最初のインターフェースはね。  この体なんだから。    この体で愛を表現しなければ、  それは伝わらないよ。    あなたは何を宇宙に伝えたい?    私はそれを始めているだけだから。          体が私なんかじゃないよ。  体はインターフェースなの。  自分と宇宙を繋ぐインターフェースなの。    体はインタフェースだから、  使わなくちゃいけないの。  あなたが伝えたいこと伝えるための  インターフェースなの。  体を使わないと伝わらないの。  体が私なんかじゃないよ。  体は自分と世界の接点になってるの。  この世界を冒険するための道具なの。  いわば、  この宇宙を旅する潜水艦ね。    でもそれだけじゃない。  この体はね、  この宇宙の関わるための道具なの。    自分の生きる環境を変えるには、  自分の体というインターフェースを使わない限りできないの。    ゲームは見ているだけでは  流れは変えられないよ。  ゲームは祈っているだけでは  流れは変えられないよ。    あなたの持つインターフェースを使って、  あなたの目標に向かい、  何かをしない限り、  目標にはたどり付かないよ。    あなたの人生目標なんですか?  あなたは何をしに生まれてきたの?  あなたはなんのため、  この時、この時代、この場所に生まれてきたの?  あなたはなんのため、  この時、この時代、この場所に生きてるの?     あなたが原因に囚われてる限り、  目標には行き着かないよ。    あなたは目標に向かって  生きることができる人のはずだから。    今、あなたの欲しいものに向かって行かないと、  手遅れになっちゃうよ。         ** QZY01267/『猫の手』 <01/17 11:40> ** - FARION MES( 5):|ψARION 関連 |日本正史・真実発掘 97/01/17 - 00028/00028 QVF00676 苗(miao) RE:RE^2:表演が苦手なんです。 ( 5) 97/01/17 09:45 00027へのコメント  あとみさん、こんにちわ。(長文120行ご容赦)  あとみさんの考えは変ではないです。むしろ、大事な事だと思います。  ええと、誤解されているかも知れないですが、私はそんなに経験を積んだ豊富な  知識を持った技術の共存した講師では無いです。本当に狭い場所での教室を細々  と運営しているだけですから。ただ老師から教えられ、口訣を貰った時、それを  一部でも体得したのは一握りだ、と仰って下さって、それが胸に応えて本当に嬉  しくて、後から涙が出て止まりませんでした。だからこそ一日も多く経験を積ん  で、出来るだけ口訣に恥じない様な自分に成長したい。  いつか縁が在ればお会いできれば幸いですね、その折には私にも表演24式を見  せて下さいね。宜しくお願いします。  口訣はどうぞ遠慮なく、これは多分誰でも解るというものでは無いですが、もし  これを身近に感じて行けるなら、これ程頼りになる言葉も無いと思います。その  様な気がしたものですから是非あとみさんに、と書いたのです。  ええと、24式について私に解る事など…、ちょっと断定的に書いてしまいます  が容赦下さい。まず例えば起勢で腕を肩の高さまで上げます。これは普通「肩の  高さに上げて下さい」と指導されるでしょ?。でも、肩まで上げるのは「腕の力」  で上げてはダメなんです。ふぁんそんはご存知でしょ?。でも、ふぁんそんの力  で肩の高さに上げる人は案外少ない様に思えます。それで私の教室では、まずは  立つ事だけを始めます。でも、ただ立つのではダメなんです。立つ事で自分が立  つ状態を身体に教え、身体は立っている事を気持ちに伝えなければ、立つという  事では無いです。これが解ると自分の立ち癖が解るんです。普段平気で気にしな  いで立っていますが、時に如何に自分の癖で立っていたのか、という事に愕然と  する人もいます。しかも、この立つという行為だけでとても気持ちが安定し、ス  トレスが除かれ、さらに良い気分になれるのです。そしてこれがスタートライン  になると思うのです。言い替えればこれも一つの気功なんです。身体を幾らほぐ  しても後にファンソンする事無くにそれから型を演じようとしても無理があるの  です。手前味噌な話しですが、良ければライブラリの6番にある気功入門編も参  照してみてください。  それから、ふぁんそんで肩の高さに腕を上げたまま、暫くそのままにすると肩は  疲れてきます。腕も維持するのが大変になります。ここが大事なのですが、身体  を動かす時、その動かす場所の筋肉では無くふぁんそんで動かせば、身体は凄く  重く感じます。自分の身体なのに自分の身体では無いような錯覚に感じます。こ  うして維持すると、自分の中では相反した動きがある事に気がつきます。動きた  い、という力と、維持したい、二つの力です。動こうとする力を陽、維持する力  を陰と言います。この事が、陰の中に動(陽)があり、動(陽)の中に陰がある、  とする理論なのです。動き始める瞬間というのは動かない様に見えても、中では  二つの力が拮抗していて、バランスを取っていたその拮抗が破れどちらかに傾い  た状態になると言えるでしょう。が、だからと言って動くまでは何も動いていな  いかと言えば、前述の様に中では動いています、拮抗しているのです。。どうぞ  自分の身体に問うてやってみて下さい。  もしかすると、恐らくそれまでの24を自分の「頭」でやっていた…、という事  に驚かれるのではないか、と思います。失礼な言い方になっていたら申し訳ない  ですが、カリキュラムで行う表演に仮に弊害があるとしたら、この点なんです。  套路がこと細かに設定される事に依って行う型の一つ一つを次々必死に考えてい  ないと流せない状態になるんです。頭で套路を必死で考えると、身体は次に動く  部分の筋肉に知らない内に影響を与え、無意識にも動く場所(起勢なら腕)のみ  で動こうとするんです。だから、型を覚えるきるまでに同時にふぁんそんを感じ  る事が出来難いという問題に陥るのです。これでは気はいつまでも解らない、ふぁ  んそんは気の一歩ですから。しかし表演と言う立場で見れば点数が減点になる事  は無いですよね、内部の問題で見えない事ですから…おかしな話しですが。  でも、あとみさんは先の発言の様に気も解るし勁もある程度は理解されておられ  る様なので、問題はその套路の中で正確さを求める余りにふぁんそんがなおざり  にならないように気をつけるという事なのではと思います。陰中陽、陽中陰、套  路というのはその絶妙なバランスの連続帯であり、一つに留まる事は無いのです。  そして演武するのは自分です。演武する事が陰陽の統一だと言えるのではと思い  ます、陰陽太極はこうした事です。套路とふぁんそんも言ってみれば陰陽関係で  す。そして更に言えば全ては自然に行うという事ですね、まるで大黄河の或いは  長江の悠久の流れの様に…。私が常に言われたのは「頭で考えない、自然で良い。  流れを乱さない。」なのでした。  気功にしろ、24にしろ、良く見ていると禅に通じているものです。24式は本  来武術ですが、その武術を磨く為に多くの気功をします。良く使われるのは練功  18法や易筋経ですが、気が理解出来ないと24でも何でも武術としても健康法  としても未熟な領域から出る事は出来ません。私の老師は少林系の武術家ですが、  その面から言っても、自然に仏教色が濃く出ています。しかし、今の中国は改革  解放の波で無宗教という人が結構沢山います。故に老師は自分は無宗教だと言わ  れます。しかし少林系であれ、こうした武術は仏教の一つの延長線上に在るもの  であると言っても言い過ぎではないでしょう。禅はその仏教の一派ですが、単に  立つという行為も深まれば立禅となり、気功と何等変わらなくなります。その点  私も影響を受けて割合にこうした禅には好感を持っています。否、むしろ気功が  あって理解出来、禅があって理解は進み、24を持って自分の型を表現している  と言えるのではと思います。  こうしてみれば、教室があって、沢山練習している人がいて、どんなカテゴライ  ズでやっていても別に構わないという事になりますよね。磨くのは自分であって、  カテゴライズが自分を磨いてくれる訳ではないですから。  気は本当に1人1人が違うし、体得出来ないと辛い事が多いです。でも、解らな  いからと止めてしまってはもったいないと思います。縁があって始めた事ならば  縁がある限り自分を磨く事が出来るからです。そして、本当に階段を上る様に、  また一つ何かをクリア出来たなら、それが一つの自信にもやる気にもなれると思  うしそれがあるならずっと続けられるのだと思います。  武道の部屋には私も在籍しいくつか発言しましたが、どうも、やはりカテゴライ  ズに拘る方が多いので最近は殆どROMです。  それから、プロフ参照ありがとうございます。  写真は昨年行った中国のスナップが縁在ってコンクールに入選したものです。景  色を撮るのは好きです。写真はその印画紙に収める事で別な景色に出会う事が出  来るので好きなのです。写真は焼くときにそのメーカーに依って色が違う事をご  存知でしたか?。私は青系が好きなのでフジで焼きます。コニカはそれよりも少  し茶に流れますね。これは好みの問題ですから、同じネガをいろんなメーカーに  出して焼き増しして見るのも面白いですよ。楽器は笛を少しだけ吹くので、民族  楽器の店に入った時に(日本ですが)ケーナを見つけて買ったものです。「コン  ドルは飛んで行く」というのはあまりにも有名なフォルクローレですが、この様  なメロディは気功にも有効なんです、気分がおおらかになれる要素がありますか  ら。じつは渡辺さんは演歌で総合を演武されるのですよ。こぶしの聞いた歌い手  につられて雲手とか…(^^;ほんとうに面白い方です。そう言えばもしかして24  の中の音楽のあの一二三、というかけ声にうんざりされているのでは、と、ふと  思いました。違っていたらごめんなさい。胡弓は昨年のボーナスで思い切って買  いました、前からの念願だったのです。  フィットネスですか、ストレッチが身体に良さそうですね。是非それはがんばっ  て下さい。身体の線が伸びると24にとっても悪い事ではないです。それに人間  の身体で行う行為の種類のうちですから、行き着けば案外近しい部分があるかも…、  そんな気がします。 *~゚ miao qigong * wushu taiji quan jiangshi ゚~* QVF00676@niftyserve.or.jp - FARION MES( 6):|ψARION 関連 |メッセージから学ぶ 97/01/17 - 02223/02227 KFQ02761 しまうま RE:最近のHMからの感想 ( 6) 97/01/17 01:28 02216へのコメント #02216 TAOさん  こんにちは(^^)。毎度どうもですm(__)m。 | 幕を降ろす前に「見ていよう」とするのは何故か? 最終的判断を下すに |当たって、人間達の行いがいかに重要な意味を帯びてくるか…ということに |なってしまうのですね。  そうですね。この「だが私は今一度、人間達の行いを見ていようと思う」と いう天使の言葉の重みに、TAOさんへのレスを書こうとしてはじめて気付きまし た。「人間達」というのは、何か他人事のような気がしていましたが、このH Mを読んでいる僕たちも当然その中に含まれているわけですよね。  「天使が見ているんだから○○しよう」「見られているんだから××はやめ ておこう」という他律的な動機付けでは、どんな決意も長続きしないでしょう が、少なくとも「人間達の行いを見ていよう」という天使の言葉の重みが自分 にもかかっているのだ、ということは覚えておこうと思います。  また、天使は「期待を繋ぐ」とも言っていますが、「繋ぐ」ということは、 いったん期待が「途切れた」あるいは「途切れかけた」ことを表しているのか もしれません。 |96/08/05 天使は黙って足元の剣を取り上げた…月が明るい |96/08/06 「何処かに行かれるのですか?」と村長が天使に尋ねた |96/08/07 「剣が露に濡れるので手に持ったのだ」と天使は答えた  前にテーマRTで、この一連のHMについて、「実はこの時、天使は焚き火 を立ち去ろうと思って剣を取り上げたのを、途中で思い直したのではないか」 という解釈が提案されたことがありました。これは、村長さんの調停案に不満 を抱き、周囲を敵だらけとみなした凍えさんが、天使の庭を走り去った後のH Mです。もしかして、天使たちの「期待」は、ここで一度「途切れた」「途切 れかけた」のかもしれないなあ、と思いました。 |これは天使長が一時与えた猶予なのかもしれません。  なるほど、幕引きの時期に執行猶予がついた、という感じでしょうか。この 猶予は「○ヶ月間」とかいう区切りではなく、いつ打ち切られるかわからない 危ういもののような気がします。待ったなし、という感じですね。  ではでは〜(^^)/。 しまうま(KFQ02761) 02225/02227 KFQ02761 しまうま 「病気」について(1) ( 6) 97/01/17 07:19  ARIONの過去の発言に、「病気」というキーワードで検索をかけてみま した。「病気」について直接的に詳しく説明された文章はありませんでしたが、 その言葉の周辺にある文章には、大いに考えさせられるものがありました。  例えば、以下のような文章に対して、ARIONが語っている言葉。「エゴ イズムとは、自分の事が大嫌いなのに、自分は偉いのだ、と証明しようとする こと」。「自分を愛すればエゴは消え、自分は人より優れているのだなどと証 明する必要を感じなくなる」。この文章に対して、ARIONは……。 ====================================================================== |エゴイズムとは、臆病者の掛かる厄介な病気なんだよ。 |自分のことが嫌いと言うよりは、自分しか見えない狭い部屋の中で、他人は皆 |鏡に映る自分自身だと誤解している人のことだ。 |自分を愛すればエゴが消えると言うのは、ちょっとオカシナ感じがしないか? |自分、自分と言っている本体が何であるかを理解せねば、エゴと呼ばれる自分本位の |自我の拡張は難しいだろう。                 (91/04/15 「ARIONよりNOISEへ」) ---------------------------------------------------------------------- 《DL 1番 【資料室】★宇宙神霊ARION関連》 #2 NAA02416 ARIONM1A.LZH 書込み寺1(FMISTY) #001-100 より ======================================================================  エゴイズム(利己主義・自分中心主義)が、「臆病者の掛かる厄介な病気」 だというARIONの定義には、一瞬「え?」と思ってしまいました。なんと なく、エゴイストというと、横柄で頑固で自己主張が激しくて金持ち(?)、 みたいな、なんとなく「強者」っぽいイメージが僕にはあります。  あ、でも「強者」であることと「臆病」であることは、別に矛盾しませんね。 どんなに強くても「いつ誰に傷つけられるか?」とビクビクしていれば臆病だ し、逆に外的評価が弱くても「いつでも何でもドンと来い」と覚悟を決めてい る人は、臆病ではないですね。  この「臆病」という性質、「病」の字がつくくらいですから、これも病気の 一種なのかもしれません。  「自分しか見えない狭い部屋の中で、他人は皆鏡に映る自分自身だと誤解し ている」という状態は、「他人」が自分の想像の範疇内にすっぽり収まる、と いう幻想に基づいて維持されるのでしょうね。そして、「この人がこう言った のはこういう意味だ」「あの人がああしたのはあれが目的だ」と自分の中で完 結してしまい、しかもその想像に対して一喜一憂したりする。実に虚しい、不 毛な作業ですね。  それでも、臆病な人にしてみれば、現実を直視するよりも自らの妄想の中で 一喜一憂しているほうが傷つかずにすむ、というわけです。自らの臆病さにハ マればハマるほど、どんどん現実が見えなくなっていく、という意味では、確 かに病気かもしれませんね。 しまうま(KFQ02761) 02226/02227 KFQ02761 しまうま RE^2:円と縁 ( 6) 97/01/17 12:56 02219へのコメント #02219 KAZEさん  こんにちは(^^)。 |ときにいい加減なレスをしたりすると、 |あとであまり気持ちよくないんですよね^^;。 |それはやはり、一種の不協和音を出してしまうということなのでしょう。  そうですね。「不協和音」というと、ついつい論争とか、言い合いとかを漠 然と思い浮かべますが、本当に問題なのは論争中の「揚げ足取り」や、言い合 いの中での「感情のぶつけ合いによる甘え合い」などの部分、つまり「真摯さ のない言葉」の部分だと思います。真摯な論争、腹を据えた言い合いなどは、 むしろ発展性のカタマリでしょうね。  しかし、KAZEさんのいい加減なレスって見たことないような。設定されてい るレベルが違うのでしょうね。  ではでは(^^)/。 しまうま(KFQ02761) - FARION MES( 7):|ψARION 関連 |自分を観る 97/01/17 - 09507/09510 NBB01420 SUKE 絶対的ということ ( 7) 97/01/17 01:09 09501へのコメント #9501 龍さん、こんばんは。 龍さんだけにと言う訳ではなくて、たまたま龍さんの発言をきっかけにと言 うことで、コメントにしました。 Q4の一部について、整理したい所があります。 >> Q4『私はARIONさえ絶対的なものではないと思いますが、 これに対して >> ここでおかしいと言ってるのは、ARIONが人知を越えた存在で >> あるといことです。 と言う風に対応しています。 が、よく考えると「絶対的なもの」と「人知を越えた存在」とは 意味が違いますね。 ARIONは自分を「神」とは言わず「天使」と言っている訳ですが、 これは、ARIONは確かに人知を越えた存在であっても、絶対的なもので はない、と言うことでしょう。 それは6番会議室でARION自身を「標識」と位置づけているメッセージ が引用されていたのを思い出しても、納得できます。到達点ではなくそこへ 至る為の標識であるということなのですね。 超越者を見るとすぐ絶対者と思いたくなってしまう、その心理は、根底に超 越者への依存心が隠れていると思います。 超越者は超越者であって、いわば自分より高次の位置にいる、と言うことを はっきりと認識して行く…。それは不遜な意味ではなくて、寄り掛からない と言う意味で、そのように受けとめてゆくべきではないかと思うのです。 相手が超越しているか、絶対的なのか、そういう相手の属性に拘っている間 は、依存心と言う軸線情から離れていないのですね。そういう拘りから離れ て、相手の属性への拘りから自由になる、そこに「自分が在る由」への道が あるんだと思います。                             Suke.(^_-)☆ 09510/09510 CQW02310 優位 RE:『問題を解決するのは自分自身』*3 ( 7) 97/01/17 08:50 09505へのコメント  補足です。 | ズバリ、これこそが龍さんの本音の裏返しなんだと思いますよ。 |     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここまで言い切ってしまっていますが、これ以下の文章、あくまで僕の単なる  推測であることには何等変わりありませんので、違うと思われたら、軽く  違うんじゃないかという風におっしゃっていただければ良いと思います。  自分の想像する相手像(この場合僕が想像する龍さん像)を規定したい  わけでは無いのですものね。  想像や推測が違えば、また考え直します(^_^;  出来るだけ龍さんの忠実な現状を把握したいと思ってますので、  今後も違ったら違ったで、各々微調整しながらやっていきましょう。  もちろん、分かったフリの優しさにならない為に、時に表現が直接的に  なる時もあろうかと思いますが、悪意などは元々無いわけなので、  この辺りは予め了解しておいてください。 97/01/17(金) 08:33 優位(CQW02310) 09508/09510 HGB02122 あもり RE^16:虎は害獣か? ( 7) 97/01/17 01:18 09498へのコメント  #09498 YUKO さん  RES遅れて申し訳ありません。  「切り分ける」と「切り離す」の続きではありませんが、ちょっと気付い  た事を書いておきます。  以前と同じ問題に繰り返しハマって、結局自分は何も変わってないんだと  卑屈になったことがよくありました。で、拍車をかけて情けないのが、一  個否定されると、自分の全部を否定してしまって、ますます自分の内側に  埋没してしまう。  この「埋没してしまう」というのは、自分の耳を塞ぎ、口を難く閉ざし、  目を閉じて何も見ない状態を作ってしまいます....言ってしまえば、「本  当の事を知りたくない」という気持ちの表現であると言えない事もありま  せん。  これは#9471でCHARANさんが指摘していたような自己憐憫の明確な表れだと  思いますが、#9388でSUKEさんが言われていた「都合の悪いところから目を  離す」というもっとも有効な手段でもあるように思えて来ました。  それを「自分が悪いんだ」とやみくもに考えてうなだれてしまう所に、何  だか巧妙な意図みたいなものも見え隠れしてしまいます。ずるさという感  じです。  もちろん、ハマっている時には何にも疑問もなく、自分の悪い所を痛感し  まくっている気持ちになってますが、こうやって埋没している時の状況を  思い返してみると、どうしても隠そう隠そうという意図に乗ってしまって  るように思えて来ました。     HGB02122 あもり - FARION MES( 8):|ψARION 関連 |預言解読村 97/01/17 - 00130/00132 PAG03134 はな カバラについて (7) ( 8) 97/01/16 23:46 00116へのコメント  「17世紀以降、物質世界の聖化が確立するやいなや、人々はも   っぱら関心をそこに集中し、バランスをとるべきもう一つの極   すなわち「上の顔」(霊的世界)を忘れてしまうようになった。   ルネッサンスの巨匠達の初志は完全に裏切られたのである。近   代文明をルネッサンス思想の発展形態とみるのは正しくない。   むしろルネッサンス的理念に対する裏切りの歴史が近代なので   ある。   近代のカバラ運動はこのような裏切りに抵抗する運動であった。   彼らはしばしば非合理主義的狂信者とみなされているが、それ   は「マルクト」の肥大によって傾いた「生命の樹」に何とかバ   ランスをもたらそうとした努力の跡を示すにすぎない。カバラ   とは、徹頭徹尾「バランス」をとる術(すべ)なのである。われ   われが物質文明の重みに押しつぶされないためには、その力に   匹敵する、もしくはそれを上まわる精神文化を築く他はない。」             (「ユダヤの秘義」平凡社 巻頭言p.8)  カバラとは徹頭徹尾「バランス」をとる術だと著者は解説する。中世 では精神文明が肥大し、物質をないがしろにする動きがあった。17世 紀以降は物質文明に関心を集中させ、霊的世界への関心から遠ざかった とも指摘する。どちらもバランスがとれていない状態である。バランス を取り戻すための一助として、バランスをとるための術を教示するカバ ラの知恵を用いるのは有用だろう。  私は、つい最近まで生命の樹にある10のセフィロト(会議室には黒 い丸を10個書いて図示しています)は、上位の「上の顔」に進むにした がって、尊いものだと思っていた。しかし、前項で述べたように、物質 の象徴であるマルクトは「神の輝ける衣」であり、決して蔑(さげす) まれる存在ではないのである。物質も霊も等しく重要であり、霊も肉も どちらが上でどちらが下ということはないと考えている。  霊は私たちの肉体が死と呼ばれる時点でもって、「死」にはしないと アリオンは教えてくれた。もともと、私は肉体が死ぬと霊も死ぬという 発想は昔から持っておらず、また、持とうとしてもできなかった。知人 には「死んだら、なにもかも終わりじゃない」という人がいたが、どう もそれだけではないように感じていた。よく分からないが、肉体が死ん で何もかもなくなってしまうだけでは、とても悲しいことのように思え たからだ。  「人間、死んだらどうなるかな」という私の問いに、「死んだら、な にもかも終わりじゃない」という人は、少なからずいた。また、死には 思いを巡らせなかった人もいた。  「死んだら、なにもかも終わりじゃない」と答えた人にも、いろいろ と生き様があって、刹那的にいきる人もいれば、だからこそ今世を精一 杯生きたいという人もいた。  だからこそ今世を精一杯生きたいと答えた人とは、続いてその後の会 話も楽しめたのだが、刹那的に生きる人とは、昔私が刹那的になった時 を懐かしむだけの会話に終始した。  いずれにしても、私にとって肉の死とともに霊も死んでしまうと考え るのは、非常にもったいないことと感じる。肉体は、霊が長い年月をか けて修行するために必要な現世での器だと思う私にとって、肉も霊も双 方ともに、いとおしむべき存在なのである。                       はな - FARION MES(12):|∞精神世界裏表|どうする日本/世紀末談 97/01/17 - 01756/01756 QZY01267 猫の手 RE^3:猫の手さん、MAKOTOさんへ (12) 97/01/17 12:02 01755へのコメント  みれさん、こんにちは。早速、RESをありがとう御座います。  みれさんらしい文章だな。と思いました。        いくら私が甘い世界を作りたいと思っても、「そんなのはダメだ。」と言っ てRESをつけて下さる方々が居るという現実を私はちゃんと受けとめています。  別に、逃避しているつもりはありません。    ちゃんとこうやって、みれさんともお話をしていますし。  私がこうして何人もの批判を受けとめては会話をしていることを、みれさん は逃避だと、やはり考えていらっしゃるのかしら?  そうなると、見解の違いなので仕方がないですね。      私としては、「言葉のすり替え」も、「本物そっくりの嘘」も並べて居るつ もりはないのですが、みれさんとしてはそう受け取れる箇所が沢山あったとい うことをおっしゃりたいわけですね。  実際のところ私は、何が本物で、何が嘘なのかは分かっちゃあおりません。 ただ、今まで学んできた心理学的見地から、そっちの進んでいった方が自分が 幸せを感じていられるだろうという見通しを持って、そのためにここでは言葉 を尽くして表現しているだけです。  「自分本体の指向する方向」というのは、私にとってはやはり『幸せ感』です。    ちゃんと、何人もの厳しい現実に遭遇していますよ。  みれさんも、厳しい現実を与えて下さる人のひとりだと考えています。  それに対してどう接するかは、私のテーマだと考えています。  いろいろ、アドバイスをありがとう御座います。           ** QZY01267/『猫の手』 デシタ<01/17 09:27> ** - FARION MES(13):|∞シュタイナーその他|神秘学遊戯団 97/01/17 - 05328/05330 KFQ02761 しまうま RE:因果応報 (13) 97/01/16 23:52 05293へのコメント コメント数:1 #05293 KAZEさん  こんにちは(^^)。毎度ですm(__)m。 |つまり、自分で責任をとることのできた分だけ権利が発生することになります。 |権利だけほしいと思って、責任はないと思いこもうとしても、 |自分が行ったことに対してはかならず責任はついてまわるわけです。  自分がやったことの責任は、どうあがいても自分に返ってきてしまいますね。 他に回そうとしても、あるいは「そんな責任はなかった」と思い込んだとして も、必ず自分で責任をとることになるんだなあ、と最近思います。  自分がやったことの責任をとらなかったら、今度は「責任をとらなかった責 任」が生じて、利子が付いて帰ってきたりもしますね。無責任な態度を平気で とる、というのも、なるべく責任を取らずにすむ方向を自分が選び続けてきた ことの「因果応報」なんだろうと思います。  「頼る」についてですが、「自分ではどうしようもないこと」を人に頼るの と、「自分でやろうと思えばできること」を人に頼るのでは、当然ながら意味 合いが違ってきます。「自分でやろうと思えばできること」を人に頼るのは、 甘えであり依存ですね。「自分ではどうしようもないこと」を人に頼るのは、 依頼、でしょうか。  「頼る」の語源は「手縁(タヨル)」だそうです。「〜したい」という欲求や「〜 しよう」という意志(因)は自分にあるのに、それを実現するための努力や忍 耐(縁?)は、“手”を差し出して「ちょーだい」と言い、努力も忍耐もなし に“果”を得ようとするのが、甘え・依存系の「頼る」なのかもしれません。 そして、その“報”いとして、主体性や自信をどんどん失っていく、と(__;)。  「外部に依存した内省」は依存心を高めているにすぎない、という指摘には、 ドキリとしました。僕が頻繁にやっていることです。そういうときは、頭の中 で考える「内省」が人に聞かせるための言葉になっています。自分の内側に向 かう反省ではなく、外側への「反省してます」というアピールが目的になって しまっているんですね。結局、外的な評価への依存です。 |意志というのは、いきなりつくものではなく、 |やだな、やだな・・・と思いながらも、それを超える決意から、 |毎日毎日繰り返してはじめて、育ってくるものであるといえそうです。  なるほど。「意志」というのは、何というか、持続して持ち続ける(あ、同 じことですね(^^;)ものであって、それが途切れてしまったら「意志が弱い」 ことになると思っていましたが、別の見方もあるようですね。KAZEさんがおっ しゃっているのは、一瞬一瞬自分が望むもの(こと)を選び続けるのが「意志」 であって、それを意識的に選び続けることによって「意志」そのものが育ち、 その結果として持続性も出てくる、という感じでしょうか。  その「選ぶ」行為も、昨日と同じように今日も選ぶのではなく、昨日より今 日のほうが確実に、あるいは頻繁に、あるいは強固に選んでいる、という風で なくては、意志は育たない。それが「やだな、やだな・・・と思いながらも、 それを超える決意」ということだろうか、と思いました。  さてさて、『神智学』ですが、先日読了しました(^^)。  なんとなく馴染みのある世界観だと感じたのは、やはりこの会議室に出入り させていただいてるからでしょうね。「感覚魂」「ご成婚」……もとい「悟性 魂」「意識魂」という三つの区分は、読んでいる最中はわかったような気がし たのですが、今はすでによくわかってません(^^;。1回読んだのでは駄目だな あ、と思います。  僕が特に感銘を受けた、というか自分に引き合わせて考えさせられたのは、 以下の文章です。   人間が周囲の人々に負担をかけながら、平気で自分自身を過大評価しよう とする傾向を持ち続ける限り、高次の認識への通路を自ら閉ざしている。世 の中の事物や出来事のどれに対しても、それらが自分に与える快と苦の観点 からしか評価できぬ者も、自分自身に対するこのような過大評価にとらわれ ているといえる。なぜなら自分の快楽、自分の苦悩として彼が経験するもの は事物に関する事柄なのではなく、自分自身に関する何事かに過ぎないから である。(中略)もし私が判断し、態度を決めるに際して、もっぱら快と共 感の感情だけに従うなら、私は自分の性格を前面に押し出しているのである。 私は世間にこの自分の性格を押しつけている。私は今のままの自分で世間に 干渉しようとしているが、世間を偏見なしに受け容れようともせず、またそ の中に働くさまざまな力を十分に活かそうともしてはいない。(P186-187)  「はい、その通りです(__;)」と思いました。自分はなんて駄目なヤツなんだ、 という考えに浸るのも、自分の過大評価の裏返しですね。そうやって自分(の 感覚)だけに焦点を当てて、周囲の事ごとからは目を逸らしているのですから。  読み直しながら、また気付いたことを書いていきますね。ではでは(^^)/。   しまうま(KFQ02761) 05330/05330 GGA02514 KAZE 意識魂の必要性 (13) 97/01/17 11:36 05328へのコメント しまうまさん、どうも。 》 「頼る」の語源は「手縁(タヨル)」だそうです。「〜したい」という欲求や「〜 》しよう」という意志(因)は自分にあるのに、それを実現するための努力や忍 》耐(縁?)は、“手”を差し出して「ちょーだい」と言い、努力も忍耐もなし 》に“果”を得ようとするのが、甘え・依存系の「頼る」なのかもしれません。 》そして、その“報”いとして、主体性や自信をどんどん失っていく、と(__;)。 最近、しまうまさんは「語源」が得意ですね(^^)。 語源辞典かなにかを購入されました? 語源というのは、やはり「源」ですから、その言葉の本来の出所を見ることで 言葉を無意識のままに使ってしまう自分の態度への反省にもなって参考になります。 さて、おっしゃるように「依頼」にしても、依存系のそれは、 主体性を失わせるものですね。 そうでない依頼というのは、その「依頼」に対する「報い」の部分を 最初からきちんと自覚して、その準備をしておくあり方のように思います。 たとえば、わかりやすくいえば、報酬と引き替えに依頼するということ。 お金で何かを買うというのはそのいちばんわかりやすい例ですよね。 依頼という作用に対して、報酬という反作用です。 そういう作用と反作用が自覚的な形をとればそれはそれで完結するのですが、 わかりにくいのが、感情としてのそれですよね。 「わかってほしい」というのもそれですし、 「共感してほしい」というのもそれです。 もちろん、それが調和的・発展的にでるのであれば、問題ないのですけど、 それが自己目的化した状態ですと、それは単なる感情の耽溺なわけです。 共感と反感でしか物事をとらえない方というのは多いですけど^^;、 それを自己目的化して生きるということは、 依存−反発というだけの感覚・感情マシーンになっているということです。 そこには、「自由」ということは存在しません。 そのとき、「自分」は「感覚・感情」でしかないのですから、 それを統御する自分というのはどこかに行ってしまってるんです。 「甘えさせてくれない」「甘えることが悪いのですか」とか 「共感しあってみんなで仲良くなりましょう」とかいうのは、 そうした自分をスポイルする典型的な発想にほかなりません。 「外部に依存した内省」というのも、 姿を変えた「共感しあってみんなで仲良くなりましょう」で、 裏を返せば、「こんなに反省しているのに、自分を認めないなんて、 そんな冷たいのってある?」とかいうことになります。 》                            KAZEさんがおっ 》しゃっているのは、一瞬一瞬自分が望むもの(こと)を選び続けるのが「意志」 》であって、それを意識的に選び続けることによって「意志」そのものが育ち、 》その結果として持続性も出てくる、という感じでしょうか。 そうですね、そういう意味では、意志は思考と感情と深く関係しています。 意志を自覚的に育てるプロセスというのは、 まずは「何をしたいのか」を具体的に思考するところからスタートして、 それを感情という器のなかで熟していくことで、 その「したい」を衝動として高めていくことが必要のように思います。 そうして初めて、強制ではなく自発によって具体的実践へと 向かっていくということができるのではないでしょうか。 そして、実践することを通じて、さらにそれを吟味していく・・・。 そうしたなかで、「やだな、やだな」が「やらなくちゃ」へ、 そして「やるっきゃない」・・・という感じになっていくんだと思います。 しかし、ここで気を付けなければならないのは、 このプロセスは洗脳のプロセスにもなってしまうということです^^;。 だからこそ、ものごとを広く深く考えることのできる思考力と、 真善美を健全に感じることのできる感情が大事になってくるんです。 そうでなければ、「良心」に常にヴェールをかけてしまうことになりますから。 危険な新興宗教や開発セミナーなどにはまってしまうのは、 思考力が弱いか良心が麻痺しているかのどちらかだと思うんです。 》                 「感覚魂」「ご成婚」……もとい「悟性 》魂」「意識魂」という三つの区分は、読んでいる最中はわかったような気がし 》たのですが、今はすでによくわかってません(^^;。 ごく単純化していうと、感覚魂は、対象に対して直接向き合って、 それを感じることのできる魂の働きで、 悟性魂というのは、直接対象に向かわなくてもそれを思考できる魂の働き、 さらに意識魂というのは、自分が思考していることを見つめられる魂の働きです。 わかりやすくいえば、目の前に花があって、きれいだなあとか感じるのは感受魂、 学校で知識を詰め込むような感じでお勉強するのは悟性魂、 さらに、たとえばこのフォーラムで「自分を観る」とかいっているのは 意識魂の働きを育てていくものです。 シュタイナーは、現代の人間は意識魂を育てることを課題としているといいますが ARIONの「自分を観る」というのも、それに対応しているんだと思います。 また、その意識魂が育たないと、「反省」することはできないんです。 自分が何を感じ、考えているのかについてちゃんと見つめることができなければ 「反省」しているとはいえませんから。 ちなみに、人の評価を気にして反省したふりをしているというのは、 意識魂ではなく、感受魂でただ「感じているだけ」だといえます。 さて、引用してくださったシュタイナーの「神智学」ですけど、 それは、先にも述べたような「共感−反感」といういわば感受魂的なあり方しか 育っていないことに対して、 「それではいけない、自分を真に見つめる眼を育てなければならない」 というふうな感じで、意識魂を育てましょうといってるのだと思います。 キリストが磔刑のとき「彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです」 というふうに言ったように、意識魂がないと、 「自分がいったいなにをしているのかわからない」わけです。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(17):|∞宗教・哲学 |新時代の思想のために 97/01/17 - 00081/00085 MHD02672 TAO 【ジャンヌ・ダルクと蓮如】 (17) 97/01/16 23:48 コメント数:1   という題名の新書版の本を見つけ、最近はジャンヌが気になっていたこと  もあって購入しました。   岩波新書439 『ジャンヌ・ダルクと蓮如』 大谷暢順著   著者は東京大学卒業後、ソルボンヌ高等学院で学び、パリ第7文学博士号  を取得して、現在は本願寺連枝という方なので、仏教とフランス文化両方に  通じている方のようです。   蓮如については、確か五木寛之氏が著書をしたためていたなぁというぐら  いの知識しか無いのですが(^^;、五木氏は蓮如を「聖俗具有の人間」と捉え  ているそうなので、どのような思想の持ち主だったのか、気になりますね。  この会議室では親鸞についての話題も出ましたが、親鸞が起こした浄土真宗  が没落し掛かっていたのを再び隆盛させたのが、蓮如なんですよね。   ジャンヌと蓮如は生年が三年しか違わないそうですが、同時代人といって  も接点も関係も全く無い二人を、著者が対比して考えたくなったのは「二人  の深い信仰心に感銘をおぼえ、かつ、両者の間に、不思議にも相通ずる崇高  さを痛感する」からだそうで、まだざっと目を通しただけですが、読んで思  うところが湧けば、感想などを書かせて頂こうと思います。   それにしても蓮如については全く無知に等しいんで(^^;、誰かにご説明頂  ければ有り難い限りですが…(^^;。  TAO P.S. ちなみに、今日1月16日はジャンヌの誕生日とされているそうです。 00082/00085 GGA02514 KAZE 蓮如について (17) 97/01/17 00:37 00081へのコメント TAOさん、どうも。 》  ジャンヌと蓮如は生年が三年しか違わないそうですが、同時代人といって 》 も接点も関係も全く無い二人を、著者が対比して考えたくなったのは「二人 》 の深い信仰心に感銘をおぼえ、かつ、両者の間に、不思議にも相通ずる崇高 》 さを痛感する」からだそうで、 ううむ、ジャンヌ=ダルクと蓮如というの、ほんとどう関係するんでしょうね。 よくわからないけど、面白そうですので、 読まれたらぜひその共通性の具体的なところを教えてくださいm(__)m。 蓮如に関しては、そんなに詳しくはないんですけど、 五木寛之の解説は興味を引かれて読んでみたりしたことはありました。 それを読んでも、ぼくとしてはとくに深く感銘を受けはしませんでしたが、 蓮如の組織化力というかネットワークの発想の豊かさはさすがと思いました。 今本棚を少し探したのですがでてきませんので、記憶から少し。 蓮如では「御文」というのが有名ですけど、それでネットワーク的に 強力な伝道を繰り広げました。 それと、蓮如の頃にはほとんど衰退していた浄土真宗で、 その上に、後継ぎの可能性もほとんどなかったのが、40歳過ぎてから 第8代の法主になって、それからがもうドラマチックな展開があって、 その後、その組織化力、人心掌握力で、あの本願寺教団の基をつくるわけです。 そのネットワークの発想というのはものすごく斬新で画期的な発想で、 ある種の天才だといえるのではないかと思います。 それはおそらくじっくり待てる人だったということも プラスに働いているのだろうなという気がします。 で、親鸞の「弟子なんか一人もいない」とか「死んだら河に流せ」 「父母のために供養なんかしない」とかいうような過激なところをほとんど無視して 無視して組織化を巧妙に図ったからこそ、 現在につながるような浄土真宗のもとをつくったということを どう評価するかということが、もうひとつの蓮如の問題なのだと思います。 あまり整理できてませんけど、今思いついたのはそれくらいです。 とりあえず、こんなところで。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00083/00085 GCG01101 アマデウス RE:南無阿弥陀仏 (17) 97/01/17 01:29 00072へのコメント コメント数:1 #72 KAZE さん、こんにちは。 >>  法然上人はいう、仏を念ぜよ、さらば仏は必ず人を念じ給うと。 >>  親鸞聖人は説く、たとえ人が仏を念ぜずとも、仏が人を念じ給わぬ時はないと。 >>   だが一遍上人はいう、仏も人もなく、念仏自らの念仏であると。 >>  「されば念々の称名は念仏が念仏を申すなり。しかるを我れよく心得、我れよ >>  く念仏申して往生せんと思ふは、自我我執が失せざるなり、おそらくは、かく >>  の如き人は往生すべからず。念と不念と、作意と不作意と、総じてわが分にい >>  ろはず、ただ念仏なるを、一向専念とはいふなり」。(播州法語集)   「仏教の思想」の<親鸞>の巻を読んで、「死の浄土から生の浄土へ」と  いうことが印象に残りました。師の法然が唱えた念仏は死んでから浄土に  生まれるための念仏であったのに対し、親鸞の念仏では他力を極めることに  よって、生きたまま世界を浄土と成すことに変化したといいます。  一遍はそれを更に進めて、自分自身が阿弥陀になることによって、浄土に  生まれる/生まれないの問題を超越してしまったということですね。   こうしてみると、法然→親鸞→一遍と、だんだん思想が徹底されていくのが  分かります。「仏教の思想」の別の巻で「空」についての説明を読んだときに、  随分徹底しているなあと思ったんですが、この三人の思想の深化は、行き着く  ところまで行ったような感じがしますね。ここまで徹底すると小気よくさえ  あって惹かれるものを感じますが、過激過ぎてまだ思考がついていきません(^^;。 >> しかし、魅力的であるがゆえに、我が身を省みてみると、 >> そういう境地からほど遠いことが痛切に感じられます。 >> 他力の足下にも及ばず、けれどまた、自力というほどの努力もない。 >> こういうのが、いちばん救われないということなのかもしれません^^;。   そうなんですよね。僕などは、一遍の境地まで行かないまでも、ごく初歩の  教えを読んでいてもそれを感じます。でも、結局いつもの結論なんですけど(^^;  一足飛びにできるなんてことはあり得ないので、地道に取り組んで行くしか  ないですね。                               アマデウス 00084/00085 GGA02514 KAZE 南無阿弥陀仏の三諦円融 (17) 97/01/17 11:37 00083へのコメント アマデウスさん、どうも。 法然、親鸞、一遍ですけど、この三人の思想を見ていると、 なんだか、空諦、仮諦、中諦を表わしているような感じもしてきますね。 この三人で、南無阿弥陀仏の三諦円融という感じでしょうか(^^)。 やはり、宗教思想の展開にも、それなりの必然性があって、 その内的運動法則に基づいて、発展していくような気がしてきます。 そして、その宗教思想そのものが生きて生成している間は、 その「円融」に向かう運動は持続的に発展する可能性を得るのですが、 それが生成する力を失い、固定的になってしまうようになると、 その円融という気体、液体が、次第に凝固し始めて、 まさに形骸化してしまうようになっていくのだと思います。 その形骸化の時点で、宗教は、みずからを強力に組織化しようとし、 そこで、なんらかの「権威」を頂点とするヒエラルキーができ、 それがどんどん固着化し、権威のための権威になっていきます。 これまでの歴史では、その組織化という側面もそれなりの意味があったわけですが これからはそういうのじゃいけないということなのだと思います。 「組織なきネットワーク」ですね(^^)。 しかし、あらためて一遍のすごいと思うのは、 死に際して、もうそういう固定化を排するために、 ぜんぶ灰にしてしまおうとするところです。 だから、これだけすごい思想でありながら、 浄土真宗のように権威化の対象に乏しいのもあって、 組織化、固定化の方向が生まれにくかったのだといえそうです。 だから、あまり一般に知られにくいという側面があるのですけど。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00085/00085 TBC02621 山桜桃 RE:「小乗」と「大乗」 (17) 97/01/17 13:10 00077へのコメント KAZEさん、こんにちは。 「大乗」の中に、「不二」の発想が内包されているというのは 初めて認識しました。 この観点から、自分でも少し調べてみようと思います。 ナイスなアプローチを見つけることができるかもしれません。 「浄土」については、これも「方便」なのでしょうが、 私はマズイ発想だなと思っています。 「浄土」という概念を出した瞬間に、「浄土」への欲望が発生してしまうと 私は思っています。 ここで新たな煩悩をつくり出してしまうのです。 「仏」についても同様です。 そういう欲望のシステムが、あらゆる宗教に巧みに織り込まれています。 それが、私にとっての興味の対象です。 「浄土」なんてないし、人は仏にはなれないのが事実なのに、 なんで人間は、そういう物語を求める傾向にあるのでしょうか。 あと、これもうまく説明できないのですが、 ブッダが妻子を捨てて修行に入ったのは、意味があると思っています。 そうしなければ認識できないものがあるのも事実だと思っています。 人間には個別性があって、カルマというか、そういう課題のようなものを みんなそれぞれ背負っていると思います。 ある意味で、神様はものすごく不公平です。結果的には公平なのですが。 ですから、修行も、人それぞれやり方が違うのだと思います。 ですから、出家は否定されるべきものではないと思います。 出家が必要な人は、した方がいいと思います。 そういう意味で、私は、なるべく多くの人にフィットするようにつくられた レディーメードの宗教より、 その人だけにフィットするようにつくることができる オーダーメードの宗教というか思想を、と考えています。 ***山桜桃*** - FARION MES(18):|◆期間限定◆ |「アーリオーン・メッセージ」輪読 97/01/17 - 050/051 NBB01420 SUKE 第1章 p.48-58 (18) 97/01/17 01:08 では、輪読会の続き、まずは概要をまとめてみました。発言としては長文 ですが、この節では数字を読み解いて実際に日本を駆けめぐるようなスリ リングな展開になっています。 =================================== 「アマテラスの義弟たちによる345の封印」p.48-53 アマテラスの義弟たちによる封印を解くにはどうしたら良いか? そこにヒ ントになったメッセージが95/01/29の  「三角に結んだ契り、345の有限の封印…真ん中で閉じよ、開く為」 である。 この「345」と言うのは直角三角形の三辺の比になっていることに気付け ば、図形的な解読が必要であることが分かる。これについてアリオンは、  「アマテラスの義弟たちは三四五で構成される直角三角形を用いて、日本   中に封印を施した」 と説明。一般には345の比はピタゴラスの定理として知られているが、古 来日本でも鈎股弦の定理として知られていた。 この「3,4,5」の数字が付く地名は日本中にあるが、「3」は特に出雲 周辺に多い。このことから地名に用いられている「三」は、出雲族に対する 日向族の封印ではないかと推測したが、他の「四」「五」の地名は少ない。 一方、「真ん中で閉じよ」と言うから「345」の真ん中である「4」が封 印のキーであろう。これについてアリオンは  「確かに日向族は三のつく地名を使って三四五の封印をした。しかし四は   地名として残していない」 といった。四は隠されるべき数字だからであろう。つまり地名を探す場合は 三と五を探すことになる。 ここで「五」の地名は山名や高台に多いことが分かってきた。考えてみると 直角三角形を結ぶ為に三と五が同じ数だけ存在する必要はなく、高地に多い 「五」から低地の「三」を結んでも構わないと言う事に気付いた。(高低が 逆でも同じ) アリオンは  「五のつく地名が、日向族の三四五の封印のために利用されたのではな   い。「ご」が初めにつく地名はみな三四五の封印をかけるために利用   されたのだ」 と言う。「五」ではなく「ご」となれば、もっと沢山見つかる。(例:御 殿場、郷、御前岳。御前山、権現山…白地図が挿入されています。) こうして調べて行くと、アマテラスの義弟たちの封印は本当に日本中にかけ られている、と言うことが分かってくるのである。 しかしそれらの封印をどう解いたら良いかはまだ分からない。 「八は三の中に 四は五の上に…に隠された意味とは」p.53-57 ここまでの数字のまとめ。  「三」…日向族      (天上界の力・神の力)  「四」…アマテラスの義弟たち      (人間の知恵によって使われる天上界の力、アダムカドモン)  「五」…「四」に経験や歴史が加わった数字。      現在のヒト。  「八」…出雲族      (スサノオ)  「九」…ニギハヤヒ ニギハヤヒとはスサノオとクシイナダヒメの間に生まれた人物で、アリオン によればニギハヤヒが本当の初代天皇らしいが、その功績と史実は封印され ている。アリオンは  「ニギハヤヒは奈良県三輪山に葬られている」 と言う。ここでも「三」と言う日向族の数字によって「輪止め」=「封印」 されているのだろう。 これらに基づいて本書の冒頭に上げた以下のメッセージ、  「八は三の中に 四は五の上に 九は一二をもって飾られるべし」 を読み換えると、 「出雲は日向の中に(封印されて封じ込められている)。アマテラスの義弟 たちが塗り替えた歴史は、現在の私達の人間の歴史の上に(影を落としてい る)。ニギハヤヒは一二をもって飾られるべし」 となる。 残る「一」と「二」が解けなければ、完全には読めないことになる。 =================================== さて、2節分ですが、これだけでも非常に内容の濃い解読内容が書かれてい ますね。読んでいて次々と分かってくるメッセージの内容、そしてそれと共 に日本全国にくまなくかけられた封印の地名が見えてくるに連れ、空恐ろし い感覚に見舞われます。 普段身近な地名が出てきたりすると、封印も身近な所にあったと言う気持ち になりますね。 そして、数字の羅列にしか見えなかったメッセージが、ここに至って非常に 重要な事を言っていたことが分かってきました。 しかし、肝心の封印解きの方法はまだ見えてきていません。「一」と「二」 の解読は次回に紹介しますので、乞うご期待(^^)                             Suke.(^_-)☆