[集団的自意識過剰]のほうに、日本人に(?)欠けているのは、「闊達さ(言語化)」であろうと思った点を述べました。(200706210218)


 [集団的自意識過剰]のほうに、「空気で動く」側面について少し述べました。(200706200112)


 時々思いますのは、「日本人というのは、皆で悪を許容し過ぎるのではないか?」という感想です。すなわち、初発で悪を成す人(加害者)を「笑って許容する」のが私にはどうも解せません。初発の悪意によって被害を受けた側(被害者)が怒ると、皆で被害者の権利を制限します。私個人の感覚としては復讐するのは当然だと思います。それで復讐を受けた加害者側が恨みを持つのは間違っていると思います。間違っているのは、加害者側が新たに次の一歩に出る行為である。いわれなき苦痛を被害者側に与えたのだから、加害者側が同様の苦痛を甘受した時点で完結停止させなければならないのも当然だと思う。停止ポイントは被害者を押し留める時点であってはならず、加害者側が当然の苦痛を甘受した「後」に設定されるべきだと思います。つまり、皆で加害者側に向かって「そんなことをする権利はないよ」と押し留めるべきでしょう。

 もう一つ思いますのは、日本人は「我慢して我慢して我慢した上で、ある日突然に爆発する」というパターンが多いような気がします。小さな悪を許容しすぎる弊害の一つでしょう。なるべくなら普段から「小さな問題」を言葉に出して正面から(裏からではなく)問うという行動が絶えず必要なのではないかと思います。

 もう一つ思いますのは、特定の個人である有力・権力者に迎合する社会傾向が強いのではないかと思います。特に新興宗教や芸能界がそうではないかと思う。個々人が自由に意見を持ちそれを表明し、個々人で行動できる社会が少ないし、そういう個人も少ないように予想します。それは権力者が個々人の弱者を脅すなどの不正行為が行われるからでしょうか。日本人は優しいのは良いのですが、「お上に弱い=服従する」(弱点となる)傾向を多分遺伝的に持つようなので、その弱点が「利用される」ことで新興宗教“組織”などが成立するのではないかと思います。組織として寄り集まる時の基本は ( 新地球出版社・発行、星雲社・発売の[エランの]チャネリング本「宇宙の法(\1,500)」や「宇宙の法《革命編》(\2,000)」にあるように ) 「目的意識」であるべきだとは思うのですが…。(200705210037)
【芸能界などは、特定有力個人の利益になるかどうかという点を中心にして、人の可能性を潰しまくる世界ですね。(200705220658)】


 最近思いますことは、近頃の人は、理由は分りませんが、愛とか優しさとかを失った人が増えてきているのかな(?)。というのは、例えば児童虐待にしても、よくテレビでインタビューを受けて喋っている近所の人が「時々、子供がビンタされたりするような音が聞こえたり、子供が泣き叫ぶ声が聞こえていた」ということを喋っています。そのような物音の中には決定的な情報が(例えば、親が4〜5才程度の子供に「殺してやる」とか口にする等(→阿修羅発言 (200704251914)))出てきた時もあると思うのです。そんな時には近所の人々しかその子供を救えないのです。私だったら、そういうクリティカルな情報を聞いた時点にはその家に入って行き、子供を奪還するなり隔離するなりしますけどね。勿論、他の方がそうしないとは言ってません。「優しさ」を持っている人ならば、必ず「殴りこむ」はずだと思います。優しさにも勿論、形と本質の両面があるのであり、ここでは優しさの本質について言っています。

 芸能界では、人の裏側で、その人(の人生)を決定するような裏工作がよく行われます。裏工作だけで動いている世界と言えるのかも知れない。これも「優しさ」とは程遠い。もし私が(それが悪辣な人や勢力への防衛ではなく)善人に対する裏工作の現場を知り得たとしたならば、必ず本人にその工作内容は伝えますけどね。そういうことも含めて、基本=当たり前の事が行われることが無くなって来ていると分るような状況です。

 電車のホームから落ちた人を助けようとホームに下りて救助していたら電車にはねられる事故で亡くなってしまった韓国の大学生が映画になりました。でも、日本では良い事をすると非難され、裏の意図の存在を仮定する人が多い。また、本人が自分について述べる言葉よりも、その人の周囲の人間の言葉のほうが信用されるのです。また、少数の利益共同体が社会全体に不利益を被らせて省みない「仲良し傲慢クラブ」も星の数ほどありますね【→阿修羅発言 ←日本のエリート集団(200705262007)】。優しい人間は、社会全体へ向かって内部告発をしようとします。しかし、そういう良い事を(しようと)すると、様々な裏工作や作り話や偏見・イメージ・風評を捏造されて潰されて行きます。大勢でたった一人をスケープゴート(仲間はずれ、イジメの対象)にするという行為は優しい人間には出来ない行為だから、必ず異議を唱える。そうすると、奇声を発しながら仲良しクラブから外されて行きます。こういう幾多のことが日本人の中から優しさを奪っているのでしょう。あるいはそういう人種は芸能界だけが突出して多いのだろうか?(200610270117)


 当発言は、こちらの発言と同日に述べたものです。

 最近、思う事があります。それは、気づかない霊性と物質性の“混同”です。この前、述べましたように、私は人間関係の上で、人を「従わせよう」という気持ちはありません(ただ、それは善だね or 悪だから止めてねとは言う・思うでしょうが)。しかし、中には、「(自分の利益を[損ねないように/得られるように])人を従わせよう」とする物質性の目的を果たすために、酷いものだと「あなたには悪い霊がついています。1週間以内に100万円でこの品を購入しないと酷い目にあいます」みたいに言い募ったりする宗教組織団体が現実にあったりします。2006年8月のアーキエンジェル・マイケルのメッセージの中に、私が述べていた水平発想と垂直発想と同じような事が述べられていました。すなわち、「人・社会を慣習・因習・ドグマ・収入金額等の水平発想で縛り付けておくことで(色々な意味で)自分の利益を維持しよう・得ようとする人(々)がいる」という点です。こういう書き方をすると、特定のカルトのことを言っているかのようですが、今回言わんとしますのは、日本で広く信じられている「人間関係教」は、もはや特定の何かではなくなっており、その中にトリックがあることに気づかない傾向についての指摘です。
 この「人間関係教」至上の立場から、私へ批判する人もいるようですね。私が言いたいのは、人間関係を標榜すれば、一見、正しい意図を持っているように見えますが、「実は」自分の個人的な都合・利益という物質性のものを「相手に損害を与えてでも常に最優先する発想」の場合は多いものだと思うので、注意が必要なのかも知れませんね。また、「(究極的には)必要ではない」ものがあるという点も強調する必要があります。上記のアーキエンジェル・メッセージの中にも、そのような不要なしがらみから抜け出すことを勧めていますし、他の不要な発想についてもアーキエンジェルの言葉として、太陽出版の「黄金の約束(上)\2,400」のP65L8〜9やP270L7〜8に述べられています。
 このようなところ(≠人間関係教)で生きる人は「冷たい人」という「冷たいレッテル貼り」をされるのかもね。それに、何かが根本的に違いますよね、皆さんと私って。あ、私「だけ」か。それに、特定社会を「支配・所有」している人(々)に全面的には迎合しない私の性格が(?)10年程度も詰問され続けたり、私の結婚可能性を潰し続けた「事実」に対して人々が「冷たい」というレッテルすら貼ろうとしない(?)のは何故でしょうかね。そういう人(々)に対してただ一回でも性格を詰問すると凄いんでしょうね。あるいは、一回でも結婚可能性を潰したらもっと凄いんでしょうね。(200608251714)


 これも資本主義、金銭主義がその傾向を助長しているように思います物の考え方、思い方について最近、思います。例えば、人が誰かに寄付をしたとします。「この次に何を思うか」ということなのです。確認しておきたいのは、寄付の目的です。あなたは何故、その寄付をしたのですか? それは人としてすべきことでもあるという側面があります。ただ、この「側面」は第一目的ではないのですか? では、「次に何を思うか」「何処に帰結するか」というのは次の2つの正反対になると思います。

1.相手に対する援助が本当に成されたかな。なるべく助かる為にはもっと金額を多くするか小額でも継続して行くべきだ。(他者への奉仕に帰結する)
2.寄付をした自分は偉い。(自己への奉仕に帰結する)

 この2.の傾向が中心テーマである人がほぼ100%近いように思えるのです(寄付というのは単なる例です)。

 他のことでもそうですよ。例えば、私は動画をエンコードしていますが、私はそういうことをする「能力」とか「技術」とかそういうことに意識が記憶のように向く事はあっても、それをテーマとすることはありませんが。その能力・技術は手段であってそれを活用してどのような全体の利益にするか、という点に目が向いているからです。というか、そもそもそれを目指すようになったのは、「知りえた重要情報を隠してはならない」という動機から発出したからです。(社会)全体にとっての重要情報を隠そうとするのは悪い意味での所有になるからです。

 「勿論」、人間ですから、正反両面の想念が出てくるのは当然です。これを片方だけでしかないと考えると、偏見化してしまいます。どうも偏見を補正もせずに生きている人が結構多いかも知れないから述べました。(200511032321)

 半月程前に[ミュージックシーンに絡めて]で、hitomiさんの新曲「Love Angel」で、「自分に関して説明し尽くして私が勝利している現状を、“裸にされてしまった”という敗北的な解釈をしたがる問題」について述べましたが、似たような解釈は、政界というかテレビ界の中でも行われている事に気づいたので、そのことを述べてみます。要するに、私と同じ事を出来ないのが悔しいのと、不都合があるから、論理を摩り替えて解釈したがるというのが問題の核心だと思います。

 下記で私は『物事をハッキリさせようとする傾向は、決して一神教の傾向ではなく、個々人の性格傾向が主導している』という点を解明しました。宗教の問題ではなかったのです。政界やテレビ界では、これを摩り替えて宗教の問題だと断定しているのが問題である。これは個人の性格・考え方が主導しているのである。宗教が主導していない。ハッキリさせたいのは、個々人の=国民の傾向。

 私の性格追及をしていたマスコミは、結局、私の本籍地などの個人情報のどこをどう調べても、私には裏など存在しない=私の言葉に嘘は無かった事実だけが残ったのだと思います。当たり前でしょ、と本人としては思う。その事実で帰結するのならいいのですが、マスコミの「負け惜しみ」と「自己防衛」が近年始まっている様子が見られます。負け惜しみの強がりと自己防衛の為にすり替えも行われています。あなた方は、私の言葉に嘘を探し続けたその意図はどこにあったのでしょうか? もし仮に「嘘が見つかったら」どのようにし始めたのでしょうか? その嘘ネタを元にして「論理的に」私を追及し始めたんじゃないですか? ところが、論理的に追及できない(=私が自身の全てを論理的に解明したから)ことが論理的に判明したら、「一神教はダメだ。論理性は日本に合わない」ということを強調し始めました。上記のhitomiさんの新曲の歌詞にも、その種の傾向が反映していますよね。それらの動機は、彼らが私の個人情報を「いかに勝手に(不法に)取り扱って来たか」という個人的な怖れに基づいているのである。私個人をマスコミが総がかりで調査しても嘘は無かった。ところが、あなたがたは叩けばボロボロ出てくる(さあ、私と比較せよ)。だからこそ「論理性はダメだ。なーなーで不明確な、あやふやな関係でなくてはならない」と言い始めた。それならばそうと、次の様に言うべきでしょ。「私には国民に知られちゃマズイ事が沢山あるので、“一神教はダメだ、論理的にハッキリさせる事はダメだ”と言って論理性から論理的に逃げています」とちゃんと言わないと。(200508290103)

 思うに、現代日本人は、精神の骨抜き状態にあると思います。精神的に退廃・忘却状態にあると思います。

 人間は霊と肉体という正反対のベクトル(善と悪)を持つ実体が組み合わさって生きているものだから、どちらかに偏るのは破壊的です。では、偏らないようにするにはどうしたらいいかというのは自明の理です。すなわち、そのような構成を持つ自分を知ることです。誰でも必然的に自分を知らざるを得ません。そのようにして自分を知ってゆけば、段々と(基本的に)、中道を歩いて行くようになるのも自明です。善と悪をしっかり区別し、混同しないで運用するのはとても大切な事は言うまでもありません(自明)。

 何故、現代日本人は善と悪の区別を忘れてしまっているのか? 善悪を区別しない———これは精神的な退廃である。現代において日本人がそうなってしまった理由は先ず一つは明らかです。それは「金銭教」ですね。自己利益に汲々きゅうきゅうとし(させられ)、人としての基本(善悪を区別すること)よりも、自己利益を優先する発想になってしまったのが理由ですね(自明)。

 例えば、昔の日本人なら「被害者」には当たり前、「困っている人」にも親切にした筈です。その発想は善意に裏打ちされていた。ところが、現代日本人はそのような精神ではなくなっている。
 ここに被害者と加害者がいたとします。このとき、現代日本人は「被害者を守ろう」とはしないのです。「どうしたら自己利益を損なわずにこの二人と関わるか」という発想なのです。そこで、「自分に対して無害な」被害者に対しては放置するか無視することを何とも思いません。現代日本人は「加害者と仲良くする」という悪の選択を普通にします。これだけでも驚きなのに、彼らは「加害者の立場に理解を示し、被害者を責め始める」のが常道である。私の感触では、被害者の立場に理解を示す人は20%程度でしょう。残り80%程度の人は、最初から悪意ではないのだが、色々な条件が示され、選択している内に、ついつい自己利益を優先して悪へと傾いてゆく、結局は悪を選ぶ人々です。彼らは加害者と仲良くしただけではなく、加害者に理解を示した上に、自らを被害者であると言い始める。現代日本人は、精神がすっかり入れ替わってしまった。

 上記の「被害者、加害者の例」以外にも、「エゴか奉仕か」という例も出すことができます。金銭教にやられてしまった現代日本人は肉体ベースのエゴの利益を満たす事が第一なのです。現代日本人は、自分の身内や部下に対しては傲慢に振舞い、一方、対外的にはかんばしく振舞います。これは規模が小さければ別に大きな問題ではないのですが、このような傲慢な態度を国全体を動かす立場にある人が採っている事が大きな問題です。なぜなら、彼らの傲慢さ=エゴにより、社会全般が迷惑を受けます。このような傲慢さで日本は溢れかえっております。その種の被害(被害者なのに「おまえが悪い」と言われたり等)を受けてきた人々が、そのストレスを晴らすかのように、3邦人の解放後、「自己責任」と言い立てたという側面もあるのかも知れません。傲慢な人間は善であるか、悪であるのかは、まるで問題ではないようです。自分の利益になるか/ならないかという点だけが問題であり、人や社会的迷惑をかえりみない。傲慢たる所以ゆえんですね。

[善か/悪か]<[利益か/不利益か]

 という不等式が成立しているのが現代日本人です。では、何故、最も価値ある「善悪の識別」がないがしろにされるのか? それも自明ですね。すなわち、現代日本人のほとんど全員にとって、「肉体=自分」という感覚だからです。このような感覚を持っているから、自らのエゴが楽しむことが「最優先事項」なのです。勿論、楽しむなと言ってる訳ではありません。それは偶然的に楽しむ状況が「起これば」それを受動的に楽しめばいいのである。それを第一目的として人を踏みつけてまで能動的に追及するような人は間違っている。
 次に、もし正しくも「肉体=ツール」という感覚を持っていたとしたらどうなるでしょうか。その時その人は、その時そうすべきでないことをしなくなります。つまり、すべきことをツールを「使って」正しく(つまり悪を避けて)行動します。つまり「楽しむ事を最優先しようとして人を踏みつける」などということはしません。「利益/不利益」の次元に対して比較的鈍感になると言えるかも知れませんが、それは人としての正常化です。現代日本人が「利益/不利益」の次元に「敏感すぎる」のです。死ぬまでは短いのだからと「自分が」楽しもうとして他の存在に被害を与える。そのような「悪」を選択するのはエゴ第一優先主義にあります。時々、「日本は八百万やおよろずの神々の国だ」という事が言われます。しかし、その発想の中身の実態をよく考えれば、それは「エゴを常に優先するための方便として」八百万の神々が「使われている」事がわかると思います。つまり、不等式で表せば、

[自分]>[八百万の神々]

 という構図がありますね。人は勿論、外部なる者に精神まで「支配」されるべきではありません。精神の自由は自分という中心が中心に納まっている必要があるのは勿論です。確かに神なる外部によって自由の権利まで制限をうけてしまうかのようなイメージは人類の為にも払拭する必要はあると思います。「肉体=ツール」という感覚の人はそのような「自分の自由」に対して比較的鈍感であろうと思います。なぜなら、「肉体=ツール」の人の関心は自分というツールをどのように「使用するか」という点にあり、発想の基本は世界への奉仕にあると思います。つまり「肉体=ツール」の人は、正義の為に、あるいは愛や善の為に、あるいは悪と戦う為に、人によっては神の為に「自分というツールをどのように有効に使用するか」と考えると思います。それを強迫観念的に行うべきではなく、飽くまで「余力のある人は」という区切りが必要だと思います。そうすれば、一神教という社会展開の中にも(肉体に対する)危険性は減少すると思います。

 また、「肉体=ツール感覚」の人は、正義の為に自分を「使用する」タイプであり、一神教の社会的側面に親和性のある人だと思います。こちらのタイプの性格が裏目に出ると、「本来ならば、各自の余力の範囲で正義・神に従って活動すれば良かった」筈のところを、いつのまにか「神や正義の為に自分の一身を捧げてしまう」という極端に振れる場合が出てくる点です。これは肉体の自分にとっては避けたい事です。しかし、霊性を優先する人ですね。
 一方、「肉体=自分」の人は八百万の神々と言いながら、決して八百万の神々には従わないタイプの人々と思います。こちらのタイプは「自分が中心」という点では肉体を優先する人で、自爆攻撃などする筈がないのは良いのかも知れませんが、精神的腐敗を起こし易いタイプですね。

 結局は、その人間が霊性優先タイプの「肉体=ツール」感覚の人であるがためにツールを「使用する」(正義、神のため)という行動になるか、または、肉体のエゴ優先の「肉体=自分」感覚の人であるがために「自己利益の為に人を押しのける」かという傾向性にかかってくるのだと思います。一神教か八百万かというのは枝葉だと思います。(200405052353)


























































目次(生まれる想い)に戻る