最近、気付いたことがあります。プライドという力、あるいは傾向は、本当の自分に向かう力であるという点です。例えば、あなたが小さな人工知能を持ったヘルメットを被ったとします。他の人があなたに何か尋ねると、ヘルメットの人工知能があなたの代わりに返答します。しかし、それは人工知能ですから、あなたの本心を答えている訳ではないのです。だから不本意な事が度々起きる事になります。ところが、周囲の人々は、あなたの気持ちなど無視して、人工知能の返事を重視して反応します。実際には「本当のあなた」に対して周囲の人々は失礼なことをしてしまっているのです。
 プライドとはこういう側面があったのです。「本当の自分」とは、例えば「未来の自分」とか「肉体を越えている自分」と言い替えて思惟してみてもいいでしょうね。(201604020224)



 物質は放っておけば、自然にエントロピーが増大してゆきます。形は崩れて行き、温度も環境の温度に同化して行きます。しかし、生命はエントロピー減少性です。生命は形を作り出し、環境との温度差を作り出したりします。プライドというのは、こういうエントロピー減少性に根本があります。例えば、「私は〜ということはしない」という差異を作り出します(個人によって違う)。エントロピーを減らそうとしています。プライドというのは生命そのものの性質からであり、神の性質とも言えるでしょう。『プライドは内に適用することが正しく、自分のプライドを守るために外の誰かを貶めるのは既に間違っている』←このような規則も生命それ自身から出てくるものであり、エントロピーを減少させようとする方向にあります。私が「プライドを持たないようにするのは不可能」と以前に言いましたのは、このような根拠があります。(200707312227)


 今まで気づいてなかった事が急に分ることってありますよね。今回タイプするのは、ごくごく個人的な事です。ずっと前、芸能人男性の反応をテレビで見てて、気づいた事があります。私が誰かへのレターの中で「私はAであり、Bはしません」と仮に書いたとします。すると、その点に関して、芸能人の人たちが私に勝とうとして自己アゲをし始めます。特に私を(テレビの中では)サゲようとはしておらず善良なままでしたので、それで印象も薄かったのだろうと思います。多分、あの頃は、いや、ごく最近でも色々な番組の方が私に関してヒステリー気味だったのは、総論として、「自己アゲしても自己アゲしても、空上げ(…カラアゲと読ませむ)になってしまったり、あるいはその種の結果になってしまったという経緯があった」のではないかと気付きました。それが真相ではないかと気づきました。遅いかも知れませんが、阿修羅をほとんど網羅的に読んで記録し、考察していますから…。(…と書くと、どうにかなってしまうのだろうか…)
 私は基本的に問われた時は(私的には)善意で返答をして来ましたが、最近では、ファイル[集団的自意識過剰]の中で「ちょい裏」の話をしたら、即「ニュース23」の多事総論では「非常に危険です」と自分に向けて言われた気がしたし、CIAが夢に出て来るわ、キムタクのCMdownloadで「ちょい」をテーマにするわで「反応が凄い」気がする訳です。これは例えてみれば、車を運転してて、センターの黄色い線を少しでも越えてしまうと「こらーっ!」と停車させるような発想・行為に通じるような偏狭さをもたらしている事実が分ります。「私はAであり、Bはしません」という時に人との比較の意識というより、一つの事実として絶対値を述べている感覚です。それに「こういう厳しい基準を述べたのは自分のことだからであって、人にそうせよとは言ってないし思ってないから」というニュアンスで答えてきた訳です。「ちょい裏」発言にしても何にしても、自分の想像力を使って推理できる人ならば、そういう断定的な主観状況にはならないと思いますから、芸能界の中で目立つ人というのは、精神的に外部依存傾向が強いのかも。アーキエンジェル・マイケルの2006.08のメッセージの話を思い出してしまいます。「ちょい裏」発言についての反応を根拠に、その種の「内圧」が非常に高くなっている人々が想像できるような気もします。気づくのが遅れた他の理由は、普通、質問されている側=「あ、やばいな状況」のイメージに見られるじゃないですか。そして、質問をしている側=「徹底的に暴いてやる」みたいな攻撃イメージがあったりするじゃないですか。でも、逆だったというわけですね。質問に答えれば答える程、私は詰問追撃者を追いつめていたのかも知れません。これは立場としては全く逆ですよ。普通、詰問を受ける側が、詰問する側をおもんパカッパカッパカッて答えるような事はしないと思いませんか?(何故なら、質問される側は、個々の相手の意図・真意については直ちには不明なまま回答だけしている訳ですから)
 私とは逆の立場に立って言えば、皆さんは絶えず私に対して(非人間的な)悪意で詰問に次ぐ詰問を、しかも10年を超えるような期間、続けて来たんですね。どうりで私の伝えようとして来た言葉が不適切なものに変えられ、軽重・大小・深浅などを適切に理解し(ようとし)ないで主観にハマっているのが見えたのは、そういうところにあったのでしょうね。(200705050358)


 最近感じる想念があります。それは、「彼はプライドが強いので云々」という偏見です。このような考え方も「イメージ思考」ですね。すなわち「プライド=人間関係上良からぬ性質」との決め付けから思考が始まっています。例えば「電気」でもそうですが、感電して人が死ねば「電気=悪」に傾き、社会に恩恵を与えれば「電気=善」という方向に傾きます。さすがに現代社会では「電気に触るでないよ。電気は神であり、みだりに触れると天罰が下る」などと本気で片面的に信じたり一派が形成されることはありませんが、性に関しても一面的で「偏ったイメージ」を無意識的に信奉する一団が無数にあるように、プライドについても「偏ったイメージ」を検証することなく、「人間関係上良からぬ性質」との決め付け路線に立って、ある偏見を作り出す為に意図的にミスリードする人がいるようです。電気や性と同じく、プライドも適材適所です。プライドという性質も当然、神に源があり、誰にでもあります。この性質は「内へと向かえば至高善」です。外へと向かうと「傲慢さ・周囲への迷惑」となります【誰でもプライドが外向しがち(無自覚に関係性に埋没すると他者との衝突モードに突入するの意)な側面もある証拠です】。内と外、この区別さえ分っていれば、何の問題もないでしょう。【これに関連すると思える某神霊の発言がありました(200704192029)】

 それから、一言言っておきたいのは、「問われたからわざわざ答えているのに、しかも本当の事しか言ってないのに、それを指して傲慢だと指摘する」ような行為はナンセンスです。そんなに「耐えられない」なら二回目以後は聞かなければいいのです。本人は飽くまでも自分の内側=適所へ適用しているのですから。例えば「嘘をつかない」というのは内側への適用結果です。しかし、「プライド」が低くて謙虚で…という社会的な人で「嘘はつかない」と言ってる人も、実際には日常の細々とした事について嘘ばかりというのが実態だろうと思えます。というのは、本当の事ばかり言ってると「現実的には、損ばかりする」からでしょうね。

 ずっと前に映画で見ましたが、ジャン・バルジャン(だった?)が修道院に逃げ込んで助けを求めたら、後から追ってきた人がその修道院のシスターに質問し「ここに男がやって来なかったか?」と聞かれて「いいえ、来ませんでした」と答えた後に(嘘をついてしまった、と)泣いてしまう場面を思い出します。嘘を一概に悪いと言いつのるスタンスは全く私にはありませんので。例として挙げたのみです。プライドを社会的に評価評定してしまう片面的な行為は避けるべきです。プライドの外向表出として、自分の職業についてプライド・誇りを表明することも当然、あってしかきでしょう。プライドは、基本的には人を、あなたを高める内なる力ですね。(200703022332)


 記憶の片隅に、スペース・ブラザーがアダムスキーに言ってた言葉が思い起こされました。「地球人の死に対するイメージは間違っています。私たちは死を恐れません。死とは非実在だからです」このような言葉は非常に含蓄に富んでいると言えると思いました。(199904180432)

 他人が自分に何らかの念を集中している時というのは、その時の主体は「自分」と「相手」がいて、その相手の念が邪魔だったりうっとおしかったりもする訳ですが、このような認識において、忘れられているものがありました。

 人が自らのDNAの勢力拡張を欲求するのは人として自然な事ではあるでしょう。DNAと言いましたが、要は、「自分」のことです。例えば、自分の価値観を大勢の人に受け入れてもらいたいと思い、色々と主張したりします。そのようにしてDNAの自然な傾向が現れます。このような傾向が内向化すると、念の世界になります。心の中で自分の念を主張し、やはり、同様に勢力拡大を念じます。まあ、このように集中する人もいれば、ユラユラと自然想念状態でいるだけの人もいて、色々です。問題なのは、相手に同調して、相手の同意なしに自分の価値観なり念なりを強要する時です。このような時、相手は潜在意識で「うるさい念」を感じて自分の念の世界を守ろうとするでしょう。その念が具体的に判明しないからですね。このような念の世界において、主体として認識されているのは、「相手」と「自分」だけです。ここで忘れられているものがありました。それは、「無我の海」であり「無私の海」でした。

 私たち人が、「活動する想念」としてその想念の勢力拡大を行う時、実はそのような活動を行う為の「基盤」があって始めて勢力拡大ができるのだと分かりました。つまり、自分が相手の念を感じたり、相手が自分の念を感じたりしているのは、そもそも、そういう自我想念の基礎として「大自然」=「無私のエーテル界」があるからこそ、我々はその上において我を張る事も出来ているのだと思いました。つまり、人と人が念のやりとりや反発を行っているだけでなく、人と人の間に「無私」があり、両者を支えていたのです。この「無私」と同調すると、「音楽」を感じます。聞こえるのではなく(私の場合)、まるで音楽を聴いているかのような調べに乗った奇麗なものとでも形容できるものを感じます。相手の念を(心の中だけで)うるさく思ったり、それに反発して自分の念を(心の中だけで)強く主張したり、どちらも自然に逆らう方向となっていました。でも、「無我」の自然世界に同調すれば、相手が自己(DNA)を(心の中だけで)念的に主張したりしているのを見て、「それは人の自然な傾向である」と見做すだけのこととなりました。わざわざ反発することもないし、いつも無私の世界との同調(全託)を忘れないでいればいいのでした。よく、インスピレーションなどが、忘我で集中してるとやって来るとか言われますが、このような世界と同調するからだと思います。また、人はあまり我を張らないほうが良いと言うのも、この無我の「自我想念の基盤世界」に同調し易くするというのもあるからだと思います。つまり人の道とは、天使の世界(人と人の間の世界)との同調状態を維持するための道ではないかと思います。それが人間自身にも良い影響力となるのでしょう。この同調の究極の状態を「全託」と言うのですね。

 満員電車の中で、不可解で未解決であった、繰り返し経験した出来事がありました。それは、私が無意識にボーッとしている時に限って、人が私を注視しているのです。場合によっては怒っているのです。私はハッと気付いて目を合わせた時に相手が注視してたのに気付くのでした。この出来事は、私が無私の状態に入っており、無私の世界と同調しており、たまたまそのような時に私に念を集中してもそれが肩すかしを食らったような気分になるので、さらに私に念を集中する(人によっては怒る)、みたいな出来事だったと思います。

 「無私のエーテル界」とか言ってますが、これは簡単に「無私の世界」というような意味です。厳密な定義ではありません。また、「無私」という点についてはむしろ、「自分(光)が溢れている」という幸せの世界に近いとも思われます。この場合の「自分(光)」とは、人が通常意味する自我の意味ではなく、より高次のそれだと思います。(199904120454)

 「人は霊的な存在である」と、どれだけ多く言われて来た事でしょうか。でも人は自分=肉体だと思ってしまっている。それで、自分が制限のある存在だと暗に思い込んでしまっている。例えば、肉体が自分だと思っているので、やがて死ぬという制限から逃れられないと感じている。自分が肉体だと思っているので、自分は骨と筋肉と皮でできているというイメージがあります。また、年令によって自分が変化したような気になってしまっている。さまざまな制限の中に生きていますね。ここで「人は霊的な存在である」という言葉が生きてきます。「自分は肉体を越えているところの、命の炎としての霊的な存在である」という新たな自己認識が、そろそろ人類共通に持ってもいい時期ではないでしょうか。自分が霊的な存在=炎だという認識(イメージ)を持てば、自分は死に影響されない存在であるという認識の端緒に着くのだと思います。特に、集合有意識に参加されている人は炎を知覚していると思います。そういう人にとっては、もはや、「炎」は事実ですね。「人は霊的な存在であり、肉体、死を越えている」事を自覚し、無限の時間を視野に入れれば「不可能は何もない」という認識でいいのではないでしょうか。(199902030430)

 人は社会的な存在として、色々な意味で統合・調和へ向っている。現代では、その統合が「法律」という形で実現している。これがもっと進むと、実は人類が意識において一体となっている事に気付き、集合「無」意識が「集合(有)意識」へと進化する事はほぼ明らかと思います。そのような意味での社会参加というのは、もはや「社会」ではなく、個々人の内部で繋がっているという状態だと思います。それは主語の希薄な世界でしょうね。ただ単に「思う」ことにおいて他の人と共時的に思うだけで、それが「誰」と「誰」であるかはあまり意味の無い世界かも。

 また、人は個人的な存在として、神の一表現ですね。その内部には神性があり、その現れの一つが「プライド」として個人の内部で感じられます。その「プライド」というものは、人の社会的な活動時において、外界(例:自分の収入)と結びいてしまうと、今度はその外界をプライドが心地よく感じるようにと持って行こうとしてしまうために、社会に困難・混乱を起こし、社会全体の進化も遅らせます。この例が示すのは、実はプライドが、「偽プライド」になる(外界と結びついてしまう)ことによって起こると言えるでしょう。では、この場合、「真プライド」とは何かというと、外界と結びつく事自体に対してプライドが許さないのです。(これは例であります故、常にこうであるとは限りません。時には執着する事が正しい事も沢山あるかも知れません。例えば、自分の役目・仕事・義務に対してプライドを持つ=拘りを持つというのは、社会的にも良い効果を作ります)

 プライドというのは今まで常に社会的な観点からだけ悪く見られる傾向があったと思います。そのために、几帳面な人は、心の中においても神の火花であるプライドを押え込もうとするかも知れませんが、それは不可能です。そのような無駄を発想しない為にも、もう少し「プライドは必ずしも悪いものではない」と、認識の均衡を取ったほうが良いのではないでしょうか。人の持つ、このような「神のような傾向(プライド)」は、個人の内部で、死を越える為の原動力となるのではないでしょうか? ただ、この場合、更に分別しようとすれば、そのプライドが「脳に記憶された一つの回路パターンに過ぎないプライド反応」なのか、または、「脳にそのような反応を引き起こす、肉体を越えた生命力そのものから来るプライド反応」なのかという分別があると思います。上記の2つの反応は「肉体的(習慣的)な反応か/肉体を越えている反応か」ということですね。まあ、両方とも、元はと言えば、生命力から発露する傾向だったのですけどね。

 我々地球の人は、過去の歴史もあるため、死に対しての間違ったイメージが植え付けられていると言えるでしょう。だから、私めなどが生まれ変わりの事実性を強調する意味も出てくるのかも知れません。「身をもって示す」というのは人の好きな言葉でしょうし。実際は、皆さんがその事実(転生)を経ているはずだと思うんですけどね。僭越ながら(社会的表現)、私の存在する意味の一つは、(人類の)死の認識に対する挑戦というのが一つあると思います。

 よく感じ取れば、プライドとは、である事が分かるでしょう。その最も偉大な表現をされた方がイエズス・キリストでいまそがられましまする。参考図書 なぜ、あなたがキリストのようになれないのでしょうか? その理由は、「が足りない」という従来の言い方だけでは見逃されていた要素があります。プライドが足りないからでもあるのです。「真プライド」にどんどん目覚めて行き、やがて肉体を越え、死をも越えて行けば、行こうとするならば、が溢れて来るのでしょう。

 転生の研究によって分かっているのは、人が過去世において死によって中断した・させられた関係が再び今世で、その続きをする機会が与えられるという事です。つまり、かなり長い目で見れば、その意図が正当なものである限り、死は一時的な中断に過ぎないのだと思います。

 その種の社会的な領域のコントロール(偶然に見える出会いなど)は、人間には不可知・不思議の領域であり、人と人の間の境界領域は天使・神霊と呼ばれる存在が司っているようですね。私の認識では、彼ら(天使)は、「全き善」であり、まさに天の使いであり、法則のようでもあります。彼らには我々人間のような「自分」がなく、そのため、「自己」を持つ人間の為に(また、神の故に)「常に」働いているのです。彼らを人間として見做したとしたら、常に自分の為に働いてくれている、神のような人に見えるでしょう。自分が大変な時にかかったお医者さんが何故、「神のように見える」のでしょうか? 「神のように見える」という感覚は一体何でしょうか。それは、彼ら天使達の偉大な働きを私たち(の潜在意識)は「知っている」からでしょうね。ただ、私たちは天使とは性質が違い、自己を持つ人間であり、無限遠の極に対する0の極であると言えるでしょうから、宇宙の中心(0ポイント)とも言えるのかな。ただ、いくら人が宇宙の中心であって神性の表現であっても、その社会的な側面(人と人の境界領域)では神霊=天使からの強制力が加わる事もあり、宇宙進化のプログラムが滞りなく進むようにさせられるのでしょう。天使は人間に対する「外部的・社会的な進化要因」でしょう。「内部的・個人的な進化要因」は、・プライドでしょう。(199812220526)










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