つい先日、2012.07.12(木)に気づいたのは「傲慢の(範囲の)定義」です。私も、わざわざ「傲慢の範囲を定義しよう」などという目的意識はなかったのですが、「同じ精神的能力が、傲慢となったり、善悪のしっかりした区別となったりする」側面に注意が向いたわけです。

 人を覚醒意識へ導くものを「善」、覚醒意識から遠ざけるものを「悪」と言います。善悪は人間存在から出てくる必然です。人間のサガであり、そのように創られている(からしょうがない)のです。そのような善悪は誰でも共通のもので、普遍的なものです。丁度、誰でも目は2つあり、腕は2本あり、といった具合に共通なのです(以前、社会と個人の関わりの「プロセスの側面」について述べました)。このような普遍的善悪の分別・認識・区別に力を注ぐのは、自分が人間であることに協力・共鳴する(放棄しない)ということで、神に従うということです。普遍的善悪をしっかり分別することは傲慢とは違います。

 一方、自分だけの善悪を作り出し、心中密かに運用するもしないも、それを周囲に強要するもしないも、それは傲慢と呼ばれ得ます。例えば、典型的なのは、周囲・社会から持ち上げられる環境にいることで、本人もそのように思い込み易いタイプの人々=芸能・有名人があります。本人の中でそれが「良いこと」だったのかも知れませんが、もし、例えば、(立場の・精神の・身体の・etc)弱い人に対して「上に立つ」だけならまだ小さな傲慢でも、「攻撃・非難」までする/したのであれば、それは大きな傲慢と言えますね。本人は自分だけの善悪=決めつけに基づいて発言・行動しており、それは「(人間のサガである)普遍的な善悪」の領域から大分ずれているのです。このズレが「傲慢」と顕われ・呼ばれ得ます。(201207142146)



 若い人は何の疑いもなく「人との関係性」として善悪観念を持つのが一般的だろうと思います。大人の言動などを見てその言葉の端々はしばしに「謙虚さの発想=言葉が足りない!」と鋭く突くかも知れません(→阿修羅発言 (200612220039))。そういう関係性を守ろうとするのは大変に良いことではありますが、関係性という側面は、実は中心的な位置を占められないのです。大人と呼ばれる人々は一般的に、時間を経て経験を経ているという必然性があって、例えば、同じドラマを1万回くらい見るとしまょう。すると(多分)それ以上に見ようとすると気分が悪くなり、吐き気すら催します。それは例えば、ある大人にとっては「〜させて頂きます」という言葉遣いだったりするでしょう。そういう言葉を仕事とはいえ、何か強制されたりした記憶や、あるいは、人が形だけ「〜させて頂きます」と言いながら腹の中ではドス黒いものが渦巻いているのを感じて仕方がなかった記憶やらが潜在意識から溢れ出てくるようになってしまったような「大人」なら、なおさらそうです。「〜させて頂きます」という言葉使いが気持ち悪くて出来ない大人もいるでしょう。このように、人というものは色々な事がありそうだと思いませんか? つまり、そうやって苦しみから「関係性を離脱してゆく精神」があるのです。だからその人は関係性をやや離れ始めているのです。他者に気を使わないとしても、それは「社会性の側面」であって、二義的なものです。中心であり、第一義的に大切なのは、本人自身が自由になりつつある点ですね。言葉や概念の端々に謙虚さを表現しなければならないとしたら、それを守るスタンスの人の周囲の人々は、人の言葉に依存し立脚した精神構造を保護してしまうか、あるいは作り出すかも知れませんね。人は周囲世界に精神的に「依存し過ぎる」のは不幸です。「謙虚さが足りない!」というあなたの発想は、人類を不幸にするベクトルも持っている事を、まずは「知る」事から始めて下さい【←このように「上に立ったような言い方」を普通に出来るのは、善意から述べているからであり、上に立つかどうかを考慮・意図していないからです。信じられないでしょうが、そういうことを意図してない訳です】。考え方のアンバランスに気づいて、「断定しないで結論を早急に出さないでいる」という事が「真実を追究するため」には必要な事ですね。人間関係上では損する(自分がサゲ)ことも、得する(自分がアゲ)こともあるでしょうが、「自分がサゲになる」時でも真実追求を優先できるなら、「〜〜〜どちらでもよい〜〜〜」というバランスのとれた可能性のある立場・位置を確保できた事になりましょう。

この文章は[若い人へ]と同時にタイプしたものです。(200612190320)


 最近、性格の悪い人を指して傲慢だと言う時の定義についてちょっと思うのですが、傲慢さにもやはり、本質と形の両極がある。
 形だけ傲慢な人は、何らかの理由によってその形を採っている訳で、心の底は違うという人がいる訳です。しかし、本当に傲慢な人は、表面上、形だけは謙遜を取り繕っておきながら、裏では人の可能性を握りつぶすような判断・発言・行動を簡単・率先して実行するような人間が沢山いるように思います。このような裏表人間は沢山いるような気がするなぁ。まあ、最悪のパターンは、本質も傲慢で、表現も傲慢なタイプでしょうかね。(200501030639)

 7/27(土)の「世界不思議発見」を見てて、常々今まで私が感じていた「圧迫感」の意味内容が分かったように思いました。黒柳徹子さんを見ていた時に、「裏で私の事を人々が“謙虚ではない”と言っている」意味内容に気づきました。ここ何年か「圧迫感」が続いていたので、「なんだろう」と思っていたのが判明したように思います。それで述べようと思います。私の感性では、以下のような分類が出来ます。

・傲慢さ:「勝手に」何かをやってしまう態度(自分の欲求を守る)
 自分の欲求を実現するために、「利害(だけ)」が一致した者同士が「一見、同意して」集まって集団となり(=一見謙虚)、社会一般に対して「勝手に」何かをやってしまう場合もあります。=[結局、傲慢なのは、動機から傲慢だったから]
・謙虚さ:「同意の上で」何かを実現しようとする態度(手続きを守る)
 相手が利益指向で真実を隠そうとするので、自分の「理想」指向とは「一見、同意が成立しない」ような場合には、単独で(=一見、勝手で傲慢)真実を守って社会一般に対して「公開の上で」働きかける。=[結局、謙虚なのは、動機から謙虚だったから]

 これを簡単に一言で言ってしまえば、下記にも述べましたが、「勝手に」何かをやってしまう態度や、当該の善人との「同意無視で」何かを決めてしまう心の態度等に関して私は傲慢さを感じます、という表現になります。
 表面的な傲慢さ、例えば、1000万円もする時計をして見せびらかしたり等の例で考えれば、彼/彼女は周囲の人の同意・コンセンサスを無視(?)して「勝手に(?)」1000万円の時計をしていると「強く」見えてしまう人がいる訳です。そういう人にとっては時計男/女は傲慢に見える訳です。しかし、「嫉妬しない」性格の人の場合は、時計男/女を傲慢とも何とも思わない訳です。嫉妬しない人も大勢いる訳です。だから、この例は「表面的」傲慢さ、見え方です。傲慢さの中では、部分に過ぎません。つまり、[傲慢に見える人/傲慢に見えない人]に分かれるからです。
 しかし、心の中の「意図」として「勝手に何かをやってしまう」態度が普通だという人の場合、目には見えませんが、これは傲慢そのものと言えそうですね。

・私の感性としては:
 高価な品物で身を飾る人の例の場合は、その金銭的優位性のディスプレイに傲慢さを感じても、その人自身の中に尋常じんじょうではない劣等感があるために身を飾るのかなと思い、その自信の無さに一種の謙虚さを感じます。結局、傲慢にも謙虚にも思えます。
 また、平身低頭へいしんていとうして、見たところ謙虚でも、そのように「見せる」という意図性(まあ、確かに、相手へのサービスでもある訳ですが)において傲慢さを感じるし、結局、謙虚にも傲慢にも思えます。
 このように、大体の場合において、私には謙虚さとか傲慢さというのは見え方・考え方で中和し合っており、「どちらでもよい」あるいは「どちらにも見える」事なので、通常は意識に登らない側面です。謙虚さ、傲慢さという側面は、主に、その人の心の底の意図性に於いて私は判断すると思います。

 私は有利/不利に関わらず、情報を公開しながらやってます。人によっては「やり方が下手だ」とおっしゃられている事も分かってはおります。しかし、私の感性としては、何らかの必然性も無しに、情報を隠匿いんとくして「(社会的に)有利にしておく」というのは、社会参加する上でのエゴの行き過ぎを感じるのです。だから、そのような配慮を行わないでなるべく公開が原則なのです。ここで言いましたのは、私は傲慢ではないという主張です。私は当該の善人の裏で言論することは基本的に(時間的・空間的制約上の都合上、等を除いて)ありません。勝手に何かしてしまうという事も基本的に(緊急時や、あるいは、相手が真実を守るつもりがない、等を除き)ありません。何かやりたい事を先ずやってしまって、後からどうとでも説明すればいいと考える事もありません。どれ一つあてはまらない。私は今まで「勝手に」何をしたことがあると主張しているのでしょうか? 傲慢ではない人間を傲慢だと「裏で勝手に断定する」人々の「傲慢な主張」を何故、受け入れる人々がいるのでしょうか? 多分、ものを思考するにおいて怠惰なのでは? まあ、時代的に疲労感・倦怠けんたい感の時代であり、癒しを求める時代というのも背景にあるかも知れませんが。多分、「彼ら」は、某神霊の「ねずみを畏れよ・話」が私に当てはまらないように意図したのかも知れませんね。(200207311830)

 謙虚さとは、社会を落ち着いたものにする潤滑油のような働きがあると思います。霊性・精神性の点においても、人が自分の中心たる平安から遠く隔たらないという効用があると思います。謙虚さは社会の中に貫かせる時に、社会をまとめる(同意効果の促進)作用を発揮すると思います。謙虚さは社会を貫く「同意・同調」の原理(平安[=中心]を志向する原理)に近いですね。一方、傲慢さというのは、謙虚さの反対ですね。相手の同意無しに勝手に契約書を作成したり、預金を勝手に引き出したり、同意=情報公開の存在しない行為は全てが頭ごなしの態度ですね。傲慢さが、精神的になると、「人から承認されてない勝手な思い込み」を最初からあるものとして、前提として物事を判断し、行為するという精神的態度となったりしますね。(勿論、勝手に行動することで危機的状況が救われたりするような場合など、細かい事は色々あると思います)以前のテレビニュースでは、心理の専門の方が、この傾向を幼児的全能感という呼び方もしてましたね。

 6/19(火)の「ニュース・ステーション」で報道してましたが、最近はキレル人たちが電車内でも目立って来ているという報道でした。「もっと奥まで詰めて下さい」と言っただけでホームへ出た時に殴られて殺されてしまった事件がありました。この人は「勝手に」殺したのです。そこには同意のかけらも無かった(明らか)。つまり、(広義の)教育が傲慢な人々を作り上げて来た事を示していると思います。それは家族がコミュニケーションをせずに「同意という精神的態度を忘れていた」事が一つの大きな原因ではないかと思います。子供は「自由にさせてあげたい」というのは束縛されてきた世代が抱く一つの自然な傾向かも知れません。ただ、「社会の中では同意が基本」という、基幹的な部分まで忘れてしまっていたという非意図性の中から現代っ子達の傲慢さが育ってしまったのではないかと思います。そして彼らは勝手にキレ、勝手に行動しています。

 もう一つの要素として「恨み・ストレス」に近い精神的作用が働いていると思います。人は、「聖なるものが自分から“奪われた”」と感じ、信じるときに「恨み」を持つと思います。イスラエルとパレスチナの地域紛争は、「聖なる土地」をめぐってのものです。それは外的、物理的な対象であり、聖なるものはそれとは別個の周波数・次元にその本質があり、物理的な地域のものではないのです。もっと精神的に考えると、友情や情などを対象物として思考する人間がそれらを奪ったり邪魔したりしてます。そしてそれらを物理的には考えなかった善良な人々は被害を受け、奪われ、汚されたと感じるようになってしまいます。しかし、聖なるもの、生命というのは超越的なものであり、実は汚されてはいないのであり、イエズス様が復活によってその超越性を人々に示されました。でも、普通は人は物質的な側面と霊的な側面を分けて認識するという発想に至るだけでも大変です。それで普通は混同的に考えてしまい、被害を被ると感じるのですね(勿論、私を含めて)。[教育について]にも書きましたが、本当ならば、人は自分の精神の中心に「・平安」を見出すはずです。ところが、そういう中心性が見出せないので、外的な事柄によって本人が右に左に大きく振れるのですね。そうやって積もってきた「マグマ」が段々と噴出し易いストレスと化すのですね。その責任は一概に本人達だけにあるのではなく、ストレス社会を生み出した物質偏重傾向の中にもありそうです。キレルというのは、人が無意識の内に、自分の聖なる側面と感じる部分(潜在意識的に)を踏みにじられたと感じた時に起こるのですね。ここで「真に聖なる部分(神=0=∞)が冒される事はない」という認識を強く持つ事もアリかも知れません。

 社会の中で気分などだけで勝手に振舞う傾向(個人の傲慢の傾向)の人が多くなって来た為か、社会の平安の中心軸(同意・謙虚さ)が失われて来ているため、社会の中で、人の中心軸(聖性)を踏みにじる(かのごとくの)行為が増大してきた結果、「恨みに似たストレス」が(蓄積し易い)個々人の中に蓄積した為にキレ易くなっているのかも知れません。

・個人として安定するためには中心軸(・平安)がしっかりする必要があり、そのような教育(環境)などが必要。
・社会として安定するためには中心軸(同意)を互いに守るように万人が人として努力すべし。

 ということになりそうです。まあ、私個人は人が電車の床に座ろうと化粧しようと携帯をかけようと荷物を上げ下ろししようと、一向に迷惑だとは思わないけれど。(200106200054)

 最近、親を名前で呼んだりする子供が増えているそうですね。教師を教師とも思わない子供も沢山いるようです。これは、もう、彼ら「子供」が、そのような肉体性を越えた視点を持ちはじめているという時代の流れがあるのかも知れませんね。確かに、古き良き時代がありました。目下は目上に敬意を表し、社会的に整っていたのだと思います。しかし、現に今の状況があることを肯定的に私は考えたいと思います。

 つまり、もう子供たちは「大人たちの依存的な性格を喜ばせないぞ」と言っているのかもしれません。子供らしく振る舞って大人に認められても空しいと感じるようになっているのでしょう。故に、対等につきあって物を言い、彼らが知らない事は、「知らないのが当たり前」という視点で単に情報として伝達し(「教える」のではなく)、対等にしてゆくべき時代なのかも。それに合わせて子供でも責任を負うような法律の整備も必要かも知れません。(ちなみに、日テレの「ザ・ワイド」などでオウムに関連して「カルト法」の制定を前から主張されてますよ、議員の皆様)

 「プライド」の項目のところで、真に独立しようとする「真プライド」と、環境に執着する「偽プライド」という対比を行いましたが、人類社会全体として考えた場合、まずほとんどの人が「偽プライド」の要素が大半であります。従って、人の「偽プライド」を考慮し、それを刺激しないようにするために、社会の中では「謙虚さ」という行動・ジェスチャーが必要になって来ます。人に対する謙虚さの本質とは、そのような社会的な潤滑油としての働きがありますね。つまり、人はかなり相手に依存しているので、お互いに快適にするためですね。これが個々人が大きく霊的に発展した社会になったと仮定したら、もうそれほど人は相手に依存しないようになっていると思います。すると、「相手のプライドを考慮して謙虚に振る舞うなんてことがむしろ失礼」という(相手に依存した)時期も通り過ぎて、全く謙虚とか傲慢とかいう概念が忘れられたような社会になっているのかも知れませんね。命の表現そのままがあるので、傲慢に見える時も謙虚に見える時もあるのでしょうね。

 また、もう少し高い所から眺めて見れば、人は人であるので、天使、神霊と呼ばれる存在に対する畏敬の念を本質的に持っております。これを指して人は神霊に対して謙虚かと言えば、それは謙虚という言葉の定義とは外れていると思います。謙虚さとは飽く迄人と人の間のものだと思います。(199902161151)

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