「教会の聖人たち(下)」(中央出版社、\4,500)P42-45より/聖ハインリヒ皇帝

七月十三日

聖ハインリヒ皇帝

本日の典礼の祈祷文の中で、こう祈る。「全能の神よ、あなたは聖ハインリヒに恵みを注いで、諸国を治める皇帝の座から、永遠のいのちへ導いてくださいました。聖人を記念する私たちが、移り行くものの中にあって、いつもあなたを求めることができますように」と。
聖ハインリヒは、現在の西ドイツ南部に生まれ、中世紀のドイツ皇帝ハインリヒ二世となり、「移り行くものの中にあって」いつも神を求めて、ドイツ帝国を統治していた。上巻の巻頭の「主な聖人たちの生きた時代背景」でも述べたとおり、中世紀の欧州では、教皇の権力が絶頂を極め、人びとも非常に信心深く、絵像や彫刻を通しての宗教教育も盛んに行なわれていた。それで当時の王族、政治家、芸術家、学者、医師などの指導層も宗教を重んじ、信仰の角度から問題を処理していた。
ハインリヒは九七二年、南ドイツはレーゲンスブルグ市に生まれた。父のバイエルン公ハインリヒはドイツ皇帝に対して反逆したために、クエドリンブルグ市に召集されたドイツ貴族会議の結果、祖国を追放された。そのため子のハインリヒも、六歳の時からあちこちに放浪して苦労したので、不幸な人に対する同情心や患難への忍耐心を養うことができた。
ハインリヒがふたたぴ故郷のレーゲンスブルグに戻ってきたのは、十三歳の時であった。それから同市の司教、聖ウォルフガング(十月三十一日参照)から王侯の義務、権限、謙遜、神への畏敬などを学び、ドイツにおけるキリスト教の状態をくわしく教え込まれた。
九九五年、二十三歳の時、父が亡くなると、そのあとを継いでバイエルン公となり、いとこにあたるドイツ皇帝オットー三世に忠誠を尽くした。この皇帝が敵に襲われて、危うく殺害されそうになった時ハインリヒは、兵払を率いて駆けつけ、皇帝を救い出した。
やがてハインリヒは、聖女クネグンディス(三月三日参照)と結婚した。この皇后は信心深く、情も豊かで、すぐれた政治的手腕をもち、夫の留守中よく領内を治めた。そして夫婦とも互いに童貞を守り、神と人びとへの奉仕の生活を送った。
それからハインリヒは、当時の習慣に従って修道生活の刷新に着手した。修道生活の方針として、ベネディクト会の会意をもっとも適当なものと認め、これを各修道院に守らせるよう奨励し、各修道院長と親しくして、多くの修道院を建てた。このわけは修道者によって社会を導き、国民生活を刷新しようと考えていたからである。一〇〇二年一月ドイツ皇帝オットー三世がイタリアで戦争中に亡くなった。ハインリヒは、皇帝との血縁から言っても、その人となりや才能から言っても皇帝の座につくには適任であったので、マインツの大司教ヴィリギスの運動もあって、マインツ市で戴冠式をあげた。ハインリヒは病身であったが、信念の強い人であった。無邪気でユーモアがあり、教養も豊かであった。戦乱の世にあってはたびたび戦場へ駒を進めることもあったが、平和を好み、騒乱を起こした家来をしずめたり、乱された秩序を回復したりした。その間には教区会議に出席し、非の打ち所のないりっぱな司教を任令して、教会の改革に力を尽くした。一〇一四年戦いに勝ってローマに入城した時は、教皇ベネディクト八世から皇帝として戴冠式をあげていただいた。また皇后クネグンディスと心を合わせ、バイエルン州だけではなく、ドイツ全土のあちこちに聖堂や修道院を建てたり、多数の聖堂に多大の寄付をしたりした。
そして常日ごろ、「私の王位は神の恩恵によるものである……私には子がないから、主キリストを相続人と定め、財産をゆずるのである」と言っていた。このように教会を助けた報いとして、司教、司祭、修道者には、「ただ画家のために祈りをしてください。国民を教育し、善く導いてください」とお願いしていた。
ある時、ハインリヒの政敵ヘルマンが、理由なくハインリヒの親友であるストラスブルグの司教の領地を没収した。それである人たちは、「この報復に、ヘルマンと仲の良いコンスタンツの司教の領地を没収されてはいかがですか」と勧めた。けれどもハインリヒは頭を振って、「いやいや、神が私をドイツ皇帝の位につけられたのは、教会に不正を行なえとの思召しではない。かえって教会に不正をなす者がいたらこれを戒めよ、とのみ旨であろう」と答えたそうである。
またハインリヒは、ドイツ諸教会の典礼が荘厳であることに気をよくしていたが、ローマではミサ中に「信仰宣言」をとなえないと聞いて非常に驚き、教皇に、それを入れてくださいとお願いした。こうして一〇一四年、ベネディクト八世教皇は、主日と祝日に「信仰宣言」をとなえるように定めた。
ハインリヒは、バンベルグ市に司教座を設立する際にも非常に努力した。その土地は、オットー二世がハインリヒの父に贈ったものであった。これをハインリヒはクネグンディスとの縁談がまとまった時、結納として彼女に与えた。そして、今それを司教の領地にし、司教座の基本財産も寄付したばかりか、莫大な費用をおしまず、長年月をかけて聖堂をも建て、ハインリヒ家の菩提所とした。一〇二〇年その落成式には教皇ベネティクト八世がローマから来られ、ご復活の大祝日に、これを聖別献堂された。
病身のハインリヒは一〇二三年の冬から病床に伏し、翌年春北ドイツに流行し、七月十三日五十二歳でグロナウ城で死去した。その遺体は、遺言によってバンベルグ市の聖堂に、聖クネグンディスと共に葬られている。


                                                             目次に戻る
.pl?jhenri
free counters