人間心理の真相

《人は肯定しかしていません》 ・『あなたは何を肯定するためにそんなに否定ばかりするのですか』

 上記の論理は私が広めようとしている最も大切なテーマです。このことを以前も主張しました時に、テレビなどで「もっとポジティブに」とか言ってくれるようになりましたが、「もっとポジティブに」という論理は、全くふにゃふにゃなのです! 「もっとポジティブに」と言われると、人は「本当はネガティブな心を押さえたくない時があるな」とか思ってしまうのです。「もっとポジティブに」と言われると、「いつもハイではいられない人間の生理について、この人は何も分かってない」と思ってしまうのです。このようにして人は、ネガティブの呪縛から逃れられないでいるのです! それは、実相を単に知らないだけの話なのです。だから、「もっとポジティブに」というのはあまり効果がないのです。

 ところが、実相は、と言うと、人は何かを否定する時、それを否定した後で肯定する目的を持っているのです。たとえば、「うちの子は出来が悪くて」とか否定するのは、実は、相手に好感を持ってもらおうとして口に出す、一つの文化形式であります。その肯定したいものは、一見、相手との「良好な関係」を目指しているように見えて、実際の所は、「良好な関係」がその人自身にもたらす快の感覚・健康及び将来の利益(による快)であったりします。つまり、目的は「うちの子が出来が悪い」と主張する事ではないのです。自分の健康維持です。このようにして人は、自分の心の中での今までの「否定的発想の裏にある肯定=真の目的」に気付くようになるのです。このことに気付けば、どんな否定的な発想にも、実はその裏に肯定が厳然として横たわっていた事に気付くのです。そして、このようにして脳の発想が肯定的になることで、肯定の源である生命力との衝突が消え去り、健康状態も良好になります。ビジネスマンも奥さんも、このようにして精神的な領域に起因するストレスは解消できます。それが家庭や子供や地域や学校に及ぼす影響は根本的であり、このロジックに漏れはありません。マスコミが流布すべきなのは、上記の論理「人は何かを肯定するために否定している」事を理解してもらうことです。マスコミがこの論理を広めてくれることを願っています。

 「そんなに一遍に教えてしまったら飯の種として後で利用出来なくなる。大衆は馬鹿のままにしておくのが一番」などと考えるマスコミ人は住所と名前を私に教えて下さい。(199902200330)

 もう一つ気付いた(^_^;)のですけど、上記のように「ポジティブな部分に目を向けよう」と主張いたしますのは、飽くまでも自分自身の心理を自分で分析したり方針を決めたりするような時に限定されます。内面的な事に限っての主張です。
 一方、外的な事、社会的な事柄についてはネガティブな側面から目を離してはいけないというのは全くその通りですよね。何か社会的に危険な動きがある時に、「ポジティブに考えよう」などという主張をするのは変です。また、物を作る時にも、例えば自動車一つ作るのだって、考えられる限りのネガティブな事故を想定して、ありとあらゆる、いかなるネガティブをも引き起こさないように設計して材料を選んで組み立てて、また全体のシステムとして評価・試験しなければなりません。このように外的な事柄についてはネガティブな場合を想定するというのは、当然であります。

 ただ、私が主張してますのは、人が自分について考える時の方向付けがネガティブであるために、生命力と衝突してどんどん弱って行く方向にあるから、もっとよく自分を観察して、真に意図しているのは「肯定でしかない」のだという「事実」に気付くことです。思い込むのではなく、「事実」を知る事です。そうして本人の認識能力が肯定(生命力)に気付き、生命力と同調して全的に活性化すれば、外的・社会的な事柄に対して十分にネガティブに対処することが出来るようになって来るのである、という事です。(199902230437)

「人は肯定を目的とした否定」をするだけであり、実際のところは肯定しかしてないのである。このロジックは、「特定の考え方」ではなく、「事実」なのである。私は上文で特定の考え方を標榜しているのではなく、事実を伝えようとしているのです。例えば、缶ジュースの自動販売機が沢山あっても、コインを入れなければジュースを取り出して幸せを味わう事は出来ません。「“コインを投入する”などという“特定の考え方”を私はしない」とか言ってるのと同じような気がしてしまいます。なぜマスコミでは、こういう大切なロジックをダイレクトに紹介してくれないのでしょうか? 誰も逆らう事が出来ないロジックです。つまり「事実」です。だからこそ、ネガティブに呪縛された人々の心を、かなり徹底的に解放する契機となり得ると思います。(199903010413)

 抵抗値が予想よりもずっと大きいようです。マスコミというのは「反映するメディア」故、主体的に何かを主張するというのは、難しいのかも? 飽く迄、個人としてこれを主張しなければアカンのでしょうか? それでは一丁、「人は肯定しかしていない」という題名の歌でも作って、印税生活ガッポガッポやっちゃおうかなぁ〜。(199903030336)

 よく、「もっとポジティブに考えろよ」と、「説明せずに」言う人がいるけど、それでは相手は理解できてません。問題なのは、潜在意識です。単に「ポジティブに考えよう」としても、それでは、心の闇の部分が「放置されている」という「事実」が、本人にとってますます重たくなって来てしまうからです。そのような心の闇を基本から構造改革するのが「人は肯定する為に否定する」というものです。つまり肯定しかしてないのです。これは徹頭徹尾、首尾一貫して、ただ一つの矛盾も無しに、完全に論理的にそうなのです。こうして闇に逃げ場がなくなるのです。心の構造改革をできるのです。それを伝えて欲しいのです。日本人全体に対して説明すべき事と思います。なぜなら、これは信条や教義ではないからです。(200003070552)

 4/5(水)のNHKのクローズアップ現代で特集してましたが、今、天童荒太著の「永遠の仔(上)(下)」という本がすごく売れてるそうです。それは親から半分拒絶されてきたようなトラウマを持つ大人達を癒す契機になっているようです。「あなたは生きてていいんだよ」というメッセージに共感したというレターが来るそうです。著者の方は、そういう、突き放されて被害を受けている人たちの側に立って本を書きたかったとのこと。私もそう思います。やはり生命力の基本は肯定であり、ですよね。心(ハート+マインド)の中には肯定も否定も出てきますが、私たちはどちらを「信じる」(受け入れる)でしょうか。確かに暴力など、否定的な力が否応無く襲って来るという外的事態もあり得ますが、だからといって、否定的である事が「強い」ということにはなりません。一つ思い付いたのが、我々は、「否定的想念=強い」と思っているのではないでしょうか? 実際には、生命力である(=肯定)によって支えられているからこその「否定作用」ですね。それから、否定的想念を「強いと信じてしまっている」為に、否定的想念に「(自分で)力を与えてしまっている」のですね。だから「否定的想念を脅威のように、あるいは強くて逃げられないかのように」信じ込んでしまっているのですね。確かに死というものは究極の否定的な事柄に見えますけども、これでさえポール・ソロモンのリーディングなどで「もうすぐ地球の次元上昇が起こった暁には死の理解が容易になるだろう。死そのものがなくなるわけではないが。」と言いますし、一二三神示でも「今の人民では理解できんだろうが、いざそうなれば、なるほどそういうことでありたか、と得心するであろう」みたいな記述もありました。これらが意味するのは、皆がシュタイナーのような霊聴・霊視能力を得ることになって、死後の人とさえ話し合えるような状況の事を言ってると思われます。故に、否定をそんなに信じなくていいと思います。(200004060453)

 ちっょと気づいたのですが、私の主張する「人は肯定しかしていない」というのが、「社会的に」消費されてしまったという感じについてです。それで気づいたのは、私は「個人の内面でのエネルギーの効率化」について指摘していたのであって、社会的な関係性を良好にする事については何も思ってなかったのですね。(200209112351)





































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