自分の発言を翻訳しました。

生命の序列に従う事は大切だと思います。

7 : 神、存在
6 : 大天使
5 : 小天使
4 : 人間
3 : 動物
2 : 植物
1 : 物質

私達は普通、目覚めたマインドと、他者(周波数が高いにしても低いにしても)からの色々なエネルギーや想念や印象を感じて(=ハート)います。人間には「信じる」という特殊能力があります。信じる時に向かうべき方向は、より高いエネルギーであるべきです。私達はより低いエネルギーや怒りや悪意を信じるべきではありません。現代人はあらゆる機会を捉えて悪意を積極的に仮定し(むしろ断定し)信じてしまいます。

確かに、物質に関しては「最悪のケースを想定する」ことは普通の事です。しかし、私達は「信じる能力」をそういうことによって引きずられたくはありません。大切なのは、人々の小さな仕草の中に悪意を「積極的に見つけ出そう」としたり、または、「待ちかまえたり」して、信じたり/断定したりしないようにすることは重要な事です。いくらかの人々は、他者の中に悪意を見つけることで安心したりします。この種の信念はハートがマインドを信じている状態です(ハート<マインド)。この状態は逆転しています。私達のハートはマインドを信じるべきではありません(ハート>マインド)。論理が良いものならばただ単に(信じるのではなく)使えばいいのです。悪意は使えるものじゃありませんし。こういうことは社会の中にありふれています。精神的な健康のため、「人の悪意を信じないことは大切」です。なぜなら、人々はすぐに(悪意として)信じるからです。

【参考:エドガー・ケイシーのリーディング(262-40) 「人は何から救われるのか?自分自身からである!それぞれの地獄からである。人は、自分の欲望によって地獄を掘る!」2016.01.04のNPO法人 日本エドガー・ケイシーセンターからのメールより(201601040845)】

 上記の文章は、以前、Aisha Northのブログで発言したものの日本語訳です。内容の中心テーマはお分かりのように「(エゴに捕われない為に)信じないようにしよう」というものです。今日はこれを補う形で、「では、(エゴからの解放の為に)何を信じるべきか」という内容の「人類へのテンプレート」を提供しようと思ったものです。

 以前も、エゴに関して述べたことがあります。エゴの特徴(執着・固化・死)と、真我の特徴(解放・柔軟化・生命)を列記して対比すれば、
エゴ化の特徴(執着・固化・死)真我化の特徴(解放・柔軟化・生命)
外部に捕われ執着する(固化・苦痛≒死の方向)自由自在な精神(縦横無尽・喜び楽しむ≒生命の方向)
他者の精神の中に「自分」を作り維持しようとする自覚する(自分の中に自分を見つける=当然)
『信じる能力(ハートの能力)の向かってしまった対象』⇒千変万化の外的な情報に向かってしまう。特にネガティブな印象・情報を簡単に信じ込む(=疑う事がない)『信じる能力(ハートの能力)の向かうべき対象』⇒永遠普遍の真実に自然に向かう。神・自分(という存在)

 道を歩いてて、対向から来た男性が「ジロッ」と見た。「そんな風に睨まなくてもいいのに…」と。それだけで心はその男性に警戒し、執着します。みるみる内にあなたの心はその男性一色に染まり、次の一挙手一投足を目や耳で待ちかまえます。…このようにしてエゴは外的対象のネガティブに心が奪われます。ここでの問題は、

・「エゴ化=外的な対象&ネガティブに捕われている」ことに気づかない

 という所です。そこで必要になるのが、想念の一つのパターン・公式・テンプレートなのです。使えるテンプレートにするために必要な要素は、少なくとも、「自分を忘れない」、「ネガティブを信じない」という性能が必要です。

●エゴに捕われないように生活する為の精神のテンプレート

 そんなに難しい事ではありません。覚醒意識とは言っても、ただ単に「自分を忘れない」というだけでも効果は大きいのです。従って、次のような想念を公式のように「使う」ことで、エゴの慣性から離れられるでしょうし、あなたのタイムラインを変更することができ、エゴの軌道に戻ることはないでしょう。

『私は私が存在していることを信じる』


このテンプレートを繰り返している時に、急に車のクラクションが鳴り、あなたは運転手が自分に悪意を向けたのだと「確信して」しまいました。この時、あなたのハートの信じる能力の焦点は、「自分(内部)が存在している事運転手(外部)の悪意」といういびつな形になっています。次の瞬間あなたはテンプレートを思い出すでしょう。『私は自分が存在していることを信じる』=『外部からの悪意を信じてそれだけに染まらなくてもいいダロ』と。「信じるという能力」は覚醒意識へ向かうように一点集中でいいだろうと思います。(201512300032)

 今まで、私がインスピレーションを受けてタイプしたコンテンツは、誰が私にインスピレーション・理解を吹き込んだのか不明でしたが、最近は、そのような存在からのチャネリング・メッセージが同時に発生するので、誰からなのか、私にも分かるようになりました。
天の白い存在・・・2015年12月26日 次元上昇の将来の創造
『天のプランとしての創造主の観点はあなた方の魂を通じて意識の中に、および全ての人間の基礎の中にダウンロードされるのを待っています。地球上の全てのソウルは全ての者の地球上の経験を永遠に変える創造主の新しい天のプランを受け入れるでしょう。地球上での、全ての者が待っていた新時代形成のために、地球のエネルギー構造と物理構造に浸透するように、ある者の意識に、また別の者の潜在意識にこの新しい天のプランが送り込まれるでしょう。』(201601020511)

●応答と思われるメッセージが出ました!(201602012338)
大天使ミカエル・・・2016年1月29日 魂の暮らしの選択 (201602012338)
プ レアデス高等評議会のミラ 2016年2月5日
『この前のお話しの時以来いかに多くの目覚めが起きたかが見られることを喜んでいます。あなた方と地球に到来している光が差を作り出しています。あなた方はその光を取り込み、光を作用させる素晴らしい仕事をしています。過去数か月の間に起きた変化は例外的な程のものでした。』(201602092330)



 人には自由意志が与えられており、そこには神々でさえ介入が禁じられているとよく言われています。その「自由意志」を持つことは少なくとも内面的な領域では「積極的」だという意味になります。そのような方向で生きて行けば、シュタイナーによれば、やがては精神が物質的肉体を自由にコントロールできるようになるそうで、このレベルの最高段階の人間存在をアートマンと言います(シュタイナー用語)。シュタイナー自身は、ある講演の時に飲み物に青酸か何かの毒を混入され、一時舞台裏に引きこもり、出てきたときには毒を盛られ、寿命が何年と何ヶ月縮まったという旨の言葉を述べられたそうです。

 三次元物質世界を単に受動的に捉えている(という自由意志)だけでは、三次元物質世界が脳内に反映・展開するだけです。目に見え、耳に聞こえ、鼻に匂い、口に味わうもの、その他が展開しているわけです。このような固定的精神の中では、沢山の要素が衝突します。衝突するとエネルギーが無駄に消耗します。疲れ・ストレスとなり易い。このような「脳内の大量の(三次元的)衝突データ」をなんとかしないと、特に自然界の生物と触れ合いによる癒しを受ける機会自体が少なくなり、しかも情報過多の現代人の中に「在ろう(Arrow)」という自由意志を呼び覚ます必要が高まっています。存在性は7次元ですが、一度にそうなれる訳も無い。従って、現実的に必要なことは「第四次元の認識を追加する」ことです。世界を時間的に【動的に】認識するようになれば、ストレスも軽減します。例えば、クライアントからのクレームは、今までのように単にそこにある三次元的な対象というだけではなくなります。時間の流れの中で捉えるようになるので、「これも一時的なものであり、全ては流れる川の水の如し⇒だから拘り過ぎないこと」とか「あと1万年後に、こんなヤツのことは忘れているさ⇒だから固定し過ぎないこと」という認識が発生します。今までは単に三次元世界を受容していただけだったものが、心理的に積極的になって「時間認識をしよう」と意志したからに他なりません。これは外的な事象にはほとんど変化を与えないでしょう。火事が起きれば消防車が駆けつけるのだし、財布を忘れたなら一旦、家に戻るというのも同じです。しかし、内面での認識=世界の捉え方が変わるのです。それは、あなたの「(精神面での)積極性」に掛かってきます。やがて、その「魂の意志」は、上記のシュタイナーの例のように、肉体の深いところまでをも制御できるようになるようです。ただ、まだ、今のところは、「世界を時間的に捉え直す」(脳内)作業が必要になります。三次元的「衝突・固定」認識を、四次元的「融合・動的」認識に変える為に。(201208172128)

【→阿修羅発言 ←『融合の時代へ向かって』(201208172120)】


 また、以下のような不思議系の話はどうか、とも思ったのですが、可能性のある話なので述べようと思います。述べるには述べるだけの個人的ではありますが一定の根拠があります。外的な事象と内的な事象がリンクばかりして来ましたから。

 よく「潜在意識で思い通りの人生を」という趣旨の書籍を今も昔もよく見かけます。実際にそういう内面的な働きかけが有効な結果を生んだように感じられるケースが多くの人々の生活の中で複数あるようです。しかし、一方、的を得ていないように思われるのは、「必ずそうなるとも限らない」という側面だと思います。だから書籍に書いてある規則を守る気にもならない。私が個人的に思うのは、「正しい概念を提供していないように思う」のです。基本となる筈の概念を説明できていないので、応用する人も正しく活用できないので、素っ頓狂な方向に向かってしまう為、結果が出ないのだろうと思うのです。

 では、この場合の「正しい概念」とは何でしょうか? それは「時間の概念」です。三次元宇宙全体が四次元方向=時間軸方向に「移動」しています。個々の物体、事象、心理等々の「動き」が、それを表しています。個人的な領域に戻って考えて見ましょう。出来事には、(個人的に:社会的に)良い出来事もあれば、悪い出来事もあります。道の左側の店に入ったばかりに良くないストレスな出来事に遭ってしまいました。片や、右側の店に入ったならば、とっても良い心に出会っていた訳です。あなたが左右どちらの店を選んだか、という「時の流れを選んだ結果」なのです。右と左の店を選ぶ時、これは最早、あなたの直感的な知覚=近未来の知覚能力という想念の領域での選択とならざるを得ません。それが、それほどの大きな物理的な結果の違いを生み出すのです。単に頭の中で思っただけのこと。そのように考えると、「どの時間軸を選ぶか」というのは、大変に大きな影響を本人に与えるものです。しかし、よく考えてもみて下さい。直前の時点では、「まだ両方の可能性があった」のですよ。言い換えてみれば、この2本の時間軸があなたの中に両方共、流れていたのです。あなたが右の店を選んだから良い出来事に出会い、左の店を選んだから悪い出来事に気分を害したのです。

 これで理解できたと思います。「時間の概念」をいつも頭の中で意識し、「好ましい未来を招来するように日々、プラス想念=プラス・イメージを整えるようにする」のです。ふと外来の(他者からの)ネガティブ想念=ネガティブ・イメージが飛び込んで来たりしますが、すぐにその奔流に呑まれないように「正しい時間軸(4次元)」を掌握したまま離さないように「意図して(5次元)」下さい。これが「正しい概念」です。潜在意識本のような「イメージが出来事を引き寄せる」とか「強烈に信じればそれが起きる」という様な説明では良い説明にはなっていません。これらの説明は「引き寄せる」とか、概念が三次元的ですね(例えば、の話です)。外的な対象を自分のいる場所にまで引っ張ってくる訳ではありません。そのような機械のような力ではありません。3次元より4次元、4次元より5次元、5次元より6次元、というふうに、「自分」との親和性が高くなってきます。「思う」というのは、ほぼ全く自分だけの領域なので、3次元に作用するよりも、4次元から作用させるほうが容易なのです。4次元よりも当然、7次元=神のほうが作用している=伝わっているのです。言うまでもなく神は全てをご存知です。これが(絶対)神の定義です。もし神に知らないことがあったとしたら、(絶対)神の定義から外れますから、(絶対)神とは呼べません。

 つまり、想念で行っているのは、3次元的な機械のような動力による引き寄せではなく、自分の内面を流れる時間軸(4次元)を意図して(5次元)選択することにより、未来を「引き寄せる結果が出てくる」という展開になります。決して、3次元的に物理的に引き寄せるのではありません。(201208180104)



 人は、向かっている方向に無自覚で、向かうべき所がどこなのかという確固たる認識無しに生活しているような気がします。特に日本(特に芸能界の?)人は「人間関係至上主義」の傾向があるようで、悪い人間とまで恒久的に仲良くしてしまうような気がします。「人間関係」を優先し、善と悪を区別せず、混ぜこぜにしていると、心の中の「聖(>善)なる領域」まで侵食して来てしまうのではないか? あなたが、「聖なる存在」を見た時に、どのように反応するかを見、知れば、何かが分かると思います。今、ここで「聖なる存在」として掲げるべき女の子がいます。あなたは、この子に何をしてあげられますか? 「人間関係教」の人々は、決して口に出してはいけない事をこの子に言う怖れがあります。善と悪をしっかり間違いなく区別・識別することを優先するならば、「人間関係」などという側面は、いわば、比較的どうでも良い次元の事柄です。人は、人間関係の為に(フリではなく、真に)必死になったりするような目的意識は何か違っていると思います。真にが湧いてくる心の「聖なる」場所が必要です。「聖なる心」があればこそ、このような女の子の為に戦士となって戦う人も出てくるでしょう。アフガンの人々はそのような高貴な心があると言えます。日本でも、原発反対の為に多くの日本人が立ち上がって静かな感動が広がっています。

 イスラムをもたらしたのは大天使ガブリエルでした。天使はムハンマドに言った。「戦え」と。[人間関係]<[善悪の区別]であるが故に当然、そういう行動になります。大天使ミカエルは言います。(太陽出版「黄金の約束(上)」P270より)
『絶対的な真実に立って言うならば、あなた方は自分を許す必要もなければ、誰であれ人を許す必要もありません。あるいは、ゆるしを請う必要もありません。なぜなら、許すべきことなど何もないからです。』
 このような絶対的な立場からガブリエルは「戦え」と命じたのでしょう。すなわち、[外的(関係性や物理的事象)な事柄]<[聖なる心]という優先順位が、この命令の背景に見えます。大天使ミカエルは言います。(太陽出版「黄金の約束(下)」P230より)
『大切なことはあなたが何を達成したかではありません。何を知っているかでもなく、どれほどの叡智を獲得したかでもありません。あるいは、他の人のためにどれだけ尽くしたかでもないのです。肉体という器の中に、スピリットが降りてきて住むことができる肥沃な場所をつくること、それがポイントです。』
まさに、「聖なる心」を耕すのが人間だと言っています。人間関係の為に努力するのは、向かうべき方向がちょっと違う訳ですね。(201205152251)



 「もう一人の自分」という言い方がありましたが、それは「もう一人」自分がいるという意味合いではありません。従来の夢想的低周波意識の自己よりも、目覚めた高周波意識に在る自分を自覚する事を述べています(アーキエンジェル・マイケルが「在りて在る自己」と述べていますよね)。眠っている(=日常意識の事)か、または、目覚めて自覚して気づいて感じているかどうか、の違いです。存在においては神まで全部自分であり、一つですね。

 ただ、「怒る自分」とか「喜ぶ自分」とか「寛大な自分」とか「偏狭な自分」とか、その機能・プロセスの上では、それぞれ一時的で一側面の自分が出てくる訳で、それらを観察して自己の全体像に迫るという、皆が無意識に採っている(当たり前で自然な)プロセスがあります。これらの自分は勿論、分裂していません。一側面ですね。(200309092046)

 私は今までずっと、意識とは「見る自分」と「見られる自分」の対極だけで見ていました。この他に「両方に気づいている自分」があるというのが正当な哲学の世界ではあるそうです。ほんの1〜2年前に知ったと思いました。それから最近、クライオン・サイトの翻訳をしていたらクライオンも「2つのものが集まった時は、そこには第3のものが現れるということを覚えておいて下さい」みたいに述べていました。それで今回の発想に至りました。日時は正確に電波時計で2003.01.11(土)22:22でした。1が3つというのも何か暗示しているようで面白い。

 意識は3つの自分で出来ています。「見る自分」と「見られる自分」と「両方に気づいている自分」です。卑近ひきんな例では、「見る自分」とは、人の事を観察している自分です。テレビを見ているような自分です。「見られる自分」は、人から見られている芸能人などの場合は、普通の人よりも強くなっていると思います。「両方に気づいている自分」は、どちらにも偏らずに冷静さを生むと思われます。

 これら3つの自分は普段意識せずに、個人の中で、その順位を入れ替え、絶えず変動しています。覚醒意識とは、肉体を超えた自分で在る意識な訳ですが、これら3つの自分に共通の「存在」という要素に気づくことによって、「3の立場」から「1の立場(存在)」へと統合される事が、覚醒だと分った訳です。「霊としての1なる自分=魂」が、肉体上では3つに分裂して「見る自分」と「見られる自分」と「両方に気づいている自分」としてともえになっていたのですね。(200301131757)

 以下は、エドガー・ケイシーの夢に関するリーディングである。とても意味深いので抜粋しました。覚醒意識という「警戒の状態」が、実は、眠りに入る直前の、「鋭敏化し、拡大化した聴覚(触覚的聴覚)」とも言える事がある程度分かると思います。

【たま出版:『エドガー・ケイシーの精神革命』(ヒュー・リン・ケイシー著・たま出版刊・本体1400円)P178より】


ケイシー夫人 睡眠として知られている状態にある間に、ある実体の意識的・潜在意識的・霊的な影響力に何が起こるかを説明する際、一般の人々にどのような材料を提示したらいいのか、どうぞはっきりとわかりやすくそのあらましを教えてください。

ケイシー あの睡眠と呼ばれる状態にある一人一人の人間の体験に関しては、実に多くのことが書かれたり述べられたりしてきた。だが、無意識的な(潜在意識的・識閾下的な、もしくは正常以下の)心におけるもろもろの条件を生み出すものについて、何等かの明確な考えを確かめるなり形成するなりしようとする試みが出てきたのは、つい最近になってからのことである。[これらは]ある個人もしくは実体の体験する夢の性質を生み出すのは何かを決定せんとする試み[である]。
 このような試みは、一部の精神医学者や精神分析家の主張に関する疑問を———ある種の心理状意に関しては———解決することができるかもしれない。そしてかかる試みを通じて、個人における心理的障害のある特定の性格の研究によるかような[主張]の価値を定めるなり論破するなりできるかもしれない。しかしながら、身体がかかる休息状態に入り込むとき———肉体的・心理的・潜在意識的もしくは霊的な———身体に何が起こるかに関する真の分析と呼びうるような試みは、ほとんどない。
 確かに、ある身体の肉体的・意識的・潜在意識的な(そしてまた霊的な)もろもろの影響力に関して起きるある種の限定された条件というものが存在する。したがってこのような状態をわかりやすく理解させるために分析する際には、こうしたさまぎまな要素に直接関係するすべての事柄を考慮しなければならない。
 まず我々の言いたいのは、睡眠が、あの死と呼ばれる地上での体験が中断される事態の分身であるということである。なぜなら身体的意識は、ほかならぬ自己の身体の想像的もしくは潜在意識的・無意識的な影響力の属性を帯びた身体的属性が決定する条件を除いて,現実に存在する条件に気づかなくなってしまうからである。
 すなわち、正常な眠りにあっては、(我々は目下、身体的な観点から論じているのだが)もろもろの感覚がいわば張り番をしているのであるが、その結果聴覚的な影響力がより鋭敏なものとなる。したがってその結果我々は、目覚めた状態のときは肉体的意識を意識的に目覚めさせておくため互いに独立しながら対等に活動していた他の四つの属性(感覚……訳者)が取り残されているのを見いだす。これらの感覚は、睡眠もしくは眠りの状態においてはこうして休息している当人の周囲で起きている事態に気づかぬようになっているのである。
 活動的ではないものとして知られている部分に属する器官———意識の働きに必要ではない器官———は、自己の機能を正確に果し続けている。[あたかも]脈動や心臓の鼓動や同化と排泄にあたる器官系などが[たとえ]このような休息の間に心臓と血液循環が,“休んで”いるといいうるようなときがあるとしても、実は正確に機能し続けるようにである。
 ではかかる期間中、何が活動していないのだろうか? 身体的な脳とつながりのある、知覚という感覚として知られているものが、である。したがって正確にはこうも言えよう。すなわち、聴覚は細分化されているのであり、触感による聴取活動、嗅覚による聴取活動、そして脳中枢自体からは独立しているが、リンパ中枢には属しているすべての感覚による聴取活動が存在するのだと。
 全交感神経系をくまなく、もっと意識的に、もっと鋭敏に、という合意が行きわたっている。たとえ物質的肉体と物質的脳とが休息している、もしくは気づいていない状態にあろうとも。この、ここでは参考までに第六感と呼んでもいいかもしれない感覚は、造物主御自身の御座の前で常に張り番をしている「随伴する実体」の性質を帯びている。
 ほかならぬこの第六感こそは、自我と何等かのやり方もしくは表現で闘うようになるまでは、鍛えられたり、隠されたり、それ自身のやりたいように放っておかれたりするのである。———さてこの闘いの表現であるが、物質界にあっては次のようなかたちで現われることになっている。すなわち不健康もしくは病気、短気、あるいは一本の弦がその張り具合や演奏[の仕方に応じて]特定の音に共振するような鋭敏な反応をするほどに、脳を変化させることのできるようなすべての形態である。
これらのものをつかさどっているこの感覚は、実体もしくは個人の「第二の自我」として知られているかもしれない。したがって我々は、かかる「第二の自我」が採りそうなある明確な方針が存在するにちがいないことを知る。そして、それが生み出すかもしれないある特定の結果に関して多くのことが記録されてきたことも。———無論、心に記録されるのではない。なぜなら、その(活動領域は)心もしくは脳中枢が通常機能することが知られている領域の外にあるからである。———とはいえ、やはりその人間の中に存在するのではあるが。  我々には、純粋に身体的な眠りにおいて身体がくつろいでいるのがわかる。———そしてその内部に緊張がほとんどあるいは全く存在しないことを。[まさにこのときにこそ、]潜在意識的あるいは無意識的自我の監督下にある器官を通して機能する例の不随意的活動が、肉体の毎日食べるものからの働きかけを受けてきたもろもろの影響力と一体になるのである。
 したがって、ある身体がある期間肉を常食とするならば———野菜と果物だけを常食としたときの同じ身体と比べて———「第二の自我」に、その活動に際し、「夢の自我」と呼ばれるものと同じ性格もしくは括動を[与え]ないだろう、ということがわかるかもしれない。また、それは同じような状況のもとにあって同一の環境を共有している他のいかなる人間にも同じ結果を生み出すことはないであろう。
 このことは、次のことを知るように、もしくは理解するように人を導くにちがいない。要するに我々が第六感と呼ぶことにした———物質的身体の聴覚的なもろもろの影響力を通して働くものと、自我の内部にある第二の自我との間には、ある一定の関係があるのである。

5754−1

 さて今しがた述べたのは、一人一人の人間の内部にはある活動的な影響力が存在しており、物質的身体が睡眠・休息・もしくは眠りの状態にあるとき、この影響力が一つの感覚のように機能するということであったが、今度は我々が第六感と呼ぶことにしたこの感覚の機能は何かということについて、あらましを述べようと思う。
 身体の霊的な実体が何であるのか、またこの霊もしくは魂が物質的な普通の身体の内部にあるもろもろの活動的な影響力とどのような関係を持つのかを詳細に述べようとして、多くの言葉が用いられてきた。ある者はこれを宇宙体コズミック・ボディー星気体アストラル・ボディーと同じ意味か?‥‥‥訳者)と呼ぶことにしている。‥‥‥つまり個人もしくは人間が物質界に生まれてくる際に身にまとう例の物体(ボディー)をである。こうした言葉は正しいが、‥‥‥しかしまさに対象を分類するということと、対象の能力や機能を明示せんがために対象を名前で呼ぶこととによって多くの点で限界を持ってきた。
 だがこの第六感(与えられたこの名で呼ばれているが)は、この霊体、この宇宙的意識とどのような関係を持つのだろうか? 鍛えるべきはどちらなのであろうか? 第六感のほうか? あるいは、身体のほうが第六感の命令に合せて他のもろもろの機能を教え込まれなければならないのだろうか?
 では次にこれを理解しようとする際、堤示されていることを理解できるように、お手本としていくつか実例を示すことにしよう。
 身体的意識がわきに置かれているとき———ある詩人が称したごとく、身体がモルペウス(訳注:ギリシア神話の眠りの神)の腕に憩うとき———に非常に活動的であるこの能力もしくは機能は、ある明確な印象を後に残す。
 一体何にか? 身体の心的活動、もしくは身体の潜在意識的部分(この部分がものをわすれることは決してない、と称されてきた)、身体の霊的本質にか? それとも魂そのものにか? これらは質問であり、意見の主張ではない!
 この第六感の活動は、他の存在に活動力を与える、「第二の自我」の力もしくは影響力である。どのような「第二の自我」か? 物質的・宇宙的な世界における全体としての体験を通して実体が作り上げてきたものである。
 こうしたわけで潜在意識は身体が休息しているときに、この活動的な影響力に‥‥‥例の「第二の自我」と意見が一致しない自我のあれこれの部分における活動のことを気づかせるのである。したがって我々は、ある一人の人間が悲しみから眠りにつき———喜びに満ちて目覚めることもありうることが了解できるのである。身体的意識が休息しているときは常に、「第二の自我」が身体の魂と親しく交わっているのである。わかったか? それ故に我々は、霊的な傾向の強い者ほど心が静まりやすいことがわかる。[なぜなら彼等が]睡眠時ばかりではなく普段の活動状優にあるときでも安らかで調和が取れているからである。
 なぜか? 全面的に頼ることのできる一つの基準であるものを、自分自身よりも重んじてきたからである。なぜなら、ある実体もしくは魂がそこから生じてきたそのもとのものは、「聖なるもの」、つまり自己の体験の内部に潜む創造的なもろもろの影響力、への自覚だったからである。
 それ故に神の子イエス・キリストの御名を知る者たちは神を信じてきたのである。神が彼等の規範であり、模範であり、希望であり、活動力なのである。
 他方では我々はしばしば、喜びや安らぎを感じながら床に就いた人間が、憂うつとともに目覚めるのである。
 一体何が起きたのだろうか? 魂を構成する各部分が、魂が受けるにふさわしかったものに出会っているのだ。それは何にせよ魂が自己の理想として定めたものに魂自身がどれほど親密かを明かにするためである。
 もし物質界において創造主が示し給うたの配列に逆らって自我を配列したとすれば、魂の各部分の間に絶えざる———絶えざる———闘いが起こるにちがいない。
 さてこれと比較するならば我々は、創造のエネルギーがどのようにして神の子に現われたかを見てとることができる‥‥‥。
 ……では一体、とあなた方は尋ねるであろう。これが眠りという主題とどんな関係があるのか?と。眠りとは、魂がある睡眠期間から次の期間までの間に自分が何に基づいて行動したかを評価し、———いわば———その本質において人生それ自体の役に立つような比較を行う時間なのである。
 調和や平和、喜びと、辛抱強さと忍耐、兄弟と親切などについて言うならば———これらは聖霊のたまものである。憎しみ、不快な言葉、冷酷な考え、不当な抑圧などのたぐいは(悪魔の)邪悪な影響力の産物であり、魂は自分が体験してきたものを忌み嫌うか、さもなくば、主なる神の喜びの中へ入るかのどちらかなのである。
 一体なぜ、数ある身体の部分の中で特に一つの部分もしくは一部を選んで、その中でこうしたことが起きなければならぬのであろうか? 女はいかにして自分の意識を与えられたか? 男の民りによってである!(訳注:創世記二章のアダムの睡眠中にイブが創られたくだりを指すものと思われる)それ故に、直感は自分がそこから生まれたもろもろの影響力を抑圧すること[によってかち得られた]属性であるが、にもかかわらずそれは意識を持つ世界———つまり我々がそれをこう呼ぶことにするならば、三次元の世界・物質的世界———における自分の活動に役だった造物主のもろもろの能力や影響力のすべてを授けられているのである。なぜならこの物質的世界にあっては、ある実在がその世界における自己の存在に気づくようになるためには、物質化を経験しなくてはならないからである。

5754−2

【たま出版:『エドガー・ケイシーの精神革命』(ヒュー・リン・ケイシー著・たま出版刊・本体1400円)より】


(200211192052)

 それで、魂という本題に戻りますと、実は、今日、4/26(金)の19:59にインスピレーション認識を得たのですが、それは「人の魂」についてです。その切っ掛けは、4/26(金)の「ニュース・プラス1」の真山勇一キャスターが「器(新・総理官邸の事)を生かすのは人です」と述べていた(→動画)事が、そのまま潜在意識に潜って行き、私の注意が「魂と器」という領域に向かったのです。その時点でシュタイナーが述べていた事【人の自我[=魂(第4段階)]が地上に生れるのは、単に肉体(第1段階)をまとうだけではなく、エーテル[=植物的]体(第2段階)、アストラル[=動物的]体(第3段階)もまとう】を思い出したからです。これと同様に、人間(第4段階)「以上」の体、すなわち、小天使(第5段階)、大天使(第6段階)、神(第7段階)も同時にまとうという点に気づいたのです。実際にはまとうというより、人間よりも大きいので、「包まれる」と言ったほうが良いのでしょう。人は人間以下の地上的諸力に対しては「使う」立場にあります。故に、体の諸機能を働かし、適度に活動する事が良く、これら「下位」の諸力に対して徹底的に勝つ(全面的勝利=制御者≠暴君)事が求められる。半面、同時的に求められるのは、上位の諸力【小天使(第5段階)、大天使(第6段階)、神(第7段階)】に対して自分を明け渡し、全託(無条件降伏=畏怖の念≠敗北)する事が求められる。
 このように、「地上的下位」と「天上的上位」の諸力の間に挟まれた環境・システム(=肉体)の中に(神により)セットされた魂が存在しています。「魂の存在」は「我思う、故に我在り」の奥に暗示されている覚醒意識によって、自分で自分に対して証明、すなわち、「今の自覚(=リアリティー)」に目覚める事により、感覚的に悟る事が出来ます。デカルトがこの発見で小躍りしたのは、覚醒への予感の為だと私は思います。次に、実在する「魂のレベル」が存在する事がスブドの創始者によって言及されておりましたが、それはほとんどの(人の)場合(余程の覚者でない限り)、その人の行動・発言等から、「何に負け、何に左右され、何にまさっていられるか」等の兆候として外的に推理するしかないと思います。魂[シュタイナーの言う自我]は、「どの段階の魂であっても」、人間として生れた事により、『下位の諸力(スブド用語:ナフス[一般用語:欲望])を駆使くしする機会と、上位の諸力(スブド用語:ジワ[一般用語:霊性])に全託する機会』が与えられたのであって、この「2種類の魂の修練」によって、その魂は人間段階へと近づいて行くのだと思います。(200204262109)

 4/24(水)の「ニュース23」で少年に性的行為を強要し続けて来た神父が2000人程度いて、ローマ教皇が怒りの声明を発表された事を報道してました。そういえば、サイババも複数の少年達(の親かな?)から「性的な処理の対象にされた」と告発されてましたね。これらの人々は、前回記述のような「性スイッチ」が切り替わった人々だと思います。せっかく苦行していても、性スイッチが逆転した時に、それを良しとしたので性的嗜好が反転したままになったのだと予想します。これらの人々は宗教関係者なので、後天的な逆転(性スイッチの)だと予想できると思います。(200204252309)

 前回のような発言を私は時々しますが、また社会的な側面を考慮する必要を感じましたので、当ファイルに述べておきます。その意図は、「私は危険人物ではない」という事です。その為に、人間の精神・脳に関する、別方向での極限的・臨界的な事柄について述べようと思い、一つ思いつきました。それは、「性同一性症候群」という領域に関してです。

 これも私自身の経験なのですが、私は男なので、当然、女性に対する興味、関心が生来的にある訳です。ところが、私は確か17才の時に、ある瞑想に失敗して死にそうになった事により、苦業を余儀なくされました。そんな苦行時代にやっていた事は、自分にとって必要だと思ったあらゆる事を試しました。例えば、周囲に認知されたい気持ちと戦う為に、自分が苦行みたいな事をやっていることを気づかれないで普通のままでいながら、その心の中は悪と戦う戦闘状態にありました。まず、周囲に知られないでいる事が基本でした。ただ、体は痩せてガリガリな「感じ」でしたが(飢餓状態ほど極端ではない)。
 例えば、女性とか性に関してもそうです。視界の中に美人らしき面影が飛び込んで来ても、不意に目が行ってしまうのが普通のところを、私は決して見ないでいたり、まず、そのように関心を持ってしまう瞬間にその心の発生を禁止する、とか、思いつく限りのあらゆる自分の側面について、あらゆる考えられる限りの方法でアタックしておりましたら、「脳内のスイッチ」が切り替わったのです! その日以来、私は女性の、あの丸い体つきや、あの高い声に反感を持ち始めました。明らかなスイッチングでした。自分でも少し面食らいました。執着から離れるではなく、「逆転(逆執着)」の方向へ行ってしまったのです【この頃、私の肉体(脳)としては、覚醒が根本であると認識してても色んな脳回路をこの頃、学んで検証していました。故に眠っていたので苦行により執着から離れるという価値観を実行していたと思います】。それであわてて、禁止していたHな本を買って来て読んだかどうかは覚えてませんが、とにかくそういう風にして「正常な側面」を活性化する事で、しばらくしたら元に戻りました。
 他の感情的な側面もそうです。例えば怒りを禁止し、「絶対に・徹底的に」弾圧した結果、頭にヴェールが掛かったようになり、ボーッとしたままになってしまいました。怒りを一切表現せずに押さえ込んでいると、頭の中で「爆発音」が聞こえ、それからヴェールがかかったようになりました。それから私は怒りを持たないかのような人間としてボーッとして生きておりました。感情が不活発になってからも、正常な判断力はあったので、「この状態はヤバイ。元に戻るべく意志しよう」ということで、これを元に戻すのは時間がかかりました。丁度、こんな時に気が枯れてどうしようもなくなったので真如苑とか崇教真光とかスブドという会に入って光を受けている内に治りました。同時に、自分の努力としても、社会の中で、「(一種の危機感故に)あえて感情的に振る舞いながら」行動してました。何年かすると、自然に怒りも感じられるようになり、他の感情も現在では正常だと思っています。今は、自分の感情を理解しつつ、決して無理に抑えたりしません。それが私のスタンスです。生理的な限界というものを学んだからです。要は、私が抱え込んでいたのは、「死だけではない」と言う事で、「その種の社会的危険性はない」と述べてます。

 ここで一つ述べて置こうと思うのは、前に言った「性同一性障害」です。これはニュースなどでは簡単に「心と体の性の不一致」とか言ってます。「心の性と体の性が一致しない事による葛藤・摩擦・苦しみ」があるので、それを解消するために体のほうを改造するという手段が取られる事もあるとの報道が時々あります。私は「体を改造し、新しい性では不能となる」という点に反対を述べたいのです。つまり、「脳の性スイッチを、体に合わせた側へONにすればいい」と思います。
 そういう人が、現在のような脳の性別になったのには色々な原因が考えられます。例えば、多感な小学生の時に、他の男子生徒の目が気になって、決して女性へ近づかないでいたり、女性をいじめてしまったり、そんなひねくれた不正直な状況が進んでしまった所、ついには(他の男性の嫉妬深さへの)怒り(=潜在意識の)に任せて女性を求める心まで否定しているような時期に、ある時点に於いて「脳内の性スイッチが反転した」事がある筈だと思います。あるいは、生まれながら脳の性スイッチが体とは逆に入ってしまっていた人もいるかと思います。私自身の経験から言っても、たとえ生まれつきであったとしても、脳の性スイッチは切り替えられる! と言えるということです。故に、「性同一性症候群」の方は、現在の肉体に合わせて「感覚や発想まで含めた極端な禁欲(死にはしませんから)」を実行することで、スイッチを切り替えられるという事です。私は、これを勧めたい。ということを一つ、付言しておこうと思います。これは、安易ではないでしょう。でも、安易に手術をして不能になったり、時には手術の事故で死んでしまうより良いのでは?(200204182305)

 4/17(水)の「スーパー・ニュース」で動物虐待者が凶悪犯罪者に繋がる可能性の高さを考察してました(→動画一覧へ)。それで一つ述べてみようと思う事ができました。

 人間の認識能力は、「絶対的なもの(=現実)に偏執する」という性質があります。絶対的なものから逃れられないのです。例えば、仕事をしていてもテレビを見てても「性」に関するイメージで頭がいっぱいとか、あるいは、「死」という絶対的なものに対して偏執し、絶えず「死」に関するイメージで頭が一杯で、それから逃れようとすればするほど気になるが、逃れる事が出来ない絶対性があるので、逆に「その種のイメージの中に入り込み、親しんでしまおう」と発想する方向で行動して行く場合に、マンガでも、ビデオでも、残虐な絵・映像を目にしている内に、一種の快感に捉われます。何故、快感に捉われるかというと、それは「リアリティーに直面し自己統合しよう」とするエネルギー安定化の方向にあるからですね【「現実(この場合は、死)を避ける」という自己分裂の葛藤(エネルギーの消耗)行為ではないから】。つまり、人間の認識能力(=脳)が「自分(=0ポイント=魂)」に近づく行為だからです。
 ここで重要なポイントがあります。私の場合、社会的な倫理とか善意など、その種の徳性を決して逸脱しないようにと、その種の死への偏執妄想が発生する度に否定し、一日が終る頃には脳が葛藤で消耗し切ってしまうという日々が18才〜24才位まで続きました。絶対にその種の意味を許可しなかったが、絶えず領土(=脳の支配権)が取られては拡張するという、せめぎあう攻防戦でした(私は悪を許容しようとはしない)。ところが、人によっては「その種のイメージの中に入り込み、親しんでしまおう」とする人も出てきます。その人は、「そう思った時点で」周囲の生き物や人間に関する、いわば「勝手な(死の)イメージ」に親しむという「人でなしの脳回路」を、何の気兼ねなしに使い始めた点に問題の根本の一つがあります。「その時点で」、先ず本人の心が「人でなし(極悪人)」になったのです。そのようにして、本人(の脳での認識)は、「死を見ること=快感」という表面的で歪んだ図式を歪んだままに記憶し覚えてしまう。この図式は、実際には、「脳(偏執的脳回路)が魂(存在・リアリティー)へ近づくから快感なのだ」と誰かがその歪んだ図式を正さなければなりません。そうしないと本人は絶えず死を描写したマンガやビデオなどに親しんで行く事になります。当然、エスカレートして動物虐待や、場合によっては人を殺すという行為になると思います。死のイメージは「強い」ので、「より強く感じられる」=擬似覚醒なのです。もちろん、恋もそうでしょうし、例えばお祭りなどの非日常も、「刺激」があります。しかし、これらは一つ残らず、「自分を感じる行為」です。あなたの周囲に木があり、道の上に車が走ってて、鳥が飛んでいるのを見ています。外界を感じているようですが実は、半分は「自分を感じている」のです。あなたが存在しなければ宇宙も知覚されませんから。
 ずっと前から、このファイルでも述べてますが、「自分は果たして存在しているのだろうか?」という感覚的な希求・疑問は、覚醒欲求・覚醒ベクトルなのです。「自分が実際に存在しているリアリティーを深く感じたい」というのがそうです。それでそのように、自分が存在している事をありありとイメージしている内に、自己(=魂)の実在・存在の内的確証に到達するのです。その時に、「死のイメージを感じたいと思っていたのは実は、自己存在のリアリティーを感じる(=覚醒)事の一部分にしか過ぎなかった」と自分で分ります。故に、「絶対的なもの(=存在)」へ偏執性向を示す(あるいは、「逃れられない」)人類というしゅにとって、覚醒意識を実体験するような「教育」が行われる事は極めて重要な事です。覚醒意識には「全ての意味」が濃縮されています。参考:[主語的認識から述語的認識へ【恐怖心など】](200204172227)

 最近のモーニング娘。の歌「そうだ!We're ALIVE」やSOPHIAの歌「HARD WORKER」など聴くと、何か、グルジェフの超努力を想起させる側面があることに気づきました。SOPHIAの歌の歌詞の中に「目覚めよ」というのがあったのがきっかけです。ただ、私は、個人的にはグルジェフ氏を尊敬しておりますが、彼の方法論は、彼が「人類の調和的発展協会」構想について述べている時に自らの妄想である可能性が存在するという側面を吐露していましたように、私も覚醒の為に不可欠のものだとは思いません。また、グルジェフ氏の考え方の中に「喜びと苦しみをバランスさせる」というのがありますが、わざわざ苦しみを引き寄せるというのは、必要性があるとは思いません。ラムサは、「覚醒は、より楽しく活発になって行くだけであり、それに罪悪感を持つ必要はないし、そのようになっている」みたいな事も言ってましたよね、確か。覚醒の為には必ずしもグルジェフのムーヴメントが必要な訳ではないのも勿論だと思います。覚醒は必ずしも身体の動きと関連する訳でもないから。
 因みに、私がグルジェフ氏を「尊敬」していますのは、私が20代前半に「善に凝り固まって気枯れていた」時に、グルジェフ氏の「悪をも含んだ方法論」が、私個人の中で一つの突破口になったからです。(200202280036)

 シュタイナーも同様の事を言ってます。シュタイナーは霊視能力によって善意で述べている霊界の諸事情や原則について「先ず受け入れてからある程度進んでみないと実際に分からないのだ」という旨の言葉を述べてます。これは原理的にそうならざるを得ないというだけです。(200202080048)

 私の高校の高校の卒業文集の中に「空を飛んだり山を動かしたり何でも出来るのである」と書いてありますが、これは信仰告白のようなものです。先ず信じる処から入るのが物質的結果指向とは違う点ですよね。私は詳しく知りませんが、ラムサの言葉そのものの内容の信憑性は高いと思います。チャネラーの意識が消えたところでチャネリングが起きているからです。(200202062056)

 ちょっとホピの本を読んでて思ったのですが、「ホピの住んでいた土地(アメリカ大陸)に白人達がやって来て、やがてホピ族の者たちも白人達の文明に取り込まれてゆく。それは正しい生き方から逸れる」みたいな内容の文章です。一見、ホピ族至上主義のように思えますが、これは覚醒意識の観点からすると、「時間に追われる経済原理によって、文明社会では、自己想起さえする余裕がなくなる。これは全くよろしくない環境を人間自身で作り出している事である。だから、もっと自然の中でリラックスして暮らせるからこその自己想起が可能であるような、例えばホピ族のような生き方が良いのだ」という事を述べているのだと分かります。(200202022323)

 前回の考察で、イスラムについて発想してみましたが、イスラムが戦闘宗教との誤解を与えかねない表現があったと思いますので、補足させて頂けば、イスラムでも、日中に断食をして肉体活動の沈静化を期待するラマダン月があります。断食を始めてから、21日目、23日目、25日目、27日目に神からの霊的恩寵おんちょう(体験)が下る事が神の約束なのだそうです。ただ、何があるか分からない人間世界ですから、マホメット存命の当時の人々に対して、神は多分、「究極の安全」を保障される言葉が下されたのであろうと思います。そればかりが目についてしまうという傾向は出るでしょうが、やはり、人としての基本は、自己発見であり、その基本はイスラムでも何であっても変わらないと思います。(200201241752)

 覚醒意識とは、肉体の中に住みながら、肉体を超えた次元が瞬間的に開かれる時の意識です。つまり、肉体を超える事です。(その他の時は勿論、肉体と共に眠っています) これは人間の中の+と-の中間ポイント【0】を通じて可能です(振幅で例えれば、冷静化・沈静化=覚醒)。--- DELETED (200510040108)--- 人間としては、圧倒的に、覚醒意識という、次元を開く方向でトライすべきだと言うべきでしょう。(200201240110)

 よく言われる事は、「文明化が進み、平和の期間が長く続くと、人は戦争に駆り立てられる」という言説です。最近の日本に於ける少年犯罪などについて考えれば、彼ら少年達は、何らかの社会的認知欲求に突き動かされる形で事件を起こしました。バス・ハイジャック犯もそうでした。その為に、事件前に2ちゃんねるに書き込みをしたりしたのは明らかです。これらは借金苦とか病的・器質的なものに起因したものではなく、平和な時代の中で、専心しなければならないものを見失っているという恵まれた自由な時代・社会である事の裏返しですね。しかし、本質的に考えれば、彼らは覚醒への欲求を、方向が逆の社会的認知欲求にSHIFTしてしまったために、外的に、社会的に事件みたいなのを起こして自らの存在を確かめたかったのです。善なる方向付けが悪にシフトするとはなんと悪い事だと思いませんか? 人が本来的に持つこのような覚醒欲求というものを、悪い霊的な存在(の意図)が利用したという可能性は可能性として残りますね。だから、人が何か激しい事をしたり、言ったり、注目を受けたいと思い、そうするのも、覚醒欲求の為せるわざなのです。だからこそ、「SHIFTしないことが肝心」なのです。覚醒欲求を覚醒欲求だと、自らの内面に於いて正確に認識し、決して社会的認知欲求へシフトしない事は大切な事です。それらは性欲と密接不可分の関係にあります。だから、性欲が目覚めた直後の青少年は正確に「覚醒意識」と「社会的認知欲求」を自らの内に知覚し、認識したら、区別する(=区別をいい加減にしない)事が本人や社会の為に火急の必要事です。社会的認知欲求の源は肉体的な源にあることは性欲について理解された方なら判断できると思います。それは外部に異性を求める衝動からなのです。だから、どんなに有名になって社会的認知を追及したとしても、それは満足しないと思います。果てはどこまでも名声を拡大させるか、他者の認知欲求に対する弾圧に変化するかだと思われます。しかし、覚醒欲求は肉体を超えた魂へ繋がっています。もし、覚醒意識の瞬間を知覚できるようになったら、その瞬間体験の積み重ねがあなたの脳を変化させます。常に新しいの力が、ラムサの言う「意識とエネルギー」(=私は「情報と力」と言ってますが)を以って物質体に作用するのだと思われます。「情報と力」の十字には第三の軸たるが貫いています。そして、の軸は高次元へと繋がってると言えます。の軸は第7次元たる(我々の)神のド真ん中を貫いてさらに高次元へと続いていると予想できると思います。(200201130045)

 実は、私はある程度、下記の発言をすることで発生する批判を予想してました。それは、私が常々「(周波数の低い)自己利益を第一目的としてはいない」と述べて来た点です。人(自分)の活動を「社会活動」と「個人的活動」に分けてみましょう。その時、私が「社会活動」で意図しているのは、「弱いものへの援助」と同時に、加虐性を持つ人への制限です。社会的に展開した時に、私の個人的利益を第一とはしない(しかし、何かを得る事は、条件が満ちていれば拒否する訳では無い)という事は前から言ってる通りです。
 しかし、コアな(周波数の高い)個人的利益、すなわち、「呼吸」、「食事」、「結婚(SEX)」、「覚醒」等は、先ず第一に満たさなければならない。それらは(「結婚(SEX)」を除けば)「社会活動」と衝突する事は、ほとんど無い場合が多いと思います。個人にとって最も大切なのは、「呼吸」「食事」「結婚(SEX)」などです。人は言われなくてもそうします。しかし、「覚醒」については、人々は無意識的に目覚めようという衝動が働くだけで、それが「覚醒」へ向かっている事を知らない。故に、述べる必要があるのです。「最も大切だ」と。「あなたは今、自己利益を最も大切だと言ってるじゃないか」という批判は的外れです。それを第一としたところで、社会に不利益しないから。むしろ、社会・人々に利益する認識です。なぜなら、社会は個人で出来てるから。(200201112321)

 最近、私は社会的な事件・事故・政治などにフォーカスした発言が多いですが、「ああすべき、こうすべき」と色々言ってますが、人にとって最も大切なのは覚醒です。例えば、空腹になったら食事をする、トイレに行きたくなったらトイレに行くことがその人にとっての緊急の最重要事であるような個人的な最重要事です。社会的事件・事故・政治などについては余裕のある方々、または職業としている方々が発言し行って関われば良いのであって、何らかの意味で余裕のあまり無い方々がそれらの事象に関われとかそういう事は私は意図してません。ただ、余裕があれば関わらないよりは関わって良くしようとしたほうが良いとは思います。私個人は今まで全く世間の出来事というものをほとんど知らずに生きてきた感があり、それを埋め合わせる訳でもありませんが、そういう時期にいます。それはある程度の余裕があるから関わっています。それを第一義として関わってる訳ではありません。政治を軽く見ているというと語弊がありますが、私は「ついで」と言っては語弊がありますが、飽くまで付け足しと言うと語弊がありますけど、二義的に政治・社会・事件・事故に対して意見して来ましただけです。そうしないよりはそうしたほうが良いと思ったからです。時々、ホットになったりもしましたが。でも、私が社会的な発言ばかりで、周囲の人が「何が最も大事な努力目標か」という点が見えにくかった可能性もあると思います。人には「時期」というものがありますから、各人の価値観、各人の時期・リズムに基づいて発言・行動すればいいと思います。私もこれもリズムかも知れませんので、あまり社会的事象へのフォーカスから離れたほうがいいかなと思ったりもします。(200201082359)

 【気になる映像】のほうに載ってますが、NIKEFOOTBALL.COMのCMが、私を悪い教条主義の支配者みたいに描いている点から、「最初に私が意図した意味が、どのように悪意にシフト解釈されたのか」という考察をしました。

 私は教条主義ではありません。例えば、単に「嘘をつくな」と言ってるのではなく、嘘をつく結果として社会がどうなっているのかを示したり、嘘が絶対的に否定されるものではなく、嘘の適用範囲というものを明確に示してます。判断根拠を提供してます。何のために私は「嘘をつくな」と言ったのか? それは「良くするため」です。社会的に、あるいは、個人の内面に於いてです。しかし、NIKEのCMでは、個人の内面に対する束縛を描いてます。そのような描写により、教条主義ではない私の「主張」が偽りであるという事を暗示させていると思います。良いものを悪いと言ってるCMですね。ですので、今までも述べて来た事ですが、「分かり易さ」のため、今回改めて別ファイル「魂の指針」と題して、個人の内面に対する私からの情報伝達をまとめます。

 魂の指針

 人にとって一番大切なのは、「覚醒意識」です。人が朝起きて覚醒した日常意識は、まだ眠った意識と言えるのです。肉体の意識はありますが、魂の意識(肉体を超えた意識)が目覚めてないのです。そういう意味(魂の目覚め)での「覚醒意識」という言葉です。魂の指針とすべきなのは、「あーせい、こーせい」という一つ一つの教条ではなく、覚醒意識をおいて他にはありません。(反語的な強調表現を使ってみました)

 では、「覚醒意識」とはどういう意識でしょうか。これがとても簡単な事なのに、なかなか分からない人が多いというのも事実です。以前いたスブドという会(アクティブ会員は100人程度)で聞いて回った事がありますが、いにしえから言われてきた、グルジェフやオショーの言う「覚醒意識」が分かっていたと確信できた人は4人程でした(^^;。まあ、日本という国のそういう認識不足の時代ではありましたが。それで、多分、誰の潜在意識の中にも眠っていると思われる「覚醒欲求」に光を当ててみようと思います。その「覚醒欲求」の一つは、言葉にしてみると、「本当に“自分”は存在しているのだろうか?」という疑問です。この疑問があなたの潜在意識の中に在る事が知覚できたでしょうか? そして、あなたが「もっと、ビビッドな、ありありとした自分を感じたい」と潜在意識の中で思っている事に気づかれると思います。つまり日常のあなたの意識では、まだ眠っていると例える事が出来るのです。覚醒するための方法は色々とあります(その方法の一つはスペース・ブラザースの文化の中で使ってる方法があり、以前(1979年=18才の頃)、チラシにして私は配布してました。また、高校の卒業文集にも書きました)。しかし、その方法は各人が本能的に分かっているとも言えます。要するに、「自分がありありと実在しているリアリティーを感じようと意図する」事です。それによって、リアリティーの「瞬間」が訪れます。その瞬間が上記下線部の疑問に対する解答になるでしょう。覚醒意識によって、あなたは自分が存在している事を確証することができました。それが「自分(の存在[=神])」です。

1) ところが、世間では色々な「自分という言葉の使い方」があります。精神的な価値から見た時に、かなり軽薄な使い方だと思うのは「この仕事を“あなた”はしたいんだろ?」という使い方です。本人にとってみれば、別にその仕事がしたい(むしろ、したくない)のではなく、収入が多いだけだからなのに、と思っていることとします。つまり、その仕事がしたいと言ってるのは自分の本意ではないのです。
2) あるいは、「自分はフランス料理が食べたい」と思ってる人がいます。そうしたいのは実は自分の一部たる肉体です。自分が総体としてフランス料理が食べたい訳ではありません。なぜなら、「これ以上食べたくない」という程、満腹になった時でも「あなた」は存在しているにも関わらず「食べたくない」状態だからです。「食べたい」と言ってたのは、自分の一部分だったのです。
3) あるいは、人には色々な時期というものがあります。ある人(主に長男・長女・一人っ子タイプ)にとっては人から構われるのが好きではありません。「自由にさせてくれ」という訳です。しかし、別の人(主に次男・次女タイプ)にとっては、人からあーだこーだと構われる事に情・安らぎを感じる人もいると思います。これらの傾向が同じ人の中でも交互に入れ変わったりします。しかし、どちらの時期にあっても、「自分」は存在するのです。だから、NIKEのCMで「自分、解放。」という時の「自分」とは本当の自分ではなく、「部分的自己」というものですね。ラムサの言う「変性自我」というものです。この場合の変性自我は「束縛を受けて来たと感じている人の中で支配的になる“自由になりたい自己”」ですね。これは部分的に自分として振舞いますが、それは「完全に自分ではない」「総体的な自己ではない」のです。つまり、魂(総体としての自己)は眠ったままです。
 上記3つの例のような変性自我の場合とは違い、覚醒意識とは「真の自分」です。仏教で言うところの「仏性ぶっしょう(ブディ)が目覚める」というものだと思います。「実在する自己」というリアリティーを体験すれば、「実在する自己」を体験したことになります。あなたの潜在意識にもある筈の上記下線部の疑問に対する答が出ることになるのです。

 魂と肉体を仮に「存在」と「プロセス」に分けて捉えると、また一つ分かり易いかと思います。肉体はプロセス(物質)の世界にあります。しかし、その(+と−の)平衡バランス点であるゼロ・ポイントに実在たる魂の場所があります。魂が展開した精神作用というものも、肉体の中ではゼロ・ポイントに近い。精神作用をする時に体の動きは基本的に必要ないからです。しかし、それら精神作用は「部分的自己」です。覚醒意識とは、総体的な、つまり存在としての自己本体(魂)の自覚です。魂は総体(=存在)としての自己なので、肉体(部分的自己)も含めて魂とも言えますね。しかし、魂が眠っているので、まだ肉体を含めるとか含めないとか言えませんね。

 以上が、人類の精神に対して今までも述べて来た最重要ポイントです。「嘘をつくな」とか「あーだ、こーだ」と教条的に(のように見えたかも)述べていたのは、人の社会的な半面に対して述べていたという側面があります。「嘘をつかないように」というのもリアリティーを外れない為にも言ってた面はあるでしょう。他にも「物事は半分半分」と述べたりしてますが、それは「善意と悪意を半分ずつ」という意味は全く含まれておりません。だから「各自の価値観で行動しましょう」とも言ってます。各人が各人なりの善意で行動できればいいと思います。それは社会的な意味では、画一的な価値観ではありません。人の数ほどの価値観が出るような、社会の多様性の基礎だと思います。ただ、覚醒意識とは、(人にとっての)「法則の範疇はんちゅう」です。その意味では普遍的な言い方になるのは自然な事です。なぜなら、法則だから。人によって違わないからです。「〜するな」「〜せよ」というのは社会との関係において出てくる認識であり、全面的に人の精神・魂向けのものではない場合が多いと思います。だから、人の精神・魂にとっての最重要ポイントだけにテーマを絞って「再度」述べてみたのが、今回の「魂の指針」です。このアーティクルをセットしておけば、「分かり易い」ので、NIKEのCMのように、「わざと教条的に受け取る事によって被害者を装う」ことで私を加害者に仕立て上げるというテクも使えなくなると思います。

 それから、神へ向かう人の道について以前、私がいたスブドという会の創始者(インドネシア人)が言っていた事は「神への道には二つある」ということです。

1.サイド・アンワル:これは神に従う信仰の道です。万人に可能な、開かれた道です(つまり、今までの宗教のこと。今後、宗教の内実が「常識」として皆が理解する社会となって行くようですが)。スブドはこちらの道です。ただ、スブドが今までの宗教と違うのは、基礎とするものが情報ではなく、実際の「神の力」にある点です。

2.サイド・アンワス:これは超人の道です。人が神なる本質を体現する道で、スブドの創始者によると、100万人に一人しか達成する事が出来ないそうです。これを伝えているのがラムサですね。ただ、これも遥か遠い未来では万人が実現するもののようです。スブドの日本人会員はこちらの道を何か悪いもののように言いますが、これは単にこうであるというだけの話だと思います。他にも、スブドの会員は「そんな体験はこの世のものだ」と、とかく人の「霊的な体験」を「低い、小さい」とけなす所がありますが、本人にとっては大切であり、攻撃する必要など無い点に彼らは気づくべきではないか?
 NIKEのCMで人々がバカに見えるのは、多分、結果的に反応しているからだと思います。私が主張したという「結果」を単に取り入れているだけで、私がそのように主張する「根拠・原因・理由」への反応が存在しない(=描かれていない)からではないかと思います。「何故?」と考えようとしないところが理由ではないか?(200201072321)

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