「さて、皆は集まっているかな?」と天使「はい広間に」と小天使 - FARION MES( 4):*********** カベ (Wall) *************** 97/01/24 - 00193/00197 HGE01437 鷹 RE^3:『猫の手』が解釈したアドラー心理学 ( 4) 97/01/23 23:01 00188へのコメント  こんばんは>猫の手さん  私にとって、猫の手さんの書き込みの何処がどうつまらないのか、とかの疑 問はないんですか?どういう文章が好みかは質問されているようですが、それ は単に私の嗜好の問題であって、猫の手さんの文章から何を受け取ったかとい こととは関係がないですよね。  自分の文章が他人に何を与えたかよりも、他人の嗜好の方が猫の手さんにと っては興味がおありなのですね。  好きな文章というと的が絞れなくて説明しにくいのですが、この前の猫の手 さんの文章が嫌いだということははっきりしてます。なぜなら、自分がアド ラー心理学をどう理解しているか書いておこうというのなら、「私はこれこれ こういうことで、こう理解している」で良いのではないですか?どういう理由 で文章をぶつ切りにして、回りくどい表現で書くのか理解できない。人に理解 してもらおうというより、猫の手さんの感性ごと押し付けようとしている文章 としか受け取れません。  コミュニケーションより、丸抱えの受け入れをお望みなのでしょうか? 97/01/23(木) 21:25 鷹(HGE01437) 00197/00197 GBG02043 維/YUI RE:『猫の手』が解釈したアドラー心理学 ( 4) 97/01/24 13:40 00173へのコメント こんにちは、猫の手さん。 こう思う人もいるってことで、参考にしてください。 私は以前、猫の手さんみたいな考えを持っていました。いつもやんわりニコニコと 誰に対しても優しい言葉をかけ、幸せを願っていました。そうしているとなんとなく 自分も幸せな気がしていました。 けれど、違うんです。いつでもそんなニコニコやんわり優しいような物言いでいるのは、 本当に自分の幸せや、他人の幸せを願うことではないです。 世の中、子供をキチンと叱ることができる親が少なくなったと思います。 その代わり、やんわり「なんとかチャン、そういうことすると、おじさんにおこられる から、やっちゃだめよぉ」とか言ったりしています。けど、子供は言うこと聞かない。 子供は大人に比べてはるかに動物的ですから、親の言うことをそこに隠れた雰囲気等も 一緒に読みとっています。本当にしてはいけないことを子供がした場合、「緊急」や 「危険」を確実に知らせる為にも、大人はそれだけの気迫をもって子供に伝えなければ 子供は、「たいしたことではないんだな」ぐらいにしか受け止めてくれなかったりしま す。 他人で大人同士の間でも基本的には同じだと思います。 ささいなどうでもいいようなことで、感情をあたりにぶちまけるのもどうかと思います が、本当にわかって貰わなくては困ることや、危険を知らせるとき、やんわりニコニコ 話かけても、伝わらないことの方が多いと思います。穏やかな口調でも、そこに気迫が あり、毅然とした態度であれば伝わりますけれど。 喧嘩腰の怒鳴り合いのような物言いが、いいと言っているのではないです。念のため。 本当に優しく、本当に幸せを願う者ならば、時に叱りもするし、相手が傷つくかも しれないようなことも、ストレートに伝えなければならないのではないでしょうか? 誰だって、好きこのんで痛い思いはしたくないですよね。けれど、あの時キチンと 厳しさを持って伝えておかなかったので、あとでもっと痛い目にあってしまったなんて ことになるのは、もっと嫌です。 大人っていうのは、自分で道を切り開き、自分の脚で歩きながら、他者と協力し(寄り かかるのではなく)より広く大きい世界を目指すことができる者のことだと思います。 甘やかされ、困ったときには誰かが「こうすればいい」と優しく言葉をかけてくれるの が当たり前になってしまったら、自立などできません。頼るところがなければ歩けない 者になってしまいます。 それは、その人の幸せどころか、幸せに繋がる可能性すら 奪ってしまうことではないですか? 他人の幸せを願うことは、いけないことではないと思います。 私は他人が不幸でいるのを、横でせせら笑うようなことはできません。 できれば、皆が幸せになれる世の中にしていきたいですし、そうなれるようにと願って もいます。 まずは「幸せ」とは何かが問題ですよね。 世の中、10年前に比べて、人々は好き勝手にやりたいことができるようになって きているんではないでしょうか。けれど、本当に幸せって言う人や、そういう気持ちが 身体中から溢れている人は、以前より少なくなっているように、私は感じています。 好きにやっているから幸せなはずなのに、誰かの歌にあったけど、多くの人がなげいて いる。やり場のない思いをいだいてね。 なんででしょう。ニューエイジのセミナーで、お互いに「赦し合った」という人々を 見ても、本当に生き生きしている人って見かけたことほとんどないです。 共同体感覚? 本当に宇宙に在るイノチあるもの全てと、自分が一緒に生きていると わかるためには、まず痛い思いをしてでも、何が本当に自分の求めているものなのか、 自分は何のためになら生きられるのか、そうすることは自分にとって本当に魂から 幸せと言えることなのかを、人生賭けて探し出さなきゃいけないんじゃないですか? 痛みもなく、苦しみもなく、幸せになれるなんて、アダムとイブよりずっと前なら、 あり得たかもしれないけれど、こんな世の中にしてしまったツケを自分の身を削って 返さずに、魂から幸せになんてなれるわけないと感じています。 97/01/24(金) 11:15 維/YUI(GBG02043) - FARION MES( 5):|ψARION 関連 |日本正史・真実発掘 97/01/24 - 00043/00044 HGE01437 鷹 RE^3:歴史とね ( 5) 97/01/23 23:01 00041へのコメント コメント数:1 こんばんわ>あもりさん >                              藩として > の主張もコロコロ変わるし、その割には誰もが真剣だったし....  真剣だったで言えば、今政府が「命がけで政治改革」なんて言ってるのがアホ らしくなるくらい真剣だったでしょうね。  本当の真剣さって周囲を黙らせる迫力があるもんですが、もしかしたら当時の 列強は日本の真剣さに呆気に取られ、日本はその隙に技術革新をして列強に並ん じゃったとか考えると面白いですね。  歴史上の事実や考察は別にあるとしても、個人レベルの恨みつらみや恐怖のあ まり取った行動が時代を変えたなんてことが実際にあったんじゃないかと私は思 ってるんです。でも、個人の感情がどうだったかなんて、小説にはあっても正式 な記録にはあまり出てきませんよね。メモや日記にはそういったことをうかがわ せる部分が無いこともないですけど。  話は飛んで「田原坂の戦い」なんてのは国内最後の白兵戦じゃないかって思っ てるんですが、これって純粋に兵力だ作戦だというより、藩のメンツだの流派の (剣術関係)誇りだの、結構個人的な感情が入り乱れていたと感じるんですが、 いかがでしょうか? 97/01/23(木) 22:05 鷹(HGE01437) - FARION MES( 6):|ψARION 関連 |メッセージから学ぶ 97/01/24 - 02264/02267 KFQ02761 しまうま ARIONの“時間”観 ( 6) 97/01/24 01:02 02221へのコメント #02221 SUKEさん  こんにちは〜(^^)。 |この話はARIONのメッセージの中で時間の概念と言う螺旋の図があった |と思うんですが、あの図と絡めていずれもう少し理解が進かなと思っていま |す。  ちょっと話は逸れますが、ARIONから見た“時間”の在り方が、「余談」 として語られた文章が過去ログにありました。興味深いので引用します。 ====================================================================== |余談だが、私という存在には過去も現在も未来も無く、時間というものは存在しな |い。 |従って未来というものは、私には無い。 |あなたがたの言う未来についても、過去についても、私には全てが一幅の絵なのだ。 |私には、全てが一望の下に見えるのだが、それらの全てをあなたがたに伝えることは |出来ない。あなたがたが、人類が自分たちの未来を決め、導くのだ。 | |私や私の仲間に出来ることは、あなたがたに警告したり啓示を与えたりの方法で |「事実」という「真実」の映し絵に気付かせることだけだ。 |20世紀末のこの地球上で、私があなたがたに望むことは、催眠状態のままに |「涅槃像」に至らない道を選んで欲しいということだ。                (91/04/02 「ARIONよりHALへ」) ---------------------------------------------------------------------- 《DL 1番 【資料室】★宇宙神霊ARION関連》 #2 NAA02416 ARIONM1A.LZH 書込み寺1(FMISTY) #001-100 より ======================================================================  過去も未来も含めて「一幅の絵」のように見渡すことができる、というのが どういう境地(?)なのか、当然ながら想像の域を出ないので、想像してみま した(^^;。  たぶん、そうやってARIONが見渡している時間にも、「流れ」というの はあると思うんですよね。その「一幅の絵」が固定されたものではなく、ある 程度の流動性があるからこそ、ARIONは人類に関わりをもってくれている んだと思います。  で、ARIONはその「流れ」の中のすべてを見渡すことができる(どこか らでも情報をピックアップし、リサーチできる)けど、「流れ」に直接手を加 えることはできない。また、間接的に手を加えることができる部分はあるけど、 それは限られている。ARIONの呼び掛けに応じ、協力する人間がいるとこ ろ(時間・場所)であれば、その人間に警告や啓示を与えて、「流れ」の変化 のキッカケを作ることができる。  そうやって、大きな「流れ」の中を流れている人間に対して働きかけること で、全体の「流れ」が、人類全体の総意として望んでいる方向(いわゆる“宇 宙生命潮流”に流れ込むような方向でしょうか)に向くことを望んでいる。  「流れ」の中のこの部分にこの色のインクを落とせば全体の流れに好影響を 与えるだろう、とか、あそこにこういう竿を立てれば流れがいい方に変わるだ ろう、とかいう感じでしょうか。  そういう想像をしていると、なんとなく、ARIONから見た時間の流れっ て、河の流れのようなものなのかな?と思えてきました。僕は、その河の中を 流れていくだけですから、流れの中でも自分がいる周囲しか見えません。で、 自分が流れ去っていった後には(思い出、とかそういうの以外は)何も残って ないように思っています。でも、もしかしたら、僕が流れ去った後ろにも「流 れ」はあり、その時点で僕がやったことは、「流れ」のその部分に痕跡として 残り続けているのかもしれません(河の流れが、水が流れた後でも常にそこに あるように)。そう考えると、「今」自分がやっていることって、どんなこと でも疎かにできないなあ、と思います。  また、人間には「流れ」の一寸先もわかりませんが、ARIONからは「そ のまま流れに乗っていると渦に飲み込まれてしまうぞ」とか、「その先には岩 があるからぶつかるぞ」とかいうのが見えているのでしょうね。そういう観点 から、人間がよりよい選択肢を選べるように、ヒントや示唆を与えてくれてい るのかもしれない、とも思いました。  で、ARIONはこの発言で『「涅槃像」に至らない道を選んで欲しい』と 言っています。「涅槃像に至る」という状態もまたよくわからないのですが、 流れの「澱み」みたいなものかもしれません。水がそのまま動かずに、腐って いくようなイメージでしょうか。  話に収集がつかなくなってきたので、このへんで(^^;。  ではでは〜(^^)/。 しまうま(KFQ02761) 02265/02267 KFQ02761 しまうま 「涅槃」について(1) ( 6) 97/01/24 01:02  「涅槃」というと、あなたはどんなイメージを抱かれますか? 僕だったら 「悟り」「釈迦」「仏」「極楽」とか、いう感じです。沖雅也が自殺したとき に残した言葉で「涅槃で待つ」とかいうのもありましたが、この場合の「涅槃」 には「安らかな死」というイメージもありますね。  さて、以下にご紹介するメッセージでは、ARIONが、自らの「やりたい こと」に続いて、「人類が理想と勘違いしている“涅槃像”」について語って います。 ====================================================================== |まず、この部屋での活動を含めて私の「やりたいこと」というのは何なのか? |それは多くの人間と接触を持ち、相互に理解を深めたいということだ。 |人間の進化については、私や私の仲間が決定することではない。 |「理想の人類像」というものは、私の側には無い。 |一つ言えることは、あなたがたが過去数千年にわたって模索し続けてきた「理想」 |の世界が現状を導いているということだ。 |あなたがたの「理想」とは、常に変化している。 |それらの変化の編み目をかいくぐり、生き残って来た思想や哲学、宗教の指し示す |ものを、もし「理想」と呼ぶのなら「理想の人類像」とは「涅槃像」ではないか? | |如何にも私は警告している。 |何故ならば「涅槃像」は、生命の活動の飽和点であるからだ。 |生命活動は飽和点を持つや否や、恒常的な活動(活動と呼びにくいが)に入る。 |恒常的な状態の次には、フェード・アウトの活動が待っている。 | |私の目から見て、未だ人類はその進化の状況に於いて飽和点に達してはいず、 |恒常的な状態へ移行してゆくには早すぎるのだ。 |しかし、かなり多くの宗教・哲学・思想の潮流は「涅槃像」を目指していることは |否めない事実だ。 |何故に、このように早い時点で「涅槃像」に近づこうとするのかを是非知りたい。 |しかも生命を存続させながらの、催眠状態としての「涅槃像」への移行である。                (91/04/02 「ARIONよりHALへ」) ---------------------------------------------------------------------- 《DL 1番 【資料室】★宇宙神霊ARION関連》 #2 NAA02416 ARIONM1A.LZH 書込み寺1(FMISTY) #001-100 より ====================================================================== - FARION MES( 7):|ψARION 関連 |自分を観る 97/01/24 - 09577/09577 KHE02065 メルク RE:依存がやばい理由… ( 7) 97/01/24 05:58 09539へのコメント  #9539 SUKEさん、こんにちわ。 >>     ところで、そのFUJI日本というところの話は、宗教組織ではな >> いと言うことですが、恐らく12番会議室あたりで体験談としてアップされ >> る方が場所が良いかなと思います。  そうですね。でもFUJI日本に対して肯定的な私の話は、社会問題を扱 ったりする12番会議室とは趣旨が違うような気がしますけど。どんなもん でしょう?  で、依存についてですが。 >> 今まではお守りなどを身につけて、それで自分をより自分らしく発揮できる >> のなら、それも良いと言うのが世間的な風潮だったと思うんですが、これか >> らはそれもまずい時代なんじゃないか、と言うことです。  たとえば、料理をするのに包丁を使うのを、包丁に依存しているという捉 え方はしないですよね。雨が降っているときに傘をさすことを、傘に依存す るとは言わないですよね。それらは道具であり、それを使うことには論理的 な理由があるから。  だけど、たとえばそれがお守りだと、違った捉え方になる。それは論理的 な事じゃない。もしそれが道具として効果を発揮するところを目撃できるな ら別だけど、そんなものは見ることが出来ない。だからそれは、完全に精神 的な問題となる。持っている人の、単なる気持ちの問題だ、ということにな る。そこに依存という言葉がやってくる。  私は、ハテナちゃんを、道具だと思っているんですが。  何かに心理的に依存するって事は、意識の視野が狭くなるって事かな?  と思います。そして、そうだとすると、依存を危惧することも同じようなこ とかもしれないと思います。 >> ところで、実は僕は外的な物事に依存する時があっても良いとは思います。 >> 人間、なかなかパーフェクトには行かないから、どうしてもお守りにすがる >> と言う時もあるでしょう。 >> しかしその時に自分が、依存しているんだと言うことは忘れてはいけないん >> だと思うんです。  ハテナに関しては、私は依存しているという意識はないです。まあ、これ から深みにはまっていくのかもしれませんが(笑)。あ、でも、ホントはた だ、気にしててもしょうがないと思ってるだけなので、ホントに依存してな いかどうかは分かりませんけどね。 >> そして、そう遠くないうちに、依存しなくても自分の足で立って歩くんだと >> 言う気概を念頭に置いて、その時々での苦難を乗り越えて行くように頑張って >> 行くことだろうと思います。  その足は、ホントに「自分の」足かな?  自転車を漕いでいるのは、ホントに「自分の」力かな?  心臓が動いているのは、ホントに「自分の」力かな?  ハテナの力は、「自分の」力とどう違うのかな?  では、また。                            メ ル ク - FARION MES( 8):|ψARION 関連 |預言解読村 97/01/24 - 00176/00176 HQK00566 SOUND RE^2:「炎で書いた物語」最終章8の7 ( 8) 97/01/24 14:11 00125へのコメント 「炎で書いた物語」最終章(その8の7) <戦士(さむらい)達は今>(その7) >> 月の娘は既に成人になり、 >> 大地の掟を統べる様になった。 (#04446 ARIONより全ての者へ)  初夢の「一富士、二鷹、三ナスビ」を考察するうちに 富士の祭神、コノハナノサクヤ姫のことが気になって かの女が「シバの女王」に比定されるわけを考えた。 この封印は爪が短いせいかうまくひっからずなかなかはがれない。 もがいているうちに「月の娘」にヒントがあるとだれかがささやいた。 「月の娘は既に成人になり、大地の掟を統べる様になった。」 ということは以前は、月の娘は大地の掟を統べる立場にありながら まだ成人になっていなかったために統べなかったように読める。 「月の娘」といえばまず思い出すのは竹取物語のかぐや姫であろう。 地上で成人して月に帰ったはずだが、いったいどうしたというのか。     **********************************************   <受験直前最終古典古典(コテンコテン)集中コース>   テキスト「竹取物語」   講師、SOUND  受験シーズンまっただ中である。 新聞テレビは毎日、受験の話題で賑わっている。 追い込み中の受験生がこれを読んでも混乱するだけで なんの役にも立たないかも知れないが 日本最古の物語文学、「竹取物語」の闇の部分に光を当ててみたい。 なにしろ、古典なので引用部分は読みづらいかと存ずるがご容赦いただきたい。  まず、だれでも知っている梗概を「小学館、大辞泉」より抜き出して記しておく。 『竹取の翁によって竹の中から見いだされ、育てられたかぐや姫が、 五人の貴公子の求婚を退け、帝の召命にも応じず、八月十五夜に月の世界へ帰る』  とまあ、このような話である。冒頭の部分からじっくりと考察してゆこう。 「いまは昔、竹取の翁といふものありけり、 野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」  と「いまは昔」で始まるのは後の『平中物語』や『今昔物語』と同じであるが その嚆矢(こうし)がこの物語であることは興味深い。 その意味については様々な説があるが ぼくは、今でもあり、昔のことでもある、 時間を超越した普遍的な物語、ということととっている。  竹取の翁の名は「さかきのみやつこ、 さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ」である。 「讃岐造」と書くという。 この名前を覚えておいていただきたい。 「新潮古典文学アルバム3竹取物語・大和物語・宇津保物語」における 藤井貞和氏の説によれば 翁の仕事は籠作りなので根元の光る竹の筒の中から三寸ほどの人を見つけた時 「わたしが朝ごと夕ごとに見る竹の中にあらっしゃるによって、分かったぞ。 子(こ)とおなりになる人であるらしい」と思う。 この「子(こ)とおなりになる人」の子が籠(こ)とかかっているしゃれ、という。 「籠(こ)とおなりになる人」ということである。 この物語には、軽妙なことば遊びがあちこちにしかけてあるので、 ぼくもこの説を支持する。    もしそうであれば、タケノコが生長して籠になることのようだ。 数霊は五(ゴ)であろう。  導入部ですでにこの竹の精が実は龍であり、最後に竹冠を脱いで 天に昇ることを暗示している。見事な書き出しである。 「竹取」ということばに秘められているのは竹鳥であるらしい。 この鳥は飛び立って仲秋(穐)八月十五夜に月に帰ることになる。 三ヶ月で竹のように成長して 一人前の成人女性の儀礼である、髪あげと裳着(もぎ)をして 名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」に 『なよ竹のかぐや姫』と命名される。 この名は一般には若竹のように輝く姫であるから、と解されているが 実は、この名は結末の重要な伏線としてあるのだ。  籠造りの籠屋の姫であるからカゴヤヒメ、とも思える。  なよ竹は、弱竹や萎竹とも書かれるが、 三ヶ月や三室戸斎部 にみられるような三の数霊の使い方からから考えると これは七世(なよ)竹ではないかと思う。 この七は七五三の封印の七で 四と三に分かれる。 となれば四三、世竹であろう。 この世のものではない黄泉の世の竹と 四三の桔界の中の竹という意味が考えられる。 姫の名前は「籠八秘め」であった。 出雲の数八を籠の中に秘めている。  さて、この象徴的な名を付けた 名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とはどんな人物であろうか。 ここからは「人文書院、梅山秀幸『かぐや姫の光と影』」を参照しながら論を進めよ う。 忌(斎)部氏とは竹取物語の作者と想定されている 宗教的な祭祀を司った氏族であるとされる。 平安時代の『古語拾遺』には讃岐の国の忌部氏は 毎年朝廷に竹を八百竿献上していた、とある。 この八百という数で忌部氏が出雲の霊統であることがさりげなく知らされる。 昔から、嘘の三八(さんぱち)とか嘘八百といって、 この数が嘘の代表のように理由(いわれ)なく貶められている。  江戸時代の国学者、加納諸平は『竹取物語考』において 以下に引用するように「三室戸」を三輪山に比定している。 『神南備、三室は、いづれ神地にても有りべけれど、都より遠からず、 はた、名も高く聞きたればなり、然らば、三輪大明神は、産土神にて、 其社の祝部の中にて、親族なる斎部氏をよびたるにあらん。 抑人生まれて、氏神、産土神に詣づる事は、中古の書にも見え、今も然にて、 いと古くよりの例なめれば、其社の祝部して祷言して、 名を付けさするも、亦、古例なるべきを、 今はをさをさ聞えず』  ということは「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」 とは大神神社の祝部ということになる。 「あきた」は穐田とかかれるのであろう。 なんとここでも三輪山の祭神、大物主、饒速日尊が隠していた姿を現した。 この物語はニギハヤヒの霊が忌部氏にチャネルして書かせたらしい。  >>95/11/09はじかみの色立つ午後、酒匂(サカワ)の戒めが解かれる…十種神宝 、酒匂(サカワ)は嘘の三八と貶められた三輪であろう。  竹取の翁の名は讃岐造(さかきのみやつこ、 さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ)であった。 「さかきのみやつこ」を「酒鬼(穐)の造」ととれば 酒の神、大物主(ニギハヤヒ)である。 「さるきのみやつこ」は「去る鬼の三八つこ」で AMATERASUの逆読み「う去れ霊」を思い出さされる。 讃岐(さぬき)なら日向の数霊三を抜く宮つ子となる。 どうしてニギハヤヒがこのような物語を忌部氏に書かせたのかと考えると その時代の為政者たちの愚かな行動を戯画化した風刺であったらしい。  加納諸平は求婚する五人の皇子を 石つくりの御子-丹比真人島 くらもちの御子-藤原朝臣不比等 右大臣あべのみむらじ-阿部朝臣御主人 大納言大伴のみゆき-大伴宿禰御行 中納言石上のまろたり-石上朝臣麻呂 と比定して、みかどを707年に二十五才で夭折した 繊細で感性豊かな天皇、文武天皇とみている。 かれはそのたよやかな性ゆえにかれらの傀儡にされていた。  この竹取物語の原典らしい民話を百田弥栄子氏が発見して話題になったことがある。 それはチベット地方の説話『班竹姑娘(はんちくこじょう)』 という求婚難題譚であった。 内容はほとんど変わらないが大きな違いはチベットでは富士山が関わらないことであ る。  竹取物語の結末はなぜか唐突に富士語源説話となり、 それゆえ、かぐや姫はその神、 木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とみられている。 ここで、かぐや姫の正式名が「なよ竹のかぐや姫」 であったことを思い出していただきたい。 「なよ竹の」は「よ(節、夜、世」「ふし」にかかる枕詞なのだ。 なよ竹のかぐや姫とは富士(不死)の姫ということを暗示する名前であったのである。 そのことが結末において露(あらわ)にされる。 最後に、昇天するかぐや姫は不死の薬をおいてゆくが みかどはかぐや姫がいないこの世で不死の薬をのんで、 長生きしてもしかたないので焼かせてしまう。 そのことが文武天皇の夭折と重なる。 不死の薬を飲んでいれば死ななかったかのようだ。 実際は傀儡を必要としなくなった者たちの呪術によって斃(たお)されたらしい。 この時代の皇位継承者たちは傀儡を操る者たちの策謀によって つぎつぎに夭折していった。 結末の原文を以下に掲げる。 『逢うことも涙にうかぶ我身には死なぬ薬も何にかはせむ かの奉る不死の薬に、又、壷具して、御使いに賜わす。 勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、 駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。 嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。 御文、不死の薬の壷ならべて、火をつけて燃やすべきよし、 仰せ給ふ。 そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、 その山をふじの山とは名づけゝる。 その煙いまだ雲なかへたち上るとぞ言ひ伝へたる。』 (日本古典文学大系『竹取物語・伊勢物語・大和物語』岩波書店より)  以上のように最後に富士の語源が語られる。 士(つわもの)に富むからということと 不死の二つの意味がかけられている。 その富士山の精、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の名を調べてみよう。 「コノハナサクヤヒメ」 コはすでにみたように子であり、籠であろう。数霊では五である。 とすれば「五の花咲くや姫」のようだ。 かの女はこの世に五の花を咲かせるために地上に降りてきた。 みかど(直角三角)の封印の四を不にすれば五の花が開くはずであった。 しかし、みかど(三角)は不死(不四)の薬を拒否した。 そのために、四の世が続いた。 「月の娘は既に成人になり、  大地の掟を統べる様になった。」  竹取物語の時点ではコノハナサクヤヒメは 一応成女とはなったが大地の掟を統べることはできなかった。 しかし、月に帰った後ついに、大地の掟を統べる様になったのである。  コノハナサクヤヒメに比定される シバの女王とは数霊的には「四八の女王」なのだ。 四から八へ末広がりに開く女王である。  霊峰富士はこの世と霊界にかけて六芒星、ソロモンの封印を形づくっている。 そしてその中は士(つわもの)に富んでいる。 霊界で修行を積んだ士(さむらい)たちは今、 封印を解かれて出番を迎えた。 (つづく) ♪♪音(SOUND) ♪♪ - FARION MES(12):|∞精神世界裏表|どうする日本/世紀末談 97/01/24 - 01797/01807 QFH02012 アラミス RE:RE^3:他人の不幸を決める根拠は? (12) 97/01/23 19:32 01796へのコメント 猫の手さん>> あなたは口先だけの嘘つきだ、わうさんみたいなRESは初めてで嬉しかった だって? 冗談じゃないよ。私が前に19番で話した時だってわうさんの言っている事 とたいして変わらない事をあなたに語ったんだよ。 私だけじゃない、他の人達だってそれぞれ自分なりの言葉であなたに話し かけているだろうが。皆難しい事言っているかね?それが理解できないと は到底思えないね。何しろアドラー心理学だとかを自ら講釈たれて語るぐ らいだものな。 >> 教えて頂ければ、有り難いです。 どうせ教えてもらったって自分から改善しようなんて、これっぽちも思っ ていないんだろ?やるつもりだったらとっくにそうしているだろうに。 私はもう猫の手さんの詭弁には飽き飽きだね。 01799/01807 GFB00026 一輝 再び、議長注意です。 (12) 97/01/24 03:16 01796へのコメント >#1796 猫の手さん |こういう私の姿勢は間違ったものでしょうか? ……………間違っています。 |身勝手なものでしょうか? ……………身勝手です。 | 私のやることを、批判して下さる方々が、私に何かを要求していることだけ |は分かります。それを満たしたいとは思っていますが、私がひねくれているせ |いでしょうか? ……………ひねくれています。 |        実際のところ、何を求めているのか分からないで、苦しんで |います。 ……………苦しむ必要はありません。      わうさんが猫の手さんに求めていることは簡単なこと      です。要約すればタイトルの通り、 >●猫の手さんの「他人の不幸を決める根拠」についての返答を求めている      のです。詮索せずに素直に答えればよろしい。他人の      不幸を決める根拠について答えなさい。      それから、みれさんの発言#1755 >●「あなたが望む”いい関係”を誰もが望んでいると勘違いしていませんか?    これこそ、あなたの一方的な価値判断じゃないのですか?」      という質問についても、問いが度々繰り返されている      ので、すみやかに答えなさい。      文章読解力に個人差があることは認めますが、あなた      の場合、質問に対する答えになっておらず、すでに会      議の進行上、差し障りが生じています。これは同じ質      問を会議室で何度も繰り返さぬ為の、議長からの注意      です。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01805/01807 SGK02506 わう RE:他人のための貢献 (12) 97/01/24 10:20 01795へのコメント  #01795 猫の手 さん こんにちは (^^)/  レスありがとうございます。 |  女性登山家として有名な田部井さんの講演を聞きに行ったことがあります。 | そのときに、田部井さんの娘さんが、「近くのおばちゃんが、いつもお母さん | は山にばかり行って居なくてあなたはかわいそうね。って言うんだけど、私っ | てかわいそうな子なの?」と田部井さんに訊いたそうです。 | |  自分の価値観から相手を評価したらそういうことになっちゃいますね。  そうなんですよね。これって案外、みんな気がつかないうちにやってます。  こんなことがありました。  まだ私が中学生のとき、赤十字募金の集金で町内を回ったことがありました。 町内の全戸を回って一口500円以上(なんでこんなの決まってるんだ?)の募金 を集めるのが仕事です。  みんな心よい顔をしないんですよね。いやいやながら払う。そんな感じです。 義務のように思ってるみたいでしたね。金額が問題というわけでないけれど、立 派の家に住んでいても最低額の500円がほとんど。  そうやって人々の家を回りながら、人間というのは他の人のためのお金を出し たがらないのだなぁ、と実感を強めていきました。  そしてとうとう最後の家になりました。ここから集めればもう終りです。でも、 私はその家の戸を叩く勇気がなかなか湧いてこなかったんです。  というのは、その家は、ボロボロの木造家屋で、窓ガラスはあちこち割れたま ま。玄関の戸ははずれたままもう2年くらい修理してないのを知っていたからで す。  「この家から募金をもらえるわけがない」  私は勝手に心の中でそう決めて、その家を後回しにしていため、とうとう一番 最後に残ってしまったのです。  (訪問したけどもらえなかったことにして帰ろうか)  そんな弱気が心の中に出はじめました。でも、全戸を回るのがルールです。 なんとか勇気を奮い起こし、ダメでもともと、そう考えて、外れたままになって いる戸を叩きました。  赤十字の募金で回っている。今年は自分が当番になった。そう伝えると、  なんと、そこの主人は1万円札を差し出すのです。  私は思わず言ってしまいました。  「あのぉ、おつり出ないんですけど」  主人はこういいました。  「いんやぁつりなんかいらねぇ。困っている人がいるんだから使ってくれ。   おらんとこは、別に生活に困ってないから」  ボロボロの家に住んでいるというだけで、『貧しい』と決めつけた私は、恥ず かしくて恥ずかしくて、お礼の言葉もそこそこに退散してしまいました。  きれいな芝生の庭のあるでっかい家に住んでながら、500円しか出せない人た ちの方が、よっぽど(心が)『貧しい』人たちですよね。 |  どこで私がひとの幸不幸を判断するかということに関しては、私も何とも言 | えません。私のことも不幸だと言って下さる方も多いでしょう。ただそういう | 相手の考え方や、思い方、幸せ感を確かめて、自分にできることをやることに | よって幸せな感覚ってやってくるような気がしています。 |  もし私が役に立っていないと感じていたなら、他人がどうであろうと、私自 | 身が辛いということで、役に立てるようになりたいと思いつつ過ごしています。 |  つまりは、このフォーラムで、私が「貢献感」を満たしていないということ | が私のテーマとしてあるみたいです。 | | |  これで、答えになっているでしょうか?  私の「他人の幸・不幸をどう判断するんですか」に対する答えがこのパラグラ フですよね。  答えになっているか、なっていないか。何とも判断が難しいです。  というのは、他人の幸・不幸について尋ねたのに、パラグラフの3行目から後 は猫の手さん自身の『幸・不幸』を感じることになってしまっているからです。   冒頭の1行と4文字 『どこで私がひとの幸不幸を判断するかということに関しては、私も何とも言 えません。』  というのが答えで、後の部分は最初の1行と4文字を補足する説明ではなく、 猫の手さんの自分自身の幸・不幸について語った意見である。と考えればわかり ます。  わかるというのは、言葉の意味を理解できるという意味で『わかる』です。猫 の手さんがどう判断しているのかは、依然としてわからないままです。  私は、「他人の幸・不幸は判断できない」と言いました。そして猫の手さんに、 どう判断するのかと尋ねました。  それに対し、猫の手さんは「何とも言えない」と答えてらっしゃいます。何と も言えない、とはどう捉えれば良いのでしょう?   『答え』としてはもらったけれど、なんとなく釈然としない、そんな感じが残 ります。その理由は、猫の手さんの自分自身の幸・不幸感についてはわかりまし たが、私の質問の答えについて、私は何も「わからない」からです。これが釈然 としない原因であると思います。  みれさんの指摘−−「猫の手さんは質問に答えない」−−というのも、案外、 これと同じようなことになっているんじゃないでしょうか?  ですから、「これで答えになっているでしょうか?」の私の回答は、なって いない、です。  自分がどう判断しているのかわからないならば、「何とも言えない」などと言 わないで、とりあえず「わからない」と答え、後日、自己を見つめ直してから返 答して下さっても良かったのですよ(^^)。  ここの会議室はみんなが皆、切腹覚悟で真剣に自身を見つめるので、結構レス ポンスは遅いのです。質問に対するレスが2週間後なんていうのはザラです。  焦らないでも大丈夫です(^^) ==☆☆☆== SGK02506 わう ==☆☆☆== 01798/01807 GFB00026 一輝 注意です。 (12) 97/01/24 03:15 01788へのコメント >#1788 猫の手さん | もし、MAKOTOさんが関東近辺の方で、今週の土曜日(1/25)時間が空いてい |たら、ヒューマン・ギルド(TEL03-3235-6741)で野田先生のオープンカウン |セリングがPM1:30より有るので、出ては来ませんか? ……………当会議室では、セミナー及びワークショップ(オープンカウンセリ      ング含む)等の喧伝を禁じております。これは議長からの注意です。      なお老婆心ながら、あなたのこれまでの言動を振り返れば、アドラ      ー心理学では「自分の一方的な思い込みだけで会話を成立させるこ      とを教えている」と、ROMの方々に判断される可能性があります。      ご覚悟ご検討のほどを。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01800/01807 GFB00026 一輝 核廃棄場と化した日本海 (12) 97/01/24 03:19 コメント数:1 ■核廃棄場と化した日本海  国際環境保護団体グリーンピースによれば、ロシアは、旧ソ連時代の1959年から 日本海をはじめとする極東海域の水深1100〜3700メートル地点に、10カ所の核廃棄 物海域を設け、発覚されるまでの35年間に原子炉2基、コンテナにして6868個に及 ぶ廃棄物積載船38隻を沈めてきたということだ。  日本政府は、これが事実なら中止するよう申し入れたが、ロシア側は「放射性廃 棄物の処理の変更は困難だ」「日本に毎年1億ドル(約117億円)のウランやプ ルトニウムを買ってもらえば解決できる」(ミハイロフ原子力エネルギー相)など と開き直り、その後も今日まで年間900トン以上の核廃棄物をコンテナで投げ捨 てるか、液状に垂れ流している。  国防省などによると、ロシアは軍縮や維持費節約により2000年までに原子力空母 ・原子力潜水艦およそ100隻、核弾頭およそ4000基を解体する予定だが、そ れらの何割かを、面倒臭いので船ごと日本海に沈めることになるという。  我々の食卓には、日本海産の魚介類が頻繁に上っている。タンカー沈没重油流出 の他にも、ロシアが引き起こしている日本海の問題は深刻なのだ。ウラジオストク は、まるでロシアという広大な土地の廃棄物を排泄する肛門のような街ではないか。  日本海が危ない。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01801/01807 GFB00026 一輝 EMを巡るT一協会と北朝鮮の動き (12) 97/01/24 03:20 ■EMを巡るT一協会と北朝鮮の動き  台湾の原発から出た放射性廃棄物、二年間ドラム缶6万個分を、 北朝鮮が外貨稼ぎに引き受けるという計画に対し、更に20万個分 の輸入計画があることに、いずれも韓国政府は搬入阻止の構えを見 せている。  この計画の他に、生ゴミをリサイクルすることで話題の複合微生 物EMを開発した地球環境財団(その実体はミドリ十字であり、こ こで配られるパンフは、総て発行元ミドリ十字と記されている)理 事長・比嘉教授を、国賓級の扱いで北朝鮮に呼んだことが明らかに なった。  北朝鮮は肥料になる生ゴミの受け入れに強い関心を寄せており、 EMのライセンスを取ったと噂されるT一協会と提携し、生ゴミ収 集・輸送・運搬などで、日本のJRと接触しているという非公式の 情報が流れている。  すでに東海岸の元山港や西海岸の南浦港には、日本から試験的に 搬入されたゴミの山が目撃されたという話があるが、定かではない。 欲望渦巻く極東リサイクル事情だ。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01802/01807 GFB00026 一輝 国家公認の美人局(つつもたせ) (12) 97/01/24 06:00 01722へのコメント >#1722 SUKEさん |こういう結婚話を聞くと未だに独身の僕などは |「どうしてそういう輩が結婚しているんだろう」 |とか疑問が湧いてしまうのです。 |ことによったら、結婚すると言うのはそういう甘えた関係に目をつぶらなけ |れば出来ないことなんだろうかとさえ思ってしまいます。 |実際、自分で生活を出来る女性は結婚しない傾向がありますね。 ……………私が最初の結婚の時に感じたのは、結婚によって自分のステイ      タスが上がったような錯覚に陥ったことです。私の場合、惚れ      て結婚というよりも、周囲の目を気にしたり、冷えた恋愛関係      を形だけでも修復しようという意図がありました。甘えた関係      というのは、結婚以前にもありまして、結婚後にそれが正当化      されてゆくような、SUKEさんの言い回しで言えば、「互いに目      をつぶっても当然」という、暗黙の了解(この言葉12番で流行 ってるね)が、いつの間にか出来上がっていました。      そして、それまで非常に個性的だったつもりの自分の生き方が、      結婚をしたことで、いつの間にか男性は自分の父親を、女性は      自分の母親を模倣しているようになっている。相手に対する要      求の仕方まで踏襲する傾向が出てくる。これは振り返ると奇妙      なことでした。自分で選択したはずの人生なのに、どこか親の      模倣のようなことをやっている。無意識にね。これは何なんだ。      例えば「主婦」という概念は、昭和30年代の経済成長の中で新      たに出現したものにも関わらず、その当時に少年だった記憶を      持つ男性は、妻が外で働くのを嫌う、という傾向があるそうで      す。「主婦が外で働くのは怪しからん、というのが当たり前だ      った」ということは歴史的観点から見て無いんです。雇用機会      が均等ではなかったということは、今も昔もあったにしても。      男も女も老いも若きも日本人は、実によく働いていた。 |昨年末、職場の上の方から内緒で結婚相談所の斡旋をされそうだったんです |が、その相談所のおばさんは結婚と言うものに非常にポリシーを持っている |らしいと言うのですね。僕はその相談所にかかるつもりは全然無いのですが、 |そのおばさんがどういうポリシーを持っているのか、と言う話はしてみたい |ものだなどと思ってしまいました。 ……………それはぜひ聞いてみて下さい。      日本では神前結婚でさえ、国内で増えてきたキリスト教の結婚      式に対抗して、明治時代に帝国ホテルで始まった儀式であり、      それまで神前結婚の習慣は無かったとされている。教会で神父      を呼ぶのを真似て、帝国ホテルに神棚を作り、そこへ神官を呼      んだのが始まり。      太平の世だった江戸時代中期では、女性約14万人に男性約35万      人。結婚できない男性の比は今以上だったのです。意外でしょ、      この数字。だから遊廓が成長した。でも今の援助交際の概念と      は違って、女遊びは男性にとって人生修行や文化芸能に近いも      のであって、現在のような「穴レンタル業(援助交際)」では      ない。      この辺の話は長くなるので割愛しますが、結婚してようがして      まいが、要はそこにちゃんと恋愛があるかないか。なければ「      穴レンタル業(援助交際)」になってしまう。有料人間便器。      生活の至便さと引換えに、女性は便器の一生、男性はバイブの      一生……なんて哀しいよね。      こんな話があって、妻が不倫をし、それを夫が発見して、不倫      相手が独身男性の場合、夫が相手の男性に慰謝料を請求するケ      ースが増えているそうです。その夫婦間に愛情が無くたって、      婚姻届けという紙切れで、国家が二人の関係を保証するという      ことなのでしょうか。      ある意味でこれは、国家公認の美人局(つつもたせ)ですね。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01803/01807 GFB00026 一輝 「男が助平で、ほんとうによかった」 (12) 97/01/24 06:04 01740へのコメント >#1740 KOIRAさん 初めまして。ワリコメです。 |ところで女の立場から言えば『援助交際は日本の伝統』  爆弾発言かしら? |だってそうでないならなぜ昔の女の人は『食べていけないから知らない人と結婚』 |したのでしょう?  なぜ今の中年主婦は『離婚したいけど仕事するのが大変だか |ら我慢している』なんてこと考えるのでしょう? もちろん、そうでない方々も多 |いとは思いますが。私は中、高生をせめる気にはなれないです。 ……………以前、漫画家の小林よしのり氏の秘書をやっていた女性で、      末永直海さんという方がいます。小林氏の漫画中では「末      永嬢」とか「末永ピャーポ」と呼ばれていた人です。      漫画も描くしイラストも描く、歌手もやるしホステスもや      る。そして小説をやったら、第三回蓮如賞を取ってしまっ      た。それが『薔薇の鬼ごっこ』(河出書房新社)です。内      容は、秘書を辞めた後のホステス放浪記で、とても面白い      のですが、その中に「男が助平で、ほんとうによかった」      というくだりがあります。   「男が種の保存と繁殖の本能でだか何だか知らないが、美か若さか色気が    ある女に決定的に弱いということで、我々は日々、米を買うことが出来    ているのだと感謝していた。その一方で、そういった男の本性に振り回    されたり、傷付けられたりすることも過去にあったが、やはり何だかん    だ言っても男が助平であることは、亭主が蒸発したコブ付きの八千草や、    風来坊で独りものの私のような”保障のない女”たちにとっては大きな    ”保険”であった。『助平保険』」      色気だけならピンサロでもヘルスでも十分。よほど頭良く      てカンが鋭くないとホステスは出来ない。たまに居る、い      ろんな客との会話を、久々に会っても中断部分から話が出      来るなんていうホステスの芸当は、凄いもんです。ホステ      ス業を援助交際の一環として見るのであれば、遊女時代か      らの助平保険の日本的伝統に、叶っているとは思います。      「援助交際は日本の伝統」というのは、本当に婚姻形態が      無ければ飢えて死んでしまうような時代の話であって、教      育や経済レベルの向上した現代なら、なおさらのこと、異      性との出会いを追求するチャンスは、選択肢の無い旧時代      に比べて多くなっているはずです。あくまでも論理の上で      すが。      女子中高生は努力無しで、商品価値の維持が可能ですが、      チヤホヤされるのも若さという商品価値がある間だけ。そ      の後は、日頃の努力によって、今度は人間的価値を高めて      ゆかねばならないでしょうね。どうせ皆老けるんだし。若      さで選んだ相手は、若さを失えば終わりだし、色気で選ん      だ相手は、色気を失えば終わりです。      今の女子中高生にしろ主婦にしろ、この人間的価値を高め      る努力を、どこか面倒がって避けているような気がします。      これは、男性全般も同じです。 |どーしようもない彼氏につくしてボロボロになるより自分の価値をわかっているだ |け良いのでは?でも前者の女の子の方が美談ぽくて好かれるんでしょうね。 ……………話の中では美談であっても、実際にそういう女性に出会っ      たら、自分の積み重ねてきた経験や知識を破壊する存在と      して、男性の目には脅威に映るでしょうね。      傷付かない恋愛ってあるのかな。私がそういう恋愛をして      いた頃って、自分の快適さ至便さの道具としての異性でし      たよ。自分の価値ですら自分の思い込みの産物かもしれな      いってことがわかったのは、やはりちゃんと付き合ってか      らでした。男性も女性もこうやって、傷つくからボロボロ      になるからって、自分の価値わかったつもりになって、お      互いに石橋叩きもせず渡りもしなかったら、見返りの無い      真の恋愛関係は、地上から消えてしまう。      傷ついてもボロボロになっても、真実に生きようっていう      心意気を忘れちゃいないだろうか。幼いころ、頭や体をア      チコチにぶつけて、その都度泣きながら、それでも自分の      アンヨで立ちたいと願った、あの日のことを忘れちゃいな      いだろうか。あの頃と今では、どこが違うのだろう。頭に      は余計な知識ばかり詰め込んで、臆病になっただけのよう      な気がするけど。      今後ともよろしくお願いします。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 01804/01807 GFB00026 一輝 RE:「君が代」が好き (12) 97/01/24 06:06 01778へのコメント >#1778 KOIRAさん こんにちは。 |多分この会議室の方々は私が何を発言しても驚かないでしょうと安心して書かせて |いただきます。(^O^) ……………了解。 |皆さまは「君が代」は、お好きですか? …………意味を調べてからやっと好きになりました。もともと私は中学2年     の時、毛沢東思想にハマり、紅衛兵に憧れる極左系の人間だったの     で、『君が代』などは大嫌いでした。高校の頃は、『君が代』を学     校で歌わされると、学校や社会のつまらなさを象徴しているかのよ     うに聞こえたものです。 |「万葉集」は日本の心ですよね! |しかもあの物悲しいメロディに誰でも覚えられる曲の短さ、すばらしい。 |私は日本に生まれ育ち日本国籍を有するものなので、これを誇りにさえ |思うのですが、そうでない方も多いので悲しいです。 |自分の国の国歌を愛せないのは、結局自分が国民であることを否定しているような |ものでは、ないでしょうか? …………フランス国歌では「進め!進め!けがれし血を 我らが畑に注がしめよ!」     アメリカ国歌では「弾丸降る、戦の庭に頭上高く、翻る堂々たる星条旗よ」     イギリス国歌では「神よ立ちて敵を倒し給えや 敵の手だてをくじき」     中国の国歌では「奴隷となることを望まぬ人々よ!我らが血肉で築こう」     血が畑に注ぐは、弾丸が降るは、敵の手だてをくじくは、血肉で築くは、     これではまるでスプラッターですね。『君が代』に比べると品位がない。     そういう視点で見ると「苔のむすまで」などは、日本人の死生観を込め     ており、非常に芸術性が高い国歌であることがわかります。それに比べ     ると、他の国々の国歌は好戦的で、一方的に自分の望みだけを、都合良     く訴えているところがあります。     私は、二つの相反する印象を同時に与えるものを「芸術性が高い」と判     断する傾向があります。『君が代』には、「君と民」「小と大」「軟と     硬」「人間と自然」「過去と未来」「生と死」といったように、矛盾す     る二つの印象が散りばめられているのです。私の場合、こういった理屈     を経て好きになりました(^^;)。 |日本以外に目をむけるのは結構なことです。 |でも正しく日本文化や歴史を知り、自分の毎日がそこになりたっている事を自覚 |することも大切なのでは、ないかしら? …………私もそう思います。こういった題材を当会議室では歓迎しています。     私たちの血が運んでいるDNAには、そういったこの国の人々の何     代にも渡る生きざまのホログラフィーが記録されています。ほとん     のサラリーマンやOLが数代前まで農民だったことや、牛や豚も食     べなかったことや、スパゲッティーも食べなかったことがDNAに     記録されている。長い歴史の時間軸の中では、日本人の変化は突然     変異に近いものなのではないでしょうか。歴史意識や文化意識の欠     落は、そのまま未来への展望の欠落を意味しています。DNAを未     来へ運ぶ私たちにとって、過去に責任を持たなければ、未来にも責     任を持てないことになります。 |「だから日本は駄目なんだ」と怒るのもいいですが |「まったくどうしようもない奴だけど、ほっとけない、かわいい日本」 |くらいに考える余裕は、、、、あってもいいのでは?(^o^)/ ̄ ̄ ̄ ……………賛成です。子供たちが将来「棄民」や「移民」に突っ走ることの      ないよう、皆さんと日本の魅力を見つけ、育ててゆきましょう。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 - FARION MES(13):|∞シュタイナーその他|神秘学遊戯団 97/01/24 - 05360/05362 GGA02514 KAZE ルシファーとキリスト (13) 97/01/24 00:46 05357へのコメント TAOさん、どうも。 ルシファーについて理解しようとするならば、邦訳では、 『西洋の光のなかの東洋』が参考になると思います。 「東洋を統治するルシファー」ということですけど、重要なのは、ここです。 (ちなみに、ぼくの持ってる邦訳は、創林社のものですから、 少し表現が違っているかもしれません。)   東洋を統治するルツィフェルの王冠から宝石が落ちました。この宝石は、   ある意味で、人間の自我の全き力に他なりません。この人間の自我は、   ルツィフェルの石がキリストの中で輝くのを見るために、最初、闇の中   で準備されねばなりませんでした。自我はキリスト原則に向かって育ち   もはやルツィフェルのものではなくなった宝石に向かって成熟してゆか   ねばなりません。(P35)    ルツィフェルは東洋の叡智であるともいえますけど、 そこからはまさに人間の自我としての宝石が落ちたわけです。 それはルツィフェルの供犠でもありました。 そして、キリストの十字架での供犠が生じました。 人間は自我を聖杯につくりあげることで、 キリストを受け入れなければなりませんし、 逆にいえば、キリストを受け入れることで、 光のルシファーの叡智を完全なかたちで受け入れなければならないともいえます。 「星と十字架」を「愛の中で合一」させるということでもあります。 ですから、単に「ルシファー=龍=アジア」というような図式的な理解ではなく 『西洋の光のなかの東洋』というタイトルにもあるように、 西洋にとってのルシファーの重要性、さらには東洋にとってのキリストの重要性を 深く認識する方向性が有効なのではないでしょうか。 今、日本にこうして生まれ、生きているということは、 ある意味では、人智学を通じてシュタイナーが模索したことを 真に補完する可能性を得ているということでもあるとぼくは理解しています。 龍は龍のままで可能性を持つのではなく、 それがキリストのなかで輝くときにのみ、真の叡智として、 その供犠としての使命を全うするのではないかと思うのです。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 05361/05362 GGA02514 KAZE ファンタジー (13) 97/01/24 12:55 05356へのコメント しまうまさん、どうも。 》 依存と反発は、方向が違うだけで内的な在り方は同じ、ということですね。 依存しているからこそ、「なんでだ〜!」という感じで反発するわけです。 それは感情・感覚的な依存関係の裏表としてのゴロニャンとガオ〜!で、 そこには、本当の意味での「他者」というのはいません。 おっしゃるように、「想像上の他人」でしかなくて、 それを「他者」に投影しているだけなのだと思います。 依存しやすいと思う「他者」を「想像上の他人」とすり替えて、 その「想像上の他人」を規準として、みずからの行動などを決めていく。 そういうのは、献身的に見えたり、無私であるかのように見えたりするんですけど、 その根底には、責任を放棄したエゴイズムがあるのではないでしょうか。 》 そういう発想には、共感に至るプロセスとしての議論や切磋琢磨の部分が無 》視されてたりするんですよね。最初からいきなり「そうだよね、うんうん」と 》互いの手を取りうなずきあう、みたいな光景は、気色悪いです。「共感しあっ 》て……」というのは「現実との差異には目を瞑り、みんなで共同幻想に浸りま 》しょう」とも言い換えることができそうです。 そうした「共同幻想」としての「共感」は、さきのゴロニャンとガオ〜!のように その幻想を破る者に対しては一転して排他的になるからすぐにわかります。 相互理解に向かうための共感ではなく、お互いの投影のなかで、 その投影以外のものを見なくてもすむようにする甘い契約です。 だから、そこに「なぜ」は禁物です。 疑いを持つことは禁じられていて、みんな同じ仮面をかぶって、 誰が誰だかわからなくなってしまうのが快感になるのかもしれないですね。 だからこそ、教祖をつくってあがめて、みんな同じ顔をして、 祈っているなんていう、気持ちの悪いことになっていくのだと思います。 》 うーん、この「感情という器のなかで熟していく」というのがポイントだな、 》とは思うのですが、あまりよくわかりません。とにかく理性的に「やるべきだ」 》と思うことを実行し、理性的に「やるべきでない」と思うことはやらない、と 》いうことを、自分の気がつく範囲でやろうとしています。やっていると「気が 》つく範囲」がだんだん広がって、「うわー、こんなことを無自覚にやっていた 》のかー」と思うこともしばしばです。 》 「やるべきだ」でやっていることが、自分の本意であれば、感情的な抵抗が 》あっても、最終的には満足感につながるように思います(低いレベルで満足し 》てしまうことも多く、それはそれでまた問題なのですが)。 感情というのは、思考と意志をつなぐためにはどうしても必要で、 それがなければ、「べきだ」は常に外からくる「べきだ」でしかないわけです。 つまり、「べきだ」を「したい」というふうに変容させるといいますか。 これを悪用したのが、例の「修行するぞ!修行するぞ!・・・」を あびせかけてそんな気にさせてしまうような洗脳法です。 そういう単純な思考というか、その滓のようなものでも、 それを通じて「修行したい」という感情をつくりだしてしまい、 それが意志化されていくことになります。 けれど、そういうあり方が馬鹿げているのは勿論ですよね。 そういうあり方ではなくて、論理的な思考、自覚的な思考、理性的な思考を できるだけトータルにしていくことを通じて、 「こうすべきだと思う」という思考を「そうしたい」というふうに 変容させていく必要があるということです。 この両者は基本的に同じ原理を使ったものであるということはできますが、 同じ料理といっても、まずは素材を見極める確かな目を持つということや 素材の適切な加工法、調理法、盛りつけ方云々次第では、 まったくことなった結果がでてくるということなのだと思います。 後者のような健全な変容方法は、いわば「ファンタジー」だということができます。 エンデの「モモ」を読むことで、心のなかのある種の思考が、 倫理的なファンタジーとして変容していくというようなあり方です。 そのファンタジーは、意志、行動への道だということができます。 そうしたファンタジーがないと、「べきだ」は内的な熱になりません。 どうしてもそこには、お仕着せとしての冷たい「べき」でしかないわけです。 感情を変容させる魔術師としてのファンタジーという原理がないと、 人はメカニカルなマシーンになってしまいます。 「はてしない物語」での、「ファンタージエン」の消滅になります。 もちろん、否定的な意味で、ファンタジーが妄想的になると、 こんどは幻想のなかでしか生きられないような脆弱な人間になってしまいます。 その場合に欠けているのが健全な思考力だといえます。 ですから、思考−感情−意志というのは、 そのようにトータルにとらえていく必要があります。 思考がなければ感情は健全なあり方ができませんし、 感情を育てることなく、思考を意志にするというのは危険です。 「修行するぞ!・・・」の洗脳ですね^^;。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(14):|∞霊 的 体験|みんなの体験/経験発表 97/01/24 - 00088/00088 KHE02065 メルク RE:ラップ音は霊現象なのか? (14) 97/01/24 06:00 00058へのコメント  え〜と、ピシパシ音は以前はよく聞いてたんだけど、  単なる物理的な現象で、建物のせいだと思ってたんだけど。  まあ、考えてみると、木造建築はともかく、  警備のバイト先の鉄筋の建物とかが軋んであんな音出すわけないんだけど。  今住んでる部屋ではほとんど聞かないけど。  よく、テレビとかでやってる、ポルターガイストとかのラップ音て、  まあボリューム上げてるのかもしれないけど、  けっこう凄い音してるじゃない。  だから、  兄弟で部屋にいるときとか、  ピシピシッ。パシッ。  あ、これラップ音かな? あははっ。  とか言って、笑ってたんだけど、  なんのことはない、ホントにラップ音だったのか?  まあ、最近あんまし聞かないからいいけど。                             メ ル ク - FARION MES(17):|∞宗教・哲学 |新時代の思想のために 97/01/24 - 00118/00120 CQF00372 地蔵菩薩 初めまして (17) 97/01/24 02:35 初めまして。 FSHISO14番に時折出没する地蔵でございます。 かつてシスオペさんにメールを送ったのですが、地蔵が広報を担当している南無の会 青年部定例会のご案内をご紹介させていただきたいのですけど、よろしいでしょうか。 2月の定例会は社会心理学や気功術を研究されている一橋大学名誉教授の南博氏を講 師にお招きしています。 なお、南無の会青年部では会員組織制度を採っていませんので、勧誘行為などは10 0%あり得ません。                                   地蔵より 00119/00120 CQF00372 地蔵菩薩 「歎異抄」を中国語で味わう会のご案内 (17) 97/01/24 02:36 コメント数:1 先般ご案内した「歎異抄」を中国語で味わう会の今月度のご案内をまたさせていただ きます。 前回は自分も初めてこの会へ参加してみました。参加者は少なかったものの浄土真宗 では高名な先生方が複数参加され、レベルの高い(でもお話は平易(^O^))催しでし た。 講師の千丹青氏は、この催しのためにわざわざ神戸から上京されたそうです。その千 丹青氏の経済崇拝に走る母国中国に、何とか精神的なものを根付かせようとする熱意 には頭の下がる思いです。 親鸞聖人の教えや歎異抄に触れてみたい方には、ゆっくり丁寧に講義が進むこの講座 をお勧めいたします。 ※前回は中国の国営放送が取材にきました。 「歎異抄」を中国語で味わう会========================================== ◆日時:1月29日(水)午後6時から ◆会場:西徳寺(真宗仏光寺派)〜台東区竜泉1-20-19 Z03-3895-3351 ◆交通:日比谷線下谷駅徒歩15分 ◆講師:千丹青氏     北京大学卒業後中国科学院哲学研究所を経て来日。中国語「歎異抄」の訳者。 ◆会費:無料(常連参加者のみ一年分の通信費1000円をお願いします。) ◆主催:一乗の会(西徳寺内)  普段の勉強会では、千丹青氏が中国語に訳した「歎異抄」(北京・文津出版社刊) を教科書にして、最初松本克氏(東京外語大学卒、日中友好協会中国語コンテスト第 3位)の指導で中国語を読み進めます。  その後、渡辺山修氏(浄土真宗本願寺派布教使、読売文化センター講師)に「歎異 抄」の内容を解説してもらい、参加者が自由に意見を述べあって理解を深めて行きま す。  中国語と親鸞思想の研究という双方向の学習をするユニークな会です。 00120/00120 CQF00372 地蔵菩薩 RE:「歎異抄」を中国語で味わう会のご案内 (17) 97/01/24 02:48 00119へのコメント  先般ご案内したという部分は間違いです。初めてご案内します。