山川出版社「ドイツ史」(増補改訂版)(¥2800)より

【ザクセン朝の成立】

九一九年、コンラート一世が、ザクセン太公ハインリヒ(一世)を後継者に指名して死んだのち、ハインリヒは、フランク、ザクセン両部族から選ばれて王位についた。ザクセン朝の成立である。
だが、王朝の基礎は、きわめて不安定であった。南ドイツの両部族はハインリヒの王権を承認せず、バイエルンの豪族たちは、部族太公アルヌルフを対立国王に推戴し、シュヴァーベンもこれを支持する形勢をみせた。ドイツ王国はまさに解体の危機にさらされたのである。ハインリヒは、まず、シュヴァーベン太公に、領内の教会に対する支配権を承認することで妥協をはかり、他方、アルヌルフに対しては、武力に訴えたが、決着がつかず、バイエルンの自主性を大幅に認めたうえで、やっと、国王への臣従をかちとることができた。
この難局を切り抜けたハインリヒは、当時のドイツが直面していた最大の問題、異民族の侵入から国土を防衛することによって、王権の基礎を固めるのに成功した。まず、チューリンゲン、ザクセンの東方国境に、マイセン、マグデブルクをはじめとする多数の城塞を築いて、スラヴ人の侵入を防ぎ、ベーメンの支配者ヴェンツェルに対し、ドイツの宗主権を認めさせ、北方では、シュレスヴィヒのマルクを設定して、ノルマン人に備えた。ドイツにとって最大の脅威を与えていたのは、マジャール人であるが、ハインリヒは、ウンストルートの近傍で、これに大打撃を与えて、その侵入を撃退し、ついで、オットー大帝が、レッヒフェルトの戦いで決定的勝利を収めた結果、彼らの侵入は最終的に跡を絶った。西方では、九二一年、西フランク国王シャルル三世とライン川上で会見し、ハインリヒの王位を承認させ、その後、西フランクの混乱に乗じ、ロートリンゲンを再びドイツに奪い返した。(ロートリンゲンは、コンラート一世に服従することを拒み、西フランク王国に従っていた)。ハインリヒが、その死に先だって、息子のオットーを後継者に指名し、国内の有力者の承認をかちとって、王朝の世襲化への途を開くことができたのは、このような軍事的・外交的成果に支えられたためである。

【王権と太公権】

ザクセン朝の国内政治にとって最も重要な問題は、前に指摘したごとく、部族太公の独立化の傾向を押え、どうしてこれを王権の統制の下に組み入れるかという問題であった。ハインリヒは、まずシュヴァーベンに目標をおき、部族太公ブルハルトの死に際し、フランケン出身者を太公に任命するとともに、太公領内の王領地の管理権と、教会に対する支配権とを、国王の手に奪い返した。オットー大帝も父の方針を継承し、即位の際に、国王への厳格な封建的臣従を部族太公に要求した。これを不満として、フランケン太公エーベルハルト(コンラート1世の弟)、ロートリンゲン太公ギゼルベルト、バイエルン太公エーベルハルト(アルヌルフの子)らが、相ついで反乱を企てたのに対し、つぎつぎとこれを鎮圧し、九五〇年ころまでにフランケン・ザクセンの両太公領を国王の直轄のもとに組み入れ、ロートリンゲンには女婿コンラートを、シュヴァーベンには長子リウドルフを、バイエルンには、はじめベルトルト(アルヌルフの弟)を、ついで王弟ハインリヒを、それぞれ太公として配置するという体制をつくりあげた。その際、ベルトルトの任命にあたり、国王の承認なしに領内のグラーフや司教を任命しないことを条件としているのが注目される。
以上の経過から、われわれは、ザクセン朝の部族太公に対する政策が、二つの側面をもっていたのを読みとることができる。その第一は、太公位の世襲化を阻止し、国王による太公任免権を貫徹して部族太公制を官職太公制に変質させるとともに、太公領内のグラーフと教会とに対する支配権を国王の手に確保し、太公権力の弱体化をはかるという消極的政策であり、この側面に関する限り、ザクセン朝諸帝は、ある程度その目的を達成することができたといってよかろう。部族太公のなかで最も強大だったのはバイエルンであるが、オットー二世は、太公ハインリヒ二世の反乱に際し、領内の司教の任免権を奪い、ドーナウ川以北の地域(ノルトガウ)と、ケルンのマルクとをバイエルンから切り離し、前者をフランケンに編入し、後者は独立の太公領に昇格させて、地域的な弱体化を試みている。さらに太公たちは、領内のグラーフに対する支配権を貫徹することにも成功せず、多くのグラーフシャフトは、帝国直属の地位を確保しつづけたのである。
だが、太公権力の弱体化に成功したとはいえ、太公と太公領とを廃止することはできなかったのだから、これを国家のなかに組み込むためには、なんらかの積極的手段を講じなくてはならない。国王の近親者を太公に任命して、国家の太公権力に対する統制を維持してゆくというオットー大帝の政権はこの積極的側面を示すものであった。しかし、人間関係だけを頼りとして、国家の統一をはかるというのは、きわめて不安定な方法であり、オットーの第一次イタリア遠征に際し、シュヴァーベン太公リウドルフとロートリンゲン太公コンラートとが結束して、反乱を企てたことからもわかるように、結局不成功に終わった。これに代わってオットーの採用したのが、教会勢力に王権の支持を求め、これによって国家統一をはかるという方法であった。

【オットー諸帝の教会政策】

王権と教会勢力との結びつきの歴史は古く、おそらく、カロリング朝の成立期までさかのぽるのであろう.コンラート一世も、ハインリヒ一世も、部族太公に対抗するため、教会勢力に支持を求めたが、オットー大帝以降のザクセン朝の諸帝は、この方向を大規模に、かつ意識的に推し進め、帝国の国家機構のなかに、教会を制度的に組み入れることを試みた。これが「オットー諸帝の教会高権政策」と呼ばれるものである。
国家行政の主要な部分を教会に委ねることは、さしあたり三つの点において国王にとって有利であった。すなわち、聖職者の場合には、太公やグラーフ等の世俗領主と異なって役職の世襲化という事態の起こる恐れがなかったこと、聖職者は法的素養を積んでおり、文書の取扱いにも習熱しておって、国家行政に関する事務を有能に遂行しうるほとんど唯一の階層であったこと、教会は部族という狭い垣根を越えた全国的組識であり、したがって、全国的視野に立った行動を聖職者に期待できたことである。他方教会の側においても、かねがね世俗領主の圧迫に悩まされており、王権の保護を受けるのほ望ましいことであった。
教会に対する国王の保護・育成は、すでにフランク時代から、所領の寄進と不輸不入(インムニテート)の特権賦与という形で進められてきた。インムニテートとは、太公・グラーフ等の世俗の役人の教会所領への立ち入りと、裁判権その他の公的権限の行使とを禁止することで、教会所領を通常の公的行政組織(グラーフシャフト)から切り離し、独立した特別の支配領域をつくりだす結果を生む。その点で、インムニテートの賦与は、一見、国家的行政機構の封建化を促進するようにみえるし、事実そういう側面もなかったわけでないが、太公・グラーフ等がすでに国王の統制から抜け出し、封建化しつつあった情況のもとでは、インムニテートの賦与は、教会を直接に国王の保護のもとにおき、かえって国王が直接に支配しうる領域をつくりだす機能を果たした。国王はこの保護権に基づき、インム・ニテート地域に関する裁判権を自己の手に握り、現地にあってこの裁判権を行使する役人(フォークト)を任命したのである。
インムニテート裁判権は、カロリンガー時代においては、下級裁判権に限られ、したがってこの段階では、高級裁判権に関する限り、インムニテート領域はまだグラーフの支配を受けていたのであるが・オットー諸帝は一歩を進めて、高級裁判権をも教会に与え、インムニテート領域を完全にグラーフの支配から独立させるとともに、貨幣鋳造権・市場開設権・関税徴収権等の諸特権を司教や修道院長に与え、さらに王領地の管理をも彼らに委ねたばかりでなく、ついには、グラーフシャフトそのものの管理まで教会に委ねて、これを積極的に統治機構に組み入れるべく努めた。すでにオットー大帝は、マインツ、ケルン、マグデブルクの大司教座、シユパイエル、クール、ヴォルムス、ミンデンの司教座に周辺のグラーフシャフトの行政を委ねていたが、ハインリヒ二世はこれをいっそう大規模に行ない、フランケンのグラーフたちが反乱を起こした機会(一〇〇三−〇四)に、かつてのフランケン太公領に属していた全グラーフシャフトを没収し、半分をヴュルツブルクの司教座に、残りは新設したバンベルクの司教座に与えた。他方教会はこれらの特権の代償として、その所領からの収入の一部を国王に提供し、帝国軍隊への出兵割当を果たさなければならなかった。
帝国の中央行政においても、聖職者は重要な役割を果たした。中央行政においては、文書の発給を司る書記局(カンツライ)が中心的役割を占めていたが、カロリンガー時代から、国王礼拝堂の聖職者が書記を兼ねるのが伝統であり、一〇世紀中葉には、マインツ大司教が帝国書記官長(ライヒスカンツラー)の地位につく慣行が確立した。一般に、中央行政機構はきわめて未発達であったので、これを補足する意味で、聖職者が国王の政治顧問として大きな役割を果たし、たとえば、オットー三世の政治は、主として、オーリアック司教ジェルベール、ヒルデスハイム司教ベルンヴォルト、クリュニー修道院長オディロ等の有能な聖職者の指導のもとに行なわれたのである。
ところで、オットー諸帝の教会政策を遂行するにあたり、司教・大司教・大修道院長等の教会の重要な地位に、常に国王の政策の忠実な支持者を据えておくことが必要であった.つまり、国王が高位聖聯者の任免権を握っていることが、この政策遂行の不可欠の前提をなしていたのである。国王のこのような教会支配権−教会高権−は一体いかなる法的根拠に基づくものだろうか。これもなかなか厄介な問題なのであるが、普通は、国王の私有教会支配権によって説明される。私有教会制度とはゲルマン古来の法観念に由来する制度であるが、一口にいうと、教会支配権を教会に対する所有権から導き出す考え方である。ゲルマン人の間にキリスト教信仰が入ってくると、有力者がその支配領域に教会を建設し、これに所領を寄進する風習がさかんとなった。この場合、建設者は領主として教会にある種の権利を留保し、この権利は、一般の財産と同じように、相続したり、売却したりすることができた。これが私有教会制度といわれるものであるが、領主の私有教会に対する権利は、教会所領の収益の一部を徴収する私法上の財産権と、教会およぴその領民の上に行使される公法上の保護・支配権とから成り立っていた。この後者のなかに教会聖職者の任命権が含まれていたのである。国王は国内最大の私有教会領主であって、多数の教会・修道院に対し支配権を行使していたことはいうまでもない。ライン・ドーナウ地域に古くから存在していた司教座ゃ大司教座は、本来厳密な意味では国王の私有教会でなかったのであるが、ザクセン朝の教会保護政策の進展に伴い、国王の私有教会支配権がこれらの上にも拡大され、すべての司教座教会は国王の私有教会とみなされるにいたった。その湯合、王権のもっていた司祭者的性格が、国王の教会支配権拡大の梃子として大きく作用した点も見逃しえない。たんにドイツ国王ばかりでなく、中世西ヨーロッパの国王はすべて、世俗の支配者であると同時に、キリスト教的意味での司祭者でもあった。国王の即位儀礼において、人民による選挙と並んで、司教による塗油が重要な役割を果たしたのはそのためであり、国王を形容するのに「王にして、かつ司祭者」(Rex et Sacerdos)という言葉がしばしば用いられるのもこれを物語る。ここから、国王は国内のすべての教会を保護する義務があるという観念が生ずる。国王が教会・修道院に対し、インムニテートを賦与し、フォークトを任命するのは、この義務を具体化したものといえよう。しかも、このような国王の教会に対する保護権は、その機能において私有教会領主の私有教会に対する保護権とまったく同一であったので、この二つの観念が融合して、国王のもとに直属する帝国教会という観念が形成され、ザクセン朝末期には、すべての司教座教会と大部分の修道院は、帝国教会として国王の直接の保護・支配のもとにおかれるにいたったのである。

【ローマへの道】

一般に、オットー諸帝のとった教会高権政策が、彼らを必然的にローマへの道に導いたといわれる。けだし、ドイツ国内の教会を完全に支配するためには、ローマ教皇を支配下におくことが必要であったと考えるからである。だが、このような説明には、のちに検討するような理由から、若干の疑問がないわけでもない。それで、ここでは、いささか異なった視角から、神聖ローマ帝国の成立にいたる背景をさぐってみたい。 八四三年のヴェルダン条約によりフランク王国が三分されたのち、西フランク・東フランクの両王国は、それぞれ、将来のフランスおよびドイツへ向かって、独自の道を歩みはじめるのであるが、長子ロタールが皇帝権とともに相続した中部フランク帝国は、彼の死後(八五五)、三人の息子に分割され−−−ルートヴイヒ二世は皇帝権とイタリアを、ロタール二世はロートリンゲンを、カールはプロヴァンスとブルグントを相続−−−、この三人がともに比較的若くして死んだのち、直系の相続者が絶えてしまった。その後カール肥満王が一時東・西フランク王国を統一したとき、この地域もその支配下に入ったが、彼の死とともに、イタリア、ブルグント、プロヴァンス、ロートリンゲンは、それぞれ国王を自称する在地の支配者のもとに独立し、独自の道を歩みはじめた。しかし、これらの小国王たちは、いずれも、国内の豪族層を充分に統制できるほど強力ではなく、この地域は、権力の真空状態とでもいうべき状況を示していた。もしここに強力な支配者が出現するなら、かつての中部フランク帝国を再建するのは比較的たやすい仕事であり、それは、隣接するフランス・ドイツ両国にとって重大な脅威を意味するであろう。とくに、いくつかの部族太公領の統合として出発したドイツ王国にとって、それはただちに王国の解体につながる危険があった。したがって、ザクセン朝の二代の国王、ハインリヒ一世とオットー大帝の西方政策、イタリア政策は、この地域にドイツの宗主権を樹立して、強大な支配者の出現を未然に防止することを主要目標としていた。
さしあたり、このような危険をもつものとして登場するのは、ブルグント国王ルードルフ二世である。彼は父ルードルフ一世のロートリンゲン征服の企図が、東フランク国王アルヌルフ=フォン=ケルンテンの反撃で挫折したあとを受け、初め、東方シユヴァーベンへ勢力を拡大しようと試みたが、シユヴァーベン大公ブルハルトの抵抗にはばまれると、一転してこれと同盟を結び、そ山支援のもとにイタリアに侵入し、パヴィアでイタリアの王位についた(九二二)。これに対抗してプロヴァンス王ユーグもイタリアに侵入し、九二六年、ルードルフはユーグによってアルプス以北に撃退されたが、その後両者の間に妥協が成立し、ルードルフはイタリアの王位を放棄する代償として、ユーグからプロヴァンスを譲り受け、八八八年以降、上ブルグント(ブルグント)と下ブルグント(プロヴァンス)に分かれていた両ブルグントが、ルードルフのもとに再び統一されることになった。
ハインリヒ一世の西方政策は、このような状況のもとで行なわれた。彼は、太公ギゼルベルトのもとに独立の部族公国の建設を企てていたロートリンゲンを、再びドイツ領に取り戻したのち、九二六年、ルードルフがイタリアから敗退した機会に、ブルグントとの従来の敵対関係を清算し、ルードルフがすでに占拠していたバーゼル周辺の地域に対する支配権を正式に承認する代償として、彼からドイツ国王に対する封建的臣従をかちとり、併せて、ルードルフが所有していた「聖槍」を譲り受けた。この槍は、キリストが処刑された十宇架の釘によってつくられたといわれるもので、イタリアの支配権と皇帝権とのシンボルとされていたものであるから、このことは、ハインリヒがルードルフからイタリアに対する要求権を引き継いだことを意味する。ハインリヒは、晩年、イタリア遠征の計画を進めつつあったといわれるが、これは、後の死によって実現をみないで終わつた。
オットー大帝がハインリヒ一世のあとを継いで即位した直後、九三七年のルードルフ二世の死によってブルグントおよぴイタリアの情勢は大きく変化した。イタリアのユーグは、この機会に、一度放棄したプロヴァンスの支配権を取り戻し、さらに上ブルグンドをも手中に収める企図のもとに、自身は未亡人となったブルグント王妃と結婚し、息子ロタールをも彼女の娘アデルハイドと結婚させた。オットーはこれに対抗して、ルードルフの遺児コンラートの後見人となり、ブルグントを占領して、これをドイツの保護下においた。一方イタリアにおいては、ユーグが着々と勢力を伸ばし、息子ロタールを共同統治者として王位につけた。オットーはこれに対抗させるため、イタリアの豪族ベレンガール=フォン=イブレアを支援し、両者の勢力均衡の上に立って、イタリアに対する影響力を保持しようとはかった。しかし、ユーグとロタールが相ついで死亡する(九四七、九五〇)という不測の事態が起こったため、彼の意図した均衡は崩れ去り、ベレンガールの勢力が急速に増大して、九五〇年、パヴィアでイタリアの王位につき、ロタール未亡人アデルハイドを捕えてガルダ城に監禁した。
オットーは、彼女からの救助の要請に応えて、第一次のイタリア遠征に乗り出すのであるが、その際、すでに南ドイツの両大公が、この混乱した情勢に乗じて、それぞれイタリア進出を試みつつあった事情もオットー自身がイタリア遠征を決意した一つの重要な動機をなしたと考えられる。すなわち、九四九年以来、バイエルン太公ハインリヒ(オットーの弟)はアクイレア地方を占拠し、これに対抗して、シュヴァーベン太公リウドルフ(オットーの長男)も、アデルハイドの保護という名目をかかげて、イタリアに進出していたのである。もし、南ドイツの諸太公が独自にイタリア政策を遂行するのを放置するなら、それは、ドイツの国家統一にとって重大な危険を意味するであろぅ.まことに、「シユヴァーベンまたはバイエルンのイタリアでの勝手な政策を阻止しようと望むドイツ国王は、自身でイタリア政策を遂行しなくてはならなかった」(H=ハイムベル)のである。
九五一年、オットーは大軍を率いてアルプスを越え、パヴィアでランゴバルトの王位につき、アデルハイドとの結婚によって、王位継承者としての正当性をいっそう確実なものとした。オットーはさらに、ローマ遠征を行なって皇帝位をも手に入れることを企て、使節をローマに派遣するが、この要求は教皇によって拒否された。当時の教皇は、アルベリヒを首領とするローマ貴族の一党派の傀儡にすぎず、アルベリヒは、ローマ教皇領を基盤に、中部イタリアに自己の支配領域を確立することをめざしていたからである。ちょうどそのころ、ドイツ国内の情勢は、かなり危険な徴候を呈しはじめていた。オットーがバイエルン太公ハインリヒにアクイレア地方の領有を認めたのに不満をいだいたシュヴァーベン太公リウドルフが、不穏な動きを示しつつあったからである。オットーはこれに対処するため、ベレンガールにドイツの宗主権を認めさせたうえ、帰国を余儀なくされた。しかし、リウドルフは、ロートリンゲン太公コンラート、マインツ大司教フリードリヒと結んで、公然と反乱を起こし、その混乱に乗じて、マジャール人がドイツ国内に侵入し、東部国境においても、スラヴ人がドイツ支配に対し、反抗を企てた。だが皮肉なことに、外敵の侵入という危機は、かえって国内の反乱に和解のきっかけを与え、オットーの指揮のもとに諸侯は結束して、レッヒフェルトでマジャール人を決定的に打ち破り、続いてスラヴ人の反抗も鎮圧された。この勝利はオットーの国内における地位を不動のものとし、年代記作者ヴィードゥキントの伝えるところによれば、すでにこのとき、オットーは軍隊によって皇帝に推戴されたといわれる。
 この間に、イタリアでは、ベレンガールが再び勢力を盛り返し、ドイツに対する敵対的態度を強めつつあった。オットーは和解したリウドルフを派遣して、北イタリアにおけるドイツの宗主権の再建にあたらせたが、彼がその仕事を完遂する直前に急死したため(九四七)、ベレンガールはいっそう勢力を伸ばし、南下してローマに迫った。ローマでは、アルベリヒの死後、その息子がヨハネス一二世として教皇の座にあり、父の遺志を継いで教皇領国家の建設に努めていたが、ベレンガールの南下に脅威を感じ、オットーに救援を求めた。九六一年、オットーは周到な準備のもとに、再度イタリア遠征の軍を発し、翌六二年二月二日ローマにいたり、教皇の手によってローマ皇帝に戴冠された。神聖ローマ帝国の誕生である。かくて、ヴェルダン条約によって生じた中部帝国の帰趨という問題は、一世紀以上にわたる曲折を経て、いまや、ドイツがこの地域に宗主権を確立することにより、最終的結着に到達したわけである。

【神聖ローマ帝国】

オットー一世の皇帝戴冠によって成立した帝国は普通「神聖ローマ帝国」と呼ばれる。そしてこの帝国は、その後たぴたぴ王朝の交替をみたにかかわらず、名目的には一九世紀初頭まで続いた。すなわち、一八〇六年、南ドイツの一六領邦がナポレオン保護のもとにライン同盟を結成して神聖ローマ帝国からの脱退を宣言するに及び、ハプスブルク家のフランツ二世は神聖ローマ皇帝の帝冠を辞し、八四四年の長きにわたるこの帝国の歴史に秋止符を打ったのである。だが、一八世紀の神聖ローマ帝国について、ヴォルテールが、それは「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」と彼一流の毒舌をふるっていることからも明らかなように、存続していたのは名称のみであり、神聖ローマ帝国の実体は、すでに早くから失われていたのである。それではその実体とは何か、帝国がそのような実体を保っていたのはいつまでか、ということになると、この問いに答えることは、それ程簡単ではないのである。が、さしあたり次のように考えてよかろう。オットーの帝国建設の過程からもうかがわれるように、神聖ローマ帝国なるものは、現実には、ドイツ王国の支配が、ドイツ諸部族の本来の居住地城−−−かつての東フランク王国の領域−−−を越えて、ブルグントとイタリアに拡大され、ローマ教皇権を支配下に収めた結果成立したものであった。 したがって、シュタウフェル朝の没落とともに、ドイツのイタリア支配が最終的に崩壊し、教皇権との密接な関係を失ったとき、神聖ローマ帝国もまた事実上解体したのであると。ザクセン朝、ザリエル朝、シュタウフェル朝の三王朝の時代は、ドイツ史の上で「ドイツ皇帝時代」と呼び慣らわされているが、それは、神聖ローマ帝国が実体をとどめていたのがこの三王朝の時代に限られていたことを意味する。


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