新社会システム


先週、ちょっと触れ(てしまい)ましたが、数年前に、ほんのちょっと触れただけなのに人々の関心がかなり高まっている or 促されている=期が熟しているような気がしてなりません。

・民が主にならなければならない。主とは、力を持った者である。力=お金を持った者に「国が従う」のである。故に、お金は主である民から社会へ流れ出てゆくようでなければならない。これにより、真に民主主義が実現する。

社会を「情報」と「力」の2種類に分けて考えてみましょう。

社会の中で「力」の部分は食べ物を創造する第一次産業、及び、一部の第二次産業である。第一次産業(と一部の第二次産業)さえしっかり機能していれば、第一次産業(と一部の第二次産業)以外の全ての人々が生きて行ける。第一次産業(と一部の第二次産業)が衰えるようなことがあってはならない。

社会の中で「情報」の部分は第一次産業(と一部の第二次産業)以外の人々。この人々は第一次産業によって生きて行ける。いわば、遊んで暮らしている人々と定義できるのだが、その遊びである筈の社会の中で序列やイジメに苦しんだりしている。スマホやら自動車やらパソコンやら色々と便利な世の中になっているが、全部が遊びである。

絶対に必要なものは第一次産業(と一部の第二次産業)である。「いい仕事やってるねぇ」に該当するのは第一次産業(と一部の第二次産業)である。他の産業はどんなに苦しむ人がいたとしても、定義上は仕事ではなく「遊び」である。このように、社会を「仕事」【第一次産業(と、その周辺産業)】と「遊び」【それ以外】に分け、定義する。なぜならば、「仕事」【第一次産業(と、その周辺産業)】をする人々さえいれば、それ以外の人々は、何をするでもなく、遊んで暮らせるからである。もし、社会を発展させたいとか、社会に大きなインパクトを与えたい人々がいるならば、一緒に会社でも起こしてレストランを経営するでも、新しいスマホを開発するでも何でも出来る。その動きは遊びそのものであり、お金が目的ではないでしょう。お金は「信用創造」によって各個人の口座に数字が既に振り込まれているのだから普通に生活できる。もし、ネットのない所で物を買いたいときは交換手段(金銭)を引き出して使用すればいいのである。現金が必要なのは、そのような場面だけなのであり、信用創造された全国民分の金額の紙幣(や硬貨)を用意する必要は無いだろうと思う。従来の信用創造は人や企業を借金漬けにして支配するための銀行システムでしたが【大きく捉えれば、国際金融資本のボスが自分の私企業である世界各国の中央銀行から各国にお金を貸して借金返済奴隷にするシステム。このシステムに参加していないシリア(⇒YouTUBE)などは色々な攻撃が加えられるのである】、新しい信用創造は、民に自由を与え、あるじとして機能させるようになる。しかし、主の数は国民数に等しいので、多数決で国をネットで運営してゆくのかも知れません。意見の似た者同士で集まり県を作り、それぞれの県が他の県とは違う独自の世界を作って行くかも知れません。このやり方だと国の中に複数の国があり、それぞれが全然違う憲法や法律を運営するかも知れませんし。

「仕事社会」と「遊び社会」に明確に分けることで、人数としては圧倒的に多数の遊び社会の人々は、逆に第一次産業(と一部の第二次産業)に対して注目をして配慮して敬意を払うというスタンスになってくるだろうと思います。また、そうでなければならない。

人間には所有欲があるので、誰でも何でも入手できる訳ではない。従って、金銭による購入というシステムとなり、購入できないほどの高価な商品も出てくる。真の民主主義システムにより、赤ん坊が生まれると、その個人に対し、2億円(約月収20万円×12ヶ月×80年)以上という金額がその赤ん坊の出来立ての口座に振り込まれる。これは「全額を使ってくれるだろう」という信用に基づいている。民主主義への信用に基づく金銭の「信用創造」である。「振り込まれる」とは言っても、それはコンピューター上の数字に過ぎず、入金するのは官の銀行のオペレーターが画面を見ながら、200000000(以上)とタイピングすれば完了である。人数が多いのならプログラムで実行させればあっという間に、その日市役所や区役所に出生届を出した全員の口座に入金完了である。その子の親は親で自分の口座があり、生活に必要な食料品は買えば得られる「遊び社会」の一員として、遊んで暮らして行けるのである。タイトな「仕事人」である第一次産業(と一部の第二次産業)の人々に感謝しましょう。既にネット社会になっているので、物質としての硬貨や紙幣というお金はそれほど使われない。物質としての硬貨や紙幣が必要なのは、パソコンやネットやスマホが機能不可能な状況・環境下で、物と交換するための手段に過ぎない。交換する為の手段という意味しかないのである。なぜなら、人間(や動植物)>金銭だから。全ての人に2億円ずつ配ることの意味は「金銭そのものにはほとんど何の意味も無い」という理解の仕方があります。官の銀行の行員がキーボードをタイプして200000000(以上)を入力しただけのものなのです。自分だけを常に有利な立場でいるという目的のために人を支配したがる人々が他者を支配するツールとして金銭を使っているだけです。つまり、人にお金を貸すことで「返せ返せ」と言いながら、まるで自分が上に立ったかのように振舞えます。しかし、それは単なる数字。何ほどの意味もない。元々、交換媒体以上の意味はないのだから、「意味がない」という本来の使い方をするのが、自然の摂理に合うのです。つまり「一人2億円(以上)」です。

 このようにして人は生得的な権利の一つ「お金」を信用創造してもらいました。どのような信用がその赤ちゃんにあるのでしょうか? それは「その金額までなら社会に「返済し=使い切る=還流する」ようになるだろう」という信用です。でも、そもそも、そんな風に万人がお金を使ったとしても、対価としてのサービスや商品などを提供できるような供給力がそのような社会にはあるのでしょうか? 誰がそのような人のために働いてあげるというのでしょうか? そう、そこなのです! だから最初に定義した訳です。人は(第一次産業以外の人々全員は)遊んでいる人々なのだと。つまり、いくら金額を積んでも彼らは決して働く訳ではないのです。遊びの一環として例えば、「髪の毛を切ってあ・げ・る」だけなのです。別にそんなこと(=人の髪の毛を切る事)をしなくたって食べる為に何かをする必要はありません(※)。いやなら、「誰があんたの髪の毛なんか切るかね」と言って店長は店を出て行けばいいのである。なぜなら、全部遊びだから。もう金によって人を支配する事は出来ない社会にしなければ。いくら金を持っていても、人を動かすことはできない。もし、お金で人を動かすような「金銭>人間」という判断を行動に移したら、そのような社会では憲法違反であり、法律違反で逮捕される。人を大切にしない(=物のように扱う)者は逮捕される社会。金を稼がなくても生きて行けるから。全部遊びだから嫌ならやらなくて良い。「そんなことしたら、人が増長して仕方がない」と考える人もいるかも知れませんが、それは、お金に意味がある時の話。お金に強制力が発生するほど供給量が絞られていたからお金によって優位に立てたので増長もしたでしょう。しかし、お金が豊富にある社会であれば、人が行動する動機・理由は単に信義だとか誠意だとか感謝だとか、そういう人間関係上の精神的な理由だけとなり、お金が理由になるようなことがなくなります。人間関係にはお金が混ざらなくなる。これは個々人の考え、判断がそこに残るだけとなる。社会が規定するような事はもう無い。ただ、一部の人、例えば大きな夢を持っており、それを実現したい人がいます。そういう人はただ遊んで=暮らしているだけでは足りない・嫌なのである。そういう人は必要以上のお金を貯めようとすることになります。そのような人の場合だけ、人間関係の中にお金の要素は混ざるかも知れませんが。

上記(※)印のところで「食べる為に何かをする訳ではない」とタイプしましたが、それは「ほとんどの場合は」という意味です。すなわち、万人は第一次産業の恩恵を受けて生きていられるのである。だからほとんどの人々が遊んでいられるのである。逆に考えれば、「仕事(=第一次産業に従事する事)をせずに生きて行ける訳がない」のである。だから、誰であろう、病気や怪我や特殊事情がなければ、国民は誰もが第一次産業に一定期間従事し、「働かなければならない」のである。働くべき人=労働力人口≒全国民(約1.2億人)の約半分≒6,000万人とし、働いている人=農業就業人口は200万人位+第二次産業の就業者数は1,600万人程度です。従って、第二次産業を含める時は6,000万人÷1,800万人=3.3となります。1年を3.3で割ると約110日なので、国民は毎年約3ヶ月と10日だけ農業+第二次産業に従事して「額に汗して働かなければならない」ことになります(第一次産業だけだと12日で、第一次+第二次だと110日です)。その時、国民は自分がA層であるかB層であるかを届けており、免許証にもA or Bが表示されている。A層の人は全く肉を食べない人。なので、働く時は、米や野菜を12日間 or 110日間作るだけです。但し、一部の人は漁業に行く人も出て来ます。農業も漁業も畜産業も頭脳系の立場の人は常時管理者として従事する必要はあるかも知れませんが。一般的には肉体労働力として国民は参加する事になります。

次に、B層の人は肉を食べます。イスラム教徒など「私は豚肉は食べない」という人がいます。牛=1、豚=2、ニワトリ=3、その他=4とし、B1〜B4までの人がいます。ほとんどの人はB1234でしょうが、豚肉やその他の肉を食べない人はB13です。肉類を購入する人はコンビニでもどこでも免許証を端末にかざして「ピッ」とやらなければ買えません。それがA層の人の免許証だった時は「購入できません」と表示されます。日本での屠殺数は次のようになっています。(http://blog.livedoor.jp/pikomame/archives/1157960.html

一日の平均屠畜数推定
牛:3千500頭
豚:4万5千頭
鶏:161万羽
計 1,653,500

ですので、200万人の人々が大体、一人一匹を屠殺しなければならない計算になります。このようにすることで国民は生の現場を知る事になります。そうすると、国民の中にも問題意識が芽生えて来ると思います。すなわち、「もっと安楽死させられるような手段を使えないのか?」等々です。それに、現在Googleが研究し、試作品を発表したりしているように「牛の肩の筋肉の細胞を無限培養して食肉にする」という方向での研究も活発になって行くかも知れません。また、ミネソタ大学の農業情報研究所「肉食とバイオ燃料をやめれば新たに40億人を養える」という記事から分かるように、人類が草食になることは地球に優しいと思います。

社会全体は遊びで動いているだけなのに、それを「仕事」と錯覚させられている=苦しんでいる人々がいる点が問題なのです。勿論、底辺を苦しめてその上に君臨している「立場人間」も、もっと問題です。そのようにさせられている理由・目的は「お金で社会・人々を支配・コントロールするぞするぞするぞ…」と言ってるだけの少数=1%の支配者層がいることがガンなのです。彼らが支配したがるのを止めればお金が人の上に立つ事は無くなります。彼らは砂糖なら砂糖、塩なら塩、お金ならお金が社会に流通する供給量を絞ります。すると、国民は砂糖や塩やお金に群がるようになります。これが「お金が人の上に立つ状況」です。お金が人の上に立つように供給が絞られる=お金がなかなか大量には入手できないという発想の強制をさせられる社会システムが、人や生命を毀損きそんしているのです。

社会が正常に動いて行く為には人は1年の内、12日間 or 110日間を汗水たらして働かなければなりません。これは徴兵制ではありません。徴農制と言えるかも知れません。自らと国を「生かす」ためのくわを与えられ、農地に向かって突撃するのです。遊びの業界(第一次産業以外の業界)は、「基本が遊びである事」を皆がしっかり認識しなければなりません。ある日、「遊び」が終わって飲み屋に行ったら、店長を含めて誰もいない時もあります。その日は天気が曇っていたのが原因でしょう、誰も焼き鳥を焼いてあげたり枝豆を出してあげようという「気分」にならなかったのでしょう。遊びでやってる訳ですから。もしここでそのお客が「おい、店長を呼べ」とか「金銭>人間」という行動を行なったら、法律違反で逮捕されます。
同様に、お金の流れ方が、今まで「国民⇒国内農産物」だったものが、TPPで「国民⇒輸入食料品」になったという単にそれだけで国内農業・畜産業が壊滅的な状況に陥ったならば、主導政治家達を逮捕しなきゃね。なぜ金銭ごときで農業が破壊されなきゃならないのか? 農業には遥かに豊かな意味がある・未来がある・希望がある。

新社会システムでは、もしかしたらバスや電車も正常に動かないかも知れません。多分、社会全体が多少先祖返りをするでしょうが、その分、皆が幸せになります。蝉の声一つ取っても、金銭社会の中にいると「単に蝉の声」でしかありませんでしたが、先祖返りした新社会システムに生きる人には味わい深い人生の一体験となりますね。金銭という支配・圧迫を取り去るだけでそうなるでしょう。【確か最初に公開した時刻は(201308262359)で⇒内容を修正し続けて(201308270550)になった】

ロン・フィンリー: 「ロサンジェルス危険地域で菜園造りゲリラ作戦」(FB上の投稿からのリンクで知りました) (202111162315)

 株式日記と経済展望の2003年12月7日号に載ってましたが、「やはり男尊女卑が良い」という理論があるようです。西尾幹二という方が説いておられるそうです。氏によると「羞恥心」のあるなしが、男尊女卑(羞恥心あり)と女尊男卑(羞恥心なし)の分かれ目になると指摘しているそうです。でも、私はこの解釈はどうかなとも思う。「羞恥心」が先ず[あるか/無いか]以前に、その「羞恥心がなくなる」原因は、若くしてSEXをしてしまった事実から逃げられない為に、靴のかかとを踏んで歩くようになるのだし、犬のような目(←特定個人を攻撃したのではなく、慣用句として)になってスタスタ歩くようになるのであろう。肉体が完成してから初体験をするようにすればいいのに、まだ完成していない10代の頃に初体験をして、「自分を壊す(=ホルモン・ショック)」風潮がイカンのだと思います。これで羞恥心を感じ難くなってしまった。先ず、ここを改めさえすれば、男も女も「結婚」を破壊しなくなるのではなかろうか。(200312080022)
(→阿修羅発言

 私は真理の同盟メーリングリスト(JAOTML)を購読しているのですが、アメリカで9年間にわたって預言の言葉を受けているJohn Learyというカトリックの人がおり、彼の受けた預言を邦訳していました。その預言については実証され続けてきているそうです。そのJohn Learyのホームページにある2003.07.31(木)のメッセージの邦訳でした。そのメーリングリストの日本人は、聖シャーベルやリトル・ペブルに関するホームページを持っており、リトル・ペブルはあまり良くない評判も聞くので、私は全然詳しくない為、公開はためらわれていたのですが、John Learyという人は、独立している人のようです。また、彼の受けた預言は既に実証されているのが沢山あるそうで、それ故、ここにもMLの翻訳内容を転載してみようと思います。

イエスが言われる。「私の者たちよ、人間を創造してから、私はあなたたちを、夫と妻という適切な婚姻において結ばれるべき男と女にした。これが、家庭が子供を世に産み、育てる正しい方法である。何世紀にもわたり、このことは、社会を構成する家族についての容認されている典型であった。しかし、離婚と同性という異常が、社会に典型として入り込んだとき、ノアの時代やソドムとゴモラの時代と同様、これらの文明は破壊されたのである。わが教皇は、同性者の婚姻に対する教会の立場について大まかに述べ、それが不適正であり、同性者による養子縁組は容認できないとした。そのような同性者の婚姻は、私の最初の方式を悪魔が悪用したものである。私の律法を破る者は、自分の罪に対する私の罰を願っているのだ。同性者の婚姻を容認し得るものとして助長する国々には、私の怒りと破壊が及ぶであろう。手遅れになる前に、アメリカよ、痛悔せよ」。
 だそうです(^^;。目にしてしまった(^^;ものは御紹介しておきますので。ただ、これは、同性結婚を禁止する文脈から出てきていますね。1:1の結婚だと、色々な意味でガチガチな気もしますが、やはり、下記にも述べましたように、1:1は「純の形式」であることに間違いはないようです。(200308220002)

 2003.08.09(土)のフジテレビの「ayu ready」に石田純一さんが出ていて、彼の過去の発言をボードにまとめてました。その中に『三角関係は角が立つから関係を多くして丸くしたほうがいい』(2000.01「スケすけシルバ」で放送)という発言があったそうですので、一応、ここにも載せておきます。「1:1の夫婦関係では角が立ちすぎるかも知れないから、どうしよう」という発想から生まれたアイデアである点も私と同じでした。石田純一さんの勝ちぃ〜(^^;。(200308112120)

 某神霊が「女性枢軸主義」のほうが良いと述べているので、それを元に述べています。そのような社会になると、結婚の形も違ったものになるかも知れません。今までの社会では男と女が1:1で夫婦となり、家族を構成しました。しかし、女性枢軸形式の社会では、女性=家=土地という不動で一体のものがあって、男性は色々な女性に「呼ばれる」訳です。その家族とその男性の同意が成立すれば、その男性「も」その女性を中心とした家族の一員となる訳ですね。
 今まで私は「結婚は人生の墓場」という相に関して、バカの壁があったのかも知れません。そのような窮屈な相が発生した時は、人によっては地獄のような試練の場合があるのでしょうか。それは、男女が1:1で固定しているからではないのでしょうか。

 女性枢軸社会の男性側から見れば、自分が関わった(例えば)3人の女性=3つの家族が自分の家族(家)になりますね。女性側から見れば、自分の家族は家=土地と一体ですね。そこに時々、夫「達」が現れる訳です。もし、その内の一人の男性と険悪になれば、その男性は来なくなる場合はそれでOKで、他の男性と仲良くする、ということになりそうですね。あるいは、その険悪になった男性が逆の性格で、つきまとい、暴力をふるうのであれば、他の男性や「他の家(近隣社会)」が助けてくれるでしょうね。このような社会では、地域社会的な繋がりが従来よりも緊密なものになりそうですね。なぜなら、「夫達」が普段から往来しているので、共有結合した分子のような結合体に「成り易い」からですね。妻=原子核で、夫=電子ですね。ちょっと例えが難しい? 従来の男女比1:1形式の家族だと、それで安定してしまい、周囲社会とは隔絶しがちだったと思います。でも、男性が「今日はA子ちゃんの家に泊まろうかなぁ〜、明日はB子ちゃんで、C子ちゃんは来週でいいかなぁ〜」みたいに動き回るので、比較的開かれた家族となって、社会と「反応」するように思います。
 女性枢軸社会では、男も女も「同意」が基本となるのは当然と思います。つまり、男も女も、自分の好みの「複数の」異性と結婚することになる訳です。故に、従来の1:1形式に於ける窮屈さとか「結婚は人生の墓場」状態には、なり難い社会ではないでしょうか。1:1では、大体の場合、女性が圧迫される場合が多かったかも知れませんね。それも開放されることと予想します。でも、1:1形式があり得ることも当然です。気持ちが純粋な人は相手は一人だけであり続けたいと思うのも自然な感情ですから。1:1家族を見た時は「お互いに相当惚れ合っているんだな」と理解されるようになると思います。このような家族・カップルに「邪魔は禁物」ですね。
 また、多分このような社会でも、「結婚契約を外れる」と、それは不倫として裁かれるようなものである点は従来と同様だろうと予想します。また、家族の子供達は、従来と比べて、人と交わりコミュニケーションするようになると思います。ゲームや機械とお友達状態には、なり難くなると思います。なぜなら、家族自体が社会に開かれているから(従来比)。

 今、私が思い出しているのは、アメリカ歌手マドンナの結婚です。彼女はニューヨークの公園にいた好みの男性を捕まえて(^^;結婚というか、授精しました。すぐ離婚しましたよね、確か。マイコー、いや、マイケル・ジャクソン【つい先日、洋楽一覧にSarah Brightmanの歌の動画をリンクしましたら、翌日(2003.04.23)の夢に彼が出てきて動画を見ていました(→その後の展開:動画一覧へ)】の結婚形式も、固定しない形式ですよね。アメリカの芸能界では、何かそういう思想が息づいている?(200307212304) 関連記事(200402042248)関連動画(200402052241)、(→阿修羅発言) (200506142038)、東スポ記事(200506142013)

現在の社会の構成は、男性中心社会になってますが、どうもこれは違うんじゃないかと思いました。それは、一人の人間を見てみれば、分かります。人間は何か方針を決めてその通りに行動を律して行くような人はほとんどいません。かえって、このようなやり方、論理性によって現代人はストレスを抱えています。それは、今の人間という存在には無理がかかる方法です。実際の人間の姿というものは、何かをやりたいという気分や衝動や欲望や感情が湧き起こって、それに従って、というか、それがやりたくて行動します。それは一概に欲望だとか悪だとか決めるのは間違いです。何事も一時的な部分だけで判断できません。もしかしたら、それはその人の使命に関わる訓練だったりしますから。

さて、本題に戻りますが、人間が行動するのは、その基本に、「パワー」の促しがあるからです。この、個人の内面を社会に映すのが、無理のない社会を造りますでしょう。つまり、実際には、社会を動かしているのは、女性であり、その社会の「女性」に受け入れられたなら、それはその社会にとって本物ということになりそうです。夫婦でもそうではないでしょうか。妻の強力なバックアップ無しで男がいくら方針を決めたとしても、何も実現できないのではないでしょうか。実現しようとすれば、現代社会のような無理、ストレスが生じてくると思います。そのように社会というのも、基本方針を実際に決めるのは女性ではないかと思います。それに、男性は「どうしてもこうでなければ嫌だ」という人は、人数として比較的少ないのではないでしょうか。それなら、社会の中心は女性のほうがいいかも知れません。

一人の人間の内部を見てみると、思考作用というのは、そのようなわくわくというパワーのバックアップがあってこそ、継続するものです。女性に元気づけられた男性こそ、色々なアイデアを生み出すのではないでしょうか。それらは女性を喜ばせることになり、ますますアイデアが沸いて来るということになりそうですね。

それに、現代は、男性の家に女性が嫁ぐという習慣がありますが、これも逆にしたほうがいいかも知れませんね。子供が欲しくなった女性に呼ばれて男性がその家に嫁ぐという形式です。そうすれば、女性は何人でも好きな男性の子供が持てますし、性格に邪悪さのある男性は自然と女性に呼ばれなくなりますから。男性が優位な社会だと、何かと悪い遺伝子を残しそうですが、女性優位の社会なら、男性はまず女性に認められようとして、社会も良くなって行くと思われますね。(1996.12.04)





































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