[現代日本人の欠点?長所?]のほうに、マインドを色々な定位置(自分・立場)にセットしてみることについて述べてみました。(201103061445)


 日本人の「民度」は低い事実は明らかだと思います(→阿修羅発言 (200704222224))。権力者達はあまり注意を喚起させようとしていない様子ですが、教育プログラムの中に、政治の実体験的リアリティーの感覚、政治が重要であるという意識を持てるような、そのような方向性を教育に持たせることは極めて重要だと思います。重要なのに、教育に組み込むことを不文律として避けている(?)ように思えてしまうのです。(200404222228)
(→阿修羅発言 (200704242237))


 最近、政治の世界で「女性は産む機械」発言問題が発生し、注意の向いた点があります。前回の発言と近いので当ファイルに登録します。
 私は「なぜ、機械にしたかったのだろう」と思いました。それで一つの考え方に注意が行きました。それは柳沢大臣が「自分には性欲が無い(=自分は高尚だ)と言いたいが為に、女性がまるで機械のように見えるのだ」という「個人的な主張」を(無意識的に)したのではないかという考え方です。柳沢大臣がこのように考えたと言っているものではなく、あくまで、性に関わる時、人の社会の中に顕れる「ある種のイメージ的社会傾向」を浮き彫りにしたものです。

 私は時々、言葉を発していないのに、人から「人間なんてそんなに高尚なものじゃないんだ」とか類似の事を何気に言われる時があります。その言葉・感想の裏側にあるのは、イメージですね。「性=ダーティー・(隠したいから)恥ずかしい・人として劣っている」という風な類似の概念がり固まって皆で社会的に共有している「イメージ」ですね。それを皆が無意識的に受け入れている状況が社会の中にあります。そういう世間の「イメージ思考」とは乖離かいりした考え方をしている事実思考の私は「性欲が無いという自己主張をしている」と周囲に(事実として有り得ない事を)感じさせているのかも知れません。私は社会的イメージ思考内容は分りますが、しません。ただ単に事実思考です。つまり、私には性欲がある(^^;という事実しかありません。今までの人類の考え方は、以上のように、社会性と性を別物として扱うところがありました。社会性=善、性=悪というのが定説ですね(つまり間違った考え方、という意味)。

 このような分裂した考え方をするのは精神衛生上からも好ましくありません。例えば、上記でも言いましたが、「性欲が無いという自己主張をしているな」と勝手に私を解釈して、私なら私に迷惑・攻撃・確認行為を仕掛けて来るような場合があります。それは、「あなたの問題」なのです。性を「神聖なる社会性とは全く別物」として無意識的に自己を断定して勝手に劣等感に陥るから、そういう精神衛生上、好ましくない攻撃を始めるわけです。そういう攻撃を受ける私としては、更に一層、精神衛生上、好ましくないので、性の真実()は解明してあるのですから、性と社会性を一体的に融合して捉えるように学習して下さい。そうすれば、「性欲が無いという自己主張をしているな」という「被害妄想的捉え方」が、そもそも最初から発生しないのですから。そういう「被害妄想的捉え方」をするのは、あなたの潜在意識の中に「性=悪・劣っている」というイメージが凝り固まっているからです。イメージは真実の下ではもろいものです。是非、性について事実をキッチリと認識してください。そして「性≠悪」という捉え方が出来るようになり、そういう正しい感覚が定着すれば、人の社会性、社会的振る舞いを見ても、勝手な劣等感に捕らわれる事はなくなるんじゃないでしょうか?(200702061654)
(→阿修羅発言 (200703232230))


 [若い人へ]と[謙虚さと傲慢さ]をこの文章と同時にタイプしています。よく日本人は皆でワーッと同じ方向に突っ走り易いと言われます。だから軍国主義・帝国主義とかそういうのに戻り易い要素だと思います。そういう側面への教育的配慮も必要だと思います。日本人は社会的な「空気に敏感」で、キッチリとした論理的な根拠で考え⇒認識し⇒発言し⇒行動するというところがヤワな傾向が強いと思います。についてもそうですね。性についての一般的な捉え方は「恥ずかしいこと」=「隠したいこと」というもので、これを論理的に詰めることなく、空気のように人々を動かしている(すなわち、考え⇒認識し⇒発言し⇒行動する)と思われます。例えば、

1) 性が「隠したいこと」になるのは、社会的な自分の極(顔)とは対極にあるという人間存在の+−に立脚したものであるだけであるにも関わらず、それが「人に知られたくないこと」という言い方・概念へ微妙にシフトし、この時点で意味のすり替えが発生し、「悪の概念が忍び込む」のです。また、

2) 性が「恥ずかしいこと」と感じる根本は、社会的な自分の極(顔)とは対極にあるというだけであるにも関わらず、他に隠したいものとしての「悪」の空気が混ざりこむからですね。だから、論理的にキッチリと性を捉えることにより、そのような空気で動き難くなります。

 性と悪を不作為であっても混同してしまうような概念⇒観念⇒感覚から抜け出すのが基本でしょうが、[若い人へ]と[謙虚さと傲慢さ]にタイプしましたように、周囲社会・人々との比較(競争)意識が強すぎる(=アンバランス)側面に気づいて、「周囲をサゲる」必要のない人が育つような配慮も必要ですね。そうすれば、人々は論理的にキッチリ考えていることでしょうから、風に揺らぎもしない状況が生まれてくることだろうと予想します。以上で述べたのは「性を論理的に捉えること」と「比較する意識から自由に振舞えるバランス感覚」を自己教育によって育むことで、社会の空気から比較的自由に振舞えるだろうという点について述べてみました。(200612190415)
(→阿修羅発言 (200701131827))
(→阿修羅発言 (200701131827))


 櫻井よし子さんが、「空腹(満たされない感覚)」が非行・暴力に走らせる原因の大きな要素である点を喝破しておられます。朝食を食べていない生徒が非行に走りがちだそうで、給食を工夫することで「非行ゼロ」になった例を挙げています。(200601112119)

 韓国の殺人鬼のケースに関する考察で判明した事があるので、リンクしておきます(→動画一覧へ)。(200412220004)

 この加害女子小学生が起こした事件で、もう一つ大いに有り得る要素として「テレパシー」があります。テレパシーは特殊なものではなく、日常的に頻繁に実際に起きている現象です。それを認識できる人が少ないという実態も、テレパシーを特殊だと看做す一因でしょうか。
 ここで言いたいのは、この加害女子小学生の精神的な腐敗の原因への考察です。飽くまで例えですが、例えば、加害女子小学生の父親には殺したいほど憎い人間がいるのかも知れません【例ではあっても、攻撃しているのではありません。この場合、この父親は「被害者」であったという意味です】。その父親の心中に過去の嫌な記憶が去来すると、彼の心の中は憎悪で溢れ返ります。丁度全く同じ時刻に加害女子小学生となった女児の心の中で何が起こっているでしょうか。その時、加害女子小学生となった女児の心の中には「死の妄想」が去来するのです(こういう場合もあるだろうと、ほぼ断言できる)。彼女は本当はそんなこと思いたくないのです。しかも、自分の好きなアニメを観ている最中だったかも知れません。自分の好きなアニメの主人公と死の妄想が結びついてしまい、思いたくないのにそういう想念が沸いて来ます。それが「外来の念」なのだという判断はできない。小学生なのだから無理もない。こういう初期の段階でそれを「外来の念だ」と見抜くことなど出来ないのが普通です。ただでさえテレパシー現象は特殊で特別でまれという認識が普通な社会なのだから。他にも、例えばデートの最中に嫌な念が去来する場合があるかも知れませんが、その場合、お二人の関係をよく思っていない知人の誰かが悪念を向けている可能性や、あるいは、先ほど、道ですれ違っただけの他人が悪念の発信源なのか、特定するのは困難であり不可能性が高いですが、誰かがよく思っていないという事に気づくことは出来ますね。
 以前も私は「死の妄想」などとホームページ上に書いた事があり、その翌日には物凄い女性の怨念のような夢を見ました。ちょっとやばいなと思い、それ以来、こういう事は明言しないように気をつけていましたが、やはり、今回については、「必要」があるので、明確な表現とさせて頂きました。「テレパシー現象の一般性」と「外来の念(精神的に近い人からの念)が原因であると考えたほうが正しい」という2つの側面を述べる必要があります。
 この加害女子小学生の場合、その種の念を、「自分の想いだ」として信じて受け入れてしまった時点が、過去のどこかにあった筈です。だからこそ、それが彼女の自己認識、アイデンティティーとなってしまったのです。ここで起こったのは「外来の念を自分の想いだと見誤った」という事象が起きたのです。ここで彼女のアイデンティティーにちょっとした変化が起き、向いてはならない方向へ向かい始めたと思える訳です。(200406092257)

 最近起きた九州女子小学生による同級生カッターナイフ殺害事件で報道され始めた加害少女の動機について、やはり、動物性の目覚めが要素の一つにあるようだと推定できます(この加害者女子の場合、特殊要因が大きそうですが)。つまり、加害少女は、生前の被害少女による「仲間外し」にカッとなったとのことです【加害少女は普段から殺戮だとかバトルロワイヤルとかそういう仮想世界の中におり、遅かれ早かれ、周囲から距離を空けられるようになっただろうと思います】。この時期の男女は動物性が目覚めてきて「負けたくない」という気持ちが随所に表現されるようになってきます(下記)。ここで思ったのは、動物性と言えば、「仲間外し」というのは、動物として決してやってはいけない掟ですね。「負けたくない」や「連帯感」というものが大切なものとして心の中でクローズアップされる。この時期の男女には、動物的な教育という側面も必要ではないのだろうか? すなわち、動物としてあるまじき考え(例:仲間外し)を表明したときは小学校の教師は「ビンタ」または「お尻ぺんぺん」が使えるようにしても良いのでは? この二つは、加えられる物理的な痛みは一時的で微小なものですが、心理的な効果は高いと思う。決して私は子供に体罰みたいなことには賛成できませんが、ただ、このような事件が起こるからには、精神的な腐敗は相当なもので、それで動物性(「カッ」となる衝動)を制御できなかったのではないかと思うからです。このような動物的な教育手段は、この時期の男女だけに最も有効ではなかろうかとも推量します。この時期だけなら動物的教育手段が法的にも使えるというわけです。その前に、教師は生徒の精神的兆候に常に興味・関心を持っていてほしいです。(200406072123)

 2004.01.26(月)の「クローズアップ現代」で、リストカット(自分で自分の手首をカッターなどで切りつける自傷行為)する少年少女が増えてきたというニュースがやってました。なぜそのようなことをするかは、親が子供へ向けて怨念を向けているのが原因であるのは明らかだと思います。共感性が乏しくなって来ている事の表れです。マザー・テレサも「世界には二つの大きな問題がある。一つは貧困であり、もう一つは日本での心の貧困です」との旨を述べておりました。なぜそのように彼女が日本の心の世界は闇夜であると正確に知ることが出来たのか? 彼女が聖母マリア様と「交流」していたことが知られておりますので、情報源は明らかだと思います。番組で説明していたリストカットの3つの要因を以下に記録しておきます。

1.親からあからさまな否定の言葉・態度
 「あんなのせいで」「あんたがいるから」「なんでこんな子になったんだ」と言われたり無視されたり等々
2.友人関係や生活の厳しい監視
 友達関係など細かい所までチェックされ、制限されてしまう
3.過度な期待とコントロール
 「親に逆らうな」「子供は親の言う通りになればいいんだ」と押し付けられ続けて、ありのままの自分はいけないんだという心理状態になってしまう
(200401272356)

 2003.09.07(日)のフジテレビ「EZ!TV」(→動画一覧へ)で少年犯罪のほのめかしである「サイン」をまとめていましたので、ここにも文書化しておきます。

凶行に及ぶ極めて高い可能性があるもの

・普段からよくキレる
・しょっちゅうケンカする
・物を壊す
・薬物およびアルコールの摂取が増える
・危険を伴う行動が多くなる
・凶行に及ぶ詳細な計画作成
・他人を傷つける計画や脅しを告知
・動物虐待に喜びを覚える
・凶器を携行する

凶行に及ぶ潜在的な可能性があるもの

・暴力的・攻撃的な行動をした過去がある
・深刻な薬物及びアルコールの摂取
・不良集団のメンバーになりたいと熱望する
・凶器、特に銃に強い興味を持つ
・他人をよく脅す
・怒りを抑えられない
・友人との距離を置く
・拒絶感・孤独感を持つ
・いじめを受けたことがある
・学校の成績が悪い
・規律を守れない。先生・親との口論が絶えない
・常に軽蔑されていると感じている
・他人の気持ちや一般的な正しさが理解できない
(200309082237)

 「UFO・精神世界を語る掲示板」で述べてましたが、弁理士の遠山勉氏のホームページで、模倣と創造の研究をされています。(200308232354)

 阿修羅発言に面白いのがあったので、載せておきます。

学校は社会を反映 http://www.asyura.com/0306/hasan28/msg/190.html 投稿者 生徒指導 日時 2003 年 7 月 23 日 11:05:30: (回答先: 最低レベルを上げることでは 投稿者 うぃる 日時 2003 年 7 月 23 日 10:41:12) 年々、国民の質は下がって行くばかりです。 文部省の目標は一つ、それはどんな理不尽ことにも隷従する国民育成です。この目標はほぼ達成されています。 そのために学校の実態は現代社会の縮図のようになっています。 1正義感を示した教師を許さない。なんとしても、懲戒処分する。 2いじめ被害を訴えるならば、さらに被害がひどくなるようにする。 3それでも引き下がらない親を村八分とし、親子をいじめ対象にする。 4成績評価は学力では行わない。忠誠・従順度によって評価する。 5内申書と面接を重視して、たとえ学力テストトップでも、不合格とする制度を確立した。 6体制側教師の不祥事については、不問とする。隠蔽不可能な場合は、諭旨免職にして退職金を支払う。

 それから、「日刊ゲンダイ」2003.07.23号の第5面に載ってましたが、

子供の“異常”を見抜く6つのシグナル

があるそうです。情報源は、アメリカで異常行動に関する精神分析で博士号を取得した心理学者の鈴木丈織氏です。

1.母親への横柄な態度
2.刃物や石などで動物などほかの弱者を傷つける
3.日記やパソコンに「殺してやる」「死ね」といった過激な言葉を書き綴る
4.すぐにバレる嘘をつくようになる
5.整理整頓が出来ない
6.好き嫌いが急に激しくなる  (200307232223)

 昨今は、社会が道徳的に後退しつつある点が問題として指摘されています。そこで、教育において、「道徳的な競争」という視点を教育に取り入れる「べき」ではないかと思います。教科の点数や、物を沢山持っていたりすることの方向で競争心が芽生える事自体、反道徳の芽生えですね。特に思春期になると「勝ちたい」という本能が芽生えますので、小学校の時のようなゲーム的な勝ち負けとは訳が違って来ます。このように、どのみち競争心が強くなるのであれば、「精神性・道徳性の競争」へ向かい易い思考傾向や社会環境は「必要」ではないかと思います。

 [性について]に、少しだけ教育について触れました。(200307122305)

 [性について]に、少しだけ教育について触れました。(200212220115)

 最近、「絶対評価」という教科評価法を取り入れる学校が増えているそうです。私の思うに、今の日本人の欠点は、横並び意識が強すぎて、正しいことを正しいと言えず、間違っていることを間違っていると言えない性格が「強すぎる」点だと思います。このような性格を子供の頃から是正するのは良いことだと思います。その一つとしての「絶対評価」だと思います。つまり、周囲との比較へ意識が向かない点が「好ましい」と思います。これは、生徒自身にとって好ましいと思います。
 一方、これは、会社などでもそうでしょうが、「管理者にとっては不都合である(教育世界統一形式として扱いにくい)」という側面が出てくるらしいですね。昨日、7/29(月)の「ニュース・ステーション」で放送してました。
 生徒のためを思うか、支配者の事務的都合を優先するかのせめぎ合いでしょうね、きっと。(200207302323)

 2001.07.17(火)に、NHKの「クローズアップ現代」でスキル教育という新しい教育分野について報道してました。[気になる映像]を御参照下さい。(200107172330)

 先日、テレビのニュースでコメンテーターの方が述べてましたが、「教育が開かれるべきだ」というのは、ソフト面であり、ハード面とは別に考えるべきだとのことでした。
 これは確かにそうだと思います。校門とか学校への出入り口の物理的セキュリティーは堅いほうが良い。しかし、教育方針とかソフト面はインターネット上でメンバー制にして地域へ情報公開し、討論などできるようなサイトを各学校が持つ(ソフト面は開く)というのが理想的かも知れませんね。(200106112046)

 2001.01.10(水)の「ニュース・ステーション」で言ってましたが、カナダのモントリオール市は「映画の誘致」のために今まで5700万円程の投資をしたが、その経済効果は240億円の効果(約421倍)があったそうです。この試算はモントリオールにあるフィルム・コミッションという、「映画撮影に必要な事(道路使用許可を取ったり、通行止めをしたり、人や備品を調達等)」の全てを準備する機関が1979年に活動を開始して以来の実績から計算したそうです。ハリウッドでは「日本は映画撮影に非協力的」だと言われているそうですね。日本では、このような文化活動に対する注意すら向けられてない感じのようですね。でも、日本でもフィルム・コミッションがあり、既に活動を開始しているそうで、その方針は「どんな小さな映画の話も断らない」だそうでした。

 2001.01.08(月)の「WBS」で言ってましたが、最近は物が売れなくなって来ているそうです。代わりに、文化的な消費が増えてきているそうですね(観光など)。竹村健一氏も豪華客船でミレニアムの初日の出クルージングへ行かれたそうですね。WBSで紹介してたのは、「観光などの“経験”にお金を使うのと同様、物を買うというのも“一つの経験”であり、経験の部分集合だ」という考え方(というか、事実ですね)を述べておられました。(200101090552)

 10/15(日)の「報道-2001-」で竹村健一氏が述べておられましたが、アメリカ・イギリスは今までの教育を自由にしすぎて来た反省に立って、1980年頃から、当時、成功を収めていた日本の教育に見習って、少し生徒に厳しくする方向を取り始めたそうです。ところが、日本は今、ゆとり教育と言っているが、これは、昔の米英国の反省点を考慮してなく、アメリカ・イギリスと同じ事を繰り返すのではないか、とのことです。もしそうなってしまったならば、日本の教育は実はアメリカ・イギリスよりも20年程遅れている、ということになりそうだそうです。
 また、氏によれば、必ずしも教育基本法を直さなくても、各学校がある程度厳しい事をもできるような権限・自由が与えられてもいいんじゃないか、という旨でした。(200010160453)

 コンビニ雑誌を読んでて、「みのもんたさんは、気に入ったゲストとしか話そうとしないし、すぐに結論が出ないでいると、もうその場でイライラし始める」みたいな記事が載ってまして気づきました。私は「テレビは視聴率が大切だから、司会者としても、人気のありそうな人に集中的に話題を振ったりするのも当然ではないかな。それに、やっぱり視聴率が大切だから、質問に対して時間を置かずに応答してもらわないと、視聴者を代表して司会者がイライラするのも、ある意味で当然ではないかな」と思ったりしたのです。で、ここで気づいたのは、このようなテレビというメディアの「視聴率合戦」のために、出演者にはテンポの良さが求められたり、人気のある人ばかりが(テレビカメラに)注目されるという現象が起こるわけで、(事務所からの圧力・希望が存在しなければ)司会者もナレーションもその種の傾向が出てくるわけです。ほんの15秒のCMのために、企業は億単位の宣伝費を支払う場合がある。超過当競争という状況。故に、テレビでメインに映っている、司会者などの性格は段々と、「短気」になるのは必然的な事なのかも知れない。で、このテレビというメディアの氾濫によって、子供たちも色々な番組を見ながら、「テレビ向きな人」(すなわち、短気で、移り気な人)との心理的な同調によって、その種の性格的側面がコピーされるのが原因ではないかと思ったのです。子供がすぐにキレるようになった原因として、テレビは大きいのではないかと思います。これは無意識の潜在意識的な影響ですから、子供はおろか、大人にも十分に影響してると思います。ただ、何事もそうですけど、そういう事に自覚的であれば、その個人的な努力というマン・パワーによってかなりの程度、回避できましょうが、一方、人間は弱い存在でもありますから、やはり、過当競争を無くすような多チャンネル時代は追い風ではないでしょうか。(200009280531)

 9/22(木)の「ニュースステーション」と「ニュース23」で述べてましたが、教育改革国民会議が17項目にわたる教育の改革点を発表したそうですね。座長は江崎玲於奈氏ですが、副座長の牛尾治朗氏は「これに限らず、今後も3年毎にでも柔軟に変更点に対応して行く」とのことでした。「ニュースステーション」では、生徒の「やる気」を出してもらうために、勉強のできない子の学習レベルを安易にし、勉強のできる子の学習レベルを上げてあげるという方式が導入されると言ってました。「やる気」というのは、基礎教育では、最も大切な事ですね。まあ、専門過程においては、「やる気」は、当然のものでしょうが、基礎過程・義務教育においては、「やる気」に気を配るのは大切なフォローですね。

 それから、「奉仕活動」を義務とする点について議論が分かれてますね。外形的には今後の老齢化社会とマッチする方策ですね。でも、生徒の中には、全く自分勝手に御老人達に多大な迷惑をかけ、施設の落ち着いた人間関係のみならず、肉体的・精神的にも御老人たちを「ぶち壊す」ような馬鹿がいかにも出てきそうですよね。故に、性格の破綻している生徒には、参加させないようにしたほうがいいという側面はありますよね。御老人達を実験材料にしてはいけないなと思います。でも、駅前の掃除とか、町のゴミの仕分けとか、そういう「奉仕活動」ならば、別にいいんでしょうけど。(200009240352)

 8/14(月)の「ニュース・ステーション」で、最近の少年による殺人と昔の少年による殺人とを比較考察してました。昔は、「お金欲しさに」というものの割合が30%程度もあったのに、最近の事件では確か、1件しかないそうでした。しかも、事件を起こす少年は「優等生的」な少年ばかりなのが特徴だそうです。一度も非行すらしたことのない少年がある日突然殺人を犯すというパターンなのだそうです。これを聞いて少々ドキッとしましたが、この種の傾向は、明らかに「希薄な人間関係」によるものだと私は思います。「コミュニケーション不足」のために、言葉によらないもの(体感とか印象等)まで含めた色々な種類の人と人との繋がりが切れているのだと思います。昨日も、下記にありますように、ある高校生がコミュニケーション不足の現状のままではゆとり教育は効果を成さないという指摘もありました。やはり、授業後にでも「討論の時間」をかなり長時間(例えば、放課後から3時間とか)与えて色々な事柄に対する認識や、自分の考え方やアイデンティティーや将来の方向なども得られるのではないかと思います。このような場がないと、生徒は自らの積極性を育むのが難しいのではないでしょうか。そういえば、教育テレビでは既に番組としてこのような学生生徒同士による討論番組やってましたね。(200008150345)

 8/13(日)のフジTVの「報道-2001-」で教育問題を論じてました。喜入克・高校教諭が「いじめを根絶するのは実は不可能であり、それは“いかにして深刻化させないようにするか”と考えるべきだとのことでした。いじめが起こったりした時も、それを教育問題の好機と捉え、全てを教育の中に包含すべきだ」とのことでした。

 また、会場に来ていた高校生の中から秀逸な意見が出ました。教育担当の官僚の方も感心して笑うしかないという感じでした。それは、教育の週休2日制の発想に関わる意見でした。彼によれば「勉強の為の時間が減ってゆとりができるのはいいんだけど、時間に余裕ができると、かえって部屋に引きこもったりする時間が多くなる」とのことでした。今までも勉強に追われて友達とのコミュニケーションが出来ない欠点が教育システムにあったけど、時間的ゆとりが出来たとしても、構造的に以前と同じなので、コミュニケーション不全の状況は改善されないという意見が示されたと私は思いました。私の思うに、時間的余裕を作った分、その時間を「議論の時間」として、皆がコミュニケーションに参加するような形でコミュニケーションを促進する「何か」(ディスカッション等)をする事が非常に大切ではないかと思います。(200008140324)

 日本には「我慢に我慢を重ねてとうとう爆発する」という傾向がありませんか? これは「右脳」で気になる事を「左脳」で言葉にして表現する事が苦手、という傾向だと思います。例えば、外国の映画で見たのですが、あるバーで、ある男性が、ある女性を注視していたら、その女性は立ち上がり男性へ歩み寄って行き、「何か私に用ですか?」と、ちゃんと言葉にします。ところが、日本では、女性も男性も右脳で何かに気付いてても知らん振りで、決して言葉にしないでいるという傾向が強いですよね(この点、大阪は救われている傾向があると思います。比較的、何でも言葉にしてしまう傾向がありますよね)。このような文化圏で育った子供は、同様の慣習があると思います。つまり、「普段の会話が無く、ある時、突然にキレる」という傾向です。子供にとって私が大事だと思うのは、普段の会話です。普段の会話で、ちゃんといつも言葉で右脳(のストレス)を表現していれば、突然にキレるということは無いと思うのですが。
 それから、思春期の自我の目覚めと共に、人は「自分でありたい」という本能のような傾向が生じますよね。それで自分の思考、感情的パターン、行動様式等の、自分に関わる全ての側面に於いて「見直しの作業」が始まります。例えば、人から頼まれた時にNOを言えない気の弱さがあったけど、今後は、明らかな悪意が感じられればハッキリとNOを言うようにしよう、とか色々です。これは今まで習慣的に自動的にそのような性格だったのに気付いて、自分の中の自動反応を克服して、今後は自分になって考え行動するように自己改造する事になりますよね。そのためにはどうしても今までとは逆の行動に出てくる事になるわけですね。例えば、今までは友達とはただ仲良くしていただけだったのが、そうしていると真実が隠されたり正当な事が闇に葬られたりするのが嫌になり、それ以来、友達と「仲良くする」事などどうでもよくなる、とかいう事になって来るので、どうしても行動として逆に出なければ本人が自分に納得出来ないのですね。こういうのを周囲から見ると「反抗期」と呼ぶのですね。「反抗期」=「自己再統合の過程」ですね。これは日本の場合、我慢に我慢した最後に爆発するというパターンを取りがちではではないかと予想します。また、彼が「イジメられっ子」であった場合は、人や学校や家庭等々に対する「憎しみが強い」と思われます。このような少年の場合、彼の起こす行動は、深刻なものとなり得ると思います。従って、私たちの社会全体が以下のように変化すべきであろうと思います。

・普段から右脳(身振り、素振り)を言葉(左脳)で扱える社会。
・「イジメ」という現象一つ一つは保護者や教師が根絶やしにすべし(当人たちの問題に積極的に取り組むべし)。
・思春期の自己統合の時期には、どうしても行動として反抗しなければならない点について皆が理解をしている事。(200005270447)

 5/23(水)のニュース23で知りましたが、アメリカで犯罪を犯して出所した人たちが集まって更正を目指すAMITYという組織の紹介をしてました。出所した犯罪者が再犯をしないためにも、犯罪者の中にある被害者の側面(幼児体験等)をケアし、犯罪者同志で分かち合うことで実際、再犯率が通常の場合75.1%だったのを、AMITYプログラムを受けた人達だけ抽出すると27.4%であるという結果が出ているそうです。
 番組では出所した犯罪者達が環になって自分の中の被害者の側面を皆に話して聞いてもらったり色々な動きを伴った事をしてました。この方法が成果を生むので州政府もAMITYプログラムを所内の囚人達に適用し始めているのだそうです。
 最近の少年犯罪で目立つのは、それらのほとんどの場合で、加害者がいじめ「られ」っ子であったという点ですね。イジメを受けると人を忌み嫌う傾向が顕著になります。家庭や教育の現場で、イジメの現場を一つ一つ潰して行くべきです。なぜ教師はイジメを「放置する」のか私には(気持ち的に)よく分かりません。私だったら見つけたその場で絶対に対処するけどなぁ。(200005240429)

 5/22(火)の「クローズアップ現代」でやってましたが、東京都葛飾区立上平井小学校でイジメの消滅に成功しているそうです。

 最初、出版業界が、子供の活字離れを心配して、子供たちにもっと本を読んでもらおうという提言を始めたのですが、そのように常々思っていた教師も沢山いらっしゃり、それでこの学校では一日の始まりに本を15分間何でも良いから読む習慣を忍耐強く続けたのだそうです。すると、3年、5年と過ぎてゆく内に、ガラスを割ったりすることもなくなり、イジメも消えていったそうです。なるほどと思いました。
 下記で、「中心の無い子供」は体罰も仕方なしと言いましたが、この「読書」という点に思い至っていませんでした。体罰はスパイスであって、決してそれだけで食べられる代物ではありません。むしろ、無いほうが良い位です。文字の連なりである本を読む事は、その子の「イメージする能力」を活発にさせます。ルドルフ・シュタイナーも人間の霊的な発達についてイマジネーション認識、インスピレーション認識、インテュイション認識という事を言っております(イザラ書房「いかにして超感覚的認識を獲得するか」より)。最初のイマジネーション認識ですが、これは人が「自ら積極的に自分でイメージを働かせる」事によって霊的な知覚を得る、という認識の事です。物質世界では、自分が知覚する対象から形や色彩が目に飛び込んでくるという「受動的な形態」を取っております。一方、霊的な認識を得るためには、イメージ能力を働かせ、自分で自分のイメージが流れるに任せると、それが不思議な事に、ある、一つの形態や色彩を取るようになる、という知覚の事だそうです。丁度、昼間、起きていながら夢(イメージ)を見ているかのような(というか、それそのもの)状態です。霊的な発達の為には、認識するために「積極性」が必要なのですね。ところが物質世界では逆で、物事を知覚するためには「受動的」でしかあり得ないのですね。それで「本を読む」という行為は、自分でイメージする能力の発達であり、この「積極性(=集中力・意志力)」が要求されるのです。これは、その子が(ある地点までは)霊的な発達へ向うのと同等ですね。
 さらに言ってみれば、何かをイメージするというのは、手や足を動かすのとは違い、とても微妙な領域の行為ですね。その微妙さを扱うためには集中力や鋭敏さが必要なので、必然的に心は静かな水面のように静まる必要があり、実際、静まる方向なのですね(静まらないと、そういう微妙なイメージを描けないから)。そのため、「静謐の自己」を自覚する機会ともなるのでしょうね。従って、私が下記で体罰を手段として肯定しました部分は、撤回というか、特に触れない事にします。「本を読む」という方法論が浮上して来たからです。(200005230405)

 5/18(木)のニュース・ステーションで、学級崩壊の原因は、子供が放縦してしまう状況を許している親の放任・甘やかしにあると主張してました。私は、これは場合により、真であると思います。

1) 「静謐の自己」が自覚できるほど目覚めている子供の場合
 親や家族の中に、「平安の自己」がはっきりと自覚できているような、精神的に安定した大人がいれば、必然的に子供に、その「平安の自己」を通してを注いであげられます。特に、2〜3才の子供はとてもテレパシックです。人の思う事にとても敏感に反応します。「三つ子の魂、百まで」ですから、だいたい三才になるまでの間の子供に情を注いであげると、その子のその後の人生の精神生活の中心軸(=平安の自己)がしっかりと定まる事になります。そのようにして、環境的に幸運だったその子供は「周辺の自己(概して欲望)」が暴走し難くなります。中心がしっかりしているからです。
 また、3才まででなくとも、例えば、5才とか6才の時に、父親や母親がとても幸せな気分になっている時期に、その平安な気持ちは当然、子供に伝わるでしょう。そのようないくつかのテレパシックな体験の内、特に目立つような出来事が重なることで、その子供はそれらの幸せな体験を記憶し、やはりその後の大切な「人生の中心軸」となるでしょう。

2) 「静謐の自己」が自覚できるほど目覚めていない子供の場合
 「静謐(平安)の自己」が目覚めていない子供の場合、それが目覚めるのはかなり後になってからの場合もよくあろうかと思います(私は17才の頃でした)。例えば、交通事故に遭って、死にそうになった事で、「周辺の自己(欲望)」が一時的に停止して、その時、必然的に魂としての「静謐の自己」が目覚めて、それ以後、マジメな人生を送るように性格が変った(外的要因)とか、あるいは、とても悪いことをしてしまい、その深い反省から(善・良心の目覚め)「周辺の自己(自分の要求)」が全て停止し、中心的自己、「平安の自己」が目覚めるとか、あるいは、思春期に宗教感情が芽生えてきて(時期的要因)、そこから自覚的・本能的に、自己へと向うことで「静謐の自己」が目覚めた等、色々とあると思います。
 ただ、ここで述べている「学級崩壊」は小・中学生についてのことです。17、18才ではありません。授業中に勝手に振る舞うのは、親がそのように育てたから、という側面がありますよね(この性質は、脳の一部が未発達の為に起こることが専門家によって知られていたそうで、先日の「ニュース・ステーション」で述べていました(200104032331)。ビジネス社の「実践 ビタミンサバイバル」という本(牧瀬忠廣著)のP151で、述べてますが、現在、このADHDに対してはリタリンが処方されているそうですが、不眠、頭痛、関節痛、食欲不振、めまいなどの副作用があるそうで、医者によってはリタリンの処方は児童虐待に相当すると言う方もいるのだそうです。ピクノゼノール[松の皮を蒸留して作るバイオフラヴォノイド]なら副作用もないそうで、こちらのほうがお勧めだそうです。まだ普通の薬局では売ってないが、厚生省は認可した筈だそうです(200105021809)。ここで述べている子供は、思春期に「平安の自己」が目覚める予定の人たちですから、この頃はまだ目覚めていません。従って、「周辺の自己(欲望)」のままに振る舞うのです。動物と似た側面があります。多分、1)のような恵まれた子供は少数派でしょう。多数派である、2)のような子供たちは、親の発想としては「あまり子供につらく当たったり厳しく制限ばかりを口うるさく言うのは良くない」という主義の方が多いと予想します。しかし、その方針は「平安の自己」が目覚めた、1)のような子供たちには良い結果をもたらすでしょうが、2)のような子供たちには「放縦」という態度を生むと思います。これが今、起こっている事(学級崩壊)ではないでしょうか。だから勝手気ままな、むしろ放縦的な性質の子供が多くいるのではないかと思います。2)の子供たちは、まだ「自分の中心(・平安)」を自覚してませんので、欲望のまま、気の向くままに振る舞う傾向があります。従って、「しつけ」が必要となるでしょう(飽く迄、一時的な手段)。2)の子供は半分動物のようでもありますから、恐怖心(叱る事)によって「機能的自己(欲望)」が統一されて、制御され易くなると思います。ただ、このような正しい意図の元に、「恐怖心」を活用した「しつけ等」が行われるべきでしょう。その「しつけ」の内容も、「人としての正しい型の中へ半強制的・教育的に制限する」というものであるべきです。例えば、「人の物を盗ってはいけません」と言って、親が子供をしかりつけます。それは社会的な生き物としての正しい態度(型)に従わせます。あるいは「人には乱暴に当たらずに優しく接しなさい」というしつけは、後にその子供が「静謐の自己」を自覚するようになる時に、自然に人(善人)に対して優しく振る舞えるようになった時に気付くのです。すなわち、そのしつけの内容が「平安の自己」から出ていた態度であるということを。ここで「再認識」を得ることになるでしょう(勿論、優しさ一辺倒ばかりが良いと言ってるのではなく、飽くまでも、例です)。

3) 「静謐の自己」が何なのか、とうとう分からないで大人になった人の場合
 この種の人は「深い感情」とか「」とかを単語として知ってるだけの人です。この種の「浅い人」にとっては「万引きは当たり前」という感覚なのだろうし、子供を慈しむ心が持てない利己心の固まりのような傾向があると思います。「中心の自己(平安)」が目覚めてないので、「周辺の自己(欲望)」の一つが支配的になったりしています。例えば、「自己利益」という感覚です。自分の利益にならない事は一切、興味も関心も持てない、という人の例です。この種の人が増えると、将来、介護を嫌がる人が増える事も予想されます。また、幼児虐待も発生し易くなるかと予想します。また、この種の人はテレパシー経路たる「平安」と繋がりがないので、彼らが感じるものは「自分の欲求」だけとなります。そのため、自己中心的な行動となり、幼児を誘拐したり、動物を殺したりという行動をすると思われます。
 しかし、を思い起こさせるような、例えば「人生の打撃」を受けたりして、深く反省するなり、感謝するなりして、子供の頃のフィーリングを思い起こせればOKです。それが「静謐の自己(自分の中心)」を思い出すきっかけになり得ます。

・追加要因(イジメられた記憶)
 子供の頃にイジメに遭うと、その子供は基本的に人間嫌いになります。私はこれです(^_^;)。私の場合、イジメっ子がスポーツが得意だったので、私はスポーツが嫌いになりました。ただ、そのイジメっ子は水泳だけが苦手だったので、私は水泳だけ好きになりました。彼は肉類が好きだったので、私は以後、肉類が嫌いになり、成長期はあまり肉を食べずに育ちました。彼が一度触った物品を私は全部覚えておき、絶対に同じ物に触れる事は無いという感じで過ごしてました。イジメに遭った子供は、人を忌み嫌う気持ちが通常よりも強くなるので、その分、上記の、1)、2)、3)の全ての場合に於いて、人に対する敵対心・攻撃性(という機能)が先鋭化することは免れないと思われます。先日のバス・ジャック犯は、これでしょう。このような人間を出さない為にも、「個別のイジメを常に感知し、積極的に対処する」事は非常に大切な事だと思います。

・教師と学校の対策
 「教科を教える先生」が心身疲労に陥るほど忙し過ぎるのなら、「イジメ対策の先生」が常に生徒達の中に一緒にいる、という環境を作ってもいいのではないかと思います。でも、私だったら教科なんか放っておいても個別にそれぞれのイジメについて根掘り葉堀り生徒に質問してイジメを行う生徒達を直ちにその場で警察などにつき出すけどなぁ。なぜ世の先生はすぐにそう「しないでいる」のかなぁ。そうか、先生が自由に善と悪を峻別できる行動を取れる為には、PTAなどの親達が、上記の、1)と2)の場合の違いについて理解する必要があると思います。すなわち、「しつけ」が必要/不要となる分岐点についての理解です。大体の場合は、しつけが必要ではないのでしょうか。あらかじめ次のような文書をPTAに回覧しておくのも一考かも。「本校では、“人としての型”に沿わない生徒さんに対しては、強制的な手段を使ってでも型に慣れて頂いております。これは全教師に徹底しておりますので、教師一人の勝手な思い付きによるものではありません。“人としての型”とは、人の物を盗まない、人をぶったり殴ったりしない等、人としての基本を意味します」 そうやってPTAとの「同意」の上で教師が「しつけ」をすればいいでしょう(場合によっては不良生徒への体罰に対する社会の理解があるべきでしょう)。“人としての型”を生徒に適用させる程のものを体現している教師であることが必要ではないかと思います。従って、上記、3)のような教師は失格ということになりそうですが(^_^;)。「物を盗むのは当たり前」とか「場合によっては子供を誘拐して身代金を取ろう」とか普通に考えるような上記、3)のような「中心の無い人(欲望で移り変わる人)」は教師として失格ですね。このような人以外で、人として正しくあろうとしている教師であることが最低限、必要な事ではないかと思います。資質を言えば、「善を好み、悪を嫌う性質」が強ければ強いほうが良いかと思います。そうすればイジメ問題に積極的に取り組む教師でしか有り得ないと思います。(200005200538)

 最近は、メディアと連動したような電波系の犯罪が増えているような気がします。ある女性歌手の人が「花火は今日も上がらな〜い」と歌っていたからでしょうか、渋谷駅前の交差点近くの地下鉄入り口上部に、ロケット花火を蚊取り線香を使って次々と打ち上げる時限発火装置を仕掛けて、そこから発射されたロケット花火が通行人に当たって怪我をした、というのがありましたし、スーパーベルズのモーターマンという歌で「ア、ア、ア、アキハバラ、アキハバラ」とか「次はオカチマチ、オカチマチ、チマチ」とか歌っていたら、山の手線の秋葉原と御徒町の中間地点にあるJRの倉庫に放火があり、確かポスターやダンボールなどが確か全焼するという事もありました。これらは多分、先日のバス・ジャック犯と同様、自分の社会的な認知の欲求から出た行動ではないかと思います。

 そうしてしまうのは、「自分自身として真実である」<「周囲から認知される」という不等式が成立している人であると分かります。教育が成すべき事の一つとして、「自分に対して誠実であること、正しくある事」という心を育てる事だと思います。ルドルフ・シュタイナーによれば、人は、死後の生活の中で、霊界から絶えず人生の行いについて質問され続けて、その後半部分において、過去世での自らの行いを償いたいという気持ちが段々と膨らんで来るそうです。そして、生まれてくる機会が与えられるのです。人は、「罪を償いたい」という気持ちがあって生まれてくるそうです。そのような性質・気持ちは本人の最も中核の静謐の部分、「平安の自己」の中にあります。だから、自らを客観視する行・瞑想によって「平安の自己」を自分で自覚できるほど強く育む事で、キリスト教で言うように「罪深い自分」を自覚すると思います。「正しくありたいという気持ちは(過去世での)罪人と自覚する人ほど強い」という側面があります。人は、自分を知れば知る程、魂に肉薄すればするほどに、正しくありたいという気持ちになるでしょう。そのような時、「社会的に認知されること」に、どれほどの意味があるかが判明します(つまり、ほとんど意味が無い)。だから、事件を起こしてとりあえず認知されるだけ、という(犯罪)行為が、どれほど無価値であるかが分かるのです。

 従って、義務教育・基礎教育は、企業人を育成することなど露ほどにも意図してはなりませんよね。意図すべきは、もっと根源的な事です。本人が(周囲から認知を受ける事よりも)人としてどれほど正しくありたいという気持ちが持てるか、という点が大切ですね。その性質が教師や親によって外から言葉で教えられるだけでなく、実際に子供の内部に「静謐の自己」がハッキリと生まれて、子供自身によってそれが明確に感じ取られるようになる教育(環境)が、より望ましいですね。「環境」と言いましたのは、それを体得(静謐の自己を自覚している)している教師が、例えば、春にチューリップが咲いた事で、彼が幼い頃の気分を思い出して和んだりしているような気分の時に、その気分が生徒達にも伝達するという事が起こり安い環境の事である。そのような気分を分かち合うことの出来るような環境が必要です。故に、忙し過ぎない事も大切ですし(ビタミン不足、マイナスイオン不足、酸性食品等)、多くの要素があると思います。とにかく、子供たちの内部に彼や彼女自身の霊性である「静謐の自己」を生み出せるかどうかにかかっています。静謐の自己は一人だけの意識状態ではなく、この自己を通して人と人の意識が共有されるのであり、この経路によって「気持ちが伝わる(=テレパシーの基礎)」という現象が起こるのである。それは共鳴と言えるでしょう。ですので、先生や親が忙しすぎたりキリキリしたりイライラしてると、それが子供の内部に影響してしまう。第一に大切なのは、子供の内部に、先生や親との共鳴によって静謐の自己を自覚させてあげられるかどうかです。(更に、このような教育の基礎として、「三つ子の魂100まで」と言うように、3才になるまでの間の幼児に、どれだけ多くの情を注いであげられたか、というのは重要でしょうね。この時期にハードウエアが形成されるのですから)

 それから、「自分自身として真実である」>「周囲から認知される」という不等式の意義を言い続けて来ましたが、子供が周囲からの認知を欲するのは、を欲するのと近い所にあります。
 は、共鳴によって周囲の大人達の静謐の自己との繋がりの中で伝達されるものでもあり、必ずしも目に見え、耳に聞こえるものとは限らないと知ることも子供にとって大切と思います。でないと、子供は、目に見え、耳に聞こえるを求めるという間違った方向へ進んでしまい、それが「社会的な認知を病的に欲する(後に、犯罪の原因ともなり得るでしょう)」という原因にもなり得ましょう。この不等式の性質が、子供の性的な目覚め以前に形成されることが肝要と思われます。なぜなら、性的な目覚めの後の男子が犯罪を犯す率が極めて高くなってるのだそうですから。この意味は明らかですね。つまり、男子の性が目覚めることで、彼は「勝ちたい」気持ちが強くなります。でも、静謐の自己が目覚めていれば安心です。彼は「勝ちたい」けれども、「正しくありたい(より深い所では、罪を償いたい)」訳でもあるのです。そのために、誘惑を退け、嘘をつかず、弱い者を援助し等々という性質へと向うのです。もし静謐の自己、平安の自己が十分に目覚めていない場合は、性の目覚めによって彼は「勝ちたい」し「周囲から認知されたい」ので、自分が勝つためには、(悟られないように/悟られても)人を押しのけ、甚大な被害を与える事がよく分からない人になります(平安の自己によって他者の意識と共鳴を起こさないから、自分の欲求だけしか知覚できない)。(200005110539)

 ルドルフ・シュタイナーが「いかにして超感覚的な認識を獲得するか」(イザラ書房)という著書の中で述べておりますが、「自分自身をまるで異邦人であるかのごとく見做すことができるようになればなるほど、自分の中に“もう一人の自分(平安の自分・落ち着いた自分)”を生み出せるようになる。このような行はどんなに時間が無くても、一日5分でも良いのである。」みたいなことを述べております。この「平安な自分」は日常生活の様々な場面に影ではなく光を落とします。知らず知らずに「もう一人の自分(平安なる自分)」が人生に影響を与えるのです。
 ところが、現代では、利益主義・資本主義が巾を利かせており、人は利益を求める余り、いつも自分を主観視するようになります。自分を客観視することは無くなって行くのは明らかです。そうすると、情報なども客観的に扱わなくなり、著作権だとかプライバシーだとかが「とても大きな問題」になるのでしょう(両方共、今の人類にとって必要であることも勿論ですが)。
 さて、「怒り(キレる事)」とは、「意志の自己防衛反応」です。例えば、Aさんがいたとして、彼は右へ行こうとします。そのAさんの意志を「→」で示します。ところが、近くにいたBさんやCさんやDさんが、Aさんの意志「→」に対して「←」や「↑」や「↓」の意志を示して、Aさんの意志「→」の方向を変えようとして色々な事を言いました。しかし、Aさんは飽く迄「→」なのです。それでとうとうAさんは自分の意志「→」の方向を守るために、BさんやCさんやDさんの意志を破壊したくなりました。それは自分の意志を守るための破壊衝動です。
 「怒り」=「意志の自己防衛反応」であることが分かっていれば、必要であれば、怒りを抑えることも大体の場合において可能になります。つまり「→」である自分の意志に関して「とりあえず(今は)どちらでもいいや」と決めればいいのですから。このようにして「どちらでもよくなったAさん」からは怒りが消えます。このように「どちらでもいい」と思える能力は、客観的な性格であるほど高いと思います。主観的でなければ、初期の目的「→」からいつでも自由になることが出来ます。しかし、主観的な人はこれが多分、比較的には難しいと思います。
 例を挙げれば、コンビニのドアを開けて中に入ろうとしたら、人が中からドアを押さえて、中に入れさせてくれません。そんな時、客観的な人は「どっちでもいいや」と思い直して怒りからは自由です。あるいは、既にどちらでもよいという性格が潜在意識的に働く人なので、怒りません。しかし、主観的な人は、自分の「→」を変えようとせず、飽く迄も、中に入るという初期の目的に執着します。それで怒りが発生します。「オラ、開けろ、ワレ!」とか(^_^;)。勿論、「怒ったフリ」だとか「怒ってないフリをしつつ怒る」とか色々なヴァリエーションがあるのは勿論ですが、ここで言いたいのは、「キレ易さ」=「主観性」というポイントです。最近、キレ易い少年が多いのは、「客観的な自分」を育てていない(というか、気付いてない)教育にも一因があると思われます。(200005100526)

 教育の基本の一つに「自発性の尊重」というのを挙げられると思います。これを大切にする発想があるならば、子供の質問に対して「逃げる」事はないと思います。あ、そうか、今は利益追求タイプの大人が多いから、子供の為に何かしてあげようという発想が先ず無いのかもしれませんね。それで、(子供の)質問を適当にはぐらかす人間が多いのかも知れません(不幸なことに)。しかし、子供の質問=子供の自発性の現れであり、これはとても大切な機会です。このチャンスは生かさなければなりません。「事実を伝える」というのは、それ自体は何も問題ありません。その事実に対してその子供が何を思い、感じるかはその子供自身の価値観となります。大人/子供と分けてしまう傾向が日本は強いかと思いますが、子供を子供のままでいさせたいという勝手な大人の要求が、子供を無知のままでいさせるのでしょうね。大体において、日本人は情報すら「所有し、人に伝えない」という傾向がとても強いと私は感じます。でも、子供も大人も「真実を知る権利」があります。誰でも、真実を求める人にはありのままの事実が知らされるべきであります(まあ、求めていない所に提供すると、相手の自我からの強烈な反発を食らうというのも事実ですが ^_^;)。事実は宗教(価値観)ではなく、事実の上に価値観が発生して、人によって違う対応となるのですから。だから、事実は事実として、人から人へどんどん伝えるべきでしょう(まあ、聞かれた場合、とか、参考までに、ですかね)。でも、どうしてコミュニケーションを怖れるのかな。その怖れてる自分の心理自体を話題にして笑ってしまえばいいのにね。あ、そうだ、よく、最近のミュージック・シーンの中で「勇気を出そう」とかなんとか言いますけど、これらは私とは何の関係も無い別の人(たち)が言ってる事です。(200005080450)

[国が今すぐすべきことだと思います]のほうにちょっと教育的観点を述べましたので、ここからリンクしときます。(200004050444)

 3/6(月)のニュース23の解説者の言葉を聞いてて一つ気が付いたのは、「他人」という感覚である。最近は家族崩壊と言われています。私は「そんなの言葉にして何でも話し合えばいいじゃないか」程度に思っていたのですが、どうも、それが出来ないというのがよく分からなかったのですが、その理由が「他人」という感覚であるのだろうと気付きました。自分の事を申すとまた反発がありそうですが、言ってみます。自分は以前、高校を卒業する頃から、自分の中にある「他人という感覚」を駆逐して、「人類は皆、兄弟である」という感覚を持って人(兄弟たち)を見るように自分の感覚を入れ替えていました。その時に気付いたのは、人の感覚というものは、色々な観念的なものが「感覚のように作用している」事でした。その時に私は「観念(偏見等)」というものを心の中で対象として分離し、「感覚」とは区別出来るようになりました。その頃、私は「他人」という感覚のような観念を消滅させたのです。自他の区別も一掃した感があり、そのため、誰に対しても、どんな内容でも口に出して人を驚かせて来た感があります(^_^;)。そのような観念が感覚のように心の中で作用している人は、一種の「社会に対する恐怖心によって、社会に対する誠実さ」を持つのだなと思います。でも、そのような「社会というものへの恐怖」は、観念的なものではないでしょうか? なぜ、人はもっと自由に行動できないのでしょうか。やはり、若い時の教育ではないでしょうか。「他人」という感覚を「持つ」から、言葉が疎遠になって行くのだと思います。だから、自他の区別なしに言葉を交流させればいいのです。例えば、自分の夫が「ゴホッ」と咳払いしたら、「今の咳払いのタイミングの意味は何なの?」と、妻が質問すればいいでしょ。どんなことも会話になるのです。それで夫が怒れば、妻への情があるということだし。親しき中にも礼儀ありと言いますが、その「礼儀=社会形式への恐怖」だったら、そんなもの守らない時期を設けるべきではないかと思います。そして、ありとあらゆる社会形式に逆らう行を徹底させ、恐怖心がなくなって始めて新たに礼儀・道徳を身につければいいでしょ。道徳や礼儀の動機は、全くの善意や情だけであるべきでしょ。(200003070601)

 1/14(金)のテレビ朝日のニュース・ステーションの冒頭で、少年白書(?)とかいう少年犯罪についてまとめた本の一部を久米氏が読み上げてました。それによると、青少年が犯罪を犯すのは年齢にして14〜16才の間で、全少年犯罪の62%に達しているという事実です。性の目覚めが犯罪と相関があることが分かると思います。このような時期から、人は「力」と一つになりやすくなるのだろうと思われます。ルドルフ・シュタイナーによれば、人の物質体(肉体)が母親から離れるのは誕生した瞬間で、植物体(エーテル体)が母親のエーテル体から離れるのは歯が生え変わる頃で、動物体(アストラル体)が母親のアストラル体から離れるのが、性の目覚めであり、そのようにして人は母親から独立します。そして最後に、本人の自我が自分のアストラル体から独立して、自分を確立しようと、規律や・宗教的なものに目覚めます。ちなみに、物質体、植物体、動物体という表現は分かり易さの為に便宜上、そのようにタイプしているだけです。確かにそうでもある訳ですが、それほどキチッキチッと一意に定まったコンピューターのようなものではなく(つまり、それらは思考の対象だけではなく、感情の対象でもあり、経験する対象でもあるわけです)、これは自然界の事柄であり、実情は相当に複雑なものだとのシュタイナーの言葉をタイプしておきます。

 このような時期の少年(少女)には、「ナイフを持ったからと言って、君自身が強くなった訳ではない」ことを強調すべき必要があると思います。あまり容易に力と一つにならない為には、「人には魂がある。魂は力ではなく、と智恵でできている」と教えれば、「そうか、本当の僕は、それだったんだ」と「自覚」を持つようになるでしょう。その教育が彼の潜在意識に時間とともに浸透して行くでしょう。そうすれば、後になって、ナイフやお金を手にした時に、「僕は魂=と智恵であって、力ではないから、ナイフやお金を“うまく”使おう」と発想が出来るようになると思います。少なくとも、今までよりは無明ではないはずと思います。(200001160423)

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