(愛媛)「自転車は勇気与える」 モザンビーク大統領が謝意(中日新聞)
2008年5月31日 19時20分
アフリカ開発会議(TICAD)出席のため来日したモザンビークのゲブザ大統領が31日、松山市を訪れ、放置自転車を同国に送っている松山市の特定非営利活動法人(NPO法人)に謝意を表明した。
ホテルで開かれたパーティーに出席した大統領は「われわれは内戦に苦しんできた。日本人の心のこもった自転車は、ただの輸送手段ではない。平和を築こうとするわれわれに勇気を与えてくれる」と述べた。
放置自転車を提供しているのは松山市の「えひめグローバルネットワーク」。2000年からこれまでに、松山市の商店街で撤去された自転車計500台を送った。
自転車は内戦の影響で一般家庭に残っている銃と交換。市民は武器の代わりに交通手段を手に入れる仕組みで、銃は現地の芸術家の手でアート作品に作りかえられているという。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2008053101000614.html
微生物が地下水浄化 名大グループ、世界初の技術(中日新聞)
2008年1月19日 07時35分
毒性が強く地球規模で環境汚染の原因となっているポリ塩化ビフェニール(PCB)を、微生物を使って無毒化する技術を名古屋大エコトピア科学研究所の片山新太教授らのグループが世界に先駆けて開発した。自然にある微生物を利用するため環境にやさしく、費用もかからない。
PCBによる土壌・地下水汚染を改善するためには、土をすべて入れ替える大規模な工事が必要。工事車両から排出される二酸化炭素が温暖化の要因になるほか、直接的な健康被害がなければ放置される場合もあり、環境への負荷は大きい。
PCBは塩素を取り除けば自然界で分解して無毒化され、微生物で塩素を分解する試みはこれまでにもあった。
しかし、PCBは塩素の結合の仕方で200種類以上あり、特定の微生物は一部のPCBを分解するものの、すべての種類のPCBからは塩素を取り除けなかった。
片山教授らは、塩素化合物を好む微生物など約30種の微生物群を一緒に集めておくことで、さまざまなPCBから一斉に塩素を取り除く方法を発案。ガラスビーズやセラミックなどの材料を微生物群の“マンション”のような「すみか」とする方法を開発した。材料の表面には直径数十マイクロメートル(1マイクロメートルは1000分の1ミリ)の穴が無数にあり、微生物の生息に最適という。
塩素化合物を好む微生物が多く含まれている愛知県弥富市の水田の土壌を採取。ガラスビーズやセラミックを詰めた試験管に土壌の微生物群を移し替え、PCBを溶かした水を加えたところ、PCBの塩素を取り除くことを確認。実用方法として、微生物群の入ったセラミックなどで透過性のある浄化壁をつくり、汚染源付近を浄化壁で囲い込むことで、浄化壁外へのPCB流出を防ぐことが可能だ。片山教授らはすでに愛知県、名古屋市とも実証試験を目指した共同研究に2005年度から着手している。
片山教授は「微生物群のうち、塩素を取り除く微生物を完全に特定し、培養できれば、PCBを無毒化できる土をつくれるかもしれない」と話している。
【PCB】 高い絶縁性から電気機器に用いられてきたが、環境中に長期間残留し、肝機能障害や発がん性、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)作用など生物に重大な影響を及ぼす有害化学物質。ストックホルム条約で世界的に浄化が義務づけられている。日本でも2001年にPCB特別措置法が制定され、16年の完全処理を目指している。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2008011990073513.html
http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20080103c
県は、県内農業集落のコミュニティー機能に関する調査と分析に乗り出した。昨年11月から12月にかけて県内125集落を対象に調査を実施。大学教授らの協力を得て年度内に調査結果の分析を終え、できるだけ早い時期に政策化を目指す。65歳以上が人口の半数超を占めるいわゆる「限界集落」の存続が懸念されるなど農山村コミュニティーの将来に対する関心が高まる中、まずは実態を把握して課題をあぶり出す形。調査と分析を担当する県農林政策課は「どんな事象に対して、何ができるかを把握したい」としている。
調査対象は、農業への取り組みを単位にした県内2500集落の20分の1。「あきた21総合計画」策定に際して1997年に行った「農業集落の公益的機能維持管理状況調査」以降の推移も把握するため、同じ集落を対象とした。地域振興局が各集落の自治会代表者らに調査票を配布。ほぼ全集落から回答を得た。
調査票は「集落の立地条件」「集落のコミュニティー活動」「農業への取り組み」「集落の動向」の4分野に大きく分けた上で、個別に具体的数字、共同作業や相互扶助活動の現状などを尋ねている。
例えば「立地条件」では「集落が分散しているか」「最寄りの小学校や医療機関、役所までの距離」などが質問項目。「コミュニティー活動」は自治会や年代別組織、消防団や伝統行事保存会の有無、助け合いの現状などを尋ねた。「動向」では、「集落の共同活動などが10年前と比べてどう変化しているか」「今後、集落の世帯数はどうなると思うか」「集落が活性化しながら存続するためには、どんな環境が必要か」などを聞いた。
(2008/01/03 10:00 更新)
秀吉の妻励ます“人情家”信長の書状 徳川美術館で21日から初公開
【中日新聞】2007年7月13日 07時16分
織田信長が豊臣秀吉の妻おねに差し出した書状が、名古屋市東区の徳川美術館で21日から公開される。「こんな器量の良い女房に不満を言う秀吉はけしからん」という趣旨で、秀吉を「はげねずみ」と呼ぶなど極めて私的な内容ながら、信長の「公印」が押された珍しい史料。戦後は所有者が転々とし、一般公開は今回が初めてとなる。
書状は、安土城に住んだ1579−82年に書かれたとみられる。土産物を持参したおねに礼を述べ、おねの美ぼうが前回対面時より「十の物廿(二十)ほと」、つまり2倍良くなったとほめている。一方で、秀吉がたびたびおねへの不満を漏らすことを「こん五たうたん(言語道断)」と批判、どこを訪ねてもこれほどの妻を迎えるのは、「はけねすみ」には難しかろう、と記す。
秀吉のあだ名は「サル」が有名で「はげねずみ」はこの書状だけ。また、朱印「天下布武(ふぶ)」は信長が部下への命令書などに押した公印で、女性あての私的な手紙に押された例は他にないという。
書状は戦前から個人が所有し、1934(昭和9)年に国の重要美術品に認定。研究者らには内容も知られていたが、戦後は実物が一般の目に触れる機会はなかった。
同美術館の並木昌史学芸員は「冷酷非情といわれる信長像と違い、人情味あふれる一面が感じられ、面白い」と話す。戦国武将に詳しい静岡大教育学部の小和田哲男教授(日本史)は「おねあての書状自体珍しく、私的な内容への押印も興味深い。私も実物を見たことはなく、貴重な機会だ」と評価する。
書状が公開される同美術館の企画展「天下取りへの道−戦国の武将たち」(中日新聞社主催)は21日から9月2日まで。
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007071390071609.html
噂の眞相 99年6月号特集2
都知事選にイメージ操作で圧勝した石原慎太郎の知られたくない人間性――なぜ出馬宣言が遅れたのか――。その理由はオウムとの関係ではなく、新潟県にいる女性と隠し子の存在にどう対応し、切り抜けるのか、だった……。――
● 本誌特別取材班
● 予想されていた石原の圧勝
圧勝とはこのことをいうのかもしれない。4月11日に投開票された東京都知事選は、”新都知事”が次点の鳩山邦夫にダブルスコア近い差をつける独走劇で、あっさりと終わった。その新都知事となったのは、あの石原慎太郎。芥川賞作家であり、運輸相や環境庁長官を歴任した元大物衆議院議員……。いや、こんな肩書きなどよりも、むしろ「故石原裕次郎の兄」、「反米タカ派の国家主義者」といったほうがさっと分かりやすいだろう。
それにしても圧倒的な支持だった。なにしろ突然の青島幸男の不出馬で、告示前は「乱戦」「だんご都知事選」といわれながらも、フタをあげてみれば石原慎太郎が集めた票数は、実に166万4千5百票余り。有効得票数の30パーセントにも及ぶ計算になるのだ。 社会部記者もあきれ顔でこう語る。「鳩山や舛添要一、明石康を担いだ自民党執行部、それに創価学会さえも、今回だけは石原慎太郎の圧倒的な知名度、人気を改めて思い知らされたんじゃないか。ただし、石原を含めた各陣営には、はじめからある程度この結果は予想できていたはずです。というのも、石原がまだ出馬を口にする前の段階から、世論調査では、すでに石原が圧倒的支持を集めていたからです」
そう、事前の調査データでも、石原慎太郎の圧勝は十分予想されていたことだった。そして普通に考えれば、だからこそ石原も、最終的に出馬に踏み切ったはずなのだ。
しかし、だとすればである。当選が確実視されているのに、石原はなぜ、あの時告示ギリギリまで出馬を迷っていたのか。
なにしろ他の有力候補が2月中旬にはそろって出馬表明していたのに対し、石原が出馬を表明したのは3月10日、つまり告示までわずか2週間余りという時期だったのだ。
しかもその出馬表明にしても、元秘書グループや自民党の小林興起らが外堀を埋めたため、ようやく石原がその重い腰を上げたかのようにいわれているが、実際は少し違う。
「実は石原が出馬を具体的に検討し始めたのはわりと早い時期で、青月島幸男が不出馬を表明した直後、2月の初めだったといわれます。事実、小林興起が”(石原は)100パーセント出馬する”とマスコミに触れ回り始めたのもこの直後からだった」(政治部記者)
にもかかわらず、石原はその間、いっこうに態度をハッキリさせなかったのである。
「石原の側近は、そのワケをこう説明していましたよ。”注目を引きつけておいて最後にドーンと表明すれば、有権者に対するアピールも新鮮で衝撃的なものになる”からだと。つまり選挙戦術だったというんですが、実際は戦術なんて呼べる代物じゃなかったんです。むしろ”苦肉の策”というべきでしょう。というのも、石原は2月初めから出馬を真剣に考えていたというのに、なぜかギリギリの段階まで、本当に出馬を迷い続けていた
からです」(前出・政治部記者)
もしそうならば、石原が土壇場まで出馬に踏み切れなかった理由は何だったのか。その理由いかんでは、石原が新都知事になることも、あるいはなかったかもしれないのだ。
実をいうと、本誌はすでにその”理由”をつかんでいる。石原は、逡巡した理由を「まだ文学者としてやりたいことがあった」などと語っているようだが、そんなものはしょせんポーズにすぎない。断言しよう。石原が出馬をためらった本当の理由とは、決してこんな格好いいものではない。石原には、東京都知事選を戦う以上はどうしても隠しておきたい、ある”事情”があったのである。
● 怪文書が飛び交ったオウムとの関係
「一説には、石原とオウム真理教をめぐる例の〃噂〃がそれだったのではともいわれています。たしかに石原はここ数年、オウム絡みの噂がささやかれ続けており、彼も悩まされてきましたから」(前出・社会部記者)
実は出馬会見前後から、石原慎太郎の周辺にはさまざまな「怪文書」がバラまかれていたという。ほとんどがワープロ打ちされたA4サイズのもので、その数は、本誌が入手したものだけでも軽く10数種に及ぶ。
たとえばある怪文書では、石原が84年の総選挙で、故新井将敬の選挙ポスターに「朝鮮人」と書いたシールを貼り選挙妨害をしたと書き、<人種差別主義者 石原慎太郎を許すな!>と罵倒。あるいは「在日本中国人留学生会」名の怪文書では、中国を”支那”と呼ぶ石原の歴史認識の欠如ぶりを非難、石原は都知事に相応しくない! と断じている。
事実関係はともかく、石原の差別主義ぶりはたしかにその通りだし、もし怪文書がこれだけならば特筆するまでもない話だろう。
ところが、実際に各所へバラまかれていた大半の怪文書は、この程度のシロモノではないのだ。石原出馬までの経緯、選挙資金の出所、さらに石原とオウムの”関係”に至るまでを詳細に指摘したものだったのである。
政界関係者がこう解説する。
「出回った怪文書の大半は、<石原慎太郎出馬の背景>というタイトルで、4項目で構成された内容もほぼ同じ。おそらく初めの怪文書を次々と打ち直し、あらためてバラまいたものだろうね。前半部分では、選挙資金の出資者として、自由連合代表で徳洲会理事長の徳田虎雄や、例の日本法曹政治連盟主宰・松浦良右の名を挙げ、それぞれ2億、4億を出資したことなんかが書いてあるんだが、<出馬までの経緯>の項にある、出資条件として徳田が公立病院への民間委託参入を要求したというくだりは結構真実味がある。徳洲会が民間委託に目をつけてるのは事実だからね」
なかでも目を引くのが、やはりオウムに関する部分だ。この怪文書の<3、石原の衆議院議員辞職の背景>という項には、両者の関係について具体的にこう書かれているのだ。
<1、末子「ひろたか」は、オウムの在家信者で、麻原が瞑想していた背景の「曼茶羅」を描いたとの説あり。政治的取引で逮捕を免れたとも噂される。(現在行方不明)
2、オウムの林医師は「裕次郎」の臨終立会医で、当時慎太郎の主治医。石原と林の家族は家族ぐるみの付き合い。
3、石原と杉並選出の仁木都議(昨年死亡)は、オウムの宗教法人認可に介在。仁木の死により「死人に口なし」となり、出馬の大きなファクターとなったか。
4、石原とオウムの関係が公にならざるを得なくなった時点で「不問に付す」ことを条件に政界引退。(誰が不問に付したか? 当時の野中国家公安委員長は、最近「息子がオウムの信者で、林医師と付き合いがあったことは知っている」と述べている)>(原文ママ)
これだけではない。さらにはこんな怪文書まで登場するのである。
「<都知事選ご関係者各位 石原慎太郎、議員辞職の真相について>というその怪文書の内容じたいは、石原や四男がオウムの国家転覆クーデターに関与した、というほかの怪文書とさして変わらないものなんですが、ビックリしたのは、この怪文書に書かれている内容の詳細が『中央公論』に掲載されると記述してあることです」(週刊誌記者)
怪文書を読むと、たしかにこう書かれている。<石原氏が何故、国会議員のバッジをはずしたのか、今、一部マスコミでぶり返されていますが、来月発売予定の月刊中央公論に、その詳細が掲載されています。以下がその要点の抜粋です……>。しかも、選挙妨害になるので<4/11前はたとえ事実であっても報道できないとのことです>と、それらしい解説まで付け加えられているのである。
いくら怪文書とはいえ、ここまで大量に、それも具体的なディテールを伴ってバラまかれると、にわかに信憑性も帯びてくる。そもそも今回の怪文書に書かれている石原とオウムの〃関係〃は、本誌でも以前に触れたように、数年前から根強くささやかれてきた話であり、単なる「都市伝説」として片づけるにはリアリティがありすぎるのだ。
そしてもちろん、こうした噂が仮に事実だとすれば、石原が都知事選を前に躊躇した理由としても充分に説明がつくではないか。
だが結論からいえば、怪文書に書かれている話はそのほとんどが”ガセ”だった。
実は本誌も、もう一度この石原とオウムをめぐる噂を追跡、検証してみたのである。
まずは石原の四男のオウム信者説ーー。前出の怪文書では「ひろたか」となっているものの、この四男の名前は延啓といい、たしかに一応は画家で、宗教に強く興味を持ち、描く絵の中には密教的なものもあるという。しかしオウムとの接点らしきものがない。唯一根拠として語られていた「破防法の立証資料に四男の名前が記載されている」という事実もない。
そして林郁夫と裕次郎の関係についても確認できる材料はなく、加えて宗教法人認可の噂も、実はすでに2年前、今回の怪文書にも登場する法曹政治連盟の松浦良右が完全否定している。
さらに『中央公論』が詳細記事を掲載する、という記述についても、同社関係者は「いや、そんな予定はまったくありませんよ」と首をかしげ、試しにあの怪文書に記載されていた住所を訪ねてみても、そこには記載されていた「オウム徹底糾弾・オウムクーデター真相調査請求を求める会」なる団体の影も形も見当たらなかったのだ。
ようするに、しょせんは怪文書以外の何物でもなかったのだが、そんなさなか、とんでもない事実が発覚した。驚いたことに、一連の怪文書が自民党の謀略だったとの疑惑が浮上したのである。前出の政界関係者が語る。「怪文書攻撃に頭を抱えていた石原陣営が、怪文書に印字されていたファックス番号を調べてみたら、それが自民党都連の番号だったことが判明した。しかも石原側が都連を追及したら、都連側は怪文書をあちこちにバラまいたことを認めてしまったんだよ。作成者には創価学会説もあるが、それが誰かはともかく、怪文書をまかれた側の石原は当然カンカン。告訴をチラつかせて強硬に抗議中で、都連はもちろん平謝り。4月9日には、”自民党都運事務局長”名で石原の関係者に詫び状を出すという醜態ぶりだからね」
都知事選は圧勝、ついでに頭を悩ませていた一連のオウム疑惑もきれいに晴らし、そのうえ与党の都連に詫び状まで出させる……。
さすがは石原慎太郎、いや新都知事というべきか。たいした剛腕ぶりである。
しかし、実をいえば、石原がどうしても隠しておかなければならなかったこととは、このオウムをめぐる疑惑などではないのだ。
都知事選に出馬するにあたって、石原が絶対に触れられたくなかった事実……。
それはズバリ、愛人と隠し子なのである。
● 隠し子の存在がネック
さる4月23日、この日発売された写真週刊誌『フライデー』(5月7・14合併号)に、こんな記事がトップで掲載された。<石原慎太郎に「元愛人と隠し子」を問う>
いわく石原には元ホステスの「愛人」とその女性に生ませた「隠し子」がおり、それを隠して都知事選に出馬したのは、<都民に対する裏切りではないのか?>というのがその主な内容だ。なるほど、新都知事に倫理観を問うという意味では、たしかにいいタイミングの記事だったといえるのかもしれない。
ところがである。この問題は、本来ならいまごろになって記事になるはずではなかったのだ。もっと早い時期、そう都知事選の前には記事になっていたはずのものなのである。
それがなぜいまごろになったのか。実をいうと、石原サイドでは出馬表明前、この『フライデー』の動きをツブすべく、水面下で必死になって工作を行っていたのだ。そして事実、一度この記事はツブれたのである。
「ええ、石原の愛人と隠し子の記事にストップがかかったのは事実。ウチは石原の出馬が噂されていたころから記者とカメラマンを動かしていたんですが、出馬直前になぜか別の企画に変更されてしまった」(講談社関係者)
その「企画」というのが、3月26日号に掲載された次のような記事だった。
<「本命」石原慎太郎氏があの徳田虎雄と密会していた理由/深夜のホテルで出馬決意した〃瞬間〃をスクープ撮>。
石原とその選挙スポンサーと噂された徳田虎雄が出馬表明前夜にホテルで密会、そのシーンを撮影し、直撃インタビューしたというこの記事が、愛人と隠し子の取材ストップと同時に掲載されたというのである。別の講談社関係者がこう明かす。
「つまり、石原と『フライデー』はバーターしたんですよ。というのも、実はこの記事はヤラセなんです。『フライデー』の動きを察知した石原は、出馬前夜の自分と徳田の密会現場を『フライデー』に撮らせることを条件にバーターを画策し、この問題が表面化するのをなんとか押さえようとしたんです」
もともと都知事選出馬に意欲的だった石原慎太郎にとって、出馬の最大のネックとなっていたのは、オウムとの噂や書きかけの小説などではなく、なによりもこの愛人と隠し子の問題だったという。事実、出馬を準備し始めてからの石原は、この問題に対して異常なくらいナーバスになっていたというのだ。
一方、すでに3年前、この「愛人」を隠し撮りして記事にしていたのが『フライデー』だった。だから石原としては、出馬する以上、愛人と隠し子の存在を唯一詳細につかん
でいたこの雑誌の動きを、どうしても事前に押さえておく必要があったのである。
そしてこのバーターの裏で暗躍したのが、幻冬舎社長の見城徹だったという。というのも、見城は今回の都知事選で石原陣営のマスコミ対策を仕切っていたとも噂されたように、石原とはべッタリの関係だし、『フライデー』編集長の加藤晴之ともツーカーの仲。
「見城はもともと石原の出馬には反対だったんですが、石原に頼まれてイヤとは言えなかったんでしょう。それに彼はこれまでもさまざまな記事ツブシに暗躍してきた経緯があるからね。実際、見城は石原の言う通り、愛人と隠し子の問題を記事にしないという約束で代わりのネタを『フライデー』に提供したんです。それが例の石原と徳田虎雄の密会現場写真だった」(前出・講談社関係者)
この一件について当の見城に電話取材をしたところ、すごい剣幕で「そんなことはやってない」と怒鳴り、電話は一方的に切られてしまった。が、その見城、いや石原も、バーターしたはずの『フライデー』がまさか当選後にちゃっかり記事にするとは夢にも思わなかったのではないか。事実、石原サイドでは今回の記事にカンカンになっているという。
実は石原が愛人と隠し子問題でこれほどうろたえたのは、今回だけではないのだ。
新潟市内から車で1時間半ほど走ったあたりに広がる静かな穀倉地帯。この地域の小さな集落に、ごく普通の小さな民家がある。
この家で暮らしているのは、老齢の夫婦とその娘、そして高校生になる孫。だがこの娘と孫ーーつまり石原の愛人と隠し子であるこの母子は、ここでずっと暮らしていたわけではない。ある時期から、ここへ逃げるように戻ってきたのである。石原の関係者が言う。「その母親、仮にA子さんとしておくと、A子さんは銀座の高級クラブ元ホステスで、石原とは18年前に、当時彼女が勤めていたお店で出会い、愛人関係になったんだ。その後彼女は妊娠し石原の子供を生むんだが、しばらくは石原もA子さんと子供を都内の一等地に住まわせ、すべての面倒をみていたはず」
だが、A子さんが認知を求めたことで状況は一変する。石原の夫人に愛人と隠し子の存在がバレてしまい、怒った夫人と石原、A子さんの三者の間で、修羅場が繰り広げられるようになったというのだ。関係者が続ける。
「そうした中、最終的に石原は子供を認知するんだが、ただ、それは決して積極的なものではなかったと思う。というのも、石原は当時、陰では〃DNA鑑定すれば俺の子供じゃないと分かる〃と言っていたくらいで、どうも本気で自分の子供じゃないと思ってたフシがあった。それでも結局認知したのは、だんだん騒ぎが大きくなってA子さんと子供の存在が周囲に知られるようになったから。そんな時に認知裁判でも起こされば、マスコミの格好のネタになると思ったからだよ」
実際、石原はこの認知騒動後に、A子さんと子供を当時住まわせていた白金から実家の新潟へ、幽閉するかのように引っ越しをさせるのである。さんざん愛人関係を楽しんでおきながら、子供ができれば自分の子供じゃないと主張し、騒ぎが大きくなれば渋々認知して人目につかない地方に閉じ込める……。
そういう意味では、こんなエゴイスティックな人間もいないだろう。若くして芥川賞を受賞し、圧倒的な人気で国会議員に転身。そして、妻や亡き弟・裕次郎、さらに衆議院議員の長男・伸晃といった「理想の家」を家長として率いる自分。こういった選民意識まるだしの脆弱なプライドこそ、石原慎太郎という人間にとってもっとも重要なのである。事実、選挙に絡み愛人と隠し子問題をマスコミに書かれることをなにより恐れていた石原は、それまでさんざん迷っておきながら、『フライデー』とのバーターが成立した日、つまり徳田との密会現場を撮らせた3月9日の翌日に晴れやかな顔で出馬表明するのだ。出馬会見や選挙期間中、さんざん辟易させられた自信満々・傲慢そのもののあの物言いも、しょせんお笑い草でしかないのである。
● 石原慎太郎という男の人間性
ただ不可解なのは、なぜ石原慎太郎は今回そこまでして、必死に東京都知事になろうとしていたのか、である。
前述したように、石原はあの徳田虎雄を利用して『フライデー』とバーターしたのである。彼が医療法人徳洲会理事長というスポンサーと噂された大物と引き換えても手に入れたかったものとは、ほかでもない都知事のイスなのだ。だいたいそれほど権力の座にこだわるのなら、なぜ4年前任期途中にかかわらず議員を辞めたのか。
その理由については、石原自身も意味不明なセリフを繰り返しているが、いまから30年ほど前、あの”保守の帝王”江藤淳が指摘しているこの一文がもっとも分かりやすい。
<…ここから彼一流の自己劇化の衝動が生まれる。つまりかっこいい絶対者の地位に自
分を置いておかなければ安心できないという焦燥が生じるのである>(68年『婦人公論』)
身もフタもなくいってしまえば、ようするにこの石原慎太郎という男は、特権意識とプライドだけが肥大化した異常な目立ちたがり屋なのである。どうやら、自分という人間は<絶対者の地位>にいなければいけない、とでも思っているフシさえある。だが、石原慎太郎が”王様”でいられる場所など、もうどこにもなかったのだ。政治評論家がいう。
「4年前、石原さんが突然議員辞職した理由は簡単です。誰も彼のことを相手にしなくなったからです。石原は自社政権を作ったひとりだが、人望がないうえに経済オンチ、エラソーにするだけで、派閥を率いて子分にカネを配る力もない。89年の総裁選の時、立候補に必要な20人の推薦人を集めるのにも苦労したように、当時の自民党内での石原さんの存在理由なんて、選挙の時の人寄せパンダぐらいのもので、仮に石原さんが笛を吹いても、誰も踊らないような状況だった。彼にはそれがガマンならなかったんですよ。だから、せめて議員在職25年の演説という舞台をわざわざ選んでタンカを切り、辞職したんです。その意味では、非常に分かりやすい人ですよ」
議員辞職後、復権しようと働きかけた文壇でも同様だろう。満を持して出した復帰第一作『肉体の天使』は文壇から完全に無視され、故・裕次郎を描いた『弟』という私小説でも批評家からは相手にされず、喜んだのは裕次郎ファンの一般読者だけ。いまや石原を必要としているメディアなんて、少部数のタカ派論壇誌ぐらいのものなのである。
「『文藝春秋』が98年3月号で発表した<思い出に残る芥川賞作品>で、石原の『太陽の季節』が読者アンケートの断トツ1位になっていたが、そこに掲載されていた石原の文章が哀しいよね。すでに自分が<古い価値観>になっていることも気づかずに、いかに当時自分が<古い価値観>と闘ったかをさも自慢気に書いているんだから」(文芸評論家)
そういう意味では、石原慎太郎にとって自分が<絶対者の地位>でいられる場所は、もはや東京都知事しかなかったのである。
それも東京都知事選といえば、これまで選挙という選挙で必ずぶっちぎりのトップ当選を果たしてきた石原にとって、唯一無二の敗北を経験した選挙だった。その特権意識を充足させるためにも、石原はなんとしても都知事選に出馬し、勝つ必要があったのだ。
しかもである。石原は一見、周辺の人間に外堀を埋められたため仕方なく出馬したというポーズを装っているものの、実は密かに準備していたフシもある。というのも、石原は都知事選が話題に上りはじめた昨年12月、幻冬舎から『法華経を生きる』という単行本を出版しており、この本がどう読んでも、自分の”支持者たち”に媚びるために書いたとしか思えないような内容なのである。
「タイトルからも分かる通り、ひと言でいえば、五木寛之『大河の一滴』の二番煎じのような内容なんですが、違うのは五木は真宗大谷派に、そして石原は、日蓮宗系の在家団体、つまり霊友会や立正佼成会といった宗教団体に向けて書いていることでしょう。実際この本のなかでは、立正佼成会の開祖、庭野日敬の著作が頻繁に引用されていたり、霊友会のシャーマン・小谷喜美を褒め讃え、選選挙の時に霊友会から20万票回してもらった話などが随所に登場するんです」(前出・文芸評論家)
事実、石原にとって霊友会や立正佼成会は、これまで最大のスポンサーであり最強の集票マシーンだった。そして実をいえば、それは今回の都知事選でも同様だったのである。別の石原の関係者が明かす。
「怪文書には徳田や松浦云々と書いてあったが、実際の選挙資金は、おそらく立正佼成会がかなりの部分を負担したはずです。もちろん票集めもね。霊友会は数年前の久保継成会長の女性スキャンダルで組織が分裂状態のため、今回はそれほどでもないが、元をたどれば立正佼成会も霊友会から派生した団体。つまり『法華経を生きる』は、都知事選に出たらお願いします、という石原から信者に向けたメッセージだったのかもしれないな」
2年前、本誌は石原を「醜悪」と批判したが、こうなるとむしろ「哀れ」とも思える。
いや一番哀れなのは、こんな人物を都知事に迎えてしまった東京都民、かもしれない。
<敬称略>
□植物園ポンと寄付 総額20億近く松戸市に [読売新聞]
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/news001.htm
植物園ポンと寄付
総額20億近く松戸市に
松戸市紙敷に整備された私設植物園(敷地面積約1ヘクタール)が、所有者の男性から土地ごと市に寄付され、19日に市営の「東松戸ゆいの花公園」として開園することになった。松戸市が8日、発表したもので、関係者によると園の資産価値は土地だけで約15億円、建物や造成費は数億円と見られるという。異例の高額な寄付に市側は「市内では初めての植物公園にもなり、緑の街づくりを進める上でも素晴らしい話」と歓迎している。
公園は、市内在住の男性が6年ほど前に購入した区画整理保留地。当初から、一部用地を公園化して市へ寄贈する話が持ち上がっており、2005年10月からは市も加わって具体的な整備計画について検討を重ねてきた。造成やクラブハウス建設などの費用はすべて男性側が負担し、今年2月22日に正式に寄付された。名称の「ゆいの花」は、多くの人が花を通じて結ばれてほしいという男性の意向で決められた。
地元関係者によると、男性は外国の貧しい子供を援助するなど積極的に慈善活動を行っているが、公的表彰などはすべて断っているという。また、男性は匿名を強く希望しており、開園式典にも出席しない予定。現地の土地区画整理事業は長く停滞していたが、市側は公園建設が、事業進展の好機にもなると期待を寄せている。
同公園では、桜やツバキなど124種約4600本の樹木をはじめ、草花も含め計205種の植物が楽しめる。約3000平方メートルの芝生や、花壇、岩が並ぶロックガーデンなどもあり、すでにキンギョソウやマーガレットなどの花が園内を彩っている。クラブハウス「マグノリアハウス」の屋根は、モクレンの花をイメージしたデザインで、カルチャー教室や花の講習会の開催が可能。
入園無料で、約40台収容の無料駐車場も近くに設置される。市は、年間約2000万円の維持費を負担する。管理の都合で午前9時〜午後5時(11〜2月は午後4時半)のみ入園可能で、年末年始と月曜(休日の場合は翌日)休園。開園式典は19日午前11時から行われる。問い合わせは同市公園緑地課(047・366・7380)へ。
(2007年5月9日 読売新聞)
(回答先: [石原都知事]海外出張、四男問題、いじめ発言に批判殺到|毎日新聞 投稿者 white 日時 2006 年 11 月 25 日 11:56:56)
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-539.html から転載。
七曲署は石原都知事を追え!
豪華外遊に加えて四男を公費で優遇する…。
石原慎太郎東京都知事の都政私物化は目に余る。
だいたいこの人の感覚はおかしい。
1981年には、弟の石原裕次郎が入院したからといって、小笠原諸島から自衛隊機をチャーターして飛ばした(燃料代160万円)というから、公私のケジメをわきまえていないのは折り紙つきである。
こんども、ケタ違いのうえにクルージングや二輪レース見物など私的関心にもとづく外遊だ。
しかも、四男を公費で海外に行かせていたのだからあきれる。
これでも東京都民は彼を選ぶのか、来年の都知事選挙を全世界が注目している。
それとこれはもう石原ファミリーによる、公金横領の部類ではないか?
ぜひとも七曲署の刑事たちには、都庁と公邸、私邸に張り込み、石原ファミリーの犯罪を暴きだしてほしいものだ。
冥界からボス・藤堂俊介(石原裕次郎)蘇れ!!
そして、渡哲也君、舘ひろし君たち石原軍団諸君!
いまこそ君たちの出番ではないかね。
選挙の時だけ、人寄せパンダしている場合ではないと思うのだが…。
(回答先: 2つの顔の人物埴輪が出土 和歌山・岩橋千塚古墳群(朝日新聞) 投稿者 シジミ 日時 2006 年 12 月 01 日 22:40:31)
「一つの頭の前後に顔が二つある人物埴輪」とは「両面宿儺」像ではないのか?
「両面宿儺」の詳細については以下を参照されたし。(シジミ)
●両面宿儺(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E9%9D%A2%E5%AE%BF%E5%84%BA
●両面宿儺伝説をめぐる奇想(原田 実)
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/gamen.htm
フォローアップ:
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20061128ik05.htm
ぜんそく全患者に医療費
都、和解へ救済案…東京大気汚染訴訟
東京都内のぜんそく患者ら96人が国や都、自動車メーカーなどに約20億円の損害賠償を求めている東京大気汚染訴訟で、都は28日、和解に向け、都内在住のぜんそく患者全員を救済する新たな制度の創設を東京高裁に提示する。
同日午後、石原慎太郎知事が東京高裁を訪れ、裁判所側に説明する。高裁では今後、都の提示を国や原告側に示し、和解を促すことになる。
国、車メーカー対応焦点
提示される新たな救済制度は、被告の都と国、旧首都高速道路公団(現首都高速道路会社)、メーカー7社がそれぞれ負担金を支出し、国の公害健康被害補償制度で救済の対象外になっている都内の未認定患者全員の医療費を給付するというもの。患者の自己負担はゼロにする。
都の提案に対して、国、メーカー、首都高速道路会社側の対応が注目される。
都は現在、18歳未満のぜんそく患者については独自の医療費助成制度を設けているため、新たな救済制度は、18歳以上の未認定患者が対象。都の試算では都内のぜんそく患者は約20万人近くに上り、助成額は年間数十億円になる見通しだ。
石原知事は9月27日の都議会で「裁判所に任せていても抜本的な解決にはつながらない」として、新たな救済制度を検討していくことを明言していた。
控訴審は9月に結審したが、東京高裁では現在も原告、被告の双方から意見を聴取しながら、和解を模索している。
これまでに、国側は「国に責任はなく、排ガスとぜんそくとの因果関係も証明されていない」と主張。一方のメーカー側は、株主代表訴訟の懸念などから「金銭の負担は難しい」としながらも、社会的責任から環境対策への支出には前向きな姿勢を示している。
東京大気汚染訴訟 都内のぜんそく患者らが1996年5月、国と都、旧首都高速道路公団、自動車メーカー7社を相手取り、約20億円の損害賠償などを求めて提訴した。2002年10月の1審・東京地裁判決は排ガスとぜんそくの因果関係を認め、沿線住民7人について総額7920万円の支払いを命じたが、メーカーの責任は否定した。今年2月までに提訴は6次に及んでいる。
(2006年11月28日 読売新聞)
フォローアップ:
(回答先: [石原都知事]海外出張、四男問題、いじめ発言に批判殺到|毎日新聞 投稿者 white 日時 2006 年 11 月 25 日 11:56:56)
□石原知事の四男、公費で海外出張 都「問題ない」 [朝日新聞]
http://www.asahi.com/national/update/1122/TKY200611220407.html
石原知事の四男、公費で海外出張 都「問題ない」
2006年11月22日22時31分
芸術活動に携わっている石原慎太郎・東京都知事の四男(40)が03年3月、都職員らと一緒にドイツ、フランスを訪れた際、費用計55万円を都が全額負担していたことが22日、共産党都議団の調査で分かった。都は「都の事業の外部委員としての出張で支出に問題はない」としているが、委員の委嘱は1カ月間だけ。庁内からは「海外出張のための委員委嘱では」との声も上がっている。
都側の説明では、四男は同月19〜26日、文化行政担当の都参与とその妻、都職員と4人で、石原知事脚本の「能オペラ」の制作準備のためドイツの室内楽団や欧州で活動中の日本人作曲家と打ち合わせなどをした。四男の航空運賃や宿泊費は都が全額負担した。
四男は、都の若手芸術家の支援事業「トーキョーワンダーサイト」に助言、意見をする芸術家として、03年3月1日、外部委員「アドバイザリーボード」の委嘱を受けた。委員としての報酬は受け取っていないという。「事業の理解者として委員に委嘱した。旅費の支出に問題はない」としている。
しかし、委嘱の期間は同31日までの1カ月間だけ。この事業に詳しい都幹部の一人は「極めて不自然。海外出張させるために委嘱したと疑われても仕方ない」と話す。
「能オペラ」は04年2月に東京公演を予定していたが、作曲家との調整がつかず中止された。四男はその後も参与らの海外出張に数回同行しているが、都は出張費を負担していないという。
ワンダーサイト事業について石原知事は今年9月の記者会見で、「私が考えついたんだからね。トップダウンですよ」と話している。
□騒動の渦中…康夫知事挑発 バナナがいやなら…パイナップルが欲しいって希望を言わなきゃ [スポーツ報知]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1788053/detail?rd
騒動の渦中…康夫知事挑発 バナナがいやなら…パイナップルが 欲しいって希望を言わなきゃ
ヤッシー知事、本音激白―。百条委員会で偽証を認定されるなど、大騒動の渦中にいる田中康夫長野県知事(49)が19日、騒動後初めて、スポーツ報知の単独インタビューに答えた。「中世の魔女狩りもビックリだね」と“冤罪(えんざい)”について一言。8月の県知事選に向け、出馬宣言こそ出なかったものの「(田中康夫という)バナナがいやなら、『このパイナップルが欲しい』と言わなきゃ」と、著名人の対抗馬準備中の対抗勢力を挑発。初めてファイティング・ポーズをとった。
スポーツ報知単独インタビュー
―全国からは全体像が見えにくいが、長野県内では百条委で大変なことに。
「いやあ、中世の魔女狩りもビックリだね。4年前の不信任でも不死身だった(笑い)ヤッシーを山国から追い出したい守旧派議員が過半数を占める県議会が、この夏の知事選(8月下旬)を控えて、うごめいてるんだよ」
―公文書を破棄した部下に、知事は『(破棄を)指示していない』と証言。
「だって、その元幹部職員から『破棄した』と事後報告メールが一方的に届いて、驚いて他の部下に『破棄はまずいよね。彼の判断や行動も含めてチェックして下さい』とメールしたら、それは『破棄を容認した』のだから『言外の指示』で、僕の証言は偽証なんだって(笑い)。それって、『死刑に賛成か反対か? 回答がない場合は反対とみなす』という市民団体のアンケートと同じじゃないの?」
―偽証認定は44対13という県議の採決で可決された。
「あのね、証人喚問された他の職員は全員、否定しているんだよ。なのに、多数決で真実を決めるのが民主主義だと言いながら、たった1人の現在は閑職の元幹部の発言だけが真実だと逆多数決(苦笑)って、御都合主義でしょうよ」
―今後、知事は偽証したとして、刑事告発される流れだが。
「検察も警察も頭を抱えちゃうんじゃないの」
―今年8月31日に任期が切れる。就任5年半を振り返ると。
「5年連続で借金を減らしてるのは全国で長野県だけ。プライマリーバランス(財政収支)も6年連続で全国唯一の黒字化。僕の就任前は公共事業費が、福祉や教育の社会保障費の3倍もの予算額だったのを、ついに次年度では逆転させてるしね」
―それでも支持率は30%台と厳しい数字。
「アハハ、なぜかゼネコンの鹿島も会員に加わる長野県世論調査協会のデータでは、ブッシュちゃんと(低い支持率で)一緒なんだ。有効求人倍率は全国上位の1・20。完全失業率も低い方から3番目。だけど、オイシイ思いがなくなっちゃったのかも。守旧派には」
―どうして、知事への反発は激しい?
「役人上がりの知事が41年以上も牛耳ってきた県政を変えてくれ、とクラーク博士じゃないけど、明治期の“お雇い外国人”みたいに招かれたのが僕だから。ところが、地元の銀行や新聞が音頭を取って招致した冬季五輪の、焼却したはずの帳簿まで見付け出して、県外の弁護士や元刑事で委員会を作ったから、こんなはずではなかった、と危機感を感じたのかもね」
―実は、(暗闘に)もう疲れ切った?
「じぇ〜んじぇん(全然)。全国一低い給料の僕は、ギャラなし(の)広告塔なんだから、過労死するくらい酷使すれば、連中も賢いのにね」
―ずばり、8月の知事選出馬は?
「(対抗馬という)カードを切らなきゃいけないのは向こう。お手並み拝見でしょ」
―実は新党日本の代表として国政進出も?
「田中康夫って、メディアでの発言だけでなく、実際に行動して社会変革する存在だから。より社会貢献できるなら、民間企業(に転身)だって楽しいと思うよ」
―対立候補選びは難航しているようだが―
「『(田中康夫という)バナナがいや』なら(対抗馬として)『このパイナップルが欲しい』と自分で希望を言わなきゃ。でないと、おなかはすいてるけど、バナナだけはイヤ、と駄々をこねてる子供と同じだよ。信州大学出身の猪瀬直樹さんに(出馬を)頼みに出掛けた経済人もいるらしいよ。でも、彼だと公共事業はもっと激減しちゃうね。耐えられるのかな(笑い)」
◆田中 康夫(たなか・やすお)1956年4月12日、東京都武蔵野市生まれ。49歳。一橋大在学中の80年、小説「なんとなく、クリスタル」で文芸賞を受賞。著述活動の傍ら、阪神大震災時はボランティア活動にも従事。00年11月、長野県知事に当選。02年7月、県議会で不信任案が可決され失職も同9月、出直し知事選で再選を果たす。05年の衆院選で知事職の傍ら、郵政法案反対の元自民党議員らで立ち上げた「新党日本」の代表にも就任。近著に「東京ペログリ日記大全集〈1〉〜〈5〉」「ニッポン解散 続・憂国呆談」など。血液型O。
◆田中知事VS百条委員会の暗闘
地方自治法第100条に基づき、自治体がらみの各種事務について調査する目的で地方議会に設けられるのが百条委。うそや証言拒否には刑事罰も適用され、東京都では浜渦武生副知事の更迭にもつながった。
長野県で問題となったのは03年、田中知事の元後援会幹部が県下水道事業の入札で、自分の関連会社が有利になるよう県に働きかけをした経緯を記録した文書。ある県職員が田中知事から公開しないよう指示されたと証言し、知事への疑惑追及が始まった。
田中知事は昨年9月の証人尋問で「私からの(破棄の)指示はない」と明言。しかし、百条委は、公文書破棄の報告を(職員から)受けながら、それを制さなかったのは「事実上の指示」に当たるとし、議会の多数決で田中知事の発言を「偽証」と認定した。
2006年03月20日08時15分
松本市長(長野県)14日投開票。前県衛生部長の菅谷昭氏(60)が初当選。現職の有賀正氏(72)▽元市議会議長の田口敏子氏(57)を破る。投票率は62.14%。
確定得票数次の通り。
当48758 菅谷 昭=無新(1)
39043 有賀 正=無現(3)自・民・公
12118 田口 敏子=無新
[毎日新聞3月14日] ( 2004-03-14-23:28 )
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20040315k0000m010045000c.html
http://www.nishinippon.co.jp/kyushu_flash/kyushu_flash.html
国内最大級の照葉樹林が広がる宮崎県綾町での高圧送電線鉄塔建設をめぐり、九州電力(本社・福岡市)は31日、宮崎市の宮崎支店で、初の公開説明会を開いた。
市民グループ「綾の森を世界遺産にする会」(代表・上野登宮崎大学名誉教授)の要請や署名活動を受けて開催。市民約70人が出席し、九電側は、宮崎真佐雄用地部長らが質問に答えた。同会は、鹿児島県の川内原発3号機建設問題が決着するまで鉄塔建設工事を凍結するよう要望したが、九電は拒否。議論は終始、平行線だった。
質疑では「照葉樹群落をかすめて送電線が通れば、世界自然遺産登録に影響がある」との同会の主張に対し、九電は「実際に送電線が通っている世界自然遺産もあり、問題ない」と回答。 また、送電線とともに同県木城町に建設中の小丸川揚水発電所について、同会は「出力調整が難しい原発の付属施設であり、電力需要が低迷する中、不要ではないか」と指摘したが、九電は、原発と揚水発電の関連性を否定し、「小丸川揚水は、電力需要のピーク時や緊急時の対応に必要」と説明した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040116-00000181-kyodo-soci
長野県から「信州」への名称変更の考えを表明した田中康夫知事は16日、県の対外的事業名などを順次「長野県」から「信州」に変更する方針を明らかにした。「信州知事」と印刷した名刺も同日から、使用を始めた。
田中知事は「対外的な事業名はいずれも信州に変えていく。信州は新しい精神的なCI(企業イメージ戦略)だ」と説明。今後、観光客誘致などの事業名は順次「信州」に変え、正式な改称ではなくとも、事実上の改称で定着させる方針だ。
名刺は「脱ダム」宣言などを記載した5種類の名刺をそれぞれ500枚作成。表面には「信州知事 田中康夫」と印刷してあり、裏面には「STATE of SHINSHU」と表記している。
田中知事は、新しい名刺について「今後は、この名刺を使っていく」としており、「長野県知事」の名刺は使わない見通し。
田中知事は5日の仕事始め式のあいさつで、信州への改称を検討すると表明。麻生太郎総務相が難色を示している。(共同通信)
[1月16日19時52分更新]
長野県議会事務局が、県情報公開条例に基づいて県議に関する情報公開請求があった際に、請求者の名前、住所、電話番号など請求書に記載されている個人情報を、該当する県議に知らせていたことが15日分かった。これまでも、一部の請求について同様の取り扱いをしていたという。
情報提供した理由について同事務局は「事務局と議員はともに議会を構成しており、議員をサポートするのが事務局の役割」と説明する一方、「個人情報の取り扱いに問題があったと現時点では考えている」と話している。同日午後に記者会見を開いて概要を説明するという。
同事務局などによると、今月9日にある県民が、県議3人の旅行命令票などの公開を求めて県議会に公文書公開を請求した。事務局は小林実県議会議長と相談したうえで、県議3人と連絡をとり、請求書の写しをファクスでそれぞれの自宅や事務所に送ったという。
別の県内の男性が開いているインターネットのホームページにこの県民の名前や請求内容が掲載されていたため、請求した県民が13日に県庁に問い合わせて問題が発覚。県議のうち一人が、他人にこの内容を話したことがホームページへの掲載につながっていたことが分かった。現在は名前などは伏せられているという。
県の情報公開を担当する県文書学事課は「個人情報保護条例や情報公開条例の趣旨に反しており、取り扱いが適正でなかった」と指摘している。【西田進一郎】
全国市民オンブズマン連絡会議幹事の清水勉弁護士の話 情報公開は誰でも使える制度だが、言い換えれば誰が請求しているかを問題にしない制度ということだ。事務局職員も議員も初歩的なことが分かっていない。情報の公開度が高い長野県でさえこういう問題が起きたということは、行政レベルで個人情報保護法への取り組みが遅れていることを示している。田中康夫知事は原因を究明したうえで、職員の研修を徹底し、県議会も猛省すべきだ。
[毎日新聞1月15日] ( 2004-01-15-12:39 )
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20040115k0000e040058001c.html
[有機農業視察見聞録]
http://members.jcom.home.ne.jp/cuba/
さる12月21日、自然エネルギー推進市民フォーラムが主催したエネルギーシフトをテーマとした講座に参加してきた。有機農業と自然エネルギーで国を支えているキューバの状況について、吉田太郎さんがお話をした。彼は都庁の農林官僚で、著書には『有機農業が国を変えた―小さなキューバの大きな実験』(コモンズ)、『200万都市が有機野菜で自給できるわけ―都市農業大国キューバ・リポート』(築地書館)がある。
非常に興味深い内容だったので、以下、筆者が聞き書きしたものからご紹介する。
1,100万人の人口を持つキューバは、世界を席巻しているグローバリゼーションとは反対方向にある。この国は社会主義圏の中でグローバリゼーションを経験しており、砂糖を生産する代わりにソ連から石油の供給を受けてきた。
ところが、1990年代のソ連崩壊とアメリカによる経済封鎖は、エネルギーの枯渇を招いた。輸出入の1/3を失い、GNP成長率はマイナス20%(1993年)に落ち込んでしまう。基礎的エネルギーをどのようにまかなうかが国家の存亡をかけた緊急課題となり、様々な手を打ち始めた。
「本当に必要なもの以外は消費しない」をスローガンに、これまでエネルギーを必要としてきた技術をローテクノロジーに転換し、節電に努め、自然エネルギーを導入した。キューバ国民1世帯あたりの消費電力は117kWhに過ぎないが、これはサトウキビのバガス(絞りかす)を使ったバイオマス発電、河川における小水力発電、風車を使った揚水施設や風力発電、太陽光発電、木質バイオマスを供給するための「エネルギー林」の造成といった懸命のエネルギー源開発と共に、子どもに対する環境教育を通じて最小のエネルギー消費で抑えているのである。
エネルギー消費を抑えるために、農業の転換も図られた。トラクターは牛耕に、化学肥料は天敵に、輸入に頼っていた飼料は林間放牧へ取って代わり、国を挙げて有機農業に取り組み始めた。こうして大規模な国営農場は解体され、独立採算性による小さな組合が設立された。国民一人一人が農業に携われるよう、法律も改正された。「人民耕作」は個人による自給用のコメづくりであるが、日本から最新技術を導入することで収穫量をアップさせたそうである。その最新技術とは「田植え」であった。
首都ハバナのような大都市では軍民が協力して空き地を利用した野菜栽培が始まった。日本では若者を中心にスローフードが持てはやされているが、キューバでは国を挙げてスローフード運動に取り組み、市内にはベジタリアンレストランも開店している。
また、政府もエネルギー消費を抑える技術の開発に努めており、高温のため作物が育たない夏場でも農業ができるよう、温室ならぬ「冷室」が開発されている。屋根を二重ガラスにし赤外線を吸収するフィルムを貼りつけて中を涼しくするのである。研究機関での殺菌装置も熱ではなく圧力で殺菌している。政府だけでなく、国内に2,200あるNGOも太陽光発電の普及などで活動している。
こうしたキューバ政府の政策を支えているのは、アメリカから独裁者と忌み嫌われているカストロ議長の指導力に負うところが大きい。世界を席巻しているグローバリズムは後50年も続かないとし、「消費社会から将来は描けない」と語る議長は、政府の意識改革に取り組み、行政改革や非効率的な組織の改廃を断行し、エネルギー消費が小さくとも耐えうる国家を作った。もちろん共産党による一党支配であるし、住民参加を進めているのは革命防衛委員会という隣組組織。国民の平均月収はわずかに20ドルだ。しかし、国民はスローに楽しみながら生きている様子。
吉田さんは「幸せとは何か」を考えさせられたと語った。(山崎求博) [2003/12/27 ]
■キューバの有機農業サイト
http://members.jcom.home.ne.jp/cuba/
http://www.janjan.jp/world/0312/0312269739/1.php
参考:キューバの有機農業について【参議院農林水産委員会の質疑】
http://www.asyura2.com/0311/war42/msg/597.html
今年は豊作、水俣のみかん
不知火海を見渡す丘陵地。この土地でみかんが収穫される。
熊本県水俣市は、今から50年ほど前に発生・拡大した、水俣湾での有機水銀による被害に代表される公害病、「水俣病」で知られる。(病名に地名が使われた日本最初の公害だけに、知名度が高い。) 一方で、その負の歴史を克服して、地元学(足元の当たり前の豊かさに気づくための取り組み)などで活力を取り戻し、今や地域づくりのモデルとして注目を集めるに至っている。
地産品の象徴として、甘夏などのみかんは有名だが、これは水俣病によって、沿岸漁業が営めなくなった漁民を中心に、1960年代に農業に活路を見出したのが始まりという。山を開き、サツマイモ畑やみかん園を広げていったが、海での有機水銀の災禍に続き、転進した先の農園で、今度は農薬に苦しめられた。(農薬使用が現在よりも、無防備に扱われたことに起因している。) 肝臓を痛めるなど健康被害に遭う生産者が増えたため、1970年代になって、水俣病患者や支援者が中心になって、医療の勉強会を継続的に開催。「農薬は劇毒」という認識を共有する。
以来、無農薬のみかん栽培をめざし、「水俣病患者家庭果樹同志会」「反農薬袋地区(はんのうやくふくろちく)生産者連合」「津奈木(つなぎ)甘夏生産者の会」の三者が共同して「水俣みかん共同出荷組合」を結成。「反農薬」「有機栽培」「自主販売」を柱に、甘夏をはじめとする柑橘類や野菜などを生産・出荷し、好調だ。公害の原点とも言える土地だからこそ、食の安全性に対する思いは強い。水俣病の患者や家族の人たちが関わっているため、「公害の被害者の生産活動によって、新たな被害者が出るようなことはしまい」という決意が込められている。「水俣だからこそ安心安全」と、逆に水俣産であることを強調しているのがポイント。水俣病のマイナス要素をプラスに転じた好例として、水俣のみかんは語られている。
水俣・芦北(あしきた)地域は、不知火海(しらぬいかい)に面したリアス式海岸の続く丘陸地。日照に恵まれ、水はけがよく、柑橘類栽培には打ってつけ。小みかんや温州(うんしゅう)みかんは昔から植えられていたが、特に丈夫な甘夏は農薬、化学肥料ともに全く使用しなくてもいいため、代表格になっている。ノーワックス、ノーブラッシング、無選別で出荷できる強みは大きい。
一年おきに豊作と不作を繰り返す傾向(表と裏)があるそうだが、今年は表の年に当たるため、どこも豊作。今夏7月20日に豪雨による土石流が水俣を襲ったが、幸いみかんには影響はなかった。水俣みかん共同出荷組合の他、(財)水俣病センター相思社(そうししゃ)でも、みかんの出荷であわただしい時期を迎えている。
日付 2003-12-17
筆者 冨田 行一
媒体 寄稿
団体名 東アジア環境情報発伝所
URL http://www.eden-j.org/
http://www.enviroasia.info/japanese/index_j.php3?status=n_view&w_num=1216
-------------------------------------------------------------------------
関連URL
苦海浄土―わが水俣病 講談社文庫 石牟礼 道子 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061340204/qid=1071813718/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-6036734-9296363
(回答先: ピラミッド建設はムー、アトランテイス等の文明崩壊後の1万500年前頃か 投稿者 小林佳子 日時 2003 年 12 月 06 日 11:12:03)
グラハム・ハンコックはエドガー・ケイシーのリーディングに立脚していると思います。
http://oriharu.net/jlogbbs2003.htm#BC10500
★ 日本政府はイラク戦争が始まる前から、戦争を支持するための難民支援を訴えた。ところが現状は、難民支援は8月でストップした。日本を始め、少なくとも戦争を支持した国は、その代償としてこれらの難民を受け入れる義務があるのではないだろうか。
2003/10/2掲載
中東担当: 佐藤真紀
ちょうどアンマンから難民キャンプに向かう車の中で、ローカルスタッフのムラッドがアラビア語の新聞を訳してくれた。
国連に難民認定されないソマリア人のグループがルウェイシェッドのUNHCR事務所を占拠していたが、焼身自殺を図ろうとガソリンを撒き火をつけた。2名が怪我をした。うち一人は40%以上のやけどを負い重体だという。
難民キャンプはヨルダン政府とUNHCRの合意の元、運営されてきたが、10月15日で契約がきれる。ヨルダン政府は、一切難民を受け入れるつもりはない。難民に与えられた道はそれぞれの国籍にしたがって帰国するか、イラクに戻るかしかない。国連とヨルダン政府は、難民キャンプの始末を巡り交渉を続けているが、いまだに話し合いは平行線をたどっている。
すでに5ヶ月以上を経過したキャンプのテントはぼろぼろである。ルウェイシェッドは砂漠の真ん中で、時たまやってくる砂嵐にキャンプの住民は悩まされている。ちょっとしたプレハブ住宅くらい建てればいいのにと思うのだが、なぜ、難民といえばテントなのだろう。
UNICEFも学校用テントを作ったが、登録している子どもたちは77名。しかしたった77名の子どもたちにも十分な教科書が供給されていない。アラビア語と算数、科学の教科書が新学期を迎えるにあたり届けられたが、二人に一冊程度だというのである。
住民の不満は国連機関に向けられている。
パレスチナ人のイプティサンは夫がヨルダン人だったが、イラクの芸術大学の博士課程で演劇学を研究していた。夫はすでに亡くなっている。戦争直後バグダッドのヨルダン大使館に問い合わせたら、「大丈夫、パスポートがなくても受け入れる」というので、タクシーをチャーターし、息子二人を連れてヨルダンにむかった。国境でタクシーを降ろされ、バスに乗せられた。連れてこられたところがこの難民キャンプだ。5ヶ月がたった。
彼女にとって、こんなテント暮らしは生まれて初めてのこと。精神的な落ち込みが激しい。周囲のテントの住民にも違和感を覚える。乱暴な人たちに思えて一人でキャンプの中を歩けないというのである。彼女のテントは国連の事務所のすぐ近くである。
「私にはああいった乱暴なやり方が理解できない。」
昨日のソマリア人の自殺未遂はさらに彼女を鬱状態にしたようだ。
最近彼女はJVCとCAREがやっている子どもたちの活動に興味を示し何かと手伝ってくれる。文化的なことにかかわっていないとやっていけないのだという。
イラクの復興ばかりが注目される中、国境での難民たちの生活はあまりに悲惨である。日本政府はイラク戦争が始まる前から、戦争を支持するための難民支援を訴えた。ところが現状は、難民支援は8月でストップした。日本を始め、少なくとも戦争を支持した国は、その代償としてこれらの難民を受け入れる義務があるのではないだろうか。
[2003/9/25]
佐藤真紀がバグダッドに入りました
佐藤は9月26日早朝ルウェイシェッドを出発、怪我の治療にアンマンに来ていたイラク人、ムスタファ親子とともに無事にバグダッドに到着しました。
アンマンで買い付けた白血病の薬も無事に病院に届けることができました。バスラ、モスルなどの病院も訪問する予定です。
http://www.ngo-arena.org/members/jvc/jvc.html
2003年9月24日 緊急転載メール4
今年七月に、我らが日本から、心ならずもアフガンへ帰還していったアフガン難民を支援する会が結成された、とのメールを受け取った。末尾の、日本で彼がたどった経緯がまた恐ろしい。「難民虐待大国」の呼び名が誇張でないことを実感していただけるのではあるまいか。
以下、転載します。
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難民認定されず、家族を呼べず、帰還してしまった
アフガン難民を助けてください!
【転送・転載大歓迎!】
振込み先は郵便局のぱるる
口座名義;帰還したアフガニスタン難民を支援する会
口座番号:10130−98267551
問い合わせ先:
電話:06−6927−9559
Eメール:nan_afg@yahoo.co.jp(半角にしてください)
帰還したアフガン難民を支援する会 岩田 賢司
7月末に帰還したアフガニスタン難民のグラム・フセインさんが、帰還先のパキスタンで、タリバンとおぼしきパシュトゥン人武装集団に襲われました。
1度目は息子さんが「知らない」と門を挟んで言い張り、なんとか押し返したのですが、2回目は家に押し入ってきました。1回目に襲われてからフセインさんは夜、自宅から出てホテルに泊まり歩いていたようですが、4、5日して朝自宅に帰ってみると、子どもたちがただならぬ様子だったので、何があったのか聞くとふたたび武装集団がやってきたのだそうです。フセインさんの名前を挙げ、「殺す」とも言われたそうです。
おそらく1度目襲った後、再度、その住所に間違いないかどうかを確認した上で来たのだと思います。記事にあるように、フセインさん家族はなんとか家を別に借りて、隠れ住んでいます。
フセインさんは、日本にいるときからずっと腰痛をかかえており、おそらく100メートルも続けて歩くと休まないとダメな状態です。奥さんは、今年の5月頃から、おそらくパニック障害のような状態が続いています。
おそらくアフガニスタンでは、普通なら息子たちが父親に代わって生計を維持するのでしょうが、第1子をタリバンに殺され、第2子も生き別れて再会できず、第3子もタリバンによって足指を切り落とされ、障害者となっているフセインさんの家族は、そうした生計を維持するための世代交代に失敗しています。
フセインさんが帰国を決意したのは、上に述べた、奥さんの病気のことがあります。奥さんが一種のパニック障害のようになって泣き叫び、失神するような状態になっているからです。母親の異常な状態にどうしてよいか分からない息子さんが泣いて「帰ってきて」とフセインさんに電話してきました。おそらくそのときフセインさんに、日本で在留資格を得られるたしかな可能性があれば、「もう少し待て」といえたのでしょうが、そんな展望のないフセインさんにはそれも言うことができなくなりました。と同時にフセイン自身は、腰痛と、自動車免許がなくいよいよ日本で働けなくなり、パキスタンに送金できなくなりました。追い詰められたフセインさんは結局帰ることを選んだのでした。
フセインさんがアフガニスタンへの帰還を口にしたとき、フセインさんに「もしアフガニスタンに帰ったら自分はどの程度危ないと思うか」と尋ねたとき、フセインさんは、「80%」と応えました。シナピス難民委員会の人たちは、必死で彼が日本で残れる方法を、それこそひねり出して、思いとどまるよう説得しました。フセインさんもいったんは説得を受け入れて、帰還を思いとどまりましたが、1か月もたたないうちに「家族のもとに帰る」と言ってきました。その再建プランも現実には難しいものでした。再び帰国を口にしたフセインは、しかしもう「80%」の話はしませんでした。そしても、もう僕もそのことは聞きませんでした。1月の間に状況がよくなるはずがありません。しかしその話をすれば、再びとめられると思ったのだと思います。還るまえは、冗談を連発し、みんなを笑わせていました。もちろん、家族と会える喜びもあったと思います。われわれに対するお礼の気持ちを込めてそうしているのなら、そのまま受け取ろうと。また、帰国した後の生活についても、私たちに聞かせるために、あるいは自分に言い聞かせるために用意した絵空事のようなプランを語るのを聞いていました。
帰国した当初は、喜びの電話でしたが、8月に入ってから、フセインさんの話が違うようになり、フセインさんの片言の日本語では分からないため、息子さんに状況を英語で書いて、電子メールを送ってほしい、と頼みました。
ペシャワールでは、インターネットカフェのようなところ(そんなしゃれたものではぜんぜんない、場末のあばら家のようなところですが)があり、そこでインターネットを利用できます。そこから英語で送ってもらった情報が、襲撃されたというものであり、はじめて実態が分かったのでした。
その後、イラン人に通訳になってもらい詳しく聞いたところ、新聞記事のような内容が判明しました。
今私たちはフセインさんに最低限の生活を支えるためのお金を送ろうと思っています。これは、フセインさんが言い出したことではありません。こちらから切り出したことです。
日本で難民申請をしているアフガニスタン出身のハザラ人で、ペシャワールで定職についていた人はほとんど皆無です。みんな、ペシャワールでは隠れるように暮らしていました。その状況は今でも変わりません。そのようなところでは、親戚どうしでお金を融通しあったりすることはあっても、赤の他人を助けるようなコミュニティが成立する余地はほとんどありません。多くは、西側諸国で難民になったり、在留資格を取った幸運な家族からの送金で食いつなぐ「点滴生活」を送っています。パシュトゥン人のおおいペシャワールでは親戚同士の助け合いはあっても、現実に機能するハザラ人コミュニティはありません。
以前AP通信に、バーミヤンから逃れてきた家族の苦難を報じたニュースがありました。内容は、アメリカが空爆を開始した2001年10月、空爆に共感すると疑われ、家を焼き討ちされたハザラ人家族がでこぼこの道で車に酔い、汚物だらけになってクエッタにたどり着きました。家を焼かれた家族に残ったのはブローカーに対する借金と、コップだけでした。借金を返すために5人の子どもの父親と一番上の15歳ほどの子どもは炭鉱で働き、すぐ下の2人は絨毯織りの工場に住み込みで働き、乳飲み子とそのすぐ上の子どもは母親といっしょに、地下倉庫で暮らしているというものです。しかし上記のようなフセインさんの家族にはこの生活すら難しいかもしれません。
何年か難民の支援に携わってきましたが、日本の難民認定の生き残りレースに脱落せずに最後まで残れる人は本当に一握りの人だとあらためて痛感します。フセインさんのように初老で、字が読めない、体に障害がある、そして仕送りしなければならない家族を出身国に残しているような人が4年も5年も耐え続けることは難しい。現に家族との破綻しかけている難民の方もいます。
今までフセインさんの人となりと経過を知っていただくためにフセインさんのことだけを書いてきましたが、フセインさんの現状を日本で伝えることで、今後送還を抑止する大きな力になるのではないでしょうか。そして裁判官にも、フセインさんと連絡を取り続けることで、日本が難民認定制度によって守るべき法益とは何であるのかを問い返す、契機になるのではないでしょうか。
「支える会」は、
東京で、フセインさんの支援を続けてくだった長島さん、京都で難民の支援に取り組んでこられた河原さんの3人でスタートしました。RAFIQの田中さん、作家の池田香代子さんも呼びかけ人になってくださいました。
今後、チラシをつくってあちこちの集会でカンパを募らせていただくつもりです。チラシに多くの方が呼びかけ人になっていただけば、訴求力もますのではと思います。どうか、カンパとあわせて、呼びかけ人になっていただければ、ありがたいです。
下記のように目標を1年とし、60万円を目標にと考えています。
「1万円とすれば60人、大したことない、大したことない」と言い聞かせている毎日です(1万円出せ、という意味ではまったくありませんので!)。こうした活動に対する批判や懐疑的な意見も受け、なかなかつらい出発となりましたが、新しい仲間も得て、フセインさんとつながり続けることで、新しいことを発信したいと決意しています。
やむにやまれずはじめたことです。どうか、助けてください。
文中に出てくる新聞記事はこちら
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「帰還したアフガニスタン難民を支援する会」
<趣旨>
タリバンの脅威は去った、として日本政府は、タリバンによる迫害の恐怖を訴えてきた少数民族ハザラ人の難民申請を認めず、強制退去を命じる処分を昨年から相次いで出しています。不認定とされた多くのハザラ人難民は長期にわたる入管施設への収容を課され、その精神的後遺症に苦しむ人も少なくありません。日本での先の見えない生活に絶望し、国に残した家族の窮状に耐えかねて危険を承知で帰国したハザラ人難民もいます。
アフガニスタンは復興の掛け声とは程遠い現状にあります。アフガニスタン南部では、数百人規模で再興タリバン勢力が警察署を襲撃し、警官やNGOの援助ワーカー、現政権を支持する宗教指導者などが殺害されています。首都カブールでも、90年代前半ハザラ人の殺害、拷問、拉致、略奪、強姦に明け暮れた原理主義グループが再びハザラ人地域を襲っています。
日本から出国してしまえば、たしかにその人の日本でのファイルは閉じられるのかもしれません。しかし本当の苦難は帰ったところから始まります。アムネスティ・インターナショナルは、イギリスでのアフガニスタン難民の「象徴的」強制送還をきっかけに、帰還したアフガニスタン難民のその後を検証した報告書『Out of Sight, out of mind』を発表しました。直訳すれば「去る者は日々に疎し」です。
しかし、われわれの目の前からいなくなった彼ら難民の「その後」こそ、最も苛烈に日本の難民制度の貧困と犯罪性を照らし出すのではないでしょうか。
この会は、彼らの苦しみが続く限り、彼らとともにあることを目指します。具体的には、帰還したアフガニスタン難民と連絡を維持し、必要に応じて生活資金を含めて支援し、状況を伝えることを目指します。
<具体的な支援対象>
当面、帰還したグラム・フセインさんとの連絡を維持し、必要最低限の生活援助を行うことを活動内容とします。
フセインさんは、帰還後早々、タリバンの残党と思しき銃をもった集団がフセインさんのところにやってきて、フセインさんを探すという事件が起こりました。フセインさんはなんとか難を逃れることができましたが、フセインさんは家を変え、家からほとんど出ない生活を続けています。就労どころか移動の自由すら奪われた状態にあり、そのまま援助がなければ、心臓病を患う奥さん、腰痛の本人、タリバンに足の指を切り落とされ、就労できない15歳の息子を筆頭に5人の子どもが路頭に迷うことが必至であるためです。もし銃を持った集団による襲撃の恐れがなければ、長年の商売の経験と才覚を生かして生きるすべもあったでしょうし、マザリシャリフにいる20歳になると思われる息子さんとの再会も可能かもしれません。しかし、今のフセインさんにはその将来も閉ざされています。こうした、自力ではいかんともしがたい迫害の恐れにより、困窮を強いられている以上、最低限の生活を支援しながら、連絡を維持し、帰還したアフガニスタン人、特にハザラ人の状況について情報を得、可能な限り社会に発信したいと思います。
状況が改善されればフセインさんへの生活支援は打ち切り、定期的な連絡を維持することにとどめます(フセインさんの経過については後述参照)。
フセインさん以外でも、これまで日本で支援し、タリバン残党などに襲われた、あるいは襲われる切迫した危険があり生活に困窮したアフガニスタン難民に対してもできるかぎり支援したいと思います。
<具体的な活動>
1.募金集め
1.1募金目標額
何とか月5万円×12か月=60万円程度のお金を集められないかと思います。彼の子どもたちが学校に行く費用までは出せないし、必ずしも負担する必要はないと思います。最低限の生活を支えることを目標にしたいと思います。口座を設け、そこにお金を集中し、送金します。
1.2募金の集め方
チラシを作成して配布する、あるいはインターネットなどを通じて呼びかけ、口座への振込みや集会などでの募金をお願いする。
1.3送金について
安全上のことがあるのでできるだけ小分けにして送金する。
基本的には1年間をめどとして行う。状況が改善すれば送金は打ち切り、連絡を取り合うことで、アフガニスタンの状況をさまざまな形で発信する。
1回最高5万円までとします。送金時期などについては事務局に一任していただきます。できるだけ緊密に連絡を取り合うよう努力しますが、突然、連絡が途絶える可能性があります。
もし送金できずにお金が残った場合、半年間預けて置き、それ以降経過して連絡がない場合は、難民を支援している団体に寄付します。
2.フセインさん家族への精神的サポート
フセインさんは不十分ながら日本語を話すことができます。また、息子さんは、英語の会話やメールを書くことができます。不特定多数の人がフセインさんの家族のメールを知ると問題なので、会に集中していただき、支援者からのメッセージとして、フセインさんに送ります。
また、電話で話をすることも場合よっては可能かもしれませんので、個別に検討します。
3.UNHCRへの働きかけ
UNHCRペシャワール事務所に、フセインさん家族が第三国に出国でき、そこで庇護が受けられるよう働きかける。英文で資料を作成し、送付します。
4.会員について
会員は当面、長島さん(代表)、河原さん、岩田の3人として、会がどのような方に支援してもらえるかで考えて行きたいと思います。
5.カンパをくださった方に対して
できるだけフセインさんからの返事や様子をお知らせするようにします。方法は、Eメールのみとします。発信は適宜、不定期に行います。希望される方は、Eメールアドレスをお教えください。
問い合わせ先:nan_afg@yahoo.co.jp(半角にしてください)
フセインさんの経過
1999年7月 来日
1999年10月 友人から「帰ったら危険」の連絡を受け難民申請
1999年12月 異議申出却下
2000年2月 退去令書発布収容(1度目)
2000年2月 不認定処分取り消し訴訟提訴
2000年6月 仮放免
2000年8月 UNHCRより難民認定
千葉に移り住み生活 この当時から腰痛に苦しむようになる。
2002年9月 大阪地裁 敗訴判決
2002年10月 支援者、パキスタンで家族と面会 息子のナジル君がタリバンによって足を切られていたことを知る
2002年10月 収容(2度目)
2002年12月 仮放免→病院に入院(高血圧、卒倒)
2003年2月 精神科に受診 パニック障害、「要通院」の診断
2003年4月 この頃より奥さんの心臓病の状態が悪くなり、不安を訴える息子さんから電話。就労できず、不眠状態続く。
2003年6月 帰国を決意するも「帰れば80%命を狙われる」という本人の言葉により、支援者が翻意を促す。
2003年7月 再度帰国の決意を固め、帰国。
2003年7月 パシュトゥン人武装集団に襲われる
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(転載以上)
http://homepage2.nifty.com/ukiuki/nyukan.html
http://www.kumanichi.co.jp/kawabegawa/kiji/20031013.1.html
衆院が解散し、一気に選挙ムードが高まってきた。注目のマニフェスト(政権公約)で民主党は「川辺川ダムの即時中止」を重点項目に掲げた。利水事業(国営土地改良事業)の見直しなどに伴い、ダム事業の行方が不透明になるなか、総選挙の争点の一つに浮上し、県内関係者の表情はさまざまだ。
「菅直人代表には二度ほど会い、ダムを受け入れた村民の苦しみを伝えたつもりだったんだが…」。球磨郡五木村の西村久徳村長の表情はさえない。
同ダムとともに「税金の無駄遣い」と断じられた長崎県の諫早湾干拓、徳島県の吉野川可動堰。いずれも、菅代表が何度も現地に足を運んだ場所だ。同党の政策調査会は「代表の強い意向で重点項目になった」と説明する。
同党は、ダム事業を即時中止し、森林整備による「緑のダム」で代替するなどとしている。マニフェストに明記されたことで、川辺川ダム問題は、県内だけでなく、全国の有権者にとっても政権選択への判断基準にクローズアップされることになった。
西村村長は「マニフェストに細かく書けないのだろうが、少しは村の将来を考えてほしかった」と嘆く。
「水の手当てを急いでほしい」「負担金は安くならないのか」。衆院解散前日の九日夜、球磨郡錦町と山江村であった利水事業見直しに向けた集落座談会。参加した農家からは、さまざまな意見が出た。
利水訴訟での国敗訴により、利水事業は事実上スタート地点に戻り、新たな計画を策定中。ダムから農業用水を引くか、引かないか。結論が出るのは来年十一月の予定だ。
ダムによる治水、環境問題をテーマにこれまで八回、住民討論集会も開かれてきた。ダムが妥当な選択肢かどうかを検証するのが狙いだが、国土交通省とダムに反対する市民団体の主張は対立したまま。ダム事業は、こう着状態が続いている。
「利水や治水をどうするか検証している最中に、無駄と決めつけられても…。緑のダムにしても、有効性の議論が必要だろう。地元の実情を踏まえてほしい」。県でダム問題を統括する鎌倉孝幸理事は困惑する。
九州地方整備局の川崎正彦河川部長は「(マニフェストについては)何も言えない。治水対策の重要性は変わらない」と静観する。
一方、ダムに反対する市民団体「子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会」の中島康代表は「明確に中止を打ち出し、国民の選択肢として明示されたのは高く評価する」と歓迎する。
その上で、「ダムを止めると、経済効果の波及や地域振興を阻むという意見もある。中止した後、何をやるのか。具体的な提案がほしい」と注文する。(報道部・田口貴一朗)