私は死の関門を356の日に通過したことで、とうとう死の壁をその時点で、突破し得たのです(ここで過去世の記憶を思い出した)。だから、それ以前の時期の人の事が分かると思います。

 人は曰く「あなたはそれを自分の命をかけて貫く事が出来るか?」とか、曰く「命懸けでやってみなくちゃ分からない」とか、そういう言辞が出されるのが死の関門(至福の門)の手前にいる人である場合が多いと思われます。だから小林よしのり氏の「戦争論」も注目されるのだと思います。実のところ、死は、その人の人生を最も美しくするものですね。死があるから人生は輝きます。自分を輝かせるのは死でした。それで人は死という祝福を密かに感じ取って、「死」に向って今にも突進して行きそうな人たちも沢山いらっしゃるのだと思います。死は栄光だからです。そういう訳で、実際に死んでしまう人も出てくるのだと思います。そういう人が死へと向う勢いは凄いものだろうと思います。私もそうでした。そういう時期に「戦え」と指示されたら、ジハード(聖戦)に出ていたかも知れません。そういう心構えであったのです。それで356の日の夕方5時半頃、私には死の関門が迫って来ました(比喩的表現)。それを、全ての思いを振り切って受け入れたのです。この時の覚悟は、「実際に死ぬ覚悟」に等しいものだと思います。運良く、私は死という栄光を受け入れ、炎となり、輝く事になりました。この関門を提示されるのが肉体的な死の時点である場合も多いだろうと予想します。つまり、関門をくぐる事が、実際の死である場合が多い中で、幸運だったと思います。この体験以降、もう私は死という栄光に向って突進するかのような精神性を持たなくなりました。少なくとも、以前のようには持たなくなりました。それで、死に関して、人に対し、そのような言辞を出して迫るような発想も以前のようでは無くなっていると思います。(199903250517)

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