『光の下に集い 「愛」を実戦する者よ(日本語のニュアンスがGoogle翻訳されるように詩篇の日本語表現を一部変更しました)この文章表現は、金銭社会が終わることを示しています。(201605290349)
終わる事の無い「愛」の夢を望む者よ
「愛」だけを武器として闘うのだ
この惑星上に 再び我らの光が充満する様に
衣食住の夢が 終わりを告げる様に
最後まで闘うのだ』
実は、最近述べようと思っていた事があります。それは三銃士の次の言葉、(200603260023)
「一人は三人(全体)の為に、三人(全体)は一人の為に」
が基礎になります。個を追求する発想の時代は片面的であったと、今になって思う訳です。民主主義は個人の権利を守って維持するイメージがあると思います。仰るところの「個を追求する時代」だったのだと思います。それは「全体は一人の為に」の側だと思います。 反対に、「一人は全体の為に」を個々の市民がなるべく、かつ、自主的に行って行くことが求められるものだと思うのです。
「全体」という言葉の位置には「会社」「地域」「国」「世界」「宇宙」など、人の集合体を意味するものをフラクタルに何でも当て嵌めて考えられますね。
「個」の側の私たちが、壁は勿論、利害すら超えて考え、それがたとえ苦しくても「全体」への奉仕者として発想し、発言し、行動して行く・行こうとするのであれば、その度合いや人数の程度に応じて、今まで足りなかった民主主義の要素がパズルのように満たされて、より完全な民主主義システムになるのかも知れませんね。
資本主義の欠点は、人間よりも契約「件数」とか「視聴率」などの数字(金額直結)が(ある意味)人より優先されてしまう点にあると思います。こういうのは、もう止めにしたらいいんじゃないでしょうか。今後の資本主義は「人間中心」にしたほうが良いと思います。それで、従来の獣的資本主義と、今後の人間中心の資本主義を比較する表を作ってみます。今後も気が付いた事を追加しようと思います。
現在の獣的資本主義 | 今後の人間中心の資本主義 |
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人間は労力や話力、知力等、その能力のほんの一部だけを物のように活用して生きていた。社員は自分で考える事は許されなかった(←実は犯罪的発想)。 | 社員は全員、“自分の”会社の経営に関して意見し(「口を挟む」のではない)て行くことで、さらに自分の会社であるという自覚を深める。 |
「所有する者(資本階級)」が一番強力な者だった。「貸した金は返せ」と獣のように権利だけが強大化した(←実は犯罪的発想)。「利子」という発想もそうですね。利子という権利は、まるで「自分は神だ」と言わんばかりの勢いで利子=権利を増長させ続けます。あなた方は人間としてどんな義務を負っているのだろうか。弱者を助ける義務を負っている。 | 人間中心主義ならば、権利だけではなく、義務も天秤に乗せるべきでは?「所有する者=失い易い者」というのが基本的な自然の摂理である。貸した金は返って来ない場合もある(現在の獣的資本主義だって、株に投資して失敗する場合もある)。それを取り戻す「権利」をそんなに主張はできなくする。なぜなら、相手は人間だから。貸した人はやばくなっても単に所有を失うだけ。痛くも痒くもないでしょ。でも、貧者は痛いし苦しいわけです。勿論、現在でも、生活が苦しくなれば、市役所、区役所等に行って「生活保護」を申請すればよい。従来は貧者に過大な負担が掛かっていましたが、今後は裕福層が色々な負担を背負うことになるシステムが良いのでは? ただ、その前に、現行の「所有する意識の強大さ」が変化して、「与える意識」が強くなって来ればいいんですが。所有=ゲームになればいいんでしょうね。最低限度の生活は誰でも得られるような社会であれば。 |
まだ人類は「水平発想」の人が大勢を占めると思われますが、「垂直発想」の人が社会の中に増えてきた時に、従来の「競争原理」には効果が無くなって行くのだろうと思います。ただ、現代では、競争教育もその一因でしょうが、「競争原理」は十分に有効である事は間違いないですね。(200308092220)
「UFO・精神世界を語る掲示板」で知りましたので、リンクしておきます。[実体経済を優先させゴーストマネーの横行を規制せよ!](200307122354)
ホームページ[株式日記と経済展望]の2003.05.08(木)号にありましたが、お金には「日銀券(今のお札)」と「政府紙幣(今の貨幣)」の2種類があり、日銀券を印刷すればするほど国の借金になるのに対して、政府紙幣は国の借金にならないそうです。それで、スティグリッツ教授という人は「この政府貨幣(紙幣)の発行をもっと大規模に行え」と主張しているそうです。(200305082124)
ホームページ[株式日記と経済展望]の2002.07.31掲載文章に載ってましたのは、
ムーディス社のようなアメリカの信用調査機関が、“韓国経済は危機を脱した”として評価ランクを格上げしたり、IMFが韓国を“IMFの模範生”として称賛することの意味は、金大中政権がアメリカ金融資本にとって最大の利益を保証するシステムを受け入れたことへのリップサービスに過ぎないのです。それは、“OECD加盟国”というエサにも劣らぬ、恐ろしい甘言であることを肝に銘じておくべきでしょう。(韓国の声ウェブサイトより) 浦項製鉄は世界第一の粗鋼生産企業で昨年は1兆1229億ウォンの純益をあげていますが、外国資本の株式保有率は既に38.1%に達しています。また、半導体部門で世界第一の実績を誇る三星電子(3132億ウォンの年間純益)も、外国資本の持ち株が51%です。そして、韓国電力が3月に7億5千万ドルの株式を海外で売却したのに続き、5月には韓国通信が、12億ドルの株式を外国資本に売却する予定だと言います。特に後の2社は単なる企業ではなく、国家の基幹産業です。アメリカの要求した金融自由化の旗の下に、韓国を支えてきた生命線とも言える基幹産業を次から次へと外国資本の手に安売りする金大中政権の経済政策を、決して容認することはできません。
とのことです。日本は今ムーディーズから格を下げるとか言われて日本側は「訴えるぞー」と言ってますね。でも、日本は健全なのでしょう。実際の所、日本のファンダメンタルズ(実物経済の実力)は
(→阿修羅発言)
「週刊現代」誌、2002.06.08号のP56で三ツ谷誠氏(経済評論家)の「日本的経営を護る防波堤は失われた」という文章が載ってました。承知の事実でしょうが、私には目新しいのですが、日本は1964年にOECDに加盟し、それは外国人への株式取得の解放を意味したそうですね。しかし、日本人経営者達は、経営権を護るためには、日本の株はなるべく日本国内で所持しようと務めた結果、今は悪く言われている株の持ち合い制度が生れたそうですね。1989年には日本(の金融機関)が上場企業の株式の46%を所有し、外国人投資家は3.9%であり、この所有の比率が、グローバル経済からの防波堤(外国人に日本国内の株式会社の経営権を左右されないための)だったのが、1990年代に比率が崩れたそうです。2000年には日本(の金融機関)は37%で、外国人投資家の所有は13.2%まで上昇して来たそうですね。
この前の「ニュース10」で筆頭株主の権利意識が肥大していたのを報道してましたが(→動画)、金銭という数字が表す「量・力」だけが全てを左右し、支配するという発想(→阿修羅発言 (200603212256))は、人間自身を否定する発想である事は、経済・金融オンチの私にも明白な事実である。例えば、株式会社Aが存在する「質・意味・意義」は、先ず第一に、その商品Aが消費者のニーズに合致しており、役に立つという点であろうと思う。人数にして極く少数の株主が、その「最も大切な意味合い」を消してしまう権利など与えてはならないと思う。勿論、ほとんどの株主は、たとえ経営権を「奪った」としても、同じ商品や、より良い商品を開発して行くなら(物質世界では)大きな問題はないのだが、何かの特殊な意図に基づいて、経営権を取得したのは、その会社Aの技術Aを隠蔽する為だったり、色々と姑息な場合だって複数あるだろうと予想できます。株主にそこまでの権利・支配力を「与えて」良いのだろうか? そもそも、「頑張る人が頑張っただけの恩恵が得られるようにする」のであれば、このような会社の経営権が「奪われる」などということも発生すべきではないと思う。つまり、株主に乗っ取られるべきではない。頑張ってきた人がその(商品・技術等の)質を向上し、護り、メンテナンスすべきでしょ。日本では、権利意識が肥大した株主の「横暴(という力の側面)」の場合を禁じる法律が必要だと思う。グローバル経済の「力の」価値観で動く外国人投資家等の「横暴という意図(ごく一部でしょう)」だけは実現出来なくすべきだと思う。そもそも、「権利意識が肥大しただけ」で、実態経済が脅かされて良い訳が無いと思う。同誌のP164では
日刊工業新聞2002.05.01(水)号、第23面に載ってましたが、全国商工会連合(全国連)は、全国2800箇所の商工会で地域通過の導入を促進するそうです。地域通貨については動画もあります。(→動画)(200205032230)
最近、国民の税金を不法な使い方をしたとかいうニュースばかりですが、本来は、そういうのは「大した事ではない」と思います。それが現状、「大した事」になる理由は、金銭が人の命([医・食・住・農]の基礎部分)まで左右するからだと思います。食はお金で買うんじゃなくて、自由にコンビニとか置いてあって、誰でも手に取って食べることができる社会がいいと思います。それはぜいたく食品ではなく、最も基礎的食品に関してそのような保障が存在したらいいのに。贅沢食品に関しては、勿論、金銭で扱えばいいと思う。そういう国家であれば、国民は基礎的生活が保障されるのですから(確かに、「生活保障」という制度はありますがね)、銀行が潰れようがどうしようが「大した事ではない」という真相に気づくようになると思います。勿論、現状は「大変な事」です。もし、こんなふうに変えたら「大変な事」→「贅沢な出来事」になるんじゃないでしょうか。どんなにお金を盗まれたって、脅し取られたって、それは命を左右しない事が自明であるので、贅沢さえ言わなければ「そんなに困らない」安心感のある社会になると思う。このような社会を困ると言う人は、ほんの一握りの「(金銭による)支配者達(→阿修羅発言 (200603212256))」だと思います。(200203210018)
2/24(日)の「NHKスペシャル 世界はどこへ向かうのか(2) 問われるグローバル化」を見てて気づきました。世界の金融では、実体経済の約100倍もの金額の数字が動いているそうで、それに対して「税金」をかけるという提案が1970年代からあるそうです(トービン・タックス)。
「税金」というものが人間の意識とどのような関係にあるのか考えました。人間はそれ以下の生命段階である[物質]+[植物]+[動物]+[人間]の複合体です。それには多くの相があります。ここでは、[物質]=[分断]、[植物段階]=[自分が所有し成長する]、[動物]=[仲間(種)の為に所有を守る]という相を元に考えてみます。
人間の幸せの一つは「より多く、より良い所有」にあることは明らかです(ただ、所有が人間の「全存在を満たす満足」には至らないのも事実ですが)。それは、人間の中の植物的な傾向を満たすからですね。この時、人間の中の植物的傾向(所有欲)の、「物質寄り」と「動物寄り」の2つの傾向を考えてみます。
1.[物質寄りの所有欲]:物質寄りの所有欲は、自分「だけ(分断性)」の所有の為に、人を押しのけます。この傾向を元に金融経済を操作されたら、全世界が迷惑であり、貧富の格差が広がってしまう。人間までもが切り捨てられてしまうのですね。
この[動物寄りの所有欲]から「仲間の為」という発想が生れると思います。それを理性的に人間的に処理することで「全体(国)の為」の発想が起こり、「税金」の概念が出てくるのだと思います。その税金が真に国や国民の為に運営されれば問題はない訳です。この「税金(「世界の為」なので地球税とでも言うのかな?)」を金融経済の中で儲けた側に負担させる事で、国境を越えた援助活動の資金を調達できるようになりますね。でも、それを運営するのは、聖職者が妥当では? 宗教もキリスト教(バチカン)、イスラム、ユダヤ、仏教と、宗教も超えて担当して行く必要もあるのではないでしょうか。[「存在・覚醒意識」>「道徳・倫理・価値観」]にも書きましたが、業務遂行に当たる場面で、もし人がそれぞれの美意識(金銭・所有欲を超えた価値観)を発揮(つまり、不必要な薬剤を処方しない配慮とか、天下りを自ら止める等)できれば、社会は少しは良くなると思うからです。(200202262324)
2.[動物寄りの所有欲]:動物寄りの所有欲は、仲間達の為に所有し、また、仲間達に認められたいと思うものだと思います。
人を、物質+植物+動物+「統合体としての人間」と見れば、植物的欲求である「所有欲」だけに信頼を置き、それだけに立脚した金銭社会というものは、非人間的である。ここから悲劇が起きる。現代では、「情報でさえも所有されてしまっている」のだ。でも、神戸震災のような大災害が起きれば、人々のマン・パワーが目覚め、互助の精神が発揮され、人々はコミュニケーションを行い、一人だけの所有をする者は人間ではないとされる。突然、金銭が消えたら人々はどうするだろうか。きっと互助の精神を発揮して、トラックの運転が得意な人は港や田畑から新鮮な食材を各都市の市場まで運んでくれる。きっとそういう人は英雄になるかも。政府は何をおいても食料自給率を上げるようにと考えるのではないか。酪農家や水産業の人たちはとても大切にされ、感謝されると思う。環境を潰すダムなどもっての他。食料の「現物」が一番大切だと人々は気づくのかも。人を動かすのは所有欲だけではないのに、所有欲だけで金銭社会の原動力としている所に無理があると思う。(200201160011)
この前(2001.06頃)、私は知らない人に大量にメールしましたら、それだけでSPAMメールと見なされる事を知りました。私自身は知らない人からメールが来ても迷惑を感じないのでそういう側面には気づきませんでした。今回のSPAMメールの場合、全人数の内、約2.5%の人が、単に知らない人であったというだけで文句を述べてました。なぜこの種の精神性が発生するのかと考えました。それで一つ気づいたのは、資本主義社会という、生存に必要な所有欲(植物的な)に立脚した金銭社会なので、中には相手の迷惑を顧みずに、厚顔無礼な接近を性懲りもなく繰り返す輩が沢山発生するのだと思います。そういう人の精神性は「先ず友達になる→友達という(人間的)立場を利用して、吸い取れるだけ吸い取る」というものなのだろうと思います。この種の人から何らかの被害を過去に受けた人も結構いらっしゃったのではないかと思いました。そのために、「知らない人」を警戒するようになっているのではないかと思いました。
そのようにして日本人は金銭社会の中で、自己の利益を憂慮する余り、自らのマン・パワー、すなわち、人と人の繋がりや信頼関係、尊敬、好奇心や探究心、弱い存在を守る心、真実を歪めない意志等がどうしても弱体化を免れなかったのだと思います。先日もイタリア・サミットで資本主義社会に反対し、資本主義的なグローバル化(=少数の者による一種の世界独裁)に反対する一般人が抗議行動を行いました(一人が死亡)。「資本主義とは少数者による独裁主義である事は明白になった。多様性という観点から自分達は反対する」という立場を採る人がかなりいると思います。「金銭社会」や、あるいは、「特定の教義」の中でしか行動できないとか、「独裁国家」であったりすると、人々のマン・パワーは発揮できず、弱体化を免れないと思います。ただ、例外は、「特定の教義」であった場合、その「理に適った不自由」が人間の霊性の発達に寄与する性質のものであった場合です。この場合に限っては、その不自由が本人に幸せをもたらしますね。それ以外の多くの「理不尽な不自由」や資本主義的画一性が多様性を奪うのは人間性に反すると思います。確かに、資本主義は行き過ぎてるのかも知れません。資本主義のやり方が、「(理想としての)人間性」という、より高次の立場から条件付で理解される部分集合となれば、不協和音を出さずに資本主義社会でいられるのではないかと思います。人間性という要素が今の資本主義社会では軽視されがちであると思います。(ここで述べたように頭だけではなくハートでも人間性を理解する為にも私は[推薦図書]の一覧にあります、あかし書房のシリーズをいつもお勧めしています)
よく「しばらくお待ちくださいませ」とか丁寧に言ったりしますが、あれは他人行儀にすることで相手を安心させようとしてるのかな?それとも、会社の金銭的利益を見越しての発言なのだろうか?多分、真相は自分の会社の命令を守る社員個人の義務としての意図だけでしょうが、それは「自分が解雇されないため」と金銭的に考えながら、同時に「所属する会社=村社会から追放されないため」という俗人間的な考慮も生きてるのかも。だとしたらまだ救いはあるかも。もし、完全に金銭的な考慮により「笑顔」と「いらっしゃいませ」を皆が行ってるのならば、もう魂が死んでる社会であり、ソドムとゴモラのような事があってもいいとは思いますが、まだそこまでは行ってないのでしょう。しかし、上記の俗人間的な考慮という特徴から分かるように、今の日本人の中には嫉妬心が優勢になっているように思われます。芸能人なども、わざと嫉妬して見せる事で相手に優越感を持たせて、それだけでうまく行くような関係だったりするみたいです。田原俊彦さんなどは「俺はBIGだから」と言っただけで視聴者または趨勢から嫉妬されて追い出されたりするようです。あるいはテレビ芸などでも、芸能人は意義ある発言をせずに、ひたすら頭悪く見せようと努力してます。ここらへんからも分かるのは、視聴者や関係者の嫉妬深さの傾向です。それは取りも直さず今の日本人の主要な傾向に成り下がっていると推定できます。それは自己存在を忘れて外的事象に心を奪われ過ぎるという傾向も示していると思います。まあ、嫉妬と言いましても、本気で何かに嫉妬するようなタイプの人と、嫉妬を軽く考え扱うタイプに分かれるのではないかと思います。
今日は、中国で安くて高品質な製品(メガネフレーム)が大量に生産されている事をNHKの「クローズアップ現代」で報道してましたが、私は中国の文化は一つの偉大な文化だと思います。マン・パワーが生きており、ある種、超人的だと思います。先日、テレビ東京で日曜日の早朝に「新・少林寺伝説」という映画を見たのですが、とても面白かった。このような尊敬さるべき人が中国という国では沢山輩出されて来たと思います。その中国にも資本主義という画一的な価値観が導入され始めた事で、中国人のマン・パワーが発揮され難い社会に「なって行く」ような事があったら、とても残念な事だと2001年の今、思います。中国の首脳陣の方に主張したいのは、「人間性第一、すなわち、人間のための資本主義の導入」を忘れないでほしいという願いがあります。資本主義は「道具」であり「一部」でしかない。日本のように、人民を働き蜂にしないでほしいと思います。これは人としての発言意図だけです。
ただ、現在の日本の改革の風潮は、日本をバカンス国家に出来るチャンスでもあるようですが。(200107252234)
そこでもう一つ気づいたのは、「他人」という概念です。今まで私は「人類皆兄弟姉妹」というのを、スペース・ブラザースも述べていることだし、理想として信奉してましたが、まだ早いのではないかと思いました。というのは、吸い取る意図を持ちながら「友達」として接近して来る厚顔無礼な人が沢山いるからです。故に、そういう人に被害を受けてきた人々は、少し突き放したような他人行儀な人=礼儀という形式を守る人に安心するのだと思います。
7/5(木)の「クローズアップ現代」で報道してましたが、従来、借金については「返却する」か「破産する」かのどちらかしかなかったのが、今後は「個人再生制度」(法人の「民事再生」の個人版)という新しい制度によって、自宅など生活基盤そのままで個人が再生できるようになったそうです。ただし、対象は住宅ローン以外の3000万円以下の借金についてだけだそうです。現在の状況を裁判所に提出して6ヶ月待つそうです。また、当然ですが、実際にその後に支払う金額は破産した場合よりも多い金額となるそうです。
ただ、現在の問題点として、住宅ローンの支払いが一時的に停止する場合があり、そのような場合にも「遅延損害金」というペナルティーが一律に課せられてしまう点がおかしいという主張がありました。
また、自営業者の場合は債権者の半数以上の同意がなければ個人再生制度が適用できないそうです。(200107062359)
強い者は弱い者を助ける義務があると私は思います。持てる者は持たざる者に与えることが期待されると信じます。それが人間性だと思います。震災で被災者となってしまった人を援助するのは当然の行為と思います。それは「当然」であり、また、「期待されている」し、「義務」でもあると思います。社会全般の話でもそうだと思います。一国のシステムも「当然」、そのようになっているべきと思います。ビジネスマンが自分の年金や保険を自分で運用しようという401Kというものは日本の場合は、従来の保険等の上にちょこっと乗っているだけなので良かったと思います。これが全面的に論理的に通ってしまう社会だと、401Kというのは「弱者が死ぬシステム」と予想します。(200005230332)
今日、1/6(木)のテレビ朝日の「ニュース・ステーション」冒頭部分で久米宏氏が、朝日新聞1/4号の第1面に作家の塩野ナナミさんという人の意見を読み上げてました。それは、ピンと来たので、ここにも記録としきます。私には目新しかったもので(^_^;)。これは、「所有の夢」と幸せにも書きましたが、最近の「世界貿易を自由化しよう」という国際的組織主導による試みに関連してでしょう。その記事の内容は「共産主義諸国は失敗した。今、アメリカは自由競争だと言う。できる奴は金持ちになり、出来ない者は貧乏になるのは当然だとアメリカは言う。できない人のほうが断然多いのが人間社会だから、結果は社会不安でしょう。」と、読み上げた言葉通り載せときました。そういえば、たま出版から出ている「地球の目醒め(テオドールから地球へU)\1600」という本では、テオドールという銀河意識からのチャネリング内容が書かれており、地球の資本主義社会システムの変革すべき点を指摘しています。本のP54から書いてありますので、以下に部分的に表現を変更しましたが、簡単に抜粋してみます。
1.「弱肉強食的社会システムは、社会がその本質的な活力を維持するのに不可欠な<多様性>を取り除いてしまう」
テオドールは、多様性(社会の活力、元気)を復活させる為に、簡単ではないが、と、以下のような提案を手始めとして紹介しています。現在のインターネット社会状況も、多様性の回復に貢献しているかも知れませんね。
・「製品に関する広告は“必要最低限”だけに留めるべき」
2.「生活だけはできる最低賃金を決め、次に最高賃金としての上限を設け、余剰を税金として吸い上げることにより、全ての人々が公平・公正に扱われるようにすることです(働か(け)ない人々にも最低限の「給料」を支払う)」
3.ここで地球の経済誌からの引用もあります。
4.「彼ら(裕福層)は他の者を犠牲にすることなどお構いなしに、勝つことだけを考えています(資本主義とは、動物的なシステムのようですね)。自由という名のもとで、あなたがたはこうした不合理を続けています」
このような所得再配分制度を採ることで、どんな国でも、生活することの出来る“ギリギリのライン”は確保できるそうです。もちろん、先進国が「所得再配分制度」を取り入れた場合は、国民全員が“かなりの生活水準”を持てるそうです。これは、一二三神示とも共通します。「与へる政治をせよ。働かなくてもどんどん与へておれば、そのうち、働かせてくれと言うようになる」と言ってますよね。2031年に出てくる黙示録の獣は、このような所得再配分制度を全世界に提案し、取り入れさせることで、世界から貧困をなくすのだろうと推察できると思います。これが666の獣の第2の企みのようです。故に、西暦2031年(666が表に立つようになると予測されている年)までに「所得再配分制度」によって世界から貧困を無くしましょう。
5.「生活上、必要で基本的なニーズを満たす物やサービス(本では、農業、教育、医療、製造に必要な原材料の管理だそうです)は、政府が管理すべきでしょう。これにより必要最低限のものについては、平等に配分できるようになります」
最後のまとめとして「あなたがたが抱えている問題は、ときとして手のつけようがないほど大きなものに思われる時がきっとあるでしょう。しかし、幸いなことに、問題はそれほど難しいものではありません。先ほど私たちが提案した改革に着手すれば、あなたがたはゴールに向ってスタートを切ることができるはずです。私たちが述べてきたことは全て、以前、他の人々が提案したことのあるものです。あなたがたは既に世界を転換するのに必要なものの全てが備わっています。」
また、私は思うのですが、「所得再配分制度」が実現できれば、人の人に対する見方が変化すると思います。すなわち、収入は、国会議員も含めて皆が大差ないレベルに収まる訳ですから、その人を収入だけで判断(仰いだり等の)したりしなくなると思います。また、芸能界のような実質的に人身売買のような事もなくなるでしょうし、ありとあらゆる金銭的価値に基づく思考、判断が終焉すると思います。これはすなわち、道徳、倫理の復活ですね。人を見る時は道徳、倫理に基づいた見方に近づくと思います。そうすれば、若い女性が「尊敬できる人(=収入の多い人)と結婚したい」という現代の言葉の意味内容は、本当に「尊敬できる人」という意味に戻るのでしょうね。そのような意識の変化があらゆる分野で起こると思われます。そのような社会に、少なくとも近づくと思われます。(200001070603)
例:「チェーン方式やコングロマリット(複合企業)によって企業の独自性は失われ、巨大企業はあなた方の街をブランド化し、他の街と変わらない造りにしてしまいます」
・「できるだけあなたがたの街にある中小企業の製品を購入することです。地域的な買い物をすることは、天然資源の無駄遣いを防ぐ効果があります」、「そうした大企業の売る製品の輸送費、広告費にかかる莫大な金額を支払っているのはあなたがた自身です(大企業の製品を買うより地域の企業から買ったほうが環境に優しい)」日刊工業新聞、2002.11.25(月)第17面(20040723) ガリバーたちが唱える「創造なき破壊」 2 No.48【2004年10月9日】 (200410100112)
・「プラウト・ジャーナル(Pizzigati, Sam. "Time for a Maximum Wage?" Prout Journal, Vol.5, number 1, p.14-18: The Prout Institute, P.O.Box 2667, Santa Cruz, CA 95063, USA, (408) 475-5055)の記事の中では、仮に最高賃金を最低賃金の10倍に設定すると、納税者の内、最高の所得を得ている“1%”を除き、国民全員の納税額が減少するとのことです。また、このようなシステムにした場合、納税額が増える事を毛嫌いする1%の裕福層が、国民全体の最低賃金水準を引き上げようとするだろう」とのことです。
よく、人間性を歪めてまで「プロならば当然でしょ」で全てを済ませてしまう人がいますが、そういう事を言う人は何かを牛耳ってる人ではないでしょうか。自分の部下などを納得させ・支配するための「プロ意識」ですね。プロ意識を忘れて、まずサービスがあり、善意があったほうがよろしいと思いますが。(199711270347)
どんな思想も主義も、その基本にあるのは人間である。
資本主義の基本は、「所有」である。人間が何かを所有するのは、通常、必要だからです。「所有欲」の強い人は、必要以上の所有を目指す場合もよくあることと思います。あるいは、現在・未来の自分の所有に対する「不安」から、必要以上の所有を目指すのもよくある事と思います。
しかし、「所有欲」も「不安」も、たとえ「必要性」があるからと言っても、このどれもが、人間を動かす根本的な力ではありません。
人間はおろか、全宇宙を動かす最も根本的な力は愛であり、光です。
資本主義というシステムでは、皆が所有を目指し、金銭を獲得しようとします。しかし、「所有欲」や「不安」や「必要性」とさえ縁のない人というのもいます。こういう人は、所有システム(資本主義)の中では完全な不適合を感じ、苦しみます。「誰もが所有を目指している訳ではない」からです。ここに、資本主義の限界があると思います。資本主義であるがために、人間存在には、絶えざる無理がかかるのです。
しかし、「愛」によって行動できる社会システムだったら、どうでしょうか。「愛」は最も根本的な力です。人間は「常に愛で動く」のです。例えば、「愛によって与える」というのもそうです。しかし「な〜んで、自分だけが与えていなきゃならないんだよ!」と文句を言うのもまた、愛です。「もう誰にも与えたくない!」と怒るのも愛です。根元には常に愛があります。愛は根本です。
人の行動の基本は、歪んでも、ねじれても、小さくても、愛という力である事に変りはありません。愛であるとは言っても、それはパワーです。あまりにアンバランスだと、破壊的で危険な結果をもたらす場合があるので、愛という力をよく理解して使いましょう。例えば、[目次(生まれる想い)]>[ひねくれの仕組]に書きましたような理解を「使用する」事で、力が暴走(ひねくれ)しなくなります。
端的に書きますと、資本主義は「所有欲」に基づく社会です。人間に無理をかけるシステムです。なぜなら、「所有欲」は根本的ではないからです。所有欲という力も、愛という力で支えられています。最も根本的なパワーは愛ですから、愛に基づく社会によって恒久的な平和への展望が開けるのではないでしょうか。
これが一二三神示にあった「与える政治」ということではないでしょうか。「欲しがる者には、与えるだけ与え続ける」ことで「自分も働かせてくれ」と頼むようになると一二三神示には書いてあります。(199711130359)←時間にビックリ!