今の私は(結構、前から)ドラマなど、クサくてじっくり見ていられないのですが(^^;、その「クサい」ということについて特別考えた訳ではないのですが、この前、ちょっと気づいたのは、クサいというのは、「脳内で同じ回路ばかり使っているから」であることが分かりました。例えば、テレビでCMでも歌でもドラマでも、「特定の事物」を見ると「特定の人」に結び付けてしまい、「クサッ」となる訳です。それは全くのところ、「主観しかない意識」だからよどむのですね。そこに同時的に「(自分で自分を見ているような)客観的な意識」があるならば、「クサさ」は発生せず、何か新しい泉から水(新鮮な想念の象徴)が自分の中に流れてくるような事になります。(200312062243)

 ちょっと気づきました。多分、人々はその殆どが「言葉を信じない/信じられない」傾向だと思います。私は色々と言葉で言っており、そこらへんに対する「信用し切れない思いが残る」ところから来る発想により、芸能人などを含めて、私に対する「疑い」ではないにしても、言葉に対する「疑い」から、私に対して直接言葉ではなく、「なんとなくアプローチすることによって私の反応を観察し、私の言葉が真実かどうかの検証を行う」というのが続いているのではないかと思いました。例えば、私は「利益が最優先として人間関係をしてる訳ではない」と言ったりしてます。この言葉を検証するために、例えば誰かが私へ利益を提供するかのように接近し、私が「どのように反応するかを観察する」のだろうと思いました。

 これに関連してちょっと思い出したのは、人はよく、他の人の「ちょっとした仕草や表情や印象」を観察して、本心を探り、そこらへんから本心を確信するという心理的作業を行ってますよね。ところが、私の場合、ここらへんがよく誤解の火種となるのです。例えば、ある時、私はその人の話をにこやかに楽しそうに聞いておりました。でも、言葉ではちゃんと反論し、型をつけておきました。ところが、その人は、私がにこやかだった記憶しかなく、確かに私が言葉ではそのように言った事を言われれば思い出すのですが、基本的に私の態度が肯定的だと判断してしまいます。その種のズレの経験が私は多い気がします。このような点について逆の立場から言いますと、私はあまり、人が外に見せた表情とか、一瞬驚いて見せたりとか、ちょっと腕を動かしたりとか、そういう事をあまり信じられません(^^;。全てが特定の意図の元にコントロールされているように見えます(^^;。この発言は価値観の世界の発言ですから。(200202022312)

 ちょっと言っておこうと思うのですが、MSさんへのレターで、一種の魔術めいた事を言ってます。それは一種の経験則のようなものに基づいているのです。すなわち、「全く嘘をつかない」でいると逆に、言葉で言っただけのこと(特に人に向けた言葉かもね)が実現するような傾向があるように思われるのです。そのような原理に基づいてます。従って、人としての自分は言葉に出すだけであり、その言葉に正当性、当然の権利があれば、後は、法則が、「全く正当に」実行するだろうと思うのです。勿論、不当な言葉は最初から却下されるでしょうけど。ですので、そのような魔術のようなことは私という人が何か「している」訳ではないのです。(200002050535)

 最近、なんとなく何か引かれるものを感じ(誰かからのテレパシー?)、ファミコンというものを買ってきて始めたのですが、まー、驚くこと驚く事。ストーリーが進むにつれて、こんなとこにも進出していたのを知りました。今やっている「ヴァンダル・ハーツ」では、ヘル一味が、世界支配を「裁定(最低?)の炎」を使って実現しようと、キーを探しているのだけど、そのキーはヘルの手に渡ってしまい、裁定の炎は既に奪われてしまっていた。ところが、ここに来て、裁定の炎に対抗し得るのは「ヴァンダル・ハーツ(破滅の剣)」だけであるという事を知らされる。「破滅の剣」の側が正義の味方であり、「裁定の炎」の側が世界支配を目論んでいるのである。これで気が付いたので、ここで述べておきます。私はNIFTY-Serveのフォーラムの中で「さあ、支配しましょう」とか「君臨するぞ」とか言って楽しんでましたが、多分、これを本気で受け取ったところから、このようなストーリーが生まれたのではないでしょうか(^_^;)。私は「本気で」、支配しようとしたり、君臨しようとしてはいませんよ。だってそうでしょ? もし、「本気で」支配して君臨しようとしている人がいたら、そのような心理はおくびにも出さずに着々と、組織なり形態なりを整えて行くと思いませんか? 「さあ、会議室を設けて君臨しちゃうよ」なんてことを軽く言って、反応を何か期待してたのですが、ほとんどコミュニケーション不全状態でしたが、こんなところで反応を見るとは。まあ、そのような危険人物扱い的な反応も予想していたのも確かですが、それならそれで、「その時」に反応してコミュニケーションしてほしかったなぁ。こちらはフランクに、あーだこーだと思い付くことを言ってるのに、あんまり構えないで恐れないでほしいよなぁ。で、そういった言葉を軽く扱う理由としては、1.人が黙る傾向を感じ、コミュニケーション自体が成立しないから、それで、なんとか過激な事を言って何かの反応を得ようとしていたのと、あと、2.「支配」や「君臨」という言葉は、あまり使われない言葉であり、人がそれらの言葉を重く扱う傾向を感じ、それで私はジョークとして軽く使ったりしていた、という2つのポイントがあるのです。人間なんだから、言葉は言葉として、伝達の手段として、「道具」として「使用」しようよ。(19970725.03:00頃)

 言葉は、「コミュニケーションの手段」として「使う」べきではないでしょうか。自分と言葉の関係は[自分>言葉]です。逆に言えば[言葉>自分]とはならないのがいいと思います。また、イメージ脳の右脳と、言語脳の左脳の統合へ向うべきでしょう。左脳が潜在意識(イメージ)の奥まで言葉にするから恐くなる場合もあるかと思いますが(当ホームページなど(^_^;))、言語化したからといって、左脳が右脳を完全支配する訳はないし、正当な論理であれば、右脳は言葉(左脳)を恐れることは無いのです。また、逆の場合としては、何かイメージ・理解を感じたけどよく(言葉で)把握出来なかった、というような、右脳と左脳の分離の上に、イメージ(右脳)が優先される性向によって、言葉がなおざりにされ、イメージのまま、気の向くまま、人からの怨念や欲求の念・イメージによってコントロールされてしまうような、右脳が左脳を支配してるかのような状況には、左脳は、やきもきするように思います。

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