人は、(情)の源を、人というよりも神からであるという認識を持つことだと考えています。若いときに尊敬する人が出来るのはそれは自然な事でありますが(「尊敬」という点では、私もグルジェフ氏を尊敬しています)、やはり、神がの源です。そういう認識を持つ事によって「極度の依存」【新興宗教会社の財政基盤ですね】という精神状況は生じ難くなるものだと思いますし。とは言っても、一時的には、例えば自分の重病を治してくれたお医者さんが神様のように見える事を否定するものではありませんよ。「教主様は神様です」←こういうガチガチの「教え・規律」のような思想優先の受け取り方/受け取らせ方には気をつけるべきだと考えます。(200304100030)

 前回、「言論は魂を賭けた行為」と言いましたが、私がそう決めた事ではなく、元々そこにあると信じられる事を言葉にしているだけです。大方、「結果責任」ではなく、「原因責任」だと思います。人は間違う存在なので、結果ミスはあり得る訳です。そういう結果に対して神からの責任は問われないと思う。間違う存在を創ったのは神だから。死後の霊界でどのような行為が問われるのかは、一つは明らかだと思います。つまり、動機に於いて犯す罪です。すなわち、人を最初から騙そうとして騙すとか、保険金を掛けてからその人を殺す、という類の「意図的犯罪」はその一つだと思う。基本的に、神が裁くのであるから、何も断言調で言えるものでもありませんが、そのような類推が出来ると思います。
 言論を行う人は、私が何も言わなくても、死後に、「意図して・知りながら善なる可能性を狭めて来た行為・発言」などについて責められるのは当然だと思います。シュタイナーもその旨述べています。私が知りながら言わないでいるよりは、その種の厳しい側面について述べたほうが良いと思います。私が述べても/述べなくても裁きは行われる筈なのですから。だから私の発言は「注意喚起」の領域にあります。特に私個人が意図したものは、「偽宗教」の教祖みたいな立場の人々に対して「言論とは真剣なもの」と迫ったものです。(200204112343)

 最近の発言(12)で、私は「魂づいて」ますが、多分若い人(々)なのでしょう、それによるらしき葛藤の念を感じるので、一応述べておきたく思いました。

 私は「罪」という言葉を使ってますが、それは私に対してだから罪になるという意味合いではありません。人が自身の「深い心の善良さ」に反する行い・発言をすると、それは罪だと言えると思います(例:人の恋や結婚妨害を意図する事)。それは私個人とは関係が無い訳です。一種の法則のようなものですから。私はこんなふうに言葉にして言いましたから、目に見えない世界=心の領域で起こっている事を(再)認知されたと思います。ところが、現代では、例えば嘘を付く事が「無自覚に、普通に」行われています。それが例えば言論の領域を考えてみれば、現代では自分の言論の中に嘘が混ざっていたりする場合が多いのではないかと予想します。しかし、その不可視の領域を言葉にしてみれば、「言論とは、自らの魂を賭けた行為である。嘘などつけない真剣勝負である。魂を賭ける事の出来ない者は言論を行ってはならない」という内容になりますよね。このような表現に対して葛藤すると思います。しかし、よく考えてみてね。それは私個人が決めたものではありません。元からそうなのです。つまり、神が決めた、とも言えます。人々は、目に見えない、不可視の領域、心の領域に関して、どれほど軽く、いい加減に考え、扱っているか、という心的態度が現代では蔓延まんえんしているのです。そろそろ、そういう心的態度・流行も底を打ったのではないか? だから、社会の中には、目に見えない領域について厳しい表現を行う人がいてもいい、いや、そういう必要性もあろうかと考える訳です。最近、そのように言葉にすることによって、人が死後になって初めて自分の行いが自分の眼前に明らかにされる懲罰の日の厳しさの一端が垣間かいま見えると推察します。つまり、私が「魂」と言った言葉は、この世の人々にとっては厳しく葛藤を引き起こすものであったかも知れませんが、人の霊的な側面に対しては、道を変更して自分の為になる一つの機会となり得たかもしれないものだと考えます。果たして私はこれらの発言をしなかったほうが良かったか? 真実は、大抵の場合は述べるほうが良いと私は考えています。
 ただ、これもケースバイケースですね。例えば政治家は相反する2つの勢力の間に立っていたりするのですから、理想と金銭、A勢力とB勢力等のような反対の考慮が必要であろうし、嘘もつかなければならないというごうのものだとは思います。その種の領域を責めても(多分、大方は)変更できないのだろうから仕方がないし。(200204102056)

 一つハッキリさせたいと思うことがありました。「法則」と「価値観」の領域を分けて認識していただきたいということです。説明は不要だとは思うのですが、記述しておこうと思います。

 物質的法則ならば理解され易いと思います。磁石のNとSは引き合い、同極は反発し合います。そういう磁力によってモーターが回転します。法則です。精神的な法則はどうでしょうか。人の精神は動き回るもので、安定を求めますが、動き回る事も止める事はできません。法則です。また、それ故に、人の精神は安定点を求めます。これも法則です。しかし、安定の求め方は人によって違います。Aさんは心の安定として絵画や映画や音楽や盆栽で満足かも知れません。しかし、万物が必ず崩壊し、消滅して行くべき事が定まっているのを見て心が安定しないので、執着を離れようという風に、徹底的に理を詰めるお釈迦様のような人もいます。このように、人によって違って来るのが「価値観」ですね。

 人の心は絶対なるものを求めます。法則です。それを求めるように出来てます。法則です。神は人にとって必要です。半分、法則です。徹底的な人にとってみれば、神を信じる上でも、理の上でも絶対であることが必要です。価値観です。その他の人にとっては、絵と音楽と映画と盆栽があれば心の安定に足りるかも知れません。価値観です。「法則」と「価値観」の区別が必要という主張でした。(200112282342)

 12/14(金)の「ミュージック・ステーション」のタモリさんが御自分は仏教徒と強く主張されてました。また、12/18(火)の「ニュース・ステーション」の久米宏さんも同様に、浄土真宗であると強く主張されてました。何か私の言葉の至らない所が何か出てきているような気もします。多分、問題が発生しているのは、個別的な何か(宗教法人、または組織)との連関ではないかと予想するも、未だ推定できていません。確かに、日本では仏教が根付いた宗教だと思います。仏教を深く研究するだけでもとても多くの発見が誰にでもあると思いますよ。勿論の事を言ってるだけです。また、イエス様ほどを顕現された方はいないよね。ダヨネ。キリスト教文化圏の中で多くのの煌きが歴史の中に記録されて来ましたね。しかし、それはまた、正しくて情深い人々が迫害を受けるというこの世の暗黒面の歴史ですね。これはあってはならない。そこで神は迫害した者達にゲヘナが約束される事を説き、被害者達の心の拠り所とし、真実をどこまでも実行するように命令したと私は思いますがね。ただ、どこまでも実行するイスラムは、(周囲との)和を重んじる日本の文化には馴染まないのかもね。反面、談合とか身内とか村社会というダンゴ意識は日本人の弱点でもありますが、何事も半分に考えればいいとは思いませんか? つまり、真実を実行し、述べる種類の人が半分いて、「仲良し意識」の人が半分というふうに。勿論、本当の和の意識の人と、ダンゴ型の意識の人も半分ずつと考えるといいのでは? 
 何かの問題を感じた方が「自分は仏教」と主張をされたのだと思います。問題点がハッキリすれば(^^;対処できると思います。(200112200055)

 下記で私が「一神教」という言葉を使ったために、またまたあらぬ方向へ行ってしまったように思います。私はあまり集団とか組織の側面に敏感ではありません。組織の中にいても、それが仕事でなければ、自由に振舞います。一神教という言葉を使ったために、それが組織的な側面を意識させてしまったかも知れませんが、私の意図したのは、単に実相・真実という意味合いで一神教と簡単に言ってました。日本人全員がキリスト教やイスラムに改宗せよという組織的な意味合いでは全くありません。要は、例えば「人はやじろべえである」とか「中心のバランスポイントはゼロであるが、単なるゼロではなくがあるので、神である」とか、真実を人が知るべきだというものでした。(200112152104)

 でも、日本が「多神教」的な国というのは、一神教への(恐怖等により)対抗の意味合いだけで持ち出してると思います。というのは、「実際のところは」日本は無神論的であり、仏教的とも言えますが、基本は科学主義でしょう。臨死体験で「体外に居た」と言ってるのにそれを脳内現象で納得しようとする国です。シュタイナー的に言えば、アーリマン型(唯物主義型)の社会ではないかと思います。一方、アメリカ・アラブ・ヨーロッパなどはルシフェル型(精神主義型)の社会ではないかと思います。

 [一神教、多神教]、[無神論(唯物教)]と分ければ、日本人は唯物教であり、神を意識するのは、何か危機に瀕したりした時とか、御利益を得ようとする時だけだと思います。日本人の表層意識では神がいないのであり、自分だけがいるのであると思います。ただ、無神論の日本人も、死に瀕したり、いざ自分を超えた現象に直面するとなると神へ想いが向きます。
 一方、神が居るのが[一神教と多神教]だと思います。しかし、多分、多神教は、過去の人間が神格化されたり、あるいは異次元存在とコンタクトした後の伝承とかの類もあるだろうし、あるいは全く存在しないが、名前だけの神だったりすると私は思います。アフリカなど、土着の神々は沢山いるというのが人間社会の始めの姿でしょう。何か統合的な立場で最初から「多神教」だったのではないと思います。しかし、一神教は唯一全能の絶対神へ人が向かうというものであり、それはリアリティーを外れない、いわば科学的な宗教だと思います。一神教の主張では「人には目が二つあり、耳が二つあるが、口は一つである」と言ってるのですが、周囲の人々は「必ずしもそう考えなくて良い」と反論し始める。神と言っても、自分「以外」の何かではなく、自分の中心に居座っているのにね。

 なぜ日本人は一神教を恐怖するのだろう? 一神教は「善と悪の立て分け」を促進するのだと、まるで、善悪を区別しないほうが良いと言ってるかのようである。区別は必要です。区別した後の行動は人によるでしょうが。きっと、その勢力とか社会的な力の大きさの点「だけ」見てるのだと思います。日本人にとっては「神がいない(=自分だけがいる)」のであるから。決して「多神教」ではないと思います。多神教の故にではなく、自己利益の故に、都合/不都合が、神(真実)より大切なのであると思います。それで、一神教に対抗し、「利益を守るために」多神教を持ち出すのだと思います。普段は忘れている多神教を。

 「色々な価値観や考え方があったほうが社会としては健全」だとは思います。しかし、それは「多神教」とは違うと思います。日本人は神中心の思考ではなく、自分中心の思考ですね。だから、多神教でさえない。ここから考えると、昨日の多事争論の主な論点は何らかの利益を守る為に一神教を否定する発言だったのではないかと思いました。神が自分以外の何かというイメージがあるのがその原因ではないかと思いました。自分の中心に居座っているのにね。
 歴史的に見ても、本当の事を言う人が社会から弾圧されてばかりなのを考慮すると、これは宗教由来というよりも、人間の(植物性[利己心]由来の)性質だと思います。現代では、単に疎外されるだけなので、楽しくない事もない(^^;。(200112122310)

 2001.12.11(火)の「ニュース23」の多事争論で筑紫哲哉さんが日本は多神教的風土なので、そのように考えるという個人的表明がありました。これはむしろ、社会参加型の態度表明という種類の御発言だと思いました。多分、そのように考える人が多いのだろうと思います。この場合、人を2つに大別すると、「社会参加型」と「原理主義型」になると思います。

 多分、「社会参加型」の人は、神とか宗教を「組織」「人の集団」と捉えており、神については、「社会的」に扱うと思います。
「原理主義型」の人は、神を神として捉えた時に、それを(言葉を選びますと)「科学的」に扱おうとすると思います。

 私個人としては、人として出来る範囲の中で、原理的・科学的に、神を神としてどのように捉え(始め)ているかを述べておりますが、それを社会へと押し付けるという「やり方」は基本的にしませんし、私個人が個人として出来るのは、情報の「質」の側面であり、それを大量に述べ伝えるみたいな「量」の側面で(比較的に)何も出来ないと言えると思います。
 でも、ニュース番組の面白い部分は、やっぱり番組毎の特集とかコーナーですね。(200112120126)

 私個人に興味を向けて下さるのは結構な事だと思うのですが、それに関する神の御意志は何なのかと、神へ目を向けることが大切だと思います。これは、何についてもそうではないでしょうか。人はそれぞれの価値観で行動すると思います。ある人にとって善でも、他の人にとっては悪である場合というのも往々にしてあります。例えば、「復讐」という行為は、一般的には「悪」であると認識する人がかなりの割合だと予想しますが、私個人にとっては、善だと感じるのです。そして、そのような行為を大勢の人に見せることで、そのような事をする人間と、種をまいた人間を嫌ってもらおうと意図することがあります(意図的反面教師)。以前は、嫌われる為に行動していたようなものでした。でも、今は状況が違うので、このやり方は、人々の認識が進まないと危険がありましょうから、慎んだほうが良いでしょうが、肝心な所では、私は復讐する人です。

 ここで「復讐」という事柄に触れましたので、人の命に関わるような場合を想定して以下に言って置きますが、戦争などになり、その復讐の為に人を殺さねばならない場合は、これは命というものなので、神の権限・テリトリーだからこそ、それを侵さないようにすべきでしょう。イスラムでは、「最後の審判の日」が約束されており、神御自身の審判により、罪人と判定された者は、永遠の業火に投げ込まれるそうで、この時に地獄が造られるのだそうですよ。だから、神のテリトリー故に復讐のできない人は、神への篤い信仰を以って、希望を繋ぐという方向になるかと思います。つらいところでしょうが。コーランでは、神は「戦え」とおっしゃいますが、これは時代的・環境的な要因ではないかと思います。戦わないと生きて行けなかった時代だからこそ、神は人間に戦う事を命じた(許した)のだと思います。でも、今は戦わなくても…。だから、わざわざ戦わなくても、神が約束された最後の審判の日を希望を以って迎えられるように、神を信頼していましょう。(199709070310)

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