イジメをする人は止めるべきである。しかし、私には今、直ちに何をどうすることも出来ません。それで、自分で自分を追いつめ(られ)ることのないような方法を述べてみたいと思います。

いじめにあっている君へ

 人は「表層的な自分」と「深層的な自分」があります。ハッキリと分けられるような分類ではなく、言葉で理解する為の分類です。「表層的な自分」は、感覚器官で物を見たり聞いたりして、考えたり悩んだりする社会的な自分です。「深層的な自分」は、食べ物を消化してくれたり、眠っているときや死後に肉体から離れても活動できる自分です。
 イジメられて精神的に苦しいのは主に「表層的な自分」です。心のエネルギーがぶつかり合って葛藤するからです。「表層的な自分」が苦しくても、食べ物は消化され、足や腕を動かせるし、物を見たり聞いたり出来ます。それを維持する「深層的な自分」に「逃げ込む」のです。そうすれば、少しは苦しさが薄くなります。それは、どうすればいいでしょうか?
 それは、覚醒意識を持とうと自覚することです。難しいなら、簡単な方法があります。いつも自分がすることを自覚すればいいのです。それは「今、自分は〜している」と思うようにしてみて下さい。例えば、「今、自分は歩いている」とか「今、自分は食事をしている」とか、思ってみて下さい。イジメられている時には痛いでしょうが、逃げられない状況の中、「今、自分はここに存在している」と思ってみて下さい。精神的には少しは楽になれる筈だと思います。それは、「深層的な自分」から少しエネルギーをもらえるからです。そうなれば、自分で自分を破壊してしまうような「絶望」や「ねじれ」の心に入らなくなると思います。(200611100237)

 「密室いじめ」にしても、家庭内暴力にしても、児童虐待にしても、見つけるのが困難だし、当事者の心がしっかりしてくれないと、社会システム側からのアプローチにも限界がありますね。

 それから、犯罪被害者についてちょっと思うことは、彼ら被害者には当然与えられるべき権利(例えば、知る権利)が与えられず不十分なままだったりしています。突然に降って湧いた災難と、制度上の不自由と、金銭上その他のバックアップの不十分さ(世間の冷たさ等)による何重苦にあえいでいるのです。
 一方、芸能人も上のクラスになると、人をあごでこき使ったり【この前、島田紳助さんだけが氷山の一角として世間からバッシングされましたが】、お金も使い放題だし、ファンからはプレゼントが山のように届くし、近寄ってくる異性のファンの中で気に入った人がいれば、すぐにやらせてくれるしで、天と地ほどの差異がここにあるわけです。
 それで思ったのは、犯罪被害者の人たちは、彼ら上のクラスの芸能人と「自由に交流できるパスポート=権利」を付与すれば、少しは被害者の皆さんだって、少なくとも日々の気持ちの上では、浮世に浮かれていられる時間を楽しめるのではないかと思ったわけです。どうですか?>芸能界の皆さんへ (200501312320)

 2004.04.13(火)の「ニュース23」の多事争論の動画を載せたのですが、15日(木)の筑紫氏の様子が拒否的な感じでしたので、「おや?」と思い、多事争論の動画は削除することにしました。
 多事争論の論点は、イラクで人質になった3邦人の家族に対するバッシングが酷いのだが、そういう人たちは、この3邦人達のような有意義なことをしているのだろうか、という内容と思いました。この動画の箇所に私は次のようなコメントをタイプしました。

 この日の多事争論。人質になった3人の家族へ嫌がらせの手紙や電話やメールが相次いでいるそうです。
 私は思うのですが、論理としての「自業自得」という側面も確かにあるが、それはただ単に1回だけ冷静に淡々と伝えればそれで良い。そこに怒りや他の感情を込める必要は無い。なぜ込めるのか? 自分以外の人間にが向けられると「異常に嫉妬する」人間って、日本人にはかなり多い気がします。その種の精神的な傷を幼少期に抱えさせてしまう日本人の親がとても多いのだと結論して良いと思います。ひとでなし国家にならないためには、もっと政治家を褒める国民の行為と、心理的なフォローが出来ないような母親を生まないような教育が必要でしょうね。「政治家を褒める」と言いましたのは、私自身、以前、スブドという会でボランティアで事務をやってましたが、情報が集まる立場にいると、「文句ばかり浴びせられる」事を経験したからです。この種の心理的な偏りも是正の方向性が必要ではないか?(200404150025)
 私の上記コメント(?)の何が問題だったのかは確定できませんが、可能性としては、『「異常に嫉妬する」人間って、日本人にはかなり多い気がします』の部分が反響してしまったのかも知れないと思います。つまり、バッシングする人々の心理的な動因(と私が仮定したもの:こんな補足はもう言わなくていいと思う)についてです。それでハッキリさせなければならないのは、今回の問題のポイントは、嫉妬するとか、しないとかいう事ではありません。『被害者を責めるという非人間性』がポイントです。バッシングする人々に着目していたのです。つまり、責める人たちにとって「被害者を責めないでいる」という一線を越えさせるような促しが幼児期の原初的な苦痛にあるのならば、その問題を解決しなければならないというのが私の論点です。これは被害者遺族になったかも知れない家族達を責める理不尽性を攻撃したものです。
 報道されたところからすると、「自己責任だったのだから、甘えるな」とか「問題を起こすな、迷惑だ」という(攻撃的)意見が多かったそうです。しかし、よく考えなければならないと思うのは、「社会問題」というのは、社会全体にとっては結果として良いものだという点があります。その問題が起こったからこそ、社会はセキュリティが高まって行くからです。「迷惑だ」と言う人々は、その社会を管理する側にいる人々ですね。管理者達にとっては、確かに「問題はなるべく起こらないほうが良い」訳です。しかし、社会全体にとっては、次々と「社会問題」が起こったほうが、社会(システム)が改善されて行くのであるから、良いことになります。そういう「社会を管理・改良する仕事」をするのが管理者ではなかったんですか?
 ただ、「個人的な問題」については、これは社会の側からはあまり防ぎようがなく、個人の性格に立脚して絶えず問題が社会の中に発生するような時は、これは「迷惑」に該当するでしょう(ただ、「俺がもらった賄賂をチクルような奴は迷惑だ」という類の逆転した「迷惑」の意味は排除した上で、です。)。なぜなら、いくらその問題に対応しても、社会のシステムが万全でも、個人の性質なので何度も繰り返される傾向があるだろうからです。社会問題とはほとんど無関係のものです。
 では、今回の3邦人の人質事件は個人の性癖問題なのだろうか? 性癖ではない。性癖があってもなくても、いつかは起こる可能性があった「社会問題」です。問題は社会の側にあります。すなわち、アメリカの不当な圧力がイラクの「民衆に」かかって来たことに起因する不満だから。故に、そういう社会問題を解決へ向かわせるように国際協調が必要という方向付けになって行きます。従って、焦点となった3邦人を批判するのは間違っている。増してや、被害者になろうかという人々を責めるのだから、余計に間違っている。

 それから、動画を載せる事で私は筑紫氏と連帯するとかそういう意識ではなく、それを他の人が主張しても「目的が同じだから」という点で内容がメインの意識です。また、私はその家族や特定の誰かの為に何かをしている意識でもありません。社会の中に「非人間性=被害者を責める発想・発言・行為」という勢力が、かなり溢れているというのが私の問題の焦点です。その「非人間性」を、それが誰であろうと、どうしたら減らせるのか、というのが今回の私の発言でした。(200404161839)

 氏家恵子容疑者がその長女の萌ちゃんに熱湯をかけたりして多臓器不全で亡くなった事について逮捕されましたが、テレビで出てきた「近所の人」が虐待している時の音や声など聞いているのを述べてましたが、警察に通報したとは言え、私には理解できないのが「何故、即座に怒鳴り込まないのか」という事です。私だったら間違いなくそいつの家に乗り込んで暴力両親を脅迫し、虐待されてた娘を連れ出すけどなぁ。法律なんかカンケーネーだろ。法律があるから、正しい行動が阻害されるという点があるよね。「近所の人」はそれでも「虐待しているらしき音が聞こえた」点について質問したら、恵子容疑者は「そんなことはない」と答えたそうだけど、その時に「あんたの魂を懸けて神に誓って虐待してないと言えるか?」と何故聞かないのかなぁ。今の日本は「我関せず国家」になってる気がする。どこか精神がイカレテルと思う。「弱者放置」だからイカレてる。(200110052314)

 下記に「被害者と加害者を“和解”させようという発想は間違いである」と述べてますが、これは個人と個人の関係の感覚ですね。戦争みたくなると、社会と社会の関係になって来るから、組織的な動きが必要になって来るのも必然的ではありましょう。やはり戦争「当事者」達にはねんごろに手厚い待遇で酬いてあげるというのは、そうしないよりはいいと思います。(200010070407)

 10/05(木)の「ニュース23」で母子殺害事件の被害者遺族の本村さんが述べてましたが、事件の加害者が少年であるかどうかという側面だけで、被害者までが「全く別の扱いを受ける」そうです。加害者側が「少年」であるというだけで、被害者側には情報が何も知らされないという状況がまだまだあるそうです。番組では、加害者と被害者を対面させる組織を取材してました。そこで私は、ちょっとよろしくないなと思う光景を目にしました。その組織の担当者が被害者の方に対して、「加害者がどのような心理状況にあるか」が説明されてました。加害者の心理・立場が尊重されてしまい、被害者は「理解しろ」ってなもんですね。こういうのは良くないなと思います。「不足」しているのは被害者であって、余裕を無くしてるのは被害者です。確かに、加害者の心理「事実」を一応は知っておいてもいいでしょうが、問題に感じたのは、その担当者が「被害者に、加害者がなぜ対面できないのか」みたいな説明を行って被害者にそれを「聞かせて」いた事です。加害者にそのような人権を認めていいのかと私は思う。加害者には、有無を言わさず、被害者への強制的な謝罪の印として指を1本切るとかそういうことを法律で決めたらいいと思うけど(まあ、決まらないでしょうけど)。ならば、会って謝罪させるとか被害者からの罵倒を5時間位傾聴させるとかの行為を強制的にさせる事など、何ともないだろ。別に指を切断する訳じゃないんだから。死ぬ訳じゃないし。本村氏も述べてましたが、「被害者と加害者を“和解”させようという発想は間違いである」。このような種類の組織は、心理的な側面に立ち入ることについて消極的であるべきだと思う。単に物理的に被害者と加害者を対面させる場とか、その種の物理的な側面だけに限るべきでしょう。(200010060355)

 10/03(火)の「ニュース23」で報道してましたが、少年法の改正によって処罰の対象年齢が16才から14才になったそうです。私は結構、賛成です。同時に番組でも述べてましたが、犯罪を犯すまでの過程(教育)と犯罪を犯した後のケア(AMITYなど)が社会的に求められていると思います。教育は既に改革に入ってます。犯罪後のケアはAMITYなど研究してはどうでしょうか。(200010040409)

 7/12(水)の「ニュース23」で報道してましたが、アメリカの場合、幼児虐待に対して、複数の組織(警察、児童相談所、保健所、病院、カウンセラー、子供専任の弁護士等)が一箇所に集まって有機的にまとまった仕事をしている様子が報道されてました。アメリカは20年かけてこのようなシステムになったのだそうです。日本でも、公共土木事業をほんのちょっと減らすだけで実現できるようです。日本の問題は、幼児虐待に対して、施設も少ないし、児童福祉司も足りな過ぎるそうです。現在の日本の児童相談所は全く対応し切れてないのが現状だそうです。もっと「職業紹介」に対する規制を緩めてやれば(必要なものは必要ですが)リストラされた人達に仕事を与えられるのではないでしょうか。(200007130517)

 その父親や母親も暴力息子になってしまうまでの間、心理的に立ち入った話をせずに、そういう側面を無意識的に「避けてきた」のかも知れませんね。これは戦後、宗教というものが避けられてきた傾向と通じる所があるのかも。私は、宗教というものがある時に、その中に入って、内部からその教団の誤りを正そうとするところがあります。なぜ人は宗教を避ける「だけ」なのだろうか。基本的には、自分の精神的・心理的な事をずっと避けてきたのでしょうね。放置したり忘却したりという手段を採る人がいる、という事を意味するのでしょうね。多分、面倒なのでしょうかね。でも、逆転してるんじゃないでしょうか。私の感性では、「精神的・心理的な探求=興味あることで、人との関係=面倒なこと」ですけど、多分、ほとんど(?)の人は逆なのかも。それで宗教とかが避けられ(教団内部の信者だって、ある程度以上の追及に対しては思考停止で回答するよね)るどころか、心理的な話はご法度という不文律が日本の社会にあったのかも知れません。でも、人の自然な傾向としては、精神的な事柄に引かれると私は思います。ところが、家族内ではそういう話はご法度なので、若い人はオウムなどに集まるようになったのかも。オウム事件が起こる前までの新興宗教の活発さは日本の社会の一種の不満・不足感の、はけ口だったのかも? なぜなら、真に徹底した宗教人間と言える人は私の経験では、一つの教団に1%程度しかいないからです(つまり、ほとんどの信者の目的は「社会参加」などです)。つまり、ほとんど全員の人は、「単に信じ」、会員や信者としての社会参加・恩典を期待しているだけなのですね。つまり、ふらふらしてる訳です。故に、「なんとなく」精神的な事柄に引かれて入ったのではないかと思います。
 ただ、真にまじめな1%の人もいて、このような各教団のまじめな1%の人たちが集まったら、グルジェフやブラバツキーやシュタイナーが一堂に会したようなもので、宗教もそこでは明らかに統一されるでしょうね。結局、教義ではなく、人ですね。宗教は、このような人が多くなった時代には意味を無くすのでしょうね。この種の人たちならば、教義が間違っていればすぐに気づくでしょうし、それは間違いだと断言してしまうでしょう。なぜなら、真にまじめな人たちにとっては、[教祖<真理]だからです。(200006141400)

 一昨日に続いて今日も、家庭内暴力息子を父親が殺害するというニュースがありました。その父親も自殺してしまいました。私は心情的に、いつも父親の味方のところがあります。思うのですが、一度、二度と家庭内暴力が起き始めたら、もうその時点で親子の縁を切った行動をすべきでしょう。直ちに警察へ届けるべきだと思います。警察が取り扱ってくれなかったら、適当なテレビ局に連絡して「**県警は家庭内暴力問題を避けている」と訴えればいいんじゃないでしょうか。
 いつも思うのですが、なぜ、「こういう問題」を避けようとする人が多いのだろう? 私だったら、むしろ、大変に興味を持つ事柄なのになぁ。私が警察の担当者だとして、連れてこられた息子が父親を「ジロッ」と睨んだとしたら、私はすかさず「今の父親へ向けた目つきの“意味”は何だったのか?」と聞くのになぁ。どんどんどこまでも追求するけどなぁ。「避ける」という心情とはどういう心情なのだろう。多分、「問題を避ける」という心情なのだろうね。なぜ「興味が持てない」のかな? そういう人間が輩出するような教育が知らず知らずになされている可能性がありますね。なぜ人は潜在意識・無意識に関わる事柄を「避ける」のかなぁ。これは「自分を避けている」のに等しいですよね。でも、こういう人は人間関係・外的関係を求めるよね。どうも私(と)は逆だなぁ。私は人間関係は避けても自分は避けないなぁ。私のようなタイプのほうが普通だと思うけどなぁ。だって、自分(真実)を避けていながら、人との関係性だけで生きてるなんて、中身の無い生活じゃないでしょうか?と、私は思う。もちろん、どちらかだけが真実と言ってるのではなくて、人生には両方ありますよ。(と、当たり前ですが、補足しておこう)(200006130410)

 今日(10/23)のテレビ朝日の23:30〜00:40の「ザ・スクープ」で和歌山県和歌山市小倉地区にある小倉小学校の子の親がいじめの実際をありのままにホームページ(校長先生お願いです)で公開している事を報道してましたが、ちょっと(飽く迄、ちょっとだけですが)偏向を感じました。というのは、番組のナレーションでは、まるで闇の部分を表面化する事が悪いみたいな言い方でしたが、それは問題ではないと思います。問題なのは、闇の部分を避けて通ったり、隠れたりし、「事実から逃げる」事ではないでしょうか? 問題(いじめ)は発生したのであり、従って、それを表面化させることは全く正しい事だと思います。人間は、言論という方法では大いに戦うべきだと思います。この父親が公開しているのは、飽くまで事実という感じを私は受けます。それから、このホームページ公開によってまるで町が静まり返っているかのようなナレーションもありましたが、町の人がこの問題に触れ(られ)ないというスタンスは、当然と言えば当然なのであって、事実関係に関して詳しく知ろうはずがないから、であるのは分かり切ってはいませんか? そう思います。第一の、そして最大の問題は、「いじめ」だと思います。それに関わる「事実」を公開されて勝手に困ってくれちゃっても、そもそも、最初にいじめられた、いじめられ続けている側のほうが数段も困っているのですから。

 私の主観では、この子の父親と同じ気持ちです。早く文部省がいじめ対策に本腰を入れてほしいという気持ちです。多分、本腰を入れられないのは、文部省の中にいる人々は筋の通った人がいないからだと予想します。文部省も嘘付き人間が、うじゃうじゃいるのだろうか。

 同番組ではネット上で増えてきた犯罪について特集してました。私の思うに、誹謗とか中傷とかいう事で括って勝手に問題視するのではなくて、「事実か/嘘か」で括って問題視すべきではないかと思います。ネットワーク環境の中では、全て事実・事実・事実の羅列であればそれほど問題は出ないんじゃないでしょうか。それを誹謗とか中傷とか勝手に言うような人は、そのような事実を作った自分に原因・責任があることに気付くべきではないでしょうか。そのように社会的に問われるような事をした自分に原因が帰されるのは当然だと思います。情報公開そのものは、人間の性器ではなく、顔の側面(社会的側面)についてならば、いくら公開しても構わないと思います。もし公開されて勝手に困るような事実ならば、そのような事実を作った本人に責任がある。公開そのものはどんどんするべきだと私は思います。(199910240346)


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