ただ、2007.01.24(水)の「ニュース23」の多事総論で、「最近の若い人は自己中が多い」と言われていたのは、ほんの一部分だけを見ていた情報がメディアに載[っ/せられ]たらしく、「現実は、全くの逆である(と言える)」との指摘が筑紫氏の経験的な感触から事実として提出されました。(200701270003)(→動画一覧へ

 最近、「幼児化現象・自己中心的」な人が増えていると言われたりします。それについて簡単ですが、気づいたことがあります。

 彼らの共通した特徴の大きなものは、「人のニーズ・気持ちに気づかない」という点だと思います。これは幼児期にあまり情をかけてもらえなかったり、あるいは、放置されて人との関係性が薄い事に慣れてしまっている脳の構造にあると思います。人の気持ちが視野に入らない=視野に入れない=考慮しないという態度は、すなわち、「近くに人がいても、自分のニーズだけ満たそうとする行動(自己中)」へと繋がると思います。

 ここから分かるのは、「社会と接する機会が少ないままで脳(ハードウエア)や考え方(ソフトウエア)が定まってしまった」事に原因があると思います。ここで私が思い起こすのは、「社会性=スシラ」という単語の意味です。ちなみに、ここで述べておきます。(200309200214)
 私が以前入っていたスブドという会の名前はスシラ・ブディ・ダルマという3つのサンスクリット語の頭文字(SBD)を使ったものです。このスシラというのは、人が社会と関わることで、自分の性質の中に、社会との適切な関係を持てるような回路が出来上がって行きます。そういう「社会性」の意味です。しかし、社会性も人間の生来の性質=ブディに反するようなものまで構築できない。ブディとは人間を生かす生命力です。しかし、その生命力も、より大きな宇宙の法則の元にあるのであって、ダルマは、人間が繋がっている宇宙の法であり、この法に則って・繋がって(則を越えずに)生きられるようになれば、人間性としては最高の段階にある訳です。かの創始者の方は、そういう完成された人間性を象徴してスブドと名づけていたのでした。スシラ<ブディ<ダルマ。

 ここで、私は気づいた事があります。スペース・ブラザース達が、「“あなたの心の中を見ているよ”というストレスなメッセージを何故、発するのか?」という点です。私はこの種のストレスに長期間さらされました(^^;。それによって私が変質したのも事実です。多分、普通は、人は自身の心の中に流れる想念をチェックしたり時々刻々モニターしている訳ではないと思います。私は自分の変化を覚えています。最初の頃は「うへー、こんなに心の中まで制御し続けているのは自分だけかも知れない」と思っていたものです。例えば、あまり詳細にはタイプしませんが、私は全くの自分独自の発想しか持たない。例えば、人が転ぶとそれを見た人が笑います(小学生の時の例です)。それは自動的に「その種の発想を持つ」事に疑問を抱かないから、それが自動反応として笑う訳です。私の場合、ここでその種の想念を、そもそも持たない訳です。あるいは、近寄る人によって、その時自分にやって来る想念が変化しますが、その想念の領域で、私はいちいちそれらに一定のスタンスを持ったり、肯定したり否定したり制御したり流したり等々、忙しいのです。例えば、疑う想念を私に向ける人が来たら「それは違う」というスタンスの想念を相手に伝えようとします。他の人の場合は、多分、「想念に対応など何もしていない」のでしょう。

 ここで分かったのは、人がなぜ、「たとえ所属する社会が間違っていても逆らわないでいるのか」という疑問に解答が得られたように思います。つまり、それが「出来ない」のでしょう。彼ら・彼女らは多分、「自分の意志で行動できない」というところに真の理由が存在したのかも知れない。外力によって影響・左右され、どうしても流されてしまう性質に原因があるのかも知れない。

 最近の幼児化現象は、「心の内を人に見られる・感づかれる」という、むしろ、プライバシーが侵害される程度の事がもっと日常的になって行けば、「自分だけの心」の中の一定の割合(例えば、10%〜20%とか)を「社会」が占めるようになると思います。そうなれば、「人に迷惑を掛けない」ことなどは当たり前の態度となるでしょう。

 プライバシー(権利意識の増大)を守り過ぎる社会には、自己中(義務意識の縮小)が増える。社会から自己中が消えるまでの間は、プライバシーよりも、社会的な「義務」をもっと尊守するようにすべきです。勿論、一部で義務感で過酷な長時間労働などをしている方々はもっとずっと自由な豊かさが必要です。ここで述べているのは、教育的な側面です。(200309180239)

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