■■■第6章:伝えられた奥義は再び闇に紛れる

 

■■普遍的な鍵と地域的な鍵の違い


理解しなければならないことがひとつある。それは、覚醒のための鍵は、全ていつも限られた地域で発展したものであるということだ。史上初めて、われわれは、地域的な限界のまったくない普遍的な世界のなかに暮らしている。事実、われわれは、今初めて“世界”のなかにいる。かつて、われわれは、常に世界の特定の地方に閉じ込められていた。つまり、以前の鍵は、特定の地域の条件や文化に合わせて発展したものなのだ。

今こそ、世界は、ある意味で初めて混沌のなかにある。特定の文化もなければ、特定の条件付けもない。あらゆるものが混ざり合っている。そして、今後、状況はますますそのようになっていくことだろう。間もなく、地域的な生い立ちを全く持たない、普遍的な背景から生まれてきた世界市民が登場するだろう。

たとえば、イエスの編み出した鍵は、そもそも特定のユダヤ教のグループに効果があるものだった。

これは、まったく歴史の皮肉だ。イエスは鍵を発明した、新しい鍵を考案した。だが、その鍵は、ユダヤ教徒の精神に効果があるものだった。なのに、ユダヤ人たちはイエスに反対し、イエスに従った者は、ユダヤ人に背を向ける。だが、その鍵は、とりわけユダヤ教の環境から教育を受けた精神のために編み出されたものなのだ。

私に言わせれば、キリストの鍵は、キリスト教徒よりユダヤ教徒のほうが楽に利用できる。なぜなら、キリスト教徒は、キリストの教えの後新しく生まれてきたものだからだ。イエスは、キリスト教徒のことなど全然知らなかっただろう。なぜならイエス自身、キリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒だったからだ。だが、これが我々の歴史の皮肉というものだ。

仏陀もまた、特定の精神のために鍵を考案した。今日、その特定のマインドがあるのはインドだけだ。だが、現在インドのどこを捜しても、仏陀の鍵は見つからない。その鍵は、中国や日本、セイロンやビルマ、そしてチベットにはあっても、インドにはない。仏陀自身は、とりわけヒンドゥー教徒の精神のために鍵を考案したというのに!

彼は、ヒンドゥー教徒として生まれ、ヒンドゥー教徒として死んだ。
仏陀も、仏教のことは何も知らない。もともと、その鍵は、ヒンドゥー教徒のマインドのために開発された。だが、やがて彼自身の鍵のまわりに、当のヒンドゥー教に対立する宗派が発展してしまった。
そうなると、もうその鍵は、的をはずれたものになる。それは、ヒンドゥー教徒特有のマインド以外のものには効力がないというのに。だが、これが歴史の皮肉というものだ。いつもそうなってしまう──。

まもなく、普遍的な鍵が必要となるだろう。地域的な鍵では役に立たなくなる。しかし、ただ古い鍵をかき集め、どんなに混ぜ合わせてみても役には立たない。そんなことをすれば、もっと馬鹿げたことになるだけだ。あなた方は、ひとつの錠をたくさんの鍵で開けようとしている。コーランからちょっと、聖書からちょっと、仏陀からちょっと、というふうに。

とてもすばらしい願いをもちながら、たくさんの間違いを犯している人々が大勢いる。彼らは、あらゆる宗教の統一について語る。だが、宗教を統一するということは、ひとつの錠を開けるために、あらゆる鍵すべてを使おうとして、鍵を全部ひとまとめにしようというのに似ている。ひとつで十分! 鍵がありすぎても、錠を開けることはできない。ひとつの鍵でも開けられるかもしれないのに、鍵がありすぎると、混乱を生みだすだけだ。

 

■■今も各地に痕跡を残す超古代文明


こうした伝統的な鍵は、すべて限られた地域の鍵だ。それらは、分かれた世界で発展した。過去、普遍的なマインド(精神)というものはなかった。我々のいわゆる“歴史的知識”に関する限りでは、そんなものは一度も存在したことがない。だが、実際には、かつて普遍的精神の現象が起こったこともある。けれどもそれは、我々の文明史や記憶の彼方にあることだ。

そう、かつて過去において、この現象が起こったことがある──。普遍的な精神はあったのだ。しかしそれは、完全に忘れ去られてしまっている。


〈中略〉

 

 

■■今も活発に活動している秘教グループ


私は、非常にたくさんの秘教グループを知っている。私は数多くの秘教グループに接触してきている。だが、彼らがどこにいるかを知らせることはできない。彼らの名前を語ることもできない。なぜなら、それは許されてはいないからだ。それに、話してみたところで、実際、意味がない。しかし、彼らは今もなお存在していると言うことはできる。彼らは、今も手を貸そうとしている。幾つかの秘教グループは、今も実に活発に働いている。

 


ムガール朝第3代のアクバル帝。
アショカ王を真似て、9人のグループを創ったが、
秘教的には何の意味もない試みにすぎなかった。

 

例えば、アショカ・グループ。アショカ王が世界のどの皇帝よりも意味のあることを成し遂げたとするなら、それはこの9人の秘教グループを創設したことだ。ムガール朝第3代の皇帝アクバル帝は、様々な面でアショカ王を真似ようとした。彼もまた9人のグループを創り出したが、それは意味のないものだった。彼らは、ただの側近にすぎなかったから──。

彼らは単なる人造宝石(顕教)だ。ひとりは詩人だった。もうひとりは戦士だった。それは何の意味もない。アクバル帝は、アショカ王が9人のグループ(9人の賢者)を擁していたことをどこからか聞き知っていた。ゆえに、彼は「9つの宝石(ナヴァ・ラトナ)」のグループを創った。ところが彼は、アショカ・グループの真相については何も知らなかったのだ。だから、彼が為したことは無意味だ。

アショカ・グループは、2000年間続いてきた。それは、今なお活発に働いている。鍵を携え、依然、仕事を続けている。神智学運動の全体は、このグループによって創り出された。神智学で、仏陀が最も意義を持つ人物になっているのはそのためだ。神智学の全員が、ある意味で仏教徒やヒンドゥー教徒だったので、西洋諸国では、それを単なる西洋を改宗させようとする東洋の努力──、新しい衣をまとって活動する、ヒンドゥー教だとみなしていた。確かに、それが東洋のものであるというのは真実だ。なぜなら、創始者のグループが仏教徒のグループだったからだ。


〈後略〉

 

 

 

 

 

 


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