一二三神示アメの巻第十帖より

『[中略]でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、この神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥かしい思してお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近づいたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何ちら行くつもりぢゃ。十一月二十七日、一二。』
一二三神示を見ますと、「楽な道」と「辛い道」が用意されているそうである。これは、どちらが良いとか、どちらが悪いとかいう事ではなくて、各自の性格がそれを決めるのでしょう。「辛い」事に価値を見出す人は、自然に辛い道を選ぶことに価値を感じ、そのように行動して行くのだろうと思います。私は自分なりに、辛い事は懲り懲りなので、楽=ラ(ラー=太陽=日=1)・アク(開く)[岩戸開き]の道を行きます。苦(9)の道は選ばず、ラ・ク(1+9=十)の道を行きます。(上記一二三神示の「光の世とは光なき世であるぞ」という箇所についてですが、6/13(金)の東京12chの「たけしの誰でもピカソ」で、映画撮影について言ってました言葉から気が付きました。光線を映画に収めるのに、わざわざその場所にホコリを立たせてから、ライトを当てて、光線を映すのだそうです。だから、このように途中に乱反射するホコリがあると、光はあまり地上に届かない訳ですね。地上に光が届く世は「光なき世」なのかも)

苦しみとは、苦(九)の上に苦(九)が重なって、クルクル回って循環して苦しむのですから、九十九=苦重苦であるのかも知れません。九の上に九を重ねると卍に似た図形にはなります。が、卍の周縁部の4本の腕に着目すると、九十九では腕は2本欠けています。卍となるためには、最低九が4つ、すなわち、9999(九割九分九分九厘?)である必要があるでしょう。しかし、十字は基本的に2本なのだと考えれば、99です。99または9999ですね。で、クルしみは、いつまでも回転を続けるだけで、百には到らないのだろうと思います。九十九というのは、百から一を取り去った「白」であるとする解釈の道もありそうですが、一方、白は私の色ではあります。でも、白=99が、一意に私を指すというのは、ここでは考えにくいと思う。ここでは、そういう特定の事というよりもむしろ、99=白=苦の道、1=日・火=赤=楽の道と考えるのが、一二三神示との関連からすれば、順当な解釈でしょう。赤と白で日本国の国旗ではあります。関連情報:「ぐるぐるナインティーナイン」「くるくるミラク(369)ル」

さらに、一二三神示の関連箇所を抜粋します。

碧玉之巻、第十九帖より

『百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ。』
紫金之巻、第十二帖より

『ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨヘルであり、タテの十の動きがウマシアシカビヒコジであるぞ、十と十と交わり和して百となり九十九と動くのぞ。過去も未来も霊界にはない、「今」があるのみ、これを中今(ナカイマ)と申すぞよ。竜宮の乙姫殿、日の出の神殿、岩の神殿、荒の神殿、風の神殿、雨の神殿、暗劔殿、地震の神殿、金神殿の九柱なり、総大将は国常立大神なり、このこと判りて下されよ、教はなくなるぞ、元の道が光り輝くぞ、これを惟神の道と申すぞ。』
99=白であり、1=赤について考察してみました。ここから判ったのは、私が359の日から炎となってからは私の色は赤になったのではないか、ということです。

私は1000年前、聖マチルダ皇后の兄であり、彼女の神官でした。彼女は太陽であり、私は陰ながらバックアップする立場でした。月だったのです。それが最初に出現した弥勒十字に現れていました。彼女の母親の名前が「一子」さんであり、「サン」デーズ出身のMSさんは「日の神様」の型でした。そして、一二三神示=日月神示より、1=日、23=月ですが、私の母親の誕生日は2/22で、2が3つ=23で、「月の神様」の型でした(ちなみに、「千恵子」さんの娘である「地の神様」の型は中森明菜さんでした)。私は月だったのです。しかし、私は聖マチルダ皇后の正確な姿を見ていたわけではなかったのです。いわば、彼女の夢を私は見ていたのです(過去世の記憶を思い出した事そのものは事実であり、真実ですが、私は彼女を人間としてではなく、女神のように見ており、逆に真実とは言えない見方をしていたのです。そしてその衝動は私の中に残ったまま転生して今、再び現代で出会い、その衝動と彼女が結びつき、彼女を一人の人間として見ることが出来ました)。つまり、夜明けを迎え、夢から醒めて岩戸を開くと、自分は太陽だったのです。

岩戸開きが成ったとは、まだまだ言えないと思いますが、ここで言わんとしているのは、かつての自分は月であり、白でした。白雪姫(Snow White)の夢を見ていたのです。359の日の10年程前に自分で感じた事のある自分の色は白でした。その白はまた、「私のオーラの色が白である意味」にも書きました通り、苦難の記憶と雪の白のフィーリングです。一二三神示の上記の解釈、「白=苦重苦」と符合します。しかし、そんな中、356の日に、彼女へのの故に、12年目にして「死の壁」を越える事となり、同時に過去世の記憶が復活することとなりました。その3日後の359の日に、私は炎になったのです。月であり白であり続けた私は、この時点で太陽であり赤となったと解釈できると思います。この時から私は1=赤となり、1=楽=ラ・アク(岩戸開き)の道へ移行したと考えてよろしいと思います。太陽が夜明けを迎えるのは、岩戸が開かれた時だとしてよいだろうと思います。

5/31(土)の「世界不思議発見」で気付きましたがイタリアの国旗は緑+白+赤なのですね。緑はこのホームページの色ですが、これは、目に良いだろうとの判断です。イタリアの国旗の配色が不思議と思います。と思ったら、「サン・クロレラ」のイメージカラー、パッケージカラーと同じですね。最近、少し気になるのですが、色彩の「赤」がマスメディアに氾濫してるような気がしてしまうのです(^_^;)。赤が人間に及ぼす心理的効果はよく知られている通りなので、この色は、アクセントとして使うのが相応しい色でしょう。あらかじめ、皆様におかれましては、今の内に、ここでお願いしておきたいのは、つまり、まあ、そういうことなんです(^_^;)。緑、または、青と黄色の組み合わせなどを使うようにして下されればということなのです、はい。気が向いたらでいいのですが(^_^;)。もし、関連を示すのならば、是非、赤よりも緑にしようよ。(199711270241)と言っても、赤系統が嫌いな訳ではありません。ピンクも好きですから。(^_^;)(199712060240)以前、上記のように自分の色を緑色にしようと言いましたが、そのように固定化すると自由に緑色が使えなくなってるので、色彩に関して、そのような固定的な受け取り方を私は今後、しないようにします。だから緑色を使っても、他に2重3重と意味を重ねたりすることでこちら寄りなのかどうかを判断します。ですので、単に緑色を使ってももう自分へのアピールと判断しないようにしますので、どうぞ安心して緑色を使って下さいな。今日以降、そう見てますので御安心下さい。(199910170325)

ここで神示の中に面白い記述を見つけましたので、抜粋します。秋の巻、第十六帖より

『統一と云ふことは赤とか白とか一色にすることではないぞ。赤もあれば黄もあり青もあるぞ。それぞれのものは皆それぞれであって一点の丶でくくる所に統一あるぞ。くくると申してしばるのではないぞ。磁石が北に向くよう、総て一点に向うことであるぞ。これを公平と申し、平等と申すのぢゃ。悪平等は悪平等。一色であってはならんのう。下が上に、上が下にと申してあるが、一度で治まるのでないぞ。幾度も幾度も上下にひつくりかへり、又ひつくりかへりビックリぢや。ビックリこねまわしぢや。』
先に抜粋しました、紫金之巻、第十二帖に「クラゲナスタダヨヘル」と「ウマシアシカビヒコジ」とありますが、徳間書店の「日月神示はなぜ岡本天明に降りたか」(岡本三典・著、\1,600)のp210に、次のようにありました。
『さらに、10を内在させる場合に、10語をもってする場合もあります。すなわち、「古事記」頭初に「久羅下那洲多陀用幣琉(123456789十)、時に葦牙の如萌え騰る物によりて成りませる神の名は、宇麻志阿志訶備比古遅(123456789十)の神」であります。』
また、同書に書いてありましたが、「始」という文字の意味は「物事の始めの土台は女性から」という意味があるそうですね。今日6/7の「世界不思議発見」で黒柳徹子さんが「母体」という言葉を使った時、私はこの型との関連で気付いたのですが、弥勒十字のメインテーマが「母」という不思議がありますが、多分、弥勒十字が母体となって行くのでしょう。歴史に疎い私はテレビは情報の宝庫です。インドのスーリヤ寺院については、何故か、なかなか筆が進まないので、いつか時期が来た時にはまとめようと思っています。感謝。古代エジプトで、根拠が何だったかは知りませんが、自分を太陽神ラーとしたラムセスU世がいたそうですが(^_^;)、その事実は事実として知りました(6/28)。日本の神話では一応、「岩戸」が開くと天照大神が出てくるそうですから、それに他にも色々な徴候があり、そう判断してるわけです。つまり、私の判断の基準は主に「外部」にあるのです。人は、何か問題があると常に個人の欲求的な問題として捉えがちに思いますが、この場合は、例えば私は、部長から「Aに関する資料を集めよ」と言われた部下のような動機で考え、行動してるのです。捏造はしてませんし、逆に、続ける内に、芸能界にも興味を覚えるようにもなりました。神縁のある女性芸能人にレターを出しても返事がありませんから、結婚ができません。芸能人との神縁が見つかるというのも難儀なものです。お返事がないので、私は何もできないままで6年が過ぎ、7年目も既に6月末じゃぁないですか。「何もしない」事を維持し続ける事で、逆に、行動力があることを証明していると思います。示された通りに動く、というのは、何かやりたいことがある人では、出来ないでしょう。私は何も、社会的にやりたい事というものは無いのです。勿論、戦争をヤメテもらいたいし、人が死ぬようなことはヤメテもらいたいですが。ま、「やりたいことが無い」とは言っても、神に私の人生を使って頂くことは幸せな事だと思います(^_^;)。


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