「枯れ枝に若芽が吹き花が咲き実がなるかどうかを観る」と天使長 - FARION MES( 7):|ψARION 関連 |自分を観る 97/02/11 - 09658/09658 SDI00635 みれ 私の近況報告 ( 7) 97/02/11 10:28  ちょっと私の最近の話など…。  先日、やっとこさで書き上げた原稿を出版社に持って行った。  これから編集さんが読んで、直しだとかの作業に入る前の約一週間〜10日 の間に私は休暇を取るべく信州の温泉に旦那と友人と共に出掛けた。こういう 休暇は滅多に取れないので嬉しかった。  取材旅行とか神事(カミゴト) とかの旅行は、やっぱり何と言ってもお仕事なん で休暇にはならない…当たり前だけど(^^;)  たった一泊二日だけど温泉に入ってマッサージさんを呼んで(^_^)  さーてとゆっくり寝るか…なんて、いつになく早く12時半過ぎに「おやす みぃ〜」となったのに、朝方4時半にハタと起きてしまった。うぅ〜、4時間 半〜5時間くらいで起きる習慣がついているんだ>私(;_;)再度、睡眠に挑戦す るも虚しく時間が過ぎて、そうこうする内に仲居さんがお布団を上げる時間に なってしまったのだった。  翌日は友人の取材にくっついて皆でアチコチ動きまわる…その内に私の取材 めいてきてしまう場面も…やはり貧乏性か。  ところが原稿書いてた時の習慣で午後から眠くなった上に、慣れない時間帯 に動きまわったので風邪気味と(^^;)…なんなんだ、これは。休暇取ってゆっく りして執筆期間とは異なる生活習慣に戻す筈が…調子悪くなってちゃ話になら んぞ(笑)  …結論から言うと、私は忙しく夜討ち朝駆けしてる習慣が身に染みてしまっ ていて、普通の時間帯に優雅に休暇を取るなんてこと出来なくなっているみた い。で、気紛れに普通の休暇みたいなことしたら風邪気味になってしまうんだ なということでした。しかしなぁ〜(^^;)トホホ  でもね、今日は執筆中に溜りきった書籍や原稿の山を何とか片付けようとい う「意志」だけは芽生えている様なので、一昨日よりはマシかと…(苦笑)こ れは温泉休暇の効果なんだな…と思い込んだりして(^^;)  ぐじゃぐじゃ言いながら、今日は何とか片付ける方向で考えよう>私  このまま次の原稿に取り掛かるなんてことになったら、最悪の家庭環境にな ること間違いないし…(^O^;)(^O^;) ★------------------★/みれ(Millenium)SDI00635/★-------------------★ - FARION MES( 8):|ψARION 関連 |預言解読村 97/02/11 - 00284/00289 CXP07016 たぬ RE:三番目の鐘 ( 8) 97/02/10 00:15 00273へのコメント TAO さん、こんばんは。 過去ログにこんなのを見つけました。 |916/999 MHD02502 ARION ARIONより全ての者へ |( 7) 93/03/13 03:34 | 3月21日〜23日深夜に掛けて「第3の門扉」が開かれる。 | 東の風は、その時に吹くだろう。 | | 7月13〜17日には、朝告鳥に夜が訪れる。 「第3の門扉」が三番目の鐘だと思われます。「東の風」と「朝告鳥」は そのまんまですね。で、一体何のことだったんでしょうね? 00286/00289 HGE02116 MAKOTO アジナという場所 ( 8) 97/02/10 23:30  今日、宮島に行ってたんですが、偶然、アジナという場所を見つけた のでご報告しておきます。…っと、見つけたのは TAOさんなんだけどね (^^;)  阿品と書いてアジナと読むそうです。ついでに由来を調べてきたんだ けど、元々は陸地ではなく干潟に葦原が広がっている場所だったそうで、 その「アシハラ」がなまって(?)「アジナ」と呼ばれ始めたとか。  ちなみに、元々の地名は地御前村(ヂゴゼンムラ)、地元ではシノゴ ゼンと呼ばれているようです。ここには以前、宮島に渡る為の船着場が あったそうで、厳島神社参拝の要所になっていたとか。また、ここには 厳島神社の下宮(地御前神社)があって、昔は宮島に渡れない人達の遥 拝所となっていたとか。  宮島=厳島神社(伊都岐島神社)=御祭神は宗像三女神… 海の守り の女神達という事は、ここにもAMAの足跡がしるされているのか…?  しかし、宮島は興味深い島でしたね。まぁ、数字の出ること出ること!! 意識してるから、つい見つけてしまうんだろうけど、それにしても…(^^;) ついでに言うなら、山の上では岩に刻まれたペトログラフも見つかって いるそうな…  三が八に守られている(?)型が出来上がっていたり、三や四のつく 神社がさりげなく配置されていたり… そんなのを見つけては唸ってい たという… いったい、何しに行ったんだか(^^;)  ちなみに、岩国にも同じ文字、同じ読み方の「アジナ」という地名が あるそうですが、そちらのいわれについては調べきれませんでした。 これを読んでいる方の中に、広島の方がいたら、ちょっと調べてみませ ん? なんか、面白いいわれが出てきたりして…(^O^)  そういえば、葦原と言うと、葦原中国(アシハラノナカツクニ)か… これって、日本の事だっけか…(^。^)  どうも、お粗末さまでしたぁ!!                      MAKOTO でした☆ - FARION MES(12):|∞精神世界裏表|どうする日本/世紀末談 97/02/11 - 02026/02043 MHA01114 シュメ−ル RE:休耕地での転作の可能性 (12) 97/02/10 00:44 02013へのコメント おひさしぶりです。 米とか減反とか遺伝子操作の食料とか、最近私が、詳しくなってしまってるこ とがでてきてるんでちょい書いときます。  まず、一般的に、政府というか官僚は政策については、マスコミで報道され るほどにばかじゃないかもしれない、と思っといた方がいいです。調べて見る と、それなりに頑張っていることが分かってきます。他方、省益や体質やらと いった組織特有の害悪はもっと指摘をうけてもいいかもしれない。特に外郭団 体はマズイと思う。厚生省の岡光さんは他の省庁が合法的にやっていることを まねしようとしたが、法的整備が予算枠増大においつけなかっただけじゃない かという見方もできる。怖い話し。  減反・米の生産調整ですが、休耕田に作物を植えてほしいと思っているのは、 多分農林水産省の最大の願いでしょう。調整水田という水を張っただけの水田 は、農水省にとっても苦汁の判断というか、農家の願いだったと思う。建て前 的には水資源の確保とか環境保全対策となってます。調整水田は労働力の限界 にきている転作農家のための苦汁の選択です。  小麦をはじめ野菜への転作が進まないのは、単純に、価格差のためです。外 国産の価格に太刀打ちできる野菜づくりにはそれなりの規模と労働力が必要で、 いまの兼業農家にはそれができません。で、「田園まさに荒れなんとす」の状 況です。日本の国土の農業生産力を減退させることなく米の供給過剰を抑制し、 主要食糧の価格と生産量を安定させることが農水省の課題でしょう。平成8年 度は農水省の関係部長が自殺されてしまいました。過酷な仕事です。彼の死の 意味を沈思し、日本の農業の展望を開いていかなければならない。  作物の原産地表示は農水省のひさびさのヒットです。おかげで、国産野菜に 元気がでてきつつあります。  米の生産調整は残念ながら、現状では取り組まざるを得ない方法でしょう。 なにせ米の消費量が減ってきている。食の多様化、そして少子化。生産調整と いう手法が通用するというのは実は日本の農家の良識ゆえという面がある。抜 け駆けした者が得をするシステムを維持できているのは、全員が協力しなけれ ば、結局価格下落をもたらして自分の首を閉めることになることを理解してい るからという面がある。国の補助金に頼らずに、自力でやっていく農家があっ て当然なのですが、彼とて、米の生産過剰に一人で対抗できる道はない。  安心して食べられる食料として国産野菜が高価格でも市場価値がでてくれば、 休耕田には緑が戻ってくることでしょう。そして、低コスト低労働力でもって 野菜が作れるようにする努力を農業者は続けていかなければならない。  とはいえ、飽食の時代はそう長くは続かないでしょう。中国が菜食から肉食 に移行するスピードが日本の飽食のタイムリミットを握っているように思う。 一片の牛肉を作るためにどれだけの穀物が必要かを考えて見ればいい。  日本の未来は八方塞がりといったところですが、その国難を外への侵略的行 為によって解決するのではなく、自分たちの生活様式の変化によって対応でき るかどうかが日本人に問われて来るように思う。生活水準を自ら下げることに 成功した国家はこれまでないという。穀物を大量に消費する肉食を控え、一汁 一菜の質素な食生活を喜びとし、物を大切にする暮らしに価値を再び見出だす 覚悟を決めたとき、日本は、21世紀の地球にとっても必要とされる国家とし て、輝き続けるに違いない。 ps 一輝さん,そして詳しい情報をおもちの方へ  ペルーの事件ですが、アメリカの大使は当日なにをしてたか、情報ないです か。主要国の大使の行動にちょい関心があります。結局、各国の情報機関はな にをつかんでいたかに関心があるわけです。 02042/02043 GFB00026 一輝 日本人解体論と『建国記念日に寄せて』 (12) 97/02/11 04:33 ■日本人解体論と『建国記念日に寄せて』  朝日新聞が今年の元旦の社説で、「井戸の水をかき回そう…二十一世紀への 助走…」を発表した。そこでは戦後五十年の間、イデオロギー偏向の旗手を進 めてきた朝日が、これまでの五十年を総括した上で「日本人そのものを変えな くてはならない」という結論を下すものだった。そこには、南京大虐殺や慰安 婦問題に横たわる歴史認識の問題や夫婦別姓の問題について、日本人の根底を 解体しない限り、朝日の主張は成立しないという朝日の本音がある。  解体すべき日本人は、次の3つの意識層を持っていると故桑原武夫の次の考 えを引用する。この内容は大江健三郎やニューエイジ翻訳家たちの日本人への 教化戦略に通じているものである。    「西洋の影響下に近代化した意識の層があり、その下にいわゆる     封建的といわれる古風なサムライ的、儒教的な日本文化の層、     さらに下にドロドロと淀んだ、規定しがたい、古代からの神社     崇拝といった形で伝わるような、シャーマニズム的なものを含     む地層があるように思われる」  朝日はこの三つの層のうち、日本人は近代化した意識を確立すべきであるが 未だにそれは成されていない、それは第二、第三の層があるからであるという。 今は「借り着の近代」「根無し草の近代」であり、第二、第三の層を解体しな い限り、日本は第一の層が成立しないとする。これを朝日は「内からの改革」 と言い、20世紀中に決着をつけなければならないとアジテーションしたので ある。この日本人解体論は元旦社説の発表であるだけに、朝日のなみなみなら ぬ決意として伝わってくる。朝日の紙面には十分に気を付けねばなるまい。こ れは新聞メディアによる、日本文化解体、日本人解体への宣戦布告だ。  こうした緊迫する状況の中で、この動きに対抗する新しい動きも目立ってき た。それは藤岡信勝氏や小林よしのり氏らの「新しい歴史教科書を作る会」、 そして本日行われる「建国記念の日祝中央式典」(日本の建国を祝う会主催) である。日時は本日2月11日、午後1時より(2時30分散会予定)。場所 はJR山手線代々木駅下車・明治神宮会館。記念講演は岡村清三氏による『若 者はなぜ銃を執ったのか』、記念映画は日本を守る国民会議新作映画『天翔( あまがけ)る精神…日本を愛した勇士たち』。  先日の日曜日にたまたま渋谷で「建国記念の日祝中央式典」のビラを配り街 頭演説を行う人々を見かけ、最初は疑り深い目で見ていたが、「今までの街頭 でいろいろやってる運動の人々」の範疇を超えるノーマルさを感じ、明らかに 従来のイメージに無い新しい人々が現れていることを確信した。演説の内容は、 ここのフォーラムで行われている会話の延長と言ってもいいだろう。それほど 私には違和感を感じなかったのであるが、渋谷に集う”ギャル岩石”たちから 見れば、場違いなものだったに違いない。  マイペースに演説する”その辺のサラリーマンか学生風”の20代前半男性 が、インドネシア独立戦争に参加した日本兵の話を始めたのには驚いた。「ど この国でも、政府と国民が建国を祝う式典をやっています。日本人である私た ちも、国民の手で祝いをやろうではないですか」と演説する。ビラを受け取っ たものの、私は仕事で行けず残念。もしどなたか出席した人が居たら、その模 様をここに紹介して頂けると有り難い。  最後に、本日の建国記念日へ向けて小路谷秀樹氏より文書を受け取ったので、 私からの建国の祝辞とともに、締めくくりたいと思います。                 FARION 12番会議室*精神世界裏表案内人:一輝 ●参考文献/『祖国と青年』2月号”「日本人解体」を宣言した朝日新聞”椛島有三 ---------------------------------------------------------------------------- 『建国記念日にあたって』                     小路谷秀樹 ----------------------------------------------------------------------------  さて、本日は日本の建国記念日でありますが、日本の建国神話につい てあらためて調べ記しましたので送ります。ご参考に!! *日本の建国神話* はじめ世界は混沌としていた。その中に無性の神々が出現し、続いて5組の男女神 が現れ最後の男女神のイザナギ・イザナミが天の浮橋に立って、天の沼矛(宝石をち りばめた槍)を差し降ろして海水を掻き回してから引き上げた。すると矛の先から滴 る海水が積もって島となった。オノゴロ島である。二人はこの島に降りて天の御柱を 立て、八尋殿という御殿を建てた。  イザナミは体に出来たりない所があり、イザナギは体に出来過ぎたところがあった ので一方で他方を埋めて国生みをすることになった。  初めの時はイザナミのほうから相手をほめたが、その結果不完全な子供のヒルコが 生まれたので、次の時はイザナギが先に言葉をかけた。今度はうまくいき、淡路島・ 四国・隠岐・九州・壱岐・対馬・佐渡島・本州の大八島が次々と生まれた。  次いで石・土・海・水・山・木など自然界の神々及び船・食物など人文界の神々を 生み、さらに火の神カグツチを産んだが、その時女神は陰部を大火傷し、苦しみのう ちに死んだ。その際女神の嘔吐物から鉱物の神が、大小便から土・水・食物の神々が 発生したともいう。火の神の出産が原因で女神が死ぬと、イザナギは怒って火の神を 斬り殺した。その時飛び散った血や斬られた死体から雷神や山の神々が出現した。  イザナギは死んだイザナミに会うため黄泉の国を訪ねた。ところがそこで「どうか 自分の姿を見ないで下さい」と言ったイザナミの懇願を聞き入れずに、腐乱して蛆が 湧き蠢いている妻神の姿を覗き見したため、イザナミは永久に現世に戻る事ができな い。恨んだイザナミは「この世の人間を一日千人づつ殺す」と宣言すると、イザナギ は「一日千五百ずつ出産の為の建物を建てる」と応じた。この「人草門答」によって 人間の死と生とが定められた。 黄泉の国から戻ったイザナギは汚れた体を海水で洗い清めた。こうして禊ぎをする と海神その他の神々が誕生した。最後に両目を洗うと太陽の女神アマテラスと月の神 ツクヨミが鼻を洗うと荒々しい嵐の神スサノオが生まれた。 アマテラスは孫のホノニニギを地上界の統治にあたらす為に,統治者のシンボルで ある勾玉と鏡と剣を授け、随伴の神々と共に送り込み、ホノニニギは日向の国の高千 穂の峰に降臨した。ホノニニギは山の神の娘のコノハナサクヤヒメと結婚して海幸彦 ・山幸彦らの子供を儲ける。山幸彦は海神の娘であるトヨタマヒメと結婚し、妊娠し たトヨタマヒメは海辺の産屋で出産しようとするが、覗き見るなと約束したのに、山 幸彦は覗いてしまい、トヨタマヒメは鰐に変身して出産した後、子を残して海神の国 へ立ち去ってしまう。 産まれた子ウガヤフキアエズは母の妹であるタマヨリヒメと結婚しカムヤマトイワ レヒコを儲ける。このイワレヒコこそが日本の初代天皇とされる神武天皇である。 神武ははじめ日向の国の高千穂宮にいたが、兄のイツセノミコトとともに東方に天 下を治める都を造ろうと大和へ向けて遠征に船出した。彼らは瀬戸内海を経て難波に に至るが、土地の豪族のナガスネヒコとの戦いで兄のイツセノミコトは亡くなった。 神武の軍勢はこれを、太陽女神の子孫であるにもかかわらず太陽に向かって戦ったた めの敗北と思い、紀伊半島を迂回して熊野から大和の地を目指した。熊野では化け熊 に惑わされ、軍勢は気を失うが、天から下された剣の力で元気を回復し、また天から 派遣された巨大な鳥に導かれて熊野、吉野の山中を無事に超えて大和に至った。そし てナガスネヒコをはじめとする土着の豪族を打ち破り、樫原に都を定め初代天皇とし て即位した。今から2657年前の2月11日のことであった。 現在の天皇陛下は神武天皇の直系で、第百二十七代に当たり、日本の王朝は世界で 最も古い王朝である。  この我が日本の万世一系について贈られた賛辞を紹介して今回は締めくくりたい。 贈り主の名はアルバート・アインシュタイン、相対性理論を生み出した現代物理学の 巨頭で、彼が唱えた公式E=MC2は原子爆弾を生み出すきっかけになった。そして この原子爆弾が落とされた国は衆知の通り、日本以外にはない。   「近代日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発     展には、他の国と異なる何ものかがなくてはならない。果たせるか     なこの国の3千年の歴史がそれであった。この長い歴史を通して、     一系の天皇をいただいているということが、今日の日本をあらせし     めたのである。私はこのような尊い国が世界に一箇所位なくてはな     らないと考えていた。     なぜなら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か戦いは繰り返さ     れて、最後には戦いに疲れるときが来る。その時人類は誠の平和を     求めて、世界的な盟主を挙げねばならない。この世界の盟主なるも     のは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古     くまた尊い家柄でなくてはならぬ。     世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高     峰日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本     という尊い国を作っておいてくれたことを・・・」                ……………アルバート・アインシュタイン 参考文献 世界の神話辞典    角川書店                    世界に生きる日本の心 展転社 君が代のルーツ リーブル ---------------------------------------------------------------------------- - FARION MES(13):|∞シュタイナーその他|神秘学遊戯団 97/02/11 - 05427/05428 GGA02514 KAZE シュタイナー「いか超」から学ぶ●21 (13) 97/02/11 12:01 05366へのコメント ●R.シュタイナー 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(高橋巌訳/イザラ書房)  読書会・第21回/「霊界参入の三段階/霊界参入」(P78-92)その3 さて、「火の試練」「水の試練」に続いて、 第三の試練としての「風の試練」が続きます。      ここまで進んでいった志願者には、第三の「試練」が待っている。最後のこ   の試練にはどんな目標も感じられない。すべては彼自身の手に委ねられてい   る。何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。そのような状況の中で、   彼はまったく独りになって、自分で道を見出さねばならない。(中略)とは   いえ、これまでの二つの試練を通過した者の中で、この力を見いだせないの   はごくわずかな人たちだけだ、ということができる。(P87-88) 外的な規準の一切を排除しなければならない。 外から来る規準に身を委ねることでは何も生まれることがないことを 徹底的に覚悟しなければならない。 指示されたことをいかに勇敢にそして完璧にやりおおせるだけの 気概があったとしても、それが外的な指示であるならば、 その行為はみずからの全責任においてなした行為ではなくなる。 そのように、自らが決めてそれを実践する行為こそが、 ここでは重要なのだと思われます。      この第三の試練にとって必要なのは、速やかに自分自身を取り戻すことにあ   る。言葉のもっとも真実の意味で自分の「高次の自我」をこの試練の間に取   り戻さねばならない。すべての事柄において、霊の呼びかけに応じる決意を   速やかに固める。もはやどのような意味でも躊躇、疑惑などに費やす時間は   ない。ただの一分間だけ逡巡しても、ここではまだ成熟していないことの証   明になる。霊の声に従おうとするものは、直ちに克服されねばならない。大   切なのはどんな状況の下でも霊の現存を証明することである。今この進化の   段階で完成させねばならないのはこの能力である。これまで習慣的に持って   いた態度や思考への誘惑はすべて力を失う。惰性的な態度をとり続けないた   めには、自分自身を見失ってはならない。なぜなら自分自身の中にこそ、自   分を支えてくれる唯一確実な支点が見出されるのだから。(P88) 外的規準から自由になるということは、 真に主体的に自分を取り戻すということです。 みずからが決したことをみずからが行うということにおいて、 いかなる逡巡も許されないということ。 それは、真の自己、高次の自己を信じきるということにほかなりません。 しかしながら、通常、自分を信じるとか、疑うとかいうときには、 自分の感情的な執着の部分であることがほとんどではないでしょうか。 ですから、そうした自分から自由でありながら、真の主体的な自己に気づき そこだけを根拠にして行動すべきなのだと思うのです。 感情的な執着としての自分かそうではないかという規準をどのように知るかですが それはまさに、他からの評価をそこに介在させているかどうかをチェックすることで それと知ることは容易なのではないでしょうか。 もちろん、他へのそうした依存はかなり巧妙に入り込んでいますから、 注意深くみずからを見つめることを怠らないようにしたいものです。      他の場合にもまして、日常生活がこの場合多くの人にとって神秘修行の道場   になっている。突然一生の大問題を迎えて、おそれることなく、あまりくよ   くよもせずに、すみやかな決断を下すことのできるようになった人物にとっ   て、人生は修行の場であったに違いない。すぐに手を打たないと、取引を成   功させることができなくなってしまうような状況はすぐれた道場であるとい   える。不幸が予想でき、少しでも躊躇したらその不幸が現実のものになって   しまうようなとき、ただちに決断を下せる人、しかもそのような決断力を自   分の変わらぬ性質としている人は意識せずとも、第三の「試練」を通過しう   るところにまで達している。なぜならこの試練は無条件な霊の顕現を実現す   ることを目的としているのだから。(P89) 確かに、仕事の場面で、即決を求められる重要な場面というのは少なくありません。 そうした場面で、すべてをみずからの責任において決していくということを 修行の一貫として意識的に取り組むということは、 神秘行を遊戯するという観点でも非常に有効なことかもしれません(^^)。 通常は、かなり深刻に受けとめなければならないことでも、 そうした視点をとることで、余裕をもって取り組むことも可能になります。      この試練は神秘修行上「風の試練」と呼ばれる。なぜならそこでは外的誘因   という確かな地盤や、準備と開悟の段階で認識した色、形などから生じる事   柄を拠り所にすることができず、もっぱら自分自身以外に頼るものを持たな   いからである。(P89) 水の試練は、足がつかないところで自分で泳がなければならないイメージですけど この風の試練は、それをさらにすすめて、周囲に水さえなく、 なにもふれることのできない空間を漂うようなイメージでとらえることができます。      この試練を通過した神秘修行者は、「高次の認識の神殿」に入ることが許さ   れる。(中略)この時点で更に何を為すべきかはしばしば次のように表現さ   れる。「神秘修行者は神秘教義の秘密を決して他人に漏らさぬという誓いを   立てねばならない。」とはいえ、「誓い」と「秘密を漏らす」という表現は   事実に即しておらず、したがって誤解を招きやすい。ここでいう「誓い」と   は通常の意味での誓いではない。むしろこの進歩の段階に応じたひとつの経   験をもつことを意味している。(P89-90) モーツァルトは、秘密を漏らしたので毒殺されたという話もありますが^^;、 「秘密を漏らしてはならない」というのは、 ことさらに神秘めかして語られることではあります。 ここで、「秘密を守る」ということが何を意味するのかということが 説明されています。      人はどうしたら神秘教義を人類のために役立たせうるかを学ぶ。今はじめて   世界を正当に理解し始める。高次の真理内容について「沈黙を守る」ことで   はなく、むしろその真理内容を主張する正しい仕方、適わしい態度を経験的   に知ることが大切なのである。何について「沈黙」すべきかということはこ   れとはまったく別の事柄である。則ち沈黙すべきなのは人がこれまでの語り   方で語ることをやめて沈黙するという素晴らしい特性を身につけることであ   る。(中略)上述した段階まで進歩してきた人間にとって、言うことを「禁   じられている」ような事柄は存在しない。どんな人間も、どんな存在も彼に   そのような方向での「誓い」を命じることはできない。すべては彼自身の責   任に任されている。彼が何を学び、何を行うべきかは、どんな状態の下でも   自分自身によって決定されねばならない。だから「誓い」とは、このような   責任を担うことができるまでに成熟した、ということ以外の何ものをも意味   してはいない。(P90) ここで説明されているように、 》上述した段階まで進歩してきた人間にとって、 》言うことを「禁じられている」ような事柄は存在しない わけで、ここで重要なのは、 》沈黙すべきなのは人がこれまでの語り方で語ることをやめて 》沈黙するという素晴らしい特性を身につけること 》「誓い」とは、このような責任を担うことができるまでに成熟した、 》ということ以外の何ものをも意味してはいない ということなのです。 つまり、どれだけ責任を担えるかということの指標として 「沈黙」という象徴的なあり方があるということになります。 「己の欲するところに従いて、その矩を越えず」というあり方で 生きられるようになった状態であるともいえます。 ですから、そこまで成熟しない人間、責任を担えない人間、 そういう人間は、そうした特性を有していないということになりますし、 己の欲するところに従ったら、めちゃくちゃをしてしまうというのは まさにそういうことになります。 さて、続いては「忘却の飲み物」について。   今述べたところまで成熟した志願者は象徴的に「忘却の飲み物」といわれて   いるものを受ける。即ち低次の記憶に邪魔されることなく、いつでも霊的な   働きに集中できる方法を伝授される。これは導師となるには必要な事柄であ   る。なぜなら導師は常に現在の状況に直接向かい合うことができなければな   らないからである。どんな時にも人間を取り巻いている思い出というヴェー   ルを取り除くことができなければならない。勿論人生経験そのものを否定す   るのではない。人生経験は可能な限り、常に利用できなければならない。し   かし導師であるためには、すべての新しい体験をその体験から評価できる能   力を身につけなければならない。(P91) 「忘却の飲み物」は、上記にあるように、 過去の規準から現実に取り組むのではなく、そういう先入見から自由なままに、 「常に現在の状況に直接向かい合う」というあり方の象徴です。 もちろん、過去のさまざまなものを捨ててしまうというのではなくて、 ただそれをネタとして利用可能なあり方以外で、 現在の自分を左右させないようにするということです。 さらに、「記憶の飲み物」について。      導師に与えられるもう一つの「飲み物」は、「記憶の飲み物」である。これ   を飲むと、高次の秘密を常に精神の中に生かし続けることができる。通常の   記憶力はこの場合あまり役に立たないであろう。人は完全に高次の真理内容   とひとつにならねばならない。単にそれを知るだけではなく、飲んだり、食   べたりするのと同じ生きた行為の中で、まったく自然に血肉化しなければな   らない。真理内容そのものが行となり、習慣となり、性向とならねばならな   い。(P91-92) 高次の真理内容を血肉化するということ。 ただ机上の空論、抽象化した理論にするのではなくて、 それを生きることということを「記憶の飲み物」ということで象徴しています。 その飲み物をからだのすみずみにまでゆきわたらせるというイメージでしょうか。 シュタイナーは言っています。 「仏陀は愛の教えを説いた。しかし、キリストは愛を生きたのだ。」と。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ - FARION MES(17):|∞宗教・哲学 |新時代の思想のために 97/02/11 - 00202/00206 GGA02514 KAZE 言葉、言葉、言葉 (17) 97/02/09 21:02 00196へのコメント コメント数:1 アマデウスさん、どうも。 》  「友愛」というのは確かに美しい言葉です。ですが、美しい言葉であるが 》 ゆえに、それを持ち出されると反論できない、または思考停止してしまう 》 部分があるように思います。人間というものはそんな綺麗な部分だけでは 》 ないのは明らかなことです。「人道的感情だけではやっていけない部分」 》 とは、人の内に潜む悪の部分だと思います。人が集まれば必ず小さなエゴの 》 衝突があり、それを「友愛」のような一見綺麗、だけど具体的には何も言って 》 いないような言葉で治めることはできないでしょう。「友愛」一色で塗り 》 つぶされた世界観には、深みがないと言うか、薄っぺらで脆弱なものの 》 ように感じます。 実は、ぼくはその「友愛」というのが大好きなんです(^^ゞ。 もちろん、問題はそれが何を意味しているかということなわけで、 ぼくとしては、それを単に「人道的感情」だとは思っていなくて、 人間と人間が真に向き合うことのできる可能性としてとらえています。 論語で孔子が「仁」ということを語りますけど、 ぼくのいわんとする「友愛」というのは、その「仁」に近いものです。 ということは、それがいかに困難なものであるかということがわかると思います。 で、いったい何がいいたいのかというと、 言葉そのものが問題であるというよりは、 その言葉がどう用いられているかということが 問題だということなのだということです。 「美しい言葉」がきれい事以外のものでない場合もありますし、 またそれが真実を表現していることもあるわけです。 今回のお話の「友愛」という言葉にしても、 きれい事でしかない「友愛」を語り、それに浸ることについて そのドラッグ的な要素を指摘することはまず第一段階であって、 そこからさらに、「では、きれごとではない友愛、新の理念としての友愛とは いったいどういうことなのだろうか」というふうに進むのが 「何からでも学ぶ」ためには必要なのではないでしょうか。 「愛」という言葉ひとつにしても、それがただセックスの意味でしかないことを いくら指摘してもあまり意味はないわけで、 その「愛」を高次のものとしてとらえ、真に輝く理念として受け取れたとき、 同じ言葉がいかに違った意味をもっているか、そしてそこから何を学ぶか、 そういうことができてはじめて、批判の批判たるべき意味があるのだと思います。 そして、「愛」を引きずり降ろしてしまい、ドラッグにしてしまっているような そんなあり方を高次のあり方にまで高めていく道とするための示唆としても また意味をもってくるのではないでしょうか。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00204/00206 GCG01101 アマデウス RE:言葉、言葉、言葉 (17) 97/02/10 21:32 00202へのコメント コメント数:1 #202 KAZE さん、こんばんは。 >> 今回のお話の「友愛」という言葉にしても、 >> きれい事でしかない「友愛」を語り、それに浸ることについて >> そのドラッグ的な要素を指摘することはまず第一段階であって、 >> そこからさらに、「では、きれごとではない友愛、新の理念としての友愛とは >> いったいどういうことなのだろうか」というふうに進むのが >> 「何からでも学ぶ」ためには必要なのではないでしょうか。 >> >> 「愛」という言葉ひとつにしても、それがただセックスの意味でしかないことを >> いくら指摘してもあまり意味はないわけで、 >> その「愛」を高次のものとしてとらえ、真に輝く理念として受け取れたとき、 >> 同じ言葉がいかに違った意味をもっているか、そしてそこから何を学ぶか、 >> そういうことができてはじめて、批判の批判たるべき意味があるのだと思います。 >> そして、「愛」を引きずり降ろしてしまい、ドラッグにしてしまっているような >> そんなあり方を高次のあり方にまで高めていく道とするための示唆としても >> また意味をもってくるのではないでしょうか。   僕は「第一段階」に足を掛けようかという所にいるようです。僕は、今まで  気にも留めていなかったような事を見つけたことに意義を感じていたのですが、  もっと高い視点からするとあまり意味のない批判をしてしまっていたわけです  ね。確かに、次の段階に進むにはどのように考えて行けばよいのかという観点  は持っていませんでした。おっしゃる通り、それだけではどこにも発展して  行く目はありませんね。   なんだか非常に情けないですが、自分の視点の低さ・狭さがよくわかり  ました。自分に不足しているところもひとつ知ることができましたので、  この情けなさを今後に活かしていきたいと思います。  ありがとうございました。ではでは。                               アマデウス 00206/00206 GGA02514 KAZE 認識における中道 (17) 97/02/11 10:43 00204へのコメント アマデウスさん、どうも。 》  僕は「第一段階」に足を掛けようかという所にいるようです。僕は、今まで 》 気にも留めていなかったような事を見つけたことに意義を感じていたのですが、 》 もっと高い視点からするとあまり意味のない批判をしてしまっていたわけです 》 ね。確かに、次の段階に進むにはどのように考えて行けばよいのかという観点 》 は持っていませんでした。おっしゃる通り、それだけではどこにも発展して 》 行く目はありませんね。 今回ちょいといちゃもんをつけたのは^^;、 認識的な方向性における中道的なとらえ方について コメントしてみたいと思ったからです(^^)。 たとえば、「自由、平等、博愛」というフランス革命以来、提示されている いわゆるフリーメーソン的な観点がありますけど、 確かに、通常議論されているようなそれは、批判されてしかるべきものですけど だからといって、それが批判のための批判になってしまって、 そうした観点が真に有効なものであるためには何が必要なのか、 ということを忘れてしまっては何にもならないわけです。 つまり、もちあげすぎてそれを危険なまでの机上の空論にしてしまうか、 その反対に批判ばかりが横行して、その内容を真に検討しようとしないか、 そうした極端から極端へと走っていくことのほうが多いですから、 そうしたあまりにわかりやすい議論方法にとらわれないようにしなければ、 思想を真に検討したとはいえないと思うわけです。 西洋かぶれでなければ、国粋主義になってしまうようなのもそうですよね。 フリーメーソンがどうたら、アメリカの影響がどうたら・・・ということで、 その反作用で、日本的霊性というのを至上のものととらえて、 そこでかちかちに固まってしまうという愚かなことが最近目立ってきていますし もちろん、ニューエイジ批判というのも、批判されてしかるべきところを越えて、 そこに真の意味での統合的な視点というのを模索しようとしないことがほとんどです。 ニューエイジ礼讃か批判かという二分法でしかものを考えられないわけです。 そういうあり方は、認識行為としては非常に稚拙で怠惰な行為ですから、 できれば、この会議室では、そういうあり方だけは避けながら、 議論を進めていければと思い、今回はちょっといちゃもんをつけたわけでした。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00203/00206 GGA02514 KAZE RE:【法華経を読む】(2)方便品 (17) 97/02/10 15:38 00199へのコメント コメント数:1 アマデウスさん、どうも。 》  この方便品は、法華経の中で古来重要とされる四要品のうちのひとつと 》 されています。それは、仏がこれまでの方便の教えではなく、真実の教えを 》 説く理由と目的が明らかにされているからだということです。 この品が「方便品」と名づけられていることを深読みすれば、 「この法華経も実は方便なんだけどね」という意味もあるのではないか、と 相変わらず天邪鬼のぼくはとらえていたりします。 なにかを正当化しようとするときに用いられる稚拙なレトリックは、 「これまでのものは方便だ、これこそが真の教えだ」「これがとどめの神示だ」 「今までの教えはこの教えの準備にすぎなかった」・・・というもので、 まるで映画のキャッチフレーズのようなんですよね^^;。 「これを観ないで、映画は語れない!」とかいうような。 ですから、信仰心のないぼくの読み方としては^^;、 「それだけの内容をこの法華経には込めているつもりだ」という程度の 受け取り方をしておきたいと思います。 》        声聞や縁覚でも仏の智恵を知ることができると言うことは、 》 一切衆生もそうであるということになりますね。全ての人にはもともと仏性 》 が備わっているという思想がここにあると思います。しかし、全ての人に 》 仏性が備わっていると言っても、何もせずに仏の智恵に触れることができる 》 わけではないんですね。そのあたりのことが、経文の中にも「その習学せざる 》 者は、これを暁了すること能わず」という言葉で触れられているようで、 》 舞台装置は派手だけど(^^;、堅実な印象を受けました。 時に学んでこれを習う、またうれしからずや、ということですね(^^)。 やはり、これはすべての基本中の基本だと思います。 よく先生のそばにいるというだけで自分が偉くなった気になったり、 本を読んだだけで偉くなったような気になったりするような勘違い者がいますけど、 そういう勘違いというのは、ほんとうに始末が悪いのだと思います。 そういうのは、時に学んでこれを習わず、また愚かしからずや、です。 煩悩即菩提とかいうことにしても、煩悩を持っているだけで菩提なのだ というふうに勘違いしてしまうような馬鹿げた考え方があったりしますけど そういうのは、料理の素材があっただけで、自ずと料理ができあがるというような 勘違いとまったく同じなんですよね。 》  さて、経文には成仏のための条件が挙げられています。それは、 》 》  ・六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の菩薩行)の実践 》  ・善軟の心(善心と、仏の教えを虚心に受け付ける柔軟心) 》  ・その他の善行(舎利供養、仏塔建立、仏廟建設、仏像仏画製作など) 》 》 です。前二者はわかるとして、よくわからなかったのがその他の善行です。 》 そんな形に拘ってどうするのだろうと思ってしまいます。 その通りですね^^;。 もちろんそれはひとつの方便でしかないわけですけど、 そういう方便を経に記してしまうことで、どれだけ勘違いが発生したか、 ということに対する責任を看過するわけにはいかないのだと思います。 》    われわれが仏に対するとき、まず仏を敬う気持ち(意業・いごう)を 》    もたねばならない。次に仏に向かって合掌(身業・しんごう)し、 》    「南無仏」(口業・くごう)と唱えることが必要である。  (P58) 》 》  しかしこう感じるのは、いまの僕に念仏とか他力本願の理解が足りないせい 》 かもしれません。そのあたり、他の方はどう感じられるでしょうか。 これについても、かつての時代における必要性ということは別としても、 現代において、仏を外的に対象化して礼拝することをもって、 成仏の条件とするということを強調するのは非常に危険なことです。 発心ということにおいては重要なことであることが、 それだけでOKということになるのだとすれば、まずいと思うわけです。 そういう意味で、鎌田茂雄さんも、その後、 「本来、仏性をもっているといっても、それが修行によって開発され、 顕在化しなければ無仏性と同じことである」と加えているんだと思います。 修行方法については、八正道や六波羅蜜があるわけですけど、 やはり現代に生きる我々はそれを半ば過去の遺物と化しかけているそれらを そのままわけもわからず行じるのではなく、 それをアクチュアルに現代化したようなあり方にするという視点を 忘れてはならないのだと思います。 では、では(^^)。 ☆☆☆KAZE☆☆☆ 00205/00206 GCG01101 アマデウス 方便を方便と知ること (17) 97/02/11 00:52 00203へのコメント #203 KAZE さん、こんばんは。 >> これについても、かつての時代における必要性ということは別としても、 >> 現代において、仏を外的に対象化して礼拝することをもって、 >> 成仏の条件とするということを強調するのは非常に危険なことです。 >> 発心ということにおいては重要なことであることが、 >> それだけでOKということになるのだとすれば、まずいと思うわけです。   本当にそう思います。実を言うとテキストをもっと先まで読み進んでいる  んですが、ネタバレにならない範囲で言うと、この先でも仏の対象化とか  形式化に陥る危険性が濃厚と思われる場面が、いくつも出てきますね。   かつては方便として必要だったのかも知れませんが、本来ならばある段階  に至ったら、それが方便であったと気付いて、方便を必要としないあり方に  変わって行ったはずだと思うんです。この法華経自体が、それまでの方便の  教えの段階を過ぎて真実の教えを説くのだという設定なんですよね。  にもかかわらず、その中で成仏の条件として方便の善行を挙げているという  のは、なんだかおかしな感じがします。   とはいえ、これには「法華経」成立当時の仏教事情も絡んでいるようですね。  「仏教の思想5 絶対の真理<天台>」には、「法華経」の中で舎利塔が後半で  経塔に変化していることについて、次のような記述があります。    これは、観念思索にふけってニヒリズム、仏教でいう虚無空見におち    いった小乗教徒の僧院主義にたいする批判とともに、在家信者の間で    おこったシャカの遺骨(シャリーラsarira 舎利)崇拝ないし舎利塔    崇拝に見られるフォークビリーフ(民間信仰)的、即物的な在俗主義    にたいする反省を物語っている。経塔は、批判と反省をとおして両者    を止揚し、大乗菩薩道の真精神を確立しようとした結果の産物である    と考えられる。教法の現実実践という菩薩行の中に、生きた仏を見よう    とするものであるといえよう。              (P84)   つまり、成立当時には形骸化に対する警戒(シャレじゃありませんよ(^^;)  の意識はあったようです。しかしその意識が、後世の読者に充分伝わっては  いないことが問題なのでしょう。   とにかく、法華経を読む現代のわれわれとしては、対象が何なのかハッキリ  と目を見開いて見て、そこで言われている内容を自分のものにする努力は  怠ってはならないということを忘れないようにしたいです。 >> 修行方法については、八正道や六波羅蜜があるわけですけど、 >> やはり現代に生きる我々はそれを半ば過去の遺物と化しかけているそれらを >> そのままわけもわからず行じるのではなく、 >> それをアクチュアルに現代化したようなあり方にするという視点を >> 忘れてはならないのだと思います。   六波羅蜜の中の「布施」ひとつ取ってみても、簡単に「お布施するぞお布施  するぞ」に使われてしまうわけですよね(^^;。それに「持戒」ということに  ついても、先日出ました「戒律とは何か」という理解無しには、全然意味を  成さなくなってしまいます。   「アクチュアルに現代化したようなあり方」というのは、大切なことだと  思います。まずは、八正道なり六波羅蜜なりの意味を理解して、それを自分  がやるならば、という見方で自分のやり方に翻訳していく作業をやってみよう  かなと思いました。                               アマデウス - FARION MES(18):|◆期間限定◆ |「アーリオーン・メッセージ」輪読 97/02/11 - 168/179 NBB01420 SUKE 四柏手の神社 (18) 97/02/09 22:09 151へのコメント #151 松川 貴さん、こんばんは。 興味深い書き込みをありがとうございました。 柏手の回数については出雲系だけが4回ということですが、これは以前に「 新世界紀行」で邪馬台国の謎について特集があったときに、リポーター役の 井沢元彦氏が出雲大社は二拝四柏手一拝だと報じていました。それを観て以 来、出雲系は四柏手が本来ではないのかと思っていました。 同特集では北九州は大分県宇佐市の宇佐神宮でも四柏手であり、祀神は 「応仁天皇」「神功皇后」「比売大神」の3神でした。 井沢氏は4柏手の意味を「4=死であり、もう帰ってこないで下さいという 意味ではないか」という風に解釈していましたが、だとすると4柏手という のは黄泉帰りを阻止する方向性ですね。 この辺り、どのように解釈するかで作法に対する見方も変わって来ようとい うものです。                             Suke.(^_-)☆ 175/179 GFB00026 一輝 拍手による封印呪術の可能性。 (18) 97/02/11 04:40 150へのコメント >#150 松川さん ごぶさたしております。思えば、原田常治さんの著作『日本古代正史』のことを 最初に知ったのは、5年前の松川さんの書き込みでした。松川さんは、「薩摩藩 と長州藩」の関係を「日向族と出雲族」と見立て、両者の合体が王政復古を導い たのではなかったか、という大胆な仮説を展開せられ、その説得力に唸った記憶 があります。 今回の話、CHARANさんの「四」=「西」説を採用すれば、西都原も「三四五封印 」に通じた意味になりそうですね。美々津の「ミミツ」という読みは「三」のよ ようにも思えるし、都農や高鍋や宮崎近辺に「三」や「五」の痕跡は無いでしょ うか。 宮崎は大宮同様、何らかの皇室関係の宮様が住んでいた可能性がありますね。宮 城という地名など、出雲族末裔であったエミシの王宮があったのではないかと勘 繰っているほどです。 松川さんの〈手〉の考察で思ったのですが、その柏手の数にも何らかの呪術的な 意味があったのではと考えました。例えば、伊勢神宮では八拍手、出雲大社と宇 佐八幡宮では四拍手ということが決められています。霊学的には柏手というのは、 ある種の周波数を出すことで周囲の邪気を払うということになるのでしょうが、 これらの神社でのみ拍手の数が別の数に決められていることから、「三四五封印 」のような、特定の民族の霊力を封じる呪術であった可能性を考えてしまいます。 伊勢神宮は日向族の霊的磁場であるにも関わらず、ここでは出雲族の象徴数であ る「八」の拍手。出雲大社と宇佐八幡宮はスサノオ時代の出雲族の霊的磁場であ るにも関わらず、ここではアマテラスの義弟たちの象徴数である「四」の拍手。 これはどうも妙です。敵対関係の部族の象徴数が拍手されている(この辺は、は なさんにも伺いたいところです)。 こうなると、原田氏の「もともとの拍手数が出雲大社で打たれている」という説 を超えた、拍手の封印呪術的な意味が浮き彫りにされてくるように思えてなりま せん。そして呪術的な意味があるからこそ、これらの霊的磁場では本来の拍手数 を打たせてはならなかったのではないかと思います。民衆の盲目的な習慣を利用 した拍手による封印呪術の可能性ですね。ひとつの仮説ですが。 松川さんが咄嗟に都農神社で「思いつきの8回拍手」をやったことが、封印解き とどう関連してゆくのか私には全くわかりませんが、とにかく行動してみること が大切なのではないかと思います。今後の九州方面での行動報告を密かに期待し ております。                                     一輝 173/179 GFB00026 一輝 東京「三四五」封印 (18) 97/02/11 04:34 143へのコメント >#143 MAKOTOさん |私の場合は、「千」で真っ先に浮かぶのは「チ」=「血」だったりします。 | |「セン」と読まず「チ」と読むならば、「地」「智」「治」「致」… 結構、 |気になる文字が当てはまるんですけど…(^^) ……………江戸の場合、敵軍が江戸城へ簡単に攻め登らぬよう、道路も堀も      渦巻き状に作られていました。明治以前は直線道路が無くて、ま      っすぐ進んだかと思うと、まもなく迂回させられるよう道が配さ      れました。周囲に「千(チ)」を散りばめることで、「治(チ)      」を目論んだとなると合点がゆきそうですね。                                     一輝 177/179 GFB00026 一輝 『日本地名大百科』 (18) 97/02/11 04:43 156へのコメント >#156 SUKEさん |ということは、やはり普通の住宅地図じゃなくて、むしろ神社とかの分布図 |を探す方が正確ですね。 |それにしても、役所の資料室なんて行ったことがないなぁ。 |もっとも平日でないとやっていないのでしょうけれど…。 ……………いくつかの角度から同時に調べるのが一番良いです。情報公開の      一環として、気軽にこういった資料へ目を通す、これだけでも高      い税金を支払った元が少しでも取れるってもんですよ。私はまだ      入手していませんが、『日本地名大百科』(小学館/14,000円)      というのが最近出ました。地名約1万、寺社、城、史跡など5千      項目をわかりやすく網羅しています。「三四五封印解き」を志す      者には、貴重な武器となりましょう。                                     一輝 P.S. 五軒町(新宿区)……………三崎町(千代田区) という組み合わせを発見しました。この場合、三角形の頂点には、 なんと靖国神社があります。これが「四」だとすると、封印を解 いたら一体どうなるのでしょうか。 172/179 NAG02033 EX RE^7:東京「三四五」封印 (18) 97/02/10 20:07 164へのコメント SUKE さん、こんにちは。 中矢さんのその本は持っている筈ですが、何故だか、それは初耳です。 ニギハヤヒのあたりが、日月神示でも示唆されているんでしょうが、ピンと来ませんで したが, かなり詳しく示されているんですね。 隠蔽されたフツ,スサノオ,ニギハヤヒ関連では、その子孫とされる物部氏の関連が要 注意だ そうですが(ほんと何年も前に聞いたのだった)、ここに物部氏を打倒したとされる蘇 我氏が 出てきます。 蘇我氏は百済とのつながりが深く、百済から日本へ仏教および仏教建築を取り入れ、 (飛鳥文化) それに反発したのが「国神崇拝者の物部氏」とされる。 仏教の伝来から蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした6世紀後半から、聖徳太子が摂政となり 飛鳥文化の成立と言われる時期が、神示で「仏」とともに「仏魔」が入り込んだという 岩戸閉めがなった時期だろうか。 てなわけで今、 http://www2a.meshnet.or.jp/~kamnavi/monoini.htm 物部氏ホームページ あたりをみています。物部関係の全国の神社の紹介や長髄彦なども出てくる。 石上神宮(いそのかみ)の祭神は布都御魂神、布留御魂神、布都斯御魂神,配祀神,宇 摩志麻治命、 五十瓊敷命 他となっていますね。 その注釈では布都御魂神は建甕槌神が中洲を平定していた時の霊剣で、と説明されてい ますが。 おもしろそうです。もう少し知識を整理してみたいと思います。 会社からなんで(^^;) 97/02/10(月) 19:01 EX(NAG02033) 178/179 GFB00026 一輝 凍った意識の封印を解くこと。 (18) 97/02/11 06:39 154へのコメント >#154 SUKEさん |ただ、わからなかったのは「白人エスタブリッシュメント」と「白人マラノ」 |は同じ意味なのかなと言うところでした。 ……………ペルー在住の「白人マラノ」全員が「白人エスタブリッシュメント」      ではないけれど、「白人エスタブリッシュメント」は「白人マラノ」      です。 |あの事件を対岸の火事と思っていると、括りの年である今年の日本の変化に |付いて行けなくなりそうですね。 ……………ARIONのハローのどれかは忘れましたが、誰もが自然の成せる業      と思っていた事件が実は人為的なもの、というような話を思い出しま      した。実際に0−157や重油事故、材木流失事故など、そんな事件      が増えているように思います。故意である証拠が無い謀略を編み出せ      ば、わざわざ戦争という明確に認識できる手段など使わなくとも、い      くらでもその民族にダメージを与えることができます。陰謀論偏執狂      になる気はありませんが、日本海を巡る奇怪な事件が増えていますね。      自分が盗みをやっていた時、人々の意識には無数の隙間があって、そ      の中に入り込めばコソコソせずに堂々と簡単に盗めるという経験があ      りました。そんな時、私には大袈裟にも他の人々の動きが止まって見      えたものです。陰謀的な事件が起きた時ほど、大衆の事件の捉え方が      ワンパターンになりがちです。いま日本人の意識は、そのパターン化      した思考と思考の隙間が大きく開いていることに、自分で気づいてい      ない。事件を仕掛ける方にしてみれば、大半の日本人が宙の一点を凝      視し、動きが凍った状態に見えるんではないでしょうか。      『アーリオーン・メッセージ』は、そういった意識の隙間を自力で発      見し、凍った自分を解凍させる鍵を示しています。あとは自分で鍵を      開けてやってみるしかない、ですね。「三四五」封印も、凍った自分      の意識の封印も、同時に解かねば意味がないのでしょうね。                                     一輝 171/179 NBB01420 SUKE 第2章 p.97-99 (18) 97/02/09 22:10 では、輪読会の続きを行きましょう。 アマテラスの義弟たちの封印の話をひとまず横に置いておいて、次に鬼の話 になっています。 封印を解くことで鬼が現れるぞと言うことなんですが、さて…。 ================================== ・「日月神示に記された「北」との符合」P97- (日月神示とは何かについては、本概要では省きます。) ARION自身の言によれば「日月神示を伝えた霊統とアリオンの霊統は同じ」 ここで、日月神示よりの引用。 「北に気つけと、北がいよいよのキリキリざと申して執念(くどう)気つけ てありた事近うなりたぞ」 「北から攻めてくるときが、この世の終わり始めなり…この世の終わりは神 国の始めと思え神民よ、神々様にも知らすぞよ」 一方。ARIONの言葉… 「いよいよ日本の展開点の一つが始まろうとしている、  それは、皆の意に反して北側からの脅威とは何の関係もなく、南側の力として  やって来るだろう」 「南からの脅威とは、複数の問題であった訳だよ。  それはまず台風の脅威、そして南に称される東南アジアの問題  そして、○○○○○。  これは、今は未だ事実となってはいない問題で、  此処に掲げてしまうと、現実化を促進するので控えたい」 日月神示は霊界の現象として北からと言っているようだが、現実界としては 南から問題が発生してくる、ということであろう。 ================================== 日月神示の場合もそうですが、霊界の話と人間界の話をごっちゃにしてしま うと読めないんですね。 記述されている事は霊界での現象のことが多く、現実の世界にそれが反映さ れるのはしばらく(数カ月ほど)遅れてからのようです。このことは中矢氏 の著書にもそう書かれていたと思います。                            Suke.(^_-)☆