■■■第4章:秘教的知識と顕教的伝統の違い

 

■■バラ十字会とエッセネ派


たくさんのグループが、仕事を続けてきた。そして、多くは今なお働いている。たとえば、バラ十字会(薔薇十字団)は西洋における秘教のグループだった。それは何世紀にもわたって仕事を続けてきた。
実のところ、バラ十字会はキリスト教系のグループではない。キリスト教成立よりもさらに古い歴史をもっている。バラ十字会は“バラ色の十字(Rosy Cross)”という秘教グループに属しているのだから。

 


バラ十字のシンボル

 

“十字”というシンボルは、キリスト教が創造したものではない。それはキリストよりも古い起源を持っている。キリスト自身、エッセネ派として知られる秘教グループによってイニシエートされていた。だから、キリスト教の祝祭日は、イースターやクリスマスを含むどれもが、キリスト以前のものだ。
つまり、キリスト教は古代の伝統を吸収しただけなのだ。イエス自身、ある秘教グループの一員として、後に彼が大衆に伝えようとした多くのことを伝授された。このグループは、イエスのために下地を準備しようとしたが、間に合わなかった。結局、それはうまく機能することができなかったのだ。

われわれは皆、洗礼者ヨハネがイエスの前にやってきたのを知っている。彼はイエスを待つ30〜40年の間、ただひとつの教えだけを言い続けた。
「私はただの先駆けだ、まことの人はまだやってきていない。私は、ただ土台を用意するために来ただけだ。まことの人がやってくれば、私は消える」

ヨハネは、40年間、ヨルダン川のほとりにとどまり、人々に洗礼をほどこした。やがて、きたるべき〈まことの人〉の名において、彼はあらゆる人に洗礼をほどこし、あらゆる人をイニシエートしていた。そして、誰もがこう尋ねるのだった。
「誰が、来ることになっているのですか? 」

国中が、やってくる人のことで騒然としていた。その人の名は、洗礼者ヨハネにすら知られてはいなかった。彼もまた、待たねばならなかったのだ。
洗礼者ヨハネはエッセネ派に属していた。そして、キリストもまた、その過去生で、エッセネ派グループに入門した重要メンバーのひとりだった。


時は至り、ついにイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにやってきた。そして、洗礼者ヨハネは、イエスが洗礼を受けた日から、永久に姿を消してしまった。その日、彼はヨルダン川でイエスを洗礼すると、まもなく立ち去り、二度と姿を現さなかったのだ。そのため、人々の間で〈まことの人〉がやってきたといううわさが広まった。それは、40年間絶え間なく、洗礼者ヨハネが、人々に語り続けていたことなのだ。まことの人がやってきたとき、
「私は彼を最後に洗礼し終えたあと、姿を消す」と。

そして洗礼者は消えた。つまり、洗礼はキリスト教徒に先行するものなのだ。まず洗礼があり、それからキリスト教が始まった。そして、この洗礼者ヨハネも特殊な秘教グループ“エッセネ派”に属していたのだ。

 

■■秘教グループは惑星相互間のもの


たくさんのグループがある。しかしメンバーの誰かが死に、彼に代われる者がひとりもいないときには、いつも事態は難しくなる。そうなると、失われた環(ミッシング・リンク)が生じてしまうからだ。教えを伝えようとするたびに、失われた環は大きくなる。だから、失われた環が生じてしまったグループからは、生きた教えを得ることができなくなる。なぜなら、そのギャップは埋めることができないからだ。

今や、キリスト教にはギャップがある。それも無数にある。教えを授けようとするたびにギャップが生じる。一部が失われると、イエスのような人が生まれるまで、知識を補充することはできない。だが、その出現は予測不可能だ。前もって手はずを整えておくことはできない。それは計画されうるものではない。準備ができるのは、イニシエートされた探求者たちによるグループだけだ。それだけが、計画され、創造されうる。そして、グループが創造されていれば、彼らを使いこなせる覚者がいつ出現しても、彼にそのグループを使う便宜が与えられることになるのだ。

これら秘教グループは、この地球だけに関わっているのではない。今では、科学者たちさえ、地球外の少なくとも5万の惑星に生命が存在するはずだという考えに同意している。それ以上は考えられるが、それ以下はありえない。ふつうの確率法則にてらしてみても、広大な宇宙には、少なくとも5万の惑星に生命が存在することは疑いようがない。

だから秘教グループはもうひとつ別の仕事を担っている。それはある惑星の知識を別の惑星の知識と結びつけることだ。
その仕事は少々むずかしい。というのも、われわれはすぺてを熟知しているわけではないからだ。われわれは、かつて知っていたものを見失っているかもしれない。あるいは、部分的にしか知らないのかもしれない。だが、別の惑星には、われわれが持っている知識よりもはるかに深遠な知識が今も存在している可能性がある。とすればそこには、今、別のブッダがいるかもしれない。

秘教グループは、宇宙のどこかに存在する異なる知識のシステムの、内なるリンクとしても働いている。だから、失われた環は別の惑星からも補給できる。そして実際、そういうことはいつも行なわれている。何かが失われ、その秘密を明かす人物の降臨を呼び起こすことができない場合には、いつでもその知識を別の惑星から補給することができる。それは常にどこか別の場所にある。

 


秘教グループは、全宇宙に開かれた
惑星相互間のネットワークを構築しているという。

 

秘教グループは、全宇宙に存在するあらゆるものと交信できる。この仕事は、ある者が大学から未開の集落を訪れることと変わらぬ価値を持っている。未開集落の者たちは何も知らない。大学の人間は知っている。だから、この人は未開人を訓練して知識を授けることができる。彼は、大学という知識の源泉との接触を失わずに未開人に知識を伝えられるわけだ。これはたとえ話にすぎない。
しかしこの惑星は、他の惑星の生命体の訪問を何回となく受けてきている。彼らはたくさんのしるしを残している。彼らは、この惑星上で、とあるグループのもとに多くの知識の鍵を残していった。その後も、こうしたグループは仕事を続けている。ゆえに、秘教グループは惑星相互間のものだ。

 

■■人が変化すれば奥義もその形を変える


それぞれの時代に応じた独自の手法が考案されなければならない。古い手法で真に役立つものは何にもない。あなた方は変化してしまった。あなた方の精神構造は変化してしまった。
鍵(キー)
は昔と少しも変わらないが、錠(ロック)は変わってしまった。秘教グループは鍵の保管者であって、錠の保管者ではない。
というのも、錠はあなた方の内部にあるからだ。わかるだろうか? 錠はあなたのもとにある──。仏陀のもとでも、イエスのもとでもない。

秘教グループは、たくさんの錠を開ける鍵を考案する。そして彼らは、こうしてできた鍵を保存する。しかし、その間に錠は変化してしまう。あなたの錠は仏陀が開けた同じ錠ではない。だから以前とまったく変わらぬ鍵では、あなたの役には立たない。もし、同じ鍵がそのまま使えるのであれば、どんなに無知な者でもそれを利用できるだろう。そうなったら智恵はいらない。誰にでもそれは利用できる。私があなたに鍵を授け、あなたが錠を開けにいってもいい。あなたに智恵はいらない。それでことは足りる。これが鍵で、あれが錠だ。だが、錠はどんどん変化していくのだ。だから、いつも鍵を錠に合わせておくためには、古い鍵から新しい鍵を考案できる賢明なグループに、鍵を手渡す必要がおる。

錠は変化し続ける。錠は決して不変ではない。だから、生命を失った鍵を保管するだけではだめなのだ。錠に少しでも変化が見えたなら、いつでも鍵を変えるだけの科学を知らなければならない。そのため、知識は秘教グループの手で保管される。書物のなかには、知識を保存することはできない。なぜなら、書物には錠の変化などわからないからだ。錠は変化する、どんどん変化していく。それなのに、こうした錠の可能性のすべて、錠の組合わせすべてについて書き記せるような書物はない。錠はどんどん変化する。環境は変わるし、教育も変わるし、文化も変わる。あらゆるものが変化する。だから錠は違う姿をとっていく。そうなれば、どう保管してみても、鍵は、常にある意味で不完全なものになる。それは錠に合わなくなってしまう。だから、鍵はそれを変える力を持った賢者グループに、手渡す必要がある。

秘教的知識と顕教的伝統の違いはそれだ。顕教的伝統は、いつも錠に注意を払うことなく鍵を持ち歩いている。彼らは、古い鍵について語り続けても、錠が開かないことには決して気づかない。しかし、伝統とは凡庸な者たちから成るものだ──。すなわち、キリスト教会のメンバーたちのように。

確かに教会も鍵を伝えている。彼らは、この鍵がイエスの時代にたくさんの扉を開けたことを知っている。その知識は正しいし、情報も間違ってはいない。事実、この鍵はたくさんの扉を開けた。だからこそ、彼らはその鍵を伝えているのだ。彼らはその鍵を崇拝している。だが、今やその鍵ではどんな錠も開かない。そして、彼らには、別の鍵を考案することはできない。暇がないのだ。彼らは鍵をひとつしか持っていない。そこで、彼らはその鍵だけを信奉し続ける。もしそれで錠が開かなかったら、責任は錠の側にあると考える。それは、きっと錠のほうが不完全であるからだ。そうなると、どこかおかしいのは錠であり、鍵ではないことになる。

 

 
(左)バチカンは、イエスの弟子ペテロの墓の上(バチカーノの丘)に
聖堂が建てられて以来、キリスト教の聖地となる。
(右)バチカンの国旗。世界で唯一、正方形の形をしている。
国旗の中には、カトリックのシンボルである冠と、金と銀の
「ペテロの鍵」が描かれている。この「ペテロの鍵」は、
イエスが弟子ペテロに言った言葉
「あなたに天の国の鍵を授ける」に由来している。

 

顕教的伝統は、いつも錠を非難して鍵をあがめるが、秘教グループは、決して錠を非難したりはしない。秘教グループは、いつも鍵を変える。
バチカン
は鍵を伝えている。彼らは古い鍵を持っていて、それを信奉し続けている──。だが、キリスト教にも内輪の秘教グループはある。そしてこれは常に起こることだが、秘教グループは顕教グループと対立していく。なぜなら、顕教的伝統は、いつも有効なのはその鍵だけだ、と主張するからだ。鍵があなたのためにあるのではなく、あなたが鍵のためにあるわけだ。あなたは定められた鍵が自分の錠を開けられるようにふるまわなければならない。鍵を変えられないなら、あなたが変わるほかないのだから。

もし誰かが、「われわれは、鍵を変えることができる」と言おうものなら、彼は異教徒と見なされてしまう。彼は異端者と見なされてしまう。そうなると、口にしたナンセンスのために、彼は必ず殺されてしまうだろう。彼は鍵を変えてしまった。それは、イエスがわれわれに授けてくれた鍵であり、仏陀やマハーヴィーラが授けてくれた鍵ではないか。とてもこの鍵を変えることなど許されない!

だから、真理を発見した真正の師が存在するたびに、2つの流れが派生する。ひとつの流れは、顕教的伝統を形成する。それは、目に見える教会であり、法王や教主とともにある。いわゆる正統派だ。正統派は、常に同じ鍵を主張する。たとえ鍵が、どの錠も開けられなくとも、それが無効だとは、決して考えない。


だが、そんなものが本当に鍵であるだろうか? 鍵とは何かの錠を開けられるものだけを意味する。錠をひとつも開けることができないなら、それをもう鍵と呼ぶのは間違っている。それは、もはや言葉の上でも誤りだ。そんなものは、まったく鍵とはいえない。錠を開けられるものだけが、鍵なのだ。あなたが、仮にそれをポケットの中に入れていても、それはまだ鍵ではない、ただ鍵の可能性を秘めているだけだ。錠を開ける段階になって初めてそれは鍵になる。どの錠も開けることができないなら、鍵の資格すら失ってしまう。だが、目に見える教会はいつも鍵そのものにこだわる。なぜなら、その鍵こそは、ある真正の師によって授けられたものだからだ。

 

 

 


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4章

 

 


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