7/27(土)の「世界不思議発見」を見てて、常々今まで私が感じていた「圧迫感」の意味内容が分かったように思いました。黒柳徹子さんを見ていた時に、「裏で私の事を人々が“謙虚ではない”と言っている」意味内容に気づきました。ここ何年か「圧迫感」が続いていたので、「なんだろう」と思っていたのが判明したように思います。それで述べようと思います。私の感性では、以下のような分類が出来ます。
・傲慢さ:「勝手に」何かをやってしまう態度(自分の欲求を守る)
これを簡単に一言で言ってしまえば、下記にも述べましたが、「勝手に」何かをやってしまう態度や、当該の善人との「同意無視で」何かを決めてしまう心の態度等に関して私は傲慢さを感じます、という表現になります。
・私の感性としては:
私は有利/不利に関わらず、情報を公開しながらやってます。人によっては「やり方が下手だ」とおっしゃられている事も分かってはおります。しかし、私の感性としては、何らかの必然性も無しに、情報を
自分の欲求を実現するために、「利害(だけ)」が一致した者同士が「一見、同意して」集まって集団となり(=一見謙虚)、社会一般に対して「勝手に」何かをやってしまう場合もあります。=[結局、傲慢なのは、動機から傲慢だったから]
・謙虚さ:「同意の上で」何かを実現しようとする態度(手続きを守る)
相手が利益指向で真実を隠そうとするので、自分の「理想」指向とは「一見、同意が成立しない」ような場合には、単独で(=一見、勝手で傲慢)真実を守って社会一般に対して「公開の上で」働きかける。=[結局、謙虚なのは、動機から謙虚だったから]
表面的な傲慢さ、例えば、1000万円もする時計をして見せびらかしたり等の例で考えれば、彼/彼女は周囲の人の同意・コンセンサスを無視(?)して「勝手に(?)」1000万円の時計をしていると「強く」見えてしまう人がいる訳です。そういう人にとっては時計男/女は傲慢に見える訳です。しかし、「嫉妬しない」性格の人の場合は、時計男/女を傲慢とも何とも思わない訳です。嫉妬しない人も大勢いる訳です。だから、この例は「表面的」傲慢さ、見え方です。傲慢さの中では、部分に過ぎません。つまり、[傲慢に見える人/傲慢に見えない人]に分かれるからです。
しかし、心の中の「意図」として「勝手に何かをやってしまう」態度が普通だという人の場合、目には見えませんが、これは傲慢そのものと言えそうですね。
高価な品物で身を飾る人の例の場合は、その金銭的優位性のディスプレイに傲慢さを感じても、その人自身の中に
また、
このように、大体の場合において、私には謙虚さとか傲慢さというのは見え方・考え方で中和し合っており、「どちらでもよい」あるいは「どちらにも見える」事なので、通常は意識に登らない側面です。謙虚さ、傲慢さという側面は、主に、その人の心の底の意図性に於いて私は判断すると思います。
謙虚さとは、社会を落ち着いたものにする潤滑油のような働きがあると思います。霊性・精神性の点においても、人が自分の中心たる平安から遠く隔たらないという効用があると思います。謙虚さは社会の中に貫かせる時に、社会をまとめる(同意効果の促進)作用を発揮すると思います。謙虚さは社会を貫く「同意・同調」の原理(平安[=中心]を志向する原理)に近いですね。一方、傲慢さというのは、謙虚さの反対ですね。相手の同意無しに勝手に契約書を作成したり、預金を勝手に引き出したり、同意=情報公開の存在しない行為は全てが頭ごなしの態度ですね。傲慢さが、精神的になると、「人から承認されてない勝手な思い込み」を最初からあるものとして、前提として物事を判断し、行為するという精神的態度となったりしますね。(勿論、勝手に行動することで危機的状況が救われたりするような場合など、細かい事は色々あると思います)以前のテレビニュースでは、心理の専門の方が、この傾向を幼児的全能感という呼び方もしてましたね。
6/19(火)の「ニュース・ステーション」で報道してましたが、最近はキレル人たちが電車内でも目立って来ているという報道でした。「もっと奥まで詰めて下さい」と言っただけでホームへ出た時に殴られて殺されてしまった事件がありました。この人は「勝手に」殺したのです。そこには同意のかけらも無かった(明らか)。つまり、(広義の)教育が傲慢な人々を作り上げて来た事を示していると思います。それは家族がコミュニケーションをせずに「同意という精神的態度を忘れていた」事が一つの大きな原因ではないかと思います。子供は「自由にさせてあげたい」というのは束縛されてきた世代が抱く一つの自然な傾向かも知れません。ただ、「社会の中では同意が基本」という、基幹的な部分まで忘れてしまっていたという非意図性の中から現代っ子達の傲慢さが育ってしまったのではないかと思います。そして彼らは勝手にキレ、勝手に行動しています。
もう一つの要素として「恨み・ストレス」に近い精神的作用が働いていると思います。人は、「聖なるものが自分から“奪われた”」と感じ、信じるときに「恨み」を持つと思います。イスラエルとパレスチナの地域紛争は、「聖なる土地」をめぐってのものです。それは外的、物理的な対象であり、聖なるものはそれとは別個の周波数・次元にその本質があり、物理的な地域のものではないのです。もっと精神的に考えると、友情や愛情などを対象物として思考する人間がそれらを奪ったり邪魔したりしてます。そしてそれらを物理的には考えなかった善良な人々は被害を受け、奪われ、汚されたと感じるようになってしまいます。しかし、聖なるもの、生命というのは超越的なものであり、実は汚されてはいないのであり、イエス様が復活によってその超越性を人々に示されました。でも、普通は人は物質的な側面と霊的な側面を分けて認識するという発想に至るだけでも大変です。それで普通は混同的に考えてしまい、被害を被ると感じるのですね(勿論、私を含めて)。[教育について]にも書きましたが、本当ならば、人は自分の精神の中心に「愛・平安」を見出すはずです。ところが、そういう中心性が見出せないので、外的な事柄によって本人が右に左に大きく振れるのですね。そうやって積もってきた「マグマ」が段々と噴出し易いストレスと化すのですね。その責任は一概に本人達だけにあるのではなく、ストレス社会を生み出した物質偏重傾向の中にもありそうです。キレルというのは、人が無意識の内に、自分の聖なる側面と感じる部分(潜在意識的に)を踏みにじられたと感じた時に起こるのですね。ここで「真に聖なる部分(神=0=∞)が冒される事はない」という認識を強く持つ事もアリかも知れません。
社会の中で気分などだけで勝手に振舞う傾向(個人の傲慢の傾向)の人が多くなって来た為か、社会の平安の中心軸(同意・謙虚さ)が失われて来ているため、社会の中で、人の中心軸(聖性)を踏みにじる(かのごとくの)行為が増大してきた結果、「恨みに似たストレス」が(蓄積し易い)個々人の中に蓄積した為にキレ易くなっているのかも知れません。
・個人として安定するためには中心軸(愛・平安)がしっかりする必要があり、そのような教育(環境)などが必要。
ということになりそうです。まあ、私個人は人が電車の床に座ろうと化粧しようと携帯をかけようと荷物を上げ下ろししようと、一向に迷惑だとは思わないけれど。(200106200054)
・社会として安定するためには中心軸(同意)を互いに守るように万人が人として努力すべし。
最近、親を名前で呼んだりする子供が増えているそうですね。教師を教師とも思わない子供も沢山いるようです。これは、もう、彼ら「子供」が、そのような肉体性を越えた視点を持ちはじめているという時代の流れがあるのかも知れませんね。確かに、古き良き時代がありました。目下は目上に敬意を表し、社会的に整っていたのだと思います。しかし、現に今の状況があることを肯定的に私は考えたいと思います。
つまり、もう子供たちは「大人たちの依存的な性格を喜ばせないぞ」と言っているのかもしれません。子供らしく振る舞って大人に認められても空しいと感じるようになっているのでしょう。故に、対等につきあって物を言い、彼らが知らない事は、「知らないのが当たり前」という視点で単に情報として伝達し(「教える」のではなく)、対等にしてゆくべき時代なのかも。それに合わせて子供でも責任を負うような法律の整備も必要かも知れません。(ちなみに、日テレの「ザ・ワイド」などでオウムに関連して「カルト法」の制定を前から主張されてますよ、議員の皆様)
「プライド」の項目のところで、真に独立しようとする「真プライド」と、環境に執着する「偽プライド」という対比を行いましたが、人類社会全体として考えた場合、まずほとんどの人が「偽プライド」の要素が大半であります。従って、人の「偽プライド」を考慮し、それを刺激しないようにするために、社会の中では「謙虚さ」という行動・ジェスチャーが必要になって来ます。人に対する謙虚さの本質とは、そのような社会的な潤滑油としての働きがありますね。つまり、人はかなり相手に依存しているので、お互いに快適にするためですね。これが個々人が大きく霊的に発展した社会になったと仮定したら、もうそれほど人は相手に依存しないようになっていると思います。すると、「相手のプライドを考慮して謙虚に振る舞うなんてことがむしろ失礼」という(相手に依存した)時期も通り過ぎて、全く謙虚とか傲慢とかいう概念が忘れられたような社会になっているのかも知れませんね。命の表現そのままがあるので、傲慢に見える時も謙虚に見える時もあるのでしょうね。
また、もう少し高い所から眺めて見れば、人は人であるので、天使、神霊と呼ばれる存在に対する畏敬の念を本質的に持っております。これを指して人は神霊に対して謙虚かと言えば、それは謙虚という言葉の定義とは外れていると思います。謙虚さとは飽く迄人と人の間のものだと思います。(199902161151)