以下は、筆者が1993年9月27日(月)のスブドのラティハン体験に基づいてタイプして翌年の2月23日にパソコン通信に掲示しました文章を載せます。これは“夜明け”ではないかと思うのです。

《 次の次元、右脳と左脳 》

そうだ、今だ!

「知」とは「存在」に基づくものであります。
人間の知はリアリティーを求めています。

物質が出現すると、そこには「空間」が出現する。同時に「時間」も出現する。
もともと、時間も空間も非存在である。物質世界を把握する為に名付けられたものである。面白いことに、時間も空間も「0=∞(無であると同時に無限である)」という性質を持っている。実は、エドガー・ケイシーがそのリーディング(「精神革命ガイドブック」たま出版、P228〜P236の“時間・空間・忍耐”)で言ってるように、時間も空間も人間の神概念の投影されたものである、と言うことです。

皆さんは3D(3次元)アートというのを御存知でしょうか? 右と左の目で違う絵をそれぞれじっと見続けると、立体的な絵が見えて来るというものです。これは、2次元が3次元に拡大したのである。(以上は、たとえばなし)

さて、まだ私自信、数少ない体験から、言い得ることは少ないのだけれど、一応、次のように言ってもいいと思っている。

右脳と左脳は、比較的に言って、アナログ(感性)とデジタル(言語)である。私達は、常に両脳の葛藤の中で生きている。まだ私達の脳は、この2つが3Dアートの絵の一つ一つのように、バラバラで、統合されていない。世界は出現していない。しかし、統合されるとどうなるか? 実は、「次の世界」が出現するのである。もちろん「世界」が出現するためには、実在の次元がもともと存在していて、そこに必然的に同調する必要があるのだが。つまり、単に両脳が統合されるばかりではなく、そのまえに、脳内に展開されるべき「世界」は実在してなければならないのです。


                  《“世界”はやって来る》と同時に
《“世界”は人間の中に封印されている》

よく、「そこは花が咲き乱れ」とか言いますが、それは、何かの個人的な体験だと思います。「次の世界」というのは、私達がいまここに住んでいる物質世界と「全く同じ」です。タタミもあれば、窓や天井もある。空気もある。ホコリなどもあるだろう。物質世界の全てに完全に対応していると思われる。ただ、その世界の構成する質料は、この世界のように原子核と電子で出来た物質ではないのである。例えば、皆さんは「完全なる円」というのを頭で思い描き、理解することが出来ます。しかし、そのような「完全なる円」などはこの物質世界には、無いのです! 最終構成単位(原子)のために、どうしても、表面はデコボコになります。いま、思い描いている原子の世界を越えて、完全な直線とか円とか三角形とかを思い描けるでしょう。「次の世界」を構成するのは物質ではなく、なんと言いましょうか、分かりやすさを優先して「イデア」と言いましょうか。その世界は「実在イデア」が構成している世界です。「単なる事実」の世界です。私達の物質世界と同じなのです。実に当り前で、当然の世界です。なぜなら、物質世界と全く同じだからです。ただ、不思議なのは、目で見ているわけでもないのに見え、耳で聞いてるわけでもないのに聞こえる(はず)という事です。つまり、物質世界よりも「自分に近い世界」と言えます。しかし、「全く普通の世界」なのです。多分、パソコンもCDもオロナミンCもソルトサンスターもあるでしょう。「それはあなたのイメージを投影したものだ」などと言う人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。その世界を構成する「実在イデア」の実体がまずあり、それを自分がただ受け取っているからこそ、そこには「世界」が「出現」しているということが自明です。言わせてもらえば、私たちは目と言う器官で知覚している対象が実在していることすら自明としているのです。しかし、さらに言わせてもらえれば、実は、自分が実在していることすら分らないでいるのです。覚醒への希求は、人間を突き動かし、「自分が存在していることを納得したい」といつも感じています。それが外的、社会的に展開してしまっているのです。自己認識へ向かうか、社会的認知へ向かうかは、神の御意志によって完全な自由が保証されているからこそ、「リアリティー」へ向かいたいですね。別にどちらへ行ったからといって罰則があるわけでもありませんし。

その「世界」と表現しているものが「自分のイメージがつくりだした」などという発想はナンセンスだと言えます。目で知覚しただけの対象が実在しているのなら、「自分に近いこの世界」に「既に」「対象」が実在しているのは自明の中の自明である。補足すれば、「この世界」に関わる時の意識はほとんど通常の普段の意識であり、物質世界よりも自分に近い世界であると言うだけであり、覚醒意識ほどに深い意識ではない。私たちが音楽に感動したりしている時の方がよっぽど「深い」です。

一応、この世界を疑似体験するのは簡単です。目をつぶって、空想上の湯呑を持ってお茶を飲んでみて下さい。あるいは、自分が本を読んでいるとイメージしてみて下さい。そのイメージそのままの世界です。いま想像し、イメージしてもらったのと全く同じだと言えます。何も見えたり聞こえたりしなかったでしょうけど。いずれあなたの前に、その「単なる事実」の世界が出現しますように。絶えざる新鮮な感性はあなたの内部感覚を生き生きとさせ、浄化し、何年もかけて、あなたの本質を組替えて行きます。いずれ、あなたの内部に形成されてきた光の身体はその本来所属する「世界」に目覚めるでしょう。もう、ポール・ソロモンがそのリーディングで言う「次の次元」はここにあるのだと思います。

さて、物質世界であろうと、この世界であろうと、「世界」を構成するものは「物質」と、それによって出現する「時間」と「空間」です。その世界の物質に相当する「実在イデア」は左脳の「言葉」に対応します。例えば言葉によって「Aだ」と断言すると、A以外のものとの間に分断が生じます。デジタルの世界です。このような性質を持った左脳が分断を起こして行く(知識の獲得)と、その分断の間隙に「時間」「空間」が生じます。これが右脳的な特性です。人間の神概念(0=∞)です。両方の脳が統合的に機能するのは、次の次元がこの3次元世界に接近してきているとき(今)です。その世界の構成物質である「イデア」は実在であり、単にそこにあるものです。そのため、人間が自分でイメージを創り出すこともなく、その世界のリアリティと言うか、「単なる事実」を知るのです。
「物質」が出現すれば、「時間」、「空間」が現れる。
言ってみれば、「物質」は神の言葉(左脳)であり、「時間」「空間」は神の言葉概念の基礎(右脳)。

新しく拡大された意識(両脳の統合の事)に於て体験し得るその世界に於て、私はまだ、人に会ったこともなければ、回数もごくわずかです。

以上の文章のポイントは内省的、体験的な見地からのものです。勿論、論理的、神学的とかに興味ある解釈も可能でしょうが、言ってることは単純な事柄です。

霊的な世界に時間がないというのは、物質を越えているための表現の問題だと思う。

「現実」はあなたの外部に毎日展開しているが、
そのうち、「もう一つの現実」が万人の内部に展開するのだろうと思う。
さて、どちらが「より本当=自分に近い」ですか?

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