■■■第5章:仏陀の創始した秘教の系流

 

■■秘教の奥義は、闇から闇へ伝わる


真正の師はすべて、内輪のサークルをも創りだす。内輪のサークルは、鍵を持つとともに、ある情況下においてそれをどう変容させるか、という知識も携えている。しかし、この内輪のサークルは、常に外側のサークルと対立してしまう。というのも外側の者たちは、内側の者たちが身分もわきまえずに、師が授けてくれた鍵を変えようとしている、と考えるからだ。
「そんなことをするなんて、おまえは何様だ? どうしておまえなんかに鍵を変えられよう? 」

たとえば、イスラム教にも秘教的知識を携えたスーフィーたちがいたが、回教徒たちはスーフィーたちを殺害した。マンスールは、多くの伝統的な鍵を変えるべきだ、と語ったために殺されてしまった。秘教グループは錠に関心を寄せても、鍵にはこだわらない。顕教グループのほうは、鍵にはこだわるが、錠にはまったく興味を示さない。開けば開いたでよし。開かなければ、そのときには、あなたに責任がある──。だが、間違っても鍵には責任がない。

イスラム教には、たくさんのスーフィー教団、内輪のサークルがあった。彼らは内輪のグループだ。イスラム教徒は、こうした内輪のグループは、まったく反逆的なやり方で活動していると考えていた。そのため、大勢のスーフィーたちが殺された。その結果、最後には、彼らも姿を消さねばならなくなった。

 


イスラム神秘主義スーフィー

 

さて、今でも、たくさんのスーフィーたちがいるが、あなた方には、それが彼らだと知ることはできない。ある者はただの清掃人のように見える。あなたは、この男はスーフィーかもしれない、と怪しむことすらないだろう。誰かが、あなたにその事実を教えないかぎり、あなたは決して真相に気づかない。彼が、たとえ毎日あなたの家を訪ねていたとしても、あなたには、彼がある鍵を携えている人物だとは、決して気づきはしない。

あるいは、彼はただの靴屋かもしれない。彼は、黙々と靴を造っている。そしてあなたは、彼のそばに座っている弟子たちを見て、靴を造る技術を習っているだけだと思うだろう。もちろん、客も何人かはいる。だが、それでも弟子たちの中には、靴造りを習うだけではなく、靴屋とともに実習をしている者もいるかもしれないのだ。だとすると、この靴造りの商売というのも、単なる見せかけに過ぎない。内側では、何か別のことが進められている。

このように、外側の伝統がスーフィーたちに対して寛容でなかったために、彼らは完全に姿を消さねばならなかった。彼らはむやみに殺された。なぜなら、もしこうした内輪の者たちが、その活動を続ければ、外側の伝統には未来がなくなるからだ。伝統はすっかり無意味なものになってしまう。自分の力で悟った者、独力で鍵を編み出した者、知識の源泉に遭遇した者だけが、本当の師となる。そして彼のあとには、2つの流派が誕生する。

しかし、顕教グループを全く許さなかった師たちもいる。仏陀の時代には、仏陀と同格の師が他に7人いた。あなた方は、彼らの名前など、耳にしたこともないかもしれない。だが、ひとりの名前だけは知られている──。マハーヴィーラだ。他の6人は、全く知られていない。

彼らも仏陀やマハーヴィーラと同じ鍵(知識)を手にしていたのだが、まわりに「顕教グループ」を形成することを決して許さなかった。内輪のサークルだけが、とある場所、とある形態で続いていた。ひとりは、プラブッダ・カッチャーヤナだ。もりひとりはプルナ・カシャス。そしてもうひとりはアジト・ケシュカムバル……。

彼らは、仏陀やマハーヴィーラと同位同格の、悟りを開いた人々だった。しかし、今やその名を知る人さえいない。彼らの名が伝えられているのは、仏陀がどこかで彼らに触れているからだ。彼らのことを記した聖典はどこにも見あたらない。追従者もなく、寺院もなく、教会もない。だが、それでも彼らは今もなお極秘のうちに、微妙な姿で存在している。彼らが、人々の大きな助けにならなかったのだ、とは誰もいえない。彼らは手を貸してきた。彼らは、大勢の人々には知られていないが、どの覚者にも劣らぬほどの援助をしてきている。

 

■■仏陀の創始した秘教の系流


仏陀の名は知られている。世界中の人々が彼のことを知っている。ところが、彼を知れば知るほど、われわれは彼を利用できなくなってしまう。仏陀にも、彼のために働く内輪のサークルがある。こうしたものだけが意味を持つ。しかし彼らは、いつも外側の宗教教団と対立してしまう。そして外側の教団には強大な権力がある。なぜなら大衆は教団の側につくからだ。

 


釈迦。本名はゴータマ・シッダールタ。
尊称して“仏陀”ともいう。シャカ族の出身で、
カピラ王国の皇太子であったが、29歳のときに
皇太子の地位・財産・妻子を捨てて出家。
「人生とは何か」と問う。35歳のときに悟りに達し、
その死まで教えを広めた。

 

仏陀は選びぬかれたサークルを創りだした。彼は、そのサークルをマハーカシャッパという名の人物とともに創りだした。この名はたった一度だけ言及されている。一方、シャーリプトラやモドガラーヤン──、彼らは、仏陀の顕教教団の一番弟子たちだ。彼らの名は全世界に知れわたっている。彼らには彼らを称える聖堂もある。
だが、いつわりのない真の鍵は、マハーカシャッパに授けられたのだ。シャーリプトラやモドガラーヤンにではない。なのに、彼の名はたった一度語られているだけだ。すべての仏教教典中、ただの一度だけ。

その出来事についてもう一度話すことにしよう。

仏陀はある日、一輪の花を手にしてやってきた。彼は法話を説くことになっていたのだ。しかし、法話は行なわれなかった──。彼は、ただ静かにすわり、その花を見つめていた。誰もが、彼は何をしているのだろうといぶかった。やがて、みんな落ちつかなくなり始めた。それが10分、20分、30分と続いたので、みんなますます不安になってきた。彼が何をしているのかを、いうことができる者はひとりもいなかった。全員が集まってきていた。少なくとも1万人の人々が、彼の話を聞くためにやってきていた。ところが仏陀は、花を見つめてすわったままだ。マハーカシャッパの名が登場したのは、まさにこのときだった。

沈黙を破って男が笑った。すると仏陀は顔をあげてこう言った。
「マハーカシャッパ、私のもとにおいで」

笑ったのはマハーカシャッパだった。経典が彼のことに触れるのはこのとき一度きりだ。仏陀は花をマハーカシャッパに授けると、こう言った。
「語ることのできるものは、すべて語り終えた。語ることのできないものは、マハーカシャッパに伝授した」


これが唯一の出来事だ。それで全てだ。後にも先にも、マハーカシャッパについては何ひとつ知られていない──、彼が誰なのかも、彼がどこで生まれたのかも。

どうしてすべての仏教教典は、彼についてそんなに沈黙を守っているのだろう? 仏陀自身が、「語ることのできないものは、すべてマハーカシャッパに授けた」というほどの重要人物なのに! むろん、本質的な事柄は語ることができない。非本質的な事柄のみが語られうる。表面的なものごとのみが語られうる。最も深遠な知識の伝達は、沈黙のなかでのみ可能となる。



だが、マハーカシャッパの名前は、二度と語られなかった。幾世紀もの間、マハーカシャッパに何が起こったかを知る者はひとりもいない。それから1100年後、ある男が中国でこう宣言した。
「私は、マハーカシャッパに直接結びついている。私は彼の直系だ」
 
1100年の後、事実ある男が中国で宣言したのだ。「私は、マハーカシャッパに属している。私は彼の弟子だ」

その男こそはボディーダルマだ。インドの経典で、ボディーダルマのことを語っているものはひとつもない。彼はインドで生まれ、人生の4分の3をインドで過ごしたというのに、彼のことを知る者はひとりもいない。彼はどこにいたのだろう、何をしていたのだろう? 彼は、突然中国に現れて、「私は、仏陀が花を授けたというマハーカシャッパに属している。私はその花を携えているが、それは今でも新鮮だ」といった。

当然だ! 彼は、新鮮である以外にない深遠な知識について語っているのだから。

誰かが尋ねた。
「その花はどこにあるのですか? 」

ボディーダルマはいった。
「それはあなたの前に立っている。“私”がその花だ! 仏陀が、この花をマハーカシャッパに伝えたように、私は、花を伝えるにふさわしい人を求めてやってきた。なぜなら、私はもう逝ってしまうからだ。これは私の最後の生なのだ。私は、ある知らせを得て、インドから中国に旅してきた。この花を伝えるにふさわしい人がここにいる。私は、彼を捜し求めてやってきた。ところが、その同じ知らせを与えてくれた源泉が、彼のところに出かけていく必要はないと告げた。彼は必ず私のもとにやってくる。私はただ待てばいい」

 

■■そして奥義は伝えられ、再び隠された

 


ボディーダルマ。インド生まれ。
中国に禅を伝えるが、その人生には謎が多い。
嵩山少林寺で面壁を9年も続けた。

 

彼が“知らせの源泉”と呼んでいるのは何だろう? それは知識を必要としている人に情報を流し続けている秘教グループのことだ。ボディーダルマは、「その同じ知らせの源泉が、彼を捜す必要はないと告げたのだ」といった。それは、直接探索することが干渉になってしまうことが時にはあるからだ。もし私があなたの家に出向くとしたら、あなたが私のもとを訪ねてくる場合とは、まるで情況が違ってくる。それは同じではない。もし私のほうからあなたの家に出かけていったなら、あなたは私を閉め出してしまうだろう。だが、あなたが私のもとを訪ねてくる場合には、あなたは開いている。来たのは“あなた”だ。

ボディーダルマは言った。
「その同じ知らせの源泉が、待たねばならないと私に告げた。さらに彼らは、どうやって花を伝える人物を見分けるか、という指示も与えてくれた」

彼は、9年間、ひたすら壁に向かって座り、誰にも顔を向けなかった。たくさんの人が彼のもとにやってきた。中国の皇帝、武帝すらも彼に会いにやってきた。それでもボディーダルマはふり向かなかった。彼は、ただ壁に向かって座っているだけだった。

武帝の側近が、陛下がみえるというのに背を向けたまま壁に向かって座っているのは実に無礼ではないか、とたしなめた。ボディーダルマは答えた。
「私が皇帝のもとに行くのではなく、皇帝が私を訪ねてくるのだ。無礼なボディーダルマを訪ねるかどうかを選ぶのは彼だ。彼は自由なのだから。私が彼のもとに行くのではない」

武帝は、ボディーダルマの言葉を聞いて彼を訪ねてきた。来ざるをえなかったからだ。それは強迫観念になってしまった。この男を訪ねてもよいかどうかを判別する手だては他になかった。武帝はやってきた。ボディーダルマは壁に向かって座っていた。武帝は彼に尋ねた。
「あなたはなぜ壁を向いているのです? どうして私を見ないのです? どうして他者を見ないのです?」

ボディーダルマは言った。
「私は、生涯にわたり、あなたをはじめ、あらゆる人々と顔を合わせてきたのだが、あなた方の眼の中には、死の壁以外の何ものも見ることができなかった。そこで私は、壁に向かっていたほうがましだと心に決めたのだ。あるのは壁だとわきまえていれば、気は楽だ。けれども、誰かと向かい合っていて、壁があるような感じを受けたなら、めんどうなことになる。あなたが私のうしろにいてくれて、あなたを見ないですむものだから、私はずっと楽に話せるのだ」

 

 
(左)慧可は5世紀の河南省洛陽付近出身の禅僧。
彼は腕を切り落として、面壁中のボディーダルマに教えを乞うた。
(右)鈴木大拙。仏教哲学者。
禅を中心とする東洋思想を西洋に紹介。
単なる仏教学を超えた立場に立って東洋思想の
普遍的世界性を見いだした。

 

彼は、9年間絶え間なく、こうして壁に向かって座っていた。とうとう彼が受けた知らせ通りの人物がやってきた。やってきた男は慧可だった。彼は、いきなり自分の腕を切り落とすと、それをボディーダルマに差し出してこういつた。
「ふり向いてください。さもないと、私は首を切り落とします」

ボディーダルマはぐるりとふり向くと、慧可を見ながらこう言った。
「おまえに花を伝えよう。私は待っていた。ある人物がやってきて、腕を切り落とし、私の前に差し出すだろう。もし私が一瞬でもためらえば、彼は首を切り落としてしまう。“ある知識の源泉”がそんな指示を与えてくれたのだ。そんなにあわてる必要はない。私には、あるものをおまえに授ける用意ができている。そのためにこそ、私はインドから中国へと旅してきたのだ」

この密儀は、今や禅の顕教的伝統のなかへと花開いた。禅仏教は、この秘教的なボディーダルマの法脈のまわりに形成された顕教的な流派であるにすぎない。今日、鈴木大拙や他の者たちが世界中で語っていることは、すべて、その顕教的知識からきているものであり、秘教的知識からのものではない。
現在、その秘教のルートは、再び秘められたものになっている。それはまたしても消えてしまった。だが、その法脈はある。それは、確かに続いている。そうして、秘教サークルは存在している。その存在理由は非常に多い。

 

 

 


←BACK │ NEXT→

5章

 

 


Index


 

?je_groupe_05