【→阿修羅発言のコメント()】したので、こちらにもそのまま転記しておきます。

24. オリハル 2013年11月02日 04:24:46 : 3eVpHzO3Pti46 : AmwoG4U4n2
日本人の最大の「性格的な問題点」は、「優れた・秀でた・良い事柄を非難・攻撃する」という点にありますね。

同時に、「危険・放置してはいけない・悪い事柄を非難・攻撃しないで放置する」という点でもあり、これら二つの傾向を同時に満たしているという問題ある振る舞いが見られます。

このようになる理由は、ものの考え方が「主観<客観」とは考えずに、その意味合いを逆転させた「本音>建前」という区分で考えているからだろうと思います。

「本音>建前」で考える人の行動:
・あの人は、戦争反対なんて言える人・柄じゃないと思う。
・あの人は、寄付ばかりして私たちよりお金があると言いたいのだろう。
・あの議員は原発反対ばかりを訴えて天皇に手紙を渡して目立ち過ぎる。
・ちゃんと命を賭けた言論を出来ているか?
・契約を守るより、自分の都合・気分・感情を優先したい(自分だけの本音で判断)。

「主観<客観」で考える人の行動:
・戦争に反対する事は当然、良い事だ。
・寄付は当然、良い行為だ。
・原発に反対して危険性を減らそうとして天皇にも協力を求める事は当然、良い事だ。
・(浅い領域での)言論の有効性はその人数にかかっているのだから、自分なり誰か特定の人がどうこうの話ではない。
・やはり文書で客観化し皆で基本の基本を守るべきだろう(共有文書=客観で判断)。


原発「推進派」にとっては、実際には1Kg=26億円で輸出出来るんだから、「今は」原発を止めるような素振りは見せられないのだろう。

原発で作られたプルトニウムは出荷センターに運ばれ、そこから得意先である諸外国に1キロ当たり26億円で輸出される。
http://www.asyura2.com/13/cult12/msg/512.html
cult 512 2013/10/31 22:59:24
投稿者: バビル3世


日本人はもっと「客観的に良い点を持ち上げ、AND、悪い事を非難・攻撃し放置しない」人の数が「増えると良い」と思います。
http://oriharu.net/jnowJapanese.htm#edu_lack



 何といいますか、大抵の業界はそうなのでしょうが、「ユーザー」というのがいます。いつも私は、「違和感」を感じていたことがあります。というのは、私の場合は物事を善か悪かで判断して人間社会がどうであったら良いのだろうかと考えます。しかし、人を見ていると、そうではないのです。彼らは相手が自分よりも上か下かという判断をします。そして、相手が下である時は、小さな事で悪態をつきます。勿論、「正当なクレーム」というのは当然、あると思います。しかし、「本当にこんなことで」と思えるようなクレームを、しかも長時間に渡って続けるのですね。

 今日は電車に乗ったのですが、帰りに座っていると隣に母親と子供が座ってきました(座席はほぼ全部埋まってて、ちらほらと人が立っている状況)。子供は母親の膝の上に座ったり立ったりして携帯型のゲームをやったりしている内に私のスーツのズボンにも十回程度キックを入れました。それを座って目を瞑って観想していた私は「そういえば、自分はクレームを発しないな。こういうのを“珍しい人間”と言うんだろうな」などと思っていました。結局、私が目を開けたのはどこかの駅に着いた時にそれ(到着)を確認しようとして開けた時の一回だけだと思いました。母親に対しては一瞥しただけで誤解を与えちゃうな、という感じ・予想を持っていたので、そのようには動きませんでした。そんなことを思っている内に、一定の公式を見つけたので、次に記して置きたいと思います。

クレームを入れたがる人は、エゴ(自分が自分がタイプ)の人
・100回や200回のミスなどは(意図的な悪意がなければ)クレームでも何でもない(非個人的・客観的・事物を見る)人

 実際のところ、例えばレストランでウェイトレスが不注意で服にコーヒーをこぼしたとして、私なら「あ、いいですよ、このままで」で終わるような単純な事柄だという感性があります。また、私の感覚として、ウェイトレスは「下」ではありません。同じ人間という感覚です。イスラムでは王様も平民も神の元に等しく、同じ礼拝をする、という感性には親近感を感じます。日本人は獣に近くなっている可能性がありますね。肉食していると人間は戦争ばかりするようになるという指摘があります。それで、相手が下だと積極的にクレームをつけるのかも。まあ、職場で上司から怒鳴られてばかりだからというストレスが本人にクレームをつけさせるという側面もあるのかも知れませんが、それにしても、いつから日本人はクレーム好きのエゴ民族になってしまったのかと思います。意味のないことばかり。非効率そのものだし、ヒドイと言えるレベルになっていますね。(201103252242)


【→阿修羅発言 ←『西尾幹二著「日本をここまで壊したのは誰か」  2012年の黙示録 Browse365(精神世界本の拾い読み)』(201106152056)】


 最近、なんとなく思うのは、ARIONが述べたという『理解されないだろう』の言葉です。ほとんど真逆の意味で私の発言を捉えるみたい。私は自己の利益と関わりなく真実について発言していても、人は私の発言に「欲得への意図」や「焦り」などの存在しないものを確信して責めてくるのです。そういうのをいつも見ていると、(日本)人というのは自己中心的な傾向の強い人がほとんどなんだなぁと思います。物の見方が自己中心的でしかないのは、マスメディアの人々というのは、「お客様」としてしか生きてこなかったという意味なのかも?

 日本では?なのかどうか分りませんが、よく「社会に適合できずに鬱になる」とか「自殺者が毎年増えている」とかテレビ番組でやっていたりします。多分、そうなってしまうのは、「自分の為」に何かをしたいと思っても満たされないとか、「自分」が苦しめられるとかいう認識にあるからだと思われます。あるいは、今まで「お客様」として生きてきたのに、急に「落とされる」という、落差が大きい自己認識を持つからなのかも? よく派遣切りとか言いますが、私が不思議に思うのは、新聞の折込広告やフリーペーパーを見ると仕事などいくらでもあるのに、彼らはそういうことをやらずに仕事がないと言っているところです。

 その種の人たちも、やろうと思えば「人のため」に何かをしたりする事も(一時的には)出来るわけです。一応は「人の為」に行動できるけれども、心の中では、それが「自分の幸せの為」という中心核に対立する概念として位置づけられ、定義されているので、あまり長い間「人のため」に行動できないし、「自分」が責められたりいじめられたりしていると、鬱になったり引き篭ったりするのでしょう。

 でも、「人の為」というのは、「自分の為」に対立する概念ではないのです。これは、教育の欠落でもあるのかもしれません。

 話が少し回り道しますが、私は中学2年頃にジョージ・アダムスキーの宇宙哲学というものに出会い、勉強しました。そこには「非個人的であれ」とありました。それは多分、アダムスキーが宇宙人から教えられたであろう知恵だったのだと思います。でも、彼自信もよく理解していなかったのではないかと思います。そのために、私も「非個人的であろう」として、自分を抑えたり等、「自分のため」に対する対立概念として扱っていました。

 でも、対立概念ではなかったのです。だから教育が大切になります。人間のマインドは周辺装置であり、ハートが自分に密接しています。つまり、マインドは自分ではない、という言い方も出来るわけです。現代人の問題というのはマインドを自分に専念する用途に使うという、その(衝突不可避の)用い方にあるのではないかと思います。子供の時はハートとかマインドとかは未分化の状態にあります。でも、大人になってくると、マインドが分化し、物事に対して醒めた見方、客観的な見方ができるようになります。醒めた見方をするようになっている自分を認識し始めます。そのような時期を過ぎてから次に、≪今の現代人のような「自分に専念するマインド」状態にならないような、もっと柔軟なマインドを活用できる人間になるような教育≫が必要だと思います。

 どのような教育かというと、「マインドの定位置(自分、中心テーマ)」を色々な場所にセットして、その上で行動できるようにゲーム感覚で、楽しくできるようなやり方が教育上良いと思います。通常、マインドの定位置は「自分」に自然に(デフォルトで)セットされており、物事を判断しています。ここで仕事というゲームを始めてみましょう。あなたは掃除人です。いくらあなたが自分の部屋を掃除せずに放っておいても全く気にならない人であっても、あなたは「掃除人として考える」必要が出てきます。そういうゲームなのです。一旦、いつもの自分は忘れて(決して否定するわけではありません)、今は自分=定位置=掃除人としてマインドを使うのです。ピカピカの廊下であっても、あなたはそこで水で洗ったモップで掃除して、もっとピカピカにしなければなりません。それはいつもの定位置(あなた)からの発想ではありません。今のマインドの定位置は掃除人ですから。そのように、仕事の内容によっては、いつもの自分とは逆の事さえ優先しなければならなくなるでしょう。二つの仕事を掛け持ちでしているような人は、もう一つ多くの自分を使っていることになります。

 このように、誠実に仕事をしているならば、いくつものマインドの定位置の中で、普段の自分は一部分となります。仕事を誠実に(人・社会のために)することで、普段の自己中マインドが中心を占めてしまい難くなります。いつもの自分とは違う定位置でマインドを使う別人になって人や社会の為に考え、判断し、振舞うのです。そのように振舞うのは自分の否定なんかではなく、偽善とかでもなく、そういった風な「自分にばかり注意を向ける発想」から自由な「柔軟なマインドの活用」をしているだけなのです。むしろ、自分一人の為にしかマインドを使わないという不自由さ、制限活用がその人自身に(社会との関係で)不幸をもたらしますから。マインドというのは、この物質世界で活用する為の機能なのですから、使えば使うほど生かされるのですから。

 多分、人々がマインドを自分の為にしか使わないようになったのは、資本主義社会の影響もあるでしょう。店に入れば「お客様」になり、ある意味、自己中になり(れ)ます。でも、そのような立場ばかりだとマインドも定位置(自分)を一つしか持てないことになり、活用不足、宝の持ち腐れともなります。もっと色々な定位置、例えば、人類というところに自分をセットし、定位置にしてから、物事を考えたりブログやホームページ上で発言したり、ということも勿論出来るのです。あるいは、定位置を「国家」に置いて発想することも出来ます。でも、そのようにできる政治家はごく少数のように思えます。やはり日本人のマインドは個人的な欲得を無意識のうちに定位置にしたままの人が多いのでしょうね。また、付加しておきたい点は、「自分の国」に拘らず、「自分の国以外」を定位置にする体験を多くすることも大切でしょう。

 若い人の場合を考えると、今まで子供として色々と自由が制限されてきたストレスがあるので、コンビニの前で夜にたむろしたり等の「自由な行動」をするのは仕方がない側面です。それだけ長期のストレスを受けてきたのだから。そのようにして自由に振舞い、30才代になるとストレスも解けてくると思います。でも、このようなストレス発散の時期にある若い人は、仕事について「適当にやって、早く切り上げて」と考えるのは当たり前であり、ある意味良い事であるとも言えると思います。でも、いつか(人・社会の為に)仕事を誠実にやってみて下さい。それは自分の否定ではないのです。マインドは設定したテーマ・目的によっては、いつもの自分の欲求とは逆の発想や行動を必要とされる時もあります。それは一種のゲームです。職場の人は、あなたを否定しているのではないのです。必要とされる職務上の機能を(自分を“自然に”忘れて)ストレスなく実行できるように発想を切り替えてみましょう。一旦、自分を忘れてみましょう=誠実に職務を遂行してみましょう。自分とは別の、仕事上の役割にマインドのテーマをセットして物事を考えましょう。しばらくは、「仕事の自分」と「いつもの自分」の間でマインドを使い分ける事に慣れてみましょう。マインドは自分ではありませんから、自分を超えて色々な使い方も出来るのです。(201103061442)



 以前、[警察について]のほうで、「口実を待ち構える官僚の姿」を述べましたが、このタイプは[ハートとマインド]で述べた(多分)日本で一番多い「逆方向へ振れるマインド」タイプに近いのではないかと思います。
 通常は、1)何か行動する時は自分の発意として単純に行動します。2)でも、補うマインドみたいに多少、複雑なマインドとしては、自分の持っている欲求をそのまま実行すると悪者になってしまう場合、欲求を達成するために「口実として使える出来事を待ち構える」というワンクッションを置きます。そして、待っていた出来事が発生すると、すかさずそれに「飛びつき」、あるいは「振りかざし」て口実として利用しますよね。つい最近の西松献金事件で民主党の小沢一郎代議士の秘書が逮捕されても、それと同等の事実がある自民党の二階俊博経済産業相・側の捜査はユルユルであるところにもよく見えます。もし、「口実ではなく、本当の理由だった」のならば、自民党の二階俊博経済産業相・側も「最初から」同等に行っていた筈ですから。「口実を使う人」というのは「(ターゲット以外の)他の人が同じ事をしても気にも留めない」という点が見られると思います。
 植草教授のような場合においては、「口実を捏造する」場合と思えるので、今の日本の権力者の「口実を待てない」欲求の強さが伺われます。存在しない口実を作り出し、その口実に飛びついて自分のある種の欲求を行う根拠とするこのタイプの人は少ない・いないに越した事はないと思います。

 それから、「逆方向へ振れるマインド」タイプについて、一つ気になる可能性としては、善人を見ると「だけど、彼にはこういう悪いところがある」と見ようとし、逆に悪人を見ると「だけど、彼にはこういう良いところがある」と考えるらしい点です。悪を潰した人は英雄とも呼べるのに非難する人々がいるし、逆に、善を潰した人は極悪人と呼べるのに、むしろ利益を守ったと皆に歓迎されたりします。善と悪が逆転した人々が非常に多いのではないか、とさえ思えたりします。(200907311410)
【→阿修羅発言 ←『Re: これはきれい事に過ぎない』(200908011234)】



 ある阿修羅発言を読んでいて、関連して少し気づく事があり、タイプしてみようと思います。その発言者の文意とは直接関係しないので、特定的にリンクする必要は無いのでリンクはしません。
 日本は基本的に仏教エリアなので、仏教的な考え方や文化があります。人々の考え方も歴史的・伝統的に仏教的です。以前から時々気になるのは、精神的な事柄についての考え方として、次の二種類のタイプの内、イメージ的に物事を考える人々です。

1) 精神的な事柄を「客観的・科学的事実ベースで考える」論理・客観性の人々
2) 精神的な事柄を「欲望(怒りや貪欲等々)を悪と考える」イメージ・主観性の人々

 前者の人々は「国というものの精神的な意味での虚構性」には気付いているでしょうから「地球人」と言えると思います(更に発展させた言い方をしたい人もいるでしょうが)。後者は根拠とするものがイメージでしかないので(「きっこの日記」で時々言われるような)「ニポン土人」と言えるかも知れません。

 例えば「ニポン土人」の中には「怒る人」を単純に悪だとする人がいます。怒りにも正しい怒りと間違った怒りがあるという分別が無く、怒り=悪という単純な固定観念。そういう人が多くいるので、誰かに被害を受けた「怒れる被害者(正しい人)」は悪人と看做され、攻撃される事で二重の苦しみを舐めさせられる社会なのです。このようなことは本当は一度でもあってはならないことです。
 この点、「地球人」ならば、「怒りとは人間の自由意志の自己防衛反応である」という客観的な分析が出来ているか、ある程度気付いているでしょう。自己防衛反応ということの意味は、例えばAさんが右向きの自由意志(⇒)で進もうとしている時、外力としてBさんは(←)として真正面からぶつかってきます。Cさんは(↑)として、Dさんは(↓)として藪から棒を出して引っ掛けようとしてきます。そのような環境にブチ当たったAさんは、そんな外力=妨害を受ける理由などないので、自己意志(⇒)を飽く迄貫こうとします。そのために(この場合の)3つの外力←↑↓を破壊したいという欲求が出てきます。このような判断が一瞬のうちに成されているのです。「妨害を受ける客観的理由などない」のですから、「Aさんの怒りは正しい」のです。この例ではB、C、Dさんの我儘に問題があります。
 「貪欲」という点についても、それをイメージで捉えるのがニポン土人です。正しいか間違いかを判断するのは、その動機において判断されるべきです。貪欲の対象として名指しを受け易いのは、食欲、性欲の両欲だと思われます。そのように否定的一辺倒に捉える事で自己を上げている(空アゲ)人々の割合も多いかも知れません(本能的に行動しているため)。これは仏教的な文化圏だから社会の中でそのような自己アピール(空アゲ)ができるからでしょう。しかし、それは根拠が薄弱な判断でありしっかりしていません(土人の特徴です)。地球人であるならば「ロボット(人間)は電気というエネルギー(欲望)で動く。そのように出来ている。エネルギーそのものは善でも悪でもない。善や悪になって来るのはその行動が社会の中に展開した時に、他者を上げたり下げたりした時である」というふうに考えられると思います。地球人は客観的に見ようとするので、「貪欲というイメージ」で主観的に見ることはしません。私などは人が食べ残したものを積極的に食べます。MOTTAINAIからです。コンビニなどでも賞味期限の迫ったものから優先的に買ったりします。いずれ捨てられるという予定調和の未来に逆らう為です。また、一度でも目にし、耳にした情報の中で重要な情報はホームページに公開記録して忘れないようにします。MOTTAINAIから。こういったことは「貪欲」とは違います。
 「性欲」でもそうです。性器とは第四次元軸(時間軸)です。宇宙を見れば分るように三次元世界(肉体)全体を動かしているのは時間(軸=性)という見方ができます。パソコンを動かすクロック周波数と似ています。性の為・故に体を動かすのです。そのように出来ているのです。この事実の上で何かを言うべきなのです。それが地球人というものです。しかし、土人の場合、イメージで何かを言います。その結果、善悪概念が無意識のうちにオーバーラップして、「性」や「食欲」は悪の側に分類されてしまうというのが怠惰な思考のもたらす結果です。土人の割合が減れば、無意味な衝突がなくなると思うのですが…。(200904090040)


2つのタイプの無意識的発想

1) アゲサゲに気付かない

 最近、よく思うのは、日本人は、いや多分、外国人もほとんどそうでしょうが、このことについての認識・知覚を持っていない人がほとんどだなぁと思われるのです。というのは、彼らは「自覚がなく=無意識に」「人をサゲる=自分をアゲる」行為を繰り返しているからです。どうも日本人は(?)立場の上下関係で心理的な態度が「コロッ」と変化する人が数としては結構多いように思います。例えば、コンビニに入ると、自分は客だから店員に対して(金銭関係上の)立場が上になります。それで、(必然的・客観的な)意味もなく店員に対して「横柄な態度」でストレスを与えるタイプの人が、多分5%程度(←適当に勘です)の大人数いるような気もします。私はそういうのを見るといつも奇異な気がするものです。私とは、まるで逆だから。でも、宅急便の仕事などをやっていると「大変だねぇ」とか声を掛けてくれる人の割合は相当高く、多分、50%程度の人は「自分の立場が(金銭授受の関係上)上であるにも関わらず」そのように言葉をかけてくれます。中には果物やジュースをくれる人もおります。きっとコンビニの客も、50%程度はそのような(金銭授受の関係を超えた)善意を(密かに)持っているのだろうと推理できると思います。もしこれらの人々が「金銭の授受関係に従って」「人間の領域に対してまで上下関係を持ち込み」横柄に振舞うとしたら、宅急便の配達は難儀な仕事になると思います。
 ここで私の言う「5%の人々」に見られるのがあの動物的な共通原理によって発想や行動が「動かされている」=「無自覚である」点です。もし、「5%の人々」が「あ、今、自分は相手をサゲサゲしてるんだな」と自覚できれば、そのような理不尽なクレーム現象が減って行くことが期待できると思うのです。Or、「5%の人々」以外の95%がこのことを知識として知って、自分のものに出来るならば、社会の中での「5%の人々」の振る舞いの現場で「あ、こいつは相手をサゲサゲ野郎だな」という目で見ているだけで、集合意識の影響で、「5%の人々」の中にも変化が生まれることも期待できるかも知れません。また、「隣の庭が青く見えてしまう傾向」の強い人が容易く嫉妬心を持たないようにしたり、人の不幸を密の味だと思わない傾向を持つようにしたり等の個人的努力によって無意識のアゲサゲの割合は減ると思います。【相手が、自分が、アゲたかサゲたかという点に関して「情動的に無意識的に感じて反応しているだけ」なので、人によって問題が拡大したり、拘り過ぎたりという「過剰な問題」が発生するのだと分ります。もっと客観的な視点で「これは単にサゲの問題だ」という風に知識があって活用されれば、「失礼」とか「プライバシー」等という概念類も縮小して行く領域と思います。今回、「アゲサゲ」と「オーバーラップ」のことを言うのは、個人の内心に対して何かを言うつもりなのではありません。それにはノーチッタです。社会の中で、理不尽と言える程の横柄な振る舞いが、善意の人々にストレスを与える機会を減らす為には無意識的に反応だけしている情動を意識化することが必要と思ってタイプしたものです(200901170131)。】

2) 善悪とオーバーラップしていることに気付かない

 それから、二つ目のメジャーな無意識発想だと思いますのは、「オーバーラップに気付かない=無意識である」側面です。真の「善悪の区別」は本質的なものでありますが、世の中には「色々な区別」が存在しており、それらの区別に「善悪の区別」がオーバーラップして(重なって)、そこからの善悪判断を犯しがちな人が、これまた多いような気がします。例えば、「個人として(人として)の善悪」と「組織としての善悪」は、大抵は逆のようです。企業というのは金銭を主目的として(始めは)設立された組織ですが、高額の商品を貧しい人に売りつけることでも善だとし、社員をそのように洗脳したりします。そのような組織の中にいると、組織としての善悪判断が個人としての善悪判断になってしまう人も出てくるわけです。しかし、さすがにこのようなこと(押し売り)は既に一昔前のことだと思います。ネット上に見られる傾向について見ると、「金銭目的=悪」という言説を主張するタイプの人がよくいますが、どうもイメージ論にしか思えません。何かの世論(?)誘導のような組織的な動きなのかも。とにかく、お金を儲けるという社会活動は、ある意味必然的な側面なので、一方的に悪だとするのは間違ってますよね。他にオーバーラップしがちなのは、性にまつわる側面だと思われます。これは以前述べております
 「善悪の区別」を言うのであれば、そんなことよりも、人の恋や結婚を(何かの勘違いなどではなく)自ら意図して妨害した事があるならば、その人は生まれて来たはずの子供の命を奪った(殺人罪の一歩手前の)犯罪人なのに、何故か日本では【権力者達の意向の様で】この種の犯罪が軽く見られている点も私には奇異な感じがします。あるいは、ホルモン・ショックという知識を当たり前の知識にすべき【例えば、児童ポルノを禁止する最大の理由はホルモン・ショックであるべきであり、「児童を利用するな」というのは禁止を補強する理由の一つみたいになると思います】であるのに、【権力者達の意向の様で】情報の拡大をやたらと押さえつける力・傾向があるのも気になります。このままでは「気分次第で人に迷惑を掛けるタイプの人間」を減らす傾向に持ってゆく機会が奪われっぱなしだと思います。ただ、たとえ情報が広がって教育的にも取り入れられて「ホルモンショック人間」が大変に少なくなって来たとしても、彼らが社会の中枢を占めるまでは30年〜40年かかるので、それまでの間は「圧制」や「利己的権力行使」や「国民搾取」の傾向に耐えなければならないという厳然たる予測が立ちます。(200901140046)



 何年か前の「アンビリバボー」でやってましたが、長男・長女タイプは自分の「上」に誰もいない(親は遥かに離れているし)ので、その種の「外力・圧力」をあまり意識しないマイペースのタイプになり易い。次男・次女タイプは上にお兄さんやお姉さんがいたために、張り合ったり競争したりする意識が強くなるそうでした。スポーツで金メダルを取るのも次男・次女タイプが圧倒的に多いという実例が挙げられていました。長男・長女タイプの精神性では、人から(悪意なしで)放置されると安心する。次男・次女タイプの精神性は、(善意で)人から構われると安心するのでしょう。
 今日は、仕事中に生まれてくる想いがありました。それは、「日本人の精神性が、分断or孤立を推進する方向に進んでここまで来た」事実・事象の理由・原因についてです。「日本人の精神性が、分断or孤立を推進してきた」の意味は、例えば、コンビになんかでも入ると「いらっしゃいませ」と言います。「ませ」というのは、どうも過剰な丁寧さだと感じるのです。昔は「いらっしゃい」程度の言い方じゃなかったですか? 「ませ」と付ける事で、むしろ、心理的には近しさを拒絶しています。「ませ」を付ける事の理由に金銭を挙げる事も出来るでしょうが、今回はもう一つの理由として「長男・長女タイプの増加」を想うわけです。日本の人口の内、団塊の世代と言われる年齢層の人々がおり、一番人数が多い世代で、現在の50〜60代の人々(1947〜1951生まれの人々を指すそうです)で、企業もこの世代をターゲットにします。昔は、大家族で、何人も兄弟姉妹がいた。当然、長男・長女タイプは数が少ない。だから人と人が交流し、隣近所の日本人的な付き合いが存在した「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界が存在した(ここでは良し悪しを断じているのではなく、経過を辿っているのです)。詳しいところはよく分かりませんが、昔の大家族の時代から、団塊の世代が家庭を持つようになって核家族の時代に変化してきたそうです。これによって二人兄弟姉妹や一人っ子が増えたのだと分ります。そうすると、段々と彼ら(団塊の世代の子供達)が大人になって社会の中心を担うようになってきた昨今、意識の持ち方も「一人になって気楽でいたい」という傾向が強く出ているのかも知れません。その為もあってか、「ませ」と言ったり、「御注文」を取ったり、「お伺い」したりして、皆で拒絶しながら仕事をしているのだという深層心理がそこにあるように思います。これは長男・長女タイプにとっては自分のテリトリー(プライバシー等々)に一切触れられたくないので良いかも知れませんが、次男・次女タイプにしてみれば、そこに「拒絶」を感じるのではないかと想います。長男・長女タイプと次男・次女タイプは色々な点で真逆に近いと思います。片方は一人でいるのを好み、もう片方は大勢でいることを好むという具合で。昔は家屋というものには縁側というものがあって外部に向けて家を開放していました。でも、最近では家と家の間には間仕切りがあったりします。自己の土地を明確にしているのでしょうが、区画が行過ぎているかも、ですね。ここのところ、日本人の自殺者数が数万人の規模で起きているそうですが、次男・次女タイプにとっては辛い精神的環境になっているのでしょう・・・か。中国でも「一人っ子政策」というのが行われてきたので、彼ら一人っ子達が社会の中心を担うようになると、中国の精神的環境が変化して、現在の日本のような「互いに突き放す風潮・空気」が支配的になるに違いないと思います。現代の日本では長男・長女タイプの発想・精神性が優位なので、それ故「人に構わないこと=善」という空気傾向になって来ているのだろうと想います。今後も少子社会である=長男・長女タイプが多い傾向は続くでしょうから、この種の空気・風潮を緩和する為には、今後、全ての子供達の性格傾向の中に次男・次女タイプを芽生えさせる事が大切だと思われます。コンタクティー達が見た、他の惑星で行われていた教育の光景の中に「子供達は親元ではなく、集団で他の子供達と一緒に育てられている」というものがありましたが、その意味が一つ分ったような気がします。(200812140130)



 [集団的自意識過剰]のほうに、日本人に(?)欠けているのは、「闊達さ(言語化)」であろうと思った点を述べました。(200706210218)


 [集団的自意識過剰]のほうに、「空気で動く」側面について少し述べました。(200706200112)


 時々思いますのは、「日本人というのは、皆で悪を許容し過ぎるのではないか?」という感想です。すなわち、初発で悪を成す人(加害者)を「笑って許容する」のが私にはどうも解せません。初発の悪意によって被害を受けた側(被害者)が怒ると、皆で被害者の権利を制限します。私個人の感覚としては復讐するのは当然だと思います。それで復讐を受けた加害者側が恨みを持つのは間違っていると思います。間違っているのは、加害者側が新たに次の一歩に出る行為である。いわれなき苦痛を被害者側に与えたのだから、加害者側が同様の苦痛を甘受した時点で完結停止させなければならないのも当然だと思う。停止ポイントは被害者を押し留める時点であってはならず、加害者側が当然の苦痛を甘受した「後」に設定されるべきだと思います。つまり、皆で加害者側に向かって「そんなことをする権利はないよ」と押し留めるべきでしょう。

 もう一つ思いますのは、日本人は「我慢して我慢して我慢した上で、ある日突然に爆発する」というパターンが多いような気がします。小さな悪を許容しすぎる弊害の一つでしょう。なるべくなら普段から「小さな問題」を言葉に出して正面から(裏からではなく)問うという行動が絶えず必要なのではないかと思います。

 もう一つ思いますのは、特定の個人である有力・権力者に迎合する社会傾向が強いのではないかと思います。特に新興宗教や芸能界がそうではないかと思う。個々人が自由に意見を持ちそれを表明し、個々人で行動できる社会が少ないし、そういう個人も少ないように予想します。それは権力者が個々人の弱者を脅すなどの不正行為が行われるからでしょうか。日本人は優しいのは良いのですが、「お上に弱い=服従する」(弱点となる)傾向を多分遺伝的に持つようなので、その弱点が「利用される」ことで新興宗教“組織”などが成立するのではないかと思います。組織として寄り集まる時の基本は ( 新地球出版社・発行、星雲社・発売の[エランの]チャネリング本「宇宙の法(\1,500)」や「宇宙の法《革命編》(\2,000)」にあるように ) 「目的意識」であるべきだとは思うのですが…。(200705210037)
【芸能界などは、特定有力個人の利益になるかどうかという点を中心にして、人の可能性を潰しまくる世界ですね。(200705220658)】


 最近思いますことは、近頃の人は、理由は分りませんが、とか優しさとかを失った人が増えてきているのかな(?)。というのは、例えば児童虐待にしても、よくテレビでインタビューを受けて喋っている近所の人が「時々、子供がビンタされたりするような音が聞こえたり、子供が泣き叫ぶ声が聞こえていた」ということを喋っています。そのような物音の中には決定的な情報が(例えば、親が4〜5才程度の子供に「殺してやる」とか口にする等(→阿修羅発言 (200704251914)))出てきた時もあると思うのです。そんな時には近所の人々しかその子供を救えないのです。私だったら、そういうクリティカルな情報を聞いた時点にはその家に入って行き、子供を奪還するなり隔離するなりしますけどね。勿論、他の方がそうしないとは言ってません。「優しさ」を持っている人ならば、必ず「殴りこむ」はずだと思います。優しさにも勿論、形と本質の両面があるのであり、ここでは優しさの本質について言っています。

 芸能界では、人の裏側で、その人(の人生)を決定するような裏工作がよく行われます。裏工作だけで動いている世界と言えるのかも知れない。これも「優しさ」とは程遠い。もし私が(それが悪辣な人や勢力への防衛ではなく)善人に対する裏工作の現場を知り得たとしたならば、必ず本人にその工作内容は伝えますけどね。そういうことも含めて、基本=当たり前の事が行われることが無くなって来ていると分るような状況です。

 電車のホームから落ちた人を助けようとホームに下りて救助していたら電車にはねられる事故で亡くなってしまった韓国の大学生が映画になりました。でも、日本では良い事をすると非難され、裏の意図の存在を仮定する人が多い。また、本人が自分について述べる言葉よりも、その人の周囲の人間の言葉のほうが信用されるのです。また、少数の利益共同体が社会全体に不利益を被らせて省みない「仲良し傲慢クラブ」も星の数ほどありますね【→阿修羅発言 ←日本のエリート集団(200705262007)】。優しい人間は、社会全体へ向かって内部告発をしようとします。しかし、そういう良い事を(しようと)すると、様々な裏工作や作り話や偏見・イメージ・風評を捏造されて潰されて行きます。大勢でたった一人をスケープゴート(仲間はずれ、イジメの対象)にするという行為は優しい人間には出来ない行為だから、必ず異議を唱える。そうすると、奇声を発しながら仲良しクラブから外されて行きます。こういう幾多のことが日本人の中から優しさを奪っているのでしょう。あるいはそういう人種は芸能界だけが突出して多いのだろうか?(200610270117)


 当発言は、こちらの発言と同日に述べたものです。

 最近、思う事があります。それは、気づかない霊性と物質性の“混同”です。この前、述べましたように、私は人間関係の上で、人を「従わせよう」という気持ちはありません(ただ、それは善だね or 悪だから止めてねとは言う・思うでしょうが)。しかし、中には、「(自分の利益を[損ねないように/得られるように])人を従わせよう」とする物質性の目的を果たすために、酷いものだと「あなたには悪い霊がついています。1週間以内に100万円でこの品を購入しないと酷い目にあいます」みたいに言い募ったりする宗教組織団体が現実にあったりします。2006年8月のアーキエンジェル・マイケルのメッセージの中に、私が述べていた水平発想と垂直発想と同じような事が述べられていました。すなわち、「人・社会を慣習・因習・ドグマ・収入金額等の水平発想で縛り付けておくことで(色々な意味で)自分の利益を維持しよう・得ようとする人(々)がいる」という点です。こういう書き方をすると、特定のカルトのことを言っているかのようですが、今回言わんとしますのは、日本で広く信じられている「人間関係教」は、もはや特定の何かではなくなっており、その中にトリックがあることに気づかない傾向についての指摘です。
 この「人間関係教」至上の立場から、私へ批判する人もいるようですね。私が言いたいのは、人間関係を標榜すれば、一見、正しい意図を持っているように見えますが、「実は」自分の個人的な都合・利益という物質性のものを「相手に損害を与えてでも常に最優先する発想」の場合は多いものだと思うので、注意が必要なのかも知れませんね。また、「(究極的には)必要ではない」ものがあるという点も強調する必要があります。上記のアーキエンジェル・メッセージの中にも、そのような不要なしがらみから抜け出すことを勧めていますし、他の不要な発想についてもアーキエンジェルの言葉として、太陽出版の「黄金の約束(上)\2,400」のP65L8〜9やP270L7〜8に述べられています。
 このようなところ(≠人間関係教)で生きる人は「冷たい人」という「冷たいレッテル貼り」をされるのかもね。それに、何かが根本的に違いますよね、皆さんと私って。あ、私「だけ」か。それに、特定社会を「支配・所有」している人(々)に全面的には迎合しない私の性格が(?)10年程度も詰問され続けたり、私の結婚可能性を潰し続けた「事実」に対して人々が「冷たい」というレッテルすら貼ろうとしない(?)のは何故でしょうかね。そういう人(々)に対してただ一回でも性格を詰問すると凄いんでしょうね。あるいは、一回でも結婚可能性を潰したらもっと凄いんでしょうね。(200608251714)


 これも資本主義、金銭主義がその傾向を助長しているように思います物の考え方、思い方について最近、思います。例えば、人が誰かに寄付をしたとします。「この次に何を思うか」ということなのです。確認しておきたいのは、寄付の目的です。あなたは何故、その寄付をしたのですか? それは人としてすべきことでもあるという側面があります。ただ、この「側面」は第一目的ではないのですか? では、「次に何を思うか」「何処に帰結するか」というのは次の2つの正反対になると思います。

1.相手に対する援助が本当に成されたかな。なるべく助かる為にはもっと金額を多くするか小額でも継続して行くべきだ。(他者への奉仕に帰結する)
2.寄付をした自分は偉い。(自己への奉仕に帰結する)

 この2.の傾向が中心テーマである人がほぼ100%近いように思えるのです(寄付というのは単なる例です)。

 他のことでもそうですよ。例えば、私は動画をエンコードしていますが、私はそういうことをする「能力」とか「技術」とかそういうことに意識が記憶のように向く事はあっても、それをテーマとすることはありませんが。その能力・技術は手段であってそれを活用してどのような全体の利益にするか、という点に目が向いているからです。というか、そもそもそれを目指すようになったのは、「知りえた重要情報を隠してはならない」という動機から発出したからです。(社会)全体にとっての重要情報を隠そうとするのは悪い意味での所有になるからです。

 「勿論」、人間ですから、正反両面の想念が出てくるのは当然です。これを片方だけでしかないと考えると、偏見化してしまいます。どうも偏見を補正もせずに生きている人が結構多いかも知れないから述べました。(200511032321)

 半月程前に[ミュージックシーンに絡めて]で、hitomiさんの新曲「Love Angel」で、「自分に関して説明し尽くして私が勝利している現状を、“裸にされてしまった”という敗北的な解釈をしたがる問題」について述べましたが、似たような解釈は、政界というかテレビ界の中でも行われている事に気づいたので、そのことを述べてみます。要するに、私と同じ事を出来ないのが悔しいのと、不都合があるから、論理を摩り替えて解釈したがるというのが問題の核心だと思います。

 下記で私は『物事をハッキリさせようとする傾向は、決して一神教の傾向ではなく、個々人の性格傾向が主導している』という点を解明しました。宗教の問題ではなかったのです。政界やテレビ界では、これを摩り替えて宗教の問題だと断定しているのが問題である。これは個人の性格・考え方が主導しているのである。宗教が主導していない。ハッキリさせたいのは、個々人の=国民の傾向。

 私の性格追及をしていたマスコミは、結局、私の本籍地などの個人情報のどこをどう調べても、私には裏など存在しない=私の言葉に嘘は無かった事実だけが残ったのだと思います。当たり前でしょ、と本人としては思う。その事実で帰結するのならいいのですが、マスコミの「負け惜しみ」と「自己防衛」が近年始まっている様子が見られます。負け惜しみの強がりと自己防衛の為にすり替えも行われています。あなた方は、私の言葉に嘘を探し続けたその意図はどこにあったのでしょうか? もし仮に「嘘が見つかったら」どのようにし始めたのでしょうか? その嘘ネタを元にして「論理的に」私を追及し始めたんじゃないですか? ところが、論理的に追及できない(=私が自身の全てを論理的に解明したから)ことが論理的に判明したら、「一神教はダメだ。論理性は日本に合わない」ということを強調し始めました。上記のhitomiさんの新曲の歌詞にも、その種の傾向が反映していますよね。それらの動機は、彼らが私の個人情報を「いかに勝手に(不法に)取り扱って来たか」という個人的な怖れに基づいているのである。私個人をマスコミが総がかりで調査しても嘘は無かった。ところが、あなたがたは叩けばボロボロ出てくる(さあ、私と比較せよ)。だからこそ「論理性はダメだ。なーなーで不明確な、あやふやな関係でなくてはならない」と言い始めた。それならばそうと、次の様に言うべきでしょ。「私には国民に知られちゃマズイ事が沢山あるので、“一神教はダメだ、論理的にハッキリさせる事はダメだ”と言って論理性から論理的に逃げています」とちゃんと言わないと。(200508290103)

 思うに、現代日本人は、精神の骨抜き状態にあると思います。精神的に退廃・忘却状態にあると思います。

 人間は霊と肉体という正反対のベクトル(善と悪)を持つ実体が組み合わさって生きているものだから、どちらかに偏るのは破壊的です。では、偏らないようにするにはどうしたらいいかというのは自明の理です。すなわち、そのような構成を持つ自分を知ることです。誰でも必然的に自分を知らざるを得ません。そのようにして自分を知ってゆけば、段々と(基本的に)、中道を歩いて行くようになるのも自明です。善と悪をしっかり区別し、混同しないで運用するのはとても大切な事は言うまでもありません(自明)。

 何故、現代日本人は善と悪の区別を忘れてしまっているのか? 善悪を区別しない———これは精神的な退廃である。現代において日本人がそうなってしまった理由は先ず一つは明らかです。それは「金銭教」ですね。自己利益に汲々きゅうきゅうとし(させられ)、人としての基本(善悪を区別すること)よりも、自己利益を優先する発想になってしまったのが理由ですね(自明)。

 例えば、昔の日本人なら「被害者」には当たり前、「困っている人」にも親切にした筈です。その発想は善意に裏打ちされていた。ところが、現代日本人はそのような精神ではなくなっている。
 ここに被害者と加害者がいたとします。このとき、現代日本人は「被害者を守ろう」とはしないのです。「どうしたら自己利益を損なわずにこの二人と関わるか」という発想なのです。そこで、「自分に対して無害な」被害者に対しては放置するか無視することを何とも思いません。現代日本人は「加害者と仲良くする」という悪の選択を普通にします。これだけでも驚きなのに、彼らは「加害者の立場に理解を示し、被害者を責め始める」のが常道である。私の感触では、被害者の立場に理解を示す人は20%程度でしょう。残り80%程度の人は、最初から悪意ではないのだが、色々な条件が示され、選択している内に、ついつい自己利益を優先して悪へと傾いてゆく、結局は悪を選ぶ人々です。彼らは加害者と仲良くしただけではなく、加害者に理解を示した上に、自らを被害者であると言い始める。現代日本人は、精神がすっかり入れ替わってしまった。

 上記の「被害者、加害者の例」以外にも、「エゴか奉仕か」という例も出すことができます。金銭教にやられてしまった現代日本人は肉体ベースのエゴの利益を満たす事が第一なのです。現代日本人は、自分の身内や部下に対しては傲慢に振舞い、一方、対外的にはかんばしく振舞います。これは規模が小さければ別に大きな問題ではないのですが、このような傲慢な態度を国全体を動かす立場にある人が採っている事が大きな問題です。なぜなら、彼らの傲慢さ=エゴにより、社会全般が迷惑を受けます。このような傲慢さで日本は溢れかえっております。その種の被害(被害者なのに「おまえが悪い」と言われたり等)を受けてきた人々が、そのストレスを晴らすかのように、3邦人の解放後、「自己責任」と言い立てたという側面もあるのかも知れません。傲慢な人間は善であるか、悪であるのかは、まるで問題ではないようです。自分の利益になるか/ならないかという点だけが問題であり、人や社会的迷惑をかえりみない。傲慢たる所以ゆえんですね。

[善か/悪か]<[利益か/不利益か]

 という不等式が成立しているのが現代日本人です。では、何故、最も価値ある「善悪の識別」がないがしろにされるのか? それも自明ですね。すなわち、現代日本人のほとんど全員にとって、「肉体=自分」という感覚だからです。このような感覚を持っているから、自らのエゴが楽しむことが「最優先事項」なのです。勿論、楽しむなと言ってる訳ではありません。それは偶然的に楽しむ状況が「起これば」それを受動的に楽しめばいいのである。それを第一目的として人を踏みつけてまで能動的に追及するような人は間違っている。
 次に、もし正しくも「肉体=ツール」という感覚を持っていたとしたらどうなるでしょうか。その時その人は、その時そうすべきでないことをしなくなります。つまり、すべきことをツールを「使って」正しく(つまり悪を避けて)行動します。つまり「楽しむ事を最優先しようとして人を踏みつける」などということはしません。「利益/不利益」の次元に対して比較的鈍感になると言えるかも知れませんが、それは人としての正常化です。現代日本人が「利益/不利益」の次元に「敏感すぎる」のです。死ぬまでは短いのだからと「自分が」楽しもうとして他の存在に被害を与える。そのような「悪」を選択するのはエゴ第一優先主義にあります。時々、「日本は八百万やおよろずの神々の国だ」という事が言われます。しかし、その発想の中身の実態をよく考えれば、それは「エゴを常に優先するための方便として」八百万の神々が「使われている」事がわかると思います。つまり、不等式で表せば、

[自分]>[八百万の神々]

 という構図がありますね。人は勿論、外部なる者に精神まで「支配」されるべきではありません。精神の自由は自分という中心が中心に納まっている必要があるのは勿論です。確かに神なる外部によって自由の権利まで制限をうけてしまうかのようなイメージは人類の為にも払拭する必要はあると思います。「肉体=ツール」という感覚の人はそのような「自分の自由」に対して比較的鈍感であろうと思います。なぜなら、「肉体=ツール」の人の関心は自分というツールをどのように「使用するか」という点にあり、発想の基本は世界への奉仕にあると思います。つまり「肉体=ツール」の人は、正義の為に、あるいはや善の為に、あるいは悪と戦う為に、人によっては神の為に「自分というツールをどのように有効に使用するか」と考えると思います。それを強迫観念的に行うべきではなく、飽くまで「余力のある人は」という区切りが必要だと思います。そうすれば、一神教という社会展開の中にも(肉体に対する)危険性は減少すると思います。

 また、「肉体=ツール感覚」の人は、正義の為に自分を「使用する」タイプであり、一神教の社会的側面に親和性のある人だと思います。こちらのタイプの性格が裏目に出ると、「本来ならば、各自の余力の範囲で正義・神に従って活動すれば良かった」筈のところを、いつのまにか「神や正義の為に自分の一身を捧げてしまう」という極端に振れる場合が出てくる点です。これは肉体の自分にとっては避けたい事です。しかし、霊性を優先する人ですね。
 一方、「肉体=自分」の人は八百万の神々と言いながら、決して八百万の神々には従わないタイプの人々と思います。こちらのタイプは「自分が中心」という点では肉体を優先する人で、自爆攻撃などする筈がないのは良いのかも知れませんが、精神的腐敗を起こし易いタイプですね。

 結局は、その人間が霊性優先タイプの「肉体=ツール」感覚の人であるがためにツールを「使用する」(正義、神のため)という行動になるか、または、肉体のエゴ優先の「肉体=自分」感覚の人であるがために「自己利益の為に人を押しのける」かという傾向性にかかってくるのだと思います。一神教か八百万かというのは枝葉だと思います。(200405052353)


























































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