「どの程度の間、保留するのですか?」とある天使が問うた - FARION MES( 7):|ψARION 関連 |自分を観る 97/02/09 - 09645/09650 NBB01420 SUKE RE^3:内的衝動 ( 7) 97/02/08 19:52 09635へのコメント #9635 しまうまさん、こんにちは。 僕が何となく思うところの「内的衝動」と言うのは、しまうまさんが言われ た通り、目立つ花ではなく、目立たない根っこのところにあるような気がし ます。そしてその根から吸い上げられた養分が葉や花全体にまんべんなく行 き渡っているような感じです。 だから内的衝動とは異なる欲求に身を任せていると、結局どこかでストレス を被る。 >> で、そういう衝動は、得てして既存の自己イメージにそぐわないものですか これはどうなんでしょうか。 既存の自己イメージと異なっていても、内的衝動として本来あるものだった のなら、受け入れがたいとは思えないんです。 受け入れがたいとすれば、外的価値観に左右されているからでしょう。 一見「やりたくない」とか思っていても、よくよく自問してみて、内的衝動 の方向性に叶った結論を出した場合には、苦労はするかもしれないけれど楽 しい苦労になるのではないかと思うんです。 >> 褒められる=「○」、叱られる=「×」という大前提があるのは確かです。 >>これが外的評価への依存であることはわかるのですが、なぜこうしたいのか、 >>自問してみます。 この外的評価を頼りにしてしまう理由は、単純に内的自信が無いからなので すけれど、ではどうして内的自信が無いのか?と言うことになると人夫々の ようですね。 「I LOVE YOU 2」のP152から「内的自信」について語られてい ました。読み直して思ったのですが、外的自信に翻弄されてしまうのは、外 的評価を自分の価値として置く現代社会の在り方に、僕らが育ちながら馴染 んでしまったからではないでしょうか。 しまうまさんの大前提というものは、しまうまさんの人生のどのあたりから 身について来ているのか、遡ってみるのも良いかも知れないですね。                             Suke.(^_-)☆ - FARION MES( 8):|ψARION 関連 |預言解読村 97/02/09 - 00273/00281 MHD02672 TAO 三番目の鐘 ( 8) 97/02/07 00:18 00242へのコメント コメント数:1  #00242 はなさん  >> 「三番目の鐘」に至ってはからっきしダメです。(^^;   「三番目の鐘」は他のメッセージにも登場します。「2−神を恐れぬ者達  よ」の第21章の中です。しかしこの第2節は45章もあって11ページにわたる  という、かなり長いものですね。          <2>  二一、 東の風が吹く時に 三番目の鐘が鳴る      朝告鳥の声を聞け      その時までに 濡れた衣(ヒスイ)を      脱ぎ捨てよ   それに「三番目の羽根」「櫛型の木立の三番目」と、「三番目」が付く語  句が、他にも二つ出て来ます。   「鐘」とは、何らかの節目に鳴らされるということは間違いないようです  が、「東の風が吹く時に」の“東の風”とは何のメタファーだろう?(^^;  TAO 00282/00282 GBG02043 維/YUI 濡れた衣 ( 8) 97/02/09 14:40 00273へのコメント ふと思ったんだけど、「濡れた衣」って、「ぬれぎぬ」のことかしら、有り体に 言えば。。。 いろんな意味で、日本ってぬれぎぬを被ってきた国かもしれない、古代からずっと。 スサノオさんも、あばれ神として「ぬれぎぬ」をきて、カミヤライされている らしいし。鬼も悪い妖怪とされて悪さをするっていう「ぬれぎぬ」をきせられて いるし。 97/02/09(日) 02:25 維/YUI(GBG02043) - FARION MES(17):|∞宗教・哲学 |新時代の思想のために 97/02/09 - 00201/00201 GGA02514 KAZE 光明 (17) 97/02/08 23:24 00194へのコメント アマデウスさん、どうも。 》  先ほどの太陽の運行を考えると、永遠に同じパターンを繰り返すのではなく、 》 今東にある太陽が西に沈むまでの1サイクルのうちに過去の叡智を発展させて、 》 未来のサイクルに託していくような、進化のイメージが湧いてきます。 ぼくもそういうイメージをもっています(^^)。 釈迦の光というのは、ある意味で、それまでの過去の叡智を 集大成して最後の輝きを見せたようなところがあって、 その教えを卵にしてそこから新たな霊性の時代が始まっていくような そんな進化のエポックのように感じます。 そして、新たな霊性こそが、キリストの光だ、と思っているのですけど(^^)。 》  紹介いただいた「正法眼蔵」の一節の光の世界のイメージは凄いですね。 》 この光は、無明に対する光明だと思います。すべてものものには本来仏性が 》 備わっており、その仏の智恵が光そのものなのだから、世界は本来光に満ち 》 溢れている筈なのだ…というようなことなのでしょうか。 ドイツロマン派の有名な考え方に、「物質は光になろうとしているのだ」 というものがありますけど、物質に限らず、汚泥の中から蓮華が咲いていくように、 すべては光へと変容していく可能性を秘めているのだと思います。 本来光そのものであるものが、さまざまな形をとりながら、世界を形成している。 けれど、無明のままでは、自らさえ光の化身であることに気づかない。 ですから自分の本来の姿に気づくことが、光明を得るということなのでしょうね。 》  そのように溢れるほどの光とまでは言わず、かすかな光ででもいいです 》 から、自分の無明を照らし出していけるようになりたいものです。 無明を照らすのは、おそらくはちゃんと目を開くということなのでしょうね。 けれど、その目をあけることができないでいる^^;。 その目を開くということの端緒が、「自分を観る」ということであり、 ゴルゴンを見て石になるのではなく、自分を観て、 石になってしまっている自分をもとの姿に変容させなければね。 しかし、自分の現実を見ると、真っ暗闇なので、 「傷だらけの人生」になってしまいがちなのですけど^^;、 その傷を蓮華のための汚泥ととらえ、蓮を咲かせるためにがんばりたいものです。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00199/00201 GCG01101 アマデウス 【法華経を読む】(2)方便品 (17) 97/02/08 18:14 00188へのコメント コメント数:1    ======================================================     「法華経を読む」(鎌田茂雄著 講談社学術文庫 1112)      読書会 第二章 方便品 P48〜63    ======================================================  <要約>仏は三昧から起って、仏弟子の長老である舎利弗に、仏の智慧      (=諸法実相)は難解難入であり仏にしかわからないものだと      言った。ではなぜ仏がこの世に顕現したのか。それは一大事因縁      による。一大事因縁とは、要するに一切衆生に仏の世界を開示悟入      させて汚濁の世界から救い出すために、ということである。       今まで仏は、その目的のために三乗の教えを説いてきた。しかし       それは衆生の理解力の程度に合わせて、方便として教えの内容を       変えていただけで、それらはすべて一仏乗に帰着するものである。       一仏乗とは、十方仏土に存在する仏の真理はひとつだけという       ことであり、これから説こうとするのは、方便ではなくそうした       真実の教えなのである。   この方便品は、法華経の中で古来重要とされる四要品のうちのひとつと  されています。それは、仏がこれまでの方便の教えではなく、真実の教えを  説く理由と目的が明らかにされているからだということです。序品は舞台  設定と経緯説明でしたが、ここではこれから説こうとする説法の意義の説明  といえると思います。鎌田さんが章のサブタイトルに付けられているように、  「真実の教えを説く前提」といったところでしょう。しかし長々といろんな  手順を踏むもんだなぁと思ってしまいますが(^^;、全体の構成上、等閑には  できない部分なのでしょう。   三乗の教えは方便で、真実は一仏乗だと言うことは、今までは自分だけの  悟りに甘んじていた声聞とか縁覚などでも、実は仏の智慧を知ることができる  ことを意味するんですね。日蓮聖人はこれを「二乗作仏」、すなわち声聞や  縁覚でも仏になれると言っていたようです。   三乗のうちの二乗は小乗ですが、残りの菩薩乗、これは大乗ですね。  大乗が興った頃から、小乗では仏には成れない、仏に成るには菩薩行を  行じなければならない、と言われていたと思います。では菩薩乗と一仏乗は、  どこがどうちがうのでしょう??疑問は残りますが、まぁ論旨には影響ない  ので置いときましょう(^^;。   話を戻して、声聞や縁覚でも仏の智恵を知ることができると言うことは、  一切衆生もそうであるということになりますね。全ての人にはもともと仏性  が備わっているという思想がここにあると思います。しかし、全ての人に  仏性が備わっていると言っても、何もせずに仏の智恵に触れることができる  わけではないんですね。そのあたりのことが、経文の中にも「その習学せざる  者は、これを暁了すること能わず」という言葉で触れられているようで、  舞台装置は派手だけど(^^;、堅実な印象を受けました。   さて、経文には成仏のための条件が挙げられています。それは、   ・六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の菩薩行)の実践   ・善軟の心(善心と、仏の教えを虚心に受け付ける柔軟心)   ・その他の善行(舎利供養、仏塔建立、仏廟建設、仏像仏画製作など)  です。前二者はわかるとして、よくわからなかったのがその他の善行です。  そんな形に拘ってどうするのだろうと思ってしまいます。鎌田氏の解説に  よれば、仏塔などを作らなくても、仏塔に合掌して品の一瞬頭を下げて  「仏を礼拝し奉る」と一言言うだけでもいいし、ただ一言「南無仏」と  唱えるだけでも良いとのことです。   こうしたことは、本来仏の教えに対する深い信の心の表れとして意味が  あり、大切なのは形式そのものではなくて思いの部分でしょう。しかし仏塔  建立だの造仏だのを経文の中で奨励してしまうと、形骸化を促進する危険が  大きいのではないかと思いました。鎌田さんはこう書いています。     われわれが仏に対するとき、まず仏を敬う気持ち(意業・いごう)を     もたねばならない。次に仏に向かって合掌(身業・しんごう)し、     「南無仏」(口業・くごう)と唱えることが必要である。  (P58)   しかしこう感じるのは、いまの僕に念仏とか他力本願の理解が足りないせい  かもしれません。そのあたり、他の方はどう感じられるでしょうか。                               アマデウス 00200/00201 GCG01101 アマデウス 【法華経を読む】(2):補足 (17) 97/02/08 18:16 00199へのコメント   これを読まれている方の中には、仏教の用語に慣れていらっしゃらない方  もおられると思います。そうした方は三乗とか声聞とか縁覚とか、仏教用語  がわからないと話が見えづらいと思いますので、補足として用語の説明を  僕なりにさせていただきます。もっぱら本の受け売りになってしまいますが、  どうぞよしなに。  ◆三乗:悟りに至るため・彼岸に渡るための三つの方法を、乗り物に譬えた      もの。声聞(ショウモン)乗・縁覚(エンガク)乗・菩薩(ボサツ)乗。  ◆声聞:仏の説法を聞いて悟りに至る方法、またその人たち。仏が顕現して      いる間しかこの方法は採れませんね。  ◆縁覚:十二因縁(自然の因縁・消滅する姿)をみて、独力で考察して悟りを      目指す方法、またその人たち。独覚ともいうようです。  ◆菩薩:他者を救う利他の理想を持ち、仏の教えの実践を行うことによって      悟りに至る方法、またはその人たち。   声聞と縁覚は自己の悟りのみを目指すあり方なので小乗、菩薩は利他の観点  を持つ大乗とされています。日蓮聖人が「二乗作仏」と言った二乗は、  もちろん声聞と縁覚を指します。   もしおかしなことを書いていましたら、指摘・訂正下さい>詳しい方                               アマデウス