以前[教育について]からリンクしました動画を登録した時に、「最近の訳の分からない犯罪」に関して判明した事が一つありました。それは「ひねくれ」です。生来の素直な人間的な感情・情緒を正回転(自己発展創造)とイメージすると、ひねくれは、逆回転(自己破壊)とイメージできます。
 例えば幼少の時より、親が密かに心の中で「なんで、こんな子供の面倒を見なきゃいけないの。まったく邪魔だ」みたいに心の中で「思っているだけ」でも、それが子供の感覚に伝わり、それが長期間蓄積すると、子供は最初は抵抗・葛藤していても、やがて無意識にそれを受け入れてしまうのが自然の成り行きでしょう。が無い親に対して、人として反発・批判せずに、子供として受け入れてしまう。「もういいよ分かったよ、あんたの望み通りにしてやろうか」「どうせ自分なんか…」というひねくれの逆回転という自己破壊の「感情」が増してゆき、子供の性格の一部として組み込まれる所まで行くと思われます。これはほんの一例ですが、他にも、言葉で長期間、何かを強制されて逆回転の感情が成長してしまったり等、色々な場合が有り得るでしょうね。この逆回転の「気持ち」=「悪魔の感情」ですね。なぜなら、逆回転だから。故に、情に満ちた映画なり小説なりストーリーなり実話なりの情報や、質の高い音楽や、人間性を高めるような発展的なアイデアや、本当に美しい風景や写真や絵画や種類の多い花の香りや種類の多い味が広く社会の中に行き渡ることが良いと思います。要は「感覚」に対して、「創造的な刺激」を与える事だと思います。(200508272349)

ひねくれの仕組み

 人には自然性に基づいた素直な心、感情がある。一方、頭脳的な判断に基づき、社会性を身につけ、自分を律するという力もある。片方は本能であり、その基盤は内部にある。これが優勢だと権利主張型。もう片方は筋、論理性であり、その基盤は外部である。こちらが優勢だと義務遂行型。普通は両者は離れているが、場合によっては片方が、もう片方を圧倒する。例えば、論理性で本能性を制御し続けようとすると、無理がかかる。(例えば、上司が部下を見張り続け、数秒でも休ませないような事をしている場合)そのような無理を本能性に与え続けると、本能性がそれを形だけ取り入れて、「そんなに言うんならいいよ、徹底的にあんたの言う事を、自分が壊れてもどうなってもやってやるよ」という「気持ち」になる。しかし、いくら論理性に従っていたとしても、その「気持ち」の底には「本当は自然性本来の姿に戻りたい」という気持ちがあるのである。つまり、「本能性」は「論理性」とは本来的に別のものなのである。両者は常に一線を画しているのである。決して両者が一つになることは無い。これは、まるでDNAの2重螺旋のようなイメージであろう。従って、どのような「ひねくれた状況」が自分にあっても、「実はその論理性と本能性は別なのだ」という識別ができれば、事態は楽になる。そうすれば、「徹底的に従ってやろうじゃないか」というひねた気持ちは消滅する。これは、取りも直さず、自分自身の開放である。なぜなら、ひねくれた気持ちというのは、「本能性」が自らの本能性に戻れないでいることによる認識の病気なのだから。以上のように考えております。(1996.06.25)





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