ここにタイプしようと思ったのは、1カ月ほど前からそう思っていたことであって、社会的な出来事にタイミングを合わせる意図は全く無いと断っておきます。例の「登場人物、団体等は実在の人物や団体とは何の関係もありません」というヤツです。

 よく人を見てて思うのは、まずほとんどの人は何か言ったり行動したりすることの最終目的が自分(エゴ)になっているようだ、と思います。まあ、仕事だったらそれは仕方ないですよ。道行く人に「どうぞ店にお立ち寄り下さい」と心にも無い事を言いながら「立ち寄らなきゃ忙しくならなくていいのに」という本心を持つとか、その種の事は述べてませんよ。ここで述べようとしているのは社会的な側面ではなく、人の個人的な側面です。
 つまり、その種の傾向がほとんどの人々であり、それが強いので、私は誤解され易いと思った訳です。そう思ったのは、何かの歌で、「勇気を出して」とか「勇気が無いから」とかそういうものが耳に留まったからだと思います。私が芸能人にならなかったり、顔を出さなかったりするのは、直接的に述べれば「目的意識として、そういうこと(個人的な利益)を目指していたわけではない」からです。あるいは、逆の側面から述べると、下記の例え話を持ち出せば分かり易いと思います。私の目的意識に存在しないもの(エゴ)を確信してしまって競争を始める漁師の例があります。私が目指していたのは救世神一厘と言われ続けて来た物・事柄が何故、芸能人女性と結婚しようとすることと関係があるのか、という疑問・謎の追及でした。しかし、それは段々と2015年に明らかとなりました。「魔法の輪」こそがだったのです。「普通に考えれば」人は私の本心が芸能人と結婚することだと確信するのだろうと思います。しかし、真実は、私の本心は世界が崩壊するのを食い止める事でした。

 加えて、芸能人にならない理由は、「自分の性格だから」としか今まで言えなかったのですが、数ヶ月前に自分で自分の事を気が付きました。それは、よく、精神世界では「人の耳目を集める為に超能力をひけらかしてはならない」とか、あるいは「超能力を開発する目的が自分を大きく見せる為であってはならない」とか、そういう記述がよくあります。若い時の私も「本当にそうだよなぁ」と思ったからこそ、道徳・倫理・人間性のような追及になってきた訳です。それが「芸能人になる」という事象にぶつかる訳でした。「芸能人になる」というのは、神一厘=がハッキリした今となっては、むしろ、避けるべき領域でもあります。あり得ない感性を基本にして考えたり行動したりしません。

 加えて、私の性格は動機を大切にします。逆に言えば、結果は簡単に手放す傾向があります。

 加えて、私は「(社会的に)何かしたいこと」というものが薄いのです。うまく表現しようとすれば、「〜すべきだ」と考えているのです。もっと遡れば、「Aということをしたくない。Bということをしたくない。・・・Zということをしたくない。」という一覧があって、A〜Zに抵触しない、または、無関係の領域の中だけで動く、という感じでしょう。あ、最後のこれは他の人も同じでしょうけどね。(201601280752)



 個人的なことですが、内容的に一番近いので当ファイルで述べます。私がスブドにいた時の加害者と、某フォーラムにいた時の白黒さんが、それぞれ2002年と1999年から私との関連性を話題に出すことで、メディア上で私の周辺につきまとって離れないので、精神的な苦痛を受けております。この二人の加害者は、以上のように余りにも長期間、私につきまとっており、れっきとした加害者であるにも関わらず、私を加害者に仕立てているか、または友人のような顔をして世間を欺いているか、のどちらかです。

 ただ単に普通の知人・友人である場合、別に私との関連性を出してメディアに取り入ったとしても問題はありませんが、私が嫌なのは、「私に取り付き、しかも無神経にも(誤解・偏見等)加害しながら何年も離れない」点です。メディアに出るために私が利用される事自体を私が嫌がっている「のではない」という点でも、大きな誤解がある。何故、メディアはこの二人の加害者に対して「だけ」応援・加勢するのか意味が分らなかった(ずっと前の話)。それに、なぜ、具体性がないのだろう?と思っていた。

 以前、私に関する裏話でいくつかメディア上で「具体的に私に迫ってきた」ことがありましたが、そういう具体的な情報ならば、私自身のことなので、具体的に答えられます。それで答えたら、また潜行してよく見えなくなったりすることの繰り返しです。多分、私に勝ったと思えた情報だったのでしょうが、いざ具体的に私に迫ると、私が被害者だった事実が判明してばかりでしたね。メディアが意図することは、これで明らかでした。

 で、このような「メディアの意図」は、小沢一郎である可能性が最近、私の中で高くなっています。何故、小沢一郎(及び、その仲間)は私が芸能人と具体的な関わりを持つのを断絶させようとしてきたのか。また、いつまでも情報自体をあやふやなままにさせておこうとするのか。私に対する加害者だけをピックアップして加勢しているのは小沢一郎なのだろうか? たとえ小沢一郎ではなかったとしても、社会を動かすだけの大金を動員しているのは一体、誰なのだろうか。(200910252108)



 5/5(土)に[プライド]のほうにもタイプしたのですが、やはり状況としては、事実を正確に捉えることはどうでもよくて、基本的に私に対する悪意がベースにあって物事を考えている勢力があると思える、また一つの状況証拠が出てきました。その線を加味すれば正確に事実を認識できるようになると思います。

 例えば、私は嘘を付かないと保証している上で「人の恋や結婚を自ら妨害しようとして妨害したことはない」と言っています。しかし、同時に、私という人間は(やられたことをやり返す範囲でなら極力)復讐するのは正当だと思う人間です【→阿修羅発言 ←直後に出されたこのメッセージ、やばいなぁ(^^;(200705160338)】。もし、ここにCさんという、「かつて、私の恋や結婚を、自ら妨害しようと意図してそのような画策を目の色変えて行い、実行し、私の可能性を2回潰した人」が(仮に)いるとします。この場合、私はその男に対して「2回の、全く同じ結果」を得るまでは妨害工作を実行する権利があると考えます。ここで善意で見る人と、悪意で考える人は枝分かれが生じます。

善意傾向で考える人の場合:
 彼(=オリハル)の側としては「かつてCさんに(訳が分らずに)何度も妨害工作をされた」という事実があるので、逆にCさんがそのような目に遭うのは「当然のことだ」と考える。彼(=私)は「もし、これが、彼自身、何等被害を受けていないDさんの恋への妨害であったならば、Dさんへの悪意であり、まさに恋・結婚への妨害になるが、Cさんに限っては、かつてされたことをやり返しているのであり、正当な権利だと思う」という方向に進んで行くと思われます。

悪意傾向で考える人の場合:
 彼(=私)は「人の恋や結婚を自ら妨害しようとして妨害したことはない」と言っているのに、現にCさんに対してやってるじゃないか(=逆ギレ発想)。という風に、既に最初から「過去に何もなかった」という間違った前提に立っており、過去のCさん自身の行為の結果に気づかないフリをしています。

 私は、最近の動きの中に、このような悪意へ悪意へと解釈する状況証拠をまた一つ確認しました。やっぱり悪意が優先していたために、色々な「理解不能」や「断定不能」が存在していたのだろうと思います。真実はその方向にありそうだと考えます。(200705122342)
【ただ、最終的な個人的真実は、実際に言葉で真実を確定しない限りは断定的に扱えないのも事実ですから、慎重でありたいものです。悪意に見えて善意だった場合もしばしばあることですから。逆に、人が善意パターンで振舞っていても、それを見て全身でおぞましさを感じるようなことについては、自分でも意味が不明です。私の思惟能力には意味不明であっても、体的マグマは真相を知っている?(200705130618)】


 私は基本的に自分の意思を「文意の中」に表現しています。でも、芸能人の色々な作品を見ていると、その人の性格によるのでしょうがないですが、言葉の裏側ばかり読んで、その裏の意味合いに対して強く反発したり等々の反抗期表現をする人もいます(Salyuの「プラットホーム」のPVは下記の裏の意味合いを敏感に読み込んでテーマにしていますよね)。あのさー(^^;、人間の顔は正面にあるのよ。そして、見えない裏面=背中というのがあるのよ。私が「たぬきうどんはおいしいね」と言ったらそういう意味に受け取ってほしいワケ。「なんだとぉ、キツネうどんを無視するのか!」とか、いかりを露にされても…と思うんですが。まあ、ショウガが無いからニンニクにしますが。でも、珍しく意味が分った気がします。(200610310035)

 前回の記述で、物理世界の個人的関係性を否定する意図はありませんが、目や耳の為に補足させてもらいますと、内面でのテレパシー的・情的世界での「繋がり」でありたいですね。「あ、誰かが喜んでる」とか感じても、その発信源が「誰」だか分らない関係は、目や耳を通じての認識作用をバイパス(勿論、言葉もバイパス)した「繋がり」なので、面倒がないわけです。もし、人と人の繋がりが「この人」と「あの人」と…なって行くと、それは認識の世界で感覚器官的・言語的に別個に対応する「知っている人/知らない人」の核分裂世界(^^;をわざわざ現出させて、その幻に付き合わないといけないですからね。要は、物質世界的な人間関係は「仕方ない」(^^;としても、霊的な領域での人間関係・繋がり・テレパシーは「楽園」ですね、という事を述べました。(200609090041)

 ここのところちょっと思いますのは、かなり以前からのことです。私は18才頃にスペース・ブラザースとコンタクトや前コンタクト状態を経験していました。彼らは個々には「知らない人」でした。しかし、彼らはスペース・ブラザースとして「知っている人々」でした。彼らの振る舞いを見ていますと、ダイレクトに私の心の中の思いに反応して時にはそれを言葉に出して来ます。スーパーのレジとか、靴のセールの売り場とか人が沢山いる所で腕を組んでニコニコ微笑んでいたりします。その微笑む意味は個人的に了解できました(主観で、ですがね)。私の心は丸裸でもありました。丸裸状態が「普通」になるまで、相当に忍耐し、苦痛を感じ、怒り、発見し、苦労しました。他の「普通の人」と私の間には、この過程=落差が存在することが私には自明です。私も彼らのように自由に振舞うことが出来るようになっています。以前の私だと、歩くのを急に止めて腕を組んで微笑んだりするのは、(具体的に何がどうであるという問題がないのに)周囲の目を気にしてそんなことは出来ないという感性でした。しかし、彼らと取り組んだ後、22〜23才の私は、かなり自由に振舞うように変わっていました。道を歩いてて、急に180度反対方向に歩き始めたり、見ず知らずの人に「あなたは宇宙人ですか?」と尋ねたり等。私は当時、「人類は皆、兄弟、姉妹」という理想を持とうとし、そのような感覚を持とうとして来ました。こういった過程を経て、「知っている人/知らない人」の間の区別・壁が薄くなっています。さらに想起するに、子供の頃から、「なぜ、大人は知っている人としか話をしないのかな?」という疑問を持っていました。だから、ブラザースと会う前から、少年・青年の頃は「なぜ、大人は電車の中で黙りこくって話をしないでいるのだろう?」という疑問を抱えていました。
 その後、スブドという会の事務をボランティアでやっていた時もそうでした。「事務のセンターの“身内”の中で起きた事を広く一般の会員にも知らせて(=暴露して)あげたい」という思いや、「スブドについても、広く一般の“会ったこともない知らない人々”にラティハンの存在を知らせてあげたい」と思っていました。でも、時代的背景もあったためでしょう、スブドの創始者が「ラティハンを宣伝してはいけない」という言葉があったので、皆さん、宣伝をしないようにするという空気でした。それはそれで私も分りましたが、私は「今(1982年当時)は特に問題となる要素ではない」と感じていたのも事実で、自由に人類へ広めたらいいのにと考えていました。私は数として圧倒的多数である「知らない人々」のために何かしようとしていました。
 その後、某フォーラムで色々な発言ややり取りをしましたが、「世界の未来」に関わるという神霊のメッセージ内容に関しては、それは重要な問題の筈だったので、「身内・仲間」という感覚ではなく、外の一般的多数の世界の人々の為にはチャネラーから「詳細」を問うて意味の確定をすべきでしたので、そうしていました。私は「知らない人々」の事を考えていました。
 阿修羅サイトに参加していたのもそうです。私は何か人間関係を持とうとしたのではなく、勿論、否定などしませんし、自然発生でいいのですが、私は、人類一般に対して、貴重な情報を抽出してそれを公開したりして行こうと思っていました。それは圧倒的多数であるところの「知らない人々」のためでした。
 それを思うと、芸能界というのは、「知っている人同士の繋がり」が基本にある世界であり、「知らない人」は、主に「収入源」と看做されているだけではないかと思います。私は誰かの知人になったりしようとしていたのではなく、そういう側面は自然発生です。ただ、神が示した通りに結婚を実現しようとして来ました。神の道は、その意味で、芸能界の欠点のド真ん中を突くような道であると思います。つまり、芸能界は「知っている人同士の結びつきの世界」なのであり、もっと言えば、「芸能界を支配コントロールしている少数の“知り合っている人々”に都合の悪い人間を排除し続ける世界」なのですね。そのド真ん中に私は関わるようになったのだと思います。正直なところ、「知らない人のことは考慮しない」などとという性格は、私としては考えたくない性格です。ただ、「知っている人」の場合、それだけ情報パイプが太くなるのは確率的自然現象であり、某神霊+チャネラーを中心とする知っている人だけに限られざるを得ない情報というのもまた、あります。私も言えない情報というのは当然ありますし。(200609020225)
 今回の「知っている人/知らない人」の話は、芸能界を意識してタイプしていたもので、インターネット上のBBSは意識していませんでした。(200609151719)
 とタイプしましたが、直後に「ポジティブな意味で」頭を過ぎっていた事もあったを思い出して、そのまま忘れていましたが、要は上記発言で何かを否定したものではなかったのです。(200609192004)

 この前の「ニュース23」で問われた事が潜在意識にあったからでしょう、ちょっと気づいた事があります。以前、顕著に感じられましたが、私が何かを主張すると、それによって「がんじがらめになる」という主張が返って来ました。これについて特に何かを考えなかったのですが、気付きました。私は人を結果として自分に「従わせよう」という人間関係上の気持ちはありません。「本来、どうすべきなのか」という旨の「根本原則はどうなのだろうか」という主張をしています。故に、中島美嘉さんの「NO MORE RULE」のCMとか、少年隊の東さんが白い彫像(考える人)の中で凝り固まっているのを壊すCMのように、がんじがらめになる「フリ」をする(笑)必要はありませんよ。(200608160840)


 最近、ちょっと思ったことがあります。それは、私が「社会的に何をどうしたいという欲求がない傾向」の事です。私の場合は「社会的にこうであるべきだと考えるからそうしている」と表現したほうがむしろ的確だと思います。

 私は一言では「社会的に何をどうしたいという欲求がない傾向」と言えると思います。時に、人が私の事に関して考える・思うことがいつもずれている傾向があると思います。私が社会の中で積極的に動くとき、人は私を、他の人と同じように(=一般的なパターンを当て嵌めて)見ます。「一体、何をしたいのか」「一体、何を望んでいるのか」と、そのような見方(欲望史観)がほぼ全部のようにも思えますが(よく分かりませんが)。人が一般的パターンを当て嵌めるのは、それはそれで仕方のない側面でもあります。しかし、私の側からすると、「そうすべきと思ってそうしただけ(義務史観)」であって、何も「それがやりたい訳でも何でもない」というのが正直な所です。「〜したい」という個人性な立場に立脚して、もっと分かり易く正直に言おうとすれば「そんなことがやりたいわけネーダロー【( ゚Д゚)アライヤダ!!】」という言葉にもなるかも知れません(^^;。(200604112105) でも、王仁三郎聖師もそうでしたからねぇ。というより、私“も”ですか。(200604122252)


 下記にも似たようなことをタイプしましたが、周囲の空気によって基本方針が変わらない人間です。周囲がポジティブでも一人で怒りまくることもあるし、周囲がネガティブでも、一人でポジティブに振る舞う事もあります。私は論理的に行動する傾向であります。「空気が読めない」との指摘は外れです。あなただってそうでしょ。赤い色や青い色は「見えている」でしょ。だからといって自分の基本方針は変わらないでしょ。それと同じです。
 勿論、社会の空気に合わせて振る舞うことも出来ますよ。そんな簡単なこと、誰が出来ませんかね。(200508160128)(200508160102)

 浜崎あゆみさんがデジカメか何かのCMで、最後に「ブレたら負け」と言ってます。それと、ミスチルか誰かの歌で「自分のイメージにがんじがらめ」みたいな内容の歌詞を歌っていたので前に気づきましたが忘れていて、発言が遅くなりました。つまり浜崎あゆみさんは私の性格の事を言っていたようですね。というのは、前から彼女は私の性格について「追求」するスタンスですからね。直接私に尋ねればいいのに、そうしないのは、私個人というよりも、私が社会の中に占める位置付けだけに関心があるからでしょうね。

 私自身は、社会的な自分のイメージのようなものにがんじがらめどころか、全く自由だと感じています。私ががんじがらめに見えてしまうのは、あなた(方)自身が、がんじがらめだから、人(この場合は私)もそうだと思えるんでしょう。というか、その前に、「“自分のイメージ”にがんじがらめ」って、私は「ナニソレ?パリコレ?」と思っちゃいますが。例えば、某フォーラムでの私の発言やFMISTYでの発言でもあったと思いましたが、例えば「私は嘘つきません」と発言したとしたら、その翌日に、何か冗談と分かる冗談を言って、まるで嘘をついたかのようにしたり等、その種の傾向があることは、過去LOGを調べれば分かるはずです。私は、「嘘をつかない」と言った直後に嘘をついてるようなフリをしたりします。つまり、自己の社会的なイメージなどからは全くの自由に振舞う(える)人です。でも、これらは単なるイメージの領域なので、何か重要な案件・事象が起きた時には、ウソツキ・キツツキのままでは困るので、本当の事「嘘をつかない」という点を伝える訳です。このように、私は「誤解されたくない」という気持ちがありません。そういう私の気持ちが伝わっているからこそ、人々は疑念を表明してくるのだと思います。ただ、普段からこのように誤解されてばかりいると、何か深刻な事態と関連付けが生じた時に、膨大な量の説明を時間を掛けて行わなければならなくなるのが欠点ですかね。某チャネラーのように気持ちの中で強く「誤解されたくない」と思っている人の場合は、誰もその人に疑念を表明しない・表明しにくい現象となって来る事を某フォーラムで見ていたので、私とは対照的かと思います。某チャネラーは「人と違っているのはイヤだ」という性格でしたが、私は人と違うことが好きです。
 最近、イ・ジョンヒョンという韓国女性の人が「ワ」という歌を歌っていますが、あれは私の事なのか?どうか判然としませんが、もし私の事を歌おうとしているのなら、最早、乖離しているとしか言いようが無いですね。でも、誤解されてウレシイ!(深刻な状況ではないので) 結論として、私はブレまくっているのです、元々。「ブレたら負け」というのは、裏を返せば、「一度でもあなたの過去の発言からブレてみなさい、容赦しないから」みたいな内容だと思います。でも、私は社会的なイメージからブレることを何とも思わないどころか、ブレることを期待する性格です。だから、最近の歌では、自分のことなのかどうかも判然としません。なんか、別の人格イメージとして一人で歩いてるみたいですね。私はこんな感じで、全くの自由です。(200501082043)

 下記で一度述べた事がありましたが、私は人に対して特別な迷惑を掛けなければ、欲望を高めようという傾向があります。私にとっては、欲望を活発化させるのは「良いこと」です。欲望を抑えることは「悪いこと」です。その点、捉え方・イメージ・観念が逆なのです。(200405220219)

 前回の続きなのでこちらにタイプします(「書きます」と書いたら嘘になるんかいな?)。人(榊原氏や田原総一朗氏など、複数の人々の色使い)の動きをテレビ(サンデープロジェクト)で見てて、どうやら、下記で断言調でタイプしたのを私が嘘をついたと言ってる(←断言)事に気づきました。白黒さんが「私の主張といつも逆の事を主張する」というのは以前からそうでした(←断言)。だから、

例えば、私が「比較的意味のある言論」をしていると彼は「比較的意味のない言論」を芸能人へのメールやレターで行います。
 という断定をすることが出来ます。というか、私にとっては、彼が「いつも逆のことを意図する」のは既成事実です。前からそうです(←断言)から。

 また、続く『その種の雑学のような面白さによって』という部分は、白黒さんが自らをナポレオンの生まれ変わりだと言って深田恭子さんなどにレターしていました(←断言)が、「余の辞書に“不可能”は無い」とか、あるいは日本語の語源のようなところの発想をよくする人で、一種の雑学のような事を述べています(←断言)ので、白黒さんの主張が雑学的である事も間違いではない(←断言)。

 続く『面白さによって「トリビアの泉」という番組が出来て「ヘェー、ヘェー」と皆で言っております。』というのは、まさに雑学を中心にした「トリビアの泉」という番組が現に存在するのですから、その状況を述べた部分です。これも間違いではない(←断言)。

 続く『常に私を排除するという目的意識にのっとって』という部分も、現に彼は私の「裏側でしかものを言わない」という事実は歴然としています(←断言)。このような推定の繋がりは「嘘をつこう」という意図性で組み立てたものではない。「真実は何か」という意図で組み立てたものである。つまり、「嘘をつこう=ごまかそう」という意図性とは別の意図で組み立てられていたものである。
 また、下記の文章は、今回のような指摘を受けるほどに無防備にタイプされた点が分かると思います。つまり、「嘘をつかない=当たり前」となっており、意識に昇っていなかった(忘却して)のが事実です。「嘘をつくかどうか」「嘘をつかないように」という点に意識・注意すら向いていなかったという事実。だからこそ、下記の文章は「主観性の高い文章」です。

 白黒さんは決して私に反論の機会を与えようとはしません。卑怯なやりかたです(←断言)。この卑怯さがまるで存在しないかのごとくに、人々が反応している点が私には大きな問題です。下記の断言は基本的に、自らの主観を述べているモードです。にも関わらず、一刀両断に嘘をついたと早急に結論付けようとするそのヒステリー気味の判断(←断言)に疑問を感じないで「私を嘘つきだとしたがる傾向」(←断言)に問題があると思います。基本的にここは個人のホームページなのですから、主観を述べる場合も多々あります。私の推理が違うなら「ここが違う」と、ただの一言も教えてはくれないで、イキナリ断罪ですか。私は、主観を表明することが「ある」とか述べておかないと皆さんの頭は断罪に走るみたいですね、私の知らないところで。

 下記の断言調は公開の場で行っているものです。それを読んだ当事者本人は当然、訂正が可能ですので、被害者にはなり得ない構造の中で私は主張しています。ところが、私に関して裏で行われている(←断言)作り話については、私は一方的に被害を受けているだけです。それを訂正できる構造を一切排除し続けているのは誰と誰でしょうか。(200401252032)

 前回の断定部分は、先ず間違いないだろうと私が思っているストーリーです。(200401220003)

 白黒さんの動きを見てて、一つ気づいた事があります。例えば、私が「比較的意味のある言論」をしていると彼は「比較的意味のない言論」を芸能人へのメールやレターで行います。その種の雑学のような面白さによって「トリビアの泉」という番組が出来て「ヘェー、ヘェー」と皆で言っております。常に私を排除するという目的意識にのっとって彼は私とほとんど話した事もないのにダシにしています。個人的に極めて重要なポイントなのですが、「私は戦っていない」のです。以前、例え話をしました。私はユニセフの職員で、その湖の環境調査の為に魚を種類ごとに獲っていましたら、現地の猟師(白黒さんに相当)が発奮して環境調査船の“隣で”魚を獲り始めました。「私は戦っていない」わけです。その湖の環境について知るための調査です。なぜ「私は戦っていない」と強調するかと言いますと、戦っているという前提で色々な歌やら何やら情報が溢れているからですね。TUBEなんかも今度の新曲で「涙を流さないのが強いんじゃなく、流した涙を虹に変えられる勇気だ」みたく歌ってます(^^;。私は自分が強いと主観的に思う事は全くないですよ。人がそのように言うかのようなことはありますが。でも、一度、高校生の時に死にそうになってPTSDを患ってからずっと苦しかった体験がある為に、精神的には比較的強いだろうとは客観的には思いますよ。戦う意識がありませんが、ただ、それが誰であっても、人として不本意・不当・理不尽な事には抵抗をします。

 今回気づいたのは、皆さんが「(比較的)外向き」で私が「(比較的)内向き」になっている点です。私は自らの精神作用を分析したり観察したり。そこから得た知識を善意で提供すると「ナイフが心に刺さった」とか、被害者モードに転じたがるのを見て来ました。というか、私にとっては、それは一つの認識であり、当たり前なのです。ところが、人を見ていると、例えば冒頭の例ですと「意味のない知識を教えあって連帯感を深めよう」というモードが発生し、私のように「意味のある事をしよう・言おう」としている人を排除しよう排除しようとします。このような事があらゆる領域で行われて来ました。私が何を言っても、関係ないのに「とにかく排除」という感じを出して、遠くへ行くかと思うと、今度は無関係なのに執拗に絡まりますよね。そのように、通常は、人は、「社会的な事柄を分析し、ある人々を集め、ある人々を排除する」というナイフ・分裂・壁を社会的に使うという集団的傾向に気づいた訳です。彼らにとっては、社会をそのように分断化する事から得られる利益だけが大切のようです。ただ、人種差別とか、とかくそのような方向に向かいがちのようですから、やはり、分析のナイフ(だとは思いませんが)は自分を観る方向へより向かうほうが良いですね。(200401200033)

 私の性質について引っかかりを持つ人がいるので、以前、某フォーラムで登録した発言を載せてみようと思います。まあ、最近の私は「自分のため」に怒っていますけど。ただ、突き詰めれば、(騙しや裏切りなど)筋が違う点に怒っている訳ですけど。それから、必ずしもこのようになるというのではなく、このようになる傾向があるのだという事です。(200309110033)

119/762 GDB00064 オリハル RE:神呪 その2 (13) 92/11/16 23:52 110へのコメント コメント数:1 RESをありがとうございます。 「印」が住民票でなければならないのではなく、私の場合は「住民票」だったの です。これは私の場合であることをご理解下さい。 私の知ってる人で、コンタクティーの人がいるのですが、彼は左手の甲にまさに 「オリオン星座そのもの」がホクロの配置で示されています。手の甲を四角と見 立てて、その4隅にホクロがあり、手の甲の中心にホクロが「少し斜めに3つ」 並んでいます。更に驚くことには、その人の名前は「折尾」さんと言う人なので す。折尾さんの場合も3重です。 「コンタクティー」+「オリオン星座のホクロ」+「折尾という姓」です。 「住民票」以外の印は、今は言わないでおくことにしました。 また、新しい別の機会にします。 FARIONに書き込む意図について 私は最初は、人に言わないままにしようと思っていました。でも、神の御意志は そうではないと判断したのです。なにか神秘的な体験をしてもそれを証明するか のような客観的事象が無い場合、それは「本人だけ」の体験です。しかし、私の この場合は客観的事象が伴っており、また、ある来日した霊格の高い人に、何も 私から言ってないのに、「それを言うべきです」と言われました。また、一二三 神示に「早よ型して呉れよ、型結構ぞ」という記述があったからです。 神の御意志と判断したのは、多くの人の誕生日とかの日付が基になるからです。 私の言う「神」については近く、まとめたUPをしようと思っています。「の 奇蹟」には何もかもあるのですが。 私が逆人間だと言うのは、経験則です。YUIさんにも同様の質問をされました ので、そう判断する日常的経験を列記してみます。この場合の思考の「基準」と するものは「常識、一般認識」というようなものとなります。パッパッと思いつ くものをタイプしてますので、この部分を深読みしないでいただけたらと思いま す。これは、日常的に、「ふと、そう思われる」というものを並べました。FA RIONにいらっしゃるどなたの意見、状況とも全く無関係の発想です。御安心 下さい。 ・通常、何かを知らせるときは身近な人から知らせます。私の場合、最も遠い人  である芸能人や、スペースブラザーが知っています。 ・通常、その人を知れば知るほど近くなりますが、私のことは知れば知るほど溝  が深まるようです。 ・通常、警戒しながら人に接近してゆき、心を開いて行きますが、私の場合、初  対面の人には心を開きますが、段々と疎遠になって行くようです。 ・私自身、初対面の人にはリラックスしていられるのですが、知るようになって  来ると、相手の要求に合わせてドンドン緊張して行きます。 ・通常、人にどう見られているかという意識で行動しますが、私は自分がどうで  あるかという意識で行動します。 ・通常、人が社会へ参加するときは、仲間になろうとして自分のために入ります。  私は人のための目的を達成するために社会へ参加します。 ・通常、自分の故に怒ります。私は人のために怒ります。 ・皆が盛り上がる話題には私は意気消沈します。私が盛り上がる話題には、皆さ  ん「シーン」としてしまいます。 ・通常だと、私のような行動をとる者は、何等かの利己的な意図があり、そのた  めにFARIONに来るという構図が浮かぶのも無理はないと思います。しか  し、私は逆人間です。神の型示しを行い、神の出世のために働こうとするもの  です。 ということを思いつきました。 オリハル

 下記の続きですが、「悪を許さない」=「そのような発想を見過ごさない」という意味です。(200307290112)

 もう一つ気づいたので(^^;。それは、個人的領域と、社会的領域の区別です。私が人や社会に対して批判・攻撃する時は、それらが私や他の人々にとって迷惑であるという社会的な意味合いで述べています。ホルモン・ショックという深刻な事態を引き起こさないようにすべきだと私は言います。それは、その子供自身にとって迷惑・危険が存在する事を広く知らせるのが義務だから。嘘をつくというのも、社会的な迷惑の元凶じゃないでしょうか?私にはそう思えます。
 ところが、最小の社会的領域(夫婦)関係の中では、あえて言えば「両性の同意(社会的同意)」があれば、不倫もOKではないかと私には思われます(→阿修羅発言この延長発想の発言)。つまり、そこまでは立ち入らない訳です。故に、立ち入る人は、人としておかしいと感じます。
 個人的領域で、人が何を食べたいとしても、誰に恋しても、私は全く干渉しません。コントロールしようなどと発想するのは、それこそ社会的な迷惑発想だと思います。

 故に、私の考え方は、自分個人の領域の中では楽しむが、社会的な領域では、嘘をつかないことを始め、コントロールしている、という事実の主張です。(200307230016)

 下記で発言した中で「イメージ」という言葉がありますが、関連した発言かもと思ったので一応動画を登録しました(→動画一覧へ)。
 「実態は変わらないまま」とおっしゃいますが(^^;、人の恋…の試み(^^;に口を挟むのはご法度ではないでしょうか。というか、そもそも、その「実態」という言葉は、イメージの上に乗っているんじゃないでしょーか。何人かは分かりませんが(^^;、とりあえずは二人だけの関係(…の試み)に皆さん、文句というか、口を出しすぎるんじゃないでしょうか? そもそも、人の**レターを見てしまう事自体が、どうかと思いますが。その上さらに口まで出して、手まで出して人の結婚(…の可能性)を潰すところまで来ると、ちょっと理解できませんが。まあ、動画の発言が私に関連付けている可能性は可能性として半々ですけどね。(200307212213)

 下記で「全クリア」と言いましたが、疑い深い人には、ちょっと分かりにくかったかも知れません。「全て」の意味は、時間的に捉えて下さい。つまり、ずっと継続してみっちりと沸き起こる「全て」に対処した、という意味です。考え得る、いや、沸き起こり得た「全て」の「問題」に対処した、という個人的経過です。(200307220047)

 私が何か述べると、意味をシフトさせて騒ぐ人々がいるので、釘をさす意味で発言を「あらかじめ」行うことは、無駄を防ぐ意味で良かろうと思います。

 前回の記述は、私の個人的な領域について述べたものであり、社会的な領域ではありません。個人的な内面の事実として「私にはこれと言ってやりたいことが無い」という性格傾向の描写をしたものです。私の社会的な関係性は、全く意味しておりません。例えば、「自分の中に空しさを感じるから、にぎやかに豪勢に威勢良く活動することで、社会的に認知されて充実しよう」という社会進出的な意味合いは、その内容に存在しておりません。前回述べましたのは、そのような意味ではなく、「今は免れて久しいところの、生理的な危機感」の故に、「欲望=豊かさ=善」という一つの気づきを得、それは私の中で大事な中心的な認識になったという回顧かいこです。例えば、「弁慶の泣き所を思いっきりコンクリートにぶつけてしまい、あまりの痛さに呼吸が出来なくなった。ここで一つ気づき・悟った…」みたいな内容です。内容の中心は、社会的な関係性ではありません。くれぐれも(意味の)シフトをしないよう。迷惑なので。(200307192254)

 2003.07.17(木)の「ニュース・ステーション」での、ちょっとした久米氏の発言(→動画一覧へ)で「欲望」という視点に一つ気づきました。人は、その種の側面を「悪く言う」点に注意が向きました。(なお、この動画は、ヒントになったきっかけの提示の意味以外の意味はありません)

 私は高校生のときに覚醒意識を体験し、それ以来、段々と幸せな毎日になって行きました。そんな中、瞑想で失敗してしまい、死にそうになりました(アトランティス・カルマ?)。それから精神内部が常に苦しい状態になってしまいました。加えて、個人的な行も加わり、苦しみが倍増しました。「そんな行をしなければいいのに」と言うでしょうが、自分で自分に納得するためには自分で自分に挑む必要が本能的にありました。それから数年の間に複数の破綻を経験しました。私の意志は性欲よりも強かったし、他の欲望についても、それらが破綻し、絶望を迎えるまで私の意志は凌駕したのです。私はこれで「自己確認」をすることができました。しかし、気が枯れてしまい、「常に苦しい苦しい」という状態に至ってしまいました。天理教で言う「嬉し嬉しの生活」とは正反対になってしまった。この極点において私は、何度か別の意味の危機を感じました。「このままでは廃人になってしまう」という危機感です。そして私は今までの行で否定し続けてきた「欲望」の有難さを心の底から理解できたのです。私は論理的に理解できれば早いのです。それ以後の私は、「欲望」と一般に言われるパワー・機能を「意識して亢進する」発想を持つようになって行きました。例えば、「わざと怒ったり」「わざと問題を起こして感情的になれるような環境作り」をしたり等々です。私にとって「欲望」とは、暖かいものであり、生きている事の大切な一部です。私は既に自己確認(=全ての欲望を凌駕した[しかし、常に苦しくなった])を経ているので、「欲望」と世間で言われるような否定的なトーンは私の中には「存在しない」のです。全クリアですから。むしろ、逆なのです。
 普通の場合は、欲望とは、「放っておくと、段々と増長し、本人にどんな悪さをさせるか分からない」というような「イメージ」があると予想します。しかし、私の場合の「欲望のイメージ」とは、「放っておくと、ほとんど無関心になって、何もやる気が起きなくなって行ってしまう」というものです。だから私の場合は、いつも自分の欲望が後退しないようにしようとする傾向があります。例えば、食事でも、「おいしいものを、たらふく食べる」訳です。とにかく貪欲に生きることで安心するのです。それが私です。ただ、「イメージ」とは言ってますが、そのスカラーは近似してても、ベクトルは互いに逆ですね。
 視点を変えますと、「全然興味がない」「何もやりたいことが無い」というのが私の本心なので、どんな欲望の嵐の中にいても、それは、通常とは意味合いが逆なのです。通常は「翻弄ほんろうされる」と言います。それはまだ自己確認が出来ていないという意味でしょうね。
 私の場合、「種々の暖かい欲望を放っておくと、廃人になってしまう」というような「イメージ」がありますので、積極的に欲望に満たされ、元気に生きてゆくということになります。私にとっては豊かさをイメージするものです。「抑える」必要など、私にはありません。必要ならば、適宜てきぎコントロールするだけの話。一面的に「欲望」という悪い視点だけで物を言っている人類に対して、この種の側面を説明することは、同時に、埋め合わせの視点にもなるものだろうと思います。

 故に、私に関する人々の指摘は外れています。ずれているどころか、「欲望」の意味合いが全くの逆です。(200307181719)ちなみに、私は全く正常です。上記のような道を通ってきたから、そのように捉えるようになったのだという事です。(200307190101)

 続きなので、こちらにタイプします。段々分かってきたような気がします。つまり、私が特定の芸能人女性にレターするとします。その内容は基本的に、その特定の女性だけに向けられた「極めて」プライベートな内容です。しかし、そのレターが他の芸能人によって読まれている可能性に気づいてはいても、彼ら・彼女らとはほとんど全く関係がないものです。私はそのような「極めて」プライベートな内容を、対象の女性以外の誰にも読まれたくありません(基本的に)。ところが実際には、私の裏でどうせ勝手に読むのでしょうから、いくら主張をしてもその現状は仕方がないと思って妥協点はありました(つまり、制限つき)。私は決して『積極的に許可していない』のです。決して社会化するつもりがありません。ところが、彼らは『私の裏で』それを大勢に回覧(?)し、その内容を勝手に「社会化してしまった」。

 これは単に「プライバシーを侵す(=内容を知ること)」のみならず、「社会化してはならないものを社会化した」事になります。

 その社会化された『極めてプライベートな内容』に基づいて、私を「評価したり裁いたり」するのは、間違っています。私の意志で社会化したものではないから。(200307180150)

 下記で「私のことを疑い続けて十余年」と、その酷さを訴えましたら、2003.07.16(水)の「ニュース・ステーション」で、彼らがなぜ人を疑う傾向があるのかの説明があったようにも思えましたので、一応の「証拠として」その動画を登録しときました(緻密に見てもらうためではありませんので)。私個人を疑う傾向は分かりましたが、「解決」をせずに、「未解決のままに放置する」理由が不明です。「ニュース・ステーション」は、実質的には、久米氏がニュースの内容を取り仕切っていると思われますので、これは久米氏の意向が中心となった作りになっていると推定します。久米氏は、(多分MSさんの意向で)私を結婚させまいとして頑張っている可能性を推量しているのですが、その場合には、人の人生を踏みにじって自己利益を優先する発想<発言<行動が見えてくるのですが…。でも、久米さんって渡辺真理さんの目をしているよね。渡辺真理さんが久米さんの目をしているのではなく、久米さんが渡辺真理さんの目をしているよね。つまり、精神的には、渡辺真理さんが久米さんを「主導している」という事ですね。
 人(=私)を疑いさえすれば、その結婚の可能性をいくら潰しても構わないという発想は、極悪に近いですね。(200307162357)

 「悪を許さない」(下記)の意味は、「その事実(=貸借のアンバランス)を忘れない」という事です。それは、論理的にバランスされるまで保留される(=「決して悪を許さない」)という意味です。

 「私が許す(忘れる)」かどうかに依存せず、問題そのもののアンバランスを「解決する」という方法で解決する事は可能です。この方法ならば、「私が悪を甘やかす」必要がない故に。

 自意識過剰集団方面へ何か言おうとすれば、解決法として例えば、「やりたいことをやってしまった人」は、「問題自体を解決しよう」とする積極性があるならば、それによって迷惑をかけた私(この場合)に、「なぜそんなことをしたのか説明」し、次に私が示す論理的で厳密な道筋によって「一つ一つの問題を解決」してもらいます。例えば私が10年間、何らかの不利益を享受したのであれば、相手は10年間、同様の状況を享受すべきである。\10,000盗んだならば、\10,000返すべきである。このプロセスは、私が「許す=見過ごす(=直面しなくていい)」のとは違い、正反対(=全てに直面する)の道筋です。「やりたいことをやってしまった人」は、今度は私がやりたいことを受け入れるべきでしょう、もし解決を望むのならば。

 ちなみに、面倒だから私は望まない。どの問題にせよ、問題の「解決」は、神によって裁かれる事を望みます。そういうのがこの宇宙のシステムだと思うから。

 ちなみに、加害者に感情移入している周囲の人たちは、彼らが必死に見せてる部分に共鳴しているのでしょう。それで「気持ちだ」と言っているかも知れない。一方、私は言論や価値観の自由があるべきだと思うし、それに被害者なので、正当化する必要よりも、単に(歪められた)事実を説明する必要だけがある。彼らが、事実・真実に直面することから「逃げる」為に「気持ちだ」と言っているならば、それは「気持ちの取り違え・誤用」ですね。避けていた問題に直面することで抑圧されていた気持ちが復活するのである。

 私は決して許さない(=問題はいつでも蒸し返され得るの意)ので、単に執着が弱くなって忘れて行く等の事しかあり得ない。故に、「問題そのものを解決」するしか道はないのである。もし解決を望むのならば。(←私はこのように寛大です。一方、問題を先送りし、直面することを「決して許さない」でいるのはどちらなのだろうか?)

 以上で、「私=偏狭」という最近の危険想念がバランスされると期待します。でも、なぜ人は自分で考えようともせず、簡単に嘘を「信じる」のだろうか? 羊だから? ならば、もっと私自身が「信じて欲しい!!」という気持ちを持てば羊もなびくのかな? 私がいくら言論や価値観の自由を護るスタンスでいても、人々は自分で何かを(判断など)「する」よりも、「してもらう」ほうにばかり流れ易いね(サラリーマンの仕事でもあるまいに)。だから毎度、積極的に修正発言をしなければならなくなる。いや、でも、最近は「ハッ」としてグーッな意見をお見かけする時があり、そんな時は私にとって至福のひと時となりますから、必ずしも、人類社会の全員が消極的な羊ではないのかも。牧者も沢山出てくると安定感が増すと思います。まだ現在は、私一人が頑張ってる(つもり)ので、オウムのように見られがちで、それを口実に、個人的なラブ・レターを多分、大勢の人が閲覧して「危ない、危ない」と言って「楽しんで」いるようです。私にとっては、なんと酷いプライバシーの侵害でしょうか。私は事実、単独個人です。【←太田龍・著の成甲書房の「縄文日本文明一万五千年史」買いましたが、冒頭部分を読むと、なんとなく私の裏に秘密結社があるかのようですが(^^;、笑っちゃうよね。ここに一人、その真相を知っている者がいるのにね】彼らは“個人対個人のスタンスで私を「信じる」事”を頑なに拒みつつ「危ない、危ない」と言っているようです。私は全ての質問に対して正面から具体的に解答するというのに、彼らは質問すらしない事実。危険視する意図を以って(?)問題を先送りし、未解決状態を保ち、人をいつまでも疑い続けて十余年。このような状況は、私の側には責任がない(質問を受ければ答えられる故に)。そちら側(?)に責任がある。(200307152309)

 普通の日本人は、たとえ相手が悪人でも、人を攻撃することをためらい、そのことで穏やかさを保とうという感性があります。その点について私は、悪を攻撃するに於いては徹底的に攻撃することで「胸がスーッ」とすることで穏やかさを保とうとします。普通の日本人とはこの感性の部分で、180度反対の感性を持っています。(私の思う、大人とは

 普通の人は、私が何か無理をして悪を攻撃しているかのように「見える」と思います。そこで人は「その人の善意」で、私がそのような「無理」をしなければいいのに、と思うようです。私は逆に、普通の日本人のような振る舞いをすることは「無理」があります。感性が正反対だから。

 その点、神霊は何もかもご存知であり、人間の私の事は手に取るようにご存知であったようです。私の言う神一厘の仕組みの結論は「1002 望まれない許しは得られない、如何に繕おうとも」です。私の「悪を許さない」という性質を神霊は御活用になられたのであります。これは、物事に関する日本人の「一面的な理解の仕方」への刺激剤です。なぜ私は悪を攻撃して満足するだけなのでしょうか? なぜ神霊は私の性質「決して許さない」をこれほどに持ち上げたのでしょうか? 私にとっての本物の善意と感じるものは、この神霊の示して下さった深慮である。それに比べて、どうも日本人(A型の人?)は、「相手を改造しよう」「相手の人生を、自分に利益するような道筋に限定しよう」とさえ(しかも「普通に」)する(それとも、これは芸能人特有の傲慢さに限定される態度?)。(200307120130)

 正確を期す為に補足しますと、下記にも少し述べましたが、クライオンに一時期集中してから、自分の感性が少し変化したように思います。(200307120153)

1) 日本人は断れない(現状)
 日本では、企業でも警察でも政治家でも、よくニュースになりますのは、「仲良し故に断れなかった」という状況です。50や60になって「断れない」というのは、「弱みを握られている」という意味です。日本人は「仲良し=至高の善」という価値観を無自覚に持っている人は多いと思います。でも、この無自覚の側面が「弱点」となって色々な犯罪の「温床」となっているのはもはや事実です。

2) 各自が犯罪にならないよう注意する(応急処置)
 なにも「仲良くするな」と主張するつもりはありません。犯罪に繋がるかどうかを各人が判断すればいいとは思います。しかし、日本人は(?)仲良くなって「ついつい引きずられる」場面も多いのではないでしょうか? それは「弱点」が「温床」となるからですね。

3) 無駄な仲良し止めませんか?(根本治療)
 でも、もし日本人の傾向が「人との関係性<真実」という主義(始めは「主義」でしょう)を持つようになれば、「仲が良いのが好ましいが、それを“中心発想”にはしなくなる」と思うのです。特に芸能界とかお芝居の世界とか伝統芸能など、人間が中心になっている世界では、先輩とか、後輩とか、気を使うとか、そんな世界ですね。日本人一般もそういう「傾向」があります。それは、軽ければあっていいとは思いますが、それが「無自覚に(価値の)中心となっている」重い点が弱点でした。この点をもっと自覚的に「先輩であっても、間違いは間違いだ」と指摘し、「若輩者が言おうとも真実は真実だ」と、真実を中心とするように日本人がなって行けば、「(ここで述べている意味での日本人の)弱点」がそもそも無くなると思います。こうなって行けば、「(犯罪の)温床」が消滅するようになると思います。

・ちなみに、真実を(述べることを)優先する事が「自由に出来る」ようになる為には、「ハッキリ言われてショック」(ここから問題が派生しないようにする為にも)ということにならないように、「嘘とは無縁の人間になる」必要が、徹底的にあるのではないでしょうか?
・しかし、その前に、初体験SEXの年齢が24才以前であってはならないと制限すべきです。「嘘をつかない」等の自己規律を比較的守れるようにするために。
・その前に、生きて行くだけの食料・生活物資の点では…日本は満たされています。(200306210204)

 とある掲示板で反応らしきものがありました。それで思うのは、意図の無い私によって「〜されてしまう」場合に、そこからの反発が起こる場合が多い点です。
 例えば、下記の昨日の例ですと、私はマスコミとかそういうお堅いところを意識して、「論争でも起きたら面白そう」と思って「コンタクトした」と主張しているのですが、私がそれを言っていると別側面で「〜されてしまう」人が出てきます。スブドでも同じです。私がそこに「居る」だけで、彼らは勝手な自我意識が起動し、勝手に自分の権威(のようなもの)を防衛し始め、勝手に私を攻撃し始めるのであって、私の側には問題はありません。彼らは全部、「勝手に為す」のです。例えば、電話で私のPC-VANのIDを聞いてきた人がいました。私がそれに答えてIDを言うと、彼はそこに「359」を確認し、その瞬間、舌打ちをしました(^^;。私の側には何の問題もありません。そういうのを毎度受け入れてやり過しているのもヤなので適当に切り上げました。(200306052320)

 集団的自意識過剰]の続きです。昨日の発言で明らかにした点は、「白黒さんへメッセージしていない」でした。私が1982.05.05に入会したスブドという会の中でも、日本人社会との接触体験をしましたが、人はどうも「建前(言葉・左脳・表層)」と「本音(一瞬見せる反応・右脳・本質)」という分けた見方が一般的にあるようですね。いくら私が言葉で「伝えようとする主張」をそのまま伝えていても、それは(嘘のようだと?)軽く受け取られ、逆に、私が無意識に反応している身振りや表情などばかりが「読まれる」訳です。裏ばかり見ようとするのは多分、裏側に真実がある場合(人)が多いからでしょうね。これでは、私が「伝えようとする点」が無視され、その裏側を見る者多し、の図になってしまうのです。
 インターネットに関わるようになった初期の頃、私がとても喜んだのは、「常に公開の場である点」と、「正確な言葉の履歴が残る点」と、「伝えようとする点だけが伝えられる点」でした。非常に無駄の少ない伝達の場であると思いました。何か一つのテーマについて研究して発表して(情報を)流通させるような事については、インターネットはとても向いていると思います。

 また、逆に、「伝わるとどうなるか」については(^^;、「UFO・精神世界を語る掲示板」の履歴を示しますが、私を中心として「実際に」参加者の個々人の人々の身辺に宇宙船が現れてきて、常々私が「コンタクトした」と述べていた言葉が「そのまんま」であった事実を理解し始めると、密かな反応が「凄かった」可能性を思います。これはスブドでも同じでした。スブドにまだ関わっていた1991年に私が炎のオーラに包まれてから、それを認めたくないスブド会員が、やはり「密かな凄い反応」を始めました。故に、事実がストレートに「伝わってしまう」のも、問題があるといえばありますね。一緒の場所にいると、何を言われるか分かったもんじゃありませんから。でも、インターネットならば、ありのままの真実を「そのまんま」伝えれば、それで伝わります。私はそのように伝達を意図している者であって、何かを暗示したり、期待したり、ほのめかしたり、歓心を得ようとしたり、そういう比較的「裏側を使った伝達方法」を採ることはまれです(ほぼ、ありません)。そのような特殊事情や必要がなければ採らないやり方です。

 でも、私が個人でいるからこそ、私も会ったことは勿論、話をしたこともないような「信者」の人々も「無事」でいられるのだと思います。というのは、いくら私が嘘をつかないと言っても、一般社会との溝は深いからです。人々の集団・組織が目に見える対象となってしまうと、叩かれます。それは、「物理的対象」だからです。物理的対象は「叩かれるほどに崩壊して行く」ものですね。一方、「対象が情報」であるならば、そこに嘘がなければ、たった一人であっても、「叩かれるほどに真実が輝く」ようになります。私が過去世を思い出したのは真実ですし、スペース・ブラザースとコンタクトしたのも真実だし、その他も、全部が「そのまんま」です。(200306042349)

 今まで、個人的な目的意識として「社会勉強」というのがありました。それが変化しました。人は、ネットワークの結節点ですね。自分の心の動きが心のネットワークへ影響を与えたり、与えられたりしている。最近自分は世間の勉強をして来ました。でも、テレビで報道されるような最も暗く痛々しい事件で記憶が占められているよりも、もっと心だけは明るくしていようと思います。心理的なスローフード・マイペースですね。忙しいと心を亡くしてしまいがちになりますからね。積ん読つんどくが沢山あるし。一時期、クライオンの翻訳などやっていた時期に、自分の感性が少し変化したように思います。以前のような「ネガティブ好き」(^^;よりも、「ポジティブ好き」になったかも知れません。やはり、以前も言いましたが、テレビ・ニュースで時事など追いかけていると、ついついのめり込みがちになり、もっと詳しく、もっと細かくという事で、時間が足りなくなってきます。そんなふうにして、ここ数年で社会勉強も、基本を一通り学べたと思いますので、とにかく、本を読むための時間がほしいと思います。以前のように、時事についてほとんど何も知らないような状況にはならないように、ザーッとチェックする程度のことは続けると思います。でも、お金をもらっている訳ではないので、少し離れることが(物理的に)可能なのでそうします(つまり、特にこの種のカルマが重い訳ではなさそうだし)。仕事以外の時間の使い方が有効すぎて(^^;。もっとマイペースにリッチな時間の使い方になろうと思います。あるいは、もっと文化的に生活したいかも知れません。社会問題の基本は学んだので多少の判断ができるようになりましたし。よほど何か重大な事など気づかなければ、コメントしないでいようと思っています。というか、本など読むほうが意味があるような気がします。(200306021925)

 鈴木あみさんの歌で「弱い所を見せてくれないとあなたの前で泣けない頼れない」みたいな歌詞の歌が聞こえて来ました。でも、こちらからレターとか出しても「絶対に」返事が来ないよね。私はそういう情緒的な関係は「社会」と持とうとは思わないなぁ。やっぱり「特定の人」との「非公開の関係」で情緒的な関係性を持つのが常道だと思います。

 問題は「返事をしない側」にあります。(200301310005)

 今、飯島直子さんが「男の人も自分の弱い所を見せてくれれば受け入れるのに」と言うCMに出ています。もしかしたら、私が弱い所を「見せない」という「捉え方」があり、何らかのネックとなっているという状況が存在するのかも知れないので、私の弱い所を簡単に述べます。

・私は相手が善意の女性や子供、あるいは障害者だと、弱いです。左から順で右端が一番弱いと思います。特に障害者というのは、物理的な不自由さを享受している人々であるので、心理的な気楽さを提供する義務が周囲の人にはあると思います。そういう調子で、子供や女性に対して強い態度を取る事はほとんど無いと思います。勿論、何らかの「悪」「問題」がある時には強い態度を取る可能性は高いと思います。「弱い人に対して強い態度に出ない」…これはほとんど、誰であってもそうではないかと思いますが。

・大体、「問題」というものは、悪なる要素である傾向があります。悪に対しては私は言論においては、必ず強いです。そういう側面ばかりが見える理由は、「問題」に対して意見する場合が多いからだと思います。(200301180212)

 今まで私は悪を潰すのが大好きと言ってはばからなかったのですが、クライオン情報に触れるようになって、内的に、また、同時期には、たま出版のBBSでも外的に、そのようなコアな部分への改変を迫られ、それで、変化しつつあります。「中心にがある」というのは以前も以後も変わりませんが、以前は、中心のを守るための攻撃態勢が大変に鋭いものがあったかも知れません。そのような攻撃性が中心と錯覚させるような性質であったと思います。ここ最近の変化では、中心のがまさに中心に収まり、それを守ろうとする攻撃性が何か霊的な作用によって(クライオン?)弱まりつつあります。その理由として一番大きいのは、の光が強くなりつつある時代的な影響があると思います。中心のが強まってきたというのは、今まで受身・消極的に人間を見てきたが、積極的に人間の中心から光り出し、人間の全体を統合しつつある、ということだろうと思います。それで、私の気持ちの問題として、「敵を潰す」<「敵を許す」となりつつあります。しかし、どんな悪も許せるなどというのはイエズス様のような方しか実行できないと思います。

 この公式を全てとしてしまうと、固定化してしまい、現実に対応できずに被害を被る可能性があることが今は分かります。故に、「あまりに性悪で、発想すら訳が分らない者」については、その近くにいるだけで「身体=気持ち」が反応する(ピリピリと胸が痛くなったり、不快感が強まったり等)ので、その種の邪悪な者に対しては、「善意を持ったり、許したり」していると、その種の努力を破壊しようとするので、「許す」以前の問題となります。従って、上記の公式とは別対応となります。(200212242344)

 私は、比較的「被害を受けた」と感じ・思い易い性格(だった?)かも知れません。それに気づいたので何故かと追求・考えましたら、分かりました。私の考え方に、時間tという項目が入り込んでおり、ある時間tが経過するまで待たなければ成らないような認識、いわば「3次元的認識」をしていたからだと分かりました。確かに、外界からの刺激は一種のストレスでもあるし、刺激でもあります。そのような微妙な領域についての考察です。

 ベースには「損得感覚」があります。例えばBさんから悪意Bに基づき、悪行為Bをされたとしましょう(当ホームページでは、「“Aさん”ばかりなので」)。その時、Bさんは何らかの「得をした」と感じ、私は何らかの「損をした」と感じます。立場が分かれます。Bさんは加害者で、私は被害者と(私の心の中で)なります。それを埋め合わせる為の「復讐の概念」が出てきます。「復讐の概念」は、されたことを、そのまま相手にやり返すことで達成されますが、そのような機会が次に来るのは数分後か数日後か、あるいは数ヶ月後か分かりませんが、時間tを要します。私にとって、その悪人は「未だ裁きを受けていない」事になります。だから怒りがつのります。

 よく霊的な存在は「許せ、許せ」と言います。もし、許してばかりの人が人類の中に半分になったとしても、残りの半分が性悪で、放って置くと、「許す人々」に対し、加害行為を継続するのは明らかと思います。損をするのは良い人ばかり、ということになります。確かに宇宙には「カルマの法則」があり、人に対して為した事が、自分の身に返って来ます。でも、返ってきたものは、実に物足りなさがあったり、拍子抜けの感がする時もあります。そこで、宇宙の法(カルマの法則)に対する疑いが出ます。「この宇宙では、善人に対するバックアップやケアが充分ではないのではないか?」、「この宇宙では、欲しがる者が“汚い手段を使っても、とにかくそれを(善良な人を裏切っても)手に入れてしまう”」という「やり方」が功を奏する宇宙になっているのだろうか?という疑いが出ます。悪人は「裁かれないまま」である。だから怒りがつのります。

 ここでイエズス様が述べていました「悪人は、その悪い行いを為している時点で、既に裁かれている(だから許して忘れなさい)」という言葉が思い出されました。ここで、認識の上で決定的な違いが発生します。悪人は、悪い行為を為した時点で、「裁かれた」という認識です。このような認識を持つと、時間tという要素が発生しません。いわば「高次元的認識」(^^;だから怒りがつのることは以前より減少すると思います。さすがはイエズス様。

 このような認識を持つためには、この世の結果を放棄しても、「神(自分)に裁かれてはいない」という成果を優先する性質が必要と思います。常に原因の立場、霊的な立場を尊重するスタンスが必要と思います。なぜなら、結果やこの世の立場・利益などを第一優先するスタンスを持っている人では、結果を放棄する事は難しいと思うから。でも、神や霊性、原因、動機を大切にする人は悪人に何か(微妙な行為を)された時、善人は物理的にはほとんど「されるがまま」の損失かも知れませんが、霊的には、その時点で悪行為を為す人は神によって「裁かれている」のだから、それを見ている自分は、いわば許す事が比較的「楽」になるわけです。善人にとっては復讐が、その時点で満たされる訳です。だから時間tの要素が消滅した認識を持つと、問題がその瞬間に解決している事になりますね。ただ、このような認識で、どの程度まで安定していられるか、という側面もあるかも知れませんが。と、そんなことを思いました。(200210192315)

 十戒を「画一化」と言ってるらしいですが、多分、それを言ってる人(々)は、彼らの言う画一化そのものが問題ではなく、別の所に問題があるのだろうと思う。十個の戒律程度で「画一化」とは言えない。人は遥かにもっと多くの画一化に強いられて生活している。従って、十戒を指して「画一化」とは言えない。十戒はいわば、当たり前の事であり、実行する事は本人の為にも充分になるものだと思える。(200207120223)

 それから、時々聞こえてきますのは、「決められたレールに乗りたくない」とか「決まった未来なんて欲しくない」という言説です。

 あなた(方)は、「人から勝手に決められてしまう」という事と「神・法則により自ずと決められてしまう」という事を混同して捉えているから、そのように主張しているのではないかと思う。その主張の意図は、常に私を排除する点にある。私を排除する為に、芸能人を味方につけようとしている。私の見えない所で。

 人が人を規定する行為は自由の制限です。しかし、神が人を規定することは全てがである。あなた(方)は、腕が2本しかなく、目が2つしか無いと決められてしまっているのに、「決められたレールなんかに乗りたくない」と言わないのは何故ですか? 前回の下記に示しました十戒(今まで十戒を吟味ぎんみしたことはなかったなぁ)の10番、「汝隣人の家に欲を出すなかれ」に対してはなはだしく逸脱いつだつしている。某フォーラムで私は、周囲の人に「身近に」感じさせてしまったのが一つの原因だと思う。彼(ら)は多分、私のその「身近さ」からの「逸脱」を自意識過剰に受け取ったのが、裏芸能界で私を排除する為の洗脳活動をする理由なのだろうと思う。私は、今の今まで、この側面には気づいていなかった。人から見て「逸脱」した理由は、チャネラーのバイアス問題である。ほとんどの責任はチャネラーの側にあると思う。だから、私を排除しようとするのは、真実を遠ざけようとする態度であり、筋をき違えている。もっと、「誰と誰が知り合いである」という個人的捉え方(捉え方A)ではなく、「真実はどうなのか」という非個人的な点から物事を考えれば(捉え方B)いいのに。

 つまり、問題は多分、「捉え方B」に立脚した「決まったレールそのもの」や「決まった未来そのもの」ではなく、「捉え方A」に立脚して、私個人と彼(ら)個々人との比較意識によって燃える別の炎が主導権を握ってしまう人がいるからだと思う。十戒の10番に反すると思う。真の問題は別の所にあった。つまり、決まっていると言われる事や、私の側ではなく、真の問題はあなた(方)の感情的で、個人的なあり方だと思う。(200207100056)

 私は社会的な領域では個人的に、悪の消去法で残された、悪ではない道筋を通る生き方です。社会的に何がしたい訳でもなかったからです。ここで、ちなみに、モーゼの十戒を示そうと思います。人類史上、十戒は大きなモノリスです。

一、我は汝の神ヤーウェ、汝をエジプトから導いたもの、我の外何ものも神とするなかれ
二、汝自らのために偶像を作って拝み仕えるなかれ
三、汝の神ヤーウェの名をみだりに唱えるなかれ
四、安息日をおぼえてこれを聖くせよ
五、汝の父母を敬え
六、汝殺すなかれ
七、汝姦淫するなかれ
八、汝盗むなかれ
九、汝隣人に対して偽りの証をするなかれ
十、汝隣人の家に欲を出すなかれ

 基本的に、単に人に役立つこと、良さそうな事を伝達する意図くらいのものです。ただ、おいしい御馳走ごちそうを出してくれれば、それはおいしいし、嬉しいということになる訳です。こういう側面まで言葉で言わないと分からない(理解しようとしない)ままでいるという種類の人々がいる事が分かったので述べています。多分、私の言葉を受け取る時のその人の心の底の「意図」として、大きく分けて、「2種類の人がいる」と思います。

・「何を述べているのか、正確に認識しよう」という「理解しようとする人」
・「自分を有利にするため、別様の意味に受け取って被害を訴えて行こう」という「誤解しようとする人」

などの2種類の人がいる事が分かりました。「誤解しようとする人」は、「自分のやりたいことのためには、汚い手段を使っても良い。なぜなら、人生は一度きりだから」と言ってる事に気づいたからです。それを「幸せ」だと考えているとしたら、私は間違いだと思う。幸せとは、
・最低限のものを考えるならば、「自分で在る」ことです。(覚醒意識
・拡張的に考えるならば、「自分で在る」のみならず、社会的にも調和した状況の中で楽しく自分で在れたら(特別な事情のある人以外は)そのほうが好ましいと思われます。
 つまり、幸せとは「拡張させて行こう」と意図して行動したほうが良いと思うのです。そのために必要なのは、「正しい言葉・行為」ですね。全く正しい言葉、行為だけを通ることによってもたらされた果実としての幸せならば、心の底から幸せです。しかし、誰かを踏みつけて自分が幸せになったとしたら、心の底から幸せではありません。これを感じられる人の魂は幸せです。
 さて、ここで、「そんなのちょっと悪かったなと思うだけで、結果として自分は後悔も何もないよ」という人は、「感じられない人」ですね。その種の人は「自分の感情・欲望」だけを感じて(しか感じられないで)生きている人ですね。あるいは、この世・物質世界だけしか存在しないという信仰を持っている人ですね。死後の世界で責め苦に苛まれるとシュタイナーも述べています(イザラ書房「死後の生活」)。それ(汚れた手段を汚れていると感じられる善悪を分別する感覚)を感じられずに生きてきたからです。

 ところが「人生一度きり」教の人々は、幸せの基礎である「自分の調律」もせずに、いきなり社会的な幸せを実現しようと強行します。もちろん、社会的な幸せを実現した後で自分自身を調律することもあり得ると思います。問題なのは、善人・弱者に対して汚い手段を使って社会的認知を得た人です。それは真の幸せでは初めから無い。しかし「いや、幸せだよ」と言うとしたら「感じられない人」ですね。後で神の裁きが待っている。

 幸せとは、先ず自分を整えてから、正しい道だけを通って実現・拡大して行こうとするものだと思います。自分の中の自分は神です。つまり、自分は神に従うものです。キリスト教でも「主の祈り」というのがあります。その中に「御旨みむねの天に行わるるごとく、地にも行われんことを」という部分があります。神の意志が行われる事が第一です。人の我意ではない。イスラムでも「インシャッラー(神の御心のままに)」と言います。どうなろうとも、それを受け入れるという訳です。神道でも「惟神霊幸倍坐世かむながらたまちはへ(え)ませ」と唱えます。大体、何教の立場からでも、それが真実ならば「人生一度きりだから、やりたいようにやる」という考え方はあり得ません。キリスト教とイスラムだけでも、世界の大多数の人数をようすると思います。「やりたいようにやる」、そんなのは単なる蛮人ばんじんです。日本人は蛮人に近いのか? そこには死後の生命の認識がなく、物質世界だけが全てという、視覚や聴覚等感覚器官経由だけで脳が出来上がってしまった人です。実現できない社会的幸せを無理に実現させようとするのは、神の認識が無い人です。「幸せとは神が与えてくれるもの」という認識がありません。前回、下にタイプしたのは、「私は社会的認知を常に優先する(=犠牲を作り出す事)訳ではない」と述べたのです。人として当たり前の部分を外して「わざと誤読」して被害を受けたと主張し始めた人々は、某心霊の言う「矛盾=嘘=錆を生じてくる大きな片目の男」に私をあてはめようと、まだしていたのですね。私は善人の痛みを理解しようという意図を持ち、正しい方法だけで幸せを拡大しようとしている為に、善悪の分別を守り、正しい手続きを通るために、自分だけ(通常、誰かを犠牲にしての「自分だけ」)の幸せを「放棄している」ように見えるのです。それを指して「幸せですか?」とか「矛盾している」と主張しているとしたら、認識が間違っています。前回、下に書いているのは、そういう意味です。また、私の個人的な性質として「悪を忌み嫌う」傾向が強いですが、そのようなバイアスはかかっているとは思いますけれども。

 つい最近、私に対する攻撃的な念が強くなって来たような可能性があるので、原因を知るために情勢を分析している内に一つの視界が開けたのでタイプしたものです。「誤解しようとする人」の言説を、何故、**さんや**さんまでもが受け入れてしまうのでしょうか。その理由として一番大きいと思うのは、「人としてほとんどあり得ない事まで信じ・受け入れる怠惰な精神」に理由があると思います。(200207090048)

 最近、ある種の念を感じます。それはB'zの「熱き鼓動の果てに」の中の歌詞「この瞬間だけは譲れないと、その瞳の色、変わって行くのを見たよ」という部分とも関係あるかも知れません。私は本当に、社会的な利益・認知へ向かうのを第一にはしない人なのです。その理由は、心を第一にしようとするので。
 私は自分の精神的な部分を見ています。それは、他の人も自分を見ているでしょう。でも、例えば、社会的な認知を「最優先にはしない」のでしょうか? いや、多分、ほとんど98%程度の人は、そういう「社会的利益」を最優先にし、そうするためには、相手が悪人ではないにも関わらず、「自分の為に」汚い手段を用いると簡単に予想できます。この点に於いて私は正反対なのです。私はそれを「最優先しない」訳です。ただ、相手が悪人である場合は、「社会の為に」(を含み)その悪の程度(と私が感じた程度)に応じて、可能な事はします。この点も正反対です。普通は、「何もしない」「知らないフリをする」みたいになると思います(この態度も不正ですね)。勿論、相手を「悪人に仕立て上げる」ようなことはありませんので、端的に、その悪に対して抵抗します。捏造ねつぞうの悪ではありません。捏造の悪ではないので、心の底から本気で悪であると信じられるからです。自分で捏造した悪に対しては、そんなに本気になれないでしょ、きっと。なぜなら、自分が捏造した上で責めているので、「実は悪人じゃない」と分かっているということになるからです。
 以前、私はスブドという会の事務員をしていました。私の目的は、スブド会員と内向きに仲良くする点にはなく、スブドを世界に広めて行こうとする外向きの意図を持っていました。スブド内での地位とかそういう事が目的ではなく、まあ、手段ではありました。何か会の中での「地位を得る」とかそういう社会的認知・利益みたいなことが第一ではありませんでした。世界に奉仕するためにはどうすべきか、という点での発想です。

 「本当はそうしたいくせに無理しちゃって」みたいなことを裏芸能界で主張している可能性があると思い、ここで述べてみました。要するに、私は不正な事はしないという主張でした。例えば、何の落ち度も無い人を責めるのは不正ですし、悪人を放置するのも不正ですね。最近、インターネット環境を透明にしようとか、政治をインターネット化すれば金銭のかからないようなシステムになるとか言ってますが、みんな、透明な水晶の時代であるアクエリアス時代の特徴であると思います。私が個人的に何を「したい」のかと言うと、例えば、芸能界や、政治などの「悪を全部暴きたい」というのもある訳です。誰かと「仲良くする」みたいなことは目的ではありません。しかし、それは自然発生的なものであり、勿論、「仲良く」を拒否することはありません(特別な理由など無ければ)。そのために人を押し退けるなどという不正は行いません。しかし、そのような不正を暴いたり糾弾したりすることはあり得ます。(200206260159)

 布袋寅泰の「命は燃やしつくすためのもの」という歌が聞こえてきて、「永遠の虹など誰も見向きもしないだろう。命は燃やしつくすためのもの」という歌詞が聞こえてきました。私の周辺では、いつもこの種の価値観がヒソヒソされるようになります。それは、正面から私に何か言っても、論破されるからでしょう(最初から言わなきゃいいのに)。でも、この歌で、やっとまた一つ聞こえてきたと思います。これらの価値観は、一つ残らず「私を排除しておくための理由付け=方便」でしょうね。あなたは言論を行ったのでしょうか? 私は自己利益を「ついでに楽しむ」としても、それを第一にして大きな問題を忘れ・捨ててしまうという選択はしたくありません。つまり、「金銭主義ではない」という事です。故に、目立つように動きたくありません。目立ったら最後、誰か芸能人が勝手にCMなどに出て、ん百万円を獲得してまうからです。だから「燃やしつくす」ようには見せたくありません。私は非個人的に、全体への奉仕者としてホームページ上で色々な問題と取り組んでおります。なお、この発言は、「真実に直面せよ」というのと、「排除の意図」に対する抗議です。(200204270050)

 4/20(土)に気づいた事があります。それは、3CHで21:00〜22:00にやってた「真剣10代しゃべり場」という番組を見てた時です。議論が一段落した時に、確か「真のリーダーとは何か」みたいなテーマで、掲示板方式で画面に意見(文字列)が表示されてました。それを見てて、今まで自分が周囲社会から乖離かいりするというか、意見などの齟齬そご(微妙なズレ)を生じる根本に気づきました。
 私は中学1年生の時に、コンタクティーで有名なジョージ・アダムスキーという人がスペース・ブラザースから学んだ事なども含めて書いた「宇宙哲学」という本を読んでいました。当時、「哲学って何だろう」という時期でした。それが高校生になり、大学卒業後も、本の紙のふちが和紙のようになるまで読み込んでました。今回気づいた点に関連するのは、その中に書かれてある「非個人的であれ」という部分です。これは私が高校生の時には実践していたものです。非個人的である事は、私の基本です。「真剣10代しゃべり場」で10代の人々がテーマに沿って述べていたのは「リーダーを選出しようとする時、いつも決まって立候補する人っているよね。そういう人に限って、人はついて行かない。何かを皆でやっている内に、地味で目立たない人こそが皆を自然にリードして行き、皆もついて行く」とか、あるいは「自分はリーダーになろうとは思わないけど、人から指図さしずされていると不満がたまる」等々のような複数の意見が出されていました(昨日の番組の記憶です)。それで某フォーラムの批判者(達)がどのような視点から発信しているのかというヒントを得られたと思いました。多分、私が「リーダーになりたがっている」という主張を行っているのだと思います。でも、私は「(社会的な)リーダーになりたがって」いません。非個人的だからです。つまり、彼らはそのように考え・イメージした上で、そのイメージを私に投影しているから誤解が生じて齟齬が生じるのだと思いました。例えば、前人未踏の地に「珍しい動物を探している」という人々がやって来たとしたら、現地の地理に詳しい自分ならば、最も効率的に案内できるだろうとの予測がひらめきますよね。それは相手に「役に立ちたい」という側面があるからです。それは同時に、悪人による罠や仕掛けが何処にどのように設置されており、どのように無効に出来るかという強い意志も出てくる訳です。そして、ついでに自分を生かし、変わった事を体験出来るからです(二義的)。「真剣10代しゃべり場」では、リーダーになり「たがる」人のイメージが皆の潜在意識の中心テーマとなった上での意見が出ているようでしたが、単に「たがる」人には根拠が存在しないという欠点がある点を指摘していたのだと思います。逆に考えれば、まず自然発生的に「根拠」を知り・身につけて来た人が、自然とそれらの知識・技能を大勢の人に「役立てよう」と思い、「その上で」広めたいと思うのは自然であり、良い事です。人々に還元されるから。つまり、リーダーに「(根拠なしに[=利己主義で])なりたがる」人と、「(根拠を生かそうとして[=利他主義で])なりたい人・なろうとする人(生かす・生きる人)」の2種類あるという言い方ができると思います。
 それから、私が周囲との齟齬を生じる点についてですが、例えば、「自分の発言」という言葉について考えてみます。現代社会では「著作権」というものがありますが、多分、そのせいなのかも分りませんが、「自分の発言」=「自分が所有し、利益の元とする発言」という感覚で何かを述べている人が多いのだと思います。だからこそ、私の発言がシュタイナーをパクッたかどうかという点に拘る人々もいるのだと思います(→[私は誰をパクッているか?])。一方、私の認識としては、パクッたかどうかという点には拘らないのです。「誰が」最初に言ったかどうかではなく、それが人々に「役立つかどうか」が問題だからです。勿論、「誰が」という視点は純粋に事実として、付随しなくても付随しても別にいいと思います。また、私の場合は、「自分の発言」と言う時には純粋事実として「自分から発せられた発言」という事実認識が中心です。それを「所有」してないのです。非個人的だから。2〜3日前に[魂の指針【=覚醒意識】]の中に性同一性障害の治療的側面に関して述べた部分は非個人性が垣間見えると思います。人は余り慣れてないかも知れませんが、自分を対象として観察すると言いますか、そういう事です。ただ、人間にとって、性と社会性を混ぜるのは良くないので、私はプライバシーの名の元に、個人としての権利という名前のものを主張はします。それは人間の構造的なものであり、一種の法則だから。
 「私の発言」という時、そのような認識上の違いがあるものだから、私としては「こうしたほうがいいよ」ということで、「役立てよう」として広告を意図するのですが、その種の「社会進出」を見て、人は私個人(の利益)という側面ばかりを見る(色メガネ)のだと思います。総理大臣にしてもそのように見られてばかりですよね。日刊現代のメルマガなんかは、総理を誉める事が無いですね。「常に非難している」のです。ちょっとこのメルマガは非難し過ぎかな。国を滅ぼす責任はそんな新聞社の非難体質のほうにウエイトがかかるんじゃなかろうか。ま、一応読んでますけどね。「真剣10代しゃべり場」では、人がついて来るとか来ないとか言ってましたが、そういう社会的側面、見栄のような利益の側面を中心にして考えるべきではないと思います。ついて来ても来なくても関係ない、と言ったら分り易いかも。つまり、大切な事が「なるべく」多くの人に伝わる事が良いのですから。

・非個人的な態度で発言するということは、色々な真実・事実や自分を超えた法則とかを人の為に(無償で)述べて行くというスタンスです。それは特定の人に述べてない場合が多く、特定の人々との繋がりを超えて、それを要求せずに行動するものだと思います。故に、「特定の誰かと戦う」という意識は生じ難い。なぜなら、「自分の発言」は、単に真実・事実を写し取っただけだから。(その根本は自分個人に立脚しない)
【勿論、家族・親戚とか結婚という事は誰もが持っている状況ですから、それらとは別の事です】

・個人的な態度で発言するということは、自分個人の欲求・利益に繋がる内容の発言を、主に自分の為に(有償で)述べてゆくというスタンスと思います。それは特定の人(達)に述べる場合が多く、特定の人々との繋がりを守り・要求し、利益を意図して行動するものだと思います。故に、「特定の誰かと戦う」という意識になり易いのかも知れない。なぜなら、「自分の発言」は、全くのところ、自分の利益・要求を意図するところから発生している訳だからだろう。(その根本は自分個人に立脚する)
【利益を意図する事が悪いとは述べてません】

 アダムスキーの「非個人的であれ」という言葉は私の中で生きています。それはあらゆる側面に及びます。しかし、全部をタイプしようと思うと、膨大なものになると思われますので、ここらへんで。(200204220000)

 池田小学校の刃物男のような凶悪事件が起きた時に、私がいつも疑問に思うのは、「なぜ何もしないでいる人がいるのか」という点です。というのは、私は悪を殺し、善を生かす事が生きがいだからです。まず、自分の性格の中の悪を、自分が納得するまでやっつけようとしていたのが10代〜20代の時でした。外側に悪を見た時、それを破壊しなくては納得とは行かない。それがかなりの程度「徹底的」である点が、私の性格の偏りと言えば偏りかも知れません(これで生理的な限界という概念を得ました)。これは私個人の価値観です。故に、私にとって、復讐は正しいと感じられる訳です。相手が悪であるならば、良心は感じない。池田小学校の刃物男のようなものを見た時に、何もしない人々は、良心を感じてしまっているのだと考えます。私の場合は、良心を感じるから、一撃で仕留めるとか言う訳です。善と悪をしっかり分別しないような教育がもたらしたものは、嘘を付く事による活気のなさと、かなりの程度の悪をのさばらせるような精神的な腐敗により、問題を問題だと思わない傾向のたぐいだと考えます。故に、私は情緒的には凶悪犯罪被害者による復讐をバックアップしたい気持ちはあります。ただ、頭では、出口王仁三郎師に同調して「一応」死刑ハンタイだったわけです。(200204162339)

 資本主義の限界]のほうに、所有欲(:植物的)が物質寄りの場合と、動物寄りの(一つの)場合について考察したのに関連して、自分の性格について強調しようと思う側面が出て来ました。というのは、私の性格はなかなか理解されないからです。理解されないと、「危ない」場面が出て来るのです。故に、常に軌道修正の必要がある(と感じている)のです。なぜなら、嘘はどこにも無いからです。

 例えば、テレビ界というのを見ていると、確かに「見てて楽しい」し、CMなども「つい見てしまう」ように、驚かせたり、注意を引いたりという「動物的」世界ですね。でも、理性的に思惟すれば、「人間社会としては、どんな問題が残っており、何を解決すべきであるか」という人類のテーマみたいなものも常にあります。(今の?)テレビの世界にはこういう番組が少ないのも事実ですね。確かに、視聴率という経済原理があるので、視聴者のそういう動物性に中心が据えられて行くのも仕方ないのが現実だと分ります。こういうテレビの世界をより人間的にして行くためにはある程度の「金銭を超えた価値観で行動できる人・企業」が必要だと思います。ここらへんが動物性と人間性との区別(の一つ)だと私は思います。ところが、問題意識を持って文化的な番組を作っている人・企業は「つまらないヤツ」という事で、仲間外れにされたりします。これが私の立場です。私も皆さんと同じ人間なのだから、動物性を持ってない訳が無いという点を強調したいのです。
 また、例えば友達と楽しくする(動物的)のと、飽くまで問題意識を(人間的に)提示して、一種の馴れ合い・腐った関係のようなものを打破しようとするかと言われれば、私は(勿論、状況によりますが)一般的に、後者を選ぶ訳です。
 他にも、私は「もし、機会が与えられれば全額寄付活動をする」と言ってますが、これもその一つです。そういう収入を自分が面白おかしく消費してしまうよりは、より深刻な問題の解決へ回すという判断が私には正しいと思われるので、飽くまで個人的課題として(人は寄付するために生きている訳ではないので、[通常は]人にそれをするように求める事はしないのです)そうしようとしています。
 また、以前に自分がいた会での事を述べますと、その会の中で必要だと思う事務をしておりました(ボランティア)。親睦を第一にすることはありませんでした。親睦は、自然発生した時点で自然に関わるだけというスタンスでした。そういう親睦の機会は自然に楽しみます。しかし、しなければならない事を放置してまでも親睦する事はありませんでした。「ヒマラヤ聖者の生活探求」という本を読んでいたので、私の原則の一つは「自分が楽しむこと<全体へ奉仕すること」という価値観を持つからです。「仲良く、楽しいこと」よりも優先しようとする課題があれば、いつもそれを優先しようとします(ただ、「仕事」という意味ではありません。私は仕事を放り投げて家族を優先するタイプです)。しかし、そういう私は「動物的な関わり」を拒絶しているという印象も与えていたかも知れません。これは現在でもそうかも知れませんが、条件が揃っていれば、親睦・仲良くすること・面白おかしく時間を過ごす事を拒否してないのです。ただ、そういう関係を特に求めようともしないからややこしいかも知れません。自然発生的に関わるだけ、そんなスタンスです。
 もちろん、「**月**日に親睦会をしましょう」ということで集まるのならば、それはそれで親睦の為だけに時間を使う事になるのは勿論のことです。また、現代社会では、人の中の動物性への癒しが必要であることは勿論、分かっています。ただ、私個人は人類の課題へ挑戦しようとしているだけなのです。それを周囲に強要できませんし、超出る杭になりますから、疎外されますが、もう、それは楽しむしかないと思います。ただ、拒否などしてないのは事実であるという点は言わなければなりません。(200202280104)

 下記にコーランの一節を抜粋しましたが、私の意図しましたのは、「神の言葉=戦え」という側面でした。「生命と財産をなげうって」ではありません。それは意図しておりません。確かに、霊的な側面からすれば、神霊のコーランの言葉は真実そのものだと思われます。某チャネラーの初期(チャネラーがトランス状態に入って無意識状態下でメッセージを受け取る方式であった初期の頃)のメッセージの中にも「命の水を請うな」という箇所があります。戦闘的性質(この世を捨てさせようとする傾向が強いのでしょう)からしてコーランを下したのはミカエルまたはミカエルの系統だろうと思います。コーランにあるように、それが人にとって最も良い事だろうとは思いますが、それではこの世を無視することにもなり得ます。
 これと同じ傾向はスペース・ブラザースにも垣間見えると思います。というのは、地球人にとって「心の中が見られている」という状況はかなりキツイ状況です。しかし、彼らの前では丸見えです。だからこそ彼らは正体を隠しているのでしょう。しかし、私は気づいてしまった。「もう来ないでくれ」といくら願っても、彼らは私の近くに来ては極くプライベートな事柄を口にします(一時、彼らについての悪口を述べていた頃、人もまばらな時、西部線所沢駅ホーム上で、無言の私とすれ違いざまに「そんなこと言わないほうがいいのになぁ」と彼は言って去りました)。確かに必要に応じての言葉だと思いますが、そうやって心の中が見られている事自体がキツかったのに。1979年の初・接近遭遇から20年後、やっと私は観察対象から外してくれたようでホッとしております。で、言いたかった事は、彼らは観察対象の人の個人的な要素を完全に無視しているような気がする点であります。いくら嫌がっても反発してもそのこと自体を観察されてしまう。地球人とはかなりその意識が違ってるという「差」を感じました。ある意味、こちらの気持ちなり葛藤なりに関する共感や同情が存在しない、というか、そういう生理的な側面に気づいてない人々のように思えます。こちらがゼーぜーしているようなコンディション最悪の時にもやって来て変な事を言ったりしたりする。こちらがどのようなコンディションにあるか「全く考慮しない」というか、無視してる感がありました。神霊もその点、似ていると思います。「生命をなげうって戦え」と言うのは人が肉体を持って生きている事に関する無理解?いや、理解し過ぎてるからこその故にでしょうが、それでも言いたいのは、「神霊ですら相手の立場に立つということが実際にはどういうことか分からないのではないか」ということです。確かに、死後の生命を彼らが守護して導くのだと思います。しかし、現にこの世で生きている人間に対してそんなことを言うというのは、人間的な道徳律からかけ離れてますね。そのような「差」は人間にとって大変にキツイものです。しかし、逆に、そのような差から知識が生まれるのも事実ですが。未来に於いて、他惑星文明と接触する時に、地球人との精神的な進歩の度合いとの間に差があるほど、ある種の苦しみが大きくなるのかも知れません。(200108160107)

 この文章ファイルの方向がちょっと変化して来ましたが、誰かが批判してるのか知りませんが、そうならば正面から言ってもらわないと具体的に分からないじゃないですか。その批判の内容は「ひけらかしている」というもののようですね。

 私は人を方向付ける(個人的な領域で)ものとして、「衝動(+)」と「罪の意識(−)」と「本人の個人的な価値観(取捨選択の基礎)」などがあると思います。例えば、私は良い情報は流通したほうがいいと考えます。言うべきなのに言わないでいる事のほうが罪だと思います。だから私は必要が生じれば大体の事はコメントしてます。「ひけらかす」という捉え方・罪の意識ではありません。そもそもの発言の契機は「単なる必要性」からでした。このような個人的な領域では人によって必要とする行動(の方向づけ)は相当違い、正反対の場合があり得ると思います。(200108091928)

 下記の「善と悪」で「密かに自己利益を目指さない」と言いましたが、これは「悪」の文脈の中で述べたものです。搾取のイメージです。例えば私個人の結婚問題に関しては、これは個人の当然の権利(結婚する権利は誰にでもあり、社会的な同意を得て(=法律にもなって)おります)であり、誰も悪意で結婚などしません。そういう文脈で捉えて頂けるように下記にも補足しておきました。ちょっとした言葉のアヤで正反対の意味に伝わってしまう場合については注意したいと思います。(200108070014)

 下記で「悪人に対して悪意を持つ」と言いましたが、特定集団は無関係。コーランで、神の言葉として「身軽な者も荷重の者も出陣せよ。神の道の為に生命と財産をなげうって戦え。おまえたちにわかりさえすれば、それが自分のためにもっともよいことである。(悔い改めの章、41節)」という風な章句が沢山あります。神の言葉としての「戦え」なのです。それに、当時はこれは身を賭して戦う物理消耗戦でしたが、現代で「戦い」というのは情報で戦い、何か(視点や知識等々)を生み出す情報創造戦を意味すると思います。(200108042309)

 最近、1ヶ月程前(6月頃かな)に、自分の性格について大きな発見がありました。かなり大きな偏りでした。今までニュースなどを追いかけてコメント(特に、被害者、加害者という領域)していましたが、その中にもその「偏り」が反映しております。そこで、自分個人の性格について述べたファイルを置く必要があるように思いました。

怒りと悲しみ
 例えば、お金を持ち逃げされたとか、何か奪われたとか可能性を潰されたとか、それに近い場合に怒るタイプです。でも、他の人の場合は、「悲しむ」という人がいる訳です。人の情緒について分析しようとは思わなかったので、認識してませんでしたが、私の場合、怒るのですね。そういうことに気づいた訳です。被害者、加害者という領域に関して過去に於いて発言して来たのは、全て「怒り」の側面に傾いていると思います。7/31(火)の「ニュース・ステーション」で2年前のアメリカの高校での銃乱射事件の被害者遺族達が積極的に率先して現場の建物2階を吹き抜けとし、現場で被害者遺族同士が親交を暖める場として心のケアの場として使うようになっており、また、未来に希望が残っているという言葉もありました。ここには多分、「悲しみ」の側面が含まれているのだろうと思います。このように、2001.08以前と以後では、少なくとも認識の上では変化し始めていると思います。

 また、以下は上記で述べた性格に関する補足のような説明ですが、「なぜそういう性格なのか」という説明です。もし興味があったらどうぞ。

原因と結果
 他には、中学1年生の時に、ジョージ・アダムスキーという人の哲学書に触れて、それ以来、スペース・ブラザース達からの哲学的な智恵に触れていたので(彼個人の考えも織り交ぜているのは勿論です)、霊的な価値も見るようになり、人生の時間を短縮できたと思ってます。彼は「原因に目を向けよ」と教えてくれました。そうすることが霊性の一つの訓練の道でした。その為、私の価値観では、「結果」に対して、他の人ほどの重きが置かれておりません。勿論、結果を求めて行動・発言をする訳ですが、その過程の一つ一つにおいて、相手や自分の「動機(原因)」を重視します。そのため、自分や相手の「手続き」を重視する余り、結果が得られなくなったとしても、手続きを修正するほうに向かうという傾向があります。確かに「結果」を求めて行動しているのですが、その道すがら、卑怯で不当な手続きやらが発覚したら、そのような行為を行った「動機」にフォーカスしようとします。そちらのほうが大切だったりするのです(これは個人的な領域について述べてます。政治・国際関係・会社などの領域では、どうしても結果主導となるのは分かります)。そのようにして私は個人的には、「結果へ至る可能性」をしばしば捨ててしまいます。例えば、自分が出世しようとしてたとして、会社でうまくやるには社長を崇拝すべし、と言われたとしたら、それを断って結果を断つようなタイプです。勿論、私はこの世を軽視してるつもりはありませんので、いつも何らかの結果を求めて行動します。でも、「どちらが結果につながるだろうか」とは考えず、「どちらが正しいだろうか」と考えます。

善と悪
 ここら辺の性格を別の側面から見ますと、「善」と「悪」という見方ができます。私は社会全般に対しては善なる目的をもって発想して行動・意見しようとします。ただ、悪人に対しては悪意を以って接します。社会的な行為(発言・行動)の時には、プロセスとかやり方とかを自分なりに限りなく善だけで行おうとします。その途上で他の人が裏切りとか妨害とか私には理由が分からず、悪に見えるような時は、それが悪かどうかと判定しようとするために、話し合い・議論を求めますが、そういう情報的な関わりすら持てない場合が多々あります。大体の傾向として、人は「私の社会進出(という果実)」みたいに個人的な利益の側面で捉え、それを妨害しようとすると思います。人々はこの世の利益を見ています。私は結果・社会進出・利益という観点を「第一目的にしない」のです。それらは二義的であり、発生してもしなくてもいいのです。私が従事しているのは、原因・自己理解・供与なのです。私が提供出来る何かを提供しようとしているだけです。周囲の人と、どのような関係になるかという結果を自己利益という点からは「考慮しない」のです。社会的同意がある場合に限って自己利益(例えば、労働の対価としての金銭とか)を享受できると考えます。つまり「密かに(=周囲への悪意となるやり方で)」は自己利益を目指さないのです。

騙され易い
 また、このために、結果的視点からは「騙され易い」という傾向があります(原因的視点からは罪を重ねないという傾向となります)。私は相手が私を騙すかどうかという点には、結果の比較的小さな(個人的)分野である時は[つまり他の人に迷惑が掛からない範囲では]結構無頓着です。それは「騙されたという結果」が出たとしても、私は善意(原因)で相手に対応していたのであって、私に霊的な罪は発生しない。私を騙したという霊的責任は自分には無いから。そもそも、私は相手の意図など知らなかった訳ですし。そんな風に霊的な側面に目が向きます。だから、可能であれば、相手の意図を問いただす等の「原因を明確にする」行動に自然に出て来ます。結果がどうなったかに関して触れる事も無い場合が多いと思う。また、同じ人に同じように騙され続けるという事も「よくある」のです。それは、「霊的には」私は損をしないからです。それで相手を問いただして相手が「もうしない」と言ったならば、私としてはその言葉を相手との「契約」として受け取るのです。それでまた騙されたりします。しかし、それは相手が契約違反(「もうしない」は嘘だった)を行っただけであり、私の側に霊的な罪は重ならない。そのようにして際限なく騙されて行き得ます。でも、いくら「結果に拘らない」とは言っても、遊んでる訳ではないので、適当な所で自分から距離を置くと思います、そのような場合。(200108022127)


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