人には、時間的認識タイプと空間的認識タイプがいる。

空間的認識タイプは、動植物や人などを空間的に、すなわち、「自分“以外”の存在」という認識法が基本になっている。そのため、空間的認識タイプの人は、例えば、道で人と擦れ違う時に、「自分“以外”のその人が自分に対して悪意を持っているかも」と、緊張するかも知れない。それは、自分という磁力よりも相手の存在という磁力に砂鉄(精神作用)が引き寄せられているからである。他の例として、恋人がいて、自分の気持ちを打ち明けたいんだけど、相手も自分「以外」の人だから、傷つきたくないので、黙っている、とかいう行動になって来る。相手と自分という分離は現実にそうであるのだが、それを認識の世界に持ち込むと、否定の力を引き出す事になる。この認識法は自分の周囲の社会環境への肯定であるが、自己の否定である。そのため、このタイプは、社会的認知を欲求せずにはいられない。意識の奥にある「自分“以外”」という基本的認識は、「空間的認識タイプ」の基本となっている。このタイプは「社会派」であろうが、葛藤の人であり、裏表があるだろう。また、時間を軽視し、空間を重視するタイプなので、「早く今の現状を〜しよう」と、時間短縮を考える場合が多いだろう。なんとか空間的、立場的、社会的関係性を、ある特定の形(空間)に維持しようとするだろう。それは「変化する今の否定であり、配置への意図である」このタイプにとっては、世界というものは偶然が支配している。その配置は偶然であるとしか見えないのである。

一方、時間的認識タイプの人は、そのような空間的関係性には注意が行かず、自分を中心とした時間的な移行に注意が向く。その人にとっては、未来=未知という認識法であり、時々刻々、新しき未知が毎瞬訪れている、という基本的認識を持っている。これは、未知の知でもある。この人は常に訪れる未知を観察する。擦れ違う人との空間的関係性などどうでもよろしいのである。人と擦れ違う時に、「自分にどのような未知が訪れるか」という時間的認識を行う。そこには自己肯定がある。つまり、基本は周囲の動向ではなく自分であり、訪れる未知、神の御意志だから。だから、恋人に気持ちを打ち明けたい時は、打ち明けてみて、その未知を既知にしようとするだろう。そうやって未知なる未来を既知にして行こうとする。このタイプは自己探求のタイプであり、統一の人であり、全て表であるだろうと思う。また、時間を重視し、空間を軽視するタイプなので、「今の現状は私にどのような未知を運んで来るのだろうか」と考えるので、立場的、社会的関係性という(空間的)位置関係に手を加えようとはしないだろう。彼にとって価値があるのは、毎瞬自分に訪れる未知なのだから。それは「変化する今の肯定であり、配置、立場への受容である」このタイプにとっては、世界は訪れる未来(必然)が支配している。訪れて既知となった出来事は、全て彼にとって必然と見えるのである。

勿論ですが、どちらが正しいとか価値があるとかいうような事を言ってるのではなく、人間には両面があるべきだし、その人その人がどのような所に価値を見出すかは分からない事ですから。

ちなみに、よく歌などで「時間を止めて」という事が言われていますが、この「時間」という言葉は現代で使われているような、物理学的、数学的な意味合いではありません。覚醒意識と言うのは、そのような「時間」を止めたりするわけではありません。もし止まったりしたら、このプロセスの宇宙全体が止まってしまいます。我々が生きて呼吸している世界はプロセスの世界です。覚醒意識とは、そのプロセスを越えた意識です。そのような実存のレベルの意識があるのです。と言っても、大変に自然で簡単な、懐かしい意識なのです。このリアリティーの意識はプロセスを越えた意識であります。プロセスを越えて実存している自覚が「時間が止まった」とかの表現を生むのである。

上記の考察は、某所の水戸黄門氏の書き込みを読んだ上でのものではないのです。その時、私は某所を何ヶ月も見てなかったのですから。むしろ、多分、水戸黄門氏自身に反応していたと思われます。というのは、丁度その頃、無性に数学に対しての興味が湧いてたからです。その中で、上記の思いがあり、それをタイプしたものです。これが真実です。(199708280458)

偏向した書きかたをしたのは、自分の欠点のようなものですので、あまり考慮する必要はありません。(199709060227)


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